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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫33 屯田兵』

 前期屯田兵が農業の分野で、これもしたあれもやったと書きつらねた中で、やらなかったのは水稲栽培、すなわち米づくりである。これはアメリカ顧問団のアドバイスによるところが大きい。単に米を作らないというだけでなく、食生活のあり方から寒地での暮らし方、体力づくりまでを見通した米作否定指導だった。開拓使はこの考えに基づき当初は米づくりを屯田兵に認めなかった。隠れて作ろうとするものを罰したことさえある。札幌農学校系の役人が持ち続けた水稲否定論を打ちやぶったのは、明治25年道庁に着任した酒勾常明で、その後石狩、空知、上川に水田が広がるのもまた、屯田兵の力によるところが大きい。(p.78)


札幌農学校やお雇い外国人について言及されるとき、相対的にプラスの面ばかりが語られがちだが、こうした判断の誤りについてももっと率直に理解することが望ましい。北海道開拓を語るときアメリカの顧問団たちは先見の明があったものとして描かれるが、必ずしも彼らは必ずしも先見の明をもっていたわけではなく、彼らがその科学的・技術的な知識だけではなく慣習的・文化的な生活様式を踏襲しようとしたに過ぎないという面も否定できないのではないか。米作否定論などはその最も分かりやすいものではないだろうか。アメリカ顧問団には日本で江戸自体から行われてきたような形での米作の知識は乏しかっただろうし、それよりも小麦などの栽培の方が詳しかっただろう。彼らの立場から見れば、知らないことよりも知っていることを推進しようとする傾向が生じるのは当然の流れではないだろうか。



 この屯田兵の入植について重要なのは出身県が琴似兵村と同様に東北地方の人々だけに限られていることである。これは明治6年の屯田兵制度の施行を要請した建白書の中に、「……旧館藩及ビ青森酒田宮城等ノ士族ノ貧窮ナル者ニツキテ兵役ニ堪ユル者ヲ精選シ…家屋ヲ授ケ金穀ヲ支給シテ産業ヲ資ク」ことを明記している通りに実施したのである。この明記した各県の藩士は琴似兵村の屯田兵と同様に戊辰戦争で賊軍と言われた人々を指しているのである。これに対して屯田事務局を構成している幹部や中隊の将校下士は薩長出身かあるいはそれに関係のある人々によって占められていた。これが西南の役に関連が生じてくるのである。(p.140)


これは琴似兵村に次いでいち早く入植がはじまった山鼻兵村についての説明だが、ここに書かれていることから屯田兵というものがどのようなものだったのかよく分かる。戊辰戦争で賊軍とされた藩では減俸されたので授産が必要となる。様々な士族の授産がなされたが、その一つが屯田兵による新領土の防備・開拓だったというわけだ。そして、それを指揮するのは飽くまでも「官軍」の側であり、これは初期の北海道における政治行政が薩摩出身者によって支配されていたことと通じている。

本書ではこれに続いて西南の役に山鼻の屯田兵が出兵したことは、兵士たちにとっては戊辰戦争の際の親族たちへの弔い合戦という意味を持っていたのに対し、将校らにとっては親族同士の争いを意味していたことが指摘されている。このため、将校らは活躍しなかったが兵士たちが活躍した。それにもかかわらず戦後は薩長の将校らが評価されたため兵士たちは不満を抱くことになったという。明治初期の日本を見るとき、廃藩置県前の出身藩が持つ意味付けは無視できない



 私がかつて道内に点在している37の旧兵村を調査した結果、各兵村に屯田兵およびその子弟が残留しているのは10~20%しかないという事実を知った。その時私が考えた結論は開拓者―屯田兵は未開地を開墾し終わったとき目的を完了したと考え、再びフロンティア精神を燃え上がらせて新しい道へと向かって行ったということであった。(p.205)


後備役から解放された後、急速に離散したらしいことから見て、このような解釈は正しくないだろう。最適の条件ではないところに縛り付けられていたところから解放を求めたという程度のことだろう。


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坂井豊喜 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(その2)

ここで民主制の実質と形式を区別する必要がある。それを怠ると、実質的には民主的でないものが形式を満たすがゆえに民主的とみなされてしまう、錯視が生じやすいからだ。(p.143)


実質的に民主的であるということを規定しようとするとかなり難しい面があると思うが、形式的に民主的な論理で説明がされたとしても、必ずしも実質的な民主性は担保されないという事実を意識させる意味でこの区別は重要と思われる。

