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アヴェスターにはこう書いている?
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『ルイス・C・ティファニー ステンドグラスギャラリー』

 また、ルイスがおこなった、何枚ものガラスを重ねることによる新しい表現法も画期的なものでした。(p.2)


このティファニーのステンドグラスギャラリーは小樽芸術村の似鳥美術館にある。このギャラリーで見られるステンドグラスの大きな特徴の一つは、この様々な種類のガラスを開発し、それらを重ねることによってさまざまな質感を表現しているところにあると思われた。

これがどのくらい画期的なのかをぜひ知りたいと思う。久しぶりにガラス関係の本も読んでみたくなった。そして、その後、再度、このギャラリーを訪れてみたい。



 19世紀後半、欧米でガラス工芸が隆盛したのは、フランスのゴシック大聖堂修復で中世の技法が再発見されたのが機縁だった。(p.5)


ゴシックリバイバル(それに伴うゴシック大聖堂の修復)がガラス工芸の隆盛に繋がったという流れはなるほどと思わされた。この隆盛が新たな技法の開発に繋がっていく。アール・ヌーヴォーやアール・デコの作品などにも様々な技法が使われているが、それはこうした歴史の流れの中に位置づけられるということか。


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鈴木幸壽・山本鎮雄・茨木竹二 編 『歴史社会学とマックス・ヴェーバー――歴史社会学の歴史と現在――(下)』
雀部幸隆 「ヴェーバーの政治思想研究の意義と課題」より

 こうした発言から窺えるヴェーバーの政治への基礎視点は、①国民的観点=国益第一の視点であり、②国家の統治可能性の重視であり、③歴史的地政学的諸条件の冷静な考量である(雀部1999年、185頁以下、雀部2001年、20頁以下)。
 かれは、その観点から、あくまでもドイツの世襲君主制の維持にこだわった(以下について詳しくは、雀部1999年、91頁以下、雀部2001年、23頁以下を参照)。そのこだわりがまた、あたかも「共和制」をもって人間理性の自然にかなった――だからまた自然法的に与えられた――合理的な国制と考える傾きのある戦後のわれわれのつまづきの石となる。もちろんヴェーバーは、ドイツの第一次大戦敗北後、ヴィルヘルム二世の国外逃亡によって帝制の崩壊が不可逆な事実となるにおよんで、共和政体を基礎にドイツ国家の再建策を追求することとなる。「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが併存する=代議制的統治」というのが、その回答である(WuG, 5. Aufl., S.173. 『支配の諸類型』、196頁)。しかし、ヴェーバーの「君主制」へのこだわりに釈然としないわれわれは、その場合にも、結局ヴェーバーはワイマール共和国大統領にたいして「代替皇帝」としての役割を期待したのではないか、その意味においてかれの君主主義的原思考は形を変えて生きながらえているのではないか、との疑念を払拭することができないでいる。(p.131-132)


まず、ウェーバーの政治への基礎視点として3点がまとめられているが、この整理は概ね妥当と思われる。国益第一といったとき、誰のどのような利益なのか、ということを明確にする必要がある。ウェーバーの場合、基本的には②の観点とも関係して、為政者の立場にとって好都合なものを重視していることととなる(国民一人一人の福利や権利を守ることが第一義的なものとはなっていない点に注意!)。

国民投票的大統領制と代表制的議会制の併存というアイディアも、雀部と異なり、素直に「君主主義的原思考は形を変えて生きながらえている」と解釈するのが適当ではなかろうか。ウェーバー研究者はウェーバーを批判から守ろうとするあまり、不当な解釈をすることがあるが、ここもその一つではないか。




