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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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宮本みち子 『若者が《社会的弱者》に転落する』

これらの「やりたいこと」という論理の帰結を久木元は次のように分析する。
 やりたいことは結局、自分の内部にしか発見できない。しかもその認定基準は厳しくなる傾向があって、ますます見つけにくくなってしまう。しかし社会は「やりたいこと」の選択を彼らに許す。しかし、「その選択に社会が責任を負わないしくみになっている」。その結果、「《やりたいこと》という《心理主義化》は、容易にシンプルな自己責任の論理に転嫁しうる」〔久木元、2001〕。
 選択の自由は与えられているが、現実に利用できる資源には格差がある。そのため選択の結果は、それらの格差を反映したものになることも明らかである。先述したライフコースの個人化と問題解決の私化という傾向と重なる指摘である。
 さらにまた、「何がやりたいことなのか」を自問自答するなかからは、やりたいものをみつけることはむずかしい。自分の内なる世界から出て、実際に体を動かすことを通してこそ、やりたいことはみつかるはずだ。社会から隔絶された家庭と学校に閉じ込められた状態で、やりたいことを見つけようとする矛盾
 「やりたいこと」は実はかならずしも「できること」ではないし、できることに比べ「価値あること」ともかぎらない。だが、親も子もその呪縛にとらわれ、結果として現実逃避が続いていることに、問題の根があるのではなかろうか。(p.80-81)


主に90年代から00年代にみられたフリーターをめぐる言説についての分析だが、妥当である。「やりたいこと」という個人の欲求に問題を矮小化することは、社会全体として若者の働く環境の整備という課題を人びとの視野に入らないように妨害するものであった。そして、若者やその家族がこの「やりたいこと」の論理を当然のものとして受け入れることによって、社会が果たすべき責任が等閑視され、フリーターという選択は個人の選択であり個人の責任において行っていることとされた。

後段の指摘も全く同意見であり、現在でも進学や就職の際に同じような論理に囚われている者はそれなりに存在していると思われる。社会から隔絶された環境に置かれながら、「やりたいこと」を見つけ出すよう強いられる学生。この矛盾した状況を改善することは社会にとってもこれから進学や就職しようとする若者にとっても必要であると思う。



「家庭の教育力は昔より低下した」と、多くの人が信じているのだ。ところが子どものしつけの変遷を研究してきた広田照幸氏によれば、実は、現代の親のほうが子どものしつけに対する自覚はずっと高く熱心であるという(広田照幸著 『日本人のしつけは衰退したか』 講談社現代新書)。
 戦前から高度成長期にいたるまで、農村社会では、子どもの自然の成長や自覚を期待する放任的なしつけが一般的であった。……(中略)……。
 戦前から戦後のある時期まで、教育の課題とは、子どもに関心を払うことを親に勧め、子どもの教育にもっと熱心になるよう啓蒙することだった。大正時代、都市部のサラリーマンやインテリ層に登場した「教育する家族」、つまり、子どもの教育が主要な目標となる家族が、高度経済成長期を経て、全国・全階層へと広まり、今では多数派となっている。つまり、家庭の教育力は低下したのではなく、事実は逆だったのである。
 ……(中略)……。
 現代の家庭には、子どもが一人前になるために必要な多様な経験をする条件がない。……(中略)……。よその大人たちの影響を受けなくなったことは、子どもの環境変化を考える時、たいへん大きなポイントだと思う。
 ……(中略)……。
 低下したのは家庭の教育力ではなく、社会と家庭を支えてきたトータルな力のほうなのではないだろうか。(p.108-114)


概ね言われていることには同感である。家庭の教育力は低下したのではないという言い方は、若干の問題がある。このことを言う根拠として述べられているのは、家庭の教育力ではなく、家庭の教育への関心が高まっているということである。関心が高まっていることは必ずしも教育する力が高まっていることは一致しない。本書が言うように、現代の家庭には多様な経験をする条件がないのであれば、家庭の教育への関心は高まったが教育をするための条件は劣化したといったところであろう。

問題は、その責任は必ずしも家庭にあるわけではなく、社会の変動が要因となっているということを明確にしておくことだろう。家庭の教育力が低下したという類の、大雑把で雑な判断をしようとする人というのは、そのことを言うことによって、各家庭の責任にしようとしている。あるいは、各家庭の責任にした上で、各家庭の努力には期待できないので政府などの権力が道徳教育などに介入すべきだといった類のことを言おうとしていることが多いのではないか。本書の指摘している議論はこうした類のトンデモ言説に対して、それとは異なるあり方を事実に基づいて提示する方向性のものであるという点で共感できるものである。



 子どもたちは、家庭でも地域社会でも、何の役割も責任も課されない。だから、いつどうやって親離れをし、自立するかという道筋が見えない。(p.120)


既に別のところで「社会から隔絶された家庭と学校に閉じ込められた状態で、やりたいことを見つけようとする矛盾」といったフレーズで指摘されていたことと同じだが、こちらの言い方の方が問題を解決に向けるヒントを多く含んでいる。つまり、子どもたちに社会の中での役割や責任を与えることによって、子どもの自立への道筋が見えてくるのではないか、と。



「私、四年制大学に行く。このまま就職するっていってもどうせアルバイトしかないでしょ?だったら大学でバイトした方が楽じゃん。それに親も四大の授業料出してくれるって言ってるし」
 彼女たちは、今という時代を直感的にわかっているのだ。大学は無業という暗い現実からの最終避難所となりつつあること、学校で学ぶことの積極的な意味など初めからないこと、学生と社会人の境界が薄くなっていることを。そして、いくらがんばっても先が見えないから、ほどほどのところで今を楽しく暮らす方がトクだという諦めがあるのだ。(p.155)


本書が出てから15年以上経ち、団塊世代の退職により就職難の時代が終わり、人手不足の時代が到来しているため、大学進学の意味は変わってきていると思われるが、それでも無業からの避難所としての大学という性格は現在でも残っているように思われる。



 親子が同居する期間が長くなっている弊害を克服するためには、子どもをときどき親元から引き離すしくみが有効であろう。友人同士の泊まりあい、田舎の祖父母の家への一人旅、夏休みのホームステイ、国内外留学、寮のある高校、合宿、寄宿舎、泊り込みの農業体験等、公私さまざまな「家から離れる」工夫が必要だ。(p.169)


この考え方は非常に参考になる。子供は高校生くらいになったら留学させるのが良いかも知れない。


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由水常雄 『ガラス工芸――歴史と技法――』

 たとえば、無色透明の窓ガラスやショー・ウィンドウのガラスを透してみる世界は、自分の立っている世界とは隔絶した別の世界であるような幻視性がある。そしてそのことが、われわれの空想を大いにかきたてる。科学的にこれを説明すると、無色透明のガラスは、光を最大限で92パーセント透過して、8パーセントを、反射その他の理由で拡散する。だから無色透明のガラスを透して見たものでも、約8パーセントほど見にくくなっていることになる。その見にくくなって不明の部分は、人間の頭脳が想像によって補正して見ているのである。そして、この想像による補正作用が、幻想性を生み出すのである。(p.5)


この説明が妥当なのかどうか、やや疑問は感じるが面白い説明だとは思う。ガラスに対してわれわれが持っている幻想的なイメージを何となくそれっぽく説明しているように思うからである。

ちなみに、疑問に思うというのは、科学的に説明するには単に物理学的な説明だけでなく、脳科学や心理学の知見を活用することが必要であると思われるからである。



イスラーム教の諸領主はもちろんのこと、ヨーロッパの諸君主たちからも、それは垂涎の的となっていた。今日、ヨーロッパの寺院や古い宝物のコレクションのなかに、イスラーム・グラスが金銀の荘厳具をつけた姿で、大切に保存されているのをみることができるが、それらは当時イスラーム商人によって、ヨーロッパにもたらされたほんの数少ない遺存例にすぎない。(p.24)