例えば、パブリックコメントや公聴会などは民主的な決定手順を踏んだと政府が主張するための儀式となっているが、そのような形式的な手続きを踏んだかどうかだけで判断すべきではないのは、民主制を是とする限り本来当然のことであろう。さらに言えば、小選挙区制の導入によって投票者の意見と代議士の意見とが大きく食い違うことに加え、投票数と議席数も大きく食い違うようになっており、更に個別の代議士の意見など全く無に帰すような党議拘束がある中での議会が決定を行うということ自体、民主的な制度によって決定すべきだというアイディアからすれば全くかけ離れたものであるということも銘記しておきたい。

安倍政権のように選挙で選ばれたことを民意として都合よく解釈しつつ、意思決定のためのルールを恣意的に用い、さらにチェックのためのマスメディアも機能させないように手を尽くすような政権の下で、上記のような制度が悪用され続けるのはそろそろ終わりにしたい。よりまともな政権の下で制度改正することが望ましい。



 執行を担当する行政機関へ、有権者が直接関与するための手法のひとつが、住民投票である。國分氏が強調するように、これは議会制度を否定したり根本から作り変えたりすることではない。それは人々が行政に直接関われるルートを、政治体制の補強パーツとして追加していくことだ。(p.150)


適切な位置づけ。代議制の代表者たちは往々にしてこうした直接民主制的な補完を嫌い、筋の通らない否定論(直接民主制は間接民主制を否定するといった類の議論)を述べることがある。一般市民もこうした問題について十分に考えていないので、こうしたレベルの低い議論を突きつけられてもあまり問題に感じないようであり、この点は、日本の社会科教育が形式的な知識ばかりを教える傾向があることの弊害であり、改善すべき課題であると思われる。


坂井豊喜 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(その1)

「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果にほかならない。選挙で勝った政治家のなかには、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶに相応しい何かであるというわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる
 言ってしまえば、私たちにできるのは民意を明らかにすることではなく、適切な集約ルールを選んで使うことだけなのだ。(p.49-50)


非常に腑に落ちた箇所。

現在の日本の選挙制度は人々の意見をまともに反映する集約ルールになっていないということは広く理解されなければならず、そのような集約ルールの下で選ばれた者が白紙委任を受けたかのような言動をすることを許してはならない。



 しばしばなされる誤解だが、一般意志を全体主義的に捉えるのは大きな誤りである。むしろそれは多様な人間が共存する基盤、自由社会の枠組みを志向するものだからだ。一般意志は差別や偏見を許容しない。社会契約はその成り立ちから、法のもとでの平等や一人一票の原則を含む、構成員間の政治的平等を重視する。これは政治的権力や政治的権威に構成員間で大きな偏りがある、全体主義的体制ではありえないことだ。(p.78)


なるほど。ルソーの一般意志についての本書の解説は非常に分かりやすく説得力を感じた。最近20-30年程度の間に展開された公共性についての議論や熟議民主主義などの議論などと共鳴し得る内容を含んでいるように思われた。ただ、一般意志の考え方には全体主義がつけ入る隙がある(そのような解釈を整合的に許してしまう側面がある)という理解は同時に重要であると思われる。その意味で、全体主義的な解釈をあまり簡単に誤解と切り捨てるべきではないのではないか。



 本来なら憲法は法律を上位から縛るものだが、公職選挙法が小選挙区制を通じて、下から第96条の実質を変えてしまっているのだ。現行の第96条が与えているハードルは実質的には三分の二ではなく過半数であり、過半数とは多数決で物事を決めるときの最低可決ラインである。64%多数決ルールの議論が与えるメッセージは、第96条における国民投票の可決ラインを、64%程度まで引き上げるべきだというものだ。
 結論をまとめよう。第96条の擁護として「人間は判断を間違いうるから現行の三分の二条件を尊重せよ」とはよく言われる。また改憲の硬性は、多数派の暴走が少数派の権利を侵害することへの歯止めだとしても重視される。
 これらの考えは確かにその通りである。しかし、そもそも多数決は、人間が判断を間違わなくとも、暴走しなくとも、サイクルという構造的難点を抱えており、その解消には三分の二に近い値の64%が必要なのだ。そしてまた小選挙区制のもとでは、半数にも満たない有権者が、衆参両院に三分の二以上の議員を送り込むことさえできる。つまり第96条は見かけより遥かに弱く、より改憲しにくくなるよう改憲すべきなのだ。具体的には、国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい。(p.134-135)


小選挙区制を通じて憲法を改正しなくても改憲のハードルが下げられてしまったというのは全くその通りであり、昨今(80年代以前と比較して)、改憲が語られることが多くなっているのもその反映であろう。

