FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上山安敏 『世紀末ドイツの若者』

イスラムでは性的禁欲や宗教的理由による独身というものはないことからも、キリスト教の性への敵視性をもった傾向は、ヨーロッパの伝統の中に肉体的成熟を余り顧慮しないという特徴を浮かび上がらすだろう。
 しかもこの思考は、キリスト教がヨーロッパの教育体制を制度的に独占に近い形で掌握してきたことと関連してその意味の重大さが分かる。ヨーロッパの大学はいわば教会施設の分身として誕生し、育成されてきたからだ。宗教改革でドイツの大学は、たとえ領邦国家による帰趨によって左右されたとはいえ、カソリック系とプロテスタント系とに分裂した。世紀末段階でも、大学の宗教色はたんなる装飾でなく、信仰の核の部分では生きていたのである。これはウェーバーの大学論にもでて来るように、20世紀も10年代に、当時カソリック系の大学で一定数の非宗教的教授職にも事前の大司教の同意が得られなければならなかった。しかも、一元論同盟に加担した学者はローマ教会の反一元論勅令に従って大学から追放されるという夢のような話が現実にある。大学のみではない。青春期の若者の教育機関であったギムナジウムも、キリスト教の宗教的雰囲気に覆われていた若者の反体制志向が反国家より反キリスト教に向けられるという現象は、後のワンダーフォーゲルや青年運動の核心部にかかわっている。(p.132-133)


ヨーロッパの大学と教会の関係については、具体的にもっと知りたいところ。本書では、ヨーロッパの大学が教会施設の分身として誕生したということは何度か繰り返し語られるが、これが具体的にどのようなものだったのか、ということに興味がある。例えば、いわゆる近代の哲学などがキリスト教を問題にしなければならなかった理由はまさにこの問題とも深く関わっているのだろう。



プロイセンは修学期間を、医学部を除いて、6ゼメスター、3年間と決めた。それに対して南ドイツのハイデルベルクは法学部も含めて8学期制であった。日本も旧制大学は4年制であったが、京都大学が明治36年に改革して3年制にした時期があった。これはプロイセンのベルリン大学帰りの新進気鋭の少壮学者がベルリン大学にならって改革したのである。(p.146-147)


京都帝大の改革の背景には、留学先の違いなども影響があったということか。



転学の自由はドイツの学生の自由の特権である。これも中世の遍歴学生の名残りである。そのためにボン大学の大学生はハイデルベルクの学生より決闘技術で劣っていたので軽蔑的にそう呼ばれたのである。学生というのは、彼らの間で決闘技術の高低を基準にして大学間の格差と特色をつけていたのである。(p.147)


転学の自由があることがドイツの大学の大きな特徴だが、これも中世の遍歴学生の名残りというのは興味深い。もっとその経緯や過去にどのような状況だったのかなどを知りたい。



もともと大学はイタリアのボローニャ大学に見るように郷土の学生が一緒になった同郷団体から成り立っていた。だから各郷土がナティオンnationといった。ここから今日の「国家(ネーション)」概念を生んでいる。そういうわけだから伝統として郷土による組合が残っている。(p.148)


中世の大学と近代の大学との連続性と非連続性がどのようなものなのかということが、私が大学に関する歴史で知っておきたいと思っていることの一つだが、こうした断片的な叙述に触れる度に、もっと詳しく知りたくなってくる。



 学生は転学の自由があるから、学期によって転学する。以前は新しい大学に移るときは自由な選択が許されていたが、次第に学校間で、学生団体の内に「カルテル」ができて一定のカルテルのある学生団体の中では他の系列団体に移ることは許されなくなっていった。(p.150)


転学の「自由」とは言っても、完全な自由というわけではなく、人的ネットワークがここでも強く作用することになったことが分かる。リバタリアン的な自由というものは現実にはほぼ存在しないということがよくわかる。