イスラーム・グラスに関する説明。ガラスに限らず、様々な文化についてここで語られていることは当てはまる。



また、13世紀頃より、十字軍の活動を契機にして興隆してきたヴェネチア共和国によって、イスラーム・グラスの技法が積極的に導入されて、ヴェネチアにおいて、西側世界では独占的に製作が行われるようになり、新たな発展段階に突入するのである。
 このローマン・グラスから、ヴェネチアン・グラスまでの空白の時代を、イスラーム・グラスは着実に受け継ぐとともに、それをさらに飛躍発展させて、西側へと受け渡していったのである。西側だけではない。東方へも技術を伝えて、中国人にガラスの製法や技法を教え、それがやがて、清朝のいわゆる乾隆ガラスとなって開花する種子となるのである。
 イスラーム・グラスは、このように、工芸史上、もっとも重要な貢献を果たし、技術的にも、エナメル・鍍金・レリーフ・カット・モザイクなど、新しい分野の開拓を行いつつ大発展を遂げた。いわば今日われわれが使っている大部分の技法を開発していたのであるが、わが国をはじめ諸外国でも、あまりその重要な意義が認識されていない。(p.25)


この叙述もガラスに限らずイスラーム文化全般において大体同じようなことが言える。



この島全体が、国家財政を潤すために働かされる永世強制収容所であり、奴隷島であったといってもいい。華やかなヴェネチアン・グラスの背景には、こうした過酷な犠牲を強制されていた人々がいたのである。(p.42)


有名なムラノ島についての叙述。この側面はマスメディアなどではあまり語られない側面であり、押さえておきたい。



そして、ちょうどヨーロッパ社会におけるイギリスの政治・経済的な優位性が確立して、こうしたガラス工芸の水準の高さをしっかりと支えていたこともあって、いわゆるイギリスのこうしたテーブル・グラスは、ヨーロッパ社交界の必需品となり、ガラス食器の形式をほとんど決定づけていくのである。
 今日われわれが使っているガラス類や、ガラス食器の原型は、ほぼ18世紀に、イギリスのガラス界が作りあげた原型をもとにしているといっていい。(p.63)


この点は、英語が現在の国際的な共通語となっていることと同じメカニズムが働いている。グラスの形にまでこうした経路依存性があるというのは興味深い。



19世紀に入ると、彫りの深いカットを施したテーブル・グラスが、イギリスのガラス工芸の主流となる。わが国の薩摩切子や江戸切子は、この時代のイギリスのガラス工芸から影響を受けたものである。(p.64)


交流を始めた当時の流行が入ってきて、その流行が本国で廃れた後も、影響を受け側の方ではある種の伝統として残り続けるというのもガラスに限らず様々な文化形象で見られる現象であり興味深い。



 中国においては、戦国時代のこうしたトンボ玉が作られた以前の段階には、特殊なトンボ玉への発展を示すようなガラス玉類の出土はなく、ガラスの出現は(微少な一、二の例を除いて)、この時が最初なのである。そしてその最初のガラスの形式が、こうした西アジア出土のトンボ玉と酷似しているトンボ玉なのである。しかも中国の戦国時代は、急速に西方文物を吸収した時代であり、殷代より伝統のあった青銅器の形にまでも、新しい西方的意匠が積極的に採り入れられていたのである。いわば戦国時代は、外国文化を積極的に吸収して、中国古代文化に活を入れて、大いなる飛躍をみせた時期であったといってもいい。これまで言われていたように、漢文化は中国古代文化の一つの頂点であったのではなくて、むしろ戦国の文化的高まりが、漢民族的に修正され、様式化された、いわばマンネリ化された文化であったとみるべきであろう。そのような文化摂取の時代に出現したこうしたトンボ玉は、素材の製作技術はもちろんのこと、その形式も技法も、外来のものであったと考えるべきである。(p.77)


トンボ玉の由来についての考察であるが、中国の古代文明論にまで議論が展開しているのが興味深い。また、漢代の文化に対する見直しを迫っている点も傾聴に値する。



 ガラス器類は、吹いて作ると、わずか数分間で瓶や鉢や壺や皿ができる。そして冷えて常温になるまでには、十数秒もたてば十分であろう。それは完成品と何ら変るところはない。しかしそのままでは、それこそ程大昌の記述しているように「手を隨れるによって破裂する」のである。つまりそのままでは、ガラス器としてはまったく使いものにならないのである。これが舎利容器のような薄くて、高さがせいぜい4、5センチのものならば、あるいはそのままでも使用に耐えるものもできるが、それ以上のものや、それ以下のものでも厚手のガラスは、すべてそのまま使うと、いつかは破裂してしまうのである。つまり、ガラスは急速に冷却するので、表面と内部との間に激しい温度差が生じて、それがガラスの中に歪みとなって残っている。したがって、ほんのちょっとしたショックによっても、このバランスがくずれて破裂を起こすのである。こうした歪みを残したままのガラス器は、まったく使用に耐えない。使えるようにするためには、この歪みを取り去ってやる必要がある。その作業が徐冷(なまし)である。作ったガラス器類を、一定温度に引きあげて、それの表面と内部の温度差ができないように静かにゆっくりと冷ましてやるのである。ガラスが作られはじめた大昔から、ガラスの窯には、必ずガラスを熔かす窯とこの徐冷窯がついているのは、このためなのだ。おそらく中国におけるガラス窯は、この重要な徐冷窯の部分が欠如していたのではないだろうか。そしてその流れを汲んだ朝鮮や日本の古代ガラス窯についても、それと同じことが言えるのである。(p.87-88)


ガラス細工を作った後、ゆっくりと温度を下げるため作品ができるまで1日とか2日くらい待たされることになるが、その理由が初めて分かった。


荻上チキ 『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』

社交性が高く、周りの仲間を味方につけるスキルのある者が、特定のターゲットを選んで攻撃を促す傾向がある、ということです。(p.53)


なるほど。確かに、周りの人間を味方につけるスキルというのは、自分自身が見聞してきた事例を考えても、いじめの加害者にとっては重要な能力であるように思われる。ただ、特別に高いスキルは必要とされないように思われ、それも重要なポイントなのではないかとも思う。その辺のことを示すデータはないのだろうか?



 このように、時間をかけていじめは育っていく。そのことを踏まえるからこそ、いじめ対策においては、早期発見・早期対応が重要になるわけです。アンケートにおいて「ほとんどいじめがなかった」と答えるクラスでは、先生が生徒と良好な関係を構築しており、それゆえ、いじめに早期対応できている傾向にあります。だからこそ、残酷ないじめの発生率が低く抑えられているのです。
 大きないじめ自殺事件が取り上げられた後に、そのいじめについて様々な調査が行われると、自殺に至るほどの大きないじめに発展する前の段階からいじめが存在していたことが明らかになることがほとんどです。報じられるような大きないじめの背景には、そこまで育ってきた様々ないじめの蓄積があり、それに対処できなかった経緯がある。(p.54-55)


いじめという現象は時間をかけて育っていく。だからこそ、早期発見・早期対応が重要となる。そのためにはもともとの教師と生徒たちとの関係性が良好であることが重要な意味を持つ。論理的に理路整然としかも簡潔に説明しているので、明確な理解が得られる。

今この個所を見直して思うのは、いじめという現象もオートポイエーシスである程度説明できるのではないかということである。



 いじめを理解するためには、「善」「悪」の区別のほかに「アウト」「セーフ」の区別があることを知っておく必要があります。
 いじめは「悪い」ものだけれども、ここまでは「セーフ」。
 いじめは「悪い」ものだけれども、今は「セーフ」。
 と、程度や他人の目線から、どこまでならやっても怒られないかを判断しているのです。(p.128)