多数決にはサイクルという構造的欠陥があり、それを解消するためには64%以上の多数決による決定が必要だという指摘は極めて重要なものであり、この知識は社会全般に広く共有されるべきだ(義務教育でも、少なくともその結果だけは教えられるべきではないか)



山本紘照 『北門開拓とアメリカ文化――ケプロンとクラークの功績――』

 この選挙こそは『広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ』との五箇条の御誓文が渙発されたその年であり、衆議院議員の第一回総選挙よりも23年前、昭和22年春に行なはれる第一回地方長官の公選に比較すれば、実に80年も前のことである。榎本武揚こそは、日本で一番先に民主主義政治を実践した人ではあるまいか。(p.21)


「蝦夷共和国」などとも呼ばれることがある蝦夷島政府の明治元年(1868年)の選挙(入札)についての論評。

本書は1946年、敗戦直後に出版された本であり、当時の日本における民主化への期待や民主的な国を作ろうとする思いなどが随所にちりばめられているのが興味深い。こうした思いは、アメリカ的民主主義は北海道から日本に広がったという主旨の発言がある序(著者とは別の者が書いたものだが)に端的に表れている。

こうした発想は、単に本書だけではなく、北海道大学総合博物館の展示で紹介されている矢内原忠雄東大総長の1952年の発言にも見て取ることができると思われる。すなわち、 「明治の初年において日本の大学教育に二つの大きな中心があって、 一つは東京大学で、一つは札幌農学校でありました。 この二つの学校が、日本の教育における国家主義と民主主義という 二大思想の源流を作ったものである。(中略)札幌から発した所の、 人間を造るというリベラルな教育が主流となることが出来ず、東京大学に発したところの国家主義、国体論、皇室中心主義、そう言うものが、日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争をひき起こし、敗戦後、日本の教育を作りなおすという段階に今なっておるのであります。」というものである。

こうした考え方には戦後まもない時期において多くの人々に共有されていた価値観が表れていると思われる。戦後のアメリカによる民主化と明治のアメリカから学んだ民主主義とを重ねて、その当時進んでいた民主化が、単に与えられたものではなく、日本の歴史の中に根を持つものであり、それを掘り起こして育てていく、だから日本には民主主義が根づくことができる、といった期待が抱かれていたのではないだろうか。

そして、こうした歴史の見方は(時に多少の誇張はあるかもしれないが)単なる虚構というわけでもない。むしろ、現在のようなバックラッシュが酷い時代においては新鮮でもあり、想起・銘記すべき内容を含んでいるようにも思われる。


前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その3)

無駄な財政支出は、既に決められた目標を執行する「行政(administration)」よりも、具体的に目標を判断する「政策(policy)」において生じるという。(p.206)


90年代末から00年代頃までは「行政の無駄」ということがよく言われた。最近は以前ほどの勢いがなくなっているが、私見では安倍政権によるやりたい放題の権力の私物化(支持率維持のための財政支出拡大とその結果としての政府の債務の増大)の結果、しばらくしてから、またこの考え方が流行り出す可能性が高いと見ている(2020年オリンピック後不況の頃か?)。

行政を効率化することで無駄を省き、費用を捻出するといったような愚かな考え方(というか行政や財政に対する無知に基づく思い込み)に対して、本書で紹介しているこの考え方は、適切な批判対象を提供してくれていると思う。本来的に取り組むべき問題は、行政の非効率性ではなく、政策決定の実質的な非効率性(間違った目標に対して支出することによるロスや目標に対して過大または過少な額の支出をするために生じるロスなど)こそが問題なのである。(もちろん、これは行政の活動に非効率性がないということを意味しない。ここ(administration)を改善しても費用はさほど捻出されないということである。)



 この過程を振り返ると分かるのは、サッチャー政権が僅か数カ月間の世論の変動によって誕生したことである。有権者の重視する争点や党首に対する満足度の推移を見れば、公務員のストライキに対する有権者の批判が、そのまま労働党への批判につながり、投票行動に結びついたと考えるべきであろう。つまり、有権者の求める政策を掲げたサッチャーが勝ったのではなく、選挙直前の不運に見舞われたキャラハンが負けたのである。近年のアメリカの選挙研究では、有権者の多くは政権の業績を全体的に判断するのではなく、選挙の直前に起きた出来事に基づいて政権党に投票するかどうかを決めているという議論が行われている(Bartels 2008, 99-104)。1979年のイギリスの総選挙は、まさにそうした有権者の近視眼的投票によって大勢が決した事例であったといえよう。その選挙結果は、キャラハン政権下の3年間の経済政策に対する有権者の業績評価投票に基づくものではなかったのである。(p.220)


