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アヴェスターにはこう書いている?
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藤田賀久 『スタディーツアーガイド1 台湾へ行こう! 見えてくる日本と見えなかった台湾』(その2)

台湾人を「二等国民」扱いする風潮もあった中で、公平かつ平等な姿勢を貫いたのである。
 このような八田の態度を考えるとき、背後にあると思われるのは彼の恩師である広井勇(1862~1928年)である。札幌農学校に学び、熱心なキリスト教徒であった広井は、八田が学ぶ東京帝国大学で土木学の教鞭を執っていた。そして、学生に対しては「技術者は技術を通しての文明の基礎作りだけを考えよ」と常に教え込んだ。内村鑑三によると、広井は清い人であり、広井の学問は「自身を益せずして国家と社会と民衆とを益した」。立身出世を脇に置き、技術者として人々に貢献することを常に自らに課し、学生に考えさせた広井の教えは、国籍や身分を越えて人々の生活を改善させようとする八田の信念を形成したのではないかと思われるのである。(p.87-88)


興味深い指摘。東京帝国大学で八田が学んでいた時、広井とどの程度の交流があったのか、これをある程度調べなければ確かなことは言えないが、本書ではそのような点には踏み込まれていない。調べてみたい。



 2012年に転機が訪れた。再開発計画が立ち上がり、哈瑪星は更地にして駐車場とされることになった。すると市民の反対が起こり、哈瑪星が有する歴史的意義が発掘され始めた。そして打狗文史再興會社という団体が生まれ、地域の歴史を保存・研究し、その魅力を発信しはじめた。(p.113)


高雄の哈瑪星(ハマセン)エリアについての叙述だが、40年近く前の小樽運河保存運動と共通の構図が見えて興味深い。



また、2014年には台東まで電化区間が延伸された結果、JR九州885系電車がベースの「タロコ号(太魯閣号)」(TEMU1000形)や名古屋鉄道2000系電車の技術を採用した「プユマ号(普悠瑪号)」(TEMU2000形)などの最新特急が次々と登場しました。(p.129)


台湾新幹線が日本の新幹線の車両をベースにしたものだということはよく知られているが、タロコ号とプユマ号もそうだったとは知らなかった。ただ、これらの特急列車が比較的取りあげられる理由が分かった気がする。


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藤田賀久 『スタディーツアーガイド1 台湾へ行こう! 見えてくる日本と見えなかった台湾』(その1)

 こうした古い建物に歴史的価値を認めて保存する動きがあります。その旗振り役は台北市文化局であり、2012年に「老房子文化運動」(「老房子」は古い家屋のこと)をはじめました。修復費用の補助や税金負担を軽減し、さらには民間企業と組んでリノベートする試みです。その結果、台北市内では古民家などが美しく蘇り、新たな観光資源となっています。(p.15)


ここ数年、台湾がメディアで紹介される際や各種ガイドブックなどを見ても、このようにリノベーションされた建物を活用した店舗が増えていると感じるし、迪化街なども様変わりしつつあるとも聞いているが、地方政府が旗振り役をしていたとは興味深い。



台北市内には次の2館が二二八事件を取り上げている。いずれも、事件の概要を丁寧に説明している。また、犠牲者の写真と詳細な経歴もあり、多くが日本留学を経験した高学歴エリートであったことに気づく。(p.46)


当時の台湾人から見て、大陸から来た中国人たちの知的レベルの低さが指摘されることがあるが、逆に大陸から来た支配層にとって、自分たち以上に教養を身につけている台湾人の存在は統治するに当たって脅威と感じられたであろう。そうした支配層の保身の感覚と、228事件で高学歴エリートが狙われたことは関係しているであろう。



中国人を観察してあることに気づいた。蒋介石像が緑豊かな公園に美しく陳列されているのを見て、「台湾人は蒋介石を今も敬愛している」と受け止めているようなのである。台湾社会で居場所がなくなったとは思いもよらないのであろう。
 公園の訪問者は中国人観光客だけではなかった。私が見たのは車いすに乗る老人であった。孫娘と公園をゆっくり一周して蒋介石像を静かに眺めていた。聞けば大陸出身の老兵であった。国共内戦を戦い、蒋介石とともに台湾に逃れ、大陸奪還の日を夢見たのである。しかしその日は来なかった。台湾に生まれた孫娘は、もはや大陸を故郷とは思っていないとのことであった。(p.53)