善悪のほかに「アウト/セーフ」の区別があるという指摘は、非常に参考になった。善悪で判断すれば悪になることでも、アウトでないことは調子に乗ってやろうとする馬鹿者がいる。


今村寛 『自治体の“台所”事情 “財政が厳しい”ってどういうこと?』(その2)

 先ほど福岡市のこれまでの借金のグラフでみたように、1993年(平成5年)ごろから2004年(平成16年)ごろまでに大量に発行した市債の償還が終わるのは2034年以降です。それまでは公債費は1千億円程度で高止まりすることになります。(p.54)


これは福岡市に限らずほとんどの自治体が同じ状況と思われる。これが事実だとすると、この公債費の累積は自治体の政策の結果なのではなく、中央政府の政策の結果であるとする方が遥かに妥当性があるということが分かるだろう。そして、実際にそうなのだ。



 ここまで「扶助費」「公債費」「人件費」の順に義務的経費の将来見通しを確認してきましたが、このほかに自治体の将来に大きな負担となってくるのが「公共施設」です。先ほど福岡市の借金の状況をご説明した際に、先輩たちがたくさんつくって遺してくれた立派な社会資本、公共施設のことをお話ししましたが、そのたくさんの公共施設が今後自治体の財政に影を落とすことになります。
 ……(中略)……。
 そこで、福岡市では公共施設のアセットマネジメントに力を入れています。計画的に修繕し、壊れる前に予防的な対応を図るアセットマネジメントで施設の長寿命化を図る実行計画を策定しました(図16)。(p.55-57)


この問題は福岡市に限ったことではないし、自治体や行政だけに限ったことではない。高度成長期に急速に整備されてきたインフラが、その耐用年数が近づいてきている。私が特に懸念するのは水道だが、それ以外にも自治体庁舎の老朽化も自治体財政が悪化(硬直化)している状況では対応しきれない課題となってきているのではないか。



図17を見てわかるように、4千億円もの自由に使えるお金がありながら、そのほとんどが「経常的経費」に充てられ、新たな政策を推進する「政策的経費」には10%も充当されていません。
 その「政策的経費」に充当できる一般財源がどんどん減っていく。新たな政策への投資ができなくなる。これが自治体の「お金がない」ということの正体なのです。(p.59)


この事実は財政にある程度の関心を持っている人であれば、誰でも知っているというか気づいてはいることである。ただ、その含意をどれだけ深く理解しているかとなると、怪しくなってくる。本書は、ここで述べられていることの含意を明確に把握できる手助けになるという点にひとつの意義があるように思う。この点は以下のいくつかの引用文の個所などにも明確に出ている。



 講座でよく「どこまで財政健全化すればいいのか」「どういう状態になれば財政健全化が達成できたと言えるのか」という質問をいただきます。
 非常にいい質問です。私は即座に答えます。「財政健全化は目的ではなく手段です。」と。


財政健全化の指標とされるものは確かにいろいろある。財政力指数や経常収支比率などがまず思い浮かぶが、こうした指標を知っていると、むしろこれらの指標がどの程度の数字になればよいのかということで財政健全化を考えてしまいがちである。しかし、それは本当にシンプルで重要なポイント、すなわち「財政健全化は目的ではなく手段である」ことを忘れさせてしまうものである。

このポイントを押さえながら考えるやり方が次の個所で述べられている「ビルド&スクラップ」である。



 まずやらなければいけないこと、重要な取り組みの実施(ビルド)を企て、すでに行っている施策事業がその新たな取り組みよりも優先順位が高いか低いかを判断しながら、これまで正当化されていた既存事業の優先順位を並べ替え、現在の社会環境や時代の要請に応じた順位へと「最適化」する。その結果、廃止縮小(スクラップ)を余儀なくされるものが現れます。これが「ビルド&スクラップ」と呼んでいる財政健全化の手法です。(p.111)


このアイディアは非常にシンプルだが重要なもので、財政健全化とは目的ではなく手段であるということを明確に理解した計画の立て方である。



財政健全化は目的ではなく手法。新しいことをやるために必要な財源を生み出すために行う事務事業の見直しですから、何を新たに取り組むのかが先に論じられるべきであって、見直しありき、予算削減前提で議論してはいけない、という考え方に立つべきだったのです。(p.113)


新自由主義的な立場から財政健全化を論じると、削減ありき、削減こそが目的(削減すればその結果として「効率化」といった目的が達成される)という考えになる。これは誤った考え方である。

ビルド&スクラップはそうした類の発想ではなく、目的論的な思想と相性が良い。


今村寛 『自治体の“台所”事情 “財政が厳しい”ってどういうこと?』(その1)

 福岡市では2005年度(平成17年度)当初予算編成移行、「枠配分予算」という手法を導入しています。これは、あらかじめ推計した翌年度財源を一定のルールで各部局に予算編成前に配分し、その範囲内で自主的、自律的に部局単位の予算原案を作成してもらい、それを財政課が全体で束ねて調整するという仕組みです。(p.26-27)


本書では枠配分予算の実際の運用の苦労がいくらか語られているが、これは財政課がすべての予算を個別に査定するやり方よりは、財政課という限られた人員の部署で庁内全体の状況を把握できるはずがないという欠点があるのに対し、現場に近いところで予算を編成できるという利点があるように思われる。ただ、引用文でも「自主的、自律的」ということが言われているが、このことは裏を返せば、実施する個々の部局に「強い個人」であることを求めるものでもある。様々な負荷にさらされながらも適切な判断を下せる者であることを求められる。自治体には定期的な人事異動があり、十分な適性に欠ける人物が運用することになる可能性も考慮した制度設計が求められるように思われる。



私たちは、先輩方がつくり、残してくれた社会資本のおかげで、豊かな都市生活を送ることができているのです。

 その代わりに「お前も使うんだからお前も払え」と先輩方が遺してくれたのが、市の借金、市債残高です。資産があればその分負債があるのは当たり前。(p.45)


自治体の借金が社会資本整備を基本にしていることが前提されている。妥当な説明。参考になる。
マックス・ウェーバー 『仕事としての学問 仕事としての政治』
「仕事としての学問」より

「事実などはなく、あるのは解釈のみだ」(ニーチェ 『権力への意志』481)という遠近法主義からは、自分にとって都合がいい「事実」しか見ないという傾向が当然出てくる。そうすると、それぞれの立場が自分に有利なエビデンスを持ち出し、相手の「事実」を「捏造」だと言って罵ることになる。客観的な事実よりも感情的な訴えかけのほうが影響力をもちやすい事態を「ポスト真実」と呼ぶならば、こうした状況においてこそ、自分にとって「都合の悪い事実」と向き合え、という政治教育の仕事は重要になる。(p.64-65)



優れた教師は都合の悪い事実を認めることをその弟子に教える、という件についての訳注。「ポストトゥルース」のような用語を使っているあたりが、現代の読者に向けたメッセージとなっている。少し言い方を変えると、ヴェーバーのメッセージは、現代の日本においても届けられるべき内容を持っていることを、この訳注は示している。

私自身、ヴェーバーから学んだことのうち、最も重要なことの一つはこのことだったと思っている。なお、もう一つ同じくらい重要なのは「職業としての政治」の方で強調されることになる「距離の感覚」であった。



「仕事としての政治」より

 政治が「導く」ないし「リードする」活動だというのは、あまりに自明だと思われるかもしれない。しかし、ミシェル・フーコー(Michel Foucault)(1926-84年)は、1977-78年度のコレージュ・ド・フランス講義において、古代ギリシアの語彙には基本的に「牧者(berger;Hirte)」のメタファーがないと指摘している。牧者の「導き(conduite;Führung)」(フーコーの訳語では「操行」という訳語が用いられることが多い)は、17世紀末まではほとんど見られず、「キリスト教的司牧が西洋社会に導入した根本的な要素の一つ」だと述べられている(ミシェル・フーコー『安全・領土・人口――コレージュ・ド・フランス講義 1977-1978年度』 高桑和巳訳、筑摩書房、2007年、239頁)。リーダーシップの強弱でしか政治を語れないとすれば、それは政治概念の貧困化ということになるかもしれない。(p.91-92)



