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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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関口信一郎 『シビルエンジニア 廣井勇の人と業績』

 開拓使は従来、幌内鉄道を炭山・幌内太間とし、それ以後は石狩川経由で石炭を搬出する計画であったが、1879(明治12)年12月には幌内鉄道を小樽手宮港まで延伸することに決定し、機関車購入・土木補助手雇用等のためクロフォードを米国に派遣した。クロフォードは約4か月間、東部の産業都市ピッツバーグ、フィラデルフィア、ウィルミングトン、ニューヨーク・シティなどを回った。1880(明治13)年5月、クロフォードは集めた技術者4人とサンフランシスコを出発し、6月に横浜経由で小樽に入港した。サンフランシスコの各新聞は、日本でアメリカの狭軌鉄道が敷設されることを報道し、かなりの話題になった。(p.51)


「アメリカで話題になった」ということから、多くの人は「すごいこと」という印象を受けると思われるが、アメリカ側から北海道開拓を見ると、ビジネスチャンスであった(そのためニュースバリューがあった)という点に留意する必要がある。



この頃、クロフォード指揮の敷設班が札幌に向かって1日1マイルのペースで進んでいるニュースが東京・横浜に流れ、英文紙に取り上げられるほどのセンセーショナルを巻き起こした。(p.51-52)


英文紙がどこの国の新聞かは明示されていないが、アメリカの新聞はこの問題(北海道の鉄道)への関心は高かったと思われる。



したがって自らと同じような境遇にある、才能に恵まれた勤勉な廣井を励まし可愛がった。その松本でさえ「アメリカへ渡っても随分苦しいぞ」と言って容易に賛成しなかった。しかし、廣井の動かぬ決意と工学に寄せる情熱は松本の考えを変えていった。そして、ついに松本の賛意を得、その推薦で米国政府のミシシッピー河改修工事雇員に雇われる内諾を得ることができた。(p.59)


松本荘一郎と廣井勇は互いに単に面識があるという程度を超えた交流があったようだ。



当時予科主任および教務部長の事務を担当し、かつ懇請により札幌初めての中学校北鳴学校の校長を兼ね、遠友夜学校なる貧家子弟の学校をも経営した新渡戸稲造は心を労するの余り、遂に激しい神経衰弱症に罹り、一時重体に陥ったので、1898(明治31)年3月官を辞して米国太平洋岸に転地療養のやむなきに至った。(p.99)


新渡戸の神経症を過労に帰している点について、今まであまりこのような書き方をした本に出会っていないため、本当かどうかという点には多少留保をつけておきたいが、激務による労災的なものだったという理解には確かにそれなりの説得力があると思われる。



函館、小樽の両築港の着工についても北垣長官に負うところが非常に大きい。失敗続きの築港を政府に決断させるには、琵琶湖疏水工事の成功によって京都を蘇らせた北垣の卓越したビジョンと政治家としての手腕が必要とされた。(p.107-108)


なるほど。琵琶湖疏水と築港とを結びつけて見るという見方は参考になった。



 廣井は東京に移ってからも相変らず多忙であった。1900(明治33)年には震災予防調査委員並びに港湾調査会委員を命じられ、秋田県知事の委嘱による雄物川加工改良調査および小倉氏委嘱による小倉築港調査の監督を行い、1901(明治34)年には台湾総督府の委嘱により基隆および淡水の両港を視察し、6月には静岡県知事の委嘱により清水港を視察した。(p.157)


廣井による台湾視察の内容はどのようなものだったのだろう。台湾にも関心を持っている者としては気になる点である。



 昭和初期、我が国の重要港は1種と2種に分かれていた。……(中略)……。北海道および植民地の港湾は別で、所轄する行政庁が管理し、その費用は国庫の負担とされていた。(p.189)


昭和初期になっても北海道はまだ植民地としての扱いが続いている部分が残っていた点には留意しておきたい。



19世紀に入ると欧州では盛んに運河が建設され、その世紀の中葉以降には鉄道建設が世界中で展開され、鉄道網の発達は社会経済の発展は勿論、国家の統治に大きな役割を果たしていった。それは同時にトンネル工学、橋梁工学、材料力学の発展を促したけれども、海陸の接点である港湾を整備する工学には及んでいなかった。19世紀も中期に入ると規則的な波については理論的にも実験的にも解明が進んだが、複雑で不規則な海洋波については解明の端緒さえ発見できない状況にあった。それまでの近代科学において主流であった決定論的アプローチでは複雑に変化する海洋波を解析することは困難であった。(p.227)


インフラ建設と工学との関係性についての指摘は興味深い。複雑な系である海洋波について当時は扱う事ができていなかったという点も廣井の業績とも関わる重要なポイント。


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山本紀夫 『トウガラシの世界史 辛くて熱い「食卓革命」』

