FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その1)

 他方、日本の公務員数が少ないという認識を共有する論者の間でしばしば見られるのが、その理由を公共部門が他国よりも効率的に運営されていることに求める議論である。……(中略)……。しかし、本書はこの見解には与しない。第1章で詳しく述べ得るように、公務員数が少ないことは、公務員ではない主体が公共サービスの供給を担っていることを示すものではあっても、公共部門が効率的に運営されていることを示すものではないからである。(p.3-4)


なるほど。ここで略した部分で批判されている稲継紙の著書は私もかつて読んでおり、日本の公務員数は少ないが効率性は高いという議論にそうだったのか、と当時は思った覚えがある。

本書の批判は正しいと思うが、本書では、公務員と公務員以外の主体を合わせた広義の公務員数で比較しても他国より日本は公務員数が少ないことが指摘されている。公共サービスの供給量自体が測定できれば(あるいは代理指標となるものがあれば)効率性が割り出せるのだが、そうした方法はあるのだろうか。「公共サービスの総供給量/(広義の公務員数×サービス残業込みの一人当たり総労働時間)」を比較すれば効率性を一応出すことができるように思う。行政の効率性を改善すべきなのかそれほど必要性がないのかという点には興味があるので、この点は是非知りたいところである。



ただし、1980年代の新自由主義的改革を政策理念の産物として理解する見方に対しては、Prasad(2006,20-21)による強力な反論がある。すなわち、新自由主義の理念を掲げる政治勢力が影響力を行使しえたのは、それに先立って既に政権を獲得していたためであって、思想それ自体が独立に影響を及ぼしたわけではないというのがその主張である。(p.12)


なるほど。確かに。「政権を獲得したということは民意が反映しているはずだ」と推論したがる人もいるかもしれないが、政権を獲得しているかどうかは「選択のためのルールに従った結果」ではあっても、もともと投票していた人々が持っていた思いを反映しているとは言えないのだから、余り単純にそのように言うことはできない(※)。そう考えると、新自由主義の思想自体が政策に影響を与えたとは単純に言えない。

(※)かつてのドイツにおけるナチスも、投票した人は少ないし、投票した人もユダヤ人虐殺を支持していたわけではない。現在の日本でも安倍政権が5年にわたり続いているが、選択のためのルールを都合の良いように使い――創価学会などの組織票の土台がある中での小選挙区制という極めて自公にとって有利な選挙制度の下で恣意的に解散を繰り返している――、また、メディアによる批判も封殺されるように働きかけられていることなどが作用している結果として安倍政権が残っているだけのことであって、それほど強い支持を得ているわけではない。



20世紀のアメリカ連邦政府における機構改革の試みを包括的に調査したジェームズ・G.マーチとヨハン・P.オルセンによれば、改革提言によって業務の効率化などの実質的な成果が出たことはほとんどない。行政改革を実施すべきだという「適切性の論理」が関係者に共有されても、行政改革によって達成すべき成果が何であるのかを示す「結果の論理」は必ずしも共有されないからである。従って、短期的に見れば、そうした行政改革の試みは政治指導者の意欲を表現するための文化的な儀式に過ぎないのである(March and Olsen 1989,69-94)。(p.15)


なるほど。ただ、政府が発信する言論の影響力は考慮に入れるべきかも知れない。




スポンサーサイト



齋藤尚文 『鈴木商店と台湾 樟脳・砂糖をめぐる人と事業』

また昭和9年末に完成した日月潭水力発電所によって、安価で安定的な電力供給が可能となると、高雄港一帯が「台湾工業化」の拠点として開発される兆しが見え始めた。昭和11年に日本アルミニウム株式会社の高雄工場が操業を開始したのはその先駆けである。さらに昭和12年の日中戦争開始をきっかけに、総督府の「台湾工業化」政策の方針が整備されると、南日本化学(高雄)・旭電化(高雄)・東邦金属(花蓮)・台湾セメント(高雄)・台湾化成(台北・蘇澳)などが設立され、高雄を中心として台湾全域に及ぶ工業化が一挙に進展した。(p.267-268)


