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アヴェスターにはこう書いている?
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キリスト教史学会 編 『マックス・ヴェーバー「倫理」論文を読み解く』

 福祉分野にかんするエスピン=アンデルセンらによる近年の研究では、実証研究に基づいて、いわゆる社会国家型の北欧諸国、それに対する自助・国家不介入のアメリカ自由主義型、さらに大陸西方ヨーロッパ型(オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス)としての類型化が見られます。宗派的に見れば、北欧では早くからルター派国教会が確立し、教会に代わって領邦が福祉を提供する仕組みが発展し、国民は国教会教区の福祉に信頼することができたので、北欧では結果として現在まで税金による国の福祉が続いています。一方、大陸西方ヨーロッパでは、カトリック、複数のプロテスタント宗派と人文主義的伝統(市民自治)が混在し、多数の中間団体が生まれて福祉を担い、国家はそれらを補完する形で福祉に関与することになりました。……(中略)……。
 こうして宗派状況と社会福祉の在り方の関連が確認できましたが、そのカギとなったのは西方ヨーロッパを「宗派混在地域」ととらえたことにあります。これはヴェーバーが暗にそれぞれの「国」に当てはめた宗派性とは異なっています。明示的に述べていなくても、ヴェーバーにとってドイツはルター派、オランダとイギリスはカルヴァン派の国ではなかったでしょうか。宗派が「混在」しているととらえるようりも、本質をなすであろう宗派性を割り当て、そこから理念型を導く方向をヴェーバーは選びました。(p.109-110)


福祉分野の研究成果から示される「宗派混在地域」という見方から適切な類型化ができている事例をベースに、ヴェーバーの「倫理」論文における理念型構成の選択を批判している。確かに、ヴェーバーは明示的には言及していない(そのため擁護しようとする側からはある程度理屈をつけて部分的に擁護することもできてしまうかもしれない)が、ドイツの後進性のようなものを示すためにルター派が「資本主義の精神」の推進力にはならなかったことを使ったことなど、「国」に「宗派」を割り当てて考えている捉えられる叙述はかなりあると思われ、適切な批判であると思われる。

本書では、ヴェーバーが宗教の教義や各教派の特徴づけなどについていろいろと誤りを犯していることが明らかにされている。それはそれとして重要なことであるが、理念型という方法論の持つ問題性を明確化することも必要だと思われる。理念型という方法論には曖昧さがあり、それを利用することでいろいろな擁護の仕方ができてしまうところがある。描いている事柄が事実と違っていても理念型構成なのだから問題はない、少なくとも直ちに否定はされない、といった類の反論もいろいろな場面で使えてしまう理論になっていることは問題があるように思われる。



 今日のメソジスト史研究が共有する歴史的実態に照らし合わせれば、ヴェーバーが描いたウェスレーやメソジスト派の像は、数々の「間違い」だらけだと指摘されても仕方ないです。しかし、この種の「間違い」を理由に、短絡的に「倫理」テーゼを学術的に評価に値しないものと捨て去ることはできません。なぜならば、ヴェーバーは、歴史学などの従来の学問の手法では明らかにできないものを過去の世界から抽出するために、独自の「理念型」を作成し、そのために複雑な歴史を意図的に単純化・純化させたと主張しているからです。絵画で例えるならば、写実的画法には不可能なものを表現しようとしたピカソのキュビスムの画法に似ています。キュビスムの挑戦を、写実的画法の評価基準に照らし合わせて無価値とすることは滑稽だと思います。(p.128-129)


基本的にこのスタンスには共感できる。ただ、この挑戦の意味やヴェーバー自身の挑戦がどの程度成功しているのかを明確化するためも、理念型という方法論の「妥当な使い方(あるいは構成の仕方)」と「不当な使い方(あるいは構成の仕方)」のようなものを腑分けする必要があるのではないか、このような問題意識が本書(だけではないが)を通じて自分の中で高まってきた。



