アヴェスターにはこう書いている?
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谷岡一郎 『「社会調査」のウソ リサーチ・リテラシーのすすめ』

 「大学の先生」というステイタスは大変に高い。もちろん「大学の先生」といっても、ピンからキリまであるのは他の多くの職業と同じで、中にはかなり世の中に不適応な者や、どう考えても頭の出来がよくない者も混じっている。
 はた迷惑なのは、たまにヘンな奴がいて、常識から大きくズレた思想や意見を述べることがあるが、それがいかがわしい宗教団体やマスコミの主張に取り上げられ、いかにも学者全体の意見であるかのように喧伝されることである。なまじステイタスが高いため、不出来な構成員の利用価値まで高くなるという、不思議で逆説的な世界なのである。(p.94)


確かに、日本会議系の「大学の先生」にはまさにこのことが当てはまる。さすがに学者全体の意見であるとは受け取られないだろうが、右派系のメディアでは人数の割に登場頻度がやたら高いようで、こうしたことにより彼らと同じような意見の研究者がそれなりの数いるかのごとく錯覚されてしまう。



 国立大学などでは、教授、助教授、講師といった縦割りの身分組織である講座制をとっているところが多いため、教授の一言がなければどうすることもできない。(p.95)


講座制にもいろいろな種類があるようだが、どの程度の割合の大学で講座制がとられているのかを知りたい。また、国立と公立、私立でどのように相違があるかということも。

本書で展開される研究者に対する批判の多くはデータや調査結果に基づくものではなく、筆者の個人的な経験や見聞に基づくものでしかないように思われ、自分自身の主張に対してもっと批判的であるべきではないかと指摘しておきたい。


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阿部謹也 『北の街にて ある歴史家の原点』(その2)

その当時はソヴィエト・ロシアとポーランドに分かれて支配されていた旧プロイセンの歴史を研究するにはソヴィエトとポーランドの学会と協力して行うしか方法はないのだが、その方法をめぐって対立していたのである。特に歴史教科書の編纂をポーランドと協力して行うか、ドイツ人だけで行うかという問題であり、その際にポーランド人と協力して行うことに異論はなかったのであるが、どのような形で協力し合うかが議論の的であった。
 私は日本の歴史教科書の編纂に際して朝鮮人や韓国人、中国人と協力し合うという発想が全くないことを知っていたので、この議論に深い関心を持っていた。(p.114)


1970~71年頃のドイツでの議論。確かに歴史教科書の編纂に関係する国における歴史研究の成果をも取り込んでいくという発想はあった方が良い。

日本の場合、韓国や中国の歴史観には排外的な国家主義の要素が政府の政治的な正当性を主張するために喧伝された要素が多く含まれている点に懸念がないわけではない。ただ、日本でもそうした歴史観と同レベル化それより劣るような復古主義的反動主義者(「保守」と自称することが多い極右的な歴史修正主義者)たちの歴史観が次第に台頭してきているため、相互に反発を生じさせやすい状況となっている点に問題を感じる。



中世の学校は市民や敬虔な人々の寄進によって成立したものが多かったが、そこには規律などはなく、優れた教師がいるところには多くの学生が集まったが、その教師がいなくなれば学生の姿も見えなくなった。学生の数が多くなるとひとつの町では全員を養育できなくなり、問題となったのである。(p.246)


横尾壮英『中世大学都市への旅』によるとヨーロッパ中世初期の大学は、土地も建物もない人間だけの大学であったという。



エリートの学問は基本的に禁欲を旨として営まれ、自己の関心をひとつの分野に限定しようとする。いわゆる専門家の発生である。(p.248)


阿部謹也はここで16世紀ころからヨーロッパではエリートの文化と民衆の文化とが分かれて行くとしており、その上でエリートの学問を禁欲的だと述べている。エリート文化と自己抑制・自律は、確かに親和的かも知れない。この指摘が面白いので記録しておく。



安丸良夫による解説より。

 時代はちょうど戦後史学史の大きな画期、社会史のはじまりにあたっていた。この時代に社会史を代表した研究者は、日本史では網野善彦さん、西洋史では阿部さん、ともに中世史を専門とする異端の歴史研究者だった。近代を実態としても到達すべき目標として理念化する幻想が崩れたとき、網野さんや阿部さんの中世史研究は、近代を相対化して、さまざまの問題を根源から考え直すためのさまざまな手がかりを提示しているように受けとめられた。(p.296)