日月潭水力発電所と高雄が工業化の拠点となることの繋がり、日中戦争と台湾工業化政策との繋がり、こうした動きは台湾の歴史を考える上でも重要な変化であると思われる。

なお、日本の右派が日本による台湾統治は台湾にインフラを残してやったかのごとく(良いことをしたと)発言することがあるが、統治者側が都合の良いように動いた結果として工業的なインフラなども残ったというに過ぎないということは銘記すべきだろう。

日本アルミニウムという会社はこの時代の台湾を調べるとしばしば目にする。この会社についてももう少し詳しく知りたいところである。


赤江達也 『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』

 神戸中学校の校風は忠雄に大きな影響を与えた。創立以来の校長・鶴崎久米一は、クラーク博士が教育の基礎を築いた札幌農学校の二期生で、内村鑑三、新渡戸稲造と同級生であった。鶴崎校長の指導によって、神戸中学校には「質素剛健」「自重自治」をモットーとする校風ができあがっていた。「自重自治」とは、クラーク博士が一期生に説いた「紳士たれ」という教えを意味していた(二期生が入学したときには、クラーク博士はすでに帰国していた)。(p.6)


矢内原は札幌農学校の二期生と縁が深いが、中学校時代から既に縁があったとは興味深い。また、札幌農学校をはじめとする明治初期の高等教育機関の卒業者は、官僚になる以外には教育者としての役割が大きかったと考えられるが、そうした社会の傾向も垣間見えて興味深い。



新渡戸の植民政策講義には、元植民地官僚らしい実際的なところがあった。だが、その基調にはリベラルで人道主義的な立場があり、台湾の原住民討伐について語るときには講壇を拳でたたき、激しい怒りをあらわにした。矢内原が四年生のときに取った講義ノートの結論部には、「植民は文明の伝播である」という新渡戸の言葉が記されている。(p.26)


東京帝大での講義。新渡戸の植民政策学の講義がどのようなものだったのか興味がある。できるものなら私自身がその講義を聴いてみたい。「植民は文明の伝播」というのは、なかなか含蓄がある言葉であるように思われる。いろいろな意味で解釈しようと思えばできる。新渡戸はどのような意味でこれを語ったのか知りたい。



 だが、『帝国主義下の台湾』は台湾の青年読者から熱烈に支持された。この書物は刊行後すぐに台湾総督府によって台湾への持ち込みが禁止される。そのため、内地へとやってきた台湾人の留学生たちはこの本をむさぼり読んだといわれる。
 台湾の青年たちから強く支持された理由としては、矢内原が台湾議会設置請願運動に共感的であったこと、長期的には植民地の独立を支持していたことが挙げられる。しかし、より重要なのは、台湾の資本主義化を論じる『帝国主義下の台湾』の議論が「台湾」という想像的な共同性とその発展の可能性を示唆していたことにある。
 日本統治下の台湾では、議会設置による自治の推進か、あるいは中国への祖国復帰かといった複数の選択肢のなかで、「台湾」という共同性への想像力が生じつつあった。『帝国主義下の台湾』は、そのような「台湾」の想像力と共鳴し、それを触発する役割を果たしたのである。(p.74-75)


日本統治下で「台湾」という想像的な共同性についての意識が芽生えたということはしばしば指摘されるが、矢内原のあの名著もそうした想像力と共鳴し合っていたというのは、なるほどと思わされた。



