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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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水野俊平 『台湾の若者を知りたい』
★台湾には多くの友人がいるので、台湾の社会のことはそれなりに知っているつもりだったが、本書が扱う小学校入学前から大学までに至る生活については全く知らなかったことがいろいろと載っており、興味深く読むことができた。

台湾の大学では「入学式」が行われません。その代わりにあるが「新生輔導」です(「新生」とは新入生のこと)。……(中略)……。
 最初に「国旗」に敬礼して「国歌」を斉唱した後、校長の祝辞と教職員の紹介があります。これが終わると、サークルの公演や大学の各部署の紹介、大学生活のガイダンス、校歌の学習などが昼食と休憩をはさんで8時間にわたって行われます。この行事を仕切っているは大学に配置されている軍訓教官です。(p.110-111)


本書を読むと台湾の学校は日本と比較すると生徒の自主性を重んじる傾向がはっきりしている。しかし、それとはまったく方向性を異にする、独裁政権の時代(または戦前の日本統治時代)に設けられたと思われる慣習がしばしばある。こうした慣習は儀式の場面などにはとりわけ顕著に出ているのかも知れない。「国旗」に敬礼し「国歌」を斉唱するというあたりのほか、台湾の高校や大学にはここで触れられている「軍訓教官」なる軍人が配属されていることなどにそれが見て取れる。私としては、軍訓教官の存在には非常に驚いた。



「日本人はメイクや服装に気を遣う」という回答ですが、台湾人の目には、日本の女性が厚化粧に見えるようです。台湾の女性のメイクは日本の女性に比べて全般的に薄く、ノーメイクであることも多いのですが、おそらく、これは気温が高く、汗でメイクが流れやすいためです。また、気候が暑い台湾ではTシャツにショートパンツだけでも十分で、服装に気を遣う必要がありません。そのため、台湾人には、日本人が男女問わず外出時の服装に非常に神経を使うように見えます。(p.172-173)


台湾人が服装にそれほど気を遣わず、メイクも薄いのは、暑い気候が要因であるという点と、このように薄化粧であることが普通である社会から見ると、日本人はメイクや服装に気を遣っているように見えるという。なるほどと思わされた。


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ウォルター・ミシェル 『マシュマロ・テスト 成功する子・しない子』

赤ん坊がどれだけ愛情をこめて優しく育てられたか、あるいは、どれだけ残酷で冷淡な仕打ちを受け、放置されたり虐待されたりしたかは、子どもの脳に刻みつけられ、子どもの将来を左右する。赤ん坊のストレスレベルが慢性的に高い状態にならないようにし、安心で安全を感じられるように緊密で温かい愛着の形成を促すことが決定的に重要だ。(p.72)


ストレスレベルが慢性的に高くならないということは、赤ん坊の時に限らず重要であると思われる。



人生の最初の六年間における子どもの経験は、衝動を調整し、克己心を発揮し、情動の表現をコントロールし、共感や気配り、良心を発達させる能力のおおもとになる。(p.75)


しばしば3歳児までの育て方が大事だと言われ、それに対して「3歳児神話」などとして批判するような言説もある。幼少期の育て方が人生に及ぼす影響を絶対化するようであれば行き過ぎということにはなるだろうが、本書のここでも指摘されているようにやはり幼少期にどのような経験をするかということが重要なものであることは否定することは難しいのではないかと思う。



すなわち、幼児を過剰にコントロールする親は、子どもが自制のスキルを発達させるのを妨げる危険を冒しているのであり、一方、問題解決を試みる際の自主性を支え、奨励する親は、子どもが保育園から帰ってきて、どうやってマシュマロを二個手に入れたかを嬉々として聞かせてくれる可能性を、おそらく最大化しているのだろう。(p.78)


過剰にコントロールすることと問題解決の自主性を支えること。言葉で書くと反対のことのように見えるかもしれないが、実際には、過干渉にならないようにしながら、望ましい方向へと方向づけていくというのが子育ての難しさの一つではないかと思う。