講演冒頭の辺りで政治についての概念を規定しようとしている箇所への訳注。ヴェーバーの政治や権力の概念に対して、もう少し現代的な概念を知りながら読むべきだというような訳者からの示唆が感じられる。

なお、リーダーシップの強弱でしか政治を語れないことは政治概念の貧困化だという指摘は、多くの人々のリーダー待望論(願望)とポピュリストの登場という構図が世界的にみられる(ヴェーバーの時代にもこれに似たところがあったと思われる)ことを踏まえてのものであろう。



 では、このシステム全体は、どのような効果を生んだのでしょうか。今日、イギリスの議員は二、三人の閣僚(と少しの一匹狼)を例外として、通常の場合、よく規律化された票以外のなにものでもありません。ドイツの帝国議会では、せめて自分の席の机で私的なメールを片づけることで、お国のために活動しているふりをするのが常でした。この手のジェスチャーは、イギリスでは要求されもしません。議会のメンバーがしなければならないのは投票だけで、党を裏切らなければよいのです。内閣、あるいは野党のリーダーが命令するのに応じて、それをするように院内総務から呼び出されれば、議員のメンバーは顔を出さなければなりません。一人の強力なリーダーがいる場合、全国のコーカス・マシーンに至っては、ほとんど主義をもたず、リーダーの手に完全に掌握されています。したがって、こうして議会の上に君臨するのは、事実上の人民投票的な独裁者です。この独裁者は「マシーン」を介して大衆を自分の後ろに従える。そして、この独裁者にとって、議員などは彼の支配下にある政治的なサラリーマンにすぎなくなります。(p.160-161)



『政治論集』でコメントした箇所と全く同じ個所。つけるべきコメントも基本的に同じ。

訳文について一言述べると、本書は野口雅弘による新しい訳だが、私としては古い訳の方が読んだものが記憶に残るように思う。今回の訳は、言葉の選び方は現代の若者に向けていろいろ考えているように見えるが、読んでみると(少なくとも私にとっては)何となく回りくどいというか、意味内容が頭の中にスッと入ってこない感じがある。講演なんてむしろそんなもんだという見方もあるかも知れないが、こうした種類の本を読むことの意味を考えたとき、やはり著者が考えている意味内容が読者に何らかの形で伝わることが重要であることを考えると、読んですぐ頭に入る方がいい。



ところが、政治家の仕事の聖なる精神に対する罪が始まるのは、もっぱら「なにごとか」にコミットするのではなく、この権力追求がなにごとかに即さず(unsachlich)、純粋に個人的な自己陶酔の対象になるところです。(p.182)



一つ前のエントリーでもこの部分を含む個所を引用しておいた。



 戦争を倫理的に埋葬するのは、実際の問題に即していることと騎士道的な礼節によって、とりわけ品位によってのみ可能です。〔どちらが善で、どちらが悪かという「あれか、これか」を問う〕「倫理」によってではないのです。「倫理」〔による戦争の終結〕では、〔勝者と敗者の〕双方の品位が失われてしまいます。(p.187)



この個所も一つ前のエントリーで引用した。「倫理」に対する注釈の内容が両訳書で異なっている。こちらの解釈の方が素直に理解できるように思う。



「訳者あとがき」より

もちろんウェーバー自身は「ポスト真実(post-truth)」という語を用いているわけではないが、「事実」よりも受け手の感情や好みがより大きな政治的意味を持つような事態は、すでに彼の考察の射程に入っている
 ドナルド・トランプがアメリカ合衆国大統領に選出されたとき、反知性主義のポピュリズムという点で似ているとして、第七代大統領のアンドリュー・ジャクソンが引き合いに出された。ウェーバーが「政治」講演で特に注目するのは、イギリスのバーミンガムから始まった「コーカス・システム」の発展とともに、白人男性の普通選挙権が実現した、いわゆる「ジャクソニアン・デモクラシー」の時代の政治の変容である。大規模で、かつ規律化された「重い」政党組織は、「軽い」風によって動く「世論」に支えられた政治リーダーのパーソナリティへの依存を高めていく。組織化とパーソナル化がともに進んでいくという「官僚制化とカリスマの弁証法」を、彼はこの講演で印象深く描いている。(p.220-221)


ジャクソン時代のアメリカをヴェーバーが見ていたという点は確かに押さえておいた方が良いかも知れない。



いろいろな感想や指摘をもらい、そのいくつかはこの訳書に反映されている。しかし、この本を扱ったゼミでは、あまり話が通じず、かつ議論もうまく展開しないことがしばしばだった。かつてよく読まれた本が次第に読まれなくなるのには、それなりの理由がある。原著者のウェーバーが語りかけている読者は、革命のさなかにいた。そこでは、いずれのイデオロギーも急進化しつつあり、コミューン的な結びつきや「神秘主義」も近くにあった。いま日本でこれを読んでいる若い読者とは大きくかけ離れている。(p.222-223)


かつて読まれた本が読まれなくなるには理由があるのは確かであり、ヴェーバーの本は全体としてその傾向にあるだろう。

ただ、ゼミで話が通じないことの原因は、訳者がここで指摘するようなことが主要な原因ではないと思う。なぜならば、この本を読んできた(かつての)若者たちは、そのほとんどがヴェーバーが語りかけている学生たちとは大きく異なる環境に置かれていたからである。むしろ、話が通じないことの大きな原因は、日本の大学の変容にあると思われる。特に私立大学は現在では学力試験を経ないで推薦で入学する学生が半分近いという現状がある。つまり、学力レベル的に進学する生徒とそうでない生徒をすべて含めて真ん中かそれ以下の生徒たちが大学に進学してくる。例えば、歴史を学んでおらず、古典を読んだこともなく、古典についての解説書すら読んでおらず、政治的あるいは社会的な問題意識が特にあるわけでもない、といった学生がこうした本を読んだとして、本書のような本を短時間で理解できるとは思えない。かつてであれば進学できなかったような学生が大量に進学してくるようになったという大学の状況の変化が話が通じない真の原因はなかろうか。(もちろん、訳者としてそのような「不都合な真実?」をこの場に書くことは憚られるだろうが。)

マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その3)
「職業としての政治」より

政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)、責任感(Verantwortungsgefühl)、判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり「事柄(ザッヘ)」〔「仕事」「問題」「対象」「現実」〕への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。それは、今は亡き私の友ゲオルク・ジンメルがつねづね「不毛な興奮」と呼んでいた、例の精神態度のことではない。……(中略)……。情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。……(中略)……。
 だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離――この場合、自分自身に対する距離――にとって不倶戴天の敵である。
 ……(中略)……。政治家の活動には、不可避的な手段としての権力の追求がつきものだからである。その意味で「権力本能」――と一般に呼ばれているもの――は政治家にとって実はノーマルな資質の一つである。――ところがこの権力追求がひたすら「仕事」に仕えるのでなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒瀆が始まる。政治の領域における大罪は結局のところ、仕事の本筋に即しない態度と、もう一つ――それといつも同一ではないが、しばしば重なって現われる――無責任な態度の二種類にしぼられるからである。(p.596-597)



ここは、この講演で最も有名な箇所の一つだろう。この個所を読むとき、必ず私の念頭に現れる政治家がいる。安倍晋三である。彼ほどここで批判されている対象としてふさわしい政治家はいないと思われるからである。