鈴木幸壽・山本鎮雄・茨木竹二 編 『歴史社会学とマックス・ヴェーバー――歴史社会学の歴史と現在――(上)』
島田信吾 「比較歴史社会学序説」より

ドイツでは言葉を通じての議論、並びに文章を通じての“歴史”が重く見られ、それが過去の分析の中心になっていると思われる。それが一つには歴史学でもあるし、他方では歴史合理性と呼ばれるものであるのかもしれない。日本の場合、確かに歴史学的な議論は存在するし、過去の事実のテーマ化には事欠かない。しかし、社会的な傾向として、こうした言語を通じた議論はどうしても日常生活からかけ離れ、二次的なものになっているという印象を受ける。過去の意味はどうしても“歴史の中”にディスクールを通じて探られるということにはならず、いかに生存者が死者に意味付けを行うかということにあるからである。
 この意味付けが政治的な象徴性を帯びていることは2001年8月13日における小泉首相の靖国神社参拝にも色濃くに現れている。また1963年以来、毎年8月15日には、全国戦没者追悼式が行われているが、そこでの歴代の首相の挨拶の言葉を追っていくと、大変はっきりとした意味付けが行われているのが見えてくる。吉田裕が指摘するように、戦没者が生存者のための犠牲になり、今日の繁栄の礎となったという見方である。こうした追悼儀礼はもちろん一つの宗教とは呼べないが、ここで強く出ているのは、先祖があって現在があるという、時間の連続性である。この国家儀礼が日本人の戦没者の追悼を目的としている以上、この時間の連続性が国家の連続性、並びに文化アイデンティティーと深く結びついていることは明確であろう。
 さらに各地に存在する護国神社の祭りを見ていった場合、この時間の連続性が宗教儀礼を通じて人々に伝えられていっていると見なせるであろう。祭られている“英霊”と現在の間には儀礼によって関係が保たれ、後裔のために自ら犠牲となった先祖という意味付けがはっきりと見てとれる。
 ここでの歴史観は先祖から受け継いだ連続性の時間の流れであり、“現在”はこうした意味で過去に規定され、歴史の流れの他の可能性は否定される。いってみれば、この先祖のおかげでの現在というコンセプトは過去の対象化をはばみ、戦没者を加害者として見る視点を否定するわけである。つまりこうした思考は過去の“現在性”を強調しその対象化を阻む。こうした過去は結局は歴史になり得ないわけである。(p.104-105)


ある事実が歴史叙述の対象になりにくいということがありうる。この点の指摘にはなるほどと思わされた。

日本で第二次大戦や日中戦争などのことについて歴史学での研究があっても、それが参照されることなく、ネトウヨ的な自慰史観に基づく歴史物語がやたらと流通していることの要因を、上記引用文は指摘し得ているように思われる。すなわち、戦没者は現在のわれわれのために犠牲となった先祖であると意味づけられ、その犠牲により現在に貢献してくれた人である、という意味付けがされているため、戦没者は被害者としての側面だけが言われることになる。彼らの加害性は否定され、隠蔽される

客観的かつ公平公正に歴史を叙述しようとすると、戦没者を含めた当時の人々の被害性と加害性の両面を見なければならないが、「現在に貢献してくれた恩人」として(事実を知る前に、あるいは、事実を知っていたとしても、それ以上に強く)意味づけされてしまっているため、「英霊」たちの加害性を認めることができない。このような不当な信念が先立っているため、公的な場で議論をしようとしても議論が成り立たず、不毛な議論しかできない。不毛な議論ばかりが続くと、議論をしようという気も起きなくなっていく。結果、ドイツのような状況とは全く異なる現在の日本の言論状況が現れることになる、といったところか。




筒井清忠 『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』

 この経緯から、余裕があればむやみに天皇シンボルを濫用するわけでもないことがわかる。天皇型ポピュリズムに走るのは政治的に苦しい立場に立たされたときなのである(もしこのときも「大権干犯」論を持ち出せば、「俸給権干犯」論となったのであろうか)。(p.112)


天皇型かどうかにかかわらず、ポピュリズムに走るときというのは、支配や統治を行う側に対してそれに直接は深くコミットできない一般の人々が不満を持っているときなのだが、政府の側がそれに走るときというのは、他の手段が有効だと思えないときに使われるのではないかと思われる。

