アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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港千尋 『革命のつくり方 台湾ひまわり運動――対抗運動の創造性』

 群衆は、これを実体ではなく過程としてとらえたほうがよい。どこかに群衆と呼ばれる集団が、実体として存在するわけではない。群衆はある時点に存在するが、別の時点には消えている。群衆はいくつかの種類に分類することができるが、そこには必ず人間が群衆となる過程がある。この過程こそが群衆の本質である。だから群衆には全体がない。通常わたしたちは、群衆を人間の塊として、全体としてイメージするが、それは輪郭を持たない全体なのである。この全体の不在こそが群衆を群衆にするのである。
 そのよい例がデモの参加者数の発表だ。たいていデモの後で発表される人数は、主催者側と警備側で大きく異なる。……(中略)……。だが、この現象の本質は別のところにある。群衆は数えられないのである。(p.46-47)


本書(というか著者)のこうした「群衆」の捉え方は興味深い。これはオートポイエーシスや自己組織化の考え方を援用するとどのような事態なのかよく理解できるように思う。

例えば、ある人が街頭である政治的主張をする。それに賛同する人が周囲に集まる。それを見てさらに通りがかりの人が「何だろう?」と思って集まる。その一部は興味を抱いて話を聞く、一部は興味がなく立ち去る、またある一部はより積極的に賛同の声を上げる、など様々な反応があるだろう。こうやって人が集まっていく中で交わされるコミュニケーションがある熱量を持つ、あるいはノことがある。このとき、このプロセスとそれに伴って生じる熱量ないしノリは、コミュニケーションに関わっている個々の人間の総和とは何か違うものになっている。こうしたプロセスの継続によって立ち現れるものを、ここでは「群衆」と呼んでいると思われる。



すでに述べたように、イスタンブールのゲジ公園が占拠され、これを支援するデモが市内で繰り広げられたとき、首相は即座に彼らを「野蛮人」と呼んだ。これは太陽花運動の学生を「暴民」すなわち暴徒と呼んだことと同じである。2005年にフランスの大都市の郊外で若者の反乱がおきたとき、サルコジ大統領は彼らのことを「クズ」と呼んだが、これも似たようなものだろう。強権的な政治が抵抗や反乱を扱う際に、こうした呼び名を使うのは珍しいことではないが、それを単なる「暴言」として忘れてしまうのは双方にとってマイナスである。このような細部にも、なにがしかの真実が宿っているかもしれない。
 これらの呼称には、ある暗黙の了解が隠れている。野蛮人には言葉が通じない、話せる相手ではないという意味である。バルバロイ、サバルタン、暴民と呼び名は異なってはいても、意味するところは、彼らに話して分かる言葉はないということだ。この呼称と鎮圧のための強権発動は表裏一体であり、実際イスタンブールでもサンパウロでも台北でも血が流れるのはその瞬間になる。ささいな一言は危険な一言なのだが、実はそこにこそ民衆が声を上げる意味がある。声を上げるのは、何よりもまず、民衆が言葉を持っているということを示すための行為だからである。(p.61-62)


最近のニュースで言えば、安倍晋三が都議会選挙の応援演説で、安倍に抗議する人々に対して「こんな人たち」呼ばわりしたということが現在も問題とされていることが想起される。報道などでは、(全体の奉仕者である)行政のトップである首相が自分に反対する人を排除するような物言いをするのが問題だなどとされているが、こような指摘では何かしっくりしないものが残る。むしろ、本書で指摘されているように、「こんな人たち」とは話をしても通じないのだから、話をせずに、閣議決定でやりたいことを決めてしまい、国会では質問されても正面から答えずに時間を稼いでから数の力で強行採決すればいい、というようなことをやろうと思えばできるような権力を与えられている者がこの発言をしているということが問題視されるべきであろう。代議制民主主義の民主的要素も自由主義的要素も踏みにじる専制政治に繋がる言葉や認識であるということをこそ問題視すべきである。なお、トランプ大統領の粗野な発言もこうした観点から専制に繋がる要素がないかチェックしていく必要があるのではないか。

ここで問題となっているような発言をする人は、自分と意見が異なる人々に対して「言葉が通じない」と認識しているため、自身の意思を実現するには強権発動をするしかないということになる。しかし、思うに、特に昨今の右派の言説は、論理性や実証性が非常に低く、願望に基づく見解や願望に適合した内容のデマに類するものが多いため、異なる意見の者を説得することができるような代物ではない。このことも手伝って、彼等は言葉を通じさせるために必要な能力が低いため、彼等からしてみると相手方を「言葉が通じない」ものと認識してしまっている面はあるのではないか。

ちなみに、安倍内閣が第一次内閣の際には「お友達内閣」と呼ばれたことと、「こんな人たち」発言も同様に安倍の偏って歪んだ考え方に賛同する「お供代」ばかりで周囲を固め、それ以外の人々を「こんな人たち」と思っている、というのが安倍政権の一貫したスタンスであろう。森友学園や加計学園の問題も、「お友達内閣」と同じ構図がある。自分の考えに近い政治家を大臣に取り立てるという利益を与えるのと同様、復古主義的反動の思想で共鳴する森友学園や古くからの「お友達」が経営する加計学園に便宜を図るのもすべて同じところから発しているというのが私の見立てである。