事柄に即するというsachlichな姿勢は安倍には全く見られない。事実には即していないが自分の情念に従って教育基本法や憲法を変えることを願い、それを実行し、あるいは実行しようとしている。

責任についても、彼は常に権力の座に「へばりつく」。つまり、彼が取り組むには不適格な課題に立ち向かわなければならないときには、本来、潔く権力の座を去るのが「官僚」ではない「政治家」の責任のとり方であるにもかかわらず、実際には、彼が取り組むには不適格な課題(例えば、森友や加計問題のような彼自身が疑惑の根源である問題――彼自身が隠蔽するための最大の誘因を持っている問題――の事実を解明し、再発を防止する)を、自分(とその仲間)が解決に向けて取り組むなどと頓珍漢なことを言い続ける。(結果、事実の隠蔽が行なわれている。)

もちろん、判断力と訳されている「距離をとる感覚」など安倍にはみじんも見られない。周囲の人間もそのことを分かっているからこそ、事実を都合よく曲げることに意を注いでいるというべきだろう。森友や加計問題に関する追求に対する政府の応答然り、統計不正に絡んで経済指標を実態より良く見せようとしていたこと然り。安倍自身がどの程度細かく指示していたかは別として、彼自身はそのような願望を持っていることは、彼の言動からははっきりと見て取れるし、周囲の人間がそれに呼応して動いてきていることを否定する要素は何もない。(それに対して、そうしたことが起こったことを示す状況証拠はいろいろある。

政治における大罪として、その根源としての「距離を失ってしまうこと」、その結果としての「事柄の本筋に即しない態度(sachlichでない態度)」と「無責任な態度」。すべてが安倍の政治には当てはまっている。大罪しかない政治と言ってもよいかも知れない。大罪を犯したのであればそれ相応の裁きを受ける必要があると考える。(政権を交代し、安倍のやってきたことを検証することが必要である。自民党ではこれはできない。)



戦争の道義的埋葬は現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神(リッターヒッヒカイト)、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」〔自己弁護の「倫理」〕によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは、実は双方における品位(ヴュルデ)の欠如を意味する。(p.600)


以前読んだときはこの件にはあまり引っ掛かりを感じなかったが、今回は強く共感した箇所。ここで言われていることは正しい。ここでの「倫理」は訳者の注釈によると自己弁護の「倫理」のことだというが、これを「歴史修正主義的なもの」と理解すると現代日本にも完全に当てはまる


マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その2)
「新秩序ドイツの議会と政府」より

民主化とデマゴギーとは切り離せない対をなしているが、これは――繰り返し述べるように――国家制度の種類とはなんの関係もない大衆を完全に受動的な行政の対象として扱うことがもはやできなくなり、大衆が大衆の立場から、なにかの仕方で重要な役割を積極的に果たすようになりさえすれば、民主化とデマゴギーのあの関係が成立するのである。現代の君主制も、事実それなりの仕方で、デマゴギーの道を歩んでいる。(p.428-429)


ヴェーバーが生きた時代は、デマゴギーの時代、現代のよりポピュラーな言葉で言い表せば、ポピュリズムの時代になってきていた。



あらゆる政治問題において軍事の権威が政治指導に従属すること、これは絶対に必要なことである。問題を政治的に決定するに当たっては、軍事状況にかんする軍事的権威の判断もまた、むろんつねに決定的に重要となる。けれどもこの判断だけで決定が下されるようなことがあっては絶対にいけない。(p.471)


第二次大戦へ向かう日本の失敗もこうしたものだが、第一次大戦の頃からのドイツもまたこうした状況があった。



 国民的な誇りとは、結局、国民を構成する者が――少なくとも可能性として――自国の政治の形成にどのくらい能動的に参画しているか、その程度の関数なのである。(p.478-479)


ここ10年か15年くらいの間、やたらと「誇り」という言葉が右側から聞こえるようになり、次第にそれが浸透してきているのを感じる昨今であるが、「国民的な誇り」というものがあるとすれば、確かに、ヴェーバーがここで言っているようなものであるべきであろう。

しばしば、「日本の技術」――これについては、「そもそもそんなものがあるのか?」と疑義を呈しておこう――や「日本の文化」なるものに対して、賛美した上で、「誇りに思う」などという言説が垂れ流されることがあるが、その時に常々思うのは、その発話者に対して「お前はそれを形成するにあたって、どの程度の積極的な貢献をしたのか?」ということである。自分が所属していたチームなり会社なり集団が、ある技術を開発し、自分自身もその開発にある程度の貢献をしたと自他に対して説明できる又は、それを認識している人々が説明をしなくても実感し、それを共感しているような場合、その技術の開発に貢献できたことに対し「誇りに思う」と言って差し支えない。しかし、何ら具体的な貢献もしていない人間が同じように言った場合は、「それはお前の功績ではない」と皆に一笑に付されるべきである。こうした政治的な思惑が絡んでいる言葉は、正しく使わなければ、認識がどんどん歪んでいくことになる。このことに危機感を持つべきであろう。



政治的に成熟した民族のみが「王者の民族(ヘレンフォルク)」である。「王者の民族」とは、じぶんの問題の処理にたいする統制を手にし、じぶんの選んだ代表者を通じて政治的指導者の選抜に決定的に参画する民族のことである。そうした王者の民族にふさわしいことがらを、この国民は――ビスマルクの偉大な政治的支配者精神にたいする反作用を介して――とり逃してしまった。ひとたび身を持ちくずした議会は、そうやすやすとは立ち直れない。(p.479)



王者の民族なるものが存在することや存在すべきこと――これはヴェーバー自身のかねてからの持論ではあるが――については、同意しかねるが、単に手続きだけでなく、また、単なる結果だけでもなく、実質的に民主的な政府を形成することができる人びとをこそ是とすべきという点では同意できる。残念ながら現在の日本の人びとはここでヴェーバーが言う意味での「王者の民族」ではない。上記引用文の最後の一文は現在の日本の国会にも完全に妥当する。



「職業としての政治」より

しかし「官僚」というものは、デマゴーグとして強い影響力をもつ個性的な指導者には、わりと簡単にくっついてゆくものである。(p.584)


今までこの講演は何度も読んだが、あまりこの指摘には注目してこなかった。今回はこの点に非常に共感するところがあった。現状の政治に対する感覚や知識が変わってくると同じものを読んでも見え方は変わってくる。

ヴェーバーは当時のドイツでは政治家としての立場の人間たちも「官僚」と同じように動いており、そのことを批判していた。したがって、ここでの「官僚」は行政官僚を示すものではなく、広義の官僚制的組織に属する官僚に当てはまる議論として語られていると見なければならない。

現代日本で私が強く感じるのは、自民党という政党(政党官僚組織を持つ)に所属する議員たちの言動が、ヴェーバーの言う「官僚」のようになっているということである。しかも、デマゴーグとして強い影響力を持っていなくても、制度的に総裁に権力が集中しているために個々の議員(党官僚)が組織に逆らいにくくなっているという点で、当時のドイツの政党(ないし、上記でヴェーバーが指摘する状況)よりも悪質なものとなっている点に危惧を覚える。



 ところで、このシステム全体はどのような効果を生んだか。今日イギリスの国会議員は、二、三の閣僚(と若干の奇人)を除いて、一般に訓練の行き届いたイエス・マンに過ぎなくなっている。ドイツの国会では、自分の議席の机でせめて私用の手紙でも書いて、お国のために働いているようなふりだけはしたものである。こんなジェスチュアはイギリスでは無用である。議員は投票だけして党を裏切らなければよい。事情に応じて内閣や野党の党首(リーダー)から出される指令をおこなうよう、院内幹事(ホイップ)から呼び出しがかかれば、何はさておき登院しなければならない。強力な指導者がいる時の全国各地のコーカス・マシーンはほとんど無原則で、完全に党首(リーダー)のいいなりになる。こうして議会の上には、「マシーン」の力を借りて大衆の支持を得た独裁者――事実上人民投票的な――が君臨し、議員はこれに追従する政治的な受禄者に過ぎなくなる。(p.586-587)