その意味で、ポピュリズムは「逃げ」の選択肢であり、否定的なものでしかなく、積極的に何かを作り上げていくことには結びつかないものと考えるべきではないか。



世論工作の失敗が、対米七割を達成できずワシントン会議が失敗に終わった原因と考えた海軍は、ロンドン会議に向けてその挽回を期していた。
 具体的には、新聞との意思疎通に失敗したと考えていた海軍は、ロンドン会議が始まる前に緒方竹虎ら新聞社の代表と会合を持つことにした。(p.123)


この戦前の海軍の動きは安倍政権の動きと重なる。安倍内閣はある意味では戦前の海軍と同じことをしている。

マスメディアを権力側に引きつけて世論を操作する。安倍政権の場合、このようにすることで、「妥当でない政策」を実行可能とするために「妥当ではない世論」を作り出している。「妥当な政策」であればメディアを支配下におかなくても何ら困ることはない。自らのやろうとしていることが「妥当でない」ことが分かっているから安倍政権はメディアをコントロールし、情報を隠蔽し、説明逃れを続け、文書を改ざんし、言い換えによって物事を人々に把握できなくさせている。この点を見落としてはならない。



 村田が警察部長として赴任してみると、大分県には警察の駐在所が政友会系・民政党系と二つあった。政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系・民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。結婚などは私行上のことなのでともかくとしても、土木工事・道路などの公共事業も知事が政友会系・民政党系と変わるたびにそれぞれ二つ行われていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。
 それぞれの党の県本部の下に各市町村ごとに下部組織ができあがっていて、常に党員の獲得と離党阻止に異常が努力が払われていた。しかも各支部の幹部は、日ごろから各党員の私生活にまで立ち入って、何くれとなく世話を焼いていたので、党員の団結は非常に強固で、隅々まで連絡網が張り巡らされていた。
 このような強力な組織をもって、双方の政党は、野党時代には政権党の内閣の知事の下での県職員の行動を厳重に監視し、いったん政変により政権党になると、そのたびごとに反対党の知事はじめ職員を一斉に退職させた。(p.176)


かつてのアメリカのスポイルズシステム(猟官制)が想起させられる。こうした党派的な行政運営は当然、(ここでも反対党の家の消火をしない消防などに端的に表れているように)行政の公正さに悪影響を及ぼす。

しかし、現在の日本の政治システムに目を向けると、90年代を通じて行われた政治改革や行政改革の中で、内閣府への権限集中が進んだが、安倍政権が深くコミットして作られた(注)内閣人事局の設置(2014年)は、現行の日本の官僚システムを再び猟官制に戻した(少なくともそれに近づけた)。最もそれがはっきりわかるのは佐川元理財局長による森友問題に関する態度である。官僚があのような異常な言動をするようになったのは、再猟官制化がもたらした弊害であると理解すべきだろう。

(注) 安倍内閣は、第一次内閣の際に創設に繋がる検討会を立ち上げ、政権復帰後に設置法案も提出した。



トマ・ピケティ 『格差と再分配 20世紀フランスの資本』(その2)

人民戦線が確立した新しい税率表は、それによって何が可能になるかという点においてとくに野心的なものだった。税率を平均税率で表わすことによって高所得層に対する税額をかなり増やせるが、その際、並み外れて高い限界税率を表に出さなくてすむのである。事実、人民戦線の税率表に示された最高税率(40パーセント)は、最高限界税率が60パーセントと72パーセントだった1923~1925年の所得課税時の歴史的な最大値よりだいぶ低い(表4-2を参照)。だが本質的な違いは、限界税率ではなく平均税率だということである。……(中略)……。そのポワンカレ時代の税率表と比べると、人民戦線が採用した40パーセントの平均税率は、高所得層の総合所得税の負担を著しく大きくする結果をもたらした。(p.354)


税率表が限界税率で書かれているか平均税率で書かれているかということは、税率を決める際の人びとの認識に大きな影響を及ぼす。現在のような超高所得者にとって有利な税制になっている現状においては、この効果を利用しない手はないと考えられる。