 立法の議会は、語る権利を認められた者のための場所である。民衆に認められているのは、その外で、路上で語ることだ。だが議会の内部では言葉が機能せず、しかお外部では言葉が認められない。議会が占拠され、言葉を分配されていない者たちが語ることで、議会はその本来の意味を明らかにしたとも言える。(p.67)


代表として選ばれたはずの代議士たちが民衆の意見をもはや代表していないとき、民衆が言葉の場を取り戻すための方法が通常の選挙以外にも公式に用意されていると良いのではないか、という気もする。



抗議行動が拡大するときには、暴力的な解決のほうがよほど簡単で、そうなりやすい。緊張が高まれば高まるほど暴力的になるほうが「自然」であり、その意味では非暴力はこの自然な成り行きに抗して、多大なエネルギーを使わなければならない。そのエネルギーは現場における、他者を気づかう無数のアクションから生まれたのではなかったか。(p.80)


なるほど。暴力は簡単で安易であり、非暴力はより大きなエネルギーを適切に使わなければ達成できないものだということは銘記しておきたい。


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高橋明雄 『鰊 失われた群来の記録』

 明治期以降の漁場では労働力を主に東北地方の零細農漁民の出稼ぎに仰いでいた。彼等には「鰊殺しの神様」という尊称も奉られているが、一般には若い衆・若い者と呼ばれ、広く知られている「ヤン衆」には好ましくない響きがあるとして、実際の漁場では使われていない。(p.90)


ヤン衆という言葉が漁場では使われていなかったというのは知らなかった。



 事業が軌道に乗った親方の多くは“百万石時代”と呼ばれた明治中期に、競って大きな番屋を建てたが、今に残る小樽の銀鱗荘・鰊御殿や開拓の村へ移築した青山番屋、重要文化財として復元された花田家番屋などに往時を偲ぶことができ、平成9年に遠くスペインへ移築された増毛の田中番屋などもあって、貴重な木造建築の遺産としての評価は年ごとに高まっていく。(p.91)


銀鱗荘、青山番屋、花田家番屋は知っていたが、スペインに移築された番屋があったとは知らなかった。



だが、増毛町雄冬の旧青山番屋のように民宿となった後に、火災で焼失という例もあった。また、同町阿分の田中番屋は遠くスペインへ旅立ち、日本文化を紹介する施設として余生を送ることになったケースである。(p.125)


あるサイトによるとスペインに移築されたのは1977年というから既に40年前のことである。ウェブで検索しても少なくとも日本語ではほとんど何も出てこないところを見ると、既にこの建物はなくなっているのかも知れない。英語やスペイン語であれば何かヒットするだろうか?もし現存するのなら、是非行ってみたいのだが。


河本英夫 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか オートポイエーシスの第五領域』(その2)

 家を建てる場合を想定する。13人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取図、設計図、レイアウトその他必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示どおりに作業を進める。あらかじめ思い描かれた家のイメージに向かって、微調整を繰り返しながら作業は進められる。もう一方の13人の集団には、見取図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。……(中略)……。

 ここには二つのプログラムが、比喩的に描かれている。認知的な探索プログラムは、前者の第一のプログラムに相当する。そのため対象を捉えるさいには、第一のプログラムにしたがう。それが認知や観察の特質であり、目的合理的行為を基本とする。ところがシステムそのものの形成運動は、後者の第二のプログラムにしたがっている。
 ……(中略)……。
 一般的に考え直すと、第一のプログラムは、人間にとってとても根深いもので、現に人間の行為がほとんどそのように営まれていることからみて、行為のなかに染み込んでしまっている。このプログラムにしたがって作動しているのは、大まかな区分によれば、知覚、言語、思考である。いずれも線型性を基本としている。知覚のなかに含まれる志向性は、ここから向こうへ向かう傾向をもち、その特質の形式性をフッサールは、ノエシス-ノエマのような線型の関係として取り出している。いずれも対象や現実をわかることを基本にしており、わかってから二次的に行為もしくは行動に接続される。また第二のプログラムにしたがって作動するのは、感覚、感情、身体、行為、その他のいっさいの形成運動である。身体の形成や行為の形成を本来第一のプログラムで教えることはできない。しかし教育の多くの現場では、誰にとっても同じ解答が得られ、同じような手順を踏んで、同じ結果が出せることが基本になってきた。これは能力の形成でいえば、知覚、思考の形成には適合的であっても、他の能力の発現を大幅に抑制している。(p.136-139)


線型と非線型で対比している点がなるほどと思わされた。時間の観点から対比すると、後戻りできるかできないかという違いで言い表しても良いかもしれない。



 オートポイエーシスの構想では、言葉で記述されたものに対して、それがどういう経験をすることなのかが問われている。オートポイエーシスにかかわる経験をもたないのであれば、意味理解、意味の配置、意味内実の構文論的表記のような言語にかかわる理解に行きついてしまう。言語的理解では、ある意味でわかった途端に終わってしまう。つまりそこから一歩も進めないのである。(p.350)