桃園にある両蒋文化園区についての叙述。台湾が民主化したことによって、それ以前の国民党の独裁に対する批判が自由に言えるようになってきた。そうした状況の変化により、かつて台湾中にあった蒋介石の像が急速に姿を消した。この公園はそうした行き場のなくなった蒋介石像を集めて芸術作品として陳列しているという。

大陸の中国人に対する観察から見て取れることは、中国の人々は台湾の歴史を恐らくあまり知らないのだろう、ということである。もし知っていたら、台湾に対する見方は大きく変わるであろう。

もう一点は、外省人の第一世代と孫娘の世代についてである。直接大陸から来た人にとっては、大陸は故郷であり、自らを中国人と思っても不思議はない。しかし、孫娘の代にしてみれば、行ったこともない土地でしかない。アイデンティティも当然、台湾人へと傾くだろう。



 本来は土の中に埋められるべき棺が部屋に安置されているのは、蒋介石が「大陸奪回後に南京の紫金山に埋葬してほしい」と息子の蒋経国に言い遺したからである。つまり、現在は仮置きの状態である。中国人観光客は「蒋介石は中国人だから祖国の土に還りたいのだ」と納得していた。これを聞いた台湾人は「蒋介石は中国人だから台湾の土にはなりたくないのだ」とつぶやいていた。(p.54)


中国人と台湾人の捉え方の違いが興味深い。台湾人の側の論理では、台湾は中国ではないということが含意されていることに留意しておきたい。


菊池一隆 『日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊 台湾原住民の太平洋戦争』

 実際のところ、台湾原住民の高砂義勇隊参加は、自ら志願したものだったのか、それとも強制だったのか。これは複雑な問題である。
 2006年8月13日に筆者が各板山タイヤル族のポート・タンガ(中国名は林昭光)にインタビューした際、彼は、志願は強制ではなく、部族として自ら積極的かつ主体的に決定したものだと強調した。タイヤル族では、頭目が「太陽あって水あれば」と言いだした時、すべてが決定されるという。「太陽」と「水」とは「人間の生命」を意味し、この言葉によって部族が一つに団結した。高砂義勇隊を結成した時もそうであった。
 ――あの時もタイヤル族の頭目が「太陽あって水あれば」と言った。だから、タイヤル族は一致団結して高砂義勇隊に志願した。日本によって強制されたものでは決してない。自ら志願したのだ。中国大陸の連中や国共内戦に敗れた蒋介石・国民党とともにやって来た外省人は「強制された」と言っているが、それは間違いだ。
 このように頭目の役割は大きく、原住民を円滑に一つにまとめあげたのは頭目だと言っているのである。しかし前述したように「警察には逆らえなかった」という証言もある。この双方の事例から考察するに、警察による「志願」を名目とする強制はあったが、それを円滑に進めるには各頭目の同意と協力が不可欠だったということであろう。ただしポート・タンガ自身も、「時期によって異なる。後には強制的なものに変わっていった」と付け加えている。(p.54-55)


台湾原住民が高砂義勇隊などに参加していくのが強制だったのか自らの志願だったのか?この問題については、志願を強制する力が働いていたであろうとは思っていたが、この叙述によってかなり具体的にイメージできるようになった。



台湾原住民が高砂義勇隊に積極的に志願した動機の一つは、差別解消にあった。(p.55)


このことについては、本書では何度も繰り返し述べられるが、確かに極めて重要なポイントである。



 当時、台湾総督府理蕃課では、東南アジアの日本軍占領地への高砂族移住を検討し、軍当局に了解を求めようとしていた。これは、明治時代に北海道、樺太に布かれた屯田兵制度とほぼ同様な形態で、熱帯に抵抗力が強く、豊富な経験を持つ高砂族青年(家族を含む)約1万人を選抜して、農作物栽培に従事せしめ、かつ有事の場合は銃をもとらせる、将来は彼らを南方に永住させる、とする。台湾原住民に、農業生産とともに、日本軍による南洋支配の先兵としての役割をp担わせようと計画していたといえよう。(p.83)


北海道の屯田兵たちがかなり悲惨な経験をした者が多かったことを考えると、また、満州に満蒙開拓団のような形で行った者たちのことなども考えると、まともに実施されなくてよかったと言えよう。同じようなことが繰り返されるということは、支配者側にとってみれば、それなりにうまくいったと認識されているということなのだろうか?