誠実さや正直さ、攻撃性、社交性といった特性はそれぞれ、一貫した表れ方をする。だがそれは、特定の種類の状況下にだけ当てはまる一貫性だ。……(中略)……。したがって私たちは、人が将来しそうなことを理解したり予想したりしたければ、その人がどういう状況で誠実だったり、愛想が良かったりするか、あるいはそうではないかを見てみる必要がある。(p.122-123)


この辺りは、説得力があるというか、漠然と認識していたことをより明確にしてくれたように思う。テレビのワイドショーなどで事件などを取り上げるとき、犯人の人柄などについて近隣の住人にインタビューをして、「あんな真面目な人がどうしてこんなことを…」などというようなありきたりのコメントを垂れ流すような場面がある。私はこのようなものを見せられるとき、いつもここで本書が書いているようなことを感じていた。ストレスを特に感じたりしないような場面で関わりの深くない人に見せる言動とそれとはまったく違う場面での言動とが同じだと言える根拠なんてないだろう、と。また、仕事の場面では課題に対して非常に真面目に取り組むのに、仕事以外の交友関係や異性関係や寝食などの生活態度などとなると非常にだらしない行動を示す人というのもいる。人を評価する際は、一つの場面だけを見て判断してはいけない。

本書で述べられていることは、これよりさらに一歩先にまで及んでいるのがすごいところだ。ある人がどの場面でどのような行動をするのかという傾向が分かれば、その人の行動を予想して、善い方向へと誘導することができる。



その出来事が終わってから、しばらく待ってじっくり考えさえすれば、すべてうまくいく。心理的な免疫系が一生懸命働いてくれるので、私たちは過去を振り返り、その旅行は行くだけのことはあった、その催しは出席の仕甲斐があった、論文は書く価値があった、家族での外出も全体とすれば絆を強める良い経験だったと思える。(p.162)


大野哲也は『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』において、バックパッカーたちが自身の旅を振り返り、自己成長の物語を形作っていくことについて指摘しているが、バックパッカーたちがしていることは、まさにこの引用文で述べらえていることであるのが興味深い。



 全体として、対人関係でのネガティブな体験について考えるときに自発的に自分と距離を置いた人はそうしなかった人と比べて、軋轢を解消するために建設的な問題解決の戦略を使う傾向が強かった。いちばん興味深かったのは、次の点だ。あまり自分と距離を置けない人々も、パートナーが彼らに対してネガティブにも敵対的にもならないかぎり、仲たがいしたときにより望ましいかたちで対処できたが、パートナーが現に敵対的になると、存分にやり返し、敵意を激しくエスカレートさせた。あまり自分と距離を置けない人ととてもネガティブなパートナーという組み合わせは、二人の関係の将来を害しかねないような、敵意をエスカレートさせる定式となったのだ。(p.184-185)


こうした距離をとる能力は、私の場合、ウェーバーのWertfreiheitを自分なりに実践していくことによって、それ以前より伸ばすことができたと感じている。


堀川三郎 『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』(その4)

 筆者はまず基礎的作業として、当該地区の最南端にある「オルゴール堂」前交差点に接する一角の22筆の土地について歴史的変遷のデータを蒐集した(図6-6、図6-7)。……(中略)……。これにより、1889(明治22)年から1990年代までの一応の土地所有関係が把握されたことになる。……(中略)……。

 表6-13から直ちに読み取れることは、地区内の土地所有が、個人から法人所有へと変化してきているということだ。現在のところ、地区内22筆は、ほとんどすべて、法人所有である(cf. 表6-14の網掛部分)。
 つぎに個人から法人へと所有権が移転した時期を見てみるならば、1920年代にひとつのピークがあり、もう一つは1940年代から60年代にかけてである。個人経営の小型商店や問屋の土地が、銀行や大きな法人の所有へと移転したことによるものと思われる。地元有力企業・北一硝子は、22筆中、実に11筆を所有するにいたっている。……(中略)……。
 今度は、土地所有を地元/外部と区分けして集計すると、上と同様、地区の80%以上は地元企業によって所有されている(地元18筆、外部2筆、小樽市所有2筆)。法人所有化の内実は、地元資本への集約化だったのである。
 しかし、筆者の定点観測調査の際に、あるいはインタビュー調査の際に頻繁に聞かれる嘆き――堺町は、もう、私たち市民のものではなくなってしまった、あそこで稼いでいるのは札幌や東京の外部資本だ――は、このデータと矛盾するのではないか。……(中略)……。
 真実と異なる物語が、いわば犯さざるべき聖なる物語として信じられているという意味で、これはまさに神話である。だから、ここでは「堺町外部資本神話」と呼ぶことにしよう(堀川, 2013a)。(p.355-357)


