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アヴェスターにはこう書いている?
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中西聡 『北前船の近代史――海の豪商たちが遺したもの――(増補改訂版)』(その1)

 ところが、明治に入り、鉄道網・定期汽船網などの交通網が発達すると、こうした地域間価格差は次第に縮小した。最後まで大きな地域間価格差が残されたのが、北海道と関東・東海・関西・瀬戸内・九州などとの間で、結果的に明治時代には大部分の北前船主が北海道へ進出することとなった。北海道では、明治時代に大規模な開拓が行われ、人口が急増するとともに本州・四国向けの北海道産魚肥の生産も急増した。それをめがけて北前船が北海道へ殺到したために、明治時代前期に北前船の最盛期を迎えることとなった。(p.3-4)


北前船の買い積みというビジネスモデルが前提していた地域間価格差が、交通網や電信網などの発達によって縮小していき、地域間価格差が最後まで残り続けた上に、開拓による人口増による物資の需要があり、魚肥の供給地でもあった北海道との交易によって北前船が明治期前半に全盛となった。北前船というと江戸時代のものというイメージがもたれてきたことに対し、著者は北前船の最盛期は明治の前半であるとして批判している。



 その後、1780年代になると、幕府老中の田沼が北海道の開発を計画したこともあり、江戸商人が松前城下に進出し始めた。幕府は1799~1822(寛政11~文政5)年まで蝦夷地を直轄したが、江戸商人の進出は、松前藩にとって新たなスポンサーの登場を意味し、江戸商人も松前藩の御用金を負担する代わりに商場(場所)請負を望むようになった。新たなスポンサーを得た松前藩は、両浜組に特権を与える必要がなくなり、免税特権を失った両浜組商人の経営は苦しくなった。その結果、両浜組商人の多くは北海道から撤退し、商場(場所)請負へ進出していた両浜組商人が北海道に残った。(p.10)


幕府の北海道開発や直轄の方針は、商人たちの北海道への関心を高めた大きな要因であったことが窺える。これによる江戸商人が進出し、それ以前に進出していた近江商人の多くを駆逐していくこととなる。



 日露交渉の先駆者として様々な小説の題材となってきた高田屋嘉兵衛は、兵庫の廻船問屋の船の船乗りとなり、1796(寛政8)年に和船を所有して独立した。この年に嘉兵衛は初めて北海道の箱館を訪れ、両浜組商人が勢力を保っていた福山湊(松前城下)や江差湊ではなく、幕府の蝦夷地開発計画で脚光を浴び始めた箱館湊を北海道での拠点に定めた。そのことが、1799年の幕府蝦夷地直轄後に幕府と高田屋を結びつける契機となり、高田屋は幕府用達として幕府の物資の輸送にあたることとなった。高田屋は、1798年時点で5隻の和船を所有していたと考えられるが、99年には幕府の命を受けて、択捉航路を開くとともに、官船の建造を請け負い、1800年に幕府定雇船頭となってそれらの運航を任された(柴村羊五『北海の豪商 高田屋嘉兵衛』)。(p.18)


幕府の蝦夷地開発・直轄の計画に伴い江戸商人が進出したのと同じような関心に基づき高田屋嘉兵衛も箱館に進出し、幕府の後ろ盾の下で様々な事業を展開していったことがわかる。



その前年の1823年に幕府の蝦夷地直轄が終了し、松前藩に蝦夷島が復領されたが、北海道での有力な後ろ盾を失った高田屋は、結果的に密貿易の疑いをかけられて松前藩によってとり潰された。(p.19)


高田屋がいかに幕府との結びつきによって支えられていたかがよくわかる。なお、幕府の蝦夷地直轄化は松前藩にとっては死活問題であり、幕府とは利害が対立する関係にあったことも関係している。