自分で実行することは簡単にできるのに、それを人に教えようとする場合、どうしてもうまく伝わらない。できるように伝えることができない。こういうことが私の場合よくある。上の引用文で言えば、第一のプログラムに変換した後の言葉を語ってしまっているのではないかと思う。教えることが成立するためには、第二のプログラムに沿った言葉で語り、かつ、相手がそれを言語的ではない理解をしなければならない、ということだろう。


河本英夫 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか オートポイエーシスの第五領域』(その1)

片麻痺患者本人はそれぞれかつてのように、思うように歩くことはできないとわかっている。歩行の感触が異なることには気づいている。だが何がおかしいのか、どこがおかしいのかに気づくことはなく、また多くの場合おかしいという感じもない。……(中略)……。そうだとすると障害を克服しようとする脳神経系の治療では、到達目標は結果として後に感じ取れることであっても、あらかじめ目標にすべきことではないことになる。またそれを目標にしたところで、それがどうすることなのかがわからないのである。ところが治療目標を欠いたのでは、個々の治療手順さえ決めることができない。プロセスを含んだシステムの作動には、こうした固有の難題がつねにつきまとっている。ここにはいくつものパラドキシカルな事態が含まれている。
 ここに視点の移動を組み込んだ工夫が必要となる。たとえば損傷への治療目標は、外的に設定される。それは障害者当人にとっては、自分自身の目標でさえない。治療プロセスにあっては、この目標は括弧入れされ、個々の治療プロセスの継続が、結果として目標に到達するように設定することが必要となる。これは必要な条件を代えれば、すべての学習に当てはまることである。こうした視点の移動を組み込んだ行為の形成を構想するためには、自己組織化やオートポイエーシスの仕組みをたんに理論モデルとしてではなく、経験の仕方そのものに内在する機構として活用することが必要となる。(p.27)


目標は観察者の視点から設定しつつ、治療(学習)プロセスは行為者として継続していくといったところか。治療に関する工夫は学習にも当てはまるという指摘を受けて、自分でできることと人に教えることとの違いも、この二者の切り替えと関係しているのではないか、ということに気づいた。

自分ができるかどうかは、上記の視点の切り替えを自然に行うことができ、かつ、行為者として学習プロセスを継続できるかどうかが問題となる。これに対し、教えることができるかどうかは、この視点の切り替えの場面や方法などを気づかせたり実行させたりすることができるかどうかにかかってくる部分が大きいように思う。やはり両者(できることと教えられること)にはいろいろと大きな違いがあると考えるべきだろう。



 第三にじっと見る、しばらく見続けるような場面での焦点的注意がある。細部を細かく見るのではない。ただじっと見るのである。これは見えるもの、見えるはずのものが立ち現れてくるまでじっと佇むことに近い。「佇む」という動作は、今日ほとんど消えてしまっている。そのためあらためて獲得しなければならないほどである。意味的にものごとを理解してしまう場合には、作品に対して配置をあたえるような理解をして、それでわかったことにするというのがほとんどである。この作法は作品に対して、経験の速度が合っていない。あるいは作品を経験せず、理解と配置だけで通り過ぎてしまうのである。焦点化は、既存の見方、視点、とりわけ視覚的な理解を括弧に入れ、出現するものの前で経験を開くことである。(p.73)


意味的に理解することと佇んで経験すること。確かに前者に比べて後者のような姿勢は私自身の生活を省みた時、圧倒的に不足しているように思う。私も「佇む」ことを獲得しなければならない。



能力の形成の段階とは、獲得した技能が内化され、自動化するようなシステム的な平衡状態の獲得に他ならず、そこには能力そのものの組織化の一面がある。つまり観察者から見て停滞の時期は、獲得された技能や知識の再編的な組織化が起きており、システムそのものにとっては、欠くことのできないプロセスなのである。(p.120-121)


スポーツにおけるスランプの時期などもこうしたことが起きているのだろう。



 発達の段階区分には、区分の成立そのものに抑制機構が関与していると思われる。余分な動作や運動のさいの余分な緊張が消えて、いつ起動してもおかしくないが通常は抑えられている広範な行為起動可能領域が存在すると予想される。抑制機構は、生命の機構の基本的な部分であり、発達の段階が生じるのは、こうした抑制機構の形成が関与していると考えてよい。抑制は、化学的プロセスのフィードバック的な速度調整のような場面から始まっており、一挙に進んでしまうプロセスが抑制機構をつうじて遅らされていることが基本である。これは選択肢を開くという意味で生命一般の特質でもある。この遅れは、生命のプロセスのなかに選択性を開くための必要条件となっている。この場合、発達論の基本は、どのようにして次々と能力が形成されていくかだけではなく、あるいは能力が次々と付け足されるように再組織化されるだけではなく、抑制的な制御機構が何段階にも整備されてくるプロセスでもある。抑制的な制御機構は、観察者からは見落とされがちだが、システムそのものにとっては欠くことのできないプロセスである。(p.121-122)