しかし、イタリアで聞いたところによれば、現在トウガラシはイタリア南部で利用がさかんだが、北部地方ではさほどでもないといわれる。その一因は、気候に関係があるかもしれない。というのも、イタリアは南北に長い国であり、北部は緯度も高くて一般に気温が低いので、そこではトウガラシの栽培が容易ではないと考えられるからである。
 このイタリアで、とりわけトウガラシ利用で有名なところが、南部のカラブリア地方である。……(中略)……。
 こうして見ると、ンドゥイヤもモルゼッロも肉や内臓を使っていることからトウガラシはその臭みをとるために使われているのかもしれない。また、これには南イタリアの貧しさも関係しているのかもしれない。じつは、イタリアのなかで南イタリアはもっとも貧しく、そのせいでマフィアが暗躍したり、治安も悪いことで知られているのだ。そのような貧しさのなかで、残りものの内臓などを使うトウガラシ料理も生れたのではなかったかと考えられるのだ。(p.63-72)


最後に述べられている仮説は興味深い。歴史的に見ると南イタリアは貧しい地方だったとは言えないと思うが、いわゆる大航海時代になり、地中海世界の内部での交易の重要度が低下すると、南イタリアの交易の場としての重要度も下がっていったと考えられる。そして、まさにその大航海時代にトウガラシはヨーロッパに入ってきたのであった。したがって、例えば、南イタリアが「没落」しつつある時にトウガラシが入ってきて、残り物を活用するのに適した香辛料としてトウガラシが普及したという経過であったとすれば、本書の仮説が示していることは妥当ということになる。


高安正明 『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』

 島判官、岩村判官が本府づくりに取りかかったころ、札幌のメーンストリートは大友掘(のちの創成川)の東側に沿った通りで、官邸などの建築もまずこれに沿って始まった。しかしこののちの区画割りは札幌通の東の方向へは創成川の西方面ほどには進まなかった。(p.74)


明治初期の札幌は、現在の創成川の東側の通りがメインストリートだったという点は、現在の都市のあり方から見ると非常に違和感を感じて興味深い。札幌の都心と言えば創成川の東側よりも西側の方が遥かに開発されているし、街のまとまりを見ても、南北よりも東西の一体感の方が強い印象がある。例えば、大通公園や狸小路はいずれも創成川の西側にあり、かつ、東西に連なって都市を区切っている。なぜ西と東でこのように開発の進み方に相違ができたのかには興味がある。地形や地質の問題が関係していそうな気はする。



 この意味では、太平洋戦争後は別として、戦前、開拓使から道庁に至る高級行政官で、札幌に自宅を建て、終身、道内で官職を全うした永山武四郎は、“腰かけ”ではなく“北海道人”として生き抜いた数少ない一人であることは確かであり、最高の評価をしてよい。(p.75)


この「北海道人」という見方は、本書が描くところの永山の「実像」の核心をなす部分であるように思われる。なお、この点は永山が内陸開発を進めるべきだと主張していたこととも関係が深いのではなかろうか。



 札幌市中央区部の公園は、西の円山公園は島判官が奉持し来って安置した開拓三神を祭る札幌神社(現北海道神宮)が明治3年に創始されたのを中心としている。北の偕楽園は明治4年に岩村判官がつくり同13年の清華亭建築により公園として一層の機能を確立した。南の中島公園は同20年に物産陳列場が設置されて物産共進会が開催されてから中島遊園地として札幌人士のいこいの場となった。東方だけはこれまでこれに類するものがなかったが、初めて永山記念公園が登場し、しかもその焦点に旧永山邸が置かれているのはきわめて意義深い。(p.76)


永山記念公園が公開されたのは平成元年(1989年)のことであった。初期の札幌では東の開発があまり進まなかったことが、東側には「都市を象徴するような公園が欠けていること」に現れているように思われる。



 最初の琴似屯田(明治8年)をはじめ明治10年代から一部は23年までの兵村がそれであり、これらはまず札幌本府の周辺、次いで太平洋沿岸の“戦略的要地”に配置された。(p.91)


「戦略的要地」として設置された兵村は現在の根室市、室蘭市、厚岸町にある。これらの地域は、札幌周辺よりも入植の際には苦労が多かったとされる。根室に兵村が置かれたことと、開拓使が解体された後の三県の時代に根室県があったことからみて、明治初期には北海道を支配する側から見ると、根室は大きな意味を持つ土地だったらしいことが見えてくるように思われる。



 半年後の12月、黒田清隆が伊藤博文の後継で内閣総理大臣に任ぜられた。黒田-永山ラインが北海道開拓の軸となったのである。
 ともに鹿児島出身、薩摩藩の伝統である兵農兼ねた郷士制を手本にして、北海道の屯田兵の生みの親となった二人である。このラインによって、すでに十余年を経た屯田兵制の改正、大幅な拡充が進められた。これには永山の一年間にわたる最新の外国兵制視察が重要な参考となった。(p.92)


北海道開発は明治の前半は薩摩出身者が中心となって行われたが、薩摩の郷士制が屯田兵制の手本だというのは興味深い。現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」でも若き日の西郷の薩摩での生活は、士族であっても半ば農業に従事しているように描かれていたが、これも郷士制と関係があるのではないか。この制度についても少し調べてみたくなった。