江戸時代に魚肥の中心であった鰯魚肥が、1880年代の鰯漁の不漁で衰退したなかで、それに代わって北海道産鯡魚肥が日本各地に普及するに至り、場所請負時代に優良漁場を確保していた旧場所請負人にとって、漁業経営拡大の絶好の機会が訪れた。そのため、日本海沿岸・オホーツク海沿岸を請け負っていた旧場所請負人は場所請負経営で得た資金を、漁業経営の拡大に投入し、北海道の銀行・会社設立にはあまり投入しなかった。むしろ、鯡漁とあまり関係のない太平洋沿岸を請け負っていた函館港の旧場所請負人が、漁業から撤退して函館の行政に携わったり、函館の銀行設立に参加した(『函館市史』通説編第2巻)。(p.23-24)


鰯魚肥から鰊魚肥へ、そして化学肥料などへと変わっていくわけだ。

北前船主や場所請負人たちが、鰊漁が下火になる中、その後、どのように地域の経済に影響を及ぼしたか(近代化に貢献したか)という点への関心は本書の特徴の一つ。




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永田信孝 『北前船 主な寄港地の今昔』

 長崎は、元亀2年(1571)に開港して以来、ポルトガル、オランダ、中国との貿易拠点として発展した。寛永13年(1636)に完成した出島と、元禄2年(1689)に完成した唐人屋敷が、オランダ、中国との貿易の中心であった。オランダからは、生糸、綿布、砂糖、香料、薬類、皮類など、中国からは、生糸、絹織物、麻布、薬類、砂糖、錫、茶、皮類、角類などが輸入された。日本からの輸出品としては、金、銀、銅をはじめ、俵物(フカヒレ、イリコ、干しアワビ)、瀬戸物、漆器などであった。
 貿易がつづき発展してくると、金、銀、銅の算出が徐々に減少し、その代役として重要な役目を果たしたのが長崎俵物とよばれるフカヒレ、イリコ(ナマコから内臓を取り除き、茹でて干したもの)、干しアワビである。やがて長崎県で生産する量では不足し、北海道をはじめ全国各地から集荷されるようになった。その時、俵物などを長崎まで運搬してきたのが、北前船廻船問屋の廻船であり、福井県廻船問屋の記録に記載されている。(p.92)


琉球からの昆布の密輸出などとも共通性があるモノの流れであると思われる。



 初期の頃は、北海道の松前、江差、箱館と福井県の敦賀、小浜との間の交易が主体であったが、「千石船」とよばれる大型木造船が出現すると、比較的安全にしかも安価に運ぶことができるようになった。その結果、若狭、越前に陸揚げされる量は徐々に少なくなり、大坂、神戸に直接運ぶようになる。
 主な交易品としては、北海道、東北地方からはニシン、コンブ、米、ヒノキアスナロ(ヒバ)などの農林水産物を、大坂、神戸、若狭、越前方面からは綿織物、紙類、塩、醤油、酒、砂糖などの生活必需品であった。このような物資の動きによって各地域の生活レベルを向上させた。(p.97)


北前船の交易も、日本海各地を次々に結ぶものから次第に蝦夷地と大坂を直接結ぶものへとシフトしていった。その技術的な要因としては船の大型化があった。本書では重点的に語られてはいないが、中西聡などの議論では、明治に入り、電信や鉄道などの発達により地域間価格差がなくなっていったことにより、蝦夷地と大坂を直接結ぶようになったとされている。本書の議論と合わせると、船の大型化によって江戸時代後期には徐々に直接交易の方向性に近づいていたが、明治になってその傾向がより一層進んだというところだろうか。

ちなみに、ヒノキアスナロは蝦夷地(現在の檜山地方)から搬出されたものが含まれるだろうが、東北地方などからはどの程度出ていたのだろう?