言い換えると、「200家族」(分位P99.99-100)の所得と平均所得、および「200家族」(分位P99.99-100)と高所得層の各分位との隔たりが、20世紀末のおよそ5倍以上だった時代には、最も給与の高い人々を含めて、賃金労働者を税制面で優遇することに「事実上」の根拠があったのだ。……(中略)……。超高額の資本所得が過去ほど高い水準でなくなった世界で、「所得の高い賃金労働者」に対して適用除外の税制を認めることはしだいに根拠を失っていった。(p.410-412)


給与所得と資本所得に対する課税の重さについて、興味深い指摘。超高額の資本所得が存在し、それが誰の目にも明らかであった時代には、資本所得より給与所得への課税を軽くすることに対する社会的なコンセンサスが存在したが、両大戦の時期に超高額の資本所得が大打撃を受け、さらに累進的な所得税などによってその復活が妨げられてきた20世紀末にあっては、その根拠はないとみなされるようになってしまった。



じつは、こうした適用除外の方式が帯びる重要性はかなり高いので、20世紀末に適用されている税制について「単一」の所得税という言い方をすることはおそらく誇張になる。20世紀末の所得税はかなりの程度まで、1914-1917年に確立された所得税と同じくらい「複合的」であって、本質的な違いは、いま寛大な扱いを受けているのが賃金所得ではなく動産資本所得だということである。(p.426)


この指摘は日本にも当てはまる。動産資本所得の優遇はやめなければならない。



 概して、資本所得への優遇を正当化するために第二次世界大戦直後になされた主張(戦争による荒廃、インフレなど)は1945年から今日までに著しく説得力を失い、20世紀末のフランスでそうした優遇になお意味があるのか考えてみることはきわめて理にかなっている。(p.429)


このことは日本にもそっくりそのまま当てはまるが、本書のいう通りである。



 所得税の分散化と「大衆化」の過程が「栄光の30年」と同時に終わることもまた注目に値する。前章で指摘したように、所得税は1980-1990年代には「下げるべき税」になる。1980年代初めにモロワ政権が実施した増税が20世紀最後の増税で、それ以後、所得税は引き下げる方向でしか改革できないというのが暗黙の了解になる。1980-1990年代のこうした転換がかなりの程度まで経済成長の不確実性によって説明できることは疑う余地がない。「栄光の30年」を通じて、所得が力強い伸びを示したことが、所得税増税を根拠づける口実になった(いずれにせよ、所得税は購買力の増大をきわめて部分的にしか削らなかった)。逆に、購買力が停滞した1980-1990年代には、所得税は納税者にとってしだいに耐えがたい徴収となる。(p.459)


この流れは日本もほぼ同様である。これを下げてしまったがゆえに、超高所得者への課税が軽くなり、膨大な格差が広がっていったことは21世紀も20年近く経過した現在から見れば誰でもわかることであろう。



所得税の目的は常に超高所得者の資産家に重点的に課税することであって、「高所得の賃金労働者」を標的にすることではなかった。(p.508)


なるほど。この認識は本書から得た大きな収穫だったように思う。



 1990年代末には、累進所得税の名目で申告される動産資本所得(主として「直接的」に所有される株の配当)は年に1000億フラン強である。同じ時期、源泉分離が適用される所得の総額は年に600億フランを超え、完全に非課税の各種預金口座と積立口座(A預金、青の通帳、産業振興向け預金口座、大衆向け預金口座、住宅購入積立口座、大衆向け積立口座、株式積立口座など)の保有者が毎年受け取る所得の総額は1300億フランに達する。したがって、適用除外制度が通常の規則になり、一般法の制度が例外になったと言っても過言ではないことがわかる。1990年代末には、源泉分離が適用される所得と、完全に非課税の預金口座と積立口座の所得の総額は年におよそ2000億フラン、つまり所得税納税のために申告された動産資本所得の2倍近い額である。これら二つの適用除外制度がなくなれば、つまり源泉分離制度が廃止され、完全に非課税の預金口座と積立口座すべてが、1914-1917年に制定された税法におけるように一般法としての所得税の対象になれば、累進所得税を課せられる動産資本所得の総額はおよそ3倍になるだろう。この数字から、動産資本所得に対する課税方法が20世紀を通じていかに劇的に変化したかが理解できる。(p.526)