これはまさに現在の日本の政党のあり方と同じである。


マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その1)
「新秩序ドイツの議会と政府」より

とにかく調査権があるというだけで、行政長官は調査権が不要になるくらい答弁に立つことを迫られる、調査権はそうした鞭のようなものである。この権利をこういう仕方で行使したところに、イギリス議会の挙げた見事な成果のもとがある。さらに、イギリス官僚層の廉潔もイギリス国民の政治教育の水準の高さも、そのもとは、主としてここにある。委員会の討議がイギリスの新聞とその読者層に監視される仕方をみれば、政治的成熟度を測る最上の物差しがえられる、とはよく言われることである。政治的成熟度というものは、不信任投票とか大臣弾劾とか、フランス・イタリア式の無組織な議会政治にみられるこの種のスペクタクル大興行によって示されるのではなく、国民が官僚層によって自分たちの用件が処理される仕方に通じていて、たえずそれを監視し、それに影響を与えるところに示されるからである。強力な議会の委員会だけがかような教育的効果の波及してゆく根拠地であるし、ありうるのである。が、官僚層そのものもこれによって究極的に得るところがあるはずである。(p.386)


ヴェーバーの持論がよく出ている箇所の一つと思われるし、現代日本の政治状況を考えるに当たって重要なポイントでもある。

官僚(行政)の権力の源泉の一つが専門知識にあることを喝破したことでもヴェーバーの議論は知られているが、ここでもこの指摘に続いて上記の引用文が述べられている。官僚層の専門知識や秘密知識を監視するための権限を議会に与えることが、行政による権力の暴走を防ぎ、適切な事務が行われることに繋がるというわけである。ヴェーバーのこの指摘は普遍妥当的な内容である。

現代の日本でも国政調査権などが国家(両議院)に与えられており、これに基づいて様々な質問がなされ、日々いろいろな事実が明らかにされている。こうした権利が極めて重要なものであることは疑問の余地がない。しかし、現代日本の政治の動きを見ると、ヴェーバーの議論だけでは物足りないと感じざるを得ない。

例えば、上の引用文で言えば、「強力な議会の委員会」と述べられている。ヴェーバー当時の調査権がない帝国議会の状況を考えれば、調査権があるというだけでかなり強力になるのは確かだが、形式上、調査権があるだけでは十分に強力な議会、強力な委員会とは言えないということは、現代日本の政治を見ると明らかである。日本のような議院内閣制を採用している場合、議会の多数派と内閣とはほぼ一体のものとなる(最近30年ほどでその傾向をさらに強化する方向で様々な政治改革が行なわれた)。この状況の下で、議会の少数派がどのような質問をしても、議会多数派と内閣が共謀することによって不都合な質問に対してはゼロ回答で済ませることができている。このようにならないような質問権の規定が必要になる。回答する側に質問者を納得させる義務が生じるようでなければならない。

また、視点を変えれば、質問権自体の問題というよりも、内閣が官庁に対して不当な政治介入をできない仕組みが必要である。象徴的な事例を挙げれば、2014年の内閣人事局の創設と森友問題における佐川元理財局長の答弁姿勢とは極めて深い関係があると見なければならない不正を望む政治家(内閣)からの不当な要求を官庁の側がはねのけることができず、むしろ、それに従うことで昇進などの可能性があるという期待が生じるような仕組みは廃止すべきである。官庁内部の人事は官庁内で行う方が遥かに適切な行政運営ができるはずである。少なくとも、議会の少数派からの質問であれ、多数派からの質問であれ、回答する際に生じる差別(与党には多く答え、野党には少なくしか答えない)は現行制度よりもはるかに少なくなると見るべきである。

ヴェーバーの議論に戻ると、現代の日本の政治は、政府による不誠実な答弁が常態化することによって、国民が「自分たちの用件が処理される仕方」についてまともに知らされることがないため、それに精通することが全くできず、監視できていないために、それに影響を与えることができなくされている。こうして、ヴェーバーの用語を使えば、政治的成熟度が極めて低い国民を温存することになっている。



 調査権のふくむ唯一の難点は国法学者の指摘しているところだが、この指摘は実質的な意味で注目に値する。国法学者はふつうつぎのように主張する。帝国議会は議事規則の運用について完全に自律的であるから、ときどきの多数派は一方的に調査を中止することもできるし、自分に不利なことが明らかにならないようなかたちに調査を運ぶこともできる、と。この(間接的に)イギリスの理論から無批判に取り入れられた議事規則の自立性(帝国憲法第27条)が、この権利〔調査権〕に適合しないことは明瞭である。むしろ、法的規範によって信頼性の保障がつくり出されるべきである。この権利は、――当然のことながら少数派の弁論・質問・参考報告等の請求権とともに――とりわけ無条件に少数者の権利として(たとえば100人の代議士が要求すれば行使できる)かたちづくられねばならない。この権利は、将来いつか実現しうるあらゆる議会主義的「多数派経営」と、それのもつ周知の危険にたいして、公開の対抗力――これは諸外国にはないものであって、イギリスでもこれまでは政党相互間の礼儀にもとづいてのみ存在したにすぎない――を提示するためにも必要である。(p.392)



ヴェーバーが国法学者の見解として指摘している事態(ときどきの多数派が一方的に調査を拒否したり、自分たちに不利にならないように調査を進るということ)は、まさに現在の日本の政治(特に安倍政権下における政治)で現実に生じていることである。

ヴェーバーはこれに対して、このようなやり方は適切ではなく、調査権は「無条件に少数者の権利」でなければならないとする。極めて妥当な見解である。例えば、日本の現在の政治では、野党がある人物の参考人招致や証人喚問を求めても与党が拒否することで実現しないことが多々ある。(逆に言えば、それらの人に事情を聞かれることは与党や内閣にとって都合が悪いと自ら認めているということであり、この場合、野党側が抱いている疑惑は妥当なものとして前提しても差し支えないと私は考えている。こうした拒否の姿勢を多数派が示すことにより、多数派の方が潔白であることを自ら示す義務が生じる。こうした考え方が一般化しなければならない。)こうした状況に対して、ヴェーバーは少数者がある程度の人数で求めれば、彼らの求めのとおりに質問ができなければならないとしている。日本の制度もこうした考え方を導入すべきである。



誰でも思いあたる無数の経験によれば、昇進をもっとも確実に保証するものは、装置(アパラート)にたいする従順の程度、つまり上司にとって部下がどれほど「重宝」か、その度合なのである。選抜というものは、概して天成の指導者の選抜ではまったくない。……(中略)……。これにひきかえ、公権力に到達する政治家、ことに政党指導者は、紙上で政敵と競争者の批判を浴びることによって白日のもとに曝されるのであり、彼は、おのれにたいする闘争のなかで、自分の擡頭の前提となった動機や手段が容赦なく暴露されることを覚悟しておかねばならない。だから冷静に観察してみれば、政党デマゴギー内部における選抜が――長い眼で大局をみるとき――官僚制の閉ざされた扉の奥で行われる選抜に比して、わけのわからぬ標識を基準に行われるものではけっしてないことが明らかになるだろう。(p.427-428)


官僚と政治家のそれぞれの選抜を対比し、閉鎖的な方法による官僚と比べ、公開的な方法による政治家の方が大局的に見れば適切であるとしている。政治家が批判にさらされるのは確かにそうだが、これが機能するためには、公衆の側にそうした批判の意味を理解する能力や判断のために必要な情報が行き渡っていることが前提されなければならない。また、この議論は組織票のようなものが持つ力を軽視しすぎている点にも留意する必要がある。それに、多数決は多数の選択肢からの選択方法としては必ずしも適切とは言えないことなど、社会的選択理論が示す諸事実にも留意が必要である。

