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アヴェスターにはこう書いている?
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早川タダノリ 編著 『まぼろしの「日本的家族」』
早川タダノリ 「「日本的家族」のまぼろし」より

 服部があるべき姿として、あるいは復元すべきものとして掲げている「昔、朝と晩の二回は一家団欒で食卓を囲んだ」という家庭モデルもまた出自があやしい。その「昔」とはいつのことだったのかさっぱりわからない。というのも、日本に「食卓」が登場したのはそんなに昔のことではないからだ。
 文化人類学者の石毛直道らの研究によれば、明治後期から「卓袱台(ちゃぶだい)」が普及するまでの長きにわたって、家庭で使われていたのはもっぱら箱膳だった(使用しなかった階層や地域もある)。箱膳とは、普段は一人分の食器を入れておく箱で、食事の際に蓋をひっくりかえせば銘々膳になる道具のことだ。
 この箱膳が卓袱台に取って代わられたのが大正末期だった。卓袱台の利点は脚がたためることで、食事が終わったら台を片付けてそこに布団を敷くことができた。つまり食事する部屋を寝室にチェンジすることができ、都市部に集中し始めていた労働者の狭小な家屋にマッチする道具だったのだ。(p.22-23)


右派(多くは「保守」を名乗る反動主義者たち)の言説で、回帰すべきとされる家庭モデルには歴史的な根拠がない。本書が「日本的家族」を様々な仕方で取り上げるのも、そのためであろう。

ちゃぶ台が労働者の登場と軌を一にするものだったという点は、なるほどと思わされ、非常に興味深い。都市部のものというイメージがあまりなかったので意外性がある。



 前掲の石毛らの調査によれば、テーブルとイスを使って食事をするスタイルになって、食事中の家族の会話も不作法ではなくなった。ここでようやくアニメ『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ、フジテレビ、1990年―。『サザエさん』〔長谷川町子、フジテレビ、1969年―〕の場合は卓袱台を利用している)に見られるような、現代に生きる私たちが容易にイメージできる「一家団欒」像が現出するにいたるのである。
 しかし、1960年代半ばに誕生した食卓の「団欒」は、80年代初めに崩壊し始める。平均給与水準の低下と女性のパート労働の増大などを社会的条件として共働き家庭が激増し、「お母さんがいつも食事を用意して家族そろって食べる」というジェンダーバイアスにあふれた家族モデルは、維持することが困難な幻想となっていくのである。(p.24-25)


右派(自称「保守」の反動主義者たち)の多くの言説で回帰すべき理想とされる「日本的家族」は60年代から80年代頃の20-30年ほどしか一般化したことがない特殊な家族モデルであるに過ぎない。



堀内京子 「税制と教育をつなぐもの」より

取材し、記事を書いたのが2015年から16年。加計問題が報じられたとき、まるで似たような構図が同じ時期に起きていたことに震撼した。筋書きは内閣府で、需要の算出根拠が不透明、担当官庁(三世代同居は国交省、加計は文部科学省)が難色を示していたのに、安倍首相の肝いりで(三世代は「首相指示」、加計問題は「総理のご意向」)で一気に実現に向かった、という点だ。(p.136-137)


三世代同居住宅へのリフォームで税額控除が受けられる制度の決定過程と加計学園に獣医学部の新設が認められたことの決定過程に明らかに客観性のない恣意的な権力行使(有権者の負託を受けていない正当性がない権力行使)があった。自衛隊の日報問題、森友問題、加計問題といった一連の事件と同じ構図は別のところにもまだまだあり、安倍政権ではこのような恣意的な権力行使が日常的に行われていると見るべきだろう。少なくとも安倍政権が、疑惑を否定し得たことは一度もない


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中川裕 『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』

北海道で現在私たちが知っているようなアイヌ文化が成立するのは13世紀頃と言われており、本州で言うと、ちょうど平安時代から鎌倉時代に移った頃のことです。これはおそらく偶然ではありません。源頼朝が東北地方にいた奥州藤原氏を倒して鎌倉幕府を樹立しますが、それは当時の中央政権が東北地方の端まで勢力を及ぼしたことを意味しており、蝦夷と和人(日本のマジョリティ:いわゆる「日本人」)の関係が大きく変わる要因になったことは十分に考えられます。
 13世紀以前に北海道にあったのは、擦文文化とオホーツク文化と呼ばれるもので、それぞれ擦文式土器とオホーツク式土器を使っていました。オホーツク文化はやがて擦文文化に吸収されて、それが現在知られるようなアイヌ文化のもとになったというのがこれまでの定説ですが、アイヌ文化になったところで何が変化したかというと、なんとそれまで作っていた土器の使用を一切やめてしまったのです。これはすごい変化です。……(中略)……。その理由は、鉄製品が豊富に手に入るようになったからだと考えられています。
 ……(中略)……。このように豊富な鉄製品がどこからもたらされたかというと、やはり本州からというのが自然な流れでしょう。(p.55-56)