なるほど。


阿部謹也 『北の街にて ある歴史家の原点』(その1)

東京の人は自分の育った環境が普遍的だと思いかねない傾向があるが、そのことに気づいたのもこの地にきてからのことであった。
 しかし挨拶で「おばんでございます」ととっさにでてこなかったので、ある老婦人から「『こんばんは』などといわれると冷や水をあびせられたような気がする」といわれ、困ったことがあった。何でもないことのようであるが、北海道に住んでいると日本の社会がゆがんでいることが時によく解った。(p.39)


このあたりの感覚はよく分かる。



 小樽にきて一年経たない内に東京にいたときとは日本の社会を見る目がちがってくることに気づかされたのである。(p.40)


地方から社会を見るのと政治経済文化などの中心地から見るのでは、見えるものは異なる。北海道や沖縄のような旧植民地から見るとき、その差異は特に大きいだろう。



 小樽港を見下ろす高台にある小樽商科大学は、明治43年に小樽高等商業学校として創立され、昭和24年に全国86の新制大学と共に小樽商科大学として設置された沿革を持っている。単科の国立商科大学は現在にいたるまで他になく、かつては仙台以北に人文・社会系の大学がなかったために俊秀が多数集まったところであった。戦前の小林多喜二や伊藤整はいうまでもなく、戦後も特に一橋大学と関係が深かったために多くの著名人が訪れていた。戦前には三浦新七教授や福田徳三教授も講義をしているし、戦後は上原専六、大塚久雄、大塚金之助、中山伊知郎、高島善哉、山根銀二などの諸氏が講義をしている。
 全国の高等商業学校がそうであったように、西欧的合理主義をわが国の商慣行に取り入れようとする目的で創られたのが高等商業学校であったから、学生たちもモダンで、自由の気風にあふれていた。大正14年10月のいわゆる軍事教練反対事件はその良い例であろう。(p.60)


確かに仙台以北には長らく文系の大学や高等教育機関はなかった。東北帝国大学に文系の学部(法文学部)ができたのは大正11年だったが、経済学部は昭和24年になってからであり、北大に文系の学部ができたのは昭和22年のことである。

高商の学生たちがモダンだったというのは、なるほどと思わされる。軍事教練反対事件については、このブログでも『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』『早稲田大学小史』に言及がある。



あたかも1969年に始まって日本全国を席巻した大学紛争がどこでもこの寮の負担区分問題から出発していたことは象徴的であった。しかも東大や日大などから始まったいわゆる学園闘争は、まさに高度経済成長の中で起こったのである。特に私立学校で学科増設と定員増がすすめられ、特に理工系学生の増加がはかられていた、いわば高度経済成長に合わせて、私学を中心として学生定員が増加し、そのために教育条件が急速に悪化していったことを背景としていたのである。(p.67)


1968年に象徴されるような全世界規模での学生たちの異議申し立ての背景については、待鳥聡史が『代議制民主主義』で指摘しているように、戦後生まれのベビーブーム世代が大学生となり、それ以前の世代が築いてきた代議制民主主義に対する懐疑が要因だという見方がある程度説得的だと考えているが、ここで阿部謹也が言及していることも、関連はあるのかも知れない。他国の状況なども見て妥当性を判断したい。



北海道 『北海道の古建築と街並み』

 「えぞ地」が「北海道」と改称された明治初年、本道の町まちは、石置き屋根一色であった。……(中略)……。
 石置き屋根は、江戸末期には、東北・北陸の日本海沿岸地帯に、とくに広く存在した。本道の石置き屋根の母型は、これらの地方の民家にある。本道と同地方との交流の歴史関係から見て不思議のない話だが、明治改元前後の本道の住民の多くは、こうした家屋形式しか知らなかった。大工の大半もまた、これ以外の家屋形態を造る技術をもってなかった。つまり、当時の北海道が、裏日本の経済、生活文化、建築技術の支配圏下にあったことから生ずる、当然の姿であった。(p.29)


確かに明治初期の北海道の民家には石置き屋根が多い。これも東北や北陸に由来するものだったと分かったのは収穫。ここにも当時の一般の移民は東北や北陸から来た者が多かったことが反映している。