恐らく日本でも同じような傾向になるのは間違いないと思われるが、具体的な数字としてどの程度になるのかが気になる。



1970-1996年に申告をした超高所得層は(1981-1982年を含めて)、最高限界税率の変化にはっきりした形で反応した様子はなく、超高所得の相対的水準の短期的変化をもたらしたのは、課税による刺激よりもむしろ、マクロ的経済循環(限界税率の変化とは無関係に、景気後退局面では超高所得層は他の所得層よりも落ち込みが著しく、景気回復局面では他の所得層よりも上昇が早い)である。(p.568)


前段の事実は、いわゆるキャピタルフライト論に対する批判となる事実(少なくとも過度に心配する必要はないことを示す事実)であると思われる。



アングロサクソン諸国が、今日私たちが知るような非常に不平等な国になったのは1980-1990年代のことである。イギリスは1970年代の初めには北欧諸国と同じ水準であったが、20世紀末にはヨーロッパで最も格差の大きい国になった。アメリカは1970年代初めはヨーロッパ諸国の平均値と同じ水準だったが、20世紀末には西洋諸国の中で最も格差の大きい国になった。(p.652)


サッチャーやレーガンに代表されるような新自由主義的な政策が採られた結果、どのようなことが起こるかが如実に表れている。ある意味、このように不平等で貧困層が厚い不安定な社会になったからこそ、その後、アメリカではラストベルトの人々などがトランプのようなポピュリスト的な排外主義者を称揚して支持するような事態になったり、イギリスもEUから離脱するような選択をしてしまったり、といった政治的に不安定な事態に繋がっていると理解すべきだろう。



 ただし、経済的な観点からは、1914年から1945年までに起こった資産格差の縮小が、戦後の発展した経済を活性化するのに貢献したという考え方は完全に正しく、妥当であるように思える。資本蓄積のカウンターを「ゼロにリセット」することにより、資本と権力を手に入れる方法を独占していた資本主義の古い財閥の没落は加速されたが、それは新しい世代の個人事業主の出現に有利に働いた。……(中略)……。
 したがって、この説によれば、大きすぎる資産格差の存在は経済発展と経済成長にマイナスの影響を与える。なぜなら、こうした格差のせいで、重要な決定(新たな投資、新しい企業の創設など)が一握りの国民の中で行われるようになり、価値ある計画をもっている多くの人々が決定にかかわれなくなるからである。同様の理由から、累進所得税と累進相続税は、あまりにも大きな資産格差とあまりにも大きな相続格差がふたたび形成されるのを防ぐので、経済成長にとってプラスの影響を与えるだろう。その場合、これらの税の正当性に反論することはむずかしいだろう。累進性の高い税の存在は、資本主義が生み出す最も不当な格差を消滅させるだけでなく(あるいは少なくともかなり減少させるだけでなく)、経済発展も活性化させる。とはいえ、これは仮説にすぎず、激しい政治論争が起きたとしてもどんな言い訳にでも逃げ込んでしまえるほど不確定要素が強い。事実、このような説の妥当性を、誰にでも受け入れられるような完璧に厳密な方法で証明することはきわめてむずかしい。経済成長には多くの要因があり、個々の要因を切り離すのは不可能なことが多いからである。「栄光の30年」にはすべての先進国で非常に累進性の高い税が適用されたが、明らかに、そのことが例外的に速い経済成長を達成する妨げにはならなかったことを確認するにとどめよう。(p.706-707)


資産や所得の格差が大きくならない方が経済的な活力も大きくなりやすいという説には私も同意見である。少なくとも経済の需要側を活性化させることは間違いない。供給力が需要を上回る社会においては間違いなく妥当するだろう。