興味深い考察。ただ、いわゆるメルヘン交差点に接する一角の土地だけの事実を見て語っている点だけは気になるというかもったいない。せっかく「土地の8割は市内資本が所有し、その上で商売を営む業者の半分は、市内資本なのだ」(p.362)という意外性のある事実を明らかにしているのだから、これを上記の狭い範囲の土地だけでなく、せめて堺町通りのメルヘン交差点から妙見川周辺までの区間全体について事実を調べてほしかった。そこまで調べなければ筆者の議論は一般化できないように思う。



福留は、安村(2006)の「まちの物語」という概念を援用して、小樽における「まちの物語」――「ドミナント・ストーリー」と言い換えてもよい――は、今の小樽は「運河戦争」を経てもたらされたのであり、その「景観を守る市民」の努力によって現在の活況がある、という物語であるという(堀川・深谷編, 2012:68)。だから、小樽の歴史性を顧慮しない店舗デザインや商売の仕方、小樽とは無関係な商品構成などは、「まちの物語」に反するマイナー・ストーリーである。いかにマイナーではあっても、ドミナント・ストーリーに従わないこと自体が重大な違反と見なされ、ゆえに「外部」と名指しされて「市民」カテゴリーから排除されていく。(p.362)


興味深い見方。



 筆者は、福留仮説を受容した上で、「負担と利益考量」仮説を補足的に追加することで、この神話は読み解けるのではないかと考える。「負担と利益考量」仮説は、別言すれば「フリーライダー」仮説といえよう。それは、今日の観光都市・小樽の形成に寄与したか否かが、外部/内部を分ける基準になっているのではないか、というものだ。
 アイディアの核心は、保存運動やその後のまちづくり、あるいは観光開発に係わらず(つまり労力を割いていないにも係わらず)、堺町に出店して利益を得ている者たちが、「外部」と認識されているのではないか、という点にある。(p.362-363)


こちらも興味深いが、私の見るところでは、筆者が追加した要素は、「運河戦争」に深く関わった運動家の目線から見た評価が込められた判断基準であると思われる。逆に言えば、運動を積極的にリードしていた人々以外の一般市民(や運河戦争以後に生まれた世代)は、むしろこうした見方はしそうにないように思われる。一般の市民にとっては福留仮説の方が(行為者ではなく)観察者からの目線での評価となっている点で親和性が高いように思われる。



 年間900万人とも言われる小樽市の観光入り込み数は、他の経営戦略を考慮したり、市場のニッチをねらうインセンティヴを吹き飛ばして余りある。団体観光客の滞在時間の短さと一回限りの観光という現実を踏まえれば、目の前をそぞろ歩く大量の観光客は、今すぐに利益を得るべき巨大な市場である。長期的な戦略や地域社会における信用といったものとは無縁に、目前の観光客に訴求し、立ち寄ってほんの一品を買って貰えればよいということになる。そうした店舗――筆者の調査から、そうした店舗は変化の激しかった堺町に集中的に立地している――にとっての最重要課題は、建物の歴史性や真性性(オーセンティシティ)、あるいは取扱品目のそれなどではなく、観光客に対して、いかに「観光客向け施設である」ということを示しうるか、である。彼らの店舗は一般の民家と間違われてはいけないし、ごく普通の日常生活品を扱う店舗に間違われてもいけない。なぜなら、それらは日常に属するものであって、非日常としての観光旅行とは無縁なもの、無縁でなければならないものだからである。わざわざ出かけた観光地で、自分の住まいの近辺にあるものを買っても意味はない。むしろそうしたものを探し、買うこと自体から距離を取ることが、観光行動の本質のひとつであろう(Urry, 1990=1995)。他所に出かけて、その場にしかない珍しいものを買う――ここにこそ観光の原形が見出される。観光は非日常なのだ。であるからこそ、小樽堺町に立地する店舗は、わかりやすい典型的な形態をもって“非日常であること”を示し、観光の対象であることを、観光客に瞬時に知らしめねばならないのだ。900万人の闖入者たちと近隣店舗の一成功例がもたらす圧力は、だから、大量の観光入り込みのある地域における合理的な経営戦略として選択されたものといわねばならないだろう。こうして、固有の歴史を持つ歴史的環境を観光客向けに売り込もうとすることが、どこの観光地にもあるような、最も画一的な店舗づくりを結果している、という先に説明したパラドクスを産み出すことになる。(p.367)


