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マックス・ヴェーバー、カール・シュミット 『政治の本質』
マックス・ヴェーバー 「職業としての政治」より

即ちコブデンのように理解に訴えた時代から、一寸見た所は飾り気のない「ありのままを語る」技術家であったグラッドストーンを経て、現代では、大衆を動かすために、救世軍が使用するような手段を用いて、全く感動的な演説が行われるようになったのである。今日の状態は、「大衆の感動性の利用を基礎とする独裁制」と称しても差し支えあるまい。(p.68-69)


ウェーバーの時代において既にこのような演説の力が重要な時代になったと認識されるような時代となっていたことがわかる。思うに、2010年代はポピュリズムが日米やヨーロッパなどでは目につくという点ではウェーバーの時代と同様に煽動的な演説が力を持っているが、それに加えて、政府が大衆に与える情報を操作することにより、真実を知らせないようにすることで人びとからの反発を回避しながら、少数の政治エリートたちの意思決定によりすべてを恣に決めて行くという手法も広がってきているように思われる。

情報を与えなかったり操作することで権力を維持するという戦略自体は、冷戦時代の東側諸国で使われた常套手段であるが、冷戦終結後に旧西側世界において、旧東側で行われていたことと同様の考え方に基づく統治を、遥かに洗練された仕方で実施するようになったのは皮肉である。



指導者の機関として役に立つためには、その追随者は名望家の虚栄とか自説の主張とかに妨害されることなく、盲目的に服従しなければならない。即ちアメリカの意味の機械(黒幕幹部)でなければならないのである。……(中略)……。この盲目的服従こそ、指導者の指導に対して支払われる所の対価なのである。しかしながら、指導者が、「黒幕幹部」を擁して民主政治を行う場合か、或は指導者のいない民主政治、即ち使命なく、正に指導者たらしむべき内的神智的素質のない「職業政治家」が支配する場合か、そのいずれかを選ばなければならぬ。(p.81-82)


ウェーバーは、この「盲目的服従」という対価を支払っても指導者による指導・支配を是とする。ここで述べられている盲目的服従は官僚(行政スタッフ)に求められているものだろうが、ウェーバーが書いた他の政治評論などの内容も考慮すると、大衆も同様の服従を求められているように思われる。


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舟田詠子 『パンの文化史』

そのため平焼きは煮込んだおかずでも巻き込んだり、はさんだり、のせたり、あるいは焼くまえにおかずをのせておいたり、パンでおかずを包んでからさらに油焼きしたりする。ピッツァを見ればパンとおかずは見るからに一体である。こうしたパンとおかずの豊富な組合わせは、パン用の穀物や、野菜、乳製品に恵まれた環境があってこそ生まれるものである。
 平焼きの世界にはスプーンもフォークもない。パンを使って食べものをつかんだり、掬い取ったりする。パンがスプーンやフォークの役目をしているわけである。そのうえ、皿もいらない。おかずをのせた平焼きは、食べられる皿である。皿の縁を土手のように高くすれば、多少汁気のものも入れられる。するとこのパンは、食べられる器である。このように平焼きパンは食べものと食事道具を兼ねる、しかもゴミも汚水も出さない生活ができる大変便利なものなのである。(p.44)


西欧の厚焼きのパンとそれ以外の地域の平焼きのパンを比較しているのだが、こうした比較からも歴史的に見ると、いかに西欧が貧しい地域だったのか、中東やインドや中国といった地域の方が豊かだったのかということが浮びあがってくる。このことは次に引用する箇所でさらに明瞭となる。



