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アヴェスターにはこう書いている?
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土方透 編著、K・アッハム、J・ヴァイス、姜尚中、荒川敏彦、細見和之 『現代社会におけるポスト合理性の問題 マックス・ヴェーバーが遺したもの』
細見和之

むしろ、私たちの時代においてはあらゆるカリスマを「偽りのカリスマ」として批判的に分析する視座こそが重要ではないだろうか。(p.118)


同感である。カリスマ的な強力なリーダーシップに頼りたいという風潮がここ10年以上蔓延している中では特に重要なことである。つい先日も小池百合子が危うくこうしたカリスマになりそうになったが、自身の言動(民進党を吸収する際の「排除」発言や実際の排除行為)によってカリスマを失った。このような分かりやすい失敗がなかった場合でも、いわゆる「踏絵」の内容やこれまでの都知事としての意思決定の仕方などから独裁的な志向が強いということくらいは見抜き、それが広く知られるような報道がなされることに期待したい。



荒川敏彦

他方で奥村宏は、「企業の社会的責任」論が流行するなかで、結局は利益のためのCSRと化している状況を批判する。(p.193)


同感である。



土方透

 結局、非合理性とは、それが合理的でないといわれる限りにおいて、合理性の枠から見た非合理性である。(p.224)


非合理性ということは常に合理性の側から見られたものだという指摘は興味深い。



土方透

よくいわれるように、核が多元的であるか、複数のコンテクストを有しているか、あるいは「大きな物語」が終焉したかは、すなわちそれによって近代が終焉したという指摘は、この脈絡では意味をなさない。なぜならば、単一性に対して多元性を主張する主張そのものは唯一的であり(つまり多元主義は一つの主義であり)、コンテクストの複数性の指摘そのものは単数であり、大きな物語の終焉は、そのテーゼそのものが「大きな物語」だからである。そうした近代に対する評価は、その評価そのものが、その評価を成り立たせた指摘を免れているというやり方で可能になっている。つまり、それらがまだ自己言及的な論理のなかに措かれていない。逆にそこに措かせることで、これらをすべてこれまで述べてきた近代の内に回収することができる。(p.240)


多元主義は一つの主義であり、コンテクストの複数性の指摘は単数であり、「大きな物語」の終焉は大きな物語であるという指摘は興味深い。



土方透

あるいは、それを「客観」を超え出て「客観」というプロセスとして記述するのであれば、後述するように、もっとラディカルに(区別の区別として)展開することが可能であろう。(p.244)


客観性という難しい問題を考えるとき、それを「客観性」と捉えるのではなく、「客観化のプロセス」と記述するというのは、客観性という問題を考える際に非常に重要なポイントであると思われる。


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老川慶喜 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇 日露戦争後から敗戦まで』

 その後、1931年には満州事変、32年には上海事変と、戦争への道を突き進み、国際観光局の外客誘致宣伝活動にもかかわらず、外国人観光客の数は低迷した。しかし、1933年に国連から脱退したのを契機に円貨が暴落すると、外国人観光客が増えはじめた。(p.154)


昭和初期の旅行ブームについて背景の一つとして知っておいてよいかもしれない。



 国民精神総動員運動の一環として奨励されてきた「神社巡り」などの行楽旅行も、全面的に制限を受けるようになった。三等寝台車や食堂車も廃止され、一般の「不急不要」の旅行は、次第に窮屈なものとなった。国民精神の振興と尽忠報国の名のもとに存続してきた修学旅行も、1943年には学生や生徒が戦時動員されてしまったため、実施できなくなった。(p.201)


戦前における神社巡りや修学旅行の意味づけは興味深い。当時の政府は本音で言っていたのかも知れないが、それを言われていた側(教師や生徒たち)が、建前として受けとっていたのか、本音で受け取っていたのか?