歴史的な景観を守る戦いをした結果、堺町や運河周辺の景観が「観光地としての画一性」の方向へと変化していく。



 現在の小樽は、このように「運河戦争」の教訓をいかに引き継ぎながら、人口減少と町並みの喪失に対処していくかが問われている段階にあると言えるだろう。(p.378)


町並みの喪失も人口減少も静かに進行していくが故に、運河保存運動よりも市民運動の対象としてはより解決が難しいものであると思われる。明確な敵はおらず、政治や行政との対立の構図では決して解くことができない。むしろ、政治や行政の持つ影響力をどれだけ民主的にコントロールして役割を果たさせるかが問われる。(もちろん、公的領域だけでなく、私企業などの果たす役割も重要だ。)



堀川三郎 『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』(その3)

 したがって、一見すると単なる地元若者のイベントに見えるこの企画には、「反政治」「反学生運動」、そして「反ビジネス」という3つのメンタリティーに裏打ちされていただけでなく、運河を保存することから小樽を再生させようとする彼らの運動理念が巧妙に仕込まれていたことに注意しよう。彼らの意図は、問題の渦中にある運河を市民にじかに見てもらうなかで、もう一度小樽について考え直そうというものである。運河地区に人々が集まりうること、したがってそこは憩いと商いとに絶好の場所であり、新しい「開発」の可能性を秘めていることを単純明快に示そうとするものだ。「保守-革新」といった従来の対立図式とは無関係な「イベント」を開催して現場に一般市民を引きつけ、運河のもつ潜在的なポテンシャルを実際に体感させることによって「運河保存」という目標への広範な支持・共感を調達しようという方法論であった。(p.187)


「ポートフェスティバル」の運動論。運河保存に繋がる直接的な効果は少ないかも知れないが、市民に広範に関心を持たせることができ、メディアに運河が取り上げられる機会にもなる、などといった間接的な効果は確かにあったのだろうと思う。ただ、イベントとして定番化していく中で、当初の意図からすると変質していくことは容易に予想される。その意味では、あまり継続性のないやり方だとは言えるかもしれない。



 そんな「温和」な峯山が、なぜ、10年にもわたって保存運動に奔走したのだろうか。なぜ、吹雪をものともせずに東京へ飛び、建設大臣や自治大臣に直談判するような行動力を発揮したのだろうか。
 この疑問を解くためには、峯山が小樽に二度出会っていることを理解せねばならない。彼女にとって、繁栄期の小樽と衰退した小樽の両方を自身の目で見て経験していたことが決定的に重要であったということだ:(p.226)


大正13年と昭和30年。まさに小樽の繁栄の最盛期と「斜陽化」が進んでいった時代。この2つの経験は繁栄期を知っているからこそ、衰退が痛いほど実感されるというものであった。