下村仁 『西洋館の履歴書~北海道~』(その2)

明治45年(1912年) 北2条の裁判所庁舎は手狭となり、老朽化したことや駅前通の再開発の動きもあり、札幌地方裁判所、札幌区裁判所の合同庁舎が大通西13丁目の旧練兵場の一部(現札幌市教育文化会館付近)約3千5百坪の敷地に南面して新築され、札幌軟石造の二階建本館に木造平屋の付属屋のある建物が6月に竣工、7月に開庁。
 その後、北大通西12丁目には官舎が建てられた。(現在の札幌家裁・簡易裁判所合同庁舎付近)

▷前述の通り、まだ大通は西10丁目までしかなく、それより西側は練兵場の跡のほか住宅も殆どなく、牧草地として牛が放牧され、原っぱの中に裁判所庁舎がポツンと建っている状態であった。(p.216)


100年ほど前の札幌の状況。



大正15年/昭和元年(1926年) 8月、工期4年半を要して「札幌控訴院」が竣工。
 ……(中略)……。
 この頃から南大通西10~13丁目にかけて弁護士の住宅兼事業所が建ちだす。
▷この札幌控訴院や札幌地方裁判所の庁舎正面上部の飾り破風にはかつて「菊の紋章」がついていた。
 戦前の全国の地方裁判所以上の裁判所には、大日本帝国憲法により、天皇の名において裁判を行ったことから、「菊の紋章」が掲げられた。(p.217)


具体的にどこの場所なのか次会訪れる時には注意してみてみたい。



昭和19年(1944年) 12月、男性医師が軍医として次々と招集された結果、国内の医師不足を補うための措置として「北海道庁立女子医学専門学校」(女子医専と記す)が設立されることになり、その付属病院として社会事業協会病院を転用、この病院に近く女子の寄宿舎もある北星高等女学校に白羽の矢が立てられた。
 そのため女子医専との間で――北星高等女学校の校舎・寄宿舎及び敷地を無期限、無償で女子医専の校舎が完成するまで貸与することを内容とする――賃貸借契約が結ばれた。
 また覚書きには、昭和20年度から北星は保育科以外の生徒募集を一時休止することなどの条件もつけられた。それは在校生が卒業した後は事実上廃校の危機に直面するものであった。(p.227)


第二次大戦末期の医師不足とそれへの対応としての女子医専が設立されたことに加え、このような「国策的」な女子医専を成立たせるために「ミッションスクール」である北星高等女学校が廃校の危機に陥るような契約を締結させられたという歴史は銘記されるべきものと思う。


昭和20年(1945年) ……(中略)……。
10月、進駐米軍が校地・校舎を接収して衛戍病院として使用することとなり、それに先立つ調査で女子医専と聞いていた学校が実はミッションスクールで、宣教師館の沿革を知ることとなり、接収期間を通じてこの建物を使用することはなかった。この接収により北星高等女学校は大通、山鼻、幌北の各国民学校に分散して移転、女子医専は付属病院に移転した。女子医専はやがてその病院の敷地とその隣接地に校舎を建て、昭和25年(1950年)4月に「札幌医科大学」となった。(p.227)


敗戦後、進駐軍が入ってくることは、北星高等女学校側にとってはある種の解放となったと思われる。

また、札幌医科大学の前身が女子医専であったとは本書を読むまで知らなかった。女子医専は道立に相当するはずだが、札医は市立であるあたりなど、いろいろと気になる。



昭和20年(1945年) ……(中略)……。
10月、郵船小樽支店も接収され、事務所は南浜町に移転した。
 この頃、1階営業室西側に3本の補強鉄柱が設けられた。(p.300)


旧日本郵船小樽支店に関する記述だが、こんな敗戦直後に補強工事をしていることに驚いた。



明治9年(1876年) ……(中略)……。
8月、改正国立銀行条例公布。
▷明治5年の条例に基づいて設立された国立銀行はこの時までに4行のみで、当初の構想通りにはゆかず営業不振が続いていた。大蔵省はその振興策を検討し、銀行券抵当公債の範囲の拡大、銀行券兌換制度の改革を主眼として条例改正案を太政官に稟議し裁可を得たもので、これにより国立銀行の設立が容易になり、正貨準備なしに資本金の8割まで銀行券の発行が可能となったが、不換紙幣引揚げ等の問題は残された。これ以降国立銀行は急速に増加し、明治12年11月の第百五十三国立銀行まで設立されたが、それ以降の国立銀行設立は認められなくなり、私立銀行等が設立される。(p.307-308)


急速に普及するにあたって重要だった条件は何だったのだろう。



明治45年/大正元年(1912年) ……(中略)……。
入船通りは、この頃は入船川が流れ、両岸は柳並木となっていたが、昭和の初期頃に川は暗渠化され、柳も取り払われたと伝えられている。(p.350)


このように川が暗渠化されたところというのは結構あると思われる。