 岩波茂雄は矢内原の言論活動を高く評価していた。そして、矢内原が大学を辞めた直後には、その自宅を訪れて金一封を置いていった。岩波は矢内原事件の際に発禁となった『民族と平和』の発行人であったため、警視庁や検事局に呼び出されている。しかし、そうした言論統制のなかでも、岩波は矢内原に執筆を依頼しつづけた。その象徴が岩波新書である。
 1938年11月、岩波書店は、岩波新書のシリーズを立ち上げる。これはその当時イギリスで流行していたペリカン・ブックスを参考にしたもので、日本における「新書」の判型のはじまりとなる。その岩波新書の第一冊目・第二冊目として選ばれたのが、矢内原の翻訳によるクリスティーの『奉天三十年』(上・下)であった。この本は、奉天(瀋陽)で活動したスコットランド人伝道医師の自伝である。そのような本を矢内原の翻訳で出版することは、矢内原への支持と時局への抵抗を意味していた。(p.145)


興味深いエピソードであるだけでなく、新書というものがどのようにして生まれたのか、どのような意味があったのか、ということも考えさせられる。そして、それは現在の新書がどのような役割を果たすべきかということまでも考えさせてくれる。



 矢内原は戦中に大学を離れていたこともあり、学問上の弟子は少ない。ただ、戦後の東京大学には、南原のほかにも、大塚久雄、西村秀夫、藤田若雄、前田護郎といった無教会キリスト者の人脈が広がっており、学生たちにキリスト教的な感化をおよぼしている。とくに大塚史学で知られる大塚久雄の存在は、南原・矢内原とともに戦後の知的世界における無教会キリスト教の名声を大いに高めることになる。(p.209)


大塚久雄は無教会派だったのか。知らなかった。矢内原と大塚にはどのような接点や関係があったのかが気になる。


社会思想史学会年報 『社会思想史研究 №22 1998 シンポジウム:社会システムの現状と問題点』(その2)
細見博志 「マックス・ウェーバーと価値判断論争」より。

 反講壇社会主義者は、自らはあらゆる価値判断を排除して、経済学を浄化すると主張しているが、ウェーバーによれば似非価値自由論者であり、一見中立的な装いのもとで密かに大資本の利益を代弁しており、それによって甘い汁を吸っているのだ、というのである。「懲罰教授」や「迎合教授」の存在をみれば、そのような疑いは色濃く残っている。しかしここでは彼らに対するウェーバーの非難の当否はひとまずおいて、事実として確認すべきは、反講壇社会主義者は、存在と当為を峻別し、その上で経済学からあらゆる当為を放逐せよ、と主張したということである。その放逐すべき当為とは、なかんづく講壇社会主義者の説く労働者保護政策である。しかし経済学が実践的学問である限り、やはり当為は不可欠である。その当為は、反講壇社会主義者の場合、「事実をして語らしめる」という彼らのお気に入りのスローガンの通り、まさに存在から導出されたのである。しかしながらそのようにして導出された彼らの当為には、反社会政策という一定の方向性が常について回っていた。「事実をして語らしめる」とは、事実の選択、その因果付けの方向、に聞くものをして意識せしめない誘導がなされている。とすれば、政治のレトリックとして、極めて有効で洗練された技法であるが、知的に誠実な学問の方法ではない、とウェーバーなら言うところである。(p.68-69)


価値判断論争に関する論争の背景についてこの論文で論じられているということを知り、この論文を読もうと思い、この雑誌を手に取ったのだが期待通り興味深い事実がわかった。ウェーバーとシュモラーらの社会政策学会内での論争の背景には、社会政策学会外に社会政策を否定しようとする反講壇社会主義者(その背後には産業資本)がおり、彼らは価値自由論を誤用することでその主張を正当化しようとしていた。ウェーバーの方法論を読むときには、単に相手方のシュモラーらだけでなく、反講壇社会主義者にも配慮しながら書かれたことも念頭に置く必要がある。

また、当時と同じ論法を使うかどうかは別として、経済政策について発言する学者やエコノミストなる者たちの中には、ウェーバーの時代の反講壇社会主義者と同様、大資本の利益を代弁し、甘い汁を吸っているような輩も多い(メディアへの露出のチャンスも多い)ということは念頭に置く必要があり、彼らの使う「知的に不誠実な政治的なレトリック」には常に注意が必要であろう。