つまり、政治家の選抜も制度設計が適切でなければ適切な政治家が選ばれないことが続くということは十分にありうる話であり、二世三世四世の政治家ばかりが誕生する日本の政治の選抜制度は明らかに官僚の選抜方式に劣ると言って間違いない。





マックス・ヴェーバー 『政治論集1』(その2)
「第七次のドイツの戦時公債」の訳注より

 1914年10月から戦時中のドイツ軍最高司令部は「最高統帥部」(Oberste Heeresleitung)と称された。最高統帥権は皇帝にあったが、それは名目だけで、事実上はその時どきのドイツ軍参謀総長がこれを行使した。……(中略)……。ドイツ軍最高統帥部に特徴的なことは、それが政府の管轄下に位置づけられていない点、それゆえ軍部が政府に干渉し得た点にある。(p.242)


具体的な制度上の類似がどの程度あったかは別として、同時代の日本の軍部が政府に対して干渉したり独走したりできてしまっていた点と似ているように見える。



「ドイツにおける選挙法と民主主義」より

あるいはむしろこう問うた方がよいならば、ある階層が――本質的に封建的(「貴族(アーデル)」であるか、市民的(「都市貴族(パトリツィアート)」)であるかにかかわりなく――、政治的意味での貴族として機能し、政治的に役立つにはどのような条件が必要だろうか。第一の条件は、敵から経済的攻撃をうけるおそれのないことである。貴族とは、――これがもっとも基本的な前提条件であるが――国のために生きることができるものでなければならないが、国によって生きるものであってはならない。(p.291)


この議論は、若干ニュアンスを変えて『職業としての政治』でも繰り返される。現時点の私はこの議論には懐疑的である。国(政治)によって生きることをヴェーバーは否定的にとらえ、国(政治)によって生きなくても生活できる経済的余裕があることが、国(政治)のために生きることができる前提であると考えているようである。しかし、そうだろうか?確かに「のために」と「によって」という言葉は反対の意味を持っていると理解することもできる。しかし、ヴェーバーの議論を見ると、「ために」は生活態度ないし内面的なものを指しているのに対し、「によって」は経済的な条件を指している。

経済的に政府による扶助を受けていても、その国にとっての善を実現しようと努力することはできるのではないか?また、経済的には国(政治)によって生きていなくても、そうした政治家によって自らの(富裕層ばかりの)生計の手段を守るような政治がなされるということは常に見られてきたことである(この点はヴェーバーも言及している)。したがって、言葉の上では「~のために」と「~によって」とは確かに対立的な意味を持つが、ヴェーバーの議論においては内的な意味で「~のために」が語られ、外的な意味で「~によって」が語られているため、意味内容としては対立するものではないにもかかわらず、あたかも対立的であるかのように語っており、この点で誤っている(不当である)と思われる。

なお、この区分による議論は、現実の政治家の動きとも合致しないため、理論的な枠組みとしても現状分析には堪えないと考える。



「国内情勢と対外政治」より

ストライキの起こりやすい雰囲気が作られたのはそんなことではなく、一、ドイツの外交政策がデマゴギー的なやり方で扱われ、立派な精神を持っているすべての人々から見放されるような全くの個人的動機から発するアジテーションが行なわれたためであり、二、この国の指導的人物、とくに軍隊指導者が受けていた信用という資本を使って、遠慮会釈のない党派的狂奔が行なわれてきたためである。
 冷静な戦争目的を冷静な話し合いによって労働者たちに理解させるのは決して難しいことではない。敵はそうやって成功しているのである。イギリスの大臣は皆〔労働者との〕討論の機会を探す。しかも――ここが〔ドイツと〕違うところだ!――多くの場合、労働者が、たとえ客観的にはどんなに不当な理由からであれ不信を抱いている時に、あるいはストライキで脅かしている時に、そうするのである。イギリス政府が、ひどい物資の欠乏状態にありながら、しかも外国の、それも(エルザス)併合という戦争目的に対してこれまで労働者の戦争意欲を維持することに成功していることは、何といっても、「民主的な」やり方のよさを明瞭に物語っている。それは信頼の成果なのであり、この意味で「民主的な」国家は――たとえ「民主的」という言葉がわが国では極めて不快な感じで受けとられるとしても!――そうした信頼によって、外交上決定的な時点で「より強力な」国家であることが証明されている。(p.323)


前段の記述は、第一次大戦当時のドイツにおいてポピュリズム的な状況があったことを推察させる。ヴェーバーはこうした状況下で「デマゴーグ」(デマゴギー)や「カリスマ」といった概念を使用していたということは押さえておくべきところだろう。

後段はイギリスの政治を持ち上げつつ、ドイツの政治状況を批判しているが、民主的な討論や説得によって人々の納得の度合いが上がり、国全体としての意思が政府によってより強く代表されるようになることについての指摘として読むと、現代の日本や大生の国の状況を考える上で参考になる。

例えば、果たして現代の日本の政治、特に安倍政権下での政治において、このような討論や対話や説得といったものがあっただろうか?2月24日に行われた沖縄の住民投票(辺野古への基地移設の是非が問われた)に対する安倍政権がとってきた態度はいかなるものだったか?口先だけの空疎な「沖縄の民意に寄り添う」という発言だけが繰り返されつつ、実際には民意を一顧だにせず政府の意思のみを貫徹しようとする。しかも、沖縄県に対して法を曲げて審査請求をするという暴挙まで行って、といった状況を見ると、現代日本にはヴェーバーがここで述べているような意味での「信頼」は存在できず、民主的国家の強みというものも全く見当たらないと言わざるを得ない。

その弱さを補強するために行っているのがメディアへの牽制とコントロールである。情報統制によって政府に不都合な情報を流させないようにする。こうして、人々を事実から遠ざけることによって、政府がでたらめなことをやっていても、人びとがそれに気づかなかったり、問題意識を持つこと自体が妨げられるため、反発を受けにくくする。現在の日本の政治の運営はおおよそこのような状況であると言えるだろう。

ちなみに、ここ数か月にわたり議論されている毎月勤労統計などに関する不正や政治介入の有無についての議論も、これまで出てきている情報から見て、統計が不当な状態であることに付け込んで政権にとって都合の良くなるような政治介入も行なわれたと見るのが自然であろう。だからこそ政府は事実を隠そうとし、情報を出さないようにしている。森友・加計問題でこの方法が政府としては成功したと捉えているので、同じ手法を使っているという点には留意すべきである。安倍政権にとってはあのやり方が都合がよいのである。つまり、疑惑は事実だと見るのが妥当であって、本来は疑惑が事実ではないことを証明する責任は政府の側にある、という考えが人々に共有されなければならない



マックス・ヴェーバー 『政治論集1』(その1)
テーオドーア・ホイス 「マックス・ヴェーバーとその現在」より

 マックス・ヴェーバーという現象は、目覚めている同時代の人にとって、そして、耽溺的な怨念の虜となったり、耽美的な気取りのために憂き身をやつしたりはしない青年にとって、なにを意味したか。これについてヨーゼフ・シュンペーターは、〔ヴェーバーの〕突然の死に打ちのめされてまだ動揺の続くなかで、次のような飾らぬ簡潔な言葉を発した。「彼の勢力圏を通ってきた者は、将来をよりはっきりと見るようになり、将来に向けてより健やかにになった」と。(p.34)