 アレヴィ・テーゼと歴史実態との一致をめぐる論争は、ヴェーバー・テーゼと歴史的実態との一致をめぐる論争と一つの本質的問題を共有しているように思えます。双方とも、個々のメソジストの歴史研究の結果で得られたテーゼではなく、哲学や社会学の研究用にいくつかの類型やフレームワークを便宜的に設定し、それらを用いて展開された推論の結果で得られたテーゼであり、これらのテーゼの賛否をめぐって他の学者が哲学や社会学をはじめ神学や経済学などさまざまな分野の類型やフレームワークを加えながら議論を展開するにつれ、歴史的実態からますます遊離してしまうといった事態に陥っています。(p.140)


実態に即しながら、少なくともそれを視野に入れながら議論をすることは確かに重要だと思われる。それを欠いた議論は不毛なものになってしまうリスクが高い。


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野﨑敏郎 『大学人ヴェーバーの軌跡――闘う社会科学者――』

当時のドイツ諸大学の法学部は、全体として、こうした法学・国家学部への改組に向かおうとしており、同時期の1897年には、自由保守党によって、ベルリン大学におけるこうした改組が提案されていた(Lindenlaub 1967:69)。その理由のひとつは、ともすれば左翼の巣窟ともみられてきた国民経済学部門ないし国家学部門を、一般に大学のなかでもっとも保守的な法学部に編入することによって、左翼教授の動きを牽制しようとする配慮である(上山安敏 1978a:162)。(p.39)


本書を読んでつくづく感じたのは、当時のドイツの大学が行政から独立していないこと、特に人事や組織の面で独立性がないことがいかによくないか、ということであった。ここで指摘されていることなども、それを示すものである。学問の自由や思想の自由などといったものよりも、ある種の党派性というか一部の統治者側にいる人びとの利益が優先される。しかも、このように扱われるのが教育機関でもある大学であるという点に大きな問題がある。



ほぼ同時期に、南および西南ドイツの諸大学が国家学系や自然科学系の学部を設置していくなかで、フライブルク大学は、学部の数こそ一定(四学部)だが、けっして古典的構成のままだったのではなく、内部に大きな変動を生じさせていたのである。その渦中にいたハインリヒ・リッケルトは、まさにこの変動の最中に『自然科学的概念構成の限界』を書きつづけている(Rickert 1896/1921)。彼にとって、文化科学と自然科学とをめぐる方法的問題群は、自分の所属する学部の改組をめぐる焦眉の課題と不可分に結びついているのである。(p.40)


西南ドイツ派が科学論的な議論を展開したことの背景には、当時の大学の改組などの問題があったと理解しておくのは重要と思われる。



ハイデルベルク大学は、大公フリードリヒⅠ世自身を名誉学長に戴くバーデンの最重要大学であって、フライブルク大学とは別格の存在である。また教授の待遇や、ドイツにおける大学教授のリクルート経路を勘案すると、ベルリン大学に次ぐ高ランクの大学でもある。(p.60)


日本のような大学が個別に入学者を選別するシステムを採用していると、いわゆる「良い大学」には多くの人が入りたがる傾向が出るので、序列が目に見えやすいように思うが、ドイツの大学は入学のシステムなどが日本とは全く異なる中で、どのような経緯や基準によってランク付けがされてきたのか興味を惹かれる。



 ヨハン・カスパル・ブルンチュリは、1877年の学長講演において、学部改組の問題を正面から取りあげ、その方針を明示している。
 彼は、学部区分には、学問的な根拠だけでなく、実務的な根拠もあることに注意を促している。神法医の三学部が、聖職者・法曹・医師養成という職業教育学部(Berufs-Facultäten)の性格をもつのにたいして、哲学部は、①一般研究と②他の三学部における専門研究のための予備教育という二つの性格を併せもっていた(Bluntschli 1877:5)。ところが、官房専門学校の編入によって、哲学部内にも職業教育(官吏養成)の色彩をもつ領域が存在するようになり、哲学部の変質が始まったのである。彼は、19世紀において、国家学と自然科学とにかかわる諸事情が一変した以上、それが学部区分にも影響を及ぼすことは不可避だと喝破する(ebd.:18)。(p.86)