 次に厚い発酵パンの地域では、パンとおかずは別々に食べるのが伝統であった。と言っても中世のアルプス以北の食生活では、おかずと言えるようなものはほとんどなかった。社会の上層でさえ、マメのスープと焼いた肉が中心だった。そのような社会では、パンをおかずと組み合わせることでおいしく食べようとするうことよりも、パンそのものをおいしくすることの方へ意を用いた感がある。この人びとの目指したことは、最初からパンをよりふっくらと発酵させることであった。だから西洋では、ぺちゃんこなパンを、いかにふくらませ、香りよいものにするかということを究極とした、直線的なパン発達史ができあがった。この視点に立つと、平焼きは原始的なもの、ふくらんだパンがより発達したものと捉えがちである。「どこそこでは、いまだに未発達な平たいパンを食べている」などという表現に出くわす。しかし無発酵は未発達ではないし、ぺちゃんこは技術の未熟を指すものではない。ちゃんと訳あって平焼きなのであって、この世界には西洋的「発達」の必要はなかったのである。(p.45-46)


アルプス以北の西欧地域の(特に近代以前の)貧しさは、パンのありようにも表れている。



 紀元前の時代は、さしものギリシャ人もパンにかけてはアジア人にかなわなかったとみえる。パン焼き職人ならフェニキア人かリュディア人がよい。あらゆる種類のパンを注文に応じてつくれるぞ、とか、いやカッパドキア人が最高だ、などと品定めをしている。紀元前の世界では「肥沃な三日月地帯」のパン文化は以前周辺を凌駕していたのだろう。(p.104)


ここでは「さしもの」とあるように、ギリシアを(相対的に)優れたものと前提した上で、パンにおいてはフェニキアなどの方が高度な文化を持っていたとしているが、むしろ様々な文化の全般において紀元前にはギリシアよりメソポタミアやエジプトの方が優れており、様々な文化がこうした高度な文明地からギリシアに流入していったという『黒いアテナ』のように捉えるのが妥当だろう。逆に言えば、本書の議論はパンの文化という部分的な領域において、アーリアモデルよりも修正古代モデルや古代モデルの方が妥当性が高いことを示すものと見ることができる。



第一の注目点は、1602年にすでに新大陸渡来のトウモロコシのパン(12、16)があったこと。これはトウモロコシ実用化のかなり早期の例である。にもかかわらず同じ新大陸渡来のジャガイモの方は出てこない。ジャガイモ入りのパンの普及は18世紀以降である。北アジア原産のソバ(6)が入っている。ソバは1500年以降に、ロシア経由で東ヨーロッパへ、ベニス経由でイタリア、さらにアルプス一帯へ、あるいはベニスから海路アントワープ、さらにフランスへと伝播した。同じ頃やはりベニスを拠点にコメや、香辛料、砂糖も全ヨーロッパへ普及していった。……(中略)……。

 こうして大航海時代を節目として、パンの世界にも新たな素材がもちこまれるようになった。(p.138)


こうした伝播について知り、この時代に世界が変わっていった様子をもっと詳しく知ることができれば非常に面白そうだ。



[図91] 野外での貴族の食事風景 仔豚の丸焼きと白パンだけの食事。パンは当時じかにおいた。細長いコッペパン、その半切り、丸いセンメル、ともに典型的な中世の白パン。まだフォークがなく、すべては手づかみ。その汚れた手は、亜麻のテーブルかけでふいた。手織り絨毯、1460年頃(p.227)


西欧では貴族は白パン、庶民は黒パンを食べていたというが、貴族でも肉とパンだけという程度の食事が多かったようだ。皿も使わずにテーブルに直接パンを置いていたというのは、平焼きパンの地域とも共通だったのかもしれない。アルプス以北ではフォークが使われるようになったのは概ね16世紀以降と思われるが、それ以前は手づかみで食べていた。このことはよく目にしてきたが、テーブルクロスで手を拭いていたというのは現代の感覚からするとかなり行儀が悪いというか不潔であり驚きを感じた。