歴史の変遷は興味深い。さらに言えば、平安から鎌倉への支配層の変化は、大陸の動向(宋から元が支配する)とも関連しているのではなかったか。

土器を使わなくなったというのも興味深い。本書の説明では本州から来た鉄を使ったから、ということだが、もしそういう理由が成り立つのであれば、本州でも鉄で食器などを作ってもおかしくないのではないか?という疑問は生じる。このように、本書の説明には概ね納得はするが、多少の疑問はある。



アイヌの世界観も、カムイとの物々交換――つまり交易という考えを前提にしたもので、これは和人や近隣の諸民族との交易が盛んになってきてから、完成されていった考え方だろうと思います。(p.58)


なるほど。



 樺太アイヌの文化には北方の狩猟民との交流の結果として、彼らとの共通点がいろいろ見られます。網走などで、アイヌのお土産ということで、人の形をしたニポポ人形というものが売られていますが、これはニーポーポという樺太アイヌの玩具兼子どもの守り神で、北海道では一般的にはこのような人型の人形を作ることはありません。(p.59)


ニポポというとアイヌというイメージだったが、そういうものだったとは。



東北地方でも18世紀半ばまで、アイヌ語は生きていたことになります。(p.63)


この辺も興味深い。



 江戸時代に入るまでは、北海道のアイヌと和人は交易相手としてほぼ対等だったと思われます。それが変わってきたのは、1604年に松前藩が徳川家康から黒印状を受けて、正式に松前藩が確立してからです。当時北海道では米はとれませんでしたので、松前藩は俸禄の代わりにアイヌとの交易権を藩士の給与として分け与えました。これを商場知行制と言います。つまり藩士何某がアイヌ何某と独占的に交易する権利を与えたのですが、これはアイヌ側からしたらそれまでの自由貿易ができなくなったわけで、松前藩士の言い値で取引しなければならない土壌ができあがってしまいました。そこへもってきて、特にキリシタン禁教令によって逃れてきた本州からの移民が、アイヌの居住地へどっと入ってくるという状況が生まれました。そのおもな理由が砂金掘りです。「ゴールデンカムイ」という物語の背景は、その300年前から準備されていたのです。
 そのようにして和人への不満が募っていった中で、1669年にシャクシャイン戦争という、歴史上最大のアイヌ対和人の戦争が起こります。(p.63-64)


商場知行制がアイヌ側にとって意味した内容はよく押さえておくべきと思われる。



結果的にシャクシャインは和議といつわった酒宴の席でだまし討ちにあって殺され、アイヌ側の敗北となりました。
 これを機に松前藩はアイヌへの政治的・経済的支配を強め、享保・元文期(1716~41年)には場所請負制という体制が確立しました。それまでは藩士が直接アイヌと取引をしていたのですが、それをやめて、商人に運上金を納めさせ、その代わりに各「場所」(アイヌとの交易地域)の経営を商人に請け負わせるという制度です。利益を上げるために、商人たちは交易などというまどろっこしい方法はとりませんでした。アイヌの成人男女を漁場労働にかり出して、ニシン漁やイワシ漁などに従事させたのです。(p.66)


場所請負人について、北海道では各地域でかつて力を持っていた商人として比較的好意的に紹介されることが多いように思うが、彼らには陰の面もあったということを十分理解しておく必要がある。



私が感心しているのは、作者の野田先生が小樽の街を「治安が悪いけれど、金の匂いがする街」というイメージでお描きになっていることです。
 これは、歴史的には非常に正確な描写なのです。……(中略)……。
 ……(中略)……。他の地域では、たとえば「農地を開くために北海道に来ました」というように、特定の目的のもとで人々が入植したのですが、小樽だけは「小樽に行けば何とかなる」という思いでやって来た人が多い、非常に特殊な環境だったのです。(p.104-105)


この引用文は、小樽市総合博物館館長の石川直章氏によるコラム「小樽から見た「ゴールデンカムイ」」からのものである。

北海道に人を住まわせ、産業を起こさせ、ロシアの南下に対して備えようという当時の政策を実行するに当たり、最も重要な拠点の一つが小樽だったことが、こうした特殊な環境となった理由の一つだろう。国の政策が変わることで、こうした条件が一気になくなってしまったのが戦後の小樽であり、その変化が激しかったことが、古い町並みが残ることになった要因の一つだろう。

大塚玲子 『PTAをけっこうラクにたのしくする本』

ずいぶんまえですが、校長先生が地域のおじいちゃん・おばあちゃんたちに、「お散歩の時間帯を、早朝じゃなくて、子どもたちの登下校のときにずらしてもらえませんか?」って頼んでくださったそうなんです。それでお散歩の時間を変えてくれた人たちが、「子どもたちの見守りをしないと危ない」って気づいて、見守りをしてくれるようになりました。(p.148)