堀淳一 『地図の中の札幌 街の歴史を読み解く』

大通は無名だが、当初はこれより北の官公庁・学校地域を南の民間街から隔離するための空閑地だったらしい。
 しかし明治20年代に火防帯と位置づけられる。何れにしても札幌市の自慢である大通公園が、草創期には民間の茅屋群から官公庁街を守るための、官尊民卑思想の産物だったとは皮肉な話だ。(p.19)


大通は火防帯として設けられたという説明がなされることがしばしばあるが、本書によるとそうではないらしい。最初は官公庁エリアを民間エリアから隔離するための空閑地として設けられたが、それを明治20年代に火防帯として位置づけなおしたという。



 なぜ開拓使の設置が明治元年(1867年)ではなくて同二年なのか?という疑問をもつ人は、少なくないのではなかろうか。
 実は明治元年には、箱館(現函館)に司法・行政機関を兼務する裁判所(すぐのちに箱館府となる)が設置されたのみで、エゾ地はまだ維新政府の手中に入らないままだった。……(中略)……。
 政府軍が巻き返して榎本を降伏させたのは明治二年の五月のことで、蝦夷が北海道と改められて開拓使が置かれたのが同年七月のことだったのだ。(p.25)


明治元年時点の「日本地図」を描くとしたら、北海道は抜きにして(せいぜい箱館の一部を加えるのみ)描かなければならない状況だった。このことは理解しておく必要がある。北海道は明治に入ってから日本の一部とされ、開拓という名の下で征服(植民地化)されていった、と押さえるべきなのだろう。(それ以前の場所請負人たちがアイヌを使役したやり方に問題があったため、アイヌの人口が激減していたことが、明治になってからの植民地化を比較的スムーズに進めることに寄与したものと思われる。)



 いや、それよりも何よりも、ゴムタイヤにしてしまったせいで、JR北海道との相互乗り入れができなくなってしまったではないか!ふつうの鉄のレールにしておけば、新さっぽろ駅で千歳線に、麻生駅から新琴似駅までちょっと延ばして札沼線に、宮の沢駅から発寒駅までちょっと延ばして函館本線に乗り入れることができたのに……。
 そしてさらに、せっかく真駒内駅まで定山渓鉄道跡を利用したのだから、真駒内で停まらずに定山渓までの全線を利用して地下鉄を定山渓まで、とはいわずとも、人口密度の高い簾舞まで走らせることもできたのに。(p.239)


札幌の地下鉄がゴムタイヤを使っていることの結果としてJRとの乗り入れができなくなったという指摘。あまり考えたことがなかったが、言われてみるとその通りだと思う。



金田章裕 『30の都市からよむ日本史』

 一方で江戸には、世界の大都市と比べて先進的だった面もありました。それは上下水道です。江戸東部の湿地帯や埋め立てで拡張した区域では、地下水を得ることができません。そこで幕府は、神田上水や玉川上水など「江戸六上水」を拡充させ、市民の生活用水としました。
 ……(中略)……。糞尿は肥料としてリサイクルされたため、下水として放流されることはありません。当時の江戸は非常に清潔で、かつエコロジカルな都市だったのです。(p.78)


ロンドンやパリが汚物で満ちた都市だったことと対比しながら、どちらかというと「日本スゴイ」的な文脈も加味されながら語られることがある。(本書ではそれほどこのテイストはないと思われるが。)

確かに当時の江戸はこれらの点で称賛されるべき内容を持っていたと言ってよいと思われる。ただ、それが「日本スゴイ」の根拠になるかどうかは別問題だろう。このエコロジカルな都市がどのように近代の東京に受け継がれているのかどうかを考えなければならないし、「19世紀にはすごかった」ということと「21世紀に現にすごい」ということとは全く別のことであり、さらに、東京が仮にすごいとしても、「日本」がすごいかどうかは別問題だからでもある。



俗にいう「大江戸八百八町」という言葉は、4代将軍・家綱の時代に、ひとつの町(家屋数20~30程度の町組)につきひとりだけ営業が許された髪結い職人が808人いたことに由来します。(p.79)