 都市では、人口の集中にともなうパンの需要から、製パンも産業化される必要にせまられていた。産業革命によって、燃料は薪(木炭)から石炭へ変わる。それまでのパン窯では構造上石炭は使えない。しかも大量生産ができない。そのためイギリスでは、18世紀後半から石炭用の、箱形のパン窯が現れた。その原理は、鉄の箱を縦型ストーヴに組みこんだようなもので、下段で石炭を絶えず燃やしながら、上段でパンを焼くというものである。
 パン窯内部も、楕円形から方形に変わった。それにつれて、パンの形も変わった。……(中略)……。私たちが食パン、イギリスパンなどと呼んでいる、型に入れて焼く四角いパンはこうして始まった。型に入れるようになってはじめて、パン生地がだれずに、高くふくらむようになったのである。……(中略)……。
 もうひとつ、私たちになじみのフランスパンの方も、昔からあのようにパリッとしていたわけではない。フランスパンのように、中身がふっくらして、皮がぱりっとしたパンを焼くには、特殊な蒸気を出したり止めたりできるオーヴンがなければならない。フランス産のコムギはグルテンが少ないので、この粉でパンをふっくらふくらますには、焼き初めに、パン窯に蒸気を大量に送り込まなければならない。しかも途中でその蒸気を止めないと皮はパリッと焼き上がらない。そんなことは従来のパン窯では無理な話で、現在でも家庭用オーヴンではむずかしい。それを可能にしたのは業務用の蒸気オーヴンというものだった。このパン窯のおかげで、質の悪い粉にもかかわらず、あの独特のおいしいパンが生まれたのである。蒸気窯の登場は、イギリスでは19世紀末のことであったが、フランスでは1910年まで、旧来のパン窯が全土で使われていたという。
 このように、イギリスパンやフランスパンの歴史はまだ100年程度のもので、ポンペイ時代からの1800年間、パン焼き技術はほとんど変わらなかったのである。(p.236-267)


産業革命や都市化といった社会の変動がイギリスパンやフランスパンの誕生の背景となったのであり、20世紀になる前後になって現在のようなイギリスパン、フランスパンが生まれ、普及したというのは今まで考えたこともなかった。現在では当たり前に普及しているものでも、その歴史は新しく、近代のものというより現代のものと言うべきものだったことに驚いた。

また、フランスパンがあのような不思議な構造になっているのも、フランスのコムギの質が悪いことがその背景になっていたというのは、ある意味、それだけの工夫が必要なものだったとも言えそうであり、感心させられる。



 最後の晩餐でイエスがパンを割いて弟子たちに与えたのは、家長がそうする習慣だったからである。パンを分かち与える者が、一族の長たりえたのである。英語のLordはloat ward<パンを管理する人>を意味し、Ladyはloaf dige<パンをこねる人>を意味していた。ともに命をあずかっていたのである。「パンをともにする」という言葉から、companyやcompanionという言葉がうまれた。パンをわかちあう仲間が、共同体なのである。(p.269)


なるほど。最後の晩餐というのもその時代のその地域の習慣を反映したものだったとして理解するのは重要と思われる。また、lordやlady、companyやcompanionという語の出自も興味深いものがある。


カール・ヤスパース 『われわれの戦争責任について』

 道徳上の過誤は、政治上の罪と刑事犯罪との生じてくるような状態の土台をなすものである。数知れぬ小さな怠慢行為とか安易な順応とか、安価な理由をつけて不正を正当化したり、知らず識らずのうちに不正をうながしたり、社会全般に不明朗をかもし出してそれ自体が悪の温床となるような社会的雰囲気の発生に力を添えたりする行為は、社会の状態や出来事に対する政治上の罪を生ずる一つの条件ともなるべき結果をも生むのである。
 人間の共同生活における権力の意義をはっきりと見極めないということも、道徳上、問題となることである。このような根本的な事実要素を隠蔽することは、不正にも権力を絶対化させて事態の唯一の決定要因たらしめることと同じく、罪なのである。生きる上に頼りとしている権力関係のなかに巻き込まれてしまっているということが、人間誰しもの逃れられぬ致命的な災厄である。これはすべての人間の逃れられない罪、人間としてのあり方の罪である。正義ないし人権を実現するような権力のために献身的な努力をすることによって、この罪に対抗していくのである。正義に奉仕する権力関係を築き上げ、このような権力のために戦うということに協力を怠るのは、政治上の根本的な罪であるが、この罪は同時に道徳上の罪でもある。(p.57-58)