職業教育と大学の学部編成との関係という観点は興味深い。



レクシス、ヴィンデルバント、リッケルト、ヴェーバーらが、自然科学との対比において社会科学ないし文化科学を再定義しようとこころみたのは、ある意味では、西南ドイツにおける自然科学系学部の勃興にたいして、哲学部残留組がみずからのレゾン・デートルを賭けて挑戦した行為だと解釈できる。(p.92)


なるほど。これらの議論は哲学部の側からのリアクションとして理解すべきものということか。



 彼は、これらの論考において、その時々の政情と大学をめぐる情勢の推移に即して、大学と大学人のありかたを考察している。こうした大学問題への取り組みが1908年以降にとくに顕著であることには理由がある。アルトホフは前年秋に引退し、この1908年に死去する。この傑出したアカデミー・カリスマがいなくなると、プロイセンの文部行政官はさっそくベルンハルト事件を起こし、大学人事への無分別な介入をすすめていく。こうしたアルトホフ以後のアルトホフ体制の問題性こそが、ヴェーバーがもっとも危惧したものであった。(p.245)


アルトホフ体制は確かに問題だが、その前提となっている文部行政が大学人事の決定権を持っているという制度が当時のドイツの大学の根本問題であると思われる。

大学という教師や学生の組合という意味合いを持っていたはずの組織である大学が、いかにして文部行政の下部組織となったのか。ドイツの大学の歴史について、是非知りたい。また、他の国、イギリスやフランスなどではどうだったのかといったことも含めて理解を深めたい。



 教壇禁欲という行動準則は、社会科学と現実政治との関係が大きな転換点を迎え、また社会科学と自然科学との再定義、および科学の方法の再検討が必要となっている過渡期においてこそとくに求められる。ハイデルベルク時代後期からミュンヒェン時代にかけての彼は、この見地から、体系的カズイスティクと比較史的研究とを広範に展開し、社会科学的分析に専心する大学人(教師と学生)と、それを会得して現実政治に向かう個人とを峻別するとともに、この両者をひとつの人格に結びつけようとした。(p.311)


多くの人々を魅了してきたマックス・ヴェーバーという人物の魅力の一つは、この辺りにあるように思う。



 ヴェーバーのハイデルベルク大学への招聘は、19世紀末における経済学者の世代交代の象徴的事例であった。前任者であるクニースが、後任として哲学部が推挙したクナップ、ビューヒャー、ヴェーバーを拒否し、彼らを激しく罵ったことについてはすでに述べた。いわゆる旧歴史学派と新歴史学派との関係については、「新」の側からみて「旧」をどう批判しどう克服したかという文脈で語られることが多かったと思われるが、1896年の人事紛糾事例は、「旧」の側から「新」をどうみていたのかをしめす貴重な例である。(p.314-315)


ヴェーバーのハイデルベルク招聘についての理解はその通りと思われる。また、新旧歴史学派の関係についての叙述も、今まで私が接してきた限りでは「新」から「旧」を見るものばかりだったので、その通りであると思われる。

ただ、クニースの側からの新歴史学派に対する反応を見ても、その低い評価は見ることができるが、「旧」にあって「新」に欠けているものが何であると考えられていたのかは示されていない。その辺りが分かるともっと面白いのだが。



したがって、この1907年を画期として、<アルトホフアルトホフ体制>と<アルトホフなきアルトホフ体制>とを分けて考えなくてはならない。アルトホフ個人は、ある種のカリスマとして、その低い職位・権限にかかわらず、プロイセンのみならずドイツ全土の大学人事に絶大な発言権・決定権を保有しつづけた。彼個人についてみると、その人物評価の異常なまでの厳密性・即物性――とりわけ辛辣な人物評価――、各大学にたいするプロイセン文部省の優位の確保、各国文部行政担当省間の確執のなかで他国の省を屈服させていく手腕、ユダヤ人であろうとカトリックであろうと、プロイセンのために有用な人材なら大胆に登用・重用する開明性――こうした諸点で傑出していたことは疑いなく、<アルトホフアルトホフ体制>は、見識あるアカデミー・カリスマ官僚の独裁だったと評価できる。むしろユダヤ人排斥等は各大学教授団のほうが露骨だったのであり、この点から、ヴェーバーがしばしばアルトホフを高く評価しているのはけっして遁辞ではないことに注意しなくてはならない。(p.319)


