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西村幸夫、埒正浩 編著 『証言・町並み保存』(その2)
「峯山冨美 ―小樽― 運河と共に生きるまちは過去・現在・未来に生きる人たちの共同作品」より

 今は、小樽の人たちに、自分の住んでいる町がこんなにすばらしい遺産を持っていたのか、この町で暮らせるのは本当に幸せだという意識の変化があったことが運河問題の一番の収穫だと思っています。(p.36)


運河問題は10年ほどかけて展開されてきたのだが、確かに運動が始まった頃と終わる頃では、市民だけでなく日本全体として地域の持つ歴史的遺産に対する考え方は変わった。このインタビューが行われたのは2004年であり、今から14年以上前のことだったりする。運河とその周辺の木骨石造倉庫や銀行建築などが大事なものだという認識は共有されてきたし、現在も恐らく続いていると思われる。

すなわち、小樽では運河問題という歴史的経路を通ったことによって地域のアイデンティティが形成(再形成というべきか)された。しかし、現在、運河問題を同時代のこととして生きた世代は次第に高齢者になりつつある(峯山さんも数年前に他界されてしまった)。その当時の社会の動きを肌で感じてきた人々が次第に社会の前線から見えなくなっていく。それが現在の情勢である。運河問題を通して得られたものから、今後引き継いでいくべき精神ないし方針とはどのようなものなのか?そのことを市民が見定めていくべき時期に来ているのかもしれない。



 今小樽は「雪あかりの路」(図10、11)という催しをやっています。……(中略)……。
 三十年経っても、運河を守る活動の延長に新しいまちづくりが続いていることがいいんです。形は違っても運河と小樽の町を意識するためのお祭りですから。運河を中心としたまちづくりはこれからも小樽の町に続いていくだろうと私は信じています。
西村 ポートフェスティバルが今の雪あかりの路に形を変えて伝わっているということですが、両方ともたしか実行委員会方式で、毎回役者が代わって手を挙げた人がやる形になっていますよね。あれはなかなかいい制度だと思います。同じ人がやっていくと疲れてきますが、毎年新しい元気な人が出てきて、つながっていく。(p.38)


ポートフェスティバルも雪あかりの路も「運河と小樽の町を意識するためのお祭り」というのは、非常に的確なとらえ方と思う。

実行委員会方式というのも、活力を維持しながら続けていくには確かに良い方法と思う。



峯山 私は決して市に対して恨みがましく思っていません。議会の議決を経て予算がついたものは断行するという市長さんの立場もよくわかる。それに私たちが異を唱えたのがそもそも無理なんです。私は無理を承知でみなさんとやってきた
 ……(中略)……。
西村 そうして計画は少しずつ見直されていったわけですが、あの埋め立ては峯山さんにとって許容範囲だったのか、それとも許されないのか。どうですか。
峯山 私はそういう気持ちはさらさらありません。十年間皆と運動を進めることができて、市民の意識が変わったことの方がよっぽど嬉しいのです。運河の幅ではなく、町に生きる人たちの意識の問題です。先輩のすばらしい働きがあって今があるのだ、小樽の町を大事にしようと市民が思えたことの方が意味があると思っています。(p.39-40)


本書では何人ものまちづくりの先駆者たちの証言が掲載されているが、私の見るところではやはり峯山さんが最もすごい人だと思っている。懐の深さというか、人間としての大きさが感じられるからである。無理を承知としながらも、十年間も大変な苦労をしながら運動を進めてきた。それも様々な立場の人をまとめながら。市に対する態度もクリスチャンらしい許しの精神が感じられる。



 一番困るのは、例えば「俺の小樽」とかいう変なのぼりを立てて観光業者が入り込むことです。全国の観光業者が町並み保存ができたところに容赦なく入ってきて雰囲気を壊してしまうんです。それに強く意見を言えるような役所でなければならないと思います。私は早速やめさせてほしいと役所に申し入れたのですが、自由経済の時代にそんなことは言えないと一蹴されました。(p.42)


自由経済だから言えないという当時の役所の対応は妥当とは言えないだろう。景観条例などによって規制できる可能性はあると思う。法令や条例の制定なしにですぐに行政指導的に言うのは確かに無理がありそうだが、条例制定などによって対応できる可能性は十分あるのではないか。



「小澤庄一 ―足助― 本物にこだわる古くて新しいまちづくり」より

地域づくりというのは、本当に地域らしいもの、つまり地域文化を取り入れることが絶対必要だと思うんです。だから歴史勉強の中から、世界的なものはないとしても、この地域固有のものはきっとあるはずだということを考えたわけです。(p.126)
その地域らしいものを取り入れるというのは、まちづくりの核心ではないかという気がする。それを見定めることに資するように地域の歴史などを学ぶ。峯山さんも学びながら運動するということを言っていたそうだが、このあたりのコンセプトは小澤氏と峯山さんで共通しているように思う。まちづくり運動のネットワークの中である程度共有されている考え方なのだろう。

自分の住んでいる地域なり市の「地域らしいもの」は何か、と言われると、意外なほどそれを言い当てるのは難しいと感じる。何かを見て「地域らしい」かそうではないかを感じ取ることはそれほど難しくないが。この違いはいったい何なのだろう?



大部分の周辺施設を見ましても、流行りでやってだめになったようなものが多いですから。戦略的に長い期間かけて勉強して、その中からいい計画を立てるということが足りなかったんだろうと思うんです。(p.138)


地域について学ぶ、それも戦略的にじっくりと長く、ということが重要。



 ディズニーランドの仕掛けのようにいつも投資をして目新しいことをやっていくのは企業の論理です。そうではなく地域の論理でやれることをやらないかんと思うんです。だから、いつもいつも本物を追い求める姿がなければいかんと思います。(p.139)


おそらく「地域の論理」と言われていることは、じっくりと勉強して見出した本物の地域の文化を取り入れてまちづくりを進めるということであろう。

先日読んだ小樽の事例についての研究を、この「地域の論理」と「企業の論理」という対比を用いると、現在の状況を捉えるのに役立つように思われる。

小樽運河保存運動に当てはめて言えば、小樽運河を守る会は当初、「地域の論理」に基づく主張をしていたが、当初メンバーではなくもう少し若い世代の主張は、運河や倉庫は文化的な価値がある遺産だということを理解している点では「地域の論理」に根ざしているが、観光のための活用という運動の影響力を高める効果があった部分は「企業の論理」によっても意味を見出しうるものだった。

しかし、運河問題が半分埋立てという結果となり、守る会が分裂の上、瓦解すると、実際の観光開発の主流となったのは「企業の論理」に基づくものであった。このため、地区が歴史的景観として指定されていたり、建物が文化財として指定されていたりすると容易に改変できないところもあるが、それ以外のところは次第に景観の改変が進んでおり、売られているものなども地域とはあまり関係のないものが主流になってきている。この流れを見直し、「地域の論理」を改めて導入していくことが大事な時期に来ていると理解している。


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西村幸夫、埒正浩 編著 『証言・町並み保存』(その1)
西村幸夫 「「町並み保存運動」由来記――日本において「町並み保存」はどのようにして生まれたか」より

 つまり妻籠と同じような危機的な状況におかれた町並みにおいて、同時多発的に危機に目覚めた人々が出現し始めたんである。そして、町並みの危機自体が仲間の応援を要請し、それがさらなる町並み保存のネットワークにつながった。それだけでなく、町並み保存の論拠を確固としたものにするために都市計画の制度や各種事業の仕組みを学ばなければならず、そのことが町並み保存運動の深化をうながすという予期せぬ効果もあった。(p.16-17)


市民運動ないし社会運動が学びと共にあることは、町並み保存運動の特徴の一つであると思う。

ただ、市民運動とか社会運動は一般的に言ってに、そもそも学びと共になければ持続していくことが難しいものなのではないか、という気がしてきた。運動はまずは知ることから始まるし、問題を解決するためにも様々な知識に基づいて解決策を考えていかなければならないのだから。