最初の段落で述べられている「道徳上の過誤」が政治上の罪や刑事犯罪をもたらしうる蓋然性は、ヤスパースの時代よりも現代の方が遥かに大きなものになっているように思われる。それというのもネットによってこうした道徳上誤った言動にふれる機会が増大しているからである。政治家や公的な立場にある人が(ネット上や私的または党派的または公共的な集会などで)問題発言(ヘイトスピーチや差別的発言など)をしたことがニュースになることがあるが、このような言動は通常「道徳上の過誤」であり、こうしたものを放置しておくと、そのうちそうした考え方が当たり前のものとして流布することを助長することになる。このようなものがコモンセンスとなってしまえば、権力者たちが政府に誤った行為をさせることを許すことに繋がる。

ヤスパースが後段で述べているように、そうしたものに対抗する権力関係を築き上げるように努力・協力しなければならず、このような努力や協力をしないということ自体が罪である。ヤスパースの基準は極めて理想的であり厳格なものではあるが、このような理念を掲げるか否かは、日常の言動にも差が生じるものであり、少なくとも心にとめておく価値がある。



類型的な見方が何ものかを正しく捉えているからといって、この一般的な性格づけが個人に当てはまると見られる場合に、それですべての個人を把握し得たつもりになったりしてはならない。これこそは諸民族、諸団体相互間の憎悪の手段として過去幾世紀を通じて見られた考え方なのである。最大多数の人間が遺憾ながら自明当然の考え方と感じているこの考え方こそ、ナチスが最も悪辣な用い方をしたところのものであり、かれらが宣伝によって国民の頭に叩き込んだところのものである。(p.69)


ヘイトスピーチやしばしば差別発言をする人々は、大抵この考え方に捉われている。



 けだし人間世界の問題については、現実がそのまま真理なのではない。むしろこの現実に対抗して別な現実を立てていかなければならない。別な現実が存在するか否かは、人間の意思にかかっている。(p.98)


今ある現実をそのまま認め、その流れに乗ることをよしとする人がいる。それ以外の現実を想像したり、意志したりすることができない人がいる。ヤスパースが言っているのは、あるべき未来を構想し、それを実現するよう努力することの重要性であろう。

これに対し、昨今の「フェイクニュース」といった言葉が言われるようになっていることや森友・加計問題に対する安倍政権の対応、裁量労働制に関して政府がどう考えても彼らにとって不都合なデータを意図的に隠蔽し、彼らにとって都合の良さそうに見えるデータを無理やりでっち上げようとしたとしか考えられないような対応――政府がやりたい方向に有利になるようなデータを作成し、比較することができないデータを比較して見せ、その比較の結果に対する注釈をせずに公衆の面前にさらし、かつ、より適切で比較可能なデータは可能な限り隠蔽する、というのが現時点での政府の対応であろう――に見られるように、「真理ではない現実」すら隠蔽し、より誤謬に満ちた「権力者の願望」を現実であると思わせようとする権力者たちの言動は極めて危険なものである。



 それはともあれ、祖国に対する義務はその時々の支配権に対する盲目の服従よりもはるかに根本的なものである。祖国の魂が破壊されれば、祖国はもはや祖国ではない。国家の権力はそれ自体が目標なのではない。それどころか、国家がドイツ的な本質性格を破壊する場合には、国家権力はむしろ有害である。それゆえ祖国に対する義務ということからは決して理論上当然にヒットラーに対する服従という結論が出てくるわけではなく、またヒットラー政権下の国としてもドイツはなおかつ是が非でも戦争に勝たなければならないという結論が当然に出て来るわけではない。ここに良心の錯誤がある。(p.112)