サッチャー政権と言えば新自由主義改革が真っ先に思い浮かぶが、この政策に対する支持があって政権が成立したわけではなく、敵失により獲得した権力を利用して新自由主義に基づく政策を実施しようとしたに過ぎない。

多くの有権者は選挙の直前に起こった出来事に基づいて政権党に投票するかどうかを決めるというのは、まったくその通りだと思われる。安倍政権が選挙から遠い時期に好き勝手なことをやり、選挙が近づくと事を荒立てないようにし、自分の有利な時期を選んで恣意的に解散権を違法に行使することで議席数を確保し続けているという状況は、まさにこの考え方のとおりに投票行動が行われていることを示している(対照群がないため完全な立証まではできないが)。

私の眼には、安倍政権に有権者たちが操り人形として操られているように映るが、大衆に賢くなれ(より正確には、大局的に全体を総合して考えろ)などと言ったところで(それ自体は大事なことだが)ほとんど効果がないこともまた事実であり、やはり立憲主義に基づいて権力者たちに恣意的に権力を使わせないルールをしっかり作り、それを関心を持つ人びと(メディア)が監視していくということが重要である。



 本書では、政府による公務員の給与水準のコントロールを難しくする公務員制度が、結果として公務員数の抑制を促したと論じた。しかし、一度開始された行政改革が今日まで持続してきたメカニズムについては、必ずしも重点的な考察を行ったわけではない。そこで、試論的にではあるが、ここでは行政改革がさらなる行政改革の呼び水となるメカニズムについて見通しを示しておきたい。
 そのメカニズムとは、公務員数の削減によって公共部門の相対的な給与水準が上昇し、民間部門の不満を生み出すというものである。一般に、行政改革が行われると、業務の効率化のために人員が削減され、あるいは民間委託によるコストの削減が図られる。この時、削減の対象となるのは、定型化され、置換の容易な業務である。そうした業務に従事する職員の賃金は低いことが多い以上、公務員の数が減るほど一人当たりの人件費は高くなる。……(中略)……。
 こうしたスケッチは、試論の域を出るものではない。しかし、この論理に従えば、一般市民が公務員の給与の平均にしか目配りしない限り、行政改革による「無駄」の削減は公共部門に対する市民の不満を逆に高めてしまう可能性がある。(p.263-265)


興味深い仮説。

本書はこのことも踏まえて人事院勧告制度を団体交渉制度へ改めるべきだという立場だが、これに対しては、比較の対象を変える(例えば、業務内容が相対的に近いと思われる企業の企画部門や総務部門と一般行政職員の給与を比較する)ことによって一般市民が公務員の給与は平均値による見かけほど高くないというコンセンサスを作るなど、適切な情報や判断基準を示すことによって悪循環を断つということも必要ではないか。少なくとも、労働運動が十分に力を持てない状況を政府や与党が長年かけて作ってきたという歴史的経路の中で団体交渉制度を導入すべきだという判断はフェアではないし、変化の規模の割に必要な労力も相対的に大きく、そのような所に政治的なリソースを割くよりは人事院勧告制度は維持したまま別の手段を講じる方が効果的かもしれない。

というのは、本書では人事院勧告制度の意味が制度が出来た当初と高度成長期以後で変わったことが指摘されているが、今後、民間給与の上昇が望めない低成長時代においては、再び人事院制度の持つ意味が変化するはずだからである。それは給与の上昇もほとんどさせないが政府の都合による給与引き下げもできない制度であり、これ以上給与が上がらないのであれば制度を据え置いてもそれほど大きな問題にはならないとも考えられる。(日本の公務員の1人当たり給与は他国と比べて平均すれば給与が高いようだが、同じ業種で見た場合にどうなのだろうか?この水準が特別に高いのではない限り、給与水準自体を引き下げる必要性があるとは言えないのではないか。)

前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その2)

2009年に経済危機に陥ったギリシャの事例のように、公共部門の肥大化が財政危機の原因として指摘されることもあるが(村田2012,272-276)、先進国全体を見れば公務員数と財政の健全性の間には特に見るべき相関関係はない。(p.45-46)


これは、財政が悪化すると公務員バッシングが始まりやすいが、そうした非難は大抵的外れだということを意味する。90年代末から00年代前半頃にはこうした風潮が非常に強かったが、当時の公務員バッシングも完全に的外れなものだった。当時の私がこの類の的外れな非難に対して行った批判は、「財政の赤字は確かに急激に膨らんでいるが、それと並行して公務員の人件費が急激に増えたという事実はなかったのであり、そこには問題の原因や本質は関係がない」というものだった。本書で指摘されている事実関係も当時の私のような見方を補強するものと言える。