地域で子どもたちの安全の見守りをするというのは、こういうことを言うのか、なるほど。



 PTAで通学路の安全を確認し、問題があれば行政(警察)に改善要望を出すこともできます。予算がかからない内容であれば、わりあいすぐ対応してもらえるようです。(p.149)


なるほど。これも良いアイディア。予算がかからなければ対応が早いというのもその通りだろう。危険性を指摘されているのに放置している間に事故が起こったら行政(警察)としては責任を問われることにもなるのだから。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その3)

 1970年、城島高原の「猪の瀬戸」にゴルフ場建設計画が持ち上がった。これに対し、湿原の植物を守るために、旅館経営者たちが中心となって「由布院の自然を守る会」が結成され、建設を阻止した。「守る会」は、翌年には「明日の由布院を考える会」となり、その後「牛一頭牧場運動」「牛喰い絶叫大会」「辻馬車」「ゆふいん音楽祭」「湯布院映画祭」などの全国的に知られるイヴェントが創出された[吉田 2006: 130-131]。
 今日の湯布院発展の基礎を築いた伝説の三人のひとり、中谷健太郎氏の話によると、1970年に中谷、溝口薫平、志手康二の三人がドイツのバーデンヴァイラーを訪ね、滞在型の温泉保養所のあり方について勉強してきた。(p.161)


小樽運河保存運動とも共通性がある。地域のある種の資源が破壊されることの危機感を持つ市民たちが運動を起こしていく点やイベントの創出によってより広く人々の関心を集めるという戦術を使っている点、運動の中核的な考え方などを担っていく人々が当時のヨーロッパなどを見てきた点など、構図が極めて似ているのに驚かされる。



 こう比較してみると、外部資本が提供するものと湯布院産のものとの違いが歴然とする。「外部資本は「わかりやすい言葉」を遣う」といった観光協会の米田事務局長の説明がよくわかってくる。全国のどこにでもあり、どのようなものかがすぐに想像できる「酒まんじゅう」や「かすりの小物」がある。また「由布院創作工房」といいながら提供しているものはどこの観光地でも見かける「とんぼ玉」などである。「わかりやすい言葉」は、「すでによく知られているもの」を指し示し、新たな理解・発見を拒む言葉であった。
 それに比べて湯布院が提供するものは、地域の人の説明が「発見を誘う」言葉となっている。説明を受けてはじめて理解し納得する品物であり、外部資本のみやげもののように「よく知られている」がゆえにためらいなく手が出る品物ではない。地元の人からの説明によって、誰が作り、どんな味で、どう使うのかがイメージできるようになる。そしてそれでは是非買ってみようと手を出す品物である。ゆず・きんかん・かぼすなどはこの地域の特産である。各宿で地産地消を進めるために多少高くても使用している地域産の鶏であり、また「牛喰い絶叫大会」に使われる地元産の牛の「たんしお」であることなど、「まちづくりのものがたり」に導かれてはじめて手にとり、一度その味わいを知ると、リピーターとなる。地域の人々の「ものがたり」によって味わいを増す品物である。
「わかりやすい言葉」が「よく知られたもの」を確認し消費するだけの観光経験を提供するとしたら、「地域の言葉」は「旅における発見」を提供する。すなわち地域の人々が地域の言葉で語る「ものがたり」は、観光者を旅人に変換する契機となるといえよう。(p.167-168)


本書では「すでに知られたもの」を軽く見にいくのは「観光」であり、「新たな発見」をともなうのが「旅」とされている。この対比に外部資本による「わかりやすい言葉」と地元の人々による「地元の言葉」とが対応している。地元の言葉をいかに磨いていけるか、外部資本によるわかりやすい言葉をいかに減らしていけるか、これは地方の観光都市にとっては重要な課題かもしれない。



観光経験に過度の「真正さ」を求めることは問題である。観光は「(観光者にとっての)異郷において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして、売買すること」という特徴を持つ。(p.236)


著者による観光の定義は本書で何度も繰り返されるが、本書を読み進めていくと、これが「旅」や「フィールドワーク」のようなものと区別する定義であることがはっきりしてくる。観光ガイドという観点から見ると、ここでの「観光」の定義に、少しだけ何かを付け加えてやることができればガイドという役割はかなりうまく果たせたことになるのではないかと思う。



 観光者が求めるものは対象の「真正性」ではない。観光者は、観光経験を豊かなものにし思い出深い「真正なものがたり」にする地域の人々との出会いと、彼らの「真摯」な対応を求めているのである。(p.239)


上記の「付け加えてやる」ものの一つとして、これは重要であると思われる。個人的にはこうした真摯な対応によって、観光者の認識や知識や関心のあり方を揺さぶることができればよいと考える。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その2)