何かができるようになるとき、実行しようと能動的に働く側の仕組みにばかり注意してしまいがちだが、この時、同時に抑制的な制御機構も働いている。スポーツの最高のプレーが出来ている時、そこには意識的な動作はあまり前面には出てこない。意識して調整するのではなく、意識のより潜在的な部分で調整されている。ここで注目されている抑制機構は、こうした場面においては「意識的な意識」が抑制されていることとも関係している。


天野郁夫 『帝国大学――近代日本のエリート育成装置』

 しかし、この二帝大・三分科大学の新設についても、大蔵省は予算を認めようとしなかった。その再び頓挫しかかった計画を救済し、実現させたのが古河家からの寄附であり、仲立ちしたのが内務大臣の原敬であったことは、よく知られた話である。
 原は古河合名会社の副社長を務めたことがあり、大臣就任後も古河家の相談役を務めていた。当時、その古河財閥は足尾銅山の鉱毒事件で社会の厳しい批判を浴びていた。原は世論を和らげる一策として、古河家に「公共的献費」を求め、それを二帝大の創設に結びつけたのである。(p.38)


東北帝大と九州帝大の新設の際の古河財閥の寄附に関する記事。日本の政府は一貫して教育に対する財政支出に積極的とは言えない傾向があり、帝国大学でさえ中央政府の費用だけでは設置していないという点については一言ここでも触れておきたい。

それとは別に、原敬と古河家の関係についてはもう少し詳しく知りたい。



「基礎的な学問としての理科は、土地の条件を考える必要」がない。「仙台理科大学はいわば上からの帝国大学の構想によって創られたもの」だと、同校史は述べている。(p.39)


東北帝大について、札幌農学校に加えてもう一つの学部(分科大学)を設置するにあたり、仙台に「理科大学」が設置された理由。北海道開拓のために設置された札幌農学校の農科大学への昇格、八幡製鉄所など工業地帯が形成されつつあった九州の工科大学設置といった、土地の条件に合わせた分科大学の設置に対し、仙台に創設される学校は、東京、京都、東北、九州に設置される分科大学のバランスを見ながら(土地の条件によらず)、理学部(理科大学)とされたということが述べられている。



 帝国大学の助教授職や、官立の専門学校・高等学校の教授職に就いている学士たちの中から学位の有無を問うことなく選んだ者を、帰国後の教授ポストを約束して数年間、海外の大学に送り出す。そして帰国後に首尾よく任用された教授に学位がなければ、総長推薦ないし博士会推薦で博士号を授与する――それが、明治期を通じて、文部省・帝国大学が取り続けた、教授の養成方法であった。(p.160)


明治期の博士には、いわゆる「推薦博士」が非常に多い。どのような経緯で博士になったのかに注目して批判的に見る必要がある。


小川洋 『消えゆく限界大学 私立大学定員割れの構造』

 これだけ大規模な入試を行なって、各大学とも最終的に定員の数パーセント程度の誤差に収めている。なぜそのようなことが可能なのか。その最大の理由は入試方法の多様化である。ほとんどの私大がこの20年ほど、辞退率という不安定要素をもつ一般入試の比率を大きく下げてきた。さらに一般入試においては、予想外に多くの入学手続き者が出て大幅な定員超過とならないよう、正規の合格者数を絞ったうえで必要に応じて追加合格を出して入学者数を微調整している大学も多い。
 大学の学生募集方法は、ひと昔前に比べるとすっかり様相が変わっている。推薦入試、AO(アドミッション・オフィス)入試、付属・系列校からの内部進学など、一般入試以外の学生募集の比率が大幅に増えてきた。推薦入学については、短大では古くから実施され、国公立大学でも70年代後半に取り入れられるが、私大では早期の学生確保手段として広がっていった。12年度入試では、全入学者のうち、国立で12.4パーセント、公立で24.0パーセント、私立では40.3パーセントが推薦入試によるものとなっている。(p.21-22)


かつては当たり前のように行われてきた水増し入学が、文科省による補助金減額や個別的指導によって是正されるようになったことへの大学側、特に私立大学の対応が入試の多様化を推進する要因の一つとなったことが本書から理解できた。

また、個人的には私大の4割が推薦入学という割合の大きさ(さらに内部進学やAO入試などもある)には驚いた。一昔前であれば進学するための学校ではないと思われていたような高校でも、昨今では卒業者の進路を見るとしばしば私立大学の名前が載っていて違和感を感じたことがあるが、そういった事態についても理解できるようになった。

さらに、団塊ジュニア世代が入学した25年くらい前の大学入試の偏差値と少子化が著しく進行した現在の偏差値が多くの大学でそれほど変わっていないことにも違和感を感じていたが、一般入試の定員を減らすことで偏差値が高く保たれるという構図もあることが分かった。最近の入試事情に関する多くの謎が本書のおかげで解けた。



一般入試の定員を絞れば絞るほど入試倍率は上がり、受験情報企業の出す「偏差値」が上昇し、大学の評価を高める結果になる。それが大学のねらいのひとつであるとさえ言われている。(p.27-28)


すぐ上でコメントした内容だが、慶應なども学部によっては半分以上が一般入試の前に埋まっているということが指摘されている。このような事情からは、その大学の「偏差値」がかつてと変わっていなくても、実際に入学している学生の学力レベルを平均するとやはり以前よりは下がっていることが予想される。



