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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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下村仁 『西洋館の履歴書~北海道~』(その1)

函館では明治14年頃から、清国との貿易が行き詰まるなど景気は低迷した。(p.44)



これは裏を返せば、函館も清との貿易が、それなりの重みをもっていたということでもある。



明治37年(1904年)2月、日露戦争が勃発し、北海道も一挙に緊張状態に陥る。特に函館では要塞地帯法により、ロシアと直接・間接関係ある者、ハリストス正教会の伝道者らが翌38年10月の解除まで退去させられた。(p.46)



日露戦争についてのこうした側面は、あまり語られることがない。



 時計台(演武場)付近に札幌農学校があった頃、これらの施設は、クラーク教頭らにより計画され、演武場よりも1年早く現在の北海道大学北8条キャンパスの本部北側(北10~11条西5丁目付近)に建てられ、その後、一部が現在の場所に移築され、あるいは新築されて今に残されているものである。(p.139)


現在北18条にある第二農場関連施設についての記述。この場所はモデルバーンの構造などとも関係があるというのは興味深かった。その点は次の引用文で説明される。



※このあたりは現地に立てばわかるが、構内を流れるかつてのサクシュコトニ川を底辺とする少し起伏のある地形で、「模範家畜房」が建てられた場所は本部建物の基礎高さより1階分ほど低い場所で、「乾草」を満載した荷馬車が直接2階の中央通路に入って荷を下ろすことが出来るように土手でスロープを、反対側には木橋で退出路を設け、複数の馬車が交差せずに通り抜ける一方通行構造となっていた。こうして2階に貯蔵された乾草は、床の「落し口」から1階の牛馬舎に落として給餌され、半地下は排泄物を溜めて蓄えて翌年の肥料用に、また根菜貯蔵庫、豚舎ともなっていた。(p.140)



2階に入口があるのは、このような地形と連動したものだった。



昭和19年(1944年) 戦時中の食糧事情の悪化により、大学構内が耕地化され、図書館前から「農業経済及び農政学教室」(現存せず)にかけての前庭はジャガイモやカボチャ、大根、白菜などの畑となった。(p.164)


大通公園などが畑にされたということはよく聞くが、北大キャンパスも同じような状況だったようだ。



9月、「東北帝国大学農科大学」が開学した。この時点では仙台に設置の決まった本家の東北帝国大学はまだ敷地もなければ校舎もなく、教官も職員もいない状態で、明治44年(1911年)1月の「東北帝国大学理科大学」設置まで待たなければならなかった。(p.170)


東北帝国大学が札幌農学校をベースに設置されたものであることがよく分かる。


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荒松雄 『ヒンドゥー教とイスラム教――南アジア史における宗教と社会――』

 バラモンの権威を容認しない異教徒の支配者たちは、バラモンの権威がなおまかり通っていた囲いの内側にまでは入ってこなかった。その囲いのなかの伝統的な世界では、バラモンの権威は依然として通用し、力たり得た。しかし、その権威と力たるや、囲いの外に出ていくことはできない。その結果、抑制されたバラモンたちの欲求不満は、それまでにもまして、ヒンドゥー社会という囲いのなかで、そのはけ口を求めていったとは考えられないだろうか。
 こうして、カースト的秩序を少なくとも原理的には否定し拒否するイスラムの信徒たる王権がヒンドゥーの社会をその従属下に置いたときに、カースト=ヴァルナ制は、解体に向かうどころか、かえって、それ自体の内部にあって、旧来の社会関係と階層意識とを一層強固なものとしていったのではないかと、私は推察する。(p.137-138)