筆者は、観光対象についての出発前の認識が、途中では確認・強化されるだけであり、終了後は出発前の認識を追認して終わると指摘してきた。観光後に語られる内容は出発前にあらかじめ提供された事例をなぞるだけであり、観光中の視線もすでに設定された枠組みのなかでしか焦点を結ばない。語りにはスタイルがあり、語り手はそのスタイルを踏襲する。観光者が現地の人々や現地の生活・文化を見て「何かを発見すること」を期待することは困難である。「語るように」または「語られたように」ものを見ること、そしてあらかじめ与えられた情報に示されたように見ることが観光の基本的特徴であるなら、それから抜け出ることは可能だろうか。観光にそれ以上のことを求められるだろうか。観光者が「語られたように」しか、または「与えられた情報のように」しか対象を見ず、新たな発見をしないという批判が現在もなされているが、その批判は観光に観光以上の要素を求めようとすることになる[橋本 1999: 120-121]と筆者は主張してきた。(p.93)


基本的にはこの指摘は妥当と思われる。ただ、本書でも後に指摘されると思うが、小さな発見は観光の中にも取り込み可能であり、その点を過小評価すべきではないと思われる。著者は観光と旅とを異なるものと定義しているようだが、観光のために出かけることを好む人の中には、この小さな発見を積み重ねることを楽しみにしているため、いろいろなところに出かけようとするという人も多いように思われる。

私の見立てでは、海外旅行については、2-3回程度するとやめてしまう人とハマってしまい度々行く人とに分かれるように見えるが、前者は「小さな発見」があまりできなかったため、最初の目新しさだけで終わってしまった人たちであり、後者は「観光の中の小さな発見」などの楽しみをある程度の数や重みをもって経験できた人なのではないか、と思っている。ただ、全体としては前者の方が数は多いと思われるため(データはないが)、観光者にあまり発見は求められないという点は妥当であると思われる。



民族誌家はあらかじめ仕入れた情報をいつでも白紙に戻す覚悟で、フィールドでの「発見」を第一に考える。自分の認識がひっくり返り、新たな世界を発見できるような経験がむしろ望まれている。しかし観光者が自らの認識をひっくり返るような経験を望んでいると考えるべきではない。むしろ「古い話を語るための新しい場所」を探していると考えた方が妥当である。(p.94)


対比としては誤っていないと思うが、民族誌家を含む研究者と言えども、必ずしも事前の情報を白紙に戻すことは好まない、というか、事前の仮説を正しいと思おうとするバイアスはかなり強いということは指摘しなければならないだろう。パラダイム変換という言葉が一時期流行ったが、同一世代の科学者の中ではこれはほとんど起こらず、世代交代の際に変わっていくということが科学史や科学論の著作で指摘されていたのが想起される。

ただ、研究者のフィールドワークでは新たな発見をしようという目的意識があるのに対し、観光者の観光にはその要素は少ない(ほとんどない)という点は言えるだろうと思う。私自身、自分が旅行中や旅行前後にしていることを人に語った時、「それは社会科学のフィールドワークじゃないか」と言われたのが想起される。(研究者である友人には、旅行中にも、「君との旅行はフィールドワークと同じだから楽しい」という趣旨のことを言われたことが想起される。実際、現地の人たちからも私の旅行中の振舞を見て、研究者か教育者だと思われたことが何度もある。)

個人的には、このような、発見をしようという目的意識を持つことは旅を楽しむ上で重要なポイントの一つだと思っている。



ある出来事を単なる事故で終わらせるか、観光の貴重な出来事とするかは、「導きのものがたり」を提供するガイドにかかっている。それがガイドの役割である。しかしガイドが万能であるわけではない。内容によってはブルーナーのインドでの事例のように、ガイドの能力を超える出来事に遭遇することもある。そのような事前の「ものがたり」と相容れない、それを圧倒するような出来事が生じたとき、全体を統辞論的に再編成して解釈の枠組みを提供するものは、経験者自身が時間の経過とともに自らの実存(生き方)と照らし合わせて再構築する新たな「ものがたり」である。それはもはや筆者が定義する観光の枠組みを超えた領域、「発見」をともなう「旅」の領域に入る経験となろう。(p.95)


ガイドには限界があり、それは観光者たちの事前の認識枠組みによって大きく左右される。このことはガイドする際にも参考になるように思う。観光者たちの枠組みがどのようなものなのか見極めて、そこから大きく外れない範囲で物事を紹介していきながら、トラブルには意味付けをしつつ、適宜、枠組みを軽く揺さぶっていく、といったことが良いガイドの一つのイメージのように思う。



ガイドは、民族的偏見を捨て、現地の人々にシンパシーをもって案内し、かつ現地に経済的貢献をするという条件には触れていない。この条件を満たしていれば、トラジャ人から先のような非難を受けることはなかったはずである。(p.108-109)