渡辺孝次 「マルクス・エンゲルスとマイノリティの論理」より。

 近年、マイノリティ研究がさかんである。そのことは、近代をもっぱら自由と解放の時代と見る単純な「進歩史観」から脱し、近代こそある意味で抑圧が強化された時代であったとする、近代再考の動きと関係が深い。近代に解放されたのは、結局のところマジョリティにほかならず、それまで容認されていたマイノリティの権利は、かえって制限されていったとする認識において、両者はあい通ずる。(p.134)



私としてはあまり近代を「解放の時代」とは考えていなかったが、私より少し上の世代にはこのようなイメージで近代が捉えられていたのだということに久しぶりに思い至った。本書は1998年に出ているが、この頃にはまだ80年代や70年代以前の感覚を持った人がそれなりの数活動しており、その時代の考え方も参照しながら批判していくような作業がされたと思われるが、それから約20年も経過すると、ここで言う「近代再考」により修正されてきた「近代観」が常識になってきたのかな、という気がする。



藤野寛 「ユダヤ人問題との関連においてみられたホルクハイマー/アドルノの「非同一的なもの」概念」より。

一方の解釈では、ユダヤ人は、近代化過程に必死でしがみついている者たちから、あたかも啓蒙的近代の艱難辛苦から自由であるかのような存在として恨みを買う、とされるのに対し、他方では、その同じユダヤ人が近代化過程の成功者、成り上がり者とみなされ、そこから落ちこぼれた者たちに妬まれる、という話になるのである。ほとんど正反対の議論が二つながらまかり通っている、というしかなく、『啓蒙の弁証法』も、その両方に目配りすることを忘れていない。
 この事態は何を物語っているのか。要するに、反ユダヤ主義者にとっては、ユダヤ人が何者であるのかは、実は問題ではない、ということである。反ユダヤ主義の根は、ユダヤ人の側にあるのではなく、反ユダヤ主義者の側にこそ見出されるものなのだ。反ユダヤ主義は「ユダヤ人を必要としている。(215)」そして、このメカニズムに光をあてるのが「投影」についての分析に他ならない。(p.184)


これは反ユダヤ主義だけでなく、恐らくほとんどあらゆる人種差別及びそれに類する差別に当てはまると思われる。現代日本においてこれに類するものとしては、在日コリアンらへの排外主義的な差別や中国や韓国の人々に対するネトウヨ的な嫌悪などを挙げることができよう。そうだとすれば、差別や嫌悪の対象となっている人々が問題なのではなく、差別や嫌悪を表明している側に問題があるのである。



齋藤哲郎 「ネオ・マルクス主義と台湾」より。

 やがて、85年8月にレーガン大統領が台湾に民主化を勧告し、87年7月15日、戒厳令が正式に解除され、11月には中国大陸への親族訪問が許可され、さらに、蒋経国死去による李登輝総統時代の開幕(88年1月)以降、いわゆる政治的民主化・自由化が進み、表現の自由も大幅に許容され、学術・思想の分野も様変わりした。注目すべきことは、多くの台湾知識人や青年が、解禁されたマルクス主義出版物を貪るように渉猟し始めたことである。マルクス主義は、サルトルやウェーバーと同様に、台湾の知的ブームの一つになったのである。(p.201-202)


日本でも60年代頃はウェーバーや実存主義が流行した時期があったが、この思潮は台湾でも同様に流行していたということか。マルクス主義が90年代台湾で知的ブームになったことについては正直あまり驚きはないが、ウェーバーやサルトルが台湾でどの程度、また、どのように読まれたのかというのは興味が惹かれる。



安川寿之輔 「白井厚編著 『大学とアジア太平洋戦争――戦争史研究と体験の歴史化』」より(書評)。

「初めから国家目的に従属」していた戦前日本の大学が(だからこそ)専門教育・職業教育に偏向し、侵略戦争の進行に傍観者的で無力な知識人の形成しかできなかったという反省から、新制大学は、一般教育を大学教育の「根幹的意義を有する」中核に位置づけることを目ざし、その「成否こそ、新制大学の運命を決するカギ」と考えた。90年代の大学「改革」は、その一般教育を縮小・解体する歴史邸な誤りの道を歩んでいる。(p.228)