これもどこかで聞いたことがあるようなネタだが、とりあえず、なぜ4代将軍の時代が基準になったのだろう?という疑問と共に書き記しておくことにする。



 震災後、帝都復興院と東京市は、地主層に土地の1割を無償で供出させ、新たな都市計画を実行に移しました。このときに建造されたのが、従来よりも広い幅員をもつ昭和通りや大正通り、永代通りなどの幹線道路です。また都内の各所には延焼を防ぐための緑地帯も設けられました。(p.80-81)


関東大震災後、建築に関してはレンガ造などの建築は姿を消し、コンクリート造などが普及していくが、ここで述べられているような都市の構成も他の都市に波及したのだろうか?波及したとすると、どの程度普及したのだろうか?興味がある。



 日本が大陸に進出した昭和初期には、満州への玄関口として定期航路が開かれ、多くの人員、物資が新潟を起点に往来しました。(p.129)


新潟と満洲の関係か。考えたことがなかったが、言われてみれば関係が深くても何ら不思議はない。もう少し具体的に知りたいテーマではある。



 それまで那覇の港は、大陸から仕入れた陶磁器や絹織物などを朝鮮半島や東南アジアに転売する一方、東南アジア産の香木や宝飾品を大陸に転売したり、日本の刀を東南アジアに転売して大きな利益を上げていました。しかし、交易の利益が薩摩藩に吸い上げられてしまい、幕府の方針で清以外との交易も禁じられたため、那覇は一時的に活気を失います。
 ところが、18世紀に入ると、近畿地方の廻船問屋が海運のネットワークを拡大して日本の北と南を結びつけ、蝦夷地(北海道)で獲れた昆布などの海産物を、那覇経由で清に輸出するようになりました。沖縄料理には炒め煮のイリチーなど、本来ならば南西諸島にはない昆布を使ったものが多いのはこのためです。(p.298)


沖縄(那覇)をめぐる明治以前の流通について、コンパクトに説明している。


『日本を解剖する! 北海道図鑑』
北海道庁旧本庁舎

焼き過ぎれんが
 壁の下の部分のレンガが黒っぽいのは、強度を上げるため、通常より強く火入れをした「焼き過ぎれんが」を使用しているから(p.74)


「焼き過ぎれんが」を使っている建築は他にはどんなものがあるのだろう?



八角塔
 アメリカで独立と進取のシンボルとして、ドームを乗せる建築が流行。これが「『アメリカ風』ネオ・バロック様式」といわれるゆえん。(p.75)


アメリカ風ネオバロックのうち「アメリカ風」の部分は、主に中央のドームということか。



小樽×ガラス

浅原硝子製造所がニシン漁の隆盛を背景に明治43年(1910)に考案したガラス製の漁業用浮き玉は、最盛期の製造量が1000t以上。北洋漁業の縮小や、プラスチック製浮き玉の普及によりその数は減少していったが、豊漁時代の小樽を支えたのはガラス製の浮き玉だった。時は流れ昭和後期、浅原硝子製造所の小売部門を継承した北一硝子が、生活必需品だったガラス製の石油ランプを市内中心部で販売したところ、観光客を中心に大流行。小樽をガラスのまちへと導くきっかけとなった。


明治期のニシン漁という大きな産業に付随して「ガラス玉」が開発された。昭和後期に運河論争により世論の関心が高まり小樽が観光地へと変化していく中で、土産物として観光地としての魅力を高めるのに貢献した「石油ランプ」。この辺りの関連はなかなか興味深い。


『現代思想2018年10月臨時増刊号 総特集マルクス・ガブリエル 新しい実在論』
宮﨑裕助、大河内泰樹、斎藤幸平 「討議 多元化する世界の狭間で マルクス・ガブリエルの哲学を検証する」より