水谷周 『イスラーム建築の心――マスジド』

 90年代に入って建立されたマスジドはほぼ10カ所だが、2000年以降のそれは35カ所ほどに上る。90年以前はほぼ10カ所であったので、これで約五倍増という計算になる。2000年以降の特徴としては、それまでは関東中心であったのが、中部地方に多数できて、さらには北海道(札幌写真3、小樽)、九州(別府、福岡)、四国(徳島、新居浜写真8)と全国に広がったことである。(p.35)


日本では2000年以降にモスク(マスジド)が多数建てられるようになったことがわかる。何故なのか?興味がある。



 それよりもここで指摘したいのは、モスクという名称にこだわっているという点である。これがイスラームに対する侮蔑後の起源を持つと考えられることは、序章で述べた。そうでなくても、モスクは欧米語である。したがって○○モスクと称することは、例えば法隆寺という代わりに、法隆テンプルといっているようなものだということになる。(p.37)


著者はイスラームの礼拝所を「モスク」と呼ぶべきではなく、「マスジド」(あるいは「礼拝所」)とするべきだと考えているというのは、本書を貫くスタンスである。

モスクという言葉が仮に最初は侮蔑後だった言葉であったとしても、大事なのは、今現在の人々が、この語に侮蔑的な意味合いを感じるかということの方が遥かに重要であるように思われる。かつて侮蔑後だったもののニュアンスが反転している語というものも世の中には多く存在する。また、ムスリムたちも特に問題を感じずに「モスク」という言葉を使っているところなどからも、この語がかつて侮蔑語として使われていた語に起源をもつとしても、そのことを以て使うべきではないとするのは過剰反応であるように思われる。



内装では、鍾乳石のように垂れ下がる多数の曲面がドームの内面一杯を飾る、ムカルナスという構造になっている。その人間業とも思えないような飛びぬけた美しさで有名だが、この技術は元々イランを原産地としているので、13世紀モンゴルの襲撃によって逃げてきたイラン人たちが作ったのではないかと考えられる。(p.100)


一見すると、この記述には奇妙な所がある。ムラービト朝(11~12世紀)の建築について説明するに当たり、13世紀のモンゴルによる支配によって説明しているからである。ムラービト朝期に最初に建てられたモスク(マスジド)が、その後、再建や増築されたということなのだろう。

いずれにせよ、モンゴルの支配とイラン人などの移動による建築技術や建築意匠の伝播というのは興味深い問題である。



 そして各地で見られる光沢のあるタイル装飾こそは、イラン趣味の最たるものだと言えるだろう。それは肥大化してきた正門やドームなどを飾るのに必要であったと同時に、逆にタイル装飾を見せるためにそれらが巨大化してきたとさえ思える。各地の仕事ぶりや仕上がりを比較すると、あまりに似ていることが指摘され、同じタイル職人のチームが各地を回って作業にあたったのではないかと推察されている。(p.125)


イル・ハーン国に創建されたモスク(マスジド)についての記述だが、正門やドームの巨大化とタイル装飾との相関関係についての指摘は興味深い。この相関関係について検証することは難しいだろうが、いずれにせよ、両者が相俟ってイランの様式の建築の美を形作っていることは間違いない。



少し皮肉のように聞こえるが、この時期のマスジド建築にはセルジューク朝時代に比べてそれほど構造的に新規なものはなく、むしろ従来のものを踏襲したにすぎず、それを装飾芸術がカバーしているという風に評する人もいるくらいである。
 第五代君主アッバース一世(1588-1629年統治)の命により1612-1630年に建設されたマスジド・アルイマーム(在イスファハーン)写真38は、この時期の代表的なものである。シャー広場に臨む形で建造されたが、そのシャー広場そのものが、北京の天安門広場か、パリのコンコルド広場のように、国家の威容を示すために造られたものであった。(p.126)


サファヴィー朝の建築についての記述より。イランのイスラーム建築の最盛期とされるサファヴィー朝建築に対し、本書はあまり高く評価したがらない傾向がある。初期の素朴というか簡素なモスクを著者が好んでいることがこの点に反映している。著者にとっては信仰者として祈りやすい、祈りに集中できる、そういった建築が好ましいと評価しているためであり、イランの様式などはやや華美だと感じているように見受けられる。

とは言え、この時期の建築には構造上の新しさはないという指摘は興味深い。また、シャー広場(イマーム広場)が国家の威容を示すために造られたというのは妥当な指摘である。


内藤辰美、佐久間美穂 『戦後小樽の軌跡 地方都市の衰退と再生』(その2)

