アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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橘木俊詔・森剛志 『新・日本のお金持ち研究』

資本利得課税の税率は現在10%で、アメリカよりも低い。現在の相当下げられた税率に関しては、政治の世界からもたらされたという評価が可能で、資本市場の活性化と富裕者層の税負担を軽減するという、二つの目的を持ったものといえる。(p.157)


二つの目的のうち、前者は建前として語られるが、むしろあまり語られない後者の方が本音(政治的な動きの背景にある主たる要因)ではないか。このあたりの税法が非常に込み入って分かりにくいことも、この見方に適合的であると思う。(なぜなら、投資を促進したいのならば、関連する税の仕組みも分かりやすくしようとする誘因が働くと考えられるからである。)


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木山実 『近代日本と三井物産――総合商社の起源――』

北海道で準備金をもとに「確実ナル巨商」を通じて勧業政策を展開し、そこで生産されたものを清国に輸出すれば「物産ノ繁殖ヲ助ケ」ることになるし、外債償却の一助にもなるというのである。この上申はすぐに裁可を得ている。準備金の運用による勧業政策と外債償却策という手法がイギリスへの日本産品売込み以外に、北海道の勧業政策および清国との貿易にも適用されようとしていたのである。そしてそこで抜擢された商人は、この直後の六月に新たに設立された広業商会であった。(p.31)


明治9年のこと。当時の政府は外債を返済するため外貨を必要としていた。北海道の産品を清国に売ることで外貨を得ようとしていたというのは、興味深い。それ以前から中国東北地方とは交易があったというのは今までも聞いたり読んだりしたことがあったが、明治政府が始めようとした貿易とそれ以前の交易の異同について把握したい。なお、広業商会は注目に値するということが本書を読んでよく分かった。



広業商会は明治9年6月に政府の準備金40万円の資金貸与を受けて設けられたものであり、その店長(社長)笠野熊吉は薩摩出身の人物で、彼は薩摩閥が跋扈する開拓使との関係を築いた結果、五代友厚の後押しもあってこのような抜擢を受けたのであった。広業商会は、創設後すぐに清国上海に支店を設け、次いで明治12年までに香港にも支店を設置した。それらの支店を通じて、北海道で漁業者に勧業資金を貸与して生産された昆布や、また税として徴収された昆布、また開拓使管下の官営事業の産品などを売込んだのである。広業商会は、さらに清国向け荷為替業務や委託販売にも従事した。(p.36)


明治前半の北海道は薩摩閥抜きに語ることはできないようだ。



 以上みてきたように、物産は明治10年代には北海道方面への進出にきわめて熱心であり、官営幌内炭取扱んお商権獲得や三菱との競争については、井上馨や品川弥二郎というような、まさに前節でみた長州閥とのコネクションに依存しつつ、他方で益田孝は、随所で実働部隊として松岡譲、宮路助三郎、小川又蔵などという旧幕臣ネットワークの人材を駆使して、薩摩閥の勢力と調和をはかりつつ進出をはかったと見られるのである。ただ益田と松岡、宮路、小川らの間で、もともとどのような接点があったのかは判然としない。ここでも、間に渋沢が橋渡し役的に介在した可能性なども考えられるが、詳しいことはわからない。ともあれ、物産はこのようにして、幌内炭あるいは魚肥、昆布などの北海道産品の取扱に従事していくことになる。(p.200-201)


私が三井物産に着目するようになり、本書を手に取ることになったのも、三井物産や三井銀行などの北海道への進出が積極的だと見えたからであった。

なお、本文では薩摩閥、長州閥、旧幕臣ネットワークという3つの人的ネットワークについて言及されているが、この視点は極めて重要であり、明治期の政治経済過程を見ていく上で非常に重要な意義を持つ概念であると思う。



 だが物産上海支店にとっては、ここでその清国綿花取扱高の増大に応じたその輸入資金の調達という課題が生じてきた。横浜正金銀行の上海出張所が設置されるのは、明治26年であるから、それ以前には、物産は主に外国銀行で荷為替を組んでいたといわれるが、当時の物産はまだ外国銀行から十分な信用もなかった。そこで物産上海支店は、日本昆布会社から委託を受けていた昆布を抵当に入れ、荷為替を組む約束で融資を受け、それを綿花の購入資金に充てたのである。物産が企業勃興期に雨後の筍のごとく出現した紡績会社からの注文に応じることを可能にしたのは、北海道の昆布であったともいえる。このような清国綿花と北海道昆布の事例は、明治半ばにおいて、物産が他地域にわたって多様な商品を取り扱っていたことによる相乗効果が生じていた例を示すものであろう。こうして紡績業界からの信頼を築きつつあった物産は、26年には、別なる綿花供給国を求めてインドのボンベイに出張店を開設するのである。(p.202)
昆布と紡績の関係は興味深い。