この辺りの整理は非常にしっくりきたところ。本書を通して、ウェーバーとアルトホフ体制との関係もかなりクリアに見えてきたように思う。


井出明 『ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅』

左派的な市民運動が結実し、環境保護が実現した例として、知床は社会科学的にも大きな意味を持っている。世界遺産登録の際、ユネスコはこうした市民運動も重視しており、単に自然が美しいとか大切だなどという理由の他に、「市民が自然を守った」という点が高く評価されたことにも留意しておきたい。こうした経緯は環境省もほとんど言及していないが、それは林野庁の失政を明かすことにもなるのでやむを得ないのかもしれない。(p.76-77)


環境省が言及していないことについて著者はやむを得ないのかもしれないとしているが、私としては、もっと突っ込んでほしいところである。むしろ、そうした失政があったことを反省して現在の施策を進めていると政府の側が言えるような取り組みをしているのであれば、かつて失政があったとしても政府としての説明をしても何の問題もないないはずであるし、そうあるべきであろう。そうした失政をなかったかのごとく隠蔽して、やり過ごすことを許しておくことは、「やり過ごしてしまえばそれで済まされる」と官僚や省庁に学習させることになり、政府の政策決定の質を低下させることになり、問題である。



田舎の島なので地域が閉鎖的なのかと思ったが、このエリアは旧大日本帝国においては台湾との交流ルートに位置しており、人の行き来がかなり多くあった。というよりもむしろ、近代国家が意識される以前から、中国や東南アジアを含めた広い交流圏が成立していたと言ってよい。(p.84)


西表島についてのコメント。



もともと詐欺同然で本土や沖縄本島、そして当時日本領であった台湾などから集められた労働者は、口入れ屋(仲介事業者)の周旋によってこの島に辿り着く段階でかなりの借金を背負わされていた。
 島に到着した人々は、その時をもって貨幣経済から隔離されることとなった。というのも、飯場では、その内部でのみ通用する地域通貨が使われており、炭鉱の労働者に対する賃金はこの制度に基づいて支払われた。島の売店では酒などを買うことができたが、その価格は相対的に高額であり、いくら働いても借金の元金は減らず、稼いだ金は日々の消費でなくなっていったそうだ。現地でのみ通用する地域通貨を使うというということは、仮にその紙幣を握りしめて島を脱走したとしても、脱走先での生活が不可能になることを意味している。
 現代では、地域通貨といえば、経済学の教科書でも取り上げられるように地域活性化の切り札のような紹介をされるが、こちらの例が示すとおり、搾取と隔離のために地域通貨が用いられた例もあることを忘れるべきではない。(p.92-94)


前段は現代の外国人技能実習制度を想起させる。戦前と同じことが現代においても行われている。こうした事実があったにもかかわらず反省や改善が見られない点に留意したい。日本政府には事実を認識し、それに対して適切に対策をするという能力が欠けているようだ。

後段で、地域通貨が搾取と隔離のために用いられたことを指摘している点も興味深い。地域通貨というと、何かと善いものとして持ち上げられることが多い昨今だが、それにはこうした歴史があったということも踏まえておくことは重要である。過ちを繰り返さないために。



土木工事を始めるとして、男たちが集住する地域には、必ず女郎屋が出現する。これは、良いとか悪いとかといったレベルで捉えるべきではなく、いわば論理必然としての現実である。この地にも、慰安所として女郎屋が現れたのであるが、そのハードは地元住民の屋敷が国家によって接収されたものであった。慰安所の設営にあたっては、朝鮮の女衒(せげん)が活用され、いわゆる慰安婦たちも朝鮮から連れて来られた女性が多かった。
 先の労働者の説明のところでは言及しなかったが、労働者の募集にあたっても、朝鮮の現地の口入れ屋が暗躍しており、不当な詐術を用いて労働者が集められていた。(p.138)