 決闘の数は、19世紀の初頭のラントマンシャフトの全盛時代は多かった。たとえばイエナ大学では1815年の夏に400人の大学生の間に、1年間で147件の決闘があった。ところが死に至るのは僅かである。1820年になってメンズールという新しい形式になると、刀剣の決闘の危険度が少なくなり、あまり真剣な闘いとは考えられなくなると、それに従って騎士のスポーツと考えられるようになる。決闘のスポーツ化は、決闘が自然発生的に名誉を侮辱されたところから行なわれるというより、むしろ決闘によって名誉がかき立てられるという逆の現象になっている。(p.163)


興味深い推移。



もともと大学が教会の分身として出発しており、半聖職者の雰囲気が大学を覆っている。(p.173-174)


中世に教会の分身として出発したことが、世紀末になってまで半聖職者の雰囲気があるというのは、もしそうだとすれば、何らかの制度的な担保というかアンカーのようなものが必要であるように思われるが、それは何なのだろう?



ドイツでは大学ではなく、学生団体が学閥の社会的機能を果たすようになっていた。どうしてそうなったのか、それには前述したようにドイツの大学は学寮(カレッジ)制が発展せず、下宿制をとったために特有の大学街の居酒屋(クナイベン)を生んだ。これが学生組合の人間関係の母胎になっている。居酒屋は狭い、貧弱な居酒屋を意味していたが、学生の生活の主要舞台になっていた。不快な、刺激のない下宿に住む学生にとって、気持のよい便利な施設をもっている居酒屋に入りびたりになる。しかし居酒屋生活はどうしても飲酒強制になるし、悪習を生むことになる。そこで19世紀も20年代になると、学生団体のためにハイム(集会所)がつくられるようになる。世紀末には次々と学生団体はハイムを建てた。1904年には128の学生団体ハウスがつくられた。
 こうした学生の住居のあり方は、もともと大学の遍歴学生に遡るわけで、それは学生が一つの大学に定着せず、次々と他の大学へ遍歴することから来ている。これが、「大学の自由」が確立するとき、「転学の自由」=「勉学の自由(レルンフライハイト)」となって表現された。学寮制の発展したイギリスでは貴族の教育と結びついて大学が設立されている。オックスフォードにしろ、ケンブリッジにしろ、そこで得られる専門的知識が問題ではなく、大学への所属が重要な意味をもつ。さらに大学への所属性にとどまらず、学問、スポーツ、社交術を通じて人格形成を行なう学寮(カレッジ)の中で、チューター式によって結ばれた人間交友関係が生まれる。これがジェントルマン社会での学閥を形成する。これに対してドイツでは転学の伝統が、こうした学閥に代わる学生組合閥発生の基礎をつくったといえるだろう。(p.180-181)


興味深い。


スポンサーサイト
マイケル・サンデル&ポール・ダンブロージョ 編著 『サンデル教授、中国哲学に出会う』(その2)
第五章 儒教から見たサンデルの『民主政の不満』 陳来

 欧米の政治思想の中心原理が、個人の権利と個人の自由を優先することに根ざしているのだとすれば、そしてわれわれが、共通善という概念に関する要求が基本的な個人の自由を侵害していると思っているのだとすれば、儒教は、権利をそのように優先させることをけっして認めない。……(中略)……。市民の権利、政治的権利、経済的権利、社会的権利は、論理レベルでは、儒教と欧米文化では順番が異なるし、その実現(歴史的な状況と密接に関連している)の順序、そしてとりわけ責任と権利の根本的な関係という点で異なる。儒教の立場としては、権利にも個人にも優先権を与えない。
 ……(中略)……。大昔から、とくに儒教の伝統では、中国は国家に対する個人の権利と要求を最重要事項としてこなかった。儒教では、国民の幸福を守るのは為政者と政府の義務だが、その焦点となるのは、経済的権利と社会的権利だった。(p.113)


ここで述べられていることは、中国政府(それ以上の権力機構である中国共産党)が人権を尊重していないことについて外国や国際機関から指摘を受ける際に持ち出す屁理屈と同じ内容ではないか。まず、ここで述べられていることは儒教は為政者にとって都合の良いイデオロギーであって、支配を受ける側の人のことなど顧みていない(為政者側が反乱を起こされない程度の正当性を調達できる程度にしか顧慮しない)と言っているのに等しい、ということを指摘しておく。