 欧米先進国では町並み保存の仕組みは、詳細な地区計画や都市計画の中に制度として組み入れられている。そして、保存をめぐる住民の声も民主的な手続きによって都市計画へ反映させることが形式上可能となっている。したがって、町並み保存を推進しようとするグループの主張は、個別の民間運動というかたちをとるよりも、都市計画の手続きの中で意見を表明し、計画や政策へ反映させるというプロセスを取ることが一般的である。
 対する日本は、こうした都市計画制度の発達がいま一歩であり(形式上は整っていたとしても、効果的に機能しているかどうかは疑問である場合が多い)、住民の町並み保存の<おもい>はいきおい単発の運動として発現せざるを得ないということになる。
 つまり、日本の町並み保存において運動的側面が強いというのは、都市計画の制度が未熟で硬直化しているために住民の意向を汲んだ臨機応変の対応が困難であることに起因していることが少なくない(もちろん、妻籠のように都市計画以前の過疎問題が深刻だというところもあるので、一概には言えないが)。
 他方、興味深いことに、日本の都市計画が制度上の問題を孕んでいるというまさにそのことのために、日本の町並み保存運動は困難な合意形成というプロセスそのものに運動団体として取り組まなければならないことになり、結果的に柔軟な合意形成を地道に達成する能力を鍛えられていくことになったのである。(p.20-21)



制度に頼れないことから市民運動が発達してきたこと自体は悪いことではないが、安定性や持続性に欠ける。特に制度化を進めることは重要である。


陳來幸・北波道子・岡野翔太 編 『交錯する台湾認識 見え隠れする「国家」と「人びと」』
松本充豊 「民主化後の政党政治――2016年選挙から展望される可能性」より

ひまわり運動には馬政権への批判・反発だけでなく、既成政党である民進党への不満が表れた側面もあった。馬政権を十分に監督できず、国民党の横暴を許したのは民進党だった。(p.26-27)


選挙で選ばれる議員や政党が有権者を代表するというのが代議制民主主義だが、この代表が有権者の意見を代表していると認められないとき、市民運動(社会運動)を通して意見を表現するという手段がありうる。台湾では代議制が機能しないとき運動により社会に訴えることが盛んだ。国民党、民進党のいずれも不十分であるとき、制度化された代議制民主主義は、その人々にとっては役に立たないため、直接民主制的な手段を使う誘因が高まる。

ちなみに、「野党がだらしない」などと日本ではしばしば言われるが、これはかなりの程度的外れな批判である。なぜならば、小選挙区制だからである。小選挙区制は投票された数と議席数が非常に大きく乖離してしまう制度だからである。この制度の下では、与党は有権者から実際には与えられていないほど大きな権力を行使できてしまい、野党は本来与えられるべき力よりも遥かに小さなことしかできないようにされてしまう制度なのである。だから、小選挙区制では常に有権者にとっては違和感のある結果しか出ない。したがって、「野党がだらしない」と直感的に感じるとき、批判すべきは野党ではなく、選挙制度の誤りを正すべきだ(より比例的な制度を採用すべき)と主張すべきであり、さらには、与党に対して負託されたこと以上のことを恣意的に行ってはならないと批判すべきなのである。



宮原暁 「台湾とフィリピン、そして日本――「近さ」と「隔たり」の政治学」より

台北市内に「バンカ」(Bangka)という先住民の言語に由来する地名があるが、この語はタガログ語を始めとするフィリピン諸語で「船」を意味する。(p.50)


台湾原住民は太平洋の人々と関係が深い。フィリピンと台湾はバシー海峡を隔ててすぐ隣であり、台湾とフィリピンの関係の深さに着目することは台湾理解のために意外と重要な着眼点であると思われる。



ちなみに基隆と淡水で要塞の建築にあたったのは、福建省などからマニラに来ていた職人たちであったといわれる。(p.50)


大陸とフィリピンと台湾は意外と近いということだろう。距離だけでなく関係も。



やまだあつし 「1940~50年代の日台経済関係――分離から再統合へ」より

 台湾からの輸出の中心であった砂糖も、国と国との間の貿易になったことで問題が生じた。日本統治期の台湾糖はジャワ糖に比べて割高であり、日本は関税で台湾糖を保護していた。……(中略)……。しかしながら、外国となってしまった1950年代において台湾糖の割高さは、日本国にとってはマイナスでしかなかった。(p.82)


日本による台湾の植民地統治を語るとき、台湾経営は比較的成功していたと語られる。このとき、産業としては製糖業に触れられることが多い。そのような場合にジャワ糖より競争力がないので保護していたということはまず語られない。しかし、当時の社会の実相を知るにはこうした側面も含めて理解することが必要である。



近藤伸二 「ノーブランドのIT大国」より

 このような独立志向は、台湾の近代史を反映した結果でもある。戦前からの住民である「本省人」は人口の80パーセント以上を占めながら、国共内戦に敗れた国民党政権とともに戦後、中国大陸から台湾に移ってきた「外省人」が支配する公営の大企業で働く道は閉ざされていた。そのため、自分で会社をつくらざるを得なかった。台湾企業の97.7パーセント(『2016年中小企業白書』2015年)が中小企業であるのは、こうした理由による。(p.114)


中小企業が多く、企業の回転も速いという台湾社会の経済的特徴は歴史的な構造の影響も受けながら形成されてきたものという理解は社会の現状認識として重要と思われる。



 04年にはその一人である大物実業家の許文龍氏を、中国共産党機関紙の人民日報が名指しで批判した。許氏は筋金入りの独立派と見られていたが、05年になって突然、台湾紙・聯合報に「台湾と大陸は『一つの中国』に属する」と表明した書簡を発表し、台湾社会に衝撃を与えた。
 許氏が創設した樹脂大手の奇美実業グループは、中国で大規模な事業を展開している。聯合報は後日、許氏の書簡は、傘下企業が中国で円滑にビジネスが行えるようにするのと引き換えに、中国側が許氏に公表を迫ったものだと伝えた。台商は、中国に生殺与奪の権利を握られているのが現実なのだ。(p.115)


一党独裁であり、法よりも人(権力者)が優位に置かれる人治の国であり、表現の自由も結社の自由もいろいろな自由が制限されている、中国。経済活動に政治的な介入をするのが当然と思っているが、ここでのやり方はひどい。



 台湾企業にとって、中国の人件費高騰も頭痛の種だ。
 アジア各国の製造業作業員の月額基本給(15年10月時点)は、中国424ドルに対し、タイ348ドル、インドネシア250ドル、ベトナム185ドルなどとなっている。中国はもはやアジアで人件費の安い国とは言えないのが現実だ。
 ……(中略)……。
 中国では、30年以上も続いた一人っ子政策によって少子高齢化が急速に進んでおり、15~59歳の生産年齢人口は12年から減少し始めた。(p.122-123)


一人っ子政策→生産年齢人口減→賃金上昇 という経路の因果関係が存在している。

台湾企業は言語の共通性や地理的な近さなども加わり、早期から大陸に進出してきたが、このことが逆に東南アジアなどへの進出というある意味「合理的」な選択を妨げる効果も発揮しているというのが現在の台湾の状況といったところか。(新南進政策は進めている。)



王惠珍 「1960年代台湾文学の日本語翻訳活動について――『今日之中国』における文学翻訳とカルチュラル・ポリティクス」より

 1960年代初頭、アメリカによる東アジアの戦略的位置づけに変化が起こり、台湾に対する経済援助政策も見直されることとなった。そこで、国民党政権は、「旧植民者」であった日本の資本を経済発展の資源として導入せざるを得なくなり、日本をよく知る本省人の人材を起用して、日本の投資を呼び込むための宣伝になるような刊行物の主編集者とした。こうして『今日之中国』が誕生したのである。(p.125)