松代大本営に関するコメント。これに類する事態は様々なところで行われていたと思われるが、個々の事例について記憶の継承をしていくことは重要である。



廃墟は、ハードウェアとして打ち捨てられた物体そのものである。一方、遺構は、客観的な見た目は廃墟と同じようであっても、そこにコンテクストを読み込み、人間の文明活動の所産として存在している状況にあるものを指す。(p.156)


著者はこれに続いて、ここにガイドと歩くことの意味があると言い、ダークツリーズムという経験においてガイドの見識は重要な意味を持つという。確かにその通りだと思われる。



 ダークツーリズムポイントでしばしば出会うガイドは、いかに大変な悲劇があったのかということを全力で語ることがよくあるが、状況を客観化できない語りは、旅人に「大変だったんですね」としか言わせられず、内面的な啓発を与えることが難しい。これは、ダークツーリズム以外の観光形態にも言え、「ここが素晴らしい」という押しつけがあると、旅人の内なる革新につなげることがやはりできない
 眼前の状況を他の地域との比較の中で述べ、最終的な解釈は旅人に委ねるとともに、旅人にゆっくりと考える時間を与えながらガイドをしてくれる専門家というのは日本ではあまりいない。(p.157)


ガイドの側からコメントを付け加えると、他の地域と比較しながら説明するという点にも、もう一つの留意事項がある。それはガイドを受ける側の旅人が持っている知識とある程度結びつくようなものを使わなければならない、と私は考えている。このため、どの人に対しても適切なガイドをするということは非常に難しいことだ、ということになる。その地域について十分に知悉するだけではなく、他のあらゆる地域の事情についても知らなければならないからである。ある意味、この辺りにガイドをすることの奥深さがあるのではないかとも考えている。



1泊2日、約80キロの旅ではあるが、足尾銅山から渡良瀬川を下り、遊水池に至る旅路には近代日本の社会問題が集中している。……(中略)……。わずか80キロの間に、鉱工業・外交・労働争議・過疎・農業・環境問題・地域間対立・除染・強制移住・土木事業・政治などさまざまに近代日本を俯瞰できるコンテンツがあり、これは壮大な大河ドラマを構成するほどであるし、現代の福島に通じる論点も内包している。にもかかわらず、コンテクストとして体系的に供される状況にはなっていない。
 これは非常に残念な状況であるが、克服の可能性がないわけではない。その役割は、旅人(ツーリスト)という非常に“無責任”な存在が担う。上流域と下流域の交流は基本的に薄いのだが、旅人は自由に行き来でき、旅先で見たことを別の場所で話をする。受け入れるホストの側は、旅人の話で啓発を受け新しい道を模索する。まさに旅という「弱いつながり」が地域イノベーションを誘発する。(p.167-168)


この指摘は本書で得た収穫の一つだった。旅という行為は、旅をする人だけでなく、旅をする地域にも貢献する可能性を秘めている。個人的には旅をして旅人が帰ってきた地域にも影響する可能性があるのではないかと考えている。


矢内原忠雄 『日本精神と平和国家』

太平洋戦争を始めたときに、八紘を宇となすとか大東亜共栄圏とか東亜の諸民族の解放とか、さういふことが言はれたのでありません。あれは戦争遂行上政治工作が必要となった時に始めて言はれたことです。あとから附加へた理窟です。(p.49)


ここで指摘されている視点は、これらの言葉が当時どのような意図をもって、あるいはどのような効果を狙って言われたのか、という点を考えるときにポイントとなる要所である。



 も一つ、朝鮮とか臺灣とかに於ける日本の政策を見れば、共栄圏理念の不明瞭・不徹底がわかる。大東亜共栄圏の理念をなぜ朝鮮臺灣に適用しなかったか。朝鮮とか臺灣に於ては神社参拝を強要したり、創氏改姓と言ひまして姓名を日本流に改めさせる。又朝鮮語臺灣語の使用を禁ずるやうなことをした。最も著しくありましたのは、国民学校や中等学校の生徒を利用しまして、創氏改姓や神社参拝を家庭に強要したのであります。姓を変へて来ない子供は学校に入れてやらない。又は明日から学校に来なくてもよい。さういふことを言って、家庭の日本化を強要し、それが日本精神だと為したのです。ところがフィリッピンやビルマに対しては、それぞれの地方の民族を解放し、その生活の自主性を尊重することが日本精神だと言った。八紘為宇の国策と言っても、さういふ矛盾した政策が行はれたのであります。
 太平洋戦争は聖戦だといふことが高調せられたのでありますが、宣長が聖人の教を批評した論法を用ひますれば、私心から出た戦争であったから特に聖戦と言ったのだ。軍官民一致といふことが繰返して言はれたのは、軍官民離反の事実があったからだ。(p.50)