つまり、市民権、政治的権利、経済的権利、社会的権利などの優先順位が異なっており、中国では経済的権利と社会的権利を重視していたと本章では主張しているが、果たして中国に経済的権利や社会的権利を尊重した政治があったかどうか甚だ疑問である。労働に関する権利が歴代の王朝(現代を含む)で尊重されてきたとは思えないし、社会保障や適切な生活水準を保証される権利も尊重されてきたとは思えないし、教育を受ける権利が尊重されてきたとも思えない。むしろ、市民権や政治的権利を人々には与えず、経済的及び社会的な為政者側の権限を尊重してきたというのが実態ではないだろうか(専制政治が行われる社会や封建社会などの状況は中国に限らず概ねこのようなものだろう)。



第九章 道徳的主体なき道徳性についてどう考えるべきか  ヘンリー・ローズモント・ジュニア

 マイケル・サンデルは、彼のいう自我が、負担を取り除かれた同胞たちとどの程度同じく尊厳と敬意を認められ得るかは述べていない。おそらく、サンデルはこれを説明できるだろうし、あるいは、他の哲学者の誰かができるだろう。だが、誰かがそれをはっきり説明するまでは、ロジャーと私が両方の選択肢を退けることも許してもらいたい。(p.235)


この論法は利用価値があるが、ここでの著者の意図とは異なり、一般的に有利な状況にいる側にとってより有利になるやり方だということには留意しておきたい。


マイケル・サンデル&ポール・ダンブロージョ 編著 『サンデル教授、中国哲学に出会う』(その1)
第四章 市民道徳に関するサンデルの考え方 朱慧玲

彼の政治哲学はコミュニタリアニズムというより、ある種の共和主義と考えるのが妥当であることを、私はこれまでの数本の論文で示してきた。
 まず、共通善についての彼の理解は、コミュニタリアニズムに見られるものとは異なる。サンデルの主張によれば、ある集団内で共有される価値観は、その集団の共通善を完全には実現あるいは支持しないかもしれない。そのうえ、コミュニティの善の構想を決めるのは、特定のコミュニティでたまたま幅を利かせている恣意的な価値観だけではない。より重要なのは人々の熟議である。そして、共通善をめぐる熟議は必ずしもそのコミュニティの内部や共有される伝統の中で実現されるとは限らない。したがって、サンデルの意見では、共通善の構想とコミュニティの伝統の間には緊張関係が存在することもあり得る。共通善は、たまたま人気のある価値観をただ受け入れるということではない。逆に、その価値観とコミュニティの共通善に批判的な見方を示し、それによって、コミュニタリアニズム的姿勢がはらむ多数決主義の危険を回避することもあり得る。サンデルの共通善についての理解の仕方と、熟議の強調は、コミュニタリアニズムよりも共和主義の理論に沿ったものだ。(p.90-91)


中国ではサンデルの哲学をコミュニタリアニズムとして理解する人が多いということに対して、本章の著者はむしろ共和主義と考えるのが妥当だと指摘する。これは妥当な理解である。ただ、中国で共和主義として見なされないのには、理由があるように思える。ここで指摘されるような熟議が中国の政治体制には(少なくとも公共的なものとしては)存在しないからである。存在しないどころか、こうしたものを排除しようとさえしていると考えることができる。一党支配下でメディアを統制するということも、公共的な熟議を妨げるためのものとも言える。



とりわけ、サンデルは強力な市民的共和主義の提唱者であり、現代の政治哲学においてリベラリズムを市民的共和主義に置き換えることを究極の目標としていると理解するのが妥当だろう。(p.91)