 明治中期になると高島は次第にコミュニティとしての要件を備えていく。「明治17年11月、祝津学校分校として高島学校が発足、この年にはまた高島墓地も現位置に設定、高島稲荷(元禄3年)、祝津恵比寿神社(安政3年)の建立や寺院(正法寺―明治初年色内庁、浄応寺―明治13年手宮裡)の開山(同上:108-109)があった。墓地の設立はここを郷土とする人々が多くなってきたことの表れである。そして、「この頃、高島、祝津も移住が相次ぐ。高島へは越後(新潟)を主として越中(富山)、加賀(石川)から家族を挙げて移住・定着する」人が増えてきた。(同上:108-109)。(p.342)


祝津小学校は平成25年(2013年)3月31日で閉校となっており、学区としては高島小学校がかつての祝津小学校の学区を組み込むような形であったと思うが、歴史的には祝津学校から高島学校が出てきていたというのは興味深い。

墓地設立がこの地を郷土とする人々が増えてきたことの反映というのは納得。



 高島における越後盆踊りは内地から北海道の地、高島に移植された文化である。『新高島町史』は記述する。以下、『新高島町史』に目を向けてみることにしよう。「明治初期の頃から現在の新潟県北蒲原郡北部郷地方の村々は高島に移住者を出していた。特に藤塚浜では村の三分の二が焼失するという大火があり、それを契機に大量の移住者が現れた。現在、高島に多い、須貝・本間・小林という姓はその先祖は藤塚浜からの移住者である。(p.343)


北海道への移民について、どのような人々がどのような時期に移動していたのかというのは興味を持っているテーマの一つだが、火災で集落が被害を受けたことが契機となった地方もあったということか。こうした事例はどの程度あるのか?



越後盆踊りの歌詞は恋愛や性に関する内容を含んでいたために第二次世界大戦中は禁止された歴史がある。(p.350)


このことはあまり語られていないように思う。



高島は文化活動の盛んなところでもある。文化活動の拠点が高島町会館。この建物は町民の寄付と市の補助金で建てられた。土地は旧高島小学校跡地。この土地は一度市に寄付されたあと、市はここに支所をおいていたが、支所が廃止されてからその跡地に現在の会館を建設した。(p.351)


現在の高島会館が竣工したのは平成11年(1999年)のことだが、この場所が旧高島小学校の跡地ということか。現在、敷地に隣接する場所に広い駐車場があるが、ここは高島保育所があったという情報もある。斜め向かいには旧高島町役場の庁舎もあることから、一時期は高島という町の中枢をなす場所だったと言えそうである。今の現地は、旧庁舎と会館の存在によって辛うじてそうした面影を残しているものの、それ以外にはそのように思わせるような要素はほとんどないように思われる。



小樽市は日本資本主義と小樽市がおかれている歴史的位置を冷静に分析し、向かうべき方向を確認しなければならない。一時的な誘惑に駆られて小樽市の発展に馴染まない政策を採用してはならない。私見を言えば、話題になった「カジノ」は小樽の歴史にも現状にも馴染まない。カジノの風景に最も合致するのは新自由主義である。小樽市はむしろ新自由主義と対極にあってその存在を訴えることができる都市である。これからの日本は、そして小樽市は、一時的な発展よりも中長期的な安定的発展を志向する以外途はない。(p.381)


カジノを小樽市に誘致することには反対であり、それは小樽の歴史にそぐわないという主張には共感するが、小樽が明治期から急速な発展を遂げて最盛期を迎えるまでの経過はブローデル的な意味での「資本主義」(国家と資本が結び付いて相互の権力を高めていく過程)の産物という側面が極めて濃厚であったという点を見落としてはならないように思われ、カジノ誘致に積極的であろうとする人びとの考えは、発想の上では、その時代の流れと同じ圏内にあるということに留意すべきである。

むしろ、「国家」側が小樽に資源を割く可能性が当時よりも遥かに期待できないため、誘致には成功しないだろうし、客観的に成功する条件が不足しているため誘致に成功した場合には経済的に期待したような成功は得られないだろうという見通しを持つことが重要であるように思われる。そして、経済的にカジノが成功する条件がどのように失われているのかということを的確にまとめて説明することが必要であろう。