 ここで看過できないのが、夫、婚約者、恋人が南洋戦場で命を賭けて戦っていた時、残された女たちの一部が近隣に駐屯していた台湾守備隊の慰安婦にされていたという事実である。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 これを調査した柳本通彦が、「なぜ慰安婦のような仕事をしたのか」と問うと、彼女らは「あの時は総動員でしょう?」と答えたという。学校に通っていた時、日本人教師から「女も総動員」と教えられたという。こうして、原住民は老若男女が日本の「聖戦」に総動員された。柳本は、台湾女性の慰安婦化は44年末、一連の「先住民女性調達計画が台湾島内で実施」され、行政(総督府)・軍・警察が三位一体となって進めた「秘密計画」であると断言する。(p.88-93)


このような政策を実施する政府や軍はクズだと言わざるを得ない。



 日本敗戦時に集団自決を含めて、日本兵と高砂義勇隊員との行動形態に違いがあったことが分かる。台湾原住民は「日本人・日本兵」になりきっていたとはいうものの、最後の状況での対処法は異なっていた。「日本人であること」から解放されて、本来の台湾原住民の姿に戻ったともいえそうだ。(p.179)


これは興味深い指摘。



 元高砂義勇隊員などの一部が、今度は国民政府軍の一員として中国共産党軍(以下、中共軍)と戦わざるを得なくなるという事態が起こった。この事実は見逃すことのできない重要問題である。
 ……(中略)……。ごく少数の技術陣を除けば、絶対多数は脅迫、強制によって、あるいは騙して、連れていかれた者である。なぜなら228事件(台湾を日本植民地から解放したはずの蒋介石・国民政府が強制的支配をしようとし、それに反発した台湾民衆が、47年2月、台湾全土で反抗した。国民政府はそれを徹底的に鎮圧、数万人の台湾民衆が殺害されたという大事件)後、台湾民衆は蒋介石・国民政府を信用しておらず、入隊を願う者はいなかったからである。(p.191-192)

差別される側、支配される側、数が少なく弱い立場に置かれる側、こういったものとして台湾原住民は扱われ続けたことが見て取れる。その上、戦闘能力にも長けていたのでなおさら便利に「使われた」ということか。


胎中千鶴 『歴史総合パートナーズ6 あなたとともに知る台湾――近現代の歴史と社会――』

統治者が近代化政策を進め、教育水準が上がれば上がるほど、それによって誕生した知識人たちは、自身の主体性とアイデンティティを自覚し、統治者からの自立や自治の道をみいだそうとするのです。(p.40-41)


台湾を考えるに当たって、日本の植民地であったことをどのように位置付ければよいか。知れば知るほど難しく感じている。日本統治期に近代化が進んだことは確かであり、これにはその地に住んでいる人にとってもメリットはあったとは一応言い得る。ただ、植民地支配には当然、様々なレベルで差別が存在していたことも事実であり、そのような状況の中では、当然、ここで指摘されているようなある種の矛盾というかジレンマが生じる。



 実は総督府は、台湾の山林地域にある貴重な資源を手に入れようとしていたのです。それは主に、樟脳とヒノキでした。……(中略)……。これらの資源を山奥から切り出し、ふもとまで運搬するには、広い道路と多くの労働力が必要です。だから総督府は、原住民居住地区を管理し、そこに住む人々に労役を課したのでした。(p.44)