これは現代の日本の右派にも頻繁に見られる錯誤である。彼らは「国賊」とか「売国奴」といった類の言葉をしばしば口にするが、時の政権がこれから行おうとしていること、現に行っていること、過去に行なったことなどに対して「否」を言うことと、ヤスパースがここで言う「祖国」を否定することとは全く別のことである。

むしろ、大抵の場合、前者のような否定の言動をすること(つまり、現在の政府の方針に反対することなど)は、より根本的な「祖国」への忠誠から発することもあり得るし、ほとんどの場合、こうした関係になっているのではないか。ここで「祖国」と呼ばれているような「ある共同性に対して概ね共通して抱かれる想像」を前提しなければ、現在の政府の方針を変えさせて「この社会」を良くしようと思うことは難しい(より身近な人のことだけを考えて行動することもあり得るが、そのような活動では――誰にとっても常に身近な人に関係するというような場合を別とすれば――普遍性を持つことは難しい。)。



 罪の意識を基礎にした内面の清めがどこまで進んだかは、攻撃に対する態度を見て知ることができる
 罪の意識を持たなければ、あらゆる攻撃に対するわれわれの反応は、依然として反撃の形をとるのである。これに反して内面的な揺さぶりを経験したあとでは、外部的な攻撃は今はただわれわれの上面を掠めるだけである。悲しみや心の痛みは覚えるであろうが、攻撃が魂の奥底までしみるということはない。
 罪の意識が真におのれの意識となっていれば、間違った不公正な非難には平然として堪えられる。それは尊大な気持ちと横柄な気持ちとが消えてしまったからである。
 ……(中略)……。
 われわれの心を照破して変化させることを怠れば、防ぐすべもなく無力であるがゆえに、われわれの敏感さは高まる一方であろう。ものごとを心理的に劣弱意識に転換させることによって生ずる毒素がわれわれを内面的に破滅させるであろう。非難を甘受し、それを聞いたあとで検討してみる心構えでなければならない。われわれに加えられた攻撃はわれわれ自身の考え方を調整することにもなるのだから、これを避けるよりは進んで求めるようにしなければならない。われわれの内面的態度はこのようにして裏づけを得ることになろう。(p.208-209)


これを読んですぐさま念頭に浮かぶのは、安倍晋三やその周辺の人々が、従軍慰安婦問題や南京事件、その他日本政府の過去の戦争犯罪を含む歴史問題に対する際の態度である。彼らは批判されれば反論する(時には根拠がないデマやそれに近いような不適切なデータや複数あるデータのうちの都合の良い一部だけを切り取ったものを切り札として)。そこには尊大さと横柄さが見られる。罪の意識は微塵も感じられない。表面上の言葉より、こうした態度の方が彼らの思っていることを的確に見せてくれる。


武田尚子 『ミルクと日本人』

 この時期の牧畜奨励の背景には、政府が財源不足解消のため秩禄処分、士族授産を進めたことがある。明治4年(1871)12月に太政官布告が出され、華士族が農工商に従事することが解禁された。さらに農業・牧畜志願者(家禄・賞典禄100石未満)に官有林野・田畑・荒蕪地を払い下げる太政官布告・達が発せられた。秩禄処分の段階的実施と並行して、士族を農業・牧畜へ誘導する法制度が整えられていった。
 秩禄処分によって、士族の農業・牧畜への参入が著しく増加したわけではないが、士族授産を進めた時期に、牧畜業へ参入可能な基盤が整えられた。(p.44-45)


士族授産を進めるため農業を奨励するという流れは屯田兵制度とも時期的にも内容的にも一致する。一連の政策の中の一つだったと見るべきだろう。ただ、政府の意図と実際の社会の変動とは直ちに繋がるわけではないのだが。


アンジェラ・ダックワース 『GRIT やり抜く力 人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける』

 最後に、強い興味を持ち続けるには、親、教師、コーチ、仲間など、周囲の励ましや応援が必要だ。(p.146)


モチベーションは本人一人だけで持ち続けられるものではなく、周囲の人々によっても支えられているという点は非常に重要と思われる。自分自身が続けてきたことを辞めてしまった時などを思い返しても、こうした周囲の励ましがなかった時だったという経験からもそう思える。