台湾では「美援」がなくなることで日本からの経済援助が復活するのだが、そのために雑誌メディアも活用したというのは興味深い。



黄裕元 「誰がここで他人の歌を歌っているのか――「日歌台唱」にみる、台湾人の世代交代とその交差点」より

 戦後初期の台湾で、「古い国語」となった日本語は人々から切り離され、文化商品の流通も多くの制限を受けることとなってしまった。一方、「新たな国語」となった中国語は、まだ社会的にも脆弱なものであったがゆえ、社会の共通語とも言うべき「台湾語」で創作が行われたことは自然な現象であった。(p.246)


戦後初期の台湾における言語の状況についてだが、中国語がまだ脆弱だったという指摘にはなるほどと思わされた。


石島紀之 『雲南と近代中国 “周辺”の視点から』

 雲南の交易で注目されることは、第一に雲南が外の世界にひらかれた1890年代から1930年代にかけて、東南アジアの半島部との経済的交流が中国の近隣諸省とのそれを大きく上回っていたことである。これは海関の設置と滇越鉄道の開通によって東南アジア半島部との交流が容易になったためであり、他方、隣接した諸省との交通はなおきわめて不便で、かつ西南諸省内では戦乱がたえなかったためである。(p.58-59)


雲南省と現在の中国の他の省よりも東南アジアの半島部との方が経済交流が活発だった。さらに言えば、この時代には中国の中央政府の勢力・権力は十分に雲南を掌握するような水準になかった。つまり、経済的にも政治的にも、当時の雲南省は中国という単位の一部とは必ずしも言い切れないような位置づけにあった。そうだとすれば、この時代になっても中国は「国民国家」ないし「近代国家」としての枠組みを十分に構築しきれていなかったと言えるのかもしれない。

中国は領海や領土について、清朝の版図を取り戻すことに執念を燃やしているようだが、清朝の版図は国民国家的な境界線によって支配されたことは一度もなかった、ということを一方では踏まえながら、彼らの主張を理解するよう努める必要があるように思われる。最終的には、彼らに対してもこちらの見方について理解させることが必要であるように思われるが、ほとんどの中国人は冷静になれない話題だと思われ、頭を柔軟に働かせてこれを理解できるような人は非常に稀であろうと予想される。

国民国家的に支配したことがない地域まで現在の国民国家の本来の領土だと主張するならば、例えば、ドイツは神聖ローマ帝国の版図をすべてドイツ領だと言わなければならない――少なくとも、そう言うことができる――ことになってしまうし、同様にイタリアは地中海を囲むローマ帝国の版図すべてを領土だと主張できることになってしまう。)



たしかにフランスは鉄道をおさえ、東方匯理銀行(Banque de L'Indo-Chine)の支店を昆明に設立して外貨・金融をコントロールし、郵政・通信をおさえるなど同省の政治・経済に強い影響力をもっていた。しかし、貿易に関していえば、雲南にとっての主要な輸出入の取引地は香港だったのであり、貿易に関してはむしろイギリスとの関係の方が大きかったのである。(p.60)


滇越鉄道がフランスの支配下にあったことから、フランスの影響が強いのかと思いきや貿易はイギリスとの関係の方が大きかったというのは、本書のここまでの行論からは意外だった。ただ、幕末の日本もフランスとイギリスの帝国主義下での競争という面が大きかったことや英仏の植民地獲得競争の激しさなどを考慮するとそれほど意外性はないかも知れない。



滇越鉄道は雲南の文化や風俗にも大きな影響を与えた。……(中略)……。またフランス風の生活スタイルが流入し、昆明では早期の洋風の建築はほとんどフランス様式のものとなった。フランス料理のレストランも営業され、フランスのブランデー・ビール・コーヒーなどが愛好された。(p.61)


以前、昆明に行ったときは石林などを見るのがメインだったので、近代建築はあまり見なかった。フランス風だったかどうか、ちょっと注意してみてみたかった。



 国民政府は、1929年に「禁煙法」を公布したが、この法律は効果がなく、1930年代に蒋介石の統治が確立して以後、アヘン禁止が実行にうつされるようになった。蒋介石が積極的にアヘン禁止を推進したのは、アヘンの害を除去するという表向きの理由のほかに、アヘンに依拠して財政収入を維持していた地方権力者を弱めて全国の統一をすすめ、さらにアヘン禁止の過程でその販売を掌握することにより経済的利益をあげ、紅軍攻撃の軍費にあてようとする意図があったからである。(p.178)


アヘンの禁止と地方権力者の弱体化が結びついているというのはポイントだろう。

日本による台湾統治で後藤新平がアヘンの漸禁政策をとったとき、日本への抵抗運動の鎮静化という政治的効果を狙ったほか、専売制にして総督府の歳入にしたが、中央の権力にとって都合の良い効果を期待してアヘン政策が使われた点には類似性があるということは抑えて良いかも知れない。(時期的には台湾の方が少し早いようだが、参照されたり影響を受けたということがあるかどうか?)



 抗日戦争時期には中等教育も一定の発展をみせた。それは雲南が国際的な援華物資受入れの要衝に位置し、交通運輸業と商業が発達したことによって、いくつかの重要都市が繁栄したからであり、また沿海諸省などからの諸機関や大学・中学の移転が雲南の教育の欠陥だった中学教員の数の不足と質の低さを改善したからである。(p.231)


雲南省は日本との戦争の際にその地位を高め、政治的にも経済的にも文化的にも重要性が増し、繁栄した。しかし、戦争という環境がなくなると急速に低迷(分野により現状維持)していった。



 省都昆明の近代的都市化にとって、抗日戦争はさらなる発展の転機になった。昆明は抗戦の重要な基地の一つとなり、とくに沿海地域が日本軍によって占領されて以後は、中国と外界とを結ぶ国際路線の枢軸となった。また1940年秋以後、日本軍がベトナムを軍事的に支配し、42年にビルマと雲南西部を占領したことによって、抗戦の前線を支える拠点にもなった。これらの諸要素が結びついて、昆明は近代的都市として拡大し、発展したのである。(p.235)


雲南省の中でも昆明は特に強く抗日戦争によるプラスの影響を受けたようである。


丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その3)

朝鮮戦争は、台湾における中華民国の事実上の主権状態が成立した起点でもあり、それがなければ、今日私たちが知る台湾はあり得ていない。台湾は大陸から派遣された解放軍によって「解放」されていた可能性が高いのである。その意味で、朝鮮戦争という出来事は、台湾においてタブー視されている。(p.94)


朝鮮戦争によってアメリカが台湾を西側に組み入れることにしたため、国民党は台湾で生き延びることができた。国民党にとっては触れられたくない事実であることは確かだろう。ただ、現在は当時の国民党の政権とは異なる状況になっている。現在においてもタブー視が継続しているのだろうか。それとも過去にタブー視された期間が長かったため、多くの人々にその重要性が忘却されてしまい、誰も(多くの人が)「論じることができない状況になっているのだろうか。この辺りは気になるところである。



 本書は、大陸中国内部の政治・経済状況について深い分析と洞察を展開する任を持たないので、天安門事件にかかわる原因について深くは触れられないが、この事件は、大陸中国国内では改革開放政策の挫折と認識されるものであった。その背景には、都市における市場経済の導入によって国有財産が民間に転化される際、多くの政府関係者がそれを私物化する不正行為が現れ、また国有経済と市場経済の価格・給与の二重化によって、都市生活者に不安と焦燥を与えていた事態があった。市民たちは、学生が主張した「民主化」や「表現の自由」というスローガンには乗ったものの、大きな意味での不満の種は、それら改革開放の都市への適用の失敗に由来するものだった。
 しかし台湾や、日本も含めた西側のメディアでは、経済政策的な側面からの説明ではなく、西側「民主主義」の基準から、共産党の一党独裁を批判する、という態度を採った。ちょうどその頃台湾では、徐々に直接選挙制度による政治決定(議会政治)のルートが整備されつつあった。その意味で、この天安門事件は、民主主義的制度が整いつつある台湾、そしてそのような制度とは無縁な大陸中国、という二元論的な認識の構図を形成することとなった。これ自体を誤ったものとは認定できないものの、こうした単純化された構図によって大陸中国で発生する現象全てが裁断される傾向が生まれ、台湾における大陸中国認識についてマイナス面が形作られるようになった。(p.98-99)