フィリピンやビルマを解放すると言っても、せいぜい当時の朝鮮や台湾が解放された程度にしか「解放」されないであろう、とも言える。実際には、そもそも「解放」と呼ぶべきかどうかということが問題になるだろう。朝鮮や台湾に対する日本の統治は全否定されるべきものではないが、現地の人々に対する差別があったという点は押さえておくべきである。

後段の考え方は、現在の社会の言説を見る際にも使える見方である。例えば、「働き方改革」とは「使用者側にとってより使いやすい働かせ方の実現」という目的を隠すための呼び名である。現代の論法は単純に逆のことを言うというより、別のところに意味や意図を隠蔽しながら発せられている分だけ質が悪いが。



平和国家といふものは利益問題であるか義務の問題であるか、といふことであるのです。(p.87)


この観点は重要と思われる。ともすると、利益問題の側に引き込まれやすいが故に特に重要である。平和国家は(少なくとも主として)義務の問題であり、利益の問題でも事実の問題でもない、という理解は重要と思われる。それはあるべき状態であり目指すべき状態である。


國分功一郎 『100分で名著 スピノザ エチカ』

 「ベントー」はポルトガル語の名前です。スピノザの祖先はスペイン系のユダヤ人で、15世紀の終わり、スペインでユダヤ人への迫害が強くなった際に一家で隣国ポルトガルに逃れています。貿易商だった父はポルトガルの生まれです。しかしポルトガルでも迫害は厳しくなり、一家はフランスを経由してオランダのアムステルダムに移住することになります。スピノザは、1632年11月、この街のユダヤ人居住区に誕生しました。
 彼の肖像画を見ると、髪は黒く縮れ、瞳も黒く、肌の色も浅黒くて、イベリア半島の出身を窺わせます。(p.9)


なるほど。



 エチカの語源はギリシア語の「エートス ethos」なのですが、ここまで遡るとおもしろいことが分かります。エートスは、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むに当たってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。つまり倫理という言葉の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。(p.24-25)


エチカはその語源からしても「上から押し付ける道徳」にはなじみにくいわけだ。

話は変わるが、「エートス」というと、ウェーバーの資本主義の「精神」が想起される。ウェーバーの場合、この語は、ある種の「心理的起動力」として規定されていたが、外側から強制されるのではなく、内側から湧き出てくるイメージは、語源とも共通するところはありそうである。



 おそらく優れた教育者や指導者というのは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押しつけるのではなくて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人なのだと思います。そう考えると、古典芸能などでいう「型」というのは、その型を経ることで自分の力の性質を知ることができる、そのようなものなのかもしれません。(p.51)


型を経ることで自分の力の性質を知ることができる、というのは、なるほどと思わされた。

スピノザが力(コナトゥス)に着目するところでは、オートポイエーシスの「作動」と共通するものを捉えているときがあるように思い、興味深い。



 スピノザは確かに契約説の立場を取っていますが、一度きりの契約という考え方をしません。毎日、他人に害を及ぼすことがないよう、他人の権利を尊重しながら生活すること、それこそが契約だというのです。(p.64)


スピノザの契約説の考え方は、もう少し詳しく知りたくなった。通常の社会契約説よりも妥当な考え方であるように思われる。

ただ、毎回毎回契約し直す、更新・確認され続けるということになると、契約という言葉との相性はやや悪くなり、一般に受け入れられやすくはないのではないか、とは思う。同じことを何か別の原理によって説明する方がより適切に表現できるのではないかという気がする。



 自分を知ることは自分に何らかの変化をもたらします。つまり、何かを認識すること、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのです。私たちは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけでなく、自分の力をも認識し、それによって変化していく。真理は単なる認識の対象ではありません。スピノザにおいて、真理の獲得は一つの体験として捉えられているわけです。(p.105)