現地の人々にシンパシーをもって案内するという点は、ガイドにとって結構重要なポイントかもしれない。ただ、批判的な視点も多少は必要であるようには思う。とは言え、反感を持って非難をするのは、少なくとも観光者を相手にする場合には良くないとは言えるだろう。例えば、特に地域の負の歴史について説明する際に、ガイドの姿勢(共感・反感)は重要かもしれない。



観光者は自分なりの「確認」や「発見」を期待はするが、自ら構築した事前の「ものがたり」にそぐわない内容は受けつけない。観光では当初の目的を白紙に戻し最初からツアーを再構成することは、観光の失敗を意味する。ガイドは観光者の「ものがたり」に何かを付け加えることは可能であるが、「ものがたり」の構造を作り直すことはできないのである。(p.143)


ガイドの役割と限界として押さえておきたいポイント。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その1)

地域の人々が地域の文化資源について真摯に観光者に語りかけ、由来や製法について説明し提供する姿が、観光者の観光経験を豊かにするのである。そして第四章では、これまでの観光研究における「真正性」の議論を総括し、当初の客観的「真正性」に関する議論を乗り越えて、地元の人々が地域文化資源を提供するときの誠実な姿勢・真摯な姿勢が、人と人との「実存的な」かかわりのなかでの間主観的な「真正性」にたどり着く可能性について論じていく。観光者は地元の人々が地域文化資源を提供する真摯な姿にひかれる。そこに観光経験を豊かにし、通り過ぎるだけの「カンコー」を地元の人々を「発見」し地元の人々と出会う「旅」に転換させる契機が存在することを指摘するつもりである。(p.22)


単なる「もの」を見たり買ったりするというだけでなく、それを見せたり売ったりする側の人々が、いかに誠実に真摯に見せていくか、語っていくか、そのことが観光する側の人の経験を豊かにしていく、単なる観光から「旅」へと転換させていく、そうした考え方は実感として納得がいく。翻って、自分が友人たちなどをガイドする際の姿勢としても、参考にし得る。



参考までにアンダーソンたちの1993年の調査では、若い観光者は「ユニークさやオリジナリティ」に注目し、年配者は「文化的・歴史的真正性」に注目していることが報告されていた。また経験の浅い観光者は「ユニークさ」に真正性を求め、経験の豊富な観光者は「誠実さ」に真正性を求めるという結果が出た。(p.38)


この調査結果は、自分の旅行経験に照らしても、実感としてわかるように思う。



この女性がこのバッグを忘れられないのは、作り方や仕事ぶり、苦労などを全部知っており、皮製の取っ手を額にあてて、ココナッツなどをはじめ何でも背中に背負う姿を見てきたからである。高価な品物ではなくても、その品にまつわる「ものがたり」が重要であり、その語りが思い出深いみやげものを構成しているのである[Anderson and Littrell 1995:340]。(p.44)


土産物に限らず、単に観光地を見るという場合でも、そこに至るまでそれなりに苦労をした経験や辿り着くまでにした失敗や事件などがあると、その旅が思い出深いものとなる。人との関係について言えば、確かに誠実さや真摯さというものは、それだけではないようにも思うが、大きな要素だと思われる。(自分の経験で言えば、例えば、イスタンブールで人をだまそうとしている客引きが大勢いたが、それをうまくかわすことができたことや当時のものすごいインフレを利用して釣銭を少なく渡されたといった経験なども思い出深い経験になりうる。良い思い出になるとは限らないが…。)



「ご当地キティ」は1998年に北海道限定で「ラベンダーキティ」として売り出されたのが最初であった。(p.64)


そうだったのか。確かに新千歳空港で00年前後に見かけたように思う。当時はそれも比較的物珍しい感じだったかも知れない。それと比べると、今はこれと同じような形のご当地キャラが氾濫していると感じさせられる。



みやげものを介して観光経験が「ものがたられる」ときには、購入した所有者の現時点の自己について語られ、過去の観光経験が再編成・再構築されているのである。それは、みやげものを手放すときを想定してみれば明確になる。残すに値しないと判断された品物は、保有者がそれにまつわる「ものがたり」を忘れているか、思い出すに値しないと判断したものである。(p.78)


なるほど。この点は、観光の土産物に限らず、例えば音楽のライブのグッズなどのような記念品全般に当てはまるように思う。さらに言えば、コレクションしている品物など、何らかの思い入れを持って保有している物品についても同様のことが言えるように思われる。

それは自らを語るための媒体となるものであり、その「ものがたり」がその時点での自分にとって意味がある限り、保有しておこうとする。これを拡張すると、次のように言うこともできるかもしれない。「物持ちがいい」人にとって、それらの物は現時点では語るほどの物語がないとしても、物語を語りうる可能性があると感じられているために捨てられないという面もあるのかもしれない。