確かにこのように捉えるのはほぼ的確な表現であるように思われる。

サンデルとは直接関係がないが、前の2つのエントリーでメモした井手英策の財政思想(このブログにはほとんど書いていないがベーシック・サービスというアイディア)は、リベラリズムよりも市民的共和主義と適合しているのではないかと思われる。例えば、ベーシック・サービスにおいては、社会の共通のニーズを探し出し、それを満たすサービスを普遍主義的に実施することになるが、この「社会の共通のニーズを探し出す」ということと、市民的共和主義における熟議やコミュニティの重視から帰結できるが、リベラリズムの人間観・社会観からは引きだしにくいからである。


井手英策 『幸福の増税論――財政はだれのために』(その2)

 リベラルは弱者の救済をまさに「正義」として語ってきた。だが、人間は正義のために助けあってきたのではない。命やくらしという必要のために助けあってきた。だからこそ、連帯と共助の象徴である財政を起点として、痛みと喜びを分かちあい、利害関係を共有できる空間を作りあげ、「僕たちがともにある」という共在感を再生していくのだ。(p.88)


確かに。正義として語ることが現在の日本では共感を呼ばず、広がりを欠くことの大きな要因であるように思われる。必要のために助けあうという観点からの語りが多くの論者から発せられることが必要であると思われる。



だれがムダづかいをし、だれが不正をはたらいているかをあげつらう、犯人さがしの政治、袋だたきの政治は、特定のだれかを受益者とした勤労国家の落とし子だった。
 ……(中略)……。
 富裕層や大企業に重税を課せば彼らは国外に流出する、金融資産に課税すれば株価が暴落する、そう指摘された瞬間、ほとんどの有権者は左派やリベラルの政策に関心をうしなった。勤労国家とは、所得の減少が生活不安に直結する社会だ。もっともな反応である。
 むしろ、富裕層や大企業が豊かになれば、まずしい人たちもその恩恵にあずかれるという主張の方が断然説得力をもった。……(中略)……。
 ようするに、勤労国家という枠組み、土台が維持されている以上は、人びとにとっての関心は、経済成長の実現可能性、あるいはそういう期待を抱かせてくれるか否かに集中する。(p.100-101)


最後の一文は確かに現状を的確に捉えているように思われる。安倍政権は、まさにこのことを利用して政権を維持している。しかし、これを続けることは社会にとっての利益にはならない。



 税は人びとの命やくらしをまもるために使われる。であれば、税の負担が減れば、その分、生活のたくわえ、将来へのそなえを自己責任、すなわち貯蓄でおこなわなければならなくなる。
 たしかに、低い貯蓄率と小さな政府のギャップを借金で埋めるアメリカのような例もあるが、統計的に見ると、税や社会保険料の国民負担率と家計貯蓄率とのあいだには、有意の負の相関がある。つまり、国民負担率があがれば、家計貯蓄率はさがり、反対に国民負担率がさがれば、家計貯蓄率はあがる傾向にあるわけだ(古川尚志ほか「国民負担率と経済成長」)。
 ……(中略)……。
 僕たちは税を「取られるもの」と考え、貯蓄を「資産」と考える。しかし、税と貯蓄のあいだにあるのは、前者が悪、後者が善というような関係ではない。
 ……(中略)……。貯蓄をすれば、資産が増えることは事実である。ただし、それが将来へのそなえであり、いま使うことのできない資産である以上、税を取られるのと同じように消費は抑えられている。このことをわかりやすく示したのが図4-4である。
 注意してほしいのは、人間は自分が何歳で死ぬのかを知らないということだ。したがって、90歳、100歳まで生きてもいいように過剰な貯蓄をする。マクロで見ればこの分の消費抑制がおきるうえ、相続人も高齢化がすすむため、相続した貯蓄をそのままためこんでしまう。
 頼りあえる社会では、人びとが将来へのそなえとして銀行にあずけている資金を税というかたちで引きだし、これを医療、介護、教育といったサービスで消費する。たしかに僕たちは取られる。だが、自分が必要なときにはだれかがはらってくれる。(p.118-120)


増税すると消費が冷え込むということはよく言われるが、実際にはそれよりも増税すると貯蓄が減る。税をきちんと払う社会になっていないと過剰な貯蓄が生じてしまい、その分消費に回らないため、税が軽い自己責任社会の方が消費が構造的に冷え込む。