この見方は参考になる。この本も手に取ってみたい。


社会思想史学会年報 『社会思想史研究 №22 1998 シンポジウム:社会システムの現状と問題点』(その1)
佐藤康邦 「システム概念の可能性について」より

ルーマンの社会システム論が依拠する「環境の複雑性の縮減」の原則は、環境への適応、自然選択に関するネオ・ダーウィニズム的発想をサイバネティックス的に言い換えたものとみなせましょうが(ルーマンがシステムの歴史に「進化論」という概念を当てはめていることは、それを裏書きする)、それは、環境を、ただその複雑性を縮減させる対象に過ぎないものに切り下げてしまうことによって、著しく貧困化する結果をもたらしたと言うべきであります。(p.26)


確かにシステムが自己準拠的に境界を区切っていくことでシステムとして立ち上がっていくとき、環境は「非システム」としてしか捉えられない。環境をそれ自体として捉えていこうとする発想には繋がらない。というか、そうした発想を拒否する所から出発していると言ってもよいのかも知れない。



水島茂樹 「ふたたび社会に経済を埋め込む」より

平等な人間から構成される透明な世界であるという市場の特性は、長所である反面、資本主義からの圧力に容易に屈服させられてしまう弱点ともなる。理想的な市場概念に近い町の市にさえ、資本主義が、市場の透明性や公正なルール、競争をかいくぐって入り込み、情報の独占や巨大資本に基づく特権的地位を利用して高利潤を上げることが稀ではないとブローデルは注意している。この曖昧さもまた市場と資本主義の混同を容易にすることになる。この曖昧な関係が捉えられず、市場と資本主義が唯一同一の現実と見なされるため、経済的自由主義の説得力が高まると上で指摘したが、マルクス主義は逆の方向でこの関係を捉え損ない、資本主義の悪を市場に直接投影してしまった。悪=資本主義と戦うためには、その根っこにある市場を廃棄しなければならないという、悲惨な結果を引き起こしたボルシェビズムの認識はこの混同に由来するのである。(p.51)


ブローデルの市場と資本主義の概念は非常に役立つ見方である。リバタリアニズムや新自由主義のような発想は、「市場」の論理によって人々を説得するが、「資本主義」の動きを捉え損なわせるミスリーディングな(人々を誤導させる)ものである。マルクス主義とリバタリアニズムが同じ混同に基づいて議論しているという指摘は、こうした議論をする人に対して気づきを与えさせるには役立つかも知れない。



資本家は専門化しない。彼らは状況次第で、海運業者にも保険業者にも、銀行家にも産業資本家にもなる。大きな利潤が上がる分野が変化するにつれて、活動や投資の分野を容易に転換する。こうした「急旋回を切る」能力を持っていること、これが資本主義の強みなのである。(p.52)


この見方は重要。グローバルなヒト・モノ・カネの移動の自由化が進むことは、事実上、この「急旋回を切る」能力を規制することが最大級に難しくなることを意味する。この意味で、20世紀後半の人類は大きな過ちを犯したと考える。



 まず福祉国家の危機について。それは財政危機だけの問題ではない。平等化という福祉国家の目的がかなり達成されたために平等という目標が疑われるようになったこと、そして国家を媒介とした再分配を通じて間接的に社会的連帯を実現するという福祉国家の仕組み自体が自動化・自立化しすぎて個々の市民に連帯の事実が見えなくなったところに問題の根がある。したがって現在の危機を乗りこえるためには、連帯に伴う義務を国家から社会に取り戻さなければならない。こうして問題の核心に福祉国家の達成が効力の限界にぶつかっているという事実がある以上、経済的自由主義に対して福祉国家の原理を唱え続けるだけでは後ろ向きの批判にしかならないことは明らかだろう。(p.58)