この辺りもオートポイエーシスと通じるものがあるのではないか。スピノザの書き方は幾分、反省的ではあるが、そこで言い表そうとしていることは反省的に記述されたものではなく、作動の局面にあるものを捉え、それを言い表そうとしているのではないかと思えるときがしばしばある。ここで説明されていることも、こうしたものの一つであると思われる。


『似鳥美術館』
宗本順三 「旧北海道拓殖銀行小樽支店の建築について 小樽のモダニズム銀行建築の華」より

同年竣工の小樽支店は、東南部の角に4本の列柱を設けて、象徴的で魅力的なデザインである。(写真-1,2)このような角のデザインは、神戸税関(昭和2年竣工)や旧警視庁庁舎(昭和6年竣工)に見られる敷地のコーナーに曲線と円柱形状を巧みに持ち込んで、形状の建物の顔である躍動的で象徴的なエントランスを設けた矢橋賢吉の設計手法の初期モデルであったと言える。この支店は、後の上記の作品と較べると、スケールが小さくまた表現としても控えめなデザインであったが、確実な造形力を持って設計されたことが分かる。それまでの銀行建築は、小樽の他の銀行建築を見れば分かるように、多くは鉄筋コンクリート造建築であっても、やや閉鎖で中央に入口を設ける左右対称のクラシックデザインのファサードに終始していた。この建築では、コーナーポーチにドーリア式の列柱を用いた導入部、それに続く銀行営業室にコリント式の列柱を用いた流動的な動線計画は、当時の銀行建築になっては秀逸の建築である。(写真-3)(p.112)


なるほど。確かに入口がコーナーにあるというのは、この建築に特徴的なところだと言えそうである。この建築は何度も目にしていたが、あまりこの点を気にしたことがなかった。この点に着目するだけでも、この建築に対する見方が変わるかもしれない。


志田政人 『小樽芸術村 ステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)ガイドブック』

 当館に展示されている作品の中にも、戦地に赴く兵士の無事を祈るものや、大戦の戦勝記念として作られた作品があります。(p.4)


この美術館の作品をサラッと見ると、どうしても戦勝記念のタイプが目立ってしまうように思われる。実際に、このように解釈できる作品は多いと思うし、龍を退治する聖ゲオルギウスなどは非常にわかりやすいモチーフであり、こうした意味も汲み取りやすい。これに対し、戦地に赴く兵士の無事を祈る作品が、そうした意味を持つということは、一目で見ただけではなかなかわかりにくい。

この美術館では、説明文やオーディオガイドなどもなかなか充実しているので、しっかりこれらを読みながら見て回ると、見て取ることができるようにはなっているため、それぞれの作品にいろいろな思いが込められているということが理解できるようになっている。しかし、あれだけの作品と図像の情報量もかなりのものがあるため、あまりステンドグラスやキリスト教に関係する物語などになじみがない場合、そこまでしっかり理解するのはやや難しいかも知れない、という気もする。

その意味では、事後的にではあってもこうしたガイドブックで解説してあるのは良いと思われた。



指昭博 特別寄稿「ヴィクトリア時代の教会とステンドグラス」より

 ただ、イギリスの国教会はプロテスタントですから、描かれる主題は自ずと中世カトリック教会とは違いました。聖人崇敬につながるような主題は避けられ、聖書の物語に取材した作品が多く、聖人が描かれる場合も、国教会にゆかりの深い聖職者や、イングランドの守護聖人である聖ジョージやスコットランドの守護聖人である聖アンドリュースなど、国を意識したものが多いのです。(p.5)


なるほど。確かにこの美術館に所蔵されている作品でも、随所にイングランドやスコットランドなど、イギリスを構成する土地の守護聖人が登場していた。こうしたガラス工芸の隆盛のきっかけとなったゴシックリバイバルという運動自体が、ネイションとしてのアイデンティティを探そうとするナショナリズムの一環でもあったことを考えると、こうしたガラス工芸作品も当時のものの考え方がかなり反映していると見ることはできそうである。