少なくとも累進税が高度経済成長を妨げた事実はないという点はピケティと同様に強調する価値があると思う。



20世紀の経験は、あからさまに格差が大きくなった社会は本質的に不安定だということを示している。過去についての研究から、資本が集中しすぎると社会正義の観点からだけでなく、経済効率の点でも否定的な結果になるように思える。1914年から1945年までに起こった資産格差の縮小は、昔の資本家による財閥を衰退させ、新しい世代の個人事業主の出現を促したことで、「栄光の30年」の時期に西洋社会において経済を活性化させたというのは大いにありえることである。累進税には、第一次世界大戦前と同じような状況がふたたび現れることを妨げるという長所がある累進税が適切に適用されなければ、長期的にはある種の経済停滞が起こってしまうだろう。(p.715)


全く同意見である。ピケティは膨大なデータに基づき、厳密な方法で論証を積み重ねた結果この結論に達しているということに注意を促しておきたい。

逆進性の高い税制にしていくと経済停滞に陥る。現在の日本政府の政策を見ていくと、それが真実だとわかる日が来るだろう。ただ、誰の目にも明らかになった時には恐らく手遅れだろうが。(というか、政策の効果が表れるタイムラグが数年や十数年にわたることを考えると、因果関係をはっきり認識できる人は少数派にとどまるのだろう。)

このことに多くの人が気付くにはどうすればよいのだろう?高等教育、マスメディア、インターネットといったものの情勢を総合的に考えると、楽観視することは私には到底できない。


トマ・ピケティ 『格差と再分配 20世紀フランスの資本』(その1)

これから見ていくように、所得税とはおもに、高給与者が多い「中流階級」(分位P90-95)や「上位中流階級」(分位P95-99)ではなく、資本所得による超高所得者が分布している所得階層トップ百分位の上層に対して課税するための手段であった。(p.296)


しかし、現在の所得税は資産に対して軽い税率が適用される傾向にある。このため、十分に本来の機能を果たせていないと考えている。



限界税率の最高値が、私たちにとって長らくなじみ深いものになっている数十パーセントといった「現代的な」レベルに達するのは、第一次世界大戦以降なのである。(p.309)


所得税は導入された当初はそれ以前のいわば「伝統的」な税率であった(最高税率2%とか)。総力戦のために所得税が導入・拡大されたという面は否めない。



それに対して「限界税率」による税率表では、算出のしかたがより複雑なためにいろいろな誤解が生じ、多くの識者や納税者に、高所得層に実際に適用される税率をかなり過大評価させてしまうことがある。(p.333)


確かに。


久保田哲 『帝国議会――西洋の衝撃から誕生までの格闘』

 他方で、「天皇は国家危急の場合及公共の危難を避くる為め、内閣の責任を以て法律の効力を有する勅令を発す」とある。つまり、内閣の判断で法律と同じ効力を持つ勅令の発令が定められた。この緊急勅令には、議会の事後承認も不要であった。また、「罰則を付し及強制処分を施す」勅令も発令できた(「伊藤巳代治関係文書」)。(p.162)


これは明治憲法の規定だが、どこかで見たことがあるような感じである。自民党の改憲案は明治憲法への回帰を志向しているということがこうしたところからもわかる。(もちろん異なるところもあるが、それをもって自民党案と明治憲法とが無関係と主張するのも妥当とは言えないだろう。日本会議の目論見などを考慮に入れればなおさらである。)



金子の演説には、イギリスの貴族と異なり、日本の華族には「憲法の発達又は民権の伸暢」に大した功績がないとの発言があった。(p.220)


金子堅太郎という男は、常に他人を見下しており、彼の精神には悪い意味でのエリート意識が充満していると感じる。北海道に設置された集治監の囚人たちを労働に駆り出し、過酷な労働で死んでも財政負担が減るからよいのだといった人権意識のかけらも見られないような発言や札幌農学校は高尚過ぎて無用であるといった論も然りである。