興味深い仮説。本書ではある社会層の意識(動機)を想定して推論しているが、別の社会構造なり制度なりによってこれが助長されたような要素を見つけることが肝要であろう。



 思想の上部構造に見られたこのような知的交流は、私の見るところでは、ムスリム知識人の側からするものが目立ち、逆に、ヒンドゥーの世界にあって知識を独占していたバラモンや一部の上層貴族たちのなかでムスリム思想や法学体系に関心を示したものはほとんどいなかったように思われる。それも、おそらくは、ムスリム思想が、外の世界に対する積極的関心をつねに持っていたのに対して、ヒンドゥー思想家たちは、どちらかといえば、自らの教学と思想の枠のなかにだけ安住していたという一般的な傾向によるものではなかろうか。
 ただ、このような知的交流への意欲は、ムスリムの場合であっても、正統派教学のなかからはあらわれなかったと思う。ダーラー=シコーをはじめとする一部のムガル宮廷知識人が古典サンスクリットの文献に興味を抱いたのは、一つには、彼らがスーフィー神秘主義思想に傾倒していたからである。イスラムとは全く性格を異にするヴェーダーンタ哲学やヨーガ教典などに関心を示したのも、両者に共通する汎神論や広義の神秘主義的傾向を媒介としてはいjめて可能だったと、私は考えたい。(p.157-158)


ムスリム知識人(スーフィー聖者などの非正統的な人々)によるインドの思想への関心はあったが、正統派ムスリムやヒンドゥー知識人の側から相手の宗教への関心は低かったという点は興味深い。

ただ、そのようになった理由については本書の指摘が妥当かどうかという点には留保したい。というのは、外から入ってきた側の人間が、現地のことを知りたくなるのと、そこで住み続けている側の人が外から来た人々のことを知りたくなるのとでは、その度合いが違うように思われ、このバイアスが両者の相違の要因ではないかと私は考えるからである。

例えば、ここ数年、テレビなどでも外国人が日本を高く評価する様子を見て自尊心をくすぐろうとしているように見える番組が散見される。このような番組を素直に見ている人は、果たして日本に来た外国人の話を聞き、どの程度、その人の出身国について知りたいと思うだろうか?むしろ、思考ないし関心の向きは、内向き志向になるのではないか。


大野哲也 『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』(その2)

旅する地域には旅の難易度があると考えられていて、難易度の高い地域を旅することで、旅人はステイタスや自尊心を高めていく
 地域別の難易度ランキングや困難性の分析は、現在、日本人バックパッカーが、情報収集のために急速にその依存度を高めているインターネット内でもさかんにおこなわれている。表現に差異はあるが、そこではおおよそ、簡単な東南アジアから最難関のアフリカに至るグラデーションで構成されている。そしてまた、実際に旅をしている日本人バックパッカーも似たような地域観を共有している。
 旅のステイタスはそれだけではない。旅の年数、何カ国旅をしたか、旅でどのような「珍奇」な経験をしたかなど、旅にまつわるあらゆる要素が、旅人のステイタスを測るモノサシへと変換される。これらの要素を、ゲストハウスなどで出会ったバックパッカーと、なにげない会話をとおして互いに提示しあうことで、暗黙のうちにみずからの位階序列を確定させていくのである。バックパッカー・コミュニティで、ゆるやかで流動的なヒエラルキーが形成されていくのだ。
 ……(中略)……。
 カーターによれば、旅人の出身地域と旅する地域の文化的な距離によって旅の難易度が判断される、つまり、日本人にとっては、アフリカや南米などよりも、東南アジアのほうが文化的な距離が近いので、日本人バックパッカー・コミュニティでは東南アジアの旅の難易度は低いと評価されるのである。(p.118-120)


旅する地域には難易度があるという見方は、確かにあり、暗黙裡にある程度共有された見方となっているように思われる。

そのため、カーターの説には説得力があるが、私見では経済的な水準の近さも大きな要因であるように思われる(経済力の水準は、水道や交通機関などのインフラ整備の状況などにも影響し、インフラ整備の状況は人々の個々の振舞にも影響するので、経済水準の差異と文化的距離の大きさとは相互に影響し合う要素であるとは思われるが)。ある程度経済的に豊かな地域や旅人が住んでいる地域と同じ程度の経済水準の地域に旅をするのは相対的に容易であり、旅人が住んでいる地域よりも経済的に貧しい地域に行く方が何かと不便であるため難易度は高いと言えるのではないか。