台湾総督府が台湾原住民を厳しく支配・管理した理由。納得。



 台湾は、実は国民党政府の独裁政治が続いた1950年代から80年代にかけて、順調な経済成長を遂げています。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 これについて台湾の歴史学者、何義麟さんは、「日本の研究者は植民地時代の遺産を、米国研究者は同国の経済援助を」「強調する傾向」があると述べています。日本人もアメリカ人も、どこかで「台湾の成功は自分の手柄」と思いたいのかもしれませんね。(p.68-69)


この指摘は的を射ていると思われる。



たとえば、1977年に台湾を訪れた外国人は93万人余、日本人はその60%を占めており、多くが観光客でした。
 ただ、現在と異なるのは、当時の日本人客の大半が買春目的の観光だったということです。(p.72)


潮目が変わったのはいつ頃だったのだろうか。感覚的には90年代になると変化が傍目にも見えるようになってきていたようには思われるが、90年代も初期の頃にはまだ何となくかつての旅行目的のイメージが残っていたようにも思う。



 しかし一方で、この日本人たちは買春以外の台湾にほとんど興味をもちません。車窓から農村の風景をみても日本の故郷になぞらえるだけ。中国語を聞いても日本語の美しさとくらべて軽んじるだけ。どんなに表面的には礼儀正しくても、台湾という場所への植民地主義的なまなざしは隠しようがありませんでした。
 台湾への優越感と無関心。この小説における黄春明さんの視線は、買春という下品な行為より、その向こうにみえる日本人のメンタリティそのものに注がれていると私は思います。(p.74)


こうした態度自体は、現在においても完全になくなったわけではないように思われる。

旅行に限らず、例えば、日本に来た外国人に対して何をしに日本に来たのかを訪ねる番組や海外で有名な日本人は誰かといったことをランキングするような番組などがあるが、これらの番組は国際的な要素があるように見えるが、私見では、全くそんなことはない。(もちろん、これらの番組から諸外国の状況などについての洞察を得ることは可能である。)少なくとも、グローバルな規模での視野はなく、内向きのナショナリズムを刺激するようなものでしかない。これらの番組では、その外国人の出身地についての理解を深める他所は全くないように思われるし、有名な日本人を問題にするのであれば、われわれは彼らの国の有名人としてだれを知っているだろうか?といったことも自問する必要がある。



つまり、日本統治期の近代化は、日本人が一方的に与えたものではなく、台湾人が主体的に受け入れたものだという歴史観です。(p.85-86)


明治期の日本の歴史について、西洋の文明を日本側が取捨選択して取り入れたと考える歴史観と同じことが、台湾の歴史についても言える。しかし、「日本の側」から見ると、途端に台湾史をそのようには見ずに、別の見方をしている。このバイアスに気づいていないことが問題だろう。



灌漑施設の建設は、中南部に米とサトウキビの一大生産地をつくり、日本の食料補給地にしたかったからにほかなりません。
 それでも現実には、施設の完成によって恩恵を受けた数多くの農民たちがいました。そして彼らは戦後も給排水路とダムを大切に維持・管理し、現在まで利用しています。完成してからすでに88年。近代的な施設をつくったのは日本人ですが、それを運用し、戦後70年以上にもわたってメンテナンスをしてきたのは台湾の人々でした。嘉南の人たちにとってみれば、八田與一の功績も含めて、すべてが自分の住む土地の記憶だと胸を張るのは自然なことです。
 しかし日本人は、つい日本が支配した時代の歴史だけを切り取って台湾をみてしまいがちです。八田與一を台湾人が評価すると、それを植民地支配の歴史とイコールととらえ、日本が「感謝」されていると勘違いする人もいます。おそらくその人たちは、「日本史」の文脈で台湾を眺めているのでしょう。その態度の向こうに、台湾の戦後史を軽んじる意識が透けてみるのは私だけでしょうか。(p.86-87)


八田與一が台湾で評価されると日本が感謝されていると勘違いしている人たちというのは、日本の右派で台湾を論じている人たちに非常に多い。日本における八田與一認識や台湾認識は、ある意味で、彼らによって曇らされている