斎藤 (前略)
 フェラーリスやポール・ボゴシアンといったガブリエルが新実在論の賛同者として挙げている人々は、ポストモダンは最初の動機はよかった、という話をします。ジェンダー的規範にせよ、植民地支配にせよ、近代ヨーロッパ的な理性中心主義の普遍主義が、実は知の権力性によって構築されており、抑圧や排除を含んでいる、だから、そこから解放されなくてはならない、というもともとの動機はよかったわけです。けれど、自然的なものは変えられないが、社会的に構築されたものであれば変革することができる、あらゆるものを脱構築することによって社会は変革できる、という戦略が行き過ぎてしまうと、すべてが構築されたものになって、真理や普遍性の地位は脅かされ、相対主義、ポスト・トゥルースが蔓延してしまう。……(中略)……。そうした状況を一度リセットして、事実や普遍性に根づいた理論を再構築しようとする新実在論の試みは、排外主義的なポピュリズムが台頭するなかで有効な軸を打ち出せない左派にとっても、一考の価値があるのではないでしょうか。


同意見である。



宮﨑 (前略)
 ただ、いろいろ見ていて気づいたのは、「Sinn」という言葉についてです。これは基本的にはフレーゲの文脈原理の議論から来ているようですが、でもSinnには感覚やセンスの意味がありますよね。……(中略)……センスの意味を単に意味ではなく感覚、つまり人間に限らない動物なども含めて、自律した近くの契機にまで拡大して考えるのであれば、一応この議論をクリアできる方向で理解できるのかなとは思いました。(p.109-110)


SinnfeldのSinnについて、「意味」と「感覚」の二つの意味があり、「感覚」の意味で用いる場合もあるとすることで、社会構築主義的な構図に陥らない形で議論を展開できるという見解だが、これも同意見である。ただ、ガブリエル自身は、この使い分けのようなものを十分踏み込んで論じているわけではないらしい。個人的にはオートポイエーシスとガブリエルの理論を比較するにあたって、この区別は重要であろう。この点は、私が今後ガブリエルの本を読む際にチェックしたいと思っているところである。



マウリツィオ・フェラーリス 「新しい実在論 ショート・イントロダクション(1)」より

いま問題となっている「新しい実在論者」は、いずれも大陸哲学のなかから出てきた。反実在論の重みは、分析哲学よりも大陸哲学でのほうが、ずっと大きかったからである。……(中略)……。
 しかし、分析哲学者にとって問題が認識論的なものだったとすれば(「概念図式と言語は、わたしたちの世界観にどこまで介入しているのだろうか」)、大陸哲学者にとって問題は政治的なものだった。ポストモダニズムが陥っている誤謬について、わたしは「知=権力の誤謬」という呼称を提案したことがある。この誤謬にしたがってポストモダニズムが育んだ観念は、現実は実際のところ支配を目的とした権力によって構築されているのであり、知は解放の手段ではなく権力の道具であるというものだった。(p.178)


なるほど。



そのような無節操な態度は、大量破壊兵器にかんする偽の証拠に基づいて戦争を始めるところまで来てしまった。「事実は存在せず、解釈だけが存在する」というニーチェの原理がじっさい何を結果したのかを、わたしたちはメディアに――いくつかの政治綱領にも――目の当たりにさせられてきた。……(中略)……。かくしてニーチェのモットーの本当の意味は、むしろ「最強者の理屈がいつでも最良のものである」ということであるのが明らかになった。(p.178-179)


相対主義は強者にとってこそ都合がよいものだということを喝破している。



景山洋平 「精神と現存在の差異 ガブリエルとハイデガーにおける様相・歴史・自由」より。

ポイントは、ハイデガーにおいて、生の意味がそれとの関係で成り立つ事実性が、同時に、生の意味の消失に我々を直面させることである。つまり、「自由・福祉・健康・正義を『課題』としよう」とガブリエルのように断言できる自信はハイデガーの現存在にはなく、生の意味をめぐる絶えざる試行錯誤しかない。(p.262)


私見ではハイデガーの哲学のこうした不安定性こそ、ナチスへと繋がっていくものであると考える。ナチスに限らずポピュリズム的な扇動に動員される人々の心理には、こうした不安定性と結びついた不安や恐れがある。ポピュリズムの扇動はこうしたものと親和的である。