確かに、天安門事件に関して日本で語られるときは、現在でも民主化されていない一党独裁の下では、国家権力によりいかに悪事がなされるか、といった文脈で語られている。このこと自体は確かに間違ってはいない。しかし、なぜ中国の人々が政府(共産党)に対して抗議や要求をしたのか、ということまで考えに入れれば、本書が指摘するように改革開放の都市への適用の失敗が要因となって起こった事件であると捉えるのが妥当であろう。この事件について語るときは、忘れられがちな点をしっかりと念頭に置きながら語るべきであろう。



そこで、サンフランシスコ講和条約の発効の日付、1952年4月28日をもって、日華平和条約が締結されることになった。……(中略)……。
 ……(中略)……。条約を取り交わしたことで、初めて正式な二ヵ国間外交関係が発生し、東アジアにおける中華民国(台湾)の安定的位置が定まった、との見方も可能となる。
 中華民国は、元より米国と外交関係を持っていたが、台湾に移った後の体制による関係の構築という点では、後の米華相互防衛条約の締結を待たねばならなかった。日華平和条約は、台湾に居を移した中華民国体制にとっては、逸早き援助となった。日華平和条約は、戦後補償の点から実質的な賠償請求の取り下げというマイナス面があり、日本が放棄した領土の帰属先を明確にできなかったとはいえども、台湾において中華民国が存続するためには、是非とも必要な契機だったのである。(p.132-133)


なるほど。賠償請求をしないことにしたのは、そうしてまで締結したいだけの理由が中華民国(国民党)側にはあった、ということか。少なくとも、戦後数年間の国民党が置かれた状況というのは、それほどまでに不安定なものであったという点は理解しておく価値があるかもしれない。



 最後に、陳水扁(前)総統が自身の家族も含め不正な金脈を蓄積したという疑惑が第二期の任期の途中より深まり、馬英九の総統当選の後、正式に司法当局によって逮捕・起訴された事態について若干補っておきたい。この出来事は、民進党支持者に大きな衝撃を与えることになったが、実はそれだけではなかった。と言うのは、第二期目の選挙において、疑惑の「銃撃事件」が介在したことにも起因するのであるが、選挙万能論に対する反省が生じたからである。後期の陳水扁は、台湾メディアにおいて、「民選皇帝」とも呼ばれていたが、選挙で当選したならば何でも可能となるその権力振りに対して、党派の立場を超えて不信感が広がっていた
 ……(中略)……。国政レベルでの選挙制度が完成していることが、これまで大陸中国の政治と自分たちとを分かつ大きなメルクマールとして台湾の民主主義的優位を象徴していたわけであるが、それへの疑義が僅かながらも生じるようになったのである。(p.161-162)


選挙に当選後、そのことを不当に利用して強権を行使する権力者たちが、日本でも00年代以降、散見される。

安倍政権でも、森友学園問題や加計学園問題はそのような動きが隠れて行われていることが明らかになった事例と言える(安倍政権は隠蔽と虚偽とごまかしを重ねることによって非を認めようとはしていないが、出てきた証拠に基づいてみれば、何が起こっていたのかの概要は誰の目にも明らかだろう)。これらは中国の官僚がその地位を利用して私腹を肥やすのと大差ない行いであるが、安倍政権に関して言わなければならないのは、合意を得る努力をせずに(正直に話をすれば多数の同意を得られないと分かっているが故に本当のことを語らないようにしてごまかし続けるという事例を含む)数の力だけで通した法案がいくつもある。特定秘密保護法然り、共謀罪法(これは「テロ等準備罪」というごまかしを含むネーミングで印象操作をしている)然り、集団的自衛権の行使容認(これも「平和安全法制」などというピントの外れた印象操作ネーミングを政府は使っているようだ)然り、また、特定の方向に回答を持っていくように作った調査を行い、それに基づき「裁量労働制で働く方の労働時間の長さは、平均な、平均的な方で比べれば、一般労働者よりも短いというデータもある」などという印象操作を行おうとしたことが暴かれてしまったため、裁量労働制の部分は取り下げたが、労働者は誰も望んでいないに等しい「高プロ」(このネーミング自体も印象操作であって、実際には「労働時間等に関する規定の適用除外」と言うのが正しい)を導入する働き方改革法然り。

他にもいろいろと自治体の(元)首長などで指摘したい者たちがいるが、それを書くことが本題ではないので今回は割愛する。いずれも白紙委任を受けたかの如く振舞うのは誤った振る舞いであると理解すべきであり、制度的にこの誤りを防止するような仕組みが必要だと思われる。

なお、本書によると台湾には選挙万能論への反省が出てきたというが、日本ではまだまだこうした反省の機運は弱いように思う。やはり日本よりも台湾の方が民主主義や共和主義に対する人々の感度は高いように思う。


丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その2)

つまり、日本人の台湾原住民への関心は、そのような日本人の「中国コンプレックス」の跳ね返りとして解釈され得る、ということである。(p.38)


霧社事件が日本人が台湾原住民に対して持った強い思い入れの象徴となったことに関連するコメント。



 しかし、真珠湾攻撃から太平洋戦争が勃発すると、南方戦線への兵士の供給の問題が強く意識されるようになり、翌42年には、軍に志願することがまた「許可」された。以後の三年間に、漢人系が4200名、原住民約1800名が陸軍特別志願兵として徴集され、その他海軍なども含め約1万7000名が軍に「志願」したとされている。さらに戦争末期になると、終に内地と同様、徴兵制がしかれることとなった。それまでは、台湾人に広範に武器を渡すこと自体に危険がともなう、と見做されていたようである。いずれにせよ、こうして敗戦までに20万を超える台湾住民が戦場に送られ、そして3万人以上が亡くなったのである。(p.39)


台湾の人々は戦時中もすぐには徴兵されなかったということはよく目にする。武器を渡すこと自体に危険が伴うと見なされていたというのは、なるほどと思わされた。確かに、台湾の人々の一部は日本が台湾を領有するようになってからもしばらくの間は武力で抵抗していたし、皇民化運動が進められていたのも、ある意味ではやはり異質だと前提しているから同化させようという発想になるわけだから、為政者側はやはり台湾の人々(本島人)を完全には内地人と同質化していない人々と見ていたとは言えそうである。(軍隊は特にそうした見方をしそうだ。)



日本から台湾の歴史を見る場合、特に戦前の植民地期の台湾のあり方を考える場合、このような世代のギャップが存在していることを見逃してはならない。日本の植民地統治は、初期の武力平定期から、特別統治主義による統治の時期、そして内地延長主義の時期、さらに最後の皇民化期など、政治、経済、文化全般にかかわる政策モードが変化しており、どの時期を見るかによって、植民地台湾のイメージは変わったものにならざるを得ないのである。(p.41)


日本や中国に対する見方も、どの時期にどのくらいの年齢だったかという世代ごとにかなり異なったものとなっている。最近20年くらいの間に生の声を聞くことができた人の多くは、皇民化期にはまだ社会に出ていないくらいの世代であるが、この世代とそれ以前の世代とはかなりのギャップがある。武力平定期に既に大人になっていた世代や十分に物心がついていた世代と、そうした武力平定の時代にはまだ生まれていなかったような世代とでは、日本に対する印象を訪ねても全く異なるものになる。