また、民間企業に対する強力な解雇規制による正社員の保護は、長期雇用による企業特殊的な技能の蓄積を前提とする雇用システムを生み出すことを通じて、逆説的にではあるが、出産と育児の負担を強いられるために長期勤続の難しい女性を労働市場から締め出す働きを持っていた(Estévez-Abe, Iversen and Soskice 20011)。(p.48)


公務員数と女性の雇用創出に関係があるという本書の指摘は今までほとんど考えたことがないテーマであり、新鮮だった。



 公務員数を説明するという課題には、戦争や革命などの政治現象を説明するのとは異なる独特の難しさがある。その難しさは、問題設定のスケールの大きさでもなければ、その事実の反直観性でもなく、それが「事実」であるということ自体に由来している。一見些細な言葉遣いの違いであるが、公務員数は事実であるのに対して、戦争や革命は出来事である。そして、一般的に事実は出来事よりも遥かに説明することが難しい。出来事にはそれを直接引き起こす人間が存在するのに対して、事実にはそのような観察対象が明確には存在しないからである。この問題に取り組むには、説明の対象である公務員数という事実を、何らかの出来事の結果として記述し直さなければならない。(p.51)


この事実と出来事の区別は本書の方法論に特徴的なところである。出来事はそれを生じさせる行為やコミュニケーションなどが観察できるのに対し、事実は現にそうであるということが観察可能なだけで、それを成立させている出来事やコミュニケーションは必ずしも観察できない。個々の公務員の採用という出来事は観察できるだろうが、その出来事を観察しても公務員数が少ないという事実を説明することはできない。本書は公務員給与制度や国際収支の制約下で60年代という高度成長期に欧米諸国よりも経済的な水準が低い段階で政府が公務員数の抑制という決定をしたことにその原因を求める。



1960年代半ばまで、外貨準備は「国際収支2000億円の天井」に沿って推移し、1968年以降は急速に上昇している。これは、日本の輸出が伸びた結果、国際収支が常に黒字となったことを示している。注目すべきなのは、外貨準備高が急速に伸長した時期と、日本の国債発行額が急速に伸び始めた時期が、ほぼ完全に一致しているということである。通常、財政赤字は国内景気の好転による輸入の増大を通じて外貨準備高の減少をもたらすはずである以上、こうした外貨準備の蓄積が、日本の財政状況の変化の帰結だとは考えられない。むしろ、輸出部門が強化されたことによって、財政赤字が外貨準備高の払底へと直結しなくなったことが、日本の財政赤字の拡大を可能にしたのだといえよう。逆に言えば、それ以前の日本では財政赤字の余地が外貨準備高によって制約されていたのである。(p.103-104)


この時期から赤字国債(65年の発行の後は75年以後)を含めた国債の発行額が急激に増えていき、財政の規律がなくなったことは知っていたが、これが国際収支の黒字と連動しているという指摘は参考になった。なぜこの時から財政規律が緩くなったのかという政府(当時の大蔵省?)の判断の理由が推察できるからである。



1955年に春闘が始まり、1960年代に民間部門で急速な賃金上昇が生じると、その効果は人事院勧告を通じて公共部門に波及した。官公労組の賃金攻勢を封じる仕組みだったはずの給与制度が、逆に民間部門に合わせて公務員の給与を上昇させる仕組みに変化したのである。(p.149)


人事院勧告の制度の機能が変化したという指摘は興味深い。当初は公務員の労働組合の運動を封じるための手段だったものが、民間給与の上昇により、公務員の給与を上昇させる機能を果たすようになったということである。公務員の労働基本権の問題をどう考えればよいのか(労働三権の一部が制限されていることについて回復すべきか人事院勧告の制度が機能すればよいのか)という点について、私は今まで答えが見いだせなかったが、本書によって得られた歴史的な見通しは、この問題を考える際の参考となるように思われる。



 第二次世界大戦の終結後、大陸ヨーロッパ諸国が軒並み経済的繁栄を謳歌する中で、イギリスは長きに渡る低迷を経験することになった。イギリスの1950年から1973年までの年平均GDP成長率は僅か2.3%であり、1960年には一人当たりGDPでスウェーデンやデンマークに追い越されただけでなく、フランスや西ドイツにも後れを取るようになっていた。(p.192)


技術などの模倣ができたり、大戦後の被害の復興による「成長」があったり、という国とイギリスの置かれていた位置は全く異なることを考えると、成長率が2.3%というのは「僅か」と言えるようなものではなく、十分高い数値だと考えなければならない。ピケティが言うように、高度成長はキャッチアップする時に一時的に生じる現象でしかない。