奥井隆 『昆布と日本人』

 江戸時代までは1艘の船は1年一航海が原則でしたが、明治時代に入り、年に3~4回の航海ができるようになりました。それは松前藩の入港制限が撤廃されたことによります。こうして北前船の船主たちは莫大な財をなしていきます。戦国船は19世紀から明治の終わりごろまで活躍します。(p.35)


なるほど。江戸末期から明治にかけて北前船の船主が物凄い勢いで富を蓄積していったのは、このような制度的というか政治的な条件もあったということか。



 つまり、昆布で得た莫大な利益が、倒幕資金となったのです。潤沢な資金が、薩摩藩を中心とした官軍(反幕府側)の軍事費となり、近代的な軍備を整えた新勢力が幕府を倒し、明治維新を迎えることになります。いってみれば、昆布が日本の近代化に貢献したといっても過言ではないと私は考えます。(p.41)


昆布ロードでの貿易において清と密貿易を行うことで、薩摩藩は藩の財政を立て直すことができただけでなく、軍備力増強のための資金にもなり、それが幕府を倒すことに繋がったというのはそうなのだろう。

ただ、明治維新をしなければ近代化しなかったかのような言説はやや割り引く必要がある。例えば、西洋式の城郭である五稜郭を建設したのは明治政府ではなく幕府であったし、幕府も西洋から軍艦を購入するなどのことはしていた。明治時代に西洋化が進んだからといって、後に明治政府を設立する薩長と対立していた幕府が旧守派や日本の伝統に固執していたに違いないと考えるのは恐らく誤りだろう。どちらも西洋化しようとしながら争っていたという見方をすることも可能である。実際、幕府はフランスとも通じていた。英仏の帝国主義の争いにおいて弱い側をバックにつけてしまったことが幕府の敗因かも知れない。



 右近家は江戸中期から明治中期にかけて大坂と蝦夷地を結んで隆盛を極めた北前船主です。幕末には日本海五大船主の一人に数えられ、最盛期には19艘の廻船を所有し、日清、日露の戦役には数隻を軍用に提供しています。
 ……(中略)……。
 右近家の歴史を振り返ってみます。北前船のオーナーとしてゆるぎない地位を築いたのは幕末期。(p.42)


右近家が幕末期にゆるぎない地位を築いたのは、松前藩が入港規制を緩めたことを(他の船主たちよりも)有効に活用したということなのではないか?



 そうした社会の変化のなかで、右近家は、近代的な経営へ向かうことになります。海運業を続ける一方で、最も関係の深い海上保険業への進出を図り、1896年に、石川県の船主・廣海家らとともに、現在の日本興亜損害保険株式会社の礎となった「日本海上保険会社」を設立しました。これはかつての北前船の難破や破損事故から、「保険」を切望した経験があったからこそ、保険会社を立ち上げたのではないかと思われます。(p.44)


北前船の経験にから他の北前舩主らと海上保険へとつながるあたりは、イギリスで船主たちが出入りしていたロイズ・コーヒーハウスで、ロイズ海上保険が誕生したことと似ている。

北前船の船主たちは手に入れた資本をもとにして、様々な業種に手を伸ばし、近代的な経営へと業種を転換していったのだろう。有力な船主たちを個別に調べていくといろいろと面白いことが見えてくるかも知れない。



 実際に、今に伝えられている「江戸料理」のだしは鰹節からのものであり、昆布はほとんど使わないといっていいぐらいです。昆布を使うとしても、日高昆布が主流です。私が東京で初めて商売をするようになった30年前は、築地市場でも昆布は日高しかありませんでした。
 その理由は昆布の流通の歴史に答えが見つかります。北前舩で蝦夷地から上方へ運ばれ、まず上質の昆布から売れていき、量が多かった日高昆布を上方から江戸に送ったのです。言い方は悪いですが、上方で売れ残ったものが江戸で消費されたということになります。(p.71)