この点は本書を読んだ最大の収穫だったと思う。



 50年代の台湾は、米国による有形無形の援助を受けていたことで、反共の砦として米国の世界冷戦戦略の中の重要拠点に位置づけられるものとなっていた。第二次世界大戦に敗れた日本は相対的に、台湾社会において比較的影の薄い存在になっていた。50年代に書かれたり記録されたりしたものを読んでも、日本に対する言及はあまり出て来ない。日本の存在は、台湾社会の関心からは遠ざかっていたのである。その日本が台湾社会において、もう一度存在を主張しはじめるのは、60年代の半ば、日本の文脈で言えば東京オリンピックを成功裡に終え、高度経済成長のラッパを鳴らした時期である。日本がもう一度、韓国、台湾、東南アジアへと「進出」をはじめた頃でもあった。
 歴史的メルクマールとなるのは、1965年である。……(中略)……。
 ……(中略)……。戦後台湾は、軍事分野その他様々な領域において一貫して米国からの「援助」に頼った経済建設を行っていたわけであるが、その「援助」が、1964年に失効することが取り決められていたのである。これは主に、米国の財政難によるものであったが、これをカバーするように、台湾の経済を支える日本のイメージと存在が、この頃から台湾社会の中でせり上がってくる。(p.51-52)


なるほど。台湾における日本の存在感は薄かった時代があったというのは、昨今の台湾と日本との関係から見ると意外にすら思える。ただ、この時代の台湾社会を牛耳っていたのは大陸から来た外省人たちであり、白色テロの下で言論の自由も制限されたことなどを考えると、それほど不思議ではないことがわかる。その背後に「美援」(アメリカによる支援)があり、他の地域に頼る必要性がなかったのであればなおさらであろう。

ただ、当時の台湾にとって最も重要な関係であったアメリカとの関係において、援助が打ち切られるとなれば、一挙に台湾社会の置かれた状況は変わってくることになる。本省人たちによる日本とのネットワークも活用できる、もともと繋がり深かった日本との関係を模索するのは当然であっただろう。日本側も高度成長の下で経済的に海外進出が必要になってきていたという事情がそこに重なってくる。



 ここで注意しなければならないのは、この俳句の会「台北歌壇」の成立が、1968年だということである。前節で述べたように、1945年以降に遠ざかっていた日本の存在が、この時期、観光客や進出企業という形で再び台湾人の目に触れるようになっていた。そのようなタイムラグを経た再会によって、皇民化世代の人々の中で自身の青春に対するノスタルジーが掻き立てられた、という言い方が成立しよう。(p.56)


皇民化世代(日本語世代などとも言われることが多い)が日本に対してかなり好意的な印象を持つにいたる要因。しかもこのタイムラグの間には国民党による白色テロの時代が始まり、この時期も継続していたのだから、なおさら好意的に記憶が再構成されやすかっただろう。



 八田與一の顕彰にかかわる戦後のプロセスは、非常に興味深いものである。忘れてはならないのは、水利事業は全て日本総督府の予算だけで完遂したものではなかったということ、その建設に働いたのは、ほとんど地元の台湾農民であったという当たり前の事実である。八田與一の顕彰には、植民地統治時代という歴史的環境にありながらも、その事業を成し遂げた「自分たち」への誇りの感覚が被さっている側面を見逃してはならない。八田與一の顕彰について、日本側では、日本統治が台湾人に大きな恩恵を与えたとする論拠に充てる傾向もあるが、植民地統治の中に含まれている様々な側面を慎重に推し量る必要がある。(p.57)


八田与一に関わる言説には、私も違和感を感じてきたが、日本側の八田与一顕彰言説の多くが持つ問題点を的確に指摘してくれている。


丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その1)

 ここから出兵までのプロセスであるが、それは日本単独の力では為し得なかったということが歴史資料から分かっている。牡丹社事件を知った清国アモイ駐在の米国総領事リゼンドルという人物が、米国駐日公使デ・ロング(C.E.De Long)を通じて維新政府に台湾出兵を進言したとされる。かつて1867年、米国政府は二隻の艦艇で台湾に侵入したものの(これをローバー号事件という)結局は拠点を作り得なかったが、米国側はこのとき、地図などの資料を作成していた。リゼンドルは、日本の台湾出兵に際して、この資料を維新政府に引き渡しているのである。政権の実権を握っていた大久保利通がリゼンドルの意見に興味を示し、九州を中心とした不平武士たちの余剰エネルギーを台湾への出兵にあてることとなった。
 ……(中略)……。つまり維新政府は、近代国家としての領土概念を戦略的に用いたということ、またそうした知識は西洋列強(米国)によってもたらされたものであったというところが肝要である。(p.21-22)


台湾出兵はアメリカ側からの進言や助言、資料提供などのサポートがあって行われることになった。日本はこれにより近代国家の論理を学習した。



 翌年台湾に乗り込んだ劉銘伝は、台湾の海防と殖産興業を一体のものとし、基本的な政策として、海港防衛、兵士養成、租税体系の整備、原住民対策の充実をめざした。……(中略)……。この近代化路線は、その政策の大胆さから、すぐに財政難に陥ることになり、任期半ばにして劉銘伝は台湾を去ることになる。しかし台湾における近代化は、清朝における「洋務運動」の一環として推し進められて行くはずのもので、1895年の日本による領有がなければ、台湾はそのまま中国の一部としてさらに近代化が進展したことが予想される。(p.26)


日本における台湾の歴史紹介本などの中では、劉銘伝による近代化は不十分なものとされ、例えば鉄道も粗末なものだったので日本の技術で作り直さなければならないところがあったことなどが強調される傾向にある。これは台湾を近代化したのは日本なのだという主張に繋がり、この主張は、日本は台湾を植民地化したが良いこともしたという主張へと明示的であれ暗示的であれ結び付けられる傾向がある。こうした方向性に妥当性が全くないとは思わないが、あまりにもこの方向だけで解釈するのも一方的であり植民地統治を正当化したい人たちの受けを狙いすぎのようにも思う。

本書のように劉銘伝による近代化路線というものが大陸の洋務運動に連なるものであったという理解は、日本統治前の台湾の状況を理解する上で重要であり、上記のような「日本的な解釈」を正しく位置付けるために必要な要素の一つであるように思われる。ただ、劉銘伝の路線ですら財政難で実施できなかったという点やその後の中国の政治の乱れなどを考慮すると、日本統治がなくても近代化は進んだであろうということ自体には異論はないが、植民地統治を成功させるために大金をつぎ込んだ日本による政策よりも積極的に推進されることはなかったのではないか、ということくらいは言えるのではないか。



 この戦争は、双方に大きな被害を出すこととなった。日本軍の死者(病死者も含む)だけで5000人にも上り、実に日清戦争の過半数にも相当する。これは、日本の歴史教育でも留意されなければならないことである。台湾領有戦争は、日清戦争本体の「おまけ」のような扱いか、あるいはその情報自体、取り上げられていない。日本において台湾認識を作る上でも、この台湾領有戦争の軽視は問題であると言えよう。
 また、この戦争によって、当時の台湾住民の中に、日本の台湾領有に対する態度をめぐって大きな亀裂が生じたことも念頭に置かなくてはならない。一つに、中部南部において激しい抵抗戦争が発生したことと対比的に、台北など北部においては、流血の事態を避けるため、日本軍の入城に協力した地主・郷紳層が現れ、後に日本の植民地統治の重要な協力者となったという事実である。もう一つは、日本総督府が布告した台湾籍民(日本臣民)への転換を潔しとせず、大陸へと渡って行った人々も多く存在したという事実である。(p.30-31)


日清戦争後に台湾を領有することになったが、その初期の段階では台湾の住民から激しい抵抗を受けた。この時の日本側の被害について日本の歴史叙述は無視、軽視しているという。この犠牲者数は台湾認識を形成するにあたり重要な事実であると思われる。台湾の人々は当初はそれほど歓迎していたわけではなかったという認識は重要。

後段の2つの方向性については、日本における歴史叙述では前者には触れられることが多いが、後者は無視される。どの程度の数いたのか(資料がないので難しいだろうが)なども示されればなおよいように思われる。



 今日、日本でも台湾でも台湾領有戦争について語る機会は、さほど多くないが、それはなぜなのか。台湾の統治がこの後、51年にも及んだことが挙げられるかもしれない。日本の植民地統治が終了した時点で、台湾領有戦争のことを経験として記憶している世代はごく少数はとなり、日本による台湾植民地統治を語る際には、勢いその末期の数年のみが語り草となっていたことが予想される。……(中略)……。そのために、日本の植民地経営が軌道に乗っていた時期の経済建設の記憶や、日中戦争の勃発に伴って進展した皇民化運動(台湾人を日本人化するための施策)の持つ鮮明な記憶が前景化する中で、台湾領有戦争の記憶は、歴史の重さというよりも記憶の重さの点で、薄められることになったと考えられよう。(p.31)