大谷渡 『台湾と日本 激動の時代を生きた人びと』(その2)

 日本では、本当に待遇が良かった。東京に住んでみると、日本人が台湾のことをあまり知らないことがわかった。高等学校へ入った時、「台湾ってどこ。」と尋ねられたことがあった。台湾に対する認識がないから、台湾に対する差別もわからない。むしろ、台湾からよく来たと言って、歓迎された。中学時代に思い描いたように、日本での生活はよかった。(p.162)


ここの叙述は非常に腑に落ちた。台湾在住の日本人は本島人(台湾人)を差別することがよくあったが、日本に留学に来ると良くしてくれたという思い出はしばしば語られるが、その理由が非常に明快になった。ただ、台湾という土地にあまり関心がなかったが故に差別がなかったということであり、これもあまり良いこととは言えないのだが。



 ただ、東大在学時代には、今も忘れられない嫌な出来事が一つあった。一高から東大医学部に入った劉沼光と二人で、東京の街中を歩いている時のことだった。派出所の前を通った時、「学生さん、ちょっと。」と呼ばれた。「学生証を見せてください。」と言うので差し出すと、最初の言葉が「おっ、なんだ、台湾人か。」だった。「ここは大稲埕じゃないんだよ。」「よし中へ入れ。」と言われて二人で派出所の中に入ると、警察官四、五人がいきなり殴りかかってきた。恩魁は手と腕で頭と顔をかばったので歯を折られなかったが、劉沼光は歯をやられた。大稲埕はいまはもうほとんど廃れているけれど、昔は台北でいちばん賑やかな町だった。あの警察官は大稲埕を知っていたから、台湾で警察をやっていたに違いないと、恩魁は確信している。戦争のためにみんなが一生懸命にやっているのに、学生がぶらぶらと街中を歩いているのが気に食わなかったのだろう。呼び止めてみると、以前から偏見をいだいていた台湾人だったので、暴行に及んだものと林恩魁は推測しているのである。(p.164)


狂っているとしか言いようがない。ネトウヨ的なヘイトスピーチをまき散らす差別主義者が現代日本にもそれなりの数存在するが、言動に共通性を見てとらないわけにはいかない。逆に言うと、戦時中までの日本にもネトウヨ的な差別主義者がリアルに存在しており、現在もその当時と同じように存在している、2つの時代にはそういう共通性がある。



 終戦後、翁通楹と二人で牛肉を煮て乾かし、それをほぐして売っていた。満州では日本人が憎まれていたので、日本人とは離れて行動した。(p.166)


当時の台湾人のアイデンティティが、完全に日本に同化したわけではなかったことがよくわかる。満州では日本人が憎まれていたという事実も重要。憎まれるようなことをしたという事実がその結果をもたらしている。



東京で警察に殴られたことで、日本への印象を悪くしたけれど、私は小学校から中学校、さらに高等学校から大学まで、全部日本教育なんです。日本は私にとって育ての親。産みの親は台湾。台湾の人たちは、みんな日本が育ててくれたと思っている。育ての親ゆえに感情が厚いんですよ。それなのに、日本は台湾を相手にしない。日本には日本の立場があり、中国という国が後ろに構えているからかもしれないけれど、あまりにも情けない。(p.168)


この日本に「見捨てられた」ような感覚は、台湾における日本語世代の最後の世代(皇民化世代)の人の多くが抱いていた思いだったと思われる。このことを日本の人々は知っておく必要があると思う。



日中戦争が始まってから、新竹高女では、武運長久祈願で町外れの新竹神社への参拝が行われていた。秋桔が参拝に行かなかったことを、国語担当の安田教諭が知っていた。彼はそれを咎めて、「支那人だ、チャンコロだ、支那へ帰れ。」と罵った。その時秋桔は、「私は支那人ではありません。」と泣いて言ったという。公学校から日本教育を叩き込まれた彼女の頭には、「支那」も何もなかった。漢民族だけれど、私は日本人だと、秋桔はそのつもりだったのである。病後で体調不良であることを知っていれば、あんな叱り方をしなくてもよかったものをと、いまだにあの時の嫌な気持ちを思い出す。(p.173)


この安田教諭なる人物は、腐りきった差別主義者というほかなく、教師として人を教える資格などないというべきだろう。ただ、当時の台湾における差別意識がいかなるものだったのかを示す認識根拠として、また、このような愚かなことを繰り返してはならないという反省のための教材として、このエピソードは記憶されるべきである。ただ、現代の排外主義者たちはこれと同レベルの発言をしており、そうした行為こそ排除する必要がある。