 浦長瀬隆氏の研究によれば、渋沢、益田らがかつて出仕した大蔵省についてみた場合、明治初年に官僚機構が未整備な段階で大蔵省が官吏として雇用した者の多くは、旧幕臣層であったが、官僚機構の整備の過程で、彼ら旧幕臣たちは、広く全国から地方官庁を経て登用される人物にとってかわられていったという。そのように旧幕臣が政府から去っていくような事態は、大蔵省以外の官省でも、当然ある程度予想されるところである。その際、政府を去った旧幕臣たちは、新たな職を求めねばならなかった。明治前期における渋沢ら旧幕臣たちは、明治期に入り、「朝敵」の汚名を着せられつつも、時代の逆風のなかで、人的ネットワークを維持しつつ、協力しあいながら、懸命に生きていたということであろう。(p.204)


旧幕臣は当初は官吏として登用されたが、人材や組織が育ってくると職を去ることとなった。こうした官職を離れた旧幕臣たちは実業界で活躍することになった。



 明治7年5月には、かつて琉球人が台湾に漂着した際、現地人に殺害された事件の問責を口実とする、いわゆる台湾出兵が開始された。この際、明治政府は軍需物資の調達や輸送の担い手として、当初、三井や小野などの特権商人の活躍を期待したが、彼らの働きはまったく明治政府を満足させるものではなく、それとは対照的に危険の中で果敢に政府の期待に応えたのが、岩崎弥太郎の三菱や大倉喜八郎であった。三菱は軍事輸送を、大倉は軍隊輜重の任を引き受け、彼らは政府からの信頼を大いに高めていく。軍関係では、明治10年2月に西郷隆盛による西南戦争が勃発した時も、大倉組は陸軍の御用に応じている。
 明治8年9月、明治政府の軍艦雲揚号が朝鮮を挑発して起こった江華島事件を経て、翌年挑戦は開国を余儀なくされる。朝鮮の開港後、明治政府の予想に反して、日本人の中から朝鮮貿易に従事しようという者はあまり現れなかった。政府内で独裁体制を築きつつあった大久保利通は、当時内務卿となっており、大倉喜八郎を呼び出し、大倉組が率先して朝鮮貿易に従事するよう要請したという。大倉喜八郎はこれにも応じて、明治9年中に手代の富田重五郎、鈴木真太郎を派して朝鮮釜山に支店を出した。(p.215)


本書から得られる大倉組のイメージは「武器や戦争や植民地支配に積極的に関わる商人」というものであった。



大倉組の東アジア市場での飛躍は、やはり日清戦争後に日本の権益が拡大したことを受けての朝鮮、台湾への進出、さらには日露戦争後の清国本土への進出を待たねばならなかった。(p.217)


ここでも大倉組のイメージは上述のものの通りとなっているが、台湾にも関心を持つ者としては台湾での大倉組の活動なども気になるところである。



 会計法公布で大倉の事業は停滞していくかに思われたなか、大倉を救ったのは日清・日露戦という国運をかけた戦争であった。両戦争において大倉は精力的に政府(軍部)御用をつとめ、戦勝で日本の権益が拡大するなか、台湾・朝鮮での大規模な土木建設工事を請け負い、また大陸中国の多数の諸鉱山に大々的に投資活動を展開することによって急成長していく。(p.222)


大倉組以外にも同じような活動をしていた有力な商人(会社)はいたのだろうか?


阿部謹也 『「世間」とは何か』

 斎藤毅氏の研究によると「社会」という言葉は明治10年(1877)に西周がsocietyの訳語として作り、その後定着したものという。日本でのこの言葉の初見は文政9年(1826)の青地林宗訳の「輿地誌略」であるが、それは「修道院」Kloofterの訳語としてであった。この「社会」という訳語に定着するまでには実に40以上の訳語が考えられていた。その中にはいうまでもなく世間という言葉も入っていたのだが、それが訳語として定着することにはならなかった。何故なら久米邦武が述べているようにsocietyという言葉は個人の尊厳と不可分であり、その意味を込める必要があったためにこの訳語を採用することができなかったのである。彼らの苦労のおかげで私達は、社会という言葉を伝統的な日本の人間関係から離れた新しい人間関係の場として思い描くことができるようになったのである。(p.175)


societyの概念と個人の尊厳とが関わっているという指摘には、なるほどと思わされた。