なるほど。このような日本統治期の台湾人の世代による認識の相違に留意する必要があるという点は本書から得た収穫の一つだった。



 では、台湾投資のためのコストへの不安を押してまで台湾の植民地経営を続けていくことに、どのようなメリットがあったのか。それは結局のところ、台湾の植民地経営を立派に「成功」させることにより、西洋列強と同様の地位を主張するところに最大の眼目があったからである。だから、台湾における公的な建物や道路などのインフラ整備には、内地以上に重視された部分も見受けられる。(p.32)


後段の部分は、日本統治時代の学校建築などを見るとよくわかる。例えば、現在の立法院(日本の国会に相当)や台北当代芸術館などは、それぞれ高等女学校と小学校の校舎であった。



さらに後藤は、抗日勢力を分断する企図として、臨時台湾旧慣調査会なる組織を立ち上げ、台湾の生活文化、商文化を徹底的に調査させたが、この仕事は、後の満州における南満州鉄道調査部に繋がる日本植民地統治の一つの方法論を作り上げた、とも言える。(p.33)


こうした各植民地の統治方法の連続性や差異には興味がある。台湾については概要はだんだんわかってきたので、他の地域のこともそろそろ調べてみたいと思い始めている。



 さて、この二つの植民地経営の方法について考察すると、後藤の中には、当然の立場として帝国植民地主義者でありつつも、「科学」的認識から民族の「他者性」を前提にしていた発想があったことが指摘できる。翻って、原敬の内地延長主義は、彼がクリスチャンであったことからも、西洋型ヒューマニズムに基づいた思想的背景を持つ志向性の為せるものと見られていた。しかし、皮肉にも十数年後、内地延長主義的な植民地統治理念は、究極の民族同化とも言える「皇民化運動」に道を開いたもの、という解釈も成立する。差別と同化は、表面的には反対の意味内容を持つものの、実際の植民地統治においてこの二つの概念は密接に結びついた機能として把握されるべきものである。(p.34)


後藤新平の特別統治主義と原敬の内地延長主義。権力に相違がある二つの集団が結びつく場合、どちらの考え方を採用しても暴力的な側面が出てくることは避けがたい。権力の相違があるという構造自体が様々な形をとりながら暴力として作用する。このように考えるべきではなかろうか。



ここで一つ確実に言えるのは、この時期の大陸中国における「近代」の展開、つまり辛亥革命から五・四新文化運動を経て、国民革命に至る道程について、台湾は完全にその外側にあったとも言えないということである。台湾の知識人は、大陸中国で起こりつつあることを直接間接的に採り入れつつ、日本の植民地統治への抵抗を模索していた。(p.35)


この視点、大陸と台湾との関係性について、従来の日本から見た台湾認識においては軽視ないし無視されていた。この点に焦点を当てているところに、本書の持つ重要性があると思う。


岡本全勝 『明るい公務員講座』

 私は、部下が説明に来てくれたら、その案を作るに当たって誰に相談したか、どのような前例や類例を調べたかを聞きます。ただし、何でも前例通りでは困ります。それらの中で最も良いものを参考にして、それをさらに良くするか、あるいはこれまでの事例を前提として、違った発想でより良い案を考えてほしいのです。あなたの能力を発揮するのは、前例を踏まえた上での、改良であり改革案です。(p.31-32)


行政に関するステレオタイプ的な非難として前例踏襲ということが言われた時代があった(現在でもなくなったわけではないだろうが)。確かに行政に限らず広義の官僚制のような組織(当然、多くの民間企業も含まれる)では、前例踏襲をベースとして動かざるを得ないとか、あるいはそのように動くのが最も自然であり無駄も少ないといった場合は多い。その中でそれをどのように改良したのかということは著者が言うように重要なポイントである。本書の特徴は、多くの個所が(明示的であれ暗示的であれ)上司の立場から書かれることによって、よい部下とはどのように振舞うべきものなのか、といったことを感得できるところにあるように思う。同時に、上司の側から書かれることによって、読者の側も部下に対してどのように対処するかということの参考にもなり得ているように思う。この分野の本で本書は結構売れているようだが、こういったところにも要因があるのではないかという気がする。



 そもそも、「きょう中に片付けなければならない」というような、スリリングな気持ちを味わわなくてもよいように、めどを立てて、早め早めに片付けておくことが重要です。そのためには、1日単位で仕事を管理していては駄目なのです。例えば1週間単位で管理しましょう。来週中に片付ける課題一覧を、書き出しておきます。きょうの予定をきょう考えているようでは、駄目なのです。(p.44-45)


今日の課題を今日考えているようではダメ、というのは、私も仕事をするようになってすぐに気づいたことだった。確かに、「仕事ができない」と周囲から言われるような人は、大抵こうした状態かそれに非常に近い状態にあるように見える。

本書を読んで参考になったのは、1週間単位で仕事を管理するという点である。ここまではっきりと単位を決めて管理するというところまでは私も考えていなかったかもしれない。仕事が発生する時期と今やっていることをこなし終わるまでにかかる時間、さらにイレギュラーが発生した際に対応するための余力を計算に入れて比較的大きな仕事のまとまりの期間で考えていたが、単位を明確化することによって、さらに細かく進行管理ができるように思われる。試してみたい。



「仕事ができる」という評価には、相手に信用されることも含まれます。(p.169)


確かに。信用されるかされないか、どのくらい信用されるか、ということは、相手によって変わってくることになるから、同じ人の仕事ぶりであっても人によって評価は変わってくるということにもなる。



 格言にあるように、あなたは、他人を外見で評価してはいけません。しかし、あなたは外見で評価されていることを、忘れてはいけません。(p.169-170)


なるほど。良い心がけかもしれない。本書(著者)の価値観は評価されて出世することを是とするところから書かれているので、その目的にとっては非常によく適う行動規範であると言える。そうでない場合であっても、このような基準で振舞うことは相手に良い印象を持ってもらえるものであり悪いものではない。



出来の悪い部下は、あなたを磨く練習問題です。そう思って、平常心を保ちましょう。(p.210)


確かに。しかし、「出来の悪い上司」の場合は、「練習問題」程度では済まされないことが多い。人事が情実で行われたり、上司から見て使いやすいだけの者が昇進するような組織だとこうした問題が頻発することになる。



石井伸和 『小樽志民 運河保存運動の市民力』(その2)

 そもそも「運河論争」とはマスコミが用いた言葉で、保存派・埋立派が同じテーブルで議論したのは、始まりと後始末の時だけである。渦中で両派が「論争」したことはない。「運河論争」より「運河問題」といった方が正しい。(p.84)


なぜ同じテーブルで議論ができなかったのか、ということを考えると、どちらが拒否したのかと言えば体制側に立っていた埋立派が拒否していた面が強いことは否定できないだろう。

このことは、現在の安倍政権が森友問題や加計問題に対してどのような態度を示してきたか、問われたことに対してまともに答えたことがどれほどあったか、といった問題とも通じている。権力を行使する立場を与えられた人間に対して、権力行使の自由を無制限に与えてはならない。規則による規制(立憲主義)だけではなく、他の同等の権力などによる抑制と均衡(権力分立)などが極めて重要である。現在の安倍政権に見られるような問題に関しては、政治からの行政の独立性(立法府からの行政府の独立性ではなく、「政治家であると同時に行政を担う内閣のメンバーでもあるような者」と「理念的には純粋に与えられた使命を実行する行政官僚制の構成員」との間の独立性[※])が必要であろう。

[※]今の制度では内閣が高級官僚の人事を握っており、官僚が内閣にいる政治屋が正当性のない恣意的な権力行使をした場合であっても、これに対して抵抗が難しい制度になってしまっていることが問題である。