官僚群の機能は国家、都道府県、市町を貫徹する。そしてそれは過度といってもよいほど顕著である。その点に留意していえば、単純に選挙のような表面的・形式的な制度の普及をっもって日本を民主国家と断定することには慎重でなければならない。この国の政治がどのように動かされているのかを突き詰めた上でなければ民主主義について論ずることができない。民主主義や民主国家を論ずる場合には、国民・政治家の憲法・法律の遵守意識、委員会等議会運営の在り方、三権分立の実態、投票行動の実態等々が検討課題として存在するであろう。そうしたことを含めて「政治運営の主体は誰か」という点の確認なしに、民主主義を論じることはできない。(p.395-396)


選挙で政治家を選んでいるという形式的に代議制民主主義をとっているというだけで、その国が民主的であるとは言えないというのはその通りである。ただ、ここでの文脈では官僚が実際に行政を運営しており、それが国民の意見を反映していないのであれば民主的とは言えないといったことを言いたいように見えるが、この議論は私に言わせれば90年代頃の議論であり、もう古い。

現状の日本はそんなことが問題なのではない。官僚機構は大規模な組織には不可欠なものであり、その意味で普遍的な現象である。官僚機構の活動が逐一、個々の人々の意見を反映すると考えるのはナイーブであり、そのようなことはあり得ないと前提しなければならない。むしろ、代議制民主主義とは委任と責任の連鎖であり、個々の国民の意見とは異なることを官僚が実行していても、官僚が国民ないし国民の代表に対して必要な説明が出来るのであれば、委任を受けるに値すると言える(委任を受けていないとまでは言えない)。90年代の政治改革を通じて実現してしまった現在の政治運営の最大の問題は中央政府レベルで言えば、官邸に権力が集中しすぎており、ほとんど誰もそれに逆らえない仕組みになってしまっていることであって、ごく少数の人間が文字通りやりたい放題のことができる仕組みになってしまっているということである。

森友・加計学園問題、自衛隊の日報問題で、政府がいかに説明をしようとしていないかを想起されたい。説明できないということは、委任を受けるに値するとは言えないということであり、それはすなわち公権力の行使は許されないということであり、それは民主主義の国家なのであれば、内閣は辞職するに値するということを意味する。




内藤辰美、佐久間美穂 『戦後小樽の軌跡 地方都市の衰退と再生』(その1)

 すしの町小樽はつくられたものだった。テレビという媒体が活用された。やって来た観光ブームがすしの町小樽を実現させた。(p.163)


小樽の名物の一つとされる寿司だが、このイメージはそれほど古いものではない。運河論争により小樽に対する全国的な関心が高まっていた1980年代半ばになってメディアを通じて創られていったという。



 小樽の直面する停滞と危機には複数の要因がある。外部的要因だけでなく、財政危機を招いた内部的要因もある。小樽の直面する危機、とりわけ財政的危機が、力量を超えた大規模投資、あるいは内発的必然性の乏しい外部資本に期待した都市づくりにあったことはまちがいない。マイカルや石狩湾新港には行政にも反省の声がある。衰退する都市に何とか歯止めをかけたいという焦りが身の丈を超えた一発逆転的な都市経営を生んできたのであろうか。一発逆転と言えば、いま、小樽ではカジノ誘致に熱心であると聞く。そこに、これまでの経験が活かされているのかどうか、外部者ながら懸念がある。(p.220-221)


最近はやや勢いが衰えた印象であるが、カジノ誘致について数年前まではかなり積極的に推進している人々が目立っていた。このカジノ誘致の動きを、過去の「大規模投資」や「外部資本に期待した都市づくり」と連続的なものとして見ている点は重要な見方であると思われる。



大東亜戦争中は何等進歩の跡はなかったが、昭和27年より同26年にわたり外地からの引上げ者を収容するため最上町と緑町五丁目に市営住宅を建築した。これによって最上町の住民が急増した、これらの住民に対する日用品の販売店が必要となり、鮮魚、青物商、その他の雑貨商が最上町に続々として開業した。昭和28年には、最上町の児童を収容するために最上小学校を新設するまでに発展したのである(小池信繁、緑町発達史、序:4-5)。(p.245)


小樽では人口が増えるにつれて市街地も広がっていったが、そうした動きの一つとして、緑町から最上町へと山側へ向かって市街地が展開していったことがわかる。



高島の町は、飯田さんのところから奥に船主の家があり成金町と呼ばれていた。松田市議の父も元は船であった。減船で経営が成り立たなくなって廃業した人が多く、その結果、成金町は衰退・消滅した。(p.318)


船主が同じ地域に密集したのは何故なのだろう?