政府が信じられないから増税に反対するのはよい。だが、その拒絶によって、この社会がいったいどのようによくなるのだろうか
 ……(中略)……。
 政府への不信感が税への抵抗を生みだしていることは事実だ。しかしだからといって、事態を放ったらかしにするのではなく、「信頼できない政府がどうすれば自分たちの期待どおりに行動するようになるか」を考える方がはるかに大事なのではないだろうか。
 オランダの経済政策科学局(Central Planbureau、以下CPB)という組織を紹介しよう(OECD Journal on Budgeting, Vol.2015/2, 内閣府『世界経済の潮流2010Ⅱ』)。
 CPBは1945年に創設された政府機関であるが、政府から独立して経済分析をおこなうことが法的に義務づけられている。四半期ごとに短期の経済見通しを発表し、中長期の経済・財政の見通し、労働や貿易等、幅ひろい経済分野にかかわる政策の評価をおこなっている。
 興味ぶかいのは、選挙の際に、政党や市民団体の要望にしたがい、各党の公約を実施した場合に予想される経済や財政への影響を分析し、これをひろく公表していることである。
 この分析によって、あの政党の政策を実施すれば財政赤字が何%拡大するとか、この政党の政策が実現すれば、失業率や家計所得がこれくらい変化するといった感じで、有権者は政策効果を目に見えるかたちで知ることができる。
 各党はこうした分析の洗礼をうけるわけだから、非現実的な選挙公約をかかげることができなくなる。また、各党は、CPBに対して、教育、環境、住宅などの個別政策でどれくらいの費用がかかるのかを試算してもらうことができ、質の高い公約を作ることもできる。(p.166-167)


前段の指摘は私自身も日本のリベラルがリバタリアニズム的であるということを痛感して以来、ずっと同様の思いを抱いていたことである。

オランダのCPBについて、著者はそのまま真似をすることは推奨していないが、是非とも日本にもほぼ同じ機能を持つ機関が欲しいと思う。安倍政権のように権力を維持するための情報操作・印象操作のみに腐心するような政権が成立し、人事などをすべて政権に押さえられてしまっているため、経済の指標の発表時期が都合の悪いものは選挙後へと先送りされたり、統計自体を官庁が不正に操作してしまったり、といった事態が生じてしまっている現状を変える必要がある。



 いつのまにか、社会主義は、人びとを恫喝するためのことばとなってしまった。ソビエト連邦の崩壊、冷戦体制の終焉とともに、社会主義は非効率で、硬直的で、停滞する社会の代名詞のように使われるようになってしまった。(p.185)


適切な指摘。もっと言えば、経済的な権力を持っている側に加担しない主張を貶めるための決まり文句になってしまったと言ってもよい。これも定義を欠く印象操作が続けられたことによって、そのような機能を果たすようにされてしまったことは指摘しておきたい。


井手英策 『幸福の増税論――財政はだれのために』(その1)

国は愛せるけれど、仲間を愛せないなんて、どこかおかしくないだろうか。
 問題を解決するためにはお金がいる。であればなぜ、国を大切に思うみなさんは、国家の経済活動である「財政」のあるべき姿を語ろうとしないのだろう。(p.ⅱ)


これは愛国主義的な右派向けのメッセージとして書かれた部分だが、自称愛国者である右派の多くは「国」など愛してはいない。政府に取り入る(すり寄る)言説を吐くことで(一種の心理的な貸しを作ったかのように感じ)、何か自分が政府から守ってもらえると思える(一種の心理的な貸しを返してもらう)。そういう謎の(偽りの)安心感を得たいという動機だったり、結局は自己愛でしかない。少なくともその言説に触れる限りではそのように見ざるを得ない。ただ、このように彼らの建前をうまく利用して語りかけることは有用であるように思われる。