また、本書は小樽に関する本であることから、ついでに述べておけば、つい2週間ほど前に選挙で落選した森井前小樽市長のように、自分にとって都合の良い人間たちにだけ、法令や例規を無視して恣意的に利益を分配していく(漁港に自分の支持者だけ規則に反して観光事業を行わせて漁業者の事業を妨害したり、除雪の事業に自分の支持者を無理やり捻じ込んで混乱を生じさせたり、庁内の人事も規則に基づかずに知己を昇進させたり、自分の応援団を参与に任命しほとんど何も仕事をしていないのに月30万円の給料を予算の根拠を得ずに税金から払い続けた)といった権力の恣意的な濫用がされてしまったことも、権力に対する抑制が現代の政治行政において不足していることを明らかにしている。

前市長は、この件について市議会等がどのような指摘をしても回答らしい回答を示すことができなかった。負託を受けて権力を行使するという立場(政治家及び行政)においては、その権力行使が正当なものであることを説明する説明責任が生じるのだが、この説明責任を果たしていない場合、その権力行使には正当性がないということになる。このような説明責任を果たす(これは代議制民主主義における政治家のイロハのイであろう)ことすらできない無能ぶりであったから、前小樽市長に対しては、市議会等による指摘は、ある程度の歯止めにはなったが、もし、口先では説明したふりができるくらいの知性は持ち合わせている人間が同じようなことを行った場合、安倍政権と同じような事態にもなりかねなかっただろう。



「負けた原因は権力ある者のみが既成事実を積み上げることができ、その事実がぬきさしならないところまで蓄積されたということじゃないか」(p.191)


上でも述べたように、権力を行使する立場を与えられた人間に対して、権力行使の自由を無制限に与えてはならない。それによって、権力側がこのような既成事実を積み上げさせることができないようにしなければならない。これはまずは制度的に権力抑制の仕組みがあり、かつ、それが機能しなければならない。その上に政党なども、この権力は抑制されるべきであるという理念をできる限り前提として共有していることが望ましく(現在の日本では「保守」を名乗る反動勢力――自民党の多くの議員もここに含まれる――には、このことが共有されていないのが極めて大きな問題である)、さらに社会運動・市民運動といったものによって権力抑制の仕組みの実効性を担保していかなければならない、ということではないか。



「新しいまちづくり」の方向性として「観光振興」が当然のように議題に挙がった。
 昭和60年2月22日、第4回目の議論の中で、菅原氏が突如議論に水を差すように「観光するほど落ちぶれていませんよ」と発言された。我々は「えっ⁉」と絶句した。菅原氏こそが運河埋め立ての影の実力者と見ていたから、その彼が「なんと時代錯誤な物言いをするのか」と驚いた。
 明らかに時代錯誤ではあるが、こういう大人が小樽には少なからずいたことも事実である。この観光への偏見は1920年代の植民地観光に端を発しているらしい。持てる国の人々が持たざる国へ避暑観光に訪れ、持たざる国の人々を奴隷として使役したことが世界中に伝播した。ここから落ちぶれた地域の産業が観光とイメージされるようになった。(p.193-194)


1920年代頃には世界的な観光ブームがあったが、そのことの一つの側面として興味をひかれた。

ちなみに、いつから観光(観光業)のイメージが変わっていったのか、どのような変遷をたどってきたのか、ということも興味があるところである。



 自民党、公明党、社会党、地区労、小樽商工会議所の五団体が新谷氏推薦団体となった。以後長く続いた小樽市長選挙の保革相乗りはここから始まった。十数年間に亘る運河攻防の疲れでもある。(p.206-207)


ここでは「疲れ」として総括されているが、個人的にはこれは運河を巡る攻防に対する一種の反省であり知恵というべきではないか、と考えている。

事前に多くの団体で合意できる範囲で物事を進めることで、運河問題のような市の分断を避けることができる。このような反省に立った知恵の産物なのではないかと思うがどうだろうか。

そして、これはさらに言えば、「五者相乗り」として既成勢力の既得権であるとして否定することで2014年に当選を果たした森井前市長が、当選後に何をしたかということを考えても、このような「相乗り」は必ずしも悪い面だけではないことが見えてくるのではないかと思う。

すなわち、森井は先に述べたように、自分と近い関係にある者だけに法令や例規等を無視して恣意的に利益を与えた。一部のものだけに恩恵が集中し、それ以外の市民は極めて大きな迷惑をこうむっている(除雪が来なくなった、バスがなくなった(少なくなった)、漁業者の事業が妨害された、市議会の空転により本来議論されて進められるべきことの多くが足止めされた、予算の裏付けすら取れなかった参与に数百万の税金が無駄に払われた、無能な職員が昇進し、そのような人物により多くの税金で給与を払うことになっている等々)。

五者による保革相乗りは、ある意味では、こうした小さな範囲だけに利益を集中させるような権力の恣意的な濫用を事前に予防するような体制だとも言える。保革相乗りは、人材のいない市町村の首長を担いでいくには、必ずしも悪い方法ではないように思われる。人選の段階でも市内の有力者の間で一目置かれるような人から選ばれるのだから、どこの馬の骨ともわからない人物が突然やってきて恣意的に市政をかき乱すという危険は少ないからである。また、ここ10年くらいのドイツなどでは大連立が普通のことになっており、それと大差はないとも言えるということを付け加えておく。

(もちろん、こうした相乗りや大連立に危険や欠点がないとまでは言うつもりはない。特に反対者がいない(少ない)ことによる権力の暴走という可能性も状況によっては考えなければならない。しかし、一般的に言って、小さな市町村レベルでの人選のシステムとしては安易な「既得権益たたき」よりは遥かにましな可能性が高いと思われる。)



 活性化委員会による「小樽グラスアートセンター」の構想が完成した昭和61年3月、我々は横路知事に報告に出向いていた。概略説明の後、斉藤秘書官が「すでにこの計画には道として20億円の予算がつけられています」と語ったことを覚えている。しかしこの20億円は、平成2年開館の「運河プラザ」と平成8年開館の「小樽交通記念館」に使用されてしまった。なぜ活性化委員会の答申を新谷市長が反故にしたかは未だ謎である。(p.210-211)


活性化委員会の答申が顧みられなかったという話は知っていたが、運河プラザ(現在、これと同じ建物に小樽市総合博物館運河館も入っている)と交通記念館(現小樽市総合博物館本館)に道からの予算があてられたとは知らなかった。グラスアートセンターという発想も面白いが、博物館は重要文化財(手宮鉄道施設)の動態保存などにも繋がっており、博物館も地方博物館としては比較的(学芸員などの)スタッフも充実しているとも聞いているので、現在の時点から振り返ってみると、新谷市長の選択はあながち間違った選択でもなかったのではないかと思う。



 まちづくり運動を担ってきたのは小樽のまちづくり運動家である。彼らの圧倒的多数は観光産業とは直接関係のない職業に就いている。一方、小樽で観光施設を営む約八割は市外資本である。極論すれば、まちづくり運動を進める人々には観光の恩恵が直接ないのに、営業行為に専念する観光業者、それも外様資本がその恩恵を一身に受けている構図になる。(p.227)


小樽で観光施設を営む約8割が市外資本というあたりの議論は、先日このブログにもアップしたとおり、堀川三郎が『『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』において、一応データを用いて反論していた。

ただ、この堀川のデータは市の観光地域のごく一部しかカバーしていない点に難点があり、彼が言う「堺町外部資本神話」に対する反証は成功していない。一方、本書のような市民の一般的な見方にも裏付けは示されていない。データを取れば調べられることなので、この説の妥当性は検証されるべき問題である。


石井伸和 『小樽志民 運河保存運動の市民力』(その1)