なるほど。面白い。流通は地域の食文化にも大きな影響を与える。



 富山は1世帯で昆布を消費する金額と数量は日本一だといわれています。その背景にはやはり北前舩の寄港地だったことがあげられます。なかでも、羅臼昆布は、富山で最も多く消費される昆布です。北海道開拓時代、富山から多くの入植者が知床半島に移住し、親戚縁者にその羅臼昆布を送ってきたつながりが今も残っているからです。(p.117)


開拓のための移住と昆布の消費に関係があるとは、考えたこともなかった。



 琉球は定期的に中国へ貢物を送り、それに対して皇帝からの使節団により恩賜が与えられるという関係でした。その中国からの使節団をもてなすのが豚肉料理でした。使節団は400人、半年も滞在するのが慣例で、大量の食材が必要とされました。豚の飼育が奨励されたのをきっかけに豚肉料理が定着し、昆布と組み合わせたと考えられます。
 中国は、貿易の品に昆布を望み、琉球はその昆布を薩摩藩から手に入れ、薩摩藩は昆布の対価に中国から到来した薬種を求める……そのつながりが昆布と豚肉を結びつけたといっていいでしょう。(p.118)


これも興味深い。


丸山俊一 『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』

 だからたとえば、もし友人や家族などの身近な環境で、深く皮肉で虚無的で、反民主主義の会話を見かけたら、戦え。「ノー」と言え。(p.77)


ガブリエルは権力と柔らかく向き合うべきだという。権力に対して直接、激しく対立するのではなく、ファイアウォールを毎日見直してアップデートすべきだという。ファイアウォールをアップデートするということは、上記引用文のような対応をしていくことと繋がっている。確かに、反民主主義的な言説を垂れ流してもどこからも反論が来ない社会は、権力者が反民主主義的な言動をしても、それに対して批判し、是正させる力も弱い社会であろう。現在の日本のように。



もし、インターネットをリアルな社会的な活動範囲にまで積極的に広げてしまったら、社会的現実を破壊することになるだろう。僕らは、こうして民主主義を壊してしまっているんだ。インターネットは決して民主的なメディアではない。(p.80)


ネットを使った社会活動のすべてが民主主義を破壊するとは限らないが、インターネットには民主主義や言論の自由、表現の自由などを蝕んでいく傾向があることは事実だろう。例えば、言論の自由などの言葉の意味を履き違えながらヘイトスピーチをまき散らすという行為が行われ、無知な輩がそのような粗末な言説に影響され、拡大していき、次第にそれが市民権を得たかのように大きくなっていき、それが批判されると言論の自由を盾にとって自らの主張を正当化しようとする場合など。



 もちろん、僕もインターネットを使う。フェイスブックやツイッターもやっている。しかし、僕はそれらを、「告知」の道具としてのみ使っているんだ。(p.82)


インターネットは双方向のコミュニケーションではなく、一方的に知らせる告知として使うというガブリエルの使い方は、個人としての使い方としては妥当なものの一つである。私もフェイスブックやライン、それどころかメールなどはコミュニケーションのツールというより、告知(通知)するためのツールだと考えている。ネットのメディアで議論をすることは全く現実的ではない。



トランプは、ポストモダン理論を政治へ完璧に組み入れた例だ。ここに、僕らの新しい哲学的な敵が存在する。……(中略)……。彼はポストモダン的天才で、ポストモダニズムの洞察を経済的な言動力にしている。
 ポストモダニズムの基礎的な概念は、覚えているだろうか、これらすべてを突き動かしていたのは、僕らは現実を見ることができない、社会的現実などない、そして映像の外の現実もなく、ただ一つの鏡がもう一つの鏡の横にあるという概念だった。
 だが、もう明らかに、鏡を投げ捨て、新しい段階を始める時だろう。(p.143)