高等科時代には、日本人教師による差別教育の体験がある。教師が台湾人生徒に対し、「支那人根性を叩き直す」「清国奴(チャンコロ)」と罵ったのである。日本から来た人に差別を感じたことはなかったが、台湾で育った日本人には差別意識があった。台湾人生徒の啓三たちは、日本人を陰で犬と言っていた。(p.186)


一つ前の事例などと合わせると、教師による差別はかなり見られたらしいことがわかる。昭和初期の社会の不健全さが感じられる。



 台湾においても、統治下にあった台湾の人びとが疎開を強いられ、空襲の恐怖にさらされ、大きな被害を受けた。この事実も当然のことながら、等閑視されてよいはずはない。太平洋戦争中に、徴用や徴兵によって台湾の多くの人びとが犠牲になった事実とともに、空襲による被害についても忘れてはならないと思う。(p.221)


同意見である。


大谷渡 『台湾と日本 激動の時代を生きた人びと』(その1)

 台湾では、日本人は台湾人を差別した。植民地の者だと馬鹿にした。だが、日本へ来てみると、内地の日本人には全然それが感じられなかった。台湾からわざわざ来たんだからと、大事にされた。(p.49)


昭和16年から18年頃に福井高等工業学校に入学した台湾人についての記述より。これと類似の記述は本書では他の個所に出てくるが、本書以外の本でも同じようなことが書かれているものがある。台湾に住む日本人は少数派でありながら、台湾人を統治する側の立場におり、その立場を維持し続けたいという心理が働くのに対し、日本に来た台湾人の周囲の日本人は多数派であり、台湾人は土地勘もなく、助けになるような人間関係からも断ち切られた弱者である。

前者のような状況では、優位を失うかもしれないという脅威が潜在的にあるため、優位を失わないようにしたいという心理が働き、台湾人を低く見たいという思いに駆られる。後者のような状況では、優位を失うかもしれないという脅威は全くないため、弱者を助けてあげようとする心理の方が前に出やすい。このような関係性の相違が差別的な言動の有無(強弱)に関連していたのではないか。(もちろん、様々な要因が複合しているであろうことは想像に難くないが、要因の一つとしてありうるのではないか。)



 そのころ、小さい子供たちは、用足しに便利なように、お尻のところを開けたズボンを履いていた。(p.69-70)


大正14年頃のこと。大陸では10~15年くらい前でもこの類のズボンを履いている子がおり、町中の地面やごみ箱の中に用を足させている光景をよく目にしたものである。最近はあまり行っていないが、現在はこのようなことはなくなったのだろうか?(昨年深圳に行ったときには見かけなかったように思うが、滞在した場所も少なく時間も短かったので何とも言えない。)

台湾ではいつ頃までこのような状況だったのだろうか?



中学を卒業して台湾島内で上級学校に進学するのは、非常にむずかしかった。台湾島内で進学できる上級学校はごく限られていて、台北高等学校・台南高等工業学校・台北高等商業学校・台北帝大附属医専部・台北帝大附属農林専門部(43年に台中高等農林学校)の五校しかなかった。しかも、台湾人学生の入学比率が決められていた。日本にはたくさんの上級学校があり、選択の幅は大きかった。だから、日本で高等学校や官立私立の専門学校、公私立大学の予科や専門部へと進む人たちの方がはるかに多かったのである。(p.156)


例えば、李登輝が京都帝国大学などに入学したのもこのような流れの中で起きたことである。(台北帝大には台湾人の入学制限があったため入らなかったとされる。)


白央篤司 『自炊力 料理以前の食生活改善スキル』

「料理ができるようになりたい」よりも、自分はどんな料理を作りたいのか、日々の生活でどういうものを作って食べたいのかを最初に具体的に考えておくことが、自炊力を身につける上で大事だと私は考えます。(p.85)


目標が具体的であるほど上達も早いというのは、何にでも当てはまることだろう。



日本人って少なからず「私は薄味好き」と思い込んでいる傾向にあると私は思っているんですよ。栄養調査をしてみるとそんなことはまったくなく、男女ともに世界保健機構が推奨する一日の塩分量の約2倍近い塩分を摂っています。(p.163)


確かに外国で食事をするとスパイスの味が強いと感じることがあるが、逆に言うと、塩味が日本よりもはるかに控えめなことが一般的である。日本ではスパイスをあまり使わない代わりに塩味の濃さで味を埋めているのではないかと私には思える。

塩分のとりすぎという傾向は、日本の食事に普遍的にみられる現象であるが故に気づきにくく――このため上記引用文で指摘されているような勘違いをしている輩も多く――、回避することも難しい環境にあると思われる。



監物 たとえば、少子化で小中学校の空き教室が増えていますよね。そこを利用して地域の高齢者が給食を利用できるといいと思うんです。さらにはそこが学校の栄養士さんと交流できる場になるといいなと思うんですが、やはりなかなか難しい……。(p.181)