 というのも、青田街には戦前は確かに日本人が住んでいたのですが、戦後は大陸から来た外省人が多く居住しました。だからこの場所は、外省人の暮らしとも深く結びついた街ともいえるのです。台湾人が日本家屋をみたとき、誰もが日本や日本人を連想するとは限らないことが、この例からもわかります。(p.88)


日本風の建築を見ると、日本人は日本を連想し、日本文化と関連付けて理解しようとするが、台湾人から見ると、そのような見方は必ずしも成り立たない。この点は歴史を見る上で非常に重要な見方だろう。



台湾を理解したいと思うなら、彼らが否応なく向き合わざる得なかった「日本」と、そこから主体的に受け入れた「日本」があることを、まず想像してみることが必要ではないでしょうか。(p.88)


この見方は日本と台湾の関係を考える上で非常に重要と思われる。



 また、多文化主義そのものが、単なる政治的な戦略にすぎない、ととらえる意見もあります。つまり中華人民共和国との違いを際立たせ、「台湾らしさ」とはイコール「自由と民主」であると世界に主張するための、いわば独立をめざす動きの一端であるという見方です。(p.94)


台湾は日本よりもリベラルな思想が具現化している度合いが高いと私は考えているが、確かに、ここで指摘されているような動機から推進しようという力が多少なりともあるからこそ日本や他のアジア諸国よりも比較的スムーズに進んでいるというのはあるのかもしれない。


黒川高明 『ガラスの技術史』(その2)

 初期のステンドグラスには、鮮明な黄色や無色ガラスをつくることは、炉の雰囲気の微妙なコントロールの難しさと、ブナの木灰からのマンガンと鉄の含有により大変難しかったのです。この技術的な問題のためロマネスク時代の教会と大聖堂には黄色や無色ガラスは少ないのです。しかしは、銅を添加することによって容易につくることができました。
 この時期のステンドグラス(シャルトル、サンドニ、ルマン、ポアティエ)に見られる代表的な色は、色数も少なく容易につくれる赤と青と緑で、色合いも鮮明なものです。それだけに赤と緑、橙黄と青といった対比色を組み合わせた作風は、簡明にして雄渾な印象を醸し出します。コバルトブルーは、地中海地域で使われていましたが、この時代の北ヨーロッパにはあまり-使われていません。当時酸化コバルトはダマスカス顔料といわれ、多額の費用をかけてレバントから入手していて、大変貴重なものでした。
 黄色や無色ガラスの製造は、13世紀後半には新しい技術が開発され容易になりました。
 無色ガラスは、砂の精製による金属酸化物の除去と、マンガン(パイロリュウサイト鉱MnO2)の添加による鉄分の消色によりつくられるようになりました。ヨーロッパ中世のガラス技術はローマの技法を受け継いだもので、ソーダベースのガラスにマンガンを加え消色することを知っていました。このように13世紀のガラスは、原料の精製、炉での清澄、燃焼方法の改善により以前のものより良い品質になりました。
 黄色ガラスは、イスラムガラスで開発されたシルバーステイン技法を導入してつくることができるようになりました。(p.203-205)


ステンドグラスのデザインもこうした技術による影響を受けている。単に審美的な見方や図像学的な見方だけでなく、こうした技術的な見方も加えて見ると、ステンドグラスの見方にはさらに奥行きが出てきそうに思う。



 19世紀は多くの教会が建設され、ステンドグラスの再復興の時代といわれています。板ガラスの市場は拡大を続け、1870年代の後半には、ハートレイ社のロール法でつくられた色ガラスのカセドラルガラスが、教会向けに大量につくられるようになりました。(p.227)


ステンドグラスの再復興の時代はゴシックリバイバルの時代と重なっているということは当然だが一応触れておこう。



 紀元前1世紀のある時に、芯を保持するために用いられていた硬い金属棒が長い中空管に置き替わり、吹きガラスが発明されました。(p.249-250)


この一文は、ガラス製造に携わったことがない私にとって、コアテクニックから吹きガラスが生まれた理由というか経路というようなものを直観的に非常に説得力をもって理解させてくれた。ある意味、この一文からの知識を得ただけでも、この本を読む意味があったと思う。