 運動っていうのはね、……あの、……市民運動というものはね、ある政党に偏ったらダメなの。市民運動ってのは、いろんな各党に関わりのあるような人達が〔参加して〕来るわけでしょ?だから、政党になんにも関係のないでいようとする人達も来るわけでしょ?その運動の主体がね、共産党とか社会党とか、自民党とか一党につながってしまったらね、そしたら、あたし、市民運動の性格を失うと思うの。で、その頃ね、ほんとに正直言って共産党の方々、ほんっとに〔運河問題を〕よく調べた。調べてた。それから、ほんっとによく運動もしてた。だから本来ならば、共産党の、その熱心さにね、私も同調してやっていけば良かったんだけども、私はそうはしなかったの。そうすることは市民運動の性格を変えてしまうと思って、私はそこを徹底的に、各党と同じ立場〔同じ距離〕にいたの。(p.232)


これは98年になってからの峯山冨美の発言だが、実際に運動をしながら、こうしたこと――より正確にはここで述べられていることだけにとどまらないが――をわきまえながら行動をするというのは見た目よりはるかに難しいのではないかと思う。今更ながら、峯山さんという人はすごい人だったのだなと思わされた。



 これは「アメニティ」と呼ばれる概念を指している。それは総体としての環境の快適性・調和性・適切性を指す包括的概念で、出自であるイギリスにおいてさえ、「感じることはできても定義することは難しい」と言われる。原語では“The right thing in the right place.”となり、「在るべきものが、在るべきところに在ること」と訳しうる。日本では「快適であること」に特化して受容され、原義が持っていた「当然、整備されていてしかるべきものを整備せよ」という現状批判的契機が失われていった点に注意が必要である。(p.241)


アメニティという概念が、本来はこのような意味であったとは知らなかった。この言葉が日本社会に受容されていく過程にどのような力学が作用していたのかには興味がある。私の表面的な印象では、商品を売りたい側の都合に合わせて使われることが多い語として流布してきたと感じている。この背後に政治的な思惑があったのかどうかが気になっている。



 議員になった山口は、景観のために駅前横断橋の撤去や、港湾地区への都市機能の導入などの施策を提言し、実現していく。(p.257)


小樽駅前の歩道橋が撤去されるときもそれなりの議論があったが、ここに山口氏が絡んでいるとは知らなかった。結構いろいろやっていたんだな、と。地方自治は「民主主義の学校」などと言われ、国政より「身近なもの」と言われることがあるが、国会の議論がいつもテレビや新聞などで取り上げられるのと比べ、メディアで知らされることが少ないため、実際には身近に感じることができないものとなっている。この状況は改善する必要がある。

なお、港湾地区への都市機能の導入という考え方は、上記引用文に続く部分で紹介されているが、興味深い見解であり、今後の小樽の町づくりでも参考にする価値があるのではないかと思える。マイカル小樽(現ウィングベイ小樽)を築港地区に建設することに対して、港の北側の地区にすべきだと主張したという。確かに、現行の施設では海しか見えないが、山口の言うように北部であれば街と海(さらに付け加えると山)が見える。現在のホーマックや湯の花手宮殿のあるあたりならある程度の広さの土地もある。住宅街から離れているという難点はあり、JRでの乗り入れができないという点では現行の施設よりアクセスは悪くなるとも言えるが、参考になる考え方だと思う。




堀川三郎 『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』(その2)

 しかしながら、ここで注意しておかねばならないのは、「観光都市」として再生させていくという方向性が、市当局や市民によって積極的に選び取られたというよりも、論争と対立過程の「意図せざる結果」として産み落とされ、既定路線となっていったという点であろう。前節でもみたように、10年以上にわたる対立に関わった諸主体は、分裂・崩壊の過程で疲弊し、歴史の表舞台から主体が不在の舞台で、既成事実として展開してきた。運河港湾地区に雨後の筍のように林立し始めたお土産店などは保存運動や「運河論争」とは無関係な業者であること、また、圧倒的な数の観光入り込み数がありながら、小樽市役所内には背骨となる観光政策も、十分な体制の観光担当部署もない時期が数年以上も続いたことが、「意図せざる結果」による、にわかづくりの観光地であることをよく示している。(p.112-113)