大学進学率を予想以上に長期にわたって大きく押し上げた大きな原因は、進学志向の全般的な高まりと高卒就職環境の壊滅的な悪化であった。(p.64)


90年代後半から00年代前半頃まで、文部省が予想していた以上に進学率が上がった要因。



アルバイト賃金も上昇したバブル経済のさなか、リクルート社が肯定的な意味をもたせるつもりで作ったという「フリーター」の用語は一転、不安定、非正規雇用を象徴的するものになったのである。(p.65)


使用者側が安上がりの労働力を使いやすくなるように意図されており、労働者側のことにはほとんど配慮していなかったのだから、「フリーター」の語が否定的な意味で用いられるようになるのは当然の成り行きであったと言うべきだろう。



 大学にとっては18歳人口の急減による進学者の減少を覚悟していたところに、皮肉にも受験競争の鎮静化とバブル崩壊とが、高校生たちを大学進学へとプッシュすることになり、受験生の波は予想以上に長期化した。(p.66)


バブル崩壊とここで言われている要因は2つ前の引用文で述べられているが、受験競争が鎮静化して大学が入りやすくなったためにかつてであれば進学をあきらめていた層も進学への希望を持つことができた。このことと就職難は相乗効果があっただろう。



生徒数は20年間に1.8倍あまりに増えた。……(中略)……。その際、専門高校(職業高校)は開設されても例外にとどまり、大部分は普通科高校が増設された。その結果、首都圏では、職業系の専門高校の定員が微減する一方で、普通科の生徒数は、70年の約17万2000人から90年の37万8000人へと、2.2倍にも増えたのである。他の大都市圏でもほぼ同様の傾向が生じている。
 この時期に新設された高校の多くはその後、ピラミッド型秩序の中下位に定着し、一部は、義務教育内容の習熟度がもっとも低い生徒たちを受け入れる、底辺校とか教育困難校と呼ばれる高校になっている。朝比奈なを『見捨てられた高校生たち』はこれらの高校の実情を余すことなく描いているが、多くの弱小私大はこれらの高校にも推薦枠を提供していることを認識するべきである。
 大学進学にはほとんど無縁の底辺校とトップの進学校、準進学校との間にある、進学希望者と就職希望者が混在する、性格の曖昧な普通高校は、教育関係者の間では「多様化校」と呼ばれる。この多様化校こそが、大学進学率の変動が発生する現場なのである。(p.164-165)


第二次ベビーブーム世代が高校進学する頃、生徒数が急増したのに対応して高校も定員が増やされたが職業高校ではなく普通科が増やされたため、それらの高校は「多様化校」や「底辺校」となった。この多様化校が就職難と進学の容易化によって(文部省の)想定以上に進学していった生徒たちを擁する現場だったことが指摘されている。


竹内洋 『立志・苦学・出世 受験生の社会史』

 志望校の入学試験に合格するための学校ということであれば、すでに明治10年代前後にもみることができる。東京英語学校や共立学校、成立学舎、独逸語学校などがこれである。これらの学校は東京大学予備門やその後身の第一高等中学校(高等学校令により明治27年、第一高等学校と改称)などに入学するための受験指導の学校だった。(p.27)


初期の札幌農学校の入学生は東京英語学校から来ていたが、東京英語学校はさらなる進学のための準備をする学校だったということか。



 江戸時代の上昇移動の野心は身分によって分節化されていた。そのことは武士が、「立身」を、町人が「出世」という言葉を使ったことと、その意味内容が異なっていたことにみることができる。武士が立身を使ったのはかれらの下位文化が儒学によって、町人が出世を使ったのはかれらの下位文化が仏教によっていたからである。(p.45)


武士と町人で下位文化が異なっていたというのは、中国の儒教と道教の関係とも似ており興味深い。



 幕末から業績主義による人材登用の気運が強くなったが、能力や業績の客観的基準が確立していたわけではない。西洋の知識(実学)をもっている者が人材登用される道が開けたが、その種の判断は登用者の恣意的基準によっていた。人材選抜の合理化Ⅰ(横軸のシフト)はおこったが、合理化Ⅱ(縦軸のシフト)は不十分だった。台頭してきたのは、業績主義と恣意性の領域が大きい組み合わせの類型Ⅲの選抜様式である。
 このような状態は明治20年ころまで続く。行政官吏の任用は上司の気儘な判定とコネや情実、藩閥の絆などの混合したものであった。(p.52)