 函館・札幌両都市の建築洋風化方向は、対照的である。函館のそれは商館を主体とする民間主導型とすれば、札幌は開拓使関係施設に限定された官庁主導型である。函館が在野建築家による設計であるのに対して、札幌は官僚建築家の設計である。函館の作品のスタイルは、和洋折衷を基調とし、他地域の擬洋風建築と共通感覚のものが多い。これに対して札幌のそれは、米国木造建築様式を祖型とするものにほぼ統一され、同時期の道外他都市に例をみない、高い純度をもつ。また、函館では防火建築への強い志向がみられ、レンガ造、石造、土蔵造でカワラ葺きの建物が相当数出現する。これに反し札幌では、木造マサ葺きの構造形態から脱却できず、防火に対する配慮が希薄であった、という対照も見逃せない。(p.30)


この比較対象は興味深い。いずれも両都市の歴史的特質から説明できるように思われる。函館は幕末の開港地として他地域に先駆けて洋風化の条件を持っていた地域であるだけでなく、それ以前からある程度の人口があった。これに対し、札幌は開拓使が置かれてから開かれたのに近く、明治初年の人口はごく限られたものだった。それぞれの地域の民と官との力関係を見れば、民の力が大きい上に行政の中心でもない函館と民の力が小さい上に行政の中心とされた札幌という対比が見出せるが、そのことが建築にも素直に反映している。また、防火への志向の違いも、函館は地形的な要因(風の強さなど)もあるが都市内部の家屋の密度が高かったのに対して、札幌は明治期には密度が低かったということが反映していると考えられる。

もしかすると、北海道の沿岸都市と内陸都市に同じような対比がみられるかもしれない。この視点から比較してみると面白そうである。今後の研究課題のひとつとしたい。



 本道が板ガラス使用の先進地であった、という意外な事実がある。寒冷な気象条件を克服する好適な建築材料として、明治20年代から、紙障子や板戸を駆逐して、民間建築にも積極的に使用され、その外観を大きく変えてゆく。ストーブの導入に伴う煙突の付設も、本道以外の民家では見ることのできない外形要素である。板ガラスの使用と並び、道内建築にユニークな印象を与えてゆく。
 こうして北海道の建築風景は、道外のそれとはまったく別個の風趣をもつものに、変貌する。(p.30)


板ガラス使用の先進地というのは気付かなかった。確かに明治39年竣工の旧日本郵船小樽支店ともなると二重ガラスが採用されるなど、防寒対策がかなり進んでいたことが見て取れるが、それは20年代からの蓄積の上に出て来たものと言えるのかもしれない。

道外の建築風景とは異なるものとなったという指摘は、先に引用した石置き屋根の家屋が東北や北陸の影響下にあったのに対して、そうした影響から脱して独自のスタイルを形成したということを意味する。これは明治30年前後のことと見てよいだろう。



 明治30年代後半期はまた、北海道経済の中央従属化が顕著となった変革期でもある。同時にそれは、“北海道建築”が中央建築体制の一環に組み込まれたことも意味する。建築における中央との同質化傾向が、この時期以後助長されてゆく。中央の金融・産業資本の本道進出に伴って、中央の建築家の作品が道内に出現する。その結果、第1期、第2期の都市景観が、どちらかといえば対照的に、この時期以後のそれは、すこぶる多彩となってゆく。(p.30)


確かに先ほど言及した旧日本郵船小樽支店も佐立七次郎により設計されたものであったし、明治45年竣工の日銀旧小樽支店も辰野金吾や長野宇平治などが設計している。こう見て来ると確かに中央の建築家が進出してきたというのは、面白い見方である。

ただ、明治初期の北海道で活躍した建築家としては、豊平館を設計した安達喜幸などが想起されるが、彼は江戸出身であり、工部省から開拓使に配属された。安達は開拓使に所属していたことから、あまり道外から来たイメージでは語られないが、もともとは道外から来た人でもある。その意味では函館と札幌の対比が先ほどなされていたが、札幌の系譜は基本的に道外からの技術がもともと基本となっていたという見方もできるのではないか

とはいえ、(明治初期からの)政府によるものか(明治30年代後半からの)資本の進出に伴うものかという違いは残るかもしれない。



 函館、小樽のこうした都市景観は、道内としてはむしろ例外ともいうべきものである。他都市のそれは、札幌を含めて、木造建築の世界である。(p.31)