 同様に、ドウェックと共同研究者らによる研究においても、子どもがミスをしたときに、親が「ミスをするのは悪いことで、問題だ」というような態度を示した場合、子どもは「固定思考」になる確率が高いことがわかってきている。(p.245)


ミスに限らず、結果に重点を置くと同様の傾向になるのではないかと思う。



 Parenting(子育て、親業)という言葉はラテン語に由来し、「引き出す」という意味をもっている。(p.260)


educationという言葉に対しても同じようなことがよく言われる。



 子育て研究による大きな発見のひとつは、親が子どもにどんなメッセージを伝えようとしているかよりも、子どもがそのメッセージをどう受け取っているかのほうが重要だという点だ。(p.284)


研究しなくてもそりゃそうだろうと思う内容ではあるが、どう受け取るかまで考えた上でメッセージを発することが大事ということになる。これは、相当意識してやらなければ、なかなか難しい。



 温かくも厳しく子どもの自主性を尊重する親に育てられると、子どもは親を手本とするだけでなく、尊敬するようになる。そうすると、ただ親の言いつけを守るだけでなく、親の意図に納得して従うのだ。(p.287)


なるほど。大人を指導するような場合であっても当てはまるだろう。



学校の勉強は大変で、多くの子どもにとっては、本質的に面白いものではない。友だちにメールを打つのは楽しいが、やりがいはない。では、バレエはどうだろう?バレエは大変だけれど楽しいのだ。(p.302)


課外活動の重要性を本書は指摘しているが、このあたりのことは大変参考になった。



その結果、敵愾心の強い青年たちの多くは社会的地位の低い職業に就いており、生活費を稼ぐのにも苦労していた。そうした状況のせいで、さらに敵愾心が強くなり、ますます就職が難しくなっていた。(p.315)


社会的地位の低い職業に就くことは、それだけ社会から尊敬を受けにくい状況にあり、また、家計の経済力も一般に低いことを意味する。経済力がないということは、それだけ社会から物質的な恩恵を受けることが少ないことを意味する。精神的にも物質的にも、世界はこうした人びとを受け入れる度合いが少ない。そうした環境が彼らをさらに周囲の世界に対して不信と敵対の関係へと誘っていく、といったところか。


若林滋 『屯田学校 北海道教育の礎』(その2)

 ホーレス・ケプロンが現地調査のうえ、屯田兵入植地に適しないと開拓使に報告したにもかかわらず、室蘭を軍港にする防衛上の理由から、山縣有朋の意向で兵村が設置された。(p.92-93)


農業には適さない土地であっても防衛上の理由から屯田兵の入植が行われた土地もあった。室蘭が軍港として適していると考えられていた、ということと、その後の工業都市としての発展とは結びついているのではないか。今後、室蘭についてももう少し詳しく調べてみたい。



 和田の屯田開拓は防衛を優先し、農業の立地条件を無視したため失敗に終わった。明治37年の屯田兵制度の廃止を待たず、入植した屯田兵の多くがこの地から転出してしまう。同じように立地無視で失敗した輪西兵村(室蘭市)は、天然の良港だったので今日の発展をみた。東西和田兵村を地域社会発展の核にするという、屯田兵本部の目論見は虚しかった。(p.97)


屯田兵というと、今ではそれほど悪いイメージはないかも知れないが、かなり劣悪な環境で政府の役に立つように使われたという面があるという認識を持つことは重要だと思われる。



 屯田兵本部が、防衛優先から農業には適しない海霧地帯に入植させた和田屯田開拓。食べ物も不自由とあっては、屯田兵と家族は暮らしてゆけず、離村、逃亡の道を選ばざるをえなかった。屯田兵給与規則違反による土地没収は、37の全兵村中最悪の64件にのぼった。(p.104)