 戦後日本の議会である国会にも、官僚が立案した法案を粛々と可決しているに過ぎず、ほとんど意味をなしていない、という見方がある。しかし官僚は、国会で可決されないと思われる法案を提出しない。国会の多数を占める与党の政策志向を考慮した法案が提出される。つまり、立法過程に国会の意向が反映されており、それは国会が存在する意義である。(p.241-242)


なるほど。しかし、小選挙区制の下では国会の意向と国民の意向のズレが極めて大きく、多くの人々の意見を代表しないという問題がある。その意味では、現行制度の下では国会の意向は反映するが、国民の意向は反映されないということが多くなっているのではないか、とは言えそうである。



 兆民は言う。内閣とは何か、政府とは何か、政党とは何か、租税とは何か、人びとはもっと考えるべきである。「今の政党家は、人民の財布の盗賊にして、又輿論の盗賊なり、既に財布を盗まれ、又輿論を盗まる。猶お是れにても考えざる乎」(『中江兆民全集』13)。(p.245)


中江兆民のこの言葉、特に「世論の盗賊」というワードは、まさに安倍政権を形容するに相応しい。



 議会開設に対する福沢の「沈黙」は、彼なりの政治論であった。過度な政治熱は、やがて冷める。政治家を崇拝すれば、自らが政治の担い手であるという、本来国民が持つべき政治意識は薄れる。それでは、議会が開設されたところで、実態は身分制度のあった前時代に戻ってしまう。(p.247)


政治家を崇拝すれば本来国民が持つべき政治意識が薄れる。確かに、ポピュリスト政治家に支持が集まっているとき、国民の側には本来の主体としての政治意識はなく、強いリーダーに従属することを欲している。崇拝するから主体性がないのか、主体性がないから崇拝する対象を求めるのか。私見では後者がより実態に近いように思われ、その意味では本書の述べ方には多少の違和感はあるが、リーダーへの崇拝と主体性の欠如(従属したがっている)という現象が同時に現れることについては的確に指摘していると思う。

ただ、政治的主体としての意識が欠けているとしても、それはある意味では大多数の人々にとっては常態なのであり、それであっても成り立つような制度が必要なのである、という点は付け加えたい。


山室信一 『キメラ――満州国の肖像 増補版』(その2)

 このように、利益線論は、次々に絶え間なく国共の先にもう一つの勢力圏をつくるという発想になり、そうでないと安全でないという強迫観念に近い考えに囚われていくことになりました。(p.326)


一見もっともらしく聞こえることがある「利益線論」だが、際限のない領土拡張論へと繋がっていくものである。外交交渉が先にあり、軍事的な手段は最後の手段であるという基本を忘れた議論(交渉不可能な敵だけがいるものと前提した欠陥理論)と言わざるを得ない。



 総務庁次長を務めた古海忠之は、「満州国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」とみていますが、満州国のみならず、陸軍がアジア各地で広範な活動ができたのも、満州国が吸い上げる資金をつぎ込めたからだともいわれています。基本的な資金源はアヘンでした。これは台湾での統治体験からつながてくる問題ですが、アヘン吸引がやがて廃人に導くことを考えれば、その廃止は当然の要求になります。しかし、一挙に廃止すれば却って社会的な混乱を招くという口実で、政府専売の形にして徐々に少なくする方針が採られます。満州国でも一応そういう形をとりましたので満州国の善政として自賛されていますが、実は密売されたアヘンが満州国の財政を支えただけでなく、機密費の主要な資金源となりました。(p.348)


旧植民地は比較及び関連性見ていくことが重要。


山室信一 『キメラ――満州国の肖像 増補版』(その1)