 先進国の常識では、いいにくい増税をうったえてでも、人びとの命とくらしの保障を要求するのがリベラルだ。でも日本では、政府ぎらいのリベラルがこぞって増税に反対する。自由の条件整備を棚あげにしながら、自由を語る僕たちとはいったいなんなのだろう。(p.ⅲ)


これも日本に特有の現象を的確に捉えている。日本でリベラルと考えている人の多くはリバタリアニズムとリベラリズムを適切に腑分けできておらず、リバタリアンへの抵抗力が弱い。



 ここで確認しておきたいのは、勤労国家とは、いわば毎年所得が9.3%増えていくことを前提にして成りたってきた自己責任モデルだということである。(p.35)


このモデルに慣れ親しんできた世代が現役で投票している間は、この呪縛から逃れるのは困難かも知れない。それでもこうした成長依存型のモデルが成り立ちえないという主張を広げていく必要がある。



 いや、それ以前に、円安による実質GDPの増大は、ドル建てでのGDPをむしろ減少させた。第二次安倍政権で名目GDPは、2012年の494.5兆円から17年の548.6兆円へと増大した。だが、同時に、各年の平均ドル円レートで計算したドル建てGDPを見てみると、6.2兆ドルから4.9兆ドルに減少している。(p.40)


今の政府は政権維持に都合の良いことしか言わないようにし、それ以外の情報をもみ消そうとし続けているが、実際の情勢を判断するには様々な指標とその意味を十分に吟味する必要がある。有権者の側にその情報が十分に提供されていないことに現在の日本の大きな問題がある。



 また、飲食や介護といったサービス産業は、ライバルが主婦による「無償労働」だという問題もある。現実問題として価格設定がどうしても低くならざるをえないのだ。技術革新がおきにくく、価格設定が低ければ、人件費を削る、つまり、雇用の非正規化を加速させるしかない。だから賃金もさがる(長松奈美江「サービス産業化がもたらす働き方の変化」)。(p.44)


なるほど。



 中長期的に見て、かつてのような経済成長が前提としづらい状況であるにもかかわらず、政府はアベノミクスの成果を誇らしげにかたり、野党はその効果の乏しさを真っ向から批判する。しかも、オリンピックや万博といったイベントに経済をゆだね、外国人から見て割安になった経済の衰退から目をそむけながら、インバウンドが成長戦略だと公然と語られる。
 完全にズレている。いずれの政権が経済成長を実現できるかという発想そのもの、あえていえば、できないことをできるといい張る人たちの不毛な議論が本当に必要な議論のさまたげとなっている。(p.46)


全く同感である。



 OECDの「図表で見る社会2011("Society at a Glance 2011")」を見てみると、統計的には、所得格差の大きい社会は他社への信頼度が低いことが明らかにされている。
 ……(中略)……。
 人間不信、政府不信だけではない。「世界価値観調査」によれば、僕たちは、国際的にみて、平等、自由、愛国心、人権といった「普遍的な価値」すら分かちあえない国民になりつつある。(p.50-51)


このようなデータも私の実感と一致する。



だが、食べたいもの、着たいものを我慢し、ときには結婚や出産すらあきらめながら、爪に火をともすような生活をしている人たち、現実には低所得層なみの生活水準でありながら、自分は「中の下」で踏んばっていると信じたい大勢の人たちがいる。
 この人たちに格差是正、弱者への支援をうったえたとき、はたして彼らはそのさけびに共感してくれるだろうか。むしろ弱者に怒りの牙をむきはじめるのではないだろうか。(p.54)


重要な指摘。特に、こうした「中の下」だと思いたい人々がおり、その数がかなり多いという事実は、日本の現状を考える上で極めて重要であると思われる。「弱者を救済する」というロジックがこの日本という社会で通用しない理由はここにある。



 だが、弱者への配慮が成りたたない社会にあって、「弱者の自由」「弱者への優しさ」をさけび続けるリベラルに未来はあるだろうか。これが本書に課せられた大きな問い、課題である。
 ……(中略)……。
 繰り返そう。不安におびえているのは一部の弱者ではない大勢の人たちなのだ(p.65-66)