北海道の開拓使の事例を見て、初期の高官は旧薩摩藩の藩閥によるものが多いことには私も気づいていたが、これが当時の全国的な傾向であったことがわかった。



 しかし、問題は、そういうイデオロギーがあまねく受容されているわけではないことである。学力エリートとノン・エリートによって分節化されて受容されていることだ。学力上位層の生徒と保護者は「勉弱」をよしとする冷却イデオロギーをあくまで顕教(タテマエ)として受け入れた。『プレジデント Family』(雑誌)などの学力アップや進学作戦本が、大卒エリートサラリーマン家庭でよく読まれてきたことにみられるように、大卒エリートやその予備軍は学力大事を密教(ホンネ)としたのである。学力下位層の生徒と保護者には密教の余地を残さずもっぱら顕教としてひろがった。
 冷却イデオロギーが学力ノン・エリート消費用の顕教となり、学力大事が勉強エリート専用の密教になったころから、生徒の階層による教育格差や学力格差がいわれるようになる。冷却イデオロギーが学力階層や保護者の階層によってどう受け止められたかが違ってきたのだということを補助線にすれば、まことにつじつまの合う帰結である。
 学力中間以下層の学力不振にさらに追い打ちがかけられた。基礎学力や知識量などで測られる学力は旧い学力であり、ポストモダンの学力は生きる力や個性、創造性、能動性などであるとされた。新しい学力観にもとづいて、学校は座学から討論型授業、総合学習、体験学習などをそろえた。「コミュニケーション・コンピテンシー」などが新しい学力だとされ、旧来の学力観では、新しい社会のなかで成功し、新しい社会を機能させていくことは不十分であるとされはじめた。このような新旧学力観も学力階層によって分節化されて受け止められた。学力上位層は両者を断絶したものではなく、連続的にとらえたが、旧来の学力は時代に適合しないという雰囲気だけに惑わされがちだったのが学力下位層である。(p.194-195)


学力上位層と下位層で勉強や学力に関する言説が別様に受容されたという指摘は興味深いものがある。学力より「生きる力」が大事だとか勉強ができることは他のことと比べてそれほど重要ではないといった類の言説に対しては、必ずしも妥当なものとは思えない感覚が私にも若い頃にあった記憶がある。その後も、学力は大事だというのはいろいろな場面で感じており、そうした経験からも、ここでの指摘には腑に落ちるものがある。ただ、この指摘の内容についてはデータで示してほしいところではある。



英国の教育社会学者ポール・ウィルスは、英国の筋肉主義的な労働者階級の子弟である「野郎ども」は、落ちこぼれてしまうのではなく、「ちまちま勉強するなんて女々しい野郎だぜ」と積極的に落ちこぼれを選択することによって階級の再生産を担ってしまうとした(『ハマータウンの野郎ども』 熊沢誠・山田潤訳、ちくま学芸文庫)が、日本の学力下位層が「世の中気合いとコミュ力」と学力格差を気にせず、貧困の中に入っていくとしたら、あの野郎どもの再生産メカニズムと機能的には等価である。英国型が「抵抗」による階級の再生産への加担とすれば、日本型は社会的成功と学力・学歴は無関係という「誤認」による階級の再生産への加担といえよう。(p.195-196)


社会的成功と学力・学歴が無関係であるという考え方が「誤認」であるということをもっと前面に出していく必要はあると思う。さらには、学力・学歴が生まれによって規定されている面があり、これを社会的に是正する必要があるということも同時に主張する必要がある。


越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その3)

 明治初期の初等学校の建設が、しばしば地方における洋風建築伝播のさきがけとなったことが知られている。北海道でも同様であったように思われる。
 ……(中略)……。日本海沿岸の有力都邑では、明治11年以降ようやく本格的な洋風小学校が建てられるようになったのである。
 ……(中略)……。
 これらの小学校建築は、基本的には開拓使の――後志の五小学校は札幌本庁の、江差は函館支庁の――設計と考えられる。ただし『開拓使事業報告 第二編 家屋表』にはいっさい記載されておらず、通常の開拓使営繕事業とはされていない。いずれも「公立」学校であって、建設および学校経常費は住民の寄付によった。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 量徳以下、後志地方の小学校の、特にポーチまわりのデザインは、札幌本庁の洋風建築の特質からはやや異質に思われる。学校建設の資金が住民の直接負担であったこと、つまり建築主体の過半が地元にあったことが、建築の意匠に反映したということも考えられよう。ただし小樽量徳、江差柏樹の両学校は、開拓使が地方都市に洋風の小学校を普及させるためのモデルとしてもくろまれたはずで、明治11年11月26日の竣工開業式に黒田開拓長官、調所大書記官以下が臨場したのはそのことを示している。翌12年以降の余市、岩内、古平、美国は、開拓使直接の設計というよりは、小樽をモデルとして建てられていったのではないかと思われるのである。(p.318-321)


いろいろと興味深い一節。

公立学校の建設や運営の経費が住民の寄付によるというのは現在の常識とは全く異なっており驚くところである。

小樽量徳小学校と岩内の小学校の写真を見たとき、あまりの類似に驚いたことがある。この件を読んで、その理由がよく理解できた。



桧山郡役所遺構は明治20年の創建であるが、この庁舎も、岩内などと同様警察署を併設していた。明治19年12月の北海道庁官制改正により、植民地での便宜的制度として、郡区長は警察署長を兼務することとされたのに従ったものである。(p.322)


確かにこの遺構には警察署としても使われていたという解説があった記憶があるが、そのことの背景がよく分かった。



これらから推して、日本海沿岸部の漁家建築に見られる「軒コーニス」は、開拓使期の函館の洋風建築をルーツとし、海路をつたって伝播していったと考えてよいであろう。(p.329)