 1931年9月18日、関東軍は年来の満蒙領有計画を実行すべく柳条湖で満鉄線を爆破、これを「暴戻なる支那軍隊」によるものだとした関東軍は一斉に軍事行動を開始し、ここに満州事変(中国では9・18事件と呼ぶ)が勃発した。以後、約1万400の兵力をもって関東軍は奉天、営口、安東、遼陽、長春など南満州の主要都市を占領。さらに独断越境した朝鮮軍約4000の増援を得て、陸軍中央や政府の事変不拡大指示にもかかわらず、戦火を拡大して管轄外の北満へ進出、翌32年2月のハルビン占領によって東北三省を制圧するにいたったのである。
 関東軍の軍事行動がこのように比較的スムースに進んだ背景には、アメリカ、イギリスが経済恐慌から未だ回復せず、ソ連は第一次五ヵ年計画達成に余念なく中立不干渉を声明、蒋介石率いる国民党は「攘外必先安内」つまり国内統一を最優先課題として不抵抗主義を採り、全力を共産党包囲掃討作戦(囲剿(いそう))に集中していたことがあげられる。また25万の兵力を擁する東北軍の主力約11万は張学良とともに長城線以南に結集しており、残留部隊も各地に散在していた。関東軍はいわば、その虚を突いたのである。加えて、北平で病気療養中であった張学良が戦火の拡大を避けるため東北軍に不抵抗・撤退を命じたことが決定的要因となった。(p.63-64)


1930年代の国際社会において日本がおかしなことを続けることができたのは、世界恐慌などによる経済的な混乱や国際政治の混乱があり、それに乗じて平時であれば取れないような動きが取れた(取れてしまった)ということは押さえておいて良いかもしれない。



 ただ注意しておく必要があるのは、中国では軍閥の跳梁や軍費の増大に対して、「裁兵」という軍備縮小論が孫文をはじめ、つとに論議されていたし、王道政治の重要な一環として軍隊をもたないという主張も、けっして于冲漢だけのものではなかったという点である。……(中略)……。さらに国際的にみても1928年には「国際紛争解決のため戦争に訴うることを非とし、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄する」というパリ不戦条約が締結されており、軍備放棄という議論自体はけっして于冲漢のとっぴな発想というものではなかった。しかしながら、その不養兵主義を貫くために戦争遂行を至上課題とする軍隊である関東軍に国防を全面的に委任したところに、この不養兵主義理念の矛盾とイロニーがあったとみなさざるをえないであろう。だが、翻って考えてみれば、不養兵主義という平和主義を理念に掲げつつ、国防を他国に委任し自らの国土を戦略基地として提供するという構図は、どこか戦後日本が選択した方向と似通ってはいないであろうか。大いなるイロニーはけっして于冲漢ひとりのものではなかったし、それを過去のこととして笑殺し去ることもできないようにも思われるのである。(p.87-88)


興味深い指摘。



満洲問題が一段落ついたら、何か彼地で事業を試みようという、いわゆる仕事師、思惑師、利権屋という連中が、今から早くも、押すな押すなと出かけていく。満蒙とは特殊の関係ある当大阪市でも、近く商業会議所、実業団体等で一団を組み、視察の名のもとに利権あさりの瀬ぶみをやることになった。



 満州建国が日程にのぼりはじめた1932年1月22日、『九州日日新聞』は、大阪での動きを伝え、商機が満蒙の地に芽生えつつあることを報じている。こうした論調は利権や商機の可能性の示唆から確実性の強調へと次第にトーンを上げつつ各紙に頻繁に現われるようになり、それがまた満州国の出現を期待する世論を盛り上げる相乗効果を生んでいったのである。そして、満州国の出現とともに、この論調は頂点に達し、希望の大地への熱気はいやが上にも高められる。
 ……(中略)……。
 満州国建国がなぜわが国にとって経済的救世主たりうるのか、そしてなぜ満蒙が起死回生の新天地と目されたのか。もちろん、それは確固たる裏付けに基づいての展望ではない。たんなる希望的観測であるにすぎない。というよりも、そうした過剰なまでの期待が吐露されたのは、世界恐慌にまきこまれ、冷害・凶作に追い打ちをかけられてどん底に突き落とされた感のあった日本経済が、その行きづまりを突破する最後の脱出口を満州国に求めざるをえなかったことの反映でもあった。(p.185-186)


「事実を無視した国策」と「国策に乗じたメディア」による煽りが果たした役割に注目しておきたい。政策は事実に基づいて構築されるべきであり、メディアは批判的な視点を持たなければならない。