函館と小樽は大正期からは鉄筋コンクリート造などの不燃造建築が多く建てられたが、他の都市は木造建築が主体のままだったという指摘。



 当時は、鉄筋コンクリート造の黎明期で、多様な構造が存在した。そのため、銀座街には、こんにち存在しない構法の建築が多数建てられ、その一部が現存する。つまり銀座街は、“鉄筋コンクリート造歴史館”の感があり、貴重だ。(p.226)


函館における大正10年の大火後のこと。本書は1979年のものであるが、ここで指摘された「鉄筋コンクリート造歴史館」という状況は現在にも当てはまるのかどうか気になるところである。


俵義文 『日本会議の全貌 知られざる巨大組織の実態』

右翼団体の要求を連携する国会議員が取り上げ、それが国の政策として実現されるという恐ろしい構図がつくられているのである。(p.99)


確かに日本会議のような無茶苦茶な主張をする団体の要求が政策として実現されるルートが存在することは極めて憂慮すべきことだが、本書に足りないのは、このような手法を使う日本会議の勢力に対してどのように対抗していくべきかという実践的な見立てがないことであり、そもそも、そうした姿勢が希薄であると感じられる。

国会議員と連携して自らの主張を通していこうとすることやロビー活動をすること自体は代議制民主主義のルールとしては何ら問題のない行為ではないか。問題のある主張を通させないようにする方法やそれに反対する勢力をどのようにして政治力として動員していくのかということを左派やリベラルには考えて欲しい。むしろ、日本会議が「成功」した方法を昔の左翼から学んだのと同じように、日本会議の方法の「良いところ」を取り込んでいくような姿勢が必要ではないかと思うのである。


山谷正 『さっぽろ歴史なんでも探見』

 北海道に玉葱が入ってきたのは明治4年(1871)、開拓使がアメリカから輸入した種子を札幌官園(現在の北区北6条西6丁目付近)で試作したのが始まりで、その後札幌村でも小規模の玉葱栽培が行われるようになった。(p.85-86)


北海道ではなく日本全体で見た場合の玉葱の導入はどうだったのだろう?

西洋野菜の日本における普及は、食文化の歴史的展開を見る上で興味深いテーマだと思っているが、なかなかこうしたテーマを掘り下げて語ってくれる本がないのが残念である。



 昭和17年(1942)、当時の軍が農地約250㌶を買い上げ、学生や市民と強制連行の朝鮮人労働者を使って陸軍飛行場として建設させたものだ。そのため、太平洋戦争末期には米軍飛来機の攻撃目標にされ、爆撃をうけたこともあった。(p.89)


札幌の丘珠空港についての記述。軍事に関わると攻撃を受ける。広島や長崎が原爆投下の対象となったのも同じ理由が含まれていることは忘れてはならない。



 この建物は大正以降に流行したマンサード屋根を使った洋風住宅の先駆けとなったもので、大正2年(1913)に現在の北区北12条西3丁目に建てられた。(p.135-136)


現在は芸術の森に移築された有島武郎の邸宅についての既述。マンサード屋根が大正以降に流行した理由はなぜだろうか?

この時期のマンサード屋根と言えば、明治39年の旧日本郵船小樽支店が想起されるが、この建物はその近くに建つ建物に強い影響を与えたようで、いろいろな建物がマンサード屋根になっている。また、明治42年の古河記念講堂もマンサード屋根である。このように北海道の明治末期には、マンサード屋根がある程度使われ始めていた。大正期という中間層が育ってきて生活が洋風化していった時期に、個人邸宅にも使われるようになったということだろうか?



 しかし、簾舞地区の本格的な開拓は、明治21年(1888)に旧札幌農学校第四農場が開設された時に始まる。(p.139)


第四農場が南区にあったのは何かで読んだことがあるが、簾舞地区だったのか。跡地は現在、何になっているのだろう?