ただ、これは「地域観」というだけでなく、「当該旅人にとっての難易度」をある程度は反映しているのではないか。少なくとも私自身の実感としてはそのように感じている。



大野哲也 『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』(その1)

バックパッキングは、ことばも通じない右も左もわからない異国の地を、現地社会に全身全霊を浸らせながら自力で進んでいかなければならない旅である。その異文化体験をとおして味わう、スリル、達成感、恐怖心と克己心などの総体が旅の面白さを構成している。そして波乱万丈の旅をやり遂げた自分を振り返ることで、旅人は自分が成長したことと自分が変わったことを実感することができるのである。(p.42)


旅の面白さを非常によく言い当てているように思う。

ただ、本書では、日本人バックパッカーたちが、実は異文化体験をあまり志向していないことや、スリルや達成感などもマニュアル化され、商品化され、消費されるものになる傾向などが指摘されており、そうした側面があるという認識に基づく留保はつけられることになる。この指摘も妥当なものと思う。

そして、本書ではアイデンティティと旅との関係において、ここで述べられている「旅をやり遂げた自分を振り返ること」が果たす機能に焦点が当てられているのが特徴的な観点であると思われた。



だが、旅の面白さが自己変革や自己成長と接続する可能性がつねに開かれているという開放性こそが、バックパッキングの大きな特徴であり、バックパッキングの魅力を増大させているのである。(p.43)



この指摘にも同感である。上述の「波乱万丈の旅をやり遂げた自分を振り返ること」によって、成長した自己像が描かれ、自分自身が成長したという実感へと繋がっていく。本書ではこの点について、成長した「実感」という表現までで止めているように思うが、現実の社会での活動に変化が生じており、それがその社会の「共通善」を志向しているのであれば、それは「成長した」と言ってもよいのではないかと思う。

なお、本書のこの後の議論を踏まえた(やや先回りしすぎな)コメントになるが、この点は、本書の見方と私の見方の分岐点になっているように思われる。日本社会の中に回帰することを「前進主義的価値観」の元に回収されたものと見る本書の見方は、日本社会の中に存在する価値観を過度に単純化しているように思われる。アイデンティティは個人が持つものではなく、社会の中でのみ意味を持つものだとすれば、そして、社会の中での役割や立場、自分の「居場所」こそがアイデンティティの根源であるとすれば、元々住んでいた社会に回帰し、そこで新たな立ち位置を見出し、自分自身が満足しながら社会に貢献できる道を見つけたのだとすれば、それは実際に成長したと言ってよいはずである。

逆に、本書が評価する(本書ではこの言い方は使っていないと思うが)ノマド的な生き方は、もともといた社会の中には居場所を見つけることが「できず」、やむを得ず、複数の社会の間で、それら(が作り出している制度)に「貢献する」よりは「利用する」ことで何とか居場所を確保しているにすぎない。この「貢献」の少なさを私は低く評価したい。例えば、社会保障制度をつまみ食いしている点などに、それは象徴的に表れている。つまり、住民票を置いたまま国保に加入せずに他人の保険証を使用するといったことを本書は知恵があるとして称揚しているが、これは詐欺罪に該当する犯罪である(少なくとも、国保法や健保法には違反している)。(なぜならば、医療機関を錯誤させることで医療機関から保険者に不正な請求をさせ、保険者から不正に給付を受けている。)また、社会に住んでいる人が拠出している保険料や税金に便乗しながら、この人は保険料や税を払ってくれた人々に対して何の貢献をしているのか、ということも考えなければならない。こうした行為を高く評価することは妥当な評価とは言えない。