1686年より少し前にねじコルク栓が採用された後、しっかり栓のできるコルクが使われるようになりました。このことは一見重要な発明ではないように思われますが、この発明によってワインをボトルの中で熟成させたり、シャンパン法で発泡ワインをつくる際にボトルを水平にねかせて貯蔵させたりすることができるようになりました。(p.253)


コルク栓も意外と調べてみると面白そうな対象だったりする。


黒川高明 『ガラスの技術史』(その1)

 コアガラス容器をつくるため、溶融ルツボからガラスを巻き取るのに鉄の棒を使用していました。作業しやすくするためとガラスの温度を下げないために、軽い中空のパイプが使われるようになり、これから宙吹きに発展しました。(p.10)


この叙述のおかげで、コアテクニックから吹きガラスの技法が登場する筋道が理解できた。



 ステイニングは、ガラスに着色する意味で、銀または銅の金属イオンをガラス内部に入れ込んで着色する方法です。……(中略)……。黄色を出すシルバーステイニングは、イスラムガラスの色彩を豊かにしました。この技法は中世ヨーロッパのステンドグラス(初期のステンドグラスは黄色のない、青と赤色が主体の単純なものでした)に導入されました。また後の19世紀にシルバーステイニングとカッパーステイニングが、ボヘミアでガラス装飾に盛んに使われました。(p.22-23)


ステンドグラスは美的な観点から見がちだが、技術の側面から見てみるのも意外と面白そうである。



 17世紀になると、国際的な様式を主導してきたヴェネツィアのヨーロッパのガラス工場におよぼす影響力が弱まり、ガラス製作にさまざまな国民的様式が現れるようになりました。(p.31)


技術の流出というか一種の争奪戦のようなものがあったということはしばしば語られるが、国民国家の成立期と時期を同じくしている点は興味深い。



 18世紀から19世紀にかけて化学が発展してガラスの製造に大きな影響を与えました。(p.103)


このひと言からは、元素についての知識、特に化学反応についての知識などが確立してくることと関係が深いことがすぐに思い浮かぶが、それ以上の関係があったらしいことが本書から垣間見える。



しかし帝国の崩壊後北部ヨーロッパと南部ヨーロッパとでは製造法が異なってきました。これは北部での地中海沿岸からのソーダの入手が困難となり、内陸の植物の灰を使用するようになったことから生じました。この南北の違いは窯の形式にまで影響を及ぼしました。南部の窯は円形をしており、北部の窯は長方形をしています。(p.116)


ローマ帝国の崩壊はアルプス以北と地中海世界とを様々な分野において切り分ける(これらの世界を別々のシステムとして分離していく)が、ここにもそれが見られる。



光学の分野で有名な人物は、イブン・アル・ハイサムまたの名アルハゼン(965-1039)です。
 彼はバスラに生まれ、カイロに「知恵の家」を建てたファーティマ朝のカリフのアル・ハーキムの治下においてエジプトで活躍し、カイロで死にました。天文学、数学にも通じ、とくに光学の方面で優れた業績を残しました。この分野はアラビアが科学の世界に貢献した最も重要な学問分野でした。彼は視覚器官としての目の構造をくわしく論じ、ガラス体、角膜、網膜などの西洋名は全て彼の『光学の書』に由来するといいます。(p.153-154)


アラビアの学問はギリシアやローマの伝統を継承し発展させたことは周知のことだが、光学においても貢献は大きかったようだ。何となく、光学というといわゆる科学革命の時代の展開(ニュートンの『光学』とか)が想起されるが、アラビアの学問もかなり重要な発見をしていたと理解しておくことは重要だろう。



近眼用の凹レンズを初めて述べたのは、1450年のクサのニコラウス(1401-64)ですが、16世紀中頃までは一般的な使用には至りませんでした。(p.155)


ニコラウス・クザーヌスと言えば、神学的な哲学やある種の宇宙論(地動説などを含む)を連想してしまうので、近眼用の凹レンズというと意外な感じがした。が、確かに言われてみれば、宇宙についての議論と光についての議論は確かに関係が深そうではある。