この問題は現代日本のリベラルや左派にとって真剣に取り組まれるべき課題である。


中西聡 『北前船の近代史――海の豪商たちが遺したもの――(増補改訂版)』(その2)

 北海道開拓の進展とともに、小樽と札幌でも1880年代後半から「企業勃興」現象が生じたが、その性格は小樽と札幌で全く異なった。小樽では、函館に匹敵する流通拠点としての重要性の高まりとともに、流通関連の銀行・商業・海運・倉庫業などで会社設立が進んだのに対し、札幌では、開拓使時代に開設された札幌近郊の官営工場が払い下げられるなかで製造業中心の会社設立が進んだ。(p.31)


小樽は民間の資本がベースになっているのに対し、札幌は官営工場がベースになっている点は重要。札幌はかなりの程度、官庁が置かれたことによって発展した都市という面が強い。ただ、対する小樽も純粋に民間の力で発展した街だったかというと、そうも言えない。確かに、企業の面では民間の資本が進出したと言えるだろうが、そもそも流通の拠点となり得た要因を考えると、鉄道の敷設や港湾の建設などといった政策的なインフラ整備があったからこそ、発展の条件が整ったという面がある。(このことは、戦中から戦後に小樽が衰退し、斜陽の街と呼ばれるようになるのは、国の政策の転換が大きく作用しているということからも裏付けられるだろう。)



 汽船運賃積はある程度まとまった輸送量を確保できないと効率は悪く、汽船購入には多額の資金が必要となるため、北海道産魚肥市場が完全に汽船運賃積輸送には至っていない段階では、汽船を所有することに経営リスクが大きかった。ところが、定期汽船網が定着し、本州の肥料商が汽船運賃積を利用して直接北海道の海産物商と取引するようになると、まとまった汽船輸送量が確保できるようになり、また日清戦争での日本の勝利により、朝鮮や「満洲」への日本勢力の進出が拡大し、東アジアでの定期汽船網の拡大が見られると、そこへの進出も見越して廣海二三郎家は1904年から積極的に大型汽船を購入し始めた。(p.148-149)


このように汽船購入へと舵を切るのと並行して買い積みの経営を縮小していったという。北前船の消滅は概ねこの時期のことだったと言ってよいかも知れない。



1916(大正5)年に刊行された日本の資産家番付から、日本の大資産家の分布を示すと、当時500万円以上の資産を所有した家が約130家、100万円以上の資産を所有した家が約770家、50万円以上の資産を所有した家が約2200家存在していたと推定される。そのうち北前船主で500万円以上の資産を所有していたと推定されるのは、石川県の廣海二三郎家・大家七平家、富山県の馬場道久家、福井県の右近権左衛門家の4家で、いずれも汽船経営に展開した北陸の大規模北前船主であった。その一方で、汽船経営に展開せずに廻船経営から撤退した北前船主も、資産額50万~200万円の間にかなり存在しており、北前船経営時代の資金蓄積の多さを物語っている。(p.157)


旧北前船主たちの資産レベルが概ねわかる。ピケティ的に言えば、上位1%に入る世帯はごく少なく、上位10%程度の世帯が多かったのではないか。



 北前船主が銀行に関心を持った背景には二つの面が指摘できる。まず北前船主は、輸送手段を持っていたことを活かし、江戸時代から遠隔地間の手形決済を行っていた。一般に、遠隔地間取引では、現金輸送のリスクが高いため、手形による決済が進展すると考えられるが、江戸や大坂のように両替商が発達した大都市ではなく、両替商があまり存在しない地方の湊町では、手形決済を北陸船主のような遠隔地承認が商人為替として直接担うことが多かった。こうした江戸時代からの金融面での北前船主の役割が、明治時代に銀行制度が広まるなかで彼らが銀行設立に積極的に関与した背景にあったと考えられる。(p.158)


倉庫業は物を保管するだけではなく、一種の金融業でもあったといった解説を聞いたことがあるが、そのこともここで述べられているようなことが関わっているのではなかろうか。