 こうしたサイクルが成立する一因は、冒険的な旅の経験によって刷新された「個性豊かでタフ」という自己が、「強い者が勝ち、弱い者が負ける」という資本主義のルールときわめて親和的だからである。このサイクルのなかで、日本社会で支配的な価値観からの解放を願って旅に出たバックパッカーの多くは、結局は日本社会が強制する前進主義的価値観に自発的に服従し、かつて逃走を試みた社会秩序へ再参入していくのである。(p.52-53)


「個性豊かでタフ」をよしとする価値観が資本主義のルールと親和的であるという指摘はなるほどと思わされた。

しかし、一点だけ疑問がある。もし、本書が言うようにバックパッカーの多くが「日本社会で支配的な価値観からの解放を願って旅に出た」としても、日本に帰ることを始めから意図せずに旅に出発するバックパッカーがどれほどいるのか、という点である。本書の観点ではここが抜け落ちているように思われる。

多くのバックパッカーが始めから帰国の意図を持たずに「解放」を願って出国しているというのであれば、本書がここで指摘している内容は十全なものと言い得ると思うが、そもそもバックパッカーたちの殆どは帰国することを前提して旅に出ているのである。価値観から解放されたいと思っているとしても、一時的にそこから身を離すことで、より落ち着いた環境の中で自分自身の身の処し方を再構築したい、といった考え方なのではないか。この発想自体は「前進主義的価値観」とは何の関係もない。他の価値観の社会であっても十分あり得る発想である。



バックパッキングという実践が、生きる意味について葛藤し自信を喪失していた者に、生きる希望を与え新たな活力を付与したことはまぎれもない事実なのである。さらに今まで想像すらしたことがない生き方が世の中には多く存在することを、身体のすべてを使って知ることで、彼らの人生観や価値観が根底から変化する可能性もある。
 彼らがバックパッキングをとおして得た自信と確信は、彼らがこれから歩もうとする新しい人生のステージで、新たな地平を切りひらく原動力になり得るのだ。つまりマクロレベルでみると既成の価値観の再生産につながっているものの、ミクロレベルでみれば個々人の生を活性化させる力がまぎれもなく備わっているのである。(p.53-54)


バックパッキングがミクロレベルでは生の活性化という機能を持つことについては全く異存はない。マクロレベルで既成の価値観の再生産に繋がっているということ自体も表現としては誤ってないと思う。ただ、既成の価値観を「前進主義的価値観」に回収しきってしまうような扱い方と、バックパッカーたちがこの価値観とは相容れない価値観を持とうとしているかのような扱い方には、単純化しすぎであると批判しておきたい。一時的に既存の価値観から離れて自分の考え方を再調整したいという発想は、既存の社会の中での自分の役割を考え直すことであって、既存の価値観を否定することではないと考える。このように考えれば、バックパッキングは合目的的な行為となっていると言うことすらできる。



 このようなプロセスを経て日本人バックパッカーがひとつの場所に集まり、沈潜者と新参バックパッカーが親密になり交流を深めることで、たとえ沈潜者が日本人宿コミュニティから移動していったとしても、情報だけは、残された者に引き継がれ蓄積され続けていくのである。さらに蓄積された情報をもとに旅を遂行することによって、彼らの多様であるはずの旅の経験はひとつのモデルへとゆるやかに収斂していく。相似形の旅物語が生産されていくことになるのだ。(p.85)


この指摘ももっともだと共感する。実際、バックパッカーが泊まる宿を転々とすると、以前別の国(都市)で出会った旅人と再会することはしばしばある。(イスファハーンで出会った旅人とイスタンブールで偶然再会するといった経験は私にもある。)こうした画一化には確かに本書が批判するような、「本来のバックパッキング」からの乖離はある。