運河の保存派の側には、観光資源としての運河や倉庫という発想は確かにあり、結果的にはそれに近い方向性で展開したとは言えるかも知れないが、実際に観光を担う業者たちは実際には保存派の人々が思い描いていたように振舞ったわけではなく、また、保存派の人々がそれらの事業に一緒に関わって作り上げてきたというわけでもない、という点を考慮すると、「意図せざる結果」という評価は妥当であるように思われる。



歴史的建造物の外装を観光資源として利用しつつも、内装は新たな目的にあわせて大幅に更新して使用する――少なくともこれが1990年代以降の基本的なデザイン・トレンドであったことは、後の章で論じるように、筆者の景観調査のデータが雄弁に語ってくれている。換言すれば、長年にわたって展開された「運河戦争」を、行政も市民もこのように理解したということである。
 ……(中略)……。「斜陽の港湾都市・小樽」は、「運河戦争」をきっかけに、「観光都市・小樽」へと華麗に変身し、不死鳥のごとく蘇ったのだ。1960年以降の小樽の歴史は、一般にはこのように理解され、喧伝されてきた[12]。

[12]そうであるがゆえに、「運河戦争」での「傷」や、末期に展開された誹謗中傷合戦は忘却され、語られずにきている。(p.115)


外装を観光資源として利用しつつ、内装は大幅に更新して使用するというやり方は、私が知る限りでは台湾でも非常に発達しているやり方である。歴史的な建造物を観光資源として利用する場合、建造物自体を展示品としたり、博物館などとして利用するのでなければ、やはり多くは店舗などとして使うことになるだろう。店舗として利用する場合、どうしても内装は改変せざるを得ないことが多いということになるのだろう。この点は、理想的ではないとしても、ある程度やむを得ないのかもしれないとも思う。ただ、本書で見た事例では、文化財などに登録されていない建築の場合、小樽では外装までも改変される事例が見られ、この点には個人的には違和感や危惧を感じている

後段の注で指摘されている点には興味を持っている。すなわち、70年代から80年代の運河問題に関連して語られずにきている事柄が多くあるように私は感じている。この問題についての説明を読むとき、語られていることにぎこちなさがあり、明らかに何かが語られていないと感じることがこれまでしばしばあった。本書はこうした点についてもある程度明らかにしてくれているため、私個人としては、本書のおかげで歴史的経緯の全体的な見取り図は得られたように思っている。



2012年度以降、観光客入り込み数は回復傾向にあるものの、いわゆる「インバウンド」、すなわち海外からの観光客が大半で、国内観光客離れの傾向は否定しがたい。
 このことを、小樽の「寿司屋は潰れない」という「寿司屋神話」が崩壊して実際に潰れ始めたこと、「寿司の町」から「スイーツの町」へという変化、「K社からL社へ」という観光の中心を担う地域リーダーの交替といった事項とあわせて解釈してみるとき、そこには小樽観光の「終わりの始まり」、すなわち小樽の「過疎都市」化の傾向が見えてきているのではないかと思われる(堀川, 2012a)。特に、観光の中核を担う産業が、地場産業であったガラス製造・販売業から、必ずしも小樽という地域に根ざしていないスイーツという菓子業へと移行しつつあることは、地域の固有性と歴史性を旨としてきた小樽の歴史的まちづくりとは正反対のベクトルをもったものである点に注意が必要である。(p.116)


ガラスや寿司といった地域の歴史と関係していたり、地域の地理的環境をある程度反映していたりする産業とは異なり、地域の歴史や風土との関係が薄いスイーツ産業が観光の中核を担うようになってきている変化を指摘し、さらにそれが地域の固有性や歴史性という小樽の町づくりがこれまで目指すべきと考えられてきた方向性とは逆向きであるという指摘には、なるほどと思わされた。