 大事なのは彼の温厚な性格と控え目な生き方であった。彼は若くして機関士会の統合を実現した才能の持ち主であったが、その温厚な性格と控え目な生き方は彼をしてトップ・リーダーを支えるコミュニティ・リーダーの補佐役に終始させてきた。山田さんのような人の生き方には一つの特徴があるというのが私の仮説である。彼らは社会通念や政治思想については保守的であり革新的ではないけれども、かれらの生き方は献身的であり保身的ではなかった。ここで保守と保身とは厳密に区別されなければならない。保守的な人の中にも革新的な人の中にも献身的な人はいるし保身的な人がいる。これまで日本の地域社会は保守的で献身的なタイプの人物、とりわけ⟨世話役的なリーダー⟩によって支えられてきた。(p.326)


保守-革新という軸と保身-献身という軸による分類は参考にできそうに思う。

例えば、現在、衆議院選挙が始まっているが、安倍晋三が憲法を濫用して解散を実施したのは、彼の「保身的」な理由によるものであったと見るのが妥当だろう。それに対して、今回の選挙に当たっての目まぐるしい政局の動きの中で、私の関心を引いている政治家の一人に枝野幸男がいる。小池百合子と前原誠司が民進党が持つ金をいかに収奪するかに腐心して民進党は党として残しつつ、個別の議員が希望の党に持参金を貢ぐなどという手法を使ったのに対し、枝野が立憲民主党を立ちあげたことは、民進党からの寄附などについても言及はしているようであり、また、中道的リベラル派議員の議席を失わないための受け皿を作らなければならないという事情に押されてではあるにせよ、それなりに勇気のいる決断をしたように思われ、これを保身的か献身的かという軸で考えると、「献身的」に分類できるものだと見ている。

政治家を見るとき、最近はやりの「保守」かどうか、どのくらい「保守的」かという尺度で見ることに慣らされているが、その人の行動が「保身的」かどうかということを、口先の言葉だけでなく行動で判断する。この見方の方が確かなことが分かると思われる。




笹山尚人 『それ、パワハラです 何がアウトで、何がセーフか』

 I社事件からわかるのは、「仕事の上で必要だった」という理由ですべてが許されるわけではないということだ。一見、正当性があるように見える「業務指導による注意」も、度が過ぎれば「言葉の暴力」に変わり、被害者を追い詰めることになる。(p.24)


言葉の暴力によるパワハラは、仕事上の指導などの言動を装って、あるいはそれとある程度一体となって実行されることが多いということは押さえておく価値があると思う。

なお、本書では法的な側面からパワハラの行為が違法とされる場合の基準として「人格権侵害」と「安全配慮義務違反」(そこから発展して出てくる「就業環境調整保持義務違反」)が挙げられている。「業務指導による注意」が人格権を侵害するとき、それは「言葉の暴力」として違法行為と認定される。さらに、そうした言葉の暴力であったり、長時間労働であったり、という状態が長期間続いているのに、それを職場として改善しない場合、「就業環境調整保持義務違反」となりうる。そんなところなのだろう。

私としてはこうした基準を明示して説明されれば、実際の現象に適用する際にそれほど困ることはないように感じるが、本書に対するレビューでは「何がアウトで、何がセーフか」の基準は明確にされていないという意見が散見されるのが気になる。そういう人は、具体的にこの言葉を使った場合はアウトとか、この行為をしたらアウトという事例を要求しているのだろうが、そのような形での提示は仕事上の文脈や加害者と被害者の関係性などによっても異なってくるから、そうして提示の仕方などそもそも無理と考えるべきだろうし、仮にそうした示し方ができる場合でも、5年10年と時間が経過するとその判断基準は徐々にずれてくるから、すぐに書かれた内容が古びてしまうことになる。そうした点からも、個別の事例で線引きをして見せるのではなく、原理原則を理解できるように提示することが重要だと思われる。