90年代以後のリベラルが保守派から押されて(多少の振り子の揺り戻しを続けながら)後退を余儀なくさせられているのは、こうした福祉国家が限界にぶつかっているという現状が背景の一つである。より積極的な批判をしようとすると、反保守の立場においても違いが出てくることになり、一つにまとまることは容易ではない。この問題をどう解決していくか。


マーティン・バナール 『『黒いアテナ』批判に答える(下)』

ギリシアの数学は、宗教セクトによってではなく、タレス〔西暦紀元前625?-547? ミレトスのタレス。ギリシア自然哲学の創始者〕やアナクシマンドロス〔西暦紀元前6世紀中期の自然哲学者。世界の根源はアペイロンという無限のものだという説をとなえた〕のような「著名」人を通じてのみ発展したという彼の提案は、彼にそのつもりはなかったとしても、「合理的」ギリシアと「非合理的」オリエントの密儀という明確な対比――私は筋の通らない対比だと考える――を創り出すという結果をもたらした。(p.484)


確かに中学や高校で古代ギリシアの歴史を学んだとき、こうした「著名人」の名前が次々と列挙されていたのが想起されるが、確かに、当時の印象としてバナールがここで述べているような印象を暗黙裡に植えつけられた面はあると思う。



保守的なギリシア人、とりわけプラトンは、統一的な君主制と農業経済的な基盤をもつエジプト社会の安定性と階層性を称揚したが、ギリシアの小さい都市国家にとって(おそらくスパルタは例外だろうが)、エジプトは適切なモデルにならなかった。ギリシアの都市ポリスは小さく、その土地基盤は限られていたので、多くの場合、製造業と商業に力を入れた。したがって、彼らにとってはるかにふさわしい政治=経済のモデルは――エジプトではなくむしろ――フェニキアだった。(p.608-609)


ポリスにとっての政治経済のモデルはフェニキアの都市国家だったという点は本書で得た収穫の一つ。



古代の奴隷制社会もそれ以後の奴隷制社会も、海と関連していたが、これは偶然ではない。船による必需品の大量輸送が容易でなければ、食糧不足の専門的製造業経済の発達は不可能である。このことは、ある程度は川を基盤にした社会でも可能だが、海を基盤にした社会のほうが発達する範囲はずっと広い。動産奴隷制には海が必要である。このため、古代の奴隷制社会でも初期の資本主義でも、富裕で力を持つ者は海路を独占した。したがって、奴隷が故郷に逃亡することは不可能だった。(p.615)


動産奴隷制には海が必要という認識も本書から得た収穫の一つだった。大変興味深い指摘であり、掘り下げてみる価値もあるように思われる。



プラトンの世代から二、三世代たたないうちに、彼のもっとも早い注釈者クラントルは次のように書いている。「プラトンの同時代人は、彼の国家論は彼の創作ではなく、エジプトの制度の引き写しだと言って彼をあざけった。……(略)……」(p.640)


確かにプラトンとエジプトからの影響を認める説は昔からずっとあったようだが、このことはあまり一般には知られていないように思われる。



「民主主義」という語は1790年代末に使われるようになったが、この場合、「共和制」あるいは「代表制」という修辞語をつけてのみ使えるようになったにすぎない。アンドリュー・ジャクソン〔1767-1845〕が大統領に当選し、ギリシア賛美の機運が高まってはじめて、「民主主義」と「民主主義者」はそれ自体として使われ始めた。(p.710)


民主主義という言葉はその当時はかなりイメージが悪い言葉であったということは押さえておきたい。



一般に保守派は、彼ら自身を守るために自分たちの著述の客観性を当然視する一方で、現状に異議を申し立てる著作を「政治的」と称する傾向がある。(p.711)


現在の日本であれば、いわゆる「保守派」は、彼らに都合の悪い事実を報じるメディアに対して「偏向している」「中立でない」といった類の攻撃をすることがある。ちなみに、これらは明らかに「レッテル貼り」である。