私がガブリエルの思想に興味を持ったのは、彼のこの種の洞察に共感したからである。現代のポストトゥルースと呼ばれる事態は、まさに権力者たちがポストモダニズムを利用しながら統治を行っている事態を反映している。その典型的な実例がドナルド・トランプであり、安倍晋三である。カリスマの有無という問題ではなく、ポストモダニズム的な観点から、マスメディアの批判を封じ込め、野党の批判をはぐらかし続けながら、事実を自らの都合の良いように社会構成主義的に作り直して発信していけば、民衆を容易に騙すことができることを彼らは理解している。彼ら自身には大した能力がなかったとしても、社会の側が権力者の権力を縛ることへの関心を失った(意味を理解しなくなった)結果、大した能力がない者でも、大きな権力を思いきり使えるような制度になっていることも、その背景にある。



そして、もし道徳観がただの好みの問題であるならば、……(中略)……、「正義などなく、あるのは征服だけである」と結論せざるを得なくなる。……(中略)……。だから、社会的現実においては――真実がなければ――純粋な闘いが生じる。それがドナルド・トランプの世界観だ。結局のところ、正義などなく、あるのは征服だけだ。それが彼のビジネスモデルだ。(p.149)


この問題意識に共感する。哲学的にはガブリエルは、この問題意識に対して新しい実在論によって、意味の場の実在論によって答えを出していくことになるのだろうが、この解決策がどの程度妥当であり、どの点で批判すべきかということは、今後、彼の本を実際に読んでみて考えてみたいと思う。



 道徳的事実は、他人の立場になって考えてみた時にわかる類のものだ。……(中略)……。だから、あなたは相手の立場から道徳的事実の意味を理解するんだ。……(中略)……。
 そして理性的な人であれば、テーブルにすべての事実を議題に挙げれば、あなたに異を唱えはしない。あなたが完全に状況を説明すれば、何をすべきかをも知ることができる。これこそが、この知識がとても重要な理由だ。知識と科学は道徳観を形成する上で絶対的に重要だ。もし僕らが知識と科学を攻撃すれば、それにしたがって僕らは人間が道徳的になることを不可能に、またはより難しくするだろう。
 だから、現代の権威主義的人物が科学を攻撃することは、偶然ではないんだ。トランプのような気候変動を否定する人々は、実際の知識を疑うために科学的専門家を攻撃する。これを次の構造にまとめることができる。

 ポストモダンの独裁者――僕らの時代の多くの残念な反民主主義者、ポストモダンの悪しき利用を目論む反啓蒙活動家――には、次の計画がある。
 彼らはあなたを、あなたが知っていることを、本当は知らないと信じさせたいんだ。それは新しいレベルの厄介な計画だ。
 あなたは実際に何かを知っているが、政治の仕組みがあなたに、「現実を知らない」ということを信じさせる。……(中略)……。
 だが実際には、あなたはシリアで何が起こっているかを完璧に知ることができる。だが彼はあなたに教えはしないんだ。
 要するに、あなたが、あなた自身の知る能力を疑うということ。そしてもしあなたが知る能力を自ら攻撃するようになれば、それに従ってあなたはあなた自身の道徳観を攻撃するようになるだろう。なぜなら道徳観は、僕らの知る能力の実践だからだ。だから、もしあなたが現実を知ることは不可能か、または難しいと考えるなら、それに従ってあなたは直ちに、道徳観を理解することも難しいと考えるようになるだろう。
 そしてこれは道徳的間違いを犯す可能性を高める。(p.153-155)


以上のことから、事実を知ることができるということを主張する哲学が公的領域で必要とされているとガブリエルは言う。思想という観点から見れば、この主張は概ね妥当であると思われる。



 ドイツでは、クレジットカードすら、まだあまり受け入れられていないんです。(p.191)


本当か?もし本当なら、昨今の日本の雰囲気、すなわち、「先進国ならキャッシュレスが当たり前、日本は遅れているのでキャッシュレス決済を導入すべきだ」といった風潮は事実に反する認識から出発した議論ということになるのではないか?