 昭和25年生まれの興次郎は札幌の喫茶店「ドッコ」に勤務していた。古道具が好きで札幌・小樽の古道具屋や古物商を暇があれば回っていた。独立するつもりで札幌北24条界隈に喫茶店を計画していたが、昭和48年にドッコのオーナーに誘われて、アムステルダム、パリ、バルセロナを巡った。そこで古い建物がレストラン、カフェ、アンティークショップなどに利用されているのを目の当たりにし、「これはまるで小樽だ!」と震えるほどの興奮を覚えた。(p.20)


運河保存運動に参加してきた人々には、いろいろな動機に基づいていろいろな人々が参加してきた。ここで触れられている興次郎や山口保などのように、運河とその周辺の町並みを保存することは、現状のままの凍結保存を求めるのではなく、これらを再利用していくことで街を活性化させていくという志向を示していた人々がいたが、彼らの多くがヨーロッパなどを訪れた経験を持って当時の小樽に接した時に、ここで述べられているようなある種の閃きがあったようだ。

このことは、私自身が00年代頃に経験したことと共通性があるように思われ、興味深い。当時私も毎年のようにヨーロッパや中東などの国々を訪れ、いろいろな街並みや建物などを見て回っていた。私の場合、ヨーロッパで重厚な石造建築を見た後に、現在の日本の家々を見ると、いかにもすぐに壊れそうな安っぽい建物が並んでいるように見え、ネガティブな印象を持っていたが、いつからか小樽に点在する木骨石造の倉庫などは、他の場所には同じようなものは(まとまったものとしては)なかなかないことなどに思い至ると、これはこれで貴重なものなのではないかと思い直すに至ったという経験がある。私のこの経験は、運河周辺の状況は本書が描いている時代とは大きく異なるが、「外」に目を向けた後、「内」に目を向けなおすことで、「内」だけを見ていたのでは気付かなかったことに気づくことができるようになったという点で共通性があるように思われる。



 平成25年、小樽市内の喫茶店数は74軒しかないが、昭和55年には215軒もあったから三倍である。主に珈琲を媒介に喫茶店が地域の様々なコミュニティを形成した。小樽は昭和39年に人口20万7千人のピークを迎えた。小樽の人口ピーク時に生まれた子供が成人を迎えるのが昭和59年であるから、人口構成から見れば昭和59年までは小樽にも多くの若者が居住していた。この215軒の喫茶店は若者コミュニティの拠点となり、中でも既述三軒がやがて小樽運河保存運動を担う若者の最大のステージ「ポートフェスティバル」の巣窟になっていく。(p.22)


昭和59年にはまだ若者が多く小樽にいたという説明の論理が興味深い。この論理だけでは厳密には正しい推論とまでは言えないが、大まかにはこのように考えることで人口の趨勢が数字を見なくても見える



 それはボタンの押しどころの問題やと僕は思っとる。守る会が市長相手になんぼゆーたかて相手にされへん。だから峯山さんは全国に訴えた。外的戦略に切り替えたんや。地元のボタンではなく全国のボタンを押したことになるんや。せやからこんな大きな波紋になっとんねん。逆に小樽市民も驚いとる。全国で騒がれとる我が街の運河って、そんなに大事なものかってな。今度は小樽市民がただの汚い運河を見直さなければという、遠隔操作的な働きを持ってきたんや。というより街の公共物をどうするかは全国共通の課題でもあるんやけどな。
 僕らのポートかていっしょやで。署名や陳情で行政を相手にしていては埒があかんと思ったから、市民世論を味方につけようと考えたんや。つまり行政手続きより政治基盤となる世論を喚起してきたってこっちゃな。ええか、政治決定を遂行するのが行政でも、政治決定に持ち込むのが世論という位置づけなんや。そこで市民を味方につけるには明るい祭りがええとなって、これを実践したら市民の半分が運河に足を運んでくれたんや。
 守る会が全国の世論に、ポートが市民の世論にターゲットを定めたというこっちゃな。
 ここがかつての学生運動と違うとこや。過激を方法とする革命に走れば運動ではなくなるんや。世論に基づくから民主主義がある。ところがこの世論ってやつは、あるようでなく、ないようであるんやな。世論への浸透をあきらめてしまって過激に走り、一歩間違うと暴力にさえなってまう。(p.78-79)


行政を直接相手取っても動かすことが難しかったので、全国や市民の世論に訴えるという戦術に切り替えたことが上手くいった。特に最後の一段落は興味深い。「世論はあるようでなく、ないようである」このようなものであるからこそ、最後の最後は押し切られざるを得なかったのではないか、とも言えるように思われるからである。


黒瀧秀久 『榎本武揚と明治維新 旧幕臣の描いた近代化』

北方圏をめぐる日本とロシアのせめぎ合いは、東アジアの“アルザス・ロレーヌ”の如き位置に樺太(サハリン)や千島列島がおかれることとなる。ロシアとの勢力争いは、イギリスとの“グレート・ゲーム”の代理としてわが国が出発しなければならなかったという位置づけからはじまったともいえよう。(p.6)


ロシアとの勢力争いについて、グレートゲームの代理として出発したという評価は、事後的に見る(後付けで評価する)とそう見えるのだが、日英同盟などが締結されるより前の段階でここまで言ってよいかというと疑問に思う。



 なお、北海道開拓には、先述したようにアメリカの外国人技師が関わっていたが、ケプロンと榎本武揚は資源開発の方法や運送方法について対立していた。
 鉱山の開発方法について、榎本は自ら見つけた有望な炭鉱は直ちに開発すべきだと主張したのに対して、ケプロンはもっと北海道全体を調べてから開発する鉱山を決めればいいと主張した。石炭を運ぶ輸送方法については、榎本は産炭地の空知から日本海側の小樽を主張したのに対して、ケプロンはアメリカ資本を導入する考えで太平洋側の室蘭まで鉄道を敷設することを主張したとされている。榎本はオランダ留学の経験から小樽が良港になると考えていたのである。(p.70)


ケプロンが室蘭からの輸送を考えていたことの動機が興味深い。当時のアメリカでの北海道開拓に関する主な関心は、経済的なメリット(アメリカ製品の輸出先であり、資源の輸入元になることへの期待)にあったことに留意しておきたい。



 1885(明治18)年12月、わが国ではじめて内閣制度が設けられ、第一次伊藤博文内閣が成立した。榎本は日本初の伊藤内閣において逓信大臣に抜擢された。閣僚10名のうち薩摩藩と長州藩出身者がそれぞれ4名を占め、残るは土佐藩出身者1名と榎本で構成されていた。「薩長にあらずんば人に非ず」と言われた時代を象徴するような顔ぶれであったが、その中で旧幕臣出身者の異例の抜擢は、能力が認められたからこその結果であった。(p.90)


明治前半における日本政府の構造が現れた人事。



 しかしながら、これら榎本の功績は、これまで至当に評価されることはなかった。例えば、幌内、空知石炭山は、後に大規模炭鉱に発展するが、この発見は榎本の功績でありながら、現在ではケプロン、ライマンらのお雇い外国人の功績となっている。(p.157)


薩長の藩閥政治の中では、榎本という旧幕臣の功績とするよりは、彼らが連れてきたお雇い外国人の功績ということにしておいた方が薩長出身者たちにとっては都合がよかったということが、このような評価の背景にあったのだろうか。(榎本も薩摩の黒田が連れてきたとは言えるが、お雇い外国人と異なり、榎本はその後も日本で仕事をし続けるため、彼らの立場を脅かし得るという違いがある。)



そして最後には、「明治維新」は倒幕の主体である「薩長・土肥」のみがつくりあげたと言われてきたが、実はこの近代化には膨大な旧幕府系の人々の参加があったからこそ、成し遂げられ得たのであり、表面上の薩長の国家のトップの下には沢山の旧幕府系を含めたテクノクラートが存在し、近代化を担い続けたのである。(p.167)


旧幕臣たちが明治の近代化を支えたという点は非常に重要である。「官僚制の普遍性」という、さらに一般的な事実をも想起しておく必要があるだろう。

なお、旧幕臣たちは行政官僚制の中に組み込まれただけではなく、渋沢栄一などのように実業家として日本の近代化を担っていったような人々もいたことにも留意したい。