いいアイディアと思うが、これの実現を阻むハードルは具体的にどのようなことなのだろうか?国の役所で言えば文部科学省と厚生労働省の管轄の違い、より現場に即して言えば、自治体の中でも教育委員会と福祉部門が別であることは確かに壁だろう。教育委員会は首長からの独立性がある組織だから首長による介入がしにくいということもあるのだろうか?教育委員会の内部でも学校教育と社会教育との違いというのはありそうだが、学校の校舎で給食を食べることに変わりはないのだから、学校教育に管轄させてしまえば問題はあまりないのではないか。(その分の人員を補充することができれば。)

高齢者からの給食費の支払いもあれば給食を作る側もスケールメリットがありそうだし、例えば、妻に先立たれた高齢の男性であまり自炊ができないような人にとっても栄養バランスを考えられた食事が摂れるのはかなりのメリットがある。このアイディアは実現できればかなり有用であり、面白いと思う。少し真面目に考えてみる価値があるように思われる。


辛永勝、楊朝景 『老屋顔 台湾レトロ建築案内』

「小口タイル」と「丁掛タイル(ちょうかけタイル)」はいずれも日本統治時代に非常によく使われたタイル。当時の日本人は関東大震災を経験した後、耐震性の高い鉄筋コンクリートの建物を多く建てるようになりましたが、その際、打ちっ放しのコンクリートは美しくないとされ、タイルで装飾するようになりました。最初は赤レンガを模したデザインでしたが、その後さまざまなバリエーションが生まれました。「小口タイル」と「丁掛タイル」の違いは赤レンガのサイズに応じたものです。(p.36)


レンガ造から耐震のため鉄筋コンクリートに変わっても、外観は従来のイメージを踏襲した赤レンガを模したデザインが使われていたという点、そして、そのデザインからの展開としての赤レンガのサイズに応じたタイルの使用という歴史的な筋道が興味深い



台湾各地の伝統的な建築物では、マジョリカタイルが使われていることが多く、特に海沿いの地域で多用されています。かつては日本からの輸入に頼っていたため、港に近い地域で使われることが多かったのです。(p.37)


正しくは輸入ではなく移入だろうが、いずれにせよこうした流通関係の事情が建築素材の地域性にも影響するというのは興味深い。



青田街を含む温州街、永康街、和平東路一段の一帯は日本統治時代には「昭和町」と呼ばれ、昭和初期に開発されたエリア。現地で教鞭を取る教授や教師たちの住宅建設が急務となり、高級住宅地として開発が進みました。(p.43)


永康街などはおしゃれな店などが並ぶ地域としてガイドブックなどにも載っているが、その前史ないし背景としては、こうした高級住宅地としての開発があったのだろう。



「青田七六」は日本式家屋と洋風建築が融合した和洋折衷スタイルで、高温多湿な台湾の風土に合わせて様々な工夫が施されています。直射日光が室内に入りにくいよう縁側は広く、「広縁(ひろえん)」と呼ばれています。大きく飛び出した軒も日光を遮る効果があり、いずれも本来の日本家屋には見られない特徴です。(p.44)


こうした工夫は類型的なものとして他の建築にも同類のものがあるのだろうか、それとも個々の建築で試されているのだろうか?なお、本書では例えば52頁には、縁の下を設けることで建物を腐食しにくくするといった工夫についての記載がある。



当初はアトリエにする予定でしたが、より多くの人たちにこの土地の雰囲気を味わってほしいと考え、茶館にするアイデアが浮かび、「九份茶房」をオープンさせました。(p.61)


ここ数年の台湾のリノベーションブームで飲食店が多いのは、こうすることで多くの人が来て、そこでお金を使ってくれることで建物を使い続けることができるという事情があるからだろう。建築の構造や意匠や内装・外観がどのように保存されるのかが重要だと思うが、飲食店としての利用の場合、これがどの程度保存されるのか。他の方法の場合と比較してどのような特徴があるのか。こうした点に今は興味がある。



台中では日本統治時代の「市区改正」と呼ばれる政策により、碁盤目状の道路が作られました。(p.81)


地図を見る限り、」結構いくつもの格子状の街区が接続しているという印象である。いくつかの小さな町が合わさって一つの街になっていくというプロセスがあったということか?



その後、台湾各地で文化遺産の保護運動が進んだことを背景に、2009年に地元の書店を経営する余国信さんが「洪雅文化協会」を結成し、建物の保存と再生を手がけることになりました。修繕費用を工面するための「バカな株券」と名付けた証券を発行し、志願者に買ってもらいました。(p.111)


政府による保存では民間の小規模建築にまでは(少なくともすぐには)手が回らないことが多いだろう。そういう意味では、公的な支援が始まる前の段階(?)として地域での自発的なクラウドファンディングというのも確かに「あり」だろう。