 昭和30年(1955)に旧琴似町と篠路村が札幌市に合併されたが、この頃から新琴似、屯田、篠路地区の市街化が進み、それまでの農業や酪農地が次第に姿を消していった。(p.150)


第二次大戦後の復興から立ち直り、高度成長へと移る頃、札幌が大きく変わっていったことが分かる。札幌の発展と反比例するかのように小樽の斜陽化が進む。これは一体の現象であろう。



 かつて帝国製麻琴似製線工場があり、麻布の生産が行われていた麻生、亜麻事業の名残が町名になっている。
 昭和53年(1978)、地下鉄南北線(北24条~麻生)が開通してからは急速な発展をとげ、麻生駅周辺は一大商店街となった。(p.163)


麻生の地名は確かにアイヌ語っぽくないが、その土地で行われていた産業が「そのまま」地名になるのが面白い。


権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その2)

 また、政府規模の国際比較で押さえておいてもらいたいことは、図表54のように、基礎的なインフラが整備された後は、政府の規模を大きくしていくのは社会保障になるということです。
 これは動かしがたい事実でして、結局、小さな政府なのか、大きな政府なのかは、「貢献度」に基づいて市場が分配した所得を「必要度」に応じて分配し直している度合いが小さいか、大きいか、家計における人々への必要の充足を個々の家計の責任に強く求めるかどうかできまっているわけです。そして日本は、社会保障が小さいだけではなく、少し信じられないかもしれませんが、社会保障以外の政府支出も小さな国であるわけです。
 こう言うと、「だって公務員が多くて、ムダ遣いしているという話が多いじゃないか」という話になります。そこで、国際比較ができる形にOECDがまとめたデータを見れば、日本の「労働力人口に占める公務員の割合」は、図表55の一番右、すなわち最も少ないことが分かります。このあたりのことを詳しく分析した本として、前田健太郎東大准教授が2014年に上梓された『市民を雇わない国家――日本が公務員の少ない国へと至った道』などがあります。(p.124-125)


ここに書かれている基本的な事実は、私としてはほぼ「何を今さら分かりきったことを…」といった内容だが、社会保障や財政に関する問題が政治利用されており、厖大な「印象操作」が行われているため、あまりまともにこうした問題を調べたことがない人にはこうしたことをきちんと伝えなければならない状況となっている。

なお、『市民を雇わない国家』は面白そうなので読んでみようと思う。



そして厚生年金の適用拡大は、基礎年金全体の給付水準の引上げにも寄与することが、2014年(平成26年)の財政検証で明らかにされました。その理由は、厚生年金の適用拡大が進むと、数が減った第1号被保険者1人当たりの国民年金積立金が増えるからです。(p.153)


なるほど。厚労省が適用拡大に向けて動こうとしている気配があるのはこうした理由があるからだったのか。政府の動きはいろいろと胡散臭いものが多いが、この動きは推進してよい方向と見ておく。



 民主主義社会においては、そうした合理的に無知であることを選択した有権者の耳目にまで情報を運ぶコストを負担できる者、すなわちキャンペーンコストを負担することができる者が多数決という決定のあり方を支配できる権力を持つことができます。そしてキャンペーンを通じて有権者の耳目まで情報を伝達するコストの負担は財力に強く依存します。資本主義社会の下で財力を持つ集団は経済界ですから、民主主義というのは、経済界が権力を持ちやすく、そこでなされる政策形成は経済界に有利な方向にバイアスを持つことになるという民主主義の特徴を、僕は「資本主義的民主主義」と呼んできました。(p.181-182)


様々な政府による規制を緩和したり、資本移動のグローバル化を進めると、こうした経済的に豊かなアクターたちはより一層有利な条件を獲得できる。すなわち、デモクラシーの方法に基づいて権力を自己の利益のために利用できる度合いが高まる。これにより中間層以下の人々の生活は苦しくなるが、政府はこうした人びとの役には立たない。こうして「現在の政治体制」への不満が高まることで、ポピュリズムないし極右ポピュリズム政党の台頭(ヨーロッパ、アメリカ、日本など)をもたらしている。



もし、余命幾ばくと宣言されていない人が、当面の生活費を工面する方法があるのならば、可能な限り遅く受けとりはじめることをお勧めします。70歳で受給しはじめる年金は、60歳で受給できる年金額の約2倍になり、それを亡くなるまで受け取ることができるわけです。(p.188)


年金受給開始年齢をどう考えるかという問題について参考になった。年金が保険であることについて理解しておく必要がある。



 年金受給権のある人には、そのいくぶんかは生活保護の補足性の原理から