もちろん、過疎化への対応が小樽という都市の現在の最大の課題であるという点は確かである。小樽の環境を考えると、企業や仕事が札幌に流出することで就労する年齢層の人々が札幌へと引き寄せられていくという流れが既にあり、これを逆流させるということが考えにくい以上、解決が非常に困難な問題であると感じており、どのように対策をとるべきか、少なくとも現時点での私には、(多少、流れに逆らう程度のことはできるとしても)十分な対策があると信じることすら難しいと感じている。(日本全体の人口減少のトレンドがあるが、社会減までもが起きやすい環境にあるという、大きな逆風が吹いている中で、この逆風を中和する程度またはそれ以上の施策があるのかどうか。考えてみるべき課題であるように思う。)



そして当時、私はね、海軍少尉に入官して、台湾の、高雄空港基地というところ、航空隊があるところですが〔、そこに配属されました。〕(p.158)


元小樽市長・志村和雄の発言より。wikipediaによると、志村は1943年に北海道帝国大学農学部水産学科を卒業した後、日本化成工業という会社に入社し、まもなく徴兵された旨の記載がある。北海道帝国大学(札幌農学校)の卒業生は台湾に渡った者が比較的多いように思うが、それと関係があるのかどうか気になるところである。(この続きの記述などから推すと、他の事例が北海道開拓に関連する研究を台湾というさらに新しい植民地の開拓に応用していくといった流れとはあまり関係はなさそうにも見えるが。)





堀川三郎 『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』(その1)

 上述のように、小樽に繁栄をもたらした運河港湾地区の景観は、木骨石造倉庫群が運河に面して並ぶ、他に類を見ないものである。そこに見出される「デザイン原理」は、以下のようなものである:

 (1)外壁材が札幌近郊で産出される軟石である
 (2)棟高が8~12mの範囲内に収まっている
 (3)にもかかわらず、軒高がほぼ5~6mで一定していて横のラインが揃う
 (4)屋根勾配が五寸と一定している
 (5)切妻屋根であること
 (6)前に運河水面、後ろにサービス道路である「出抜小路」がある
   (観光資源保護財団編, 1979:140-141をもとに堀川が作成)

 こうした原理が、緩やかなカーブを描く約1キロの運河沿いに、まるで鋸の歯を横たえたような切妻屋根がリズミカルに並び、それが水面に逆さまに映る小樽独特の景観を産み出している。川越同様、ここにも独自の様式が存在しているといってよい(図2-5)。(p.68)


札幌軟石や小樽軟石が素材であることや切妻屋根であるという共通点は指摘されるまでもなく容易に看取できるところだが、軒高や屋根勾配がほぼ一定だという点は指摘されるまで気付かなかった。法的規制などがあるわけでもないのに同じ地区で同じようなデザインの建物が連なるという現象は興味深い。

出抜小路については、次の引用文がその意義を紹介してくれている。



 ここで注目すべきは、個々の倉庫が決して単体として存在しているのではなく、港や運河、艀などと一体となったシステムを構成しているということだ。それはどういうことか。一旦ここで、艀荷役の手順を簡単に説明しておこう。まず、入港した船から艀に移された積荷は、運河へと運ばれる。つぎに、港湾労働者が肩に荷物を担いで艀から運河沿いの倉庫に運び込む。倉庫裏の出抜小路からは、取引された荷物が、大八車やトラックなどで道内各地へと運ばれていく――このようにして荷物や人の動線が錯綜しないように工夫され、運河と倉庫は市街地と港湾システムを繋ぐ界面(インターフェイス)として機能している。つまり、港、運河、倉庫、出抜小路は一体のものであり、有機的連関があったといえるのだ(堀川, 1998b, 2001)。(p.69)


運河や倉庫などは建造物であるため目につきやすいが、空間である道路(出抜小路)は目立ちにくい。特に現在のように建物が「歯抜け状態」になってくるとなおさら存在が見えなくなってしまう。しかし、出抜小路まで含めて一体のシステムとなっていたと理解すべきであり、そうした一体となったシステムの中にそれぞれの建造物が存在していたという理解は、このシステムが機能していた時代を理解するのに重要だと思われる。