北海道の日本海沿岸部の漁家建築は幾つか見たことがあるが、あまりコーニスなどに注目したことはなかった。この観点から見直してみたい。



泊村田中家住宅(明治30年。現小樽市。図16-7)がこれと類似の事例である。田中家は全体としては切妻の雄大な大屋根をかけた伝統的様式の民家であるが、正面左手、和風の真壁のなかに三箇所だけ縦長のガラス窓があけられている。(p.330)


田中家住宅は現在小樽市に移築されており、「鰊御殿」として知られる建物であり、私も何度も訪れたことがあるが、この点は全く気付かなかった。しかし、本書の写真を見ると確かに縦長の窓が三つ並んでいる。



越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その2)

 軒飾りは持送りを並べる形式である。……(中略)……。このような持送り形式は、やはり開拓使建築の後半期にめだつもので、札幌農学校演武場と同じ系統のデザインである。(p.200)


豊平館についての記述だが、豊平館の軒飾りと札幌農学校演武場(現・さっぽろ時計台)のそれが同系統のデザインだとは気付かなかった。



 西側一、二階の広間および前室には、計六個の暖炉が設けられていた。昭和33年移築時に大半が撤去され、二階広間前室に一個のみが――六個の部材を寄せ集めてつくっていた――遺存していたが、昭和61年修理で、形だけではあるが旧状に復原された。マントルピースの装飾、仕上げは磨き漆喰で、鼠漆喰上塗り表面に黒漆喰を斑にぼかし磨いて、大理石模様をつくりだしている。天板mantel shelfのみ白大理石(寒水石)を使用している。(p.204-205)


これも豊平館についての記述だが、私も今年2017年に豊平館を初めて訪れたのだが、この暖炉は非常に印象に残っている。一見、大理石風の暖炉なのだが、質感が何か違うと感じさせたので、よく見ると漆喰を磨いてつるつるにしたものを大理石風に見せていたことを見て驚き、印象に残った。本物の大理石で作ったものの方が確かに高級感はあると思うが、工夫を凝らして作られたものには、見るものを感動させる力があると感じた。



 一般商店の階数は『盛業図録』で49棟中37棟、『明細図』では100棟中80棟が二階建てであった。函館が九割強、札幌が五~六割強であったから、その中間程度の市街密度であったことになる。(p.303)


明治20年代前半の小樽の市街地についての記述。二階建ての建物の割合によって市街地の密度を推定するというのは、興味深い見方である。



 港、入船町はその後も商業街のひとつとして継承されていくが、小樽全体の都市中心としての地位は過渡的なものであった。明治13年、手宮に石炭積出桟橋と幌内鉄道が完成し、これによって都市活動の中心は北寄りへ強力に引きよせられていくことになったからである。
 明治22年、堺町立岩から手宮鉄道事務所まで、つまり色内町地先海岸の埋立てが竣工、北浜、南浜町が成立し、船入澗が新設された。25年には早くも両浜町の地価が港町を抜いて第一位になっている。
 『盛業図録』『明細図』はちょうどこの時期、港、入船町の市街成立から色内、両浜町の形成へと転換する過渡期をあらわしている。……(中略)……。
 小樽の木骨石造店舗は、函館の洋風防火造商家がその立地や商種を反映していたほどに、くっきりとした傾向を示すわけではないが、それでも信香、山上町などの旧市街には少なく、入船、港、色内などの新市街に多く建てられたことは読みとることができる。また、初期の石造店舗は、米穀、海産物、回漕業など、小樽経済の基幹をなしたであろう豪商に多い、ということはできよう。(p.307-308)


小樽の中心地は、信香、山上町などのあたりから(明治10年代頃?)港町、入船町へと移り、さらに(明治20年代以降)色内、北浜・南浜町へと海岸に近い地域を順次北上していく。さらに函館本線と手宮線が繋がる頃であろうか、山の方へも市街地が拡大して稲穂町のあたりも開けてくるというような流れで展開したと考えられる。

時期の区分などは(上には曖昧な記憶で書いた部分もあるため)もう少し検証しなければいけないが、基本的な流れはこのように理解してよいだろう。小樽の港は、北側の方が波も高くなりにくく、港としての適性が高かったという地理的な要因が背景として効いているように思われる。



 前節で見たように、木骨石造の小規模な事務所建築は明治20年代中頃にはあったと思われるが、小樽新聞社のような中層の規模、形式を整えたものが建てられるようになったのには、明治39年の日本郵船小樽支店(佐立七次郎)や明治40年の小樽郵便局など、本格的様式をそなえた事務所建築の出現が刺激となったであろうと考えられる。(p.313-314)


中層の木骨石造の事務所建築が建てられたというのは、小樽の特徴の一つのようである。明治40年代頃に建てられたものがよく知られており、大正半ばに鉄筋コンクリートが普及するまでの僅か10年余りの期間のことであったため、現存する事例は少ない。