上で指摘した内容をもう少し具体的に述べている箇所。



 募集の時は北垣京都府知事が疎水工事を完成して北海道庁長官に抜擢された頃で、上川に離宮が建つと聞いた。父母に話したらそれなら行こうか、と一言のもとに賛成を得てここへ来たものです(p.191)


旭川の兵村への入植者の証言。明治22年の上川離宮計画が応募の呼び水になったことがわかる。離宮は実際には建てられなかったが、この地域への関心を呼び起こし、人を集める効果はあったようだ。



 道内にはあちこちに「囚人道路」と呼ばれる道がある。その中でも、忠別太(旭川)と網走を結ぶ北見中央道路、現在の国道39号線の開削では多くの囚徒が死亡したことで知られる。
 ……(中略)……。
 当時の北海道長官は永山屯田兵本部長(司令)。対露防衛と開拓の必要から上川の屯田兵村墓地とオホーツク沿岸の結合を重視し、19年(1886)自ら沿岸を視察したうえでこの道路建設を命じた。(p.212-213)


人の命を守るはずの防衛が絡むと人の命がより粗末にされる。目的は手段を神聖にしない。

「人を守るため」とか「国を守るため」という神聖な目的を掲げて何かをしようとしている輩に対しては、実際にやろうとしていることを行った場合、何が結果として生じうるかということに通常以上に敏感にならなければならない。現在の憲法を変えようとする論の中で自衛隊の明記や緊急事態条項の創設などと言っている輩がいるが、そのようなルール変更をした場合、何が起り得るかを善く見据える必要がある。



 松前藩では忠長の配流を契機として、以後六回にわたり公家と婚姻を結んだ。京洛との往来も盛んになり、最果ての城地に都振りが浸透していった。北海道ただ一つの小京都として、松前公園の梅や桜、言葉や食べ物にまで都の名残を留めている。(p.273)


なるほど。松前藩と公家との接近が京の文化が松前や北海道にも入ってくるルートの一つだったわけだ。



 わが国の寺子屋と私塾の隆盛期は寛政(1789~)から天保末(1843)の約50年間だった。北海道はこれより遅れて、江戸後期の天保末から安政末(1859)とされる。(「北海道私学教育史」)
 ……(中略)……。
 隆盛期の天保年間(1830~1843)は10校、弘化年間(1844~1847)は4校、嘉永年間(1848~1853)は17校、安政年間(1854~1859)は11校、合計42校にのぼった。いずれも、道南部を中心に開校した。(「同」)
 これは天保の国内飢饉と蝦夷、積丹半島神威岬の女人禁制と関係がある。
 「北海道教育史」の山崎長吉氏によれば、奥羽地方では天保3年(1832)、4年、6年、7年と凶作が続き、暮らしに困った農民らが続々と蝦夷地に渡来し、道南の海岸部に住み着き、新しい集落を形成した。
 さらに触れたように、松前藩は元禄4年(1691)に神威岬以北への婦女の通行を禁止した。そのため、特に福山、江差、箱館の三港付近を中心に渡来者の定住が増え、寺子屋、私塾の発生を促したという次第だ。(p.279)


なるほど。蝦夷地に渡来してきても、奥地に行くことは禁止されていたから、入口に付近に留まる人が多かった。そのため、この地域に寺子屋、私塾が生まれることになった、というわけだ。

少し気になる点としては、神威岬以北までこの時期にそれほど人が移住するインセンティブがあったのかどうかという点であり、ここには若干の疑問がある。神威岬以北への入植が出来たとしても、この時期にはそれほど多くの人が北部への移住はしなかったのではないか。そうであれば神威岬の女人禁制はそれほど大きな要因とは言えないのではないか、ということである。



 開拓が進んだあと他府県と同様の学務を執行すべく、それまで北海道の普通教育に特例を設けてくれるよう求め、受け入れられた。この精神は、長く本道の教育行政を支配し、昭和16年(1941)に小学校が国民学校になるまで生かされた。正規の小学校教育に対して、便宜の教育措置がとられ、いわゆる正系教育に対する傍系教育がその後も続いたのである。本道の一般諸政策が植民地政策をとってきた歴史的過程は、教育においても明らかに見ることができる、と「北海道私学教育史」は指摘している。(p.304)