「運河ヲ築キ」の表現に明らかなように、既存の陸地を掘り込んで運河とする「掘り込み式」ではなく、既存の陸地の沖合いに埋立地を造成し、その埋立地と陸地との間を運河とする方式が採用された。なぜなら、この方式を採ることにより、運河の両側に倉庫を配置できること、手狭になっている港湾地区の土地を削らなくてすむ、という2点の長所があったからと思われる。(p.96)


小樽運河を建設する際に沖合を埋め立てる方式が採用された理由について的確に指摘している。私の見方で補足すると、以下のようになる。そもそも平地の少ない小樽で陸地を削って掘り込み式運河を建設するという選択肢はなかったと思われる。特に、運河が建設されるより前に既にその周辺の陸地は(ほとんどが明治以降に)埋立てによって造られたものであったという点を考えると、埋め立てたばかり土地を掘り込んで運河を造るなどという発想にはなりようがなかっただろう。



 近年の港湾史研究や広井勇研究の進展は、当時の広井が実際に最も配慮せざるをえなかったのは、広井自らが指揮した先の防波堤工事で雇われ、その後も小樽港で労働に従事していた大量の港湾労働者の雇用問題であったことを示唆しているが(一例として、広井勇・伊藤長右衛門両先生胸像帰還実行委員会編,1999を参照)、ここではこれ以上は踏み込まない。神代・他(2011)も参照。(p.98)


なるほど。小樽運河の建設過程の議論において、運河か埠頭かという議論があったとき、広井勇が運河方式を押したことで運河方式でまとまっていったとされるが、私としては、広井ほどの見識がある人物が、なぜすぐに用済みになってしまうような運河を推したのか、という疑問を持っていた。(もちろん、現在から見ると結果的に運河があって良かったとは思っているが)ここでの指摘は私のこの疑問に答えてくれるものであると思われる。(なお、本書の次のページの注では、広井が段階的港湾整備を考えていた可能性があることが指摘されている。)

なお、運河があってよかったというのは次のように判断するからである。すなわち、最初から埠頭方式にすれば大正から戦前までは経済的には小樽はさらに潤ったかも知れないが、結局戦後には中央政府側の政策の転換によって繁栄の諸条件がなくなってしまうことにより、いずれにせよ斜陽の時代を迎えただろうと想像され、この場合には昭和の運河問題は生じなかっただろうが、ある種の文化財であると同時に観光都市になる資源でもある運河とその周辺の町並みがないため、現在ほどの個性を発揮することなく無名の都市として過ごすことになったであろうからである。



換言するなら、運河が小樽港の経済的発展を牽引したというよりも、運河は小樽港最盛期の最後の6年を遅ればせながら支えていたに過ぎない、ということである。旅行ガイドブックに限らず、「運河が小樽の発展をもたらした」といった主旨の記述を見かけるが、上述から、こうした記述には一定の留保が必要である。むしろ、札幌の外港としての政策的位置付けと、対樺太などの日本海貿易の最重要拠点であった小樽港の相対的優位こそが小樽に繁栄をもたらし、その繁栄が運河建設や、防波堤のように100年後にも現役で機能し続けるような修築工事を可能にさせた、と言うべきであろう。運河は小樽に繁栄をもたらした牽引車ではなく、小樽繁栄の結果として産み出された果実であったのだ。そして、果実がようやく実った時、小樽をめぐる状況はすでに大きく暗転しはじめていた。(p.100-101)


ほぼ同意見である。ただ、対樺太の拠点という位置づけが小樽港にとって持つ意義については一般に言われているほどではないという研究もあるため、本書の記述に対してはこの点だけは割り引いて考えるのが適当だとは思う。



 ここで注意しておきたい点は、戦時統制経済体制によって小樽が失ったものの大きさもさることながら、そのことによって利した者が誰だったか、ということである。改めて言うまでもなく、戦時統制経済によって経済機能の集積が図られた札幌こそ、この新体制の恩恵を被った都市である。官営都市、あるいは行政の府としての札幌は、これを契機に経済中枢としての地位をも手に入れたからだ。つまり小樽は、札幌の隆盛と共に衰退したまちなのである。(p.103)


戦中と戦後の状況の大枠を的確にとらえている。