しかし、そもそも旅のあり方は時代によって変わるものであり、バックパッキングが始まった時代の旅が最高のものであったと言える根拠は特にない。ガイドブックや情報によって収斂していくことは確かに画一化の方向性ではあるが、なぜそのに画一化するのかという理由を考えると、それは市場によって良い商品が選ばれるのと同じである。誰かが既存の情報とは違う情報を書き込んでも、それと同じルートで旅をした人が良いと思わなければ、そのルートは他の旅行者に追随されることは(あまり)ない。それと違う道を行きたい人はそこを行けばよく、そうでない人は良いとされている道を行けばよい。それだけのことではないのか。なお、ここではブローデルに倣い、「市場」と「資本主義」とは同一のものではない、と断っておこう。



異文化経験を熱望する一方で、日本的なものを強く求める二律背反性が沈潜型バックパッカーの旅の核心であるなら、バックパッカーの再生産は避けられない帰結であった。(p.85)


沈潜型バックパッカーには会ってみても今一歩、彼らの価値観というものは理解できなかったのだが、本書の指摘は、こうした一面はありそうだと思える内容であり参考になった。



イブン・ハルドゥーン 『歴史序説3』

 これらは哲学関係の基本的学問で、七部門ある。まず第一は論理学で、次に数学がくるが、これは算数にはじまって幾何学、天文学、音楽学と続く。次に自然学がきて、最後が形而上学である。(p.331)


ヨーロッパの自由七科――文法学、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽――とかなり共通性がある。ヨーロッパの自由七科は、ローマ時代の末期に確立したようだが、イスラーム世界にはヨーロッパ以上に多くのギリシア・ローマの文献が知られていたから、根はおよそ同じような所にあるものと推察され、興味深い。



 カルデア人やそれ以前のシリア人、シリア人と同時代のコプト人などは、魔法や占星術やそれらと関係のある催眠術や呪符などに強い関心を示し、ペルシャ人とギリシャ人が彼らからそれを学んだ。(p.331)


ここでの学問の流れは、『黒いアテナ』でバナールが主張する方向性と一致している。古代ギリシアの文化が開化する以前の時代、レヴァントやエジプトからギリシアへと学問や文化が伝播し、影響を与えた。


宮原辰夫 『インド・イスラーム王朝の物語とその建築物』

 インドに現存するデリー・スルターン朝やムガル帝国の建築物は、「インドの富」の略奪や都市の破壊、住民の殺りくという歴史的側面から見る限り、多数のヒンドゥー教徒にとっては歴史の負の遺産以外のなにものでもないと言えよう。しかし、たとえインド・イスラーム王朝に関連するすべての建築物を破壊したとしても、歴史の事実が消える訳ではない。むしろ歴史の事実を継承し、そこから学ぶ機会を失ってしまう。(p.5)


この辺りは日本の植民地支配を受けた二つの地域の対照的な対応(建造物ごと負の歴史を消し去ろう、否定しようとする志向がある韓国と日本の統治時代をも自分たちの歴史の一部として継承して行こうという志向がある台湾)が想起された。



 またティムールは、フィーローズ・シャー・トゥグルクが建てた素晴らしいジャーメ・マスジド(現在のフィーローズ・シャー・コートラー(図78))に余りにも魅せられてしまったので、それと同じマスジドをサマルカンドに建てたいと考え、そのマスジドの設計者とレンガ職人や技術者をデリーからサマルカンドに連れ帰った。それが後にサマルカンドに建造された未完の金曜モスク「ビービー・ハーヌム・マスジド」であると言われる。
 ただ、写真で見る限り、この「ビービー・ハーヌム・マスジド」(図76)の入口の門は、明らかにテランガーニーが建造したと見られるベーガムプリー・マスジド(図64)やカラーン・マスジド(図67)の門と同じ特徴を備えている。つまり、門の両端に丸太のような柱が張り付いているという特徴からして、このマスジドはフィーローズ・シャー・コートラーだけでなく、当時建立されていたデリーのマスジドの影響を受けているといえよう。(p.109)


ビービー・ハーヌム・マスジドにインドからの影響があるとは気づかなかった。門の両端の大きな柱は、確かにインドのイスラーム建築では割と多くみられるように思われる。