このシュンペーターの言葉は、私にも確かに実感がある。



「ヨーロッパ列強とドイツ」より

 わが国の対外的利害は、純然たる地理的条件に著しく規定されています。わが国は権力国家です。どの権力国家でも、他の権力国家が隣接していることは、その国の政治的決定の自由にとって障害となります。なぜなら、隣接の権力国家のことを考慮しなければならないからです。どの権力国家でも、できるだけ弱い国に、せめてできるだけ少数の権力国家にしか取り巻かれないことが望ましいのです。ところが、ドイツだけが大陸の三大強国と国境を接し、しかもそのうちの最強国と隣接し、その上最大の海軍国とは間接的に隣り合わせです。したがってこれらの国々の邪魔になっています。わが国の運命はこのように定められています。地上のいかなる国といえども、このような位置にある国は他にありません。(p.178-179)


ドイツ帝国成立後のヨーロッパにおける地政学的な位置を的確にとらえている。ドイツが統一される以前には、逆に、ドイツの地域は小邦が分立していた権力の空白地帯であったために、緩衝地帯として機能してきたものが、統一国家ができたことによって緊張の場となった。このことが第一次大戦や第二次大戦が発生し、どちらにもドイツが深く関わることとなった要因であった。

ちなみに、ドイツが隣接する三大強国とはイギリス、フランス、ロシアである。



いずれにせよ、今日のわれわれが政治的観点からではなく、たとえそれがどんなに納得のいくものであろうとも、憎悪の感情からわが国の政治目標を定めようとするなら、愚かなのはわれわれの方です。わが国に対する憎悪は、フランスがもっとも強く懐いています。ところがわが国では、憎しみはもっぱらイギリスにたいして向けられています。これは、オーストリアの憎しみがイタリアにたいしてのみ向けられているのとちょうど同じです。双方のばあいについて憎しみが人間的にみていかに納得できるものであろうとも、――おそらく!――今大戦中に犯した真の失策は、まさしくこの憎悪という冷静さの欠如(ウンザッハリヒカイト)から生じたのです。
 さらに、冷静な政治とは虚栄の政治、すなわち大言壮語や切り札の政治ではなく、無言の取引の政治を意味します。(p.180)


最後の一文などは、明らかにヴィルヘルム二世に対する批判が含まれているが、上記引用文は全体として現在のアメリカのトランプ政権に当てはまる批判になっているように思われる。

特に「虚栄の政治、すなわち大言壮語や切り札の政治」というのは、まさにトランプのやっていることであると思われる。メキシコ国境の壁建設というあたりも憎悪の政治であるし、貿易赤字を問題視して中国などと貿易戦争をするというのも、中長期的に見て、アメリカの世界での覇権喪失を早める結果になるように思われ(中国の企業はむしろアメリカの態度を逆手にとって中国政府の国有企業優遇を改めさせ、それによって民間企業の活力を高める方向に利用しようとしている向きもある)、そうだとすれば、「アメリカファースト」「アメリカを再び偉大にする」というスローガンとは逆の事態を招くものであろう。



「帝国憲法第九条の改正」より

 議会に所属している指導的な帝国官職の保持者がそのままの資格で連邦参議院の使節に任ぜられるなら、彼は、決定的に重要な点で自分の政治的信念に反するようなやり方で訓令をうけたときには、職をやめなければならない。指導的為政者ならば、すでに今日でも、そのように行為すべきであったのだ。このことを行政の長にしっかりと教え込むことが、まさしく意図された改革のもっとも重要な目的のひとつであることは言うまでもない。この改革によって、わが国では相変わらず、為政者の責任と官吏のそれとが混同されているという状態に終止符がうたれることが望ましい。両者の責任のとり方は、まったく別である。責任はいずれの職にもあるが、しかしそれぞれの職にのみふさわしい責任というものがある。官吏は、上級の官庁が彼に与える指令に重大な疑義を抱くときは、報告と異議申し立てによってその疑義を認めさせることができるし、重要なばあいにはそうすべきである。しかし上級の機関が彼の意見に反して指令に固執するならば、誠実にしかも自分自身の意見をまったく押えて、これを実行することが官吏の職務上の義務というものである。こうしたことができる能力こそが、彼の職務名誉となる。政治的に責任のある国政担当者は正反対である。彼は政治的に決定的な点で、自分の良心にしたがった政治的信念と一致するような訓令を出せないときは、いつでも職を去らねばならない。彼がそうしないなら、それは軽蔑すべき政治的義務の不履行であって、彼の〔政治的〕節操のうえに重大な汚点を残すことになる。このような人間のことを、ビスマルク候はへばりつきやと呼んだのであった(彼は、たいしたことのない問題ではあの原則どおりに行為した)。(p.236-237)


帝国憲法9条の改正はウェーバーが繰り返し主張していた論点の一つである。そのことの詳細はここでは説明しないが、ここで述べられている官吏の責任と政治家(国政担当者)の責任の対比は、『職業としての政治』などでも繰り返される有名な区分である。ウェーバーは当時のドイツの政治状況について、ドイツでは政治家が育たず、官吏が政治を行っているとして嘆いていた。すなわち、政治的に指導的な立場にあるべき職にある者が、ウェーバーのいう政治家の責任において行為するのではなく、官吏と同様にしか行為できていないことを問題視していた。

この点は、現在の日本の政治(特に安倍政権になって目立つようになってきた問題)にもかなり当てはまる批判ではないか。特に責任のとり方という点で、安倍はある大臣(総理大臣を含む)が不祥事を起こした場合であっても、その不祥事についての事実の解明や再発防止の取り組みなども、その大臣が職を全うすることで責任を果たしたい、という論を主張する。まさしく「責任」という言葉の曖昧さを使った論の立て方で、欺瞞的であり汚いやり方という点で非常に安倍晋三に似つかわしいとは思うが、このようなやり方にメディアなどが十分に論理的に批判していない点は問題である。これを許していると戦前のドイツの轍を踏むことになってもおかしくない。

ある大臣が不祥事に関わった(と疑われる)ならば、その人にとっては、その問題は解明したくない問題となる。解明したくないはずの人間が、その解明や再発防止を実施することで責任を果たすというのは、ウェーバーの言う官吏の責任のとり方である。その場合、必要なことは、解明や再発防止といった課題に対し「誠実にしかも自分自身の(解明したくないという)意見をまったく押えて」実行することである。果たしてこのようなことが可能だろうか?少なくとも、ここ数年、安倍政権下で起こった様々な政府の不祥事とそれに対する「職を全うすることで責任を果たす」とした人々が関わっている案件で、これが実行されたと思えるような事例は皆無である。

官吏の場合、職務上の権限の範囲などが明確に決められており、何より常に彼より上位の権限を持ち、同じ組織に属するために日ごろの言動をチェックすることもできる官吏が監督するという建付けになっているからこそ、誠実に、官吏自身の意見に固執せずに実行することも一般社会よりはやりやすい。しかし、大臣という立場にいる者には同じことを期待することは不可能と言ってよい。彼を監督すべき代議士たちは、官庁の中におらず、同じ情報を共有できない立場にあることがその要因の一つである。自分に権限を与えている側の人間に対して、いくらでも隠し事ができるという考えが共有されている場合(ここは安倍政権で起こった様々な不祥事への行政側の国会に対する対応を念頭に置いている)、誠実な対応などと言うものが期待できると思う方がおかしい。

現代日本の場合、国会には国政調査権があるが、これが機能しない仕組みが現在の制度には別途組み込まれてしまっている。官僚の政治家による任用がその最たるものである。このような仕組みにより、内閣に都合の悪い情報はもみ消されることになる。90年代の政治改革による「政治主導」「官邸主導」を追求した結果がこれであり、安倍晋三という、極めてずる賢く、公正さのかけらもない人物が権力を握ったことによって、制度の問題がはっきりと露呈するようになった。彼の力量が優れているからではなく、彼のような人間にとって都合の良い制度設計になってしまっている(それは権力を握った者以外にとっては不利益以外の何物でもない)という理解はもっと広く共有されるべきである。