北海道における一般諸政策が植民地政策をとってきており、教育においても同様であったという認識は重要であり、戦前の北海道を考える上で見逃すことができないポイントであると考える。



 農商務省が農学校を直轄するのは不自然との批判が起こり、文部省移管が望まれたが、北海道庁管轄などを経て、同省直轄となったのは同28年4月だった。(「新撰北海道史第三巻」)
 この経緯にも、札幌農学校が北海道開拓行政と一体だったことを示している。(p.317)


なるほど。札幌農学校の歴史を見るとき、いつも、何年にどこの管轄となったということに言及されるが、その意味する所については必ずしも明確に指摘されないことが多いが、本書は非常に明快にその意味することを指摘してくれている。



 金子の復命は、開拓使-三県と続いて主導権を握った薩摩閥に対する批判でもあった。かねて道政を薩摩閥から切り離したいと願っていた長州のリーダー伊藤博文は、長州出身の山縣内務、井上外務両卿の賛同を得たうえ、清隆にも「異存なし」の言質をとって三県廃止と北海道庁の開設を決断、金子にその官制を起草させた。(p.321)


なるほど。札幌農学校を不要としたり、囚人を人と認めないような発言でも知られる金子堅太郎の復命書だが、大局から見ると薩摩閥が北海道開拓の主導権を握ってきたことへの批判という意味を持っていたという点は押さえておいてよい。



 道内の実業教育では、軍需生産拡大のため国庫補助制度を利用して工業学校の設置を奨励、昭和16年の10校が20年22校と増え、学科増設もあって生徒数は昭和12年の1,371人が20年には11,862人と激増している。
 一方商業学校は経済統制の下、必要性が薄らぎ19年の16校が20年10校に減った。工業高校への転換によるものである。(p.352)


軍需生産の拡大のため補助金を使って工業学校の設置を奨励していたというのは、なるほどと思わされた。


若林滋 『屯田学校 北海道教育の礎』(その1)

 最初の教育所が設けられた二十四軒は、真宗東本願寺の北海道進出に伴って新潟から招致した移民たちが入植していた。東本願寺は江戸時代を通して徳川幕府と誼を通じ、かたや西本願寺は薩摩、長州と接近していた。幕府と薩長が政治的思惑でそれぞれ大宗派の本山を利用したのである。維新に際し京都守護職の会津藩主松平容保が西本願寺を懲罰しようとし、会津善竜寺住職の弁護で思い止まった。維新後、今度は薩長政府が東本願寺の懲罰に動いた。
 「本山危うし」――東本願寺の嚴如法王はじめ一山あげて勤皇の姿勢を表した。北海道開発と移民の奨励もその一環だった。明治3年(1870)7月、現如法嗣は開拓御用掛一行180余人をひきいて函館に上陸し、胆振の長流―中山峠―札幌間108キロの本願寺道路開削を指揮した。(p.16-17)


本願寺が植民地支配(北海道に限らず台湾や朝鮮半島、満州など)で果たした役割は興味深い。北海道の開拓に関してはここで述べられているような動機が働いていたということは押さえておいてよい。



 「学制」発布後、開拓使は北海道が開拓の緒に付いたばかりで府県並みの学務執行はできない、と普通教育の特例を認めるよう政府に要請、認められた。この特例は昭和16年(1941)国民学校になるまで続いた
 これが明確になるのが、開拓使が13年から実施した「変則小学校制度」である。正規の小学校が満6歳から満14歳までの八ヵ年としているのに対して、四ヵ年で卒業できるようにした。正規の小学校は札幌第一小学校(後の創成小学校)など全道25の公立校のみとし、他は全て変則小学校として開拓地の実情に則した初等教育を実施した。(p.34)


随分長い間、内地とは異なる運用がされていたことに驚く。