小樽市内で現存する建物で、こうしたものの事例として紹介できるものは、第百十三銀行がそれにあたるということが、本書を読んで理解できた。



なお浜益村濃昼の漁家木村家番屋の倉庫が木骨煉瓦造で、煉瓦は半枚積みであった。創建は明治30年前と推定されている。木村家の本拠は小樽にあって、この建物も小樽の系譜につながるものと考えてよいであろう。(p.316)


浜益村は現在は石狩市の浜益区になっているが、木村家番屋はまだ現存しているようだ。公開はしていなさそうだが、機会があれば見てみたいものである。この地区の近くには同じ頃に建てられた白鳥家の番屋もあり(現在、はまます郷土資料館として活用)、白鳥家も小樽にいたことが想起される。鰊漁の漁場として連続性があるからであろうか。



 このような木骨モルタルないしコンクリート造は、大正以降施行された鉄網モルタル造の応用であり、小樽特有の構造手法ではないが、小樽ではちょうど木骨石造が衰退するのと期を一にしてあらわれるように思われ、明治期の木骨石造の代替構造という性格が指摘されるであろう。(p.317)


この類の建築はあまり残っていないかもしれない。


越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その1)

 これら二つの大工事は、幕府および諸雄藩による幕末期の洋風軍事、産業建築の一環を占めるものであり、開港場の居留外国人の建築とは別の、もうひとつの洋風建築導入の系譜を示す事例として位置づけることができる。最初期の洋風建築は、次節以下で述べるように、居留外国人の必要に応じて実現していくのであるが、それは必ずしも一方的なものではなく、日本人の側にも主体的に洋風建築を受入れる契機が存在したのである。
 ただ、函館の場合、建築というよりは土木建設の傾きが強く、その後の洋風建築への影響という点では、過大に評価することはできない。むしろ、これらの大工事を機に函館に集まり、建設をになった請負人や工匠、建設労働者が、その後の函館、さらに北海道の建設活動の基盤を形成したことの方が重要であった。(p.25-26)


二つの大工事とは、弁天岬砲台と五稜郭の建設のこと。設計した建築家というより、多くの人が実際の作業をする経験を積んだことが影響を及ぼすという見方は興味深い。



 函館支庁営繕係は、明治7~9年の中間縮小期をはさんで、前後期に分けられ、それぞれスタッフ構成も一変している。前期では在籍期間の短い者が多く、設計能力をそなえた主体的組織としてはまだ確立していなかったように思われる。確証は得られなかったが、官外の大工棟梁らによる設計関与といったこともあったであろう。それが右に指摘したような、和風要素を混淆させた前期の素朴な洋風建築にあらわれたのではないかと考えられるのである。
 これに対し、明治10年後半以降の支庁営繕組織は、本庁からのテコ入れによって、いちじるしく整備された。それは明治11、12年大火後さらに強化され、復興事業に取りくんでいったのである。あきらかに設計能力をそなえた数名の技術官を擁するようになっており、在任期間の長い、安定した組織に変わっている。また、本支庁間の連携はより密接になっており、建築の設計内容についても札幌本庁からの指示がおこなわれている。「会堂」や公立富岡・弥生学校、博物館第二館で、屋根を札幌器械製柾葺き(またはこれに倣って)としたのは、その一例である。にもかかわらず、全体として札幌とは違った建築の性格を保持したのは、洋風建築に習熟した多くの大工、工匠の存在を前提にできたからであろう。一口にいえば開港場以来の伝統である。(p.68-69)


建築行政に関する組織に着目するのは興味深いアプローチ。

函館支庁の営繕係が変化したことで函館の洋風建築が変化した(素朴な和風要素混在からより本格的な洋風建築へと変化しつつも、開港場以来の伝統を受け継ぐ職人たちによって、装飾の要素が少ない札幌の官製洋風建築とも異なる装飾的な要素を持つ建築が特徴となったという。組織の変化と建築のスタイルの連続性というのは参考になった。



 開拓使の建築へのアメリカの影響では、もうひとつ、明治10年以降札幌農学校のアメリカ人教師によってもたらされたバルーン・フレーム構造がよく知られている。
 バルーン・フレームballoon frameは、別名Chicago constructionが示すように、1830年代のシカゴで発明され、中西部フロンティアにひろがって、19世紀後半には「全米住宅建設の60ないし80%」を占めるにいたった。(p.136)


バルーン・フレームについてはもう少し詳しく知りたい。



半円ポーチのコリント・オーダー吹寄せ円柱に代表されるヨーロッパ様式建築の咀嚼、室内天井の漆喰メダイオンに代表される日本建築意匠の引用、そしてアメリカ風木造建築の技術及び表現という、いわば10年間にわたる開拓使の建築実践の蓄積が集約統合されたのが豊平館であるということができよう。(p.137)


豊平館に欧風、和風、アメリカ風の要素の統合が見られるという指摘はなるほどと思わされた。



つまり、開拓使前期の洋風小屋組構造はまだ未消化の点を残した過渡的な段階にあって、簾舞小休所はその最初期の姿を伝えるものと考えられる。(p.147)


キングポストトラスなどのトラス構造が明治期の北海道の建築ではよく見られるが、初期の頃は和風の手法が残ったものだったという。簾舞小休所(通行屋)はまだ行ったことがないので、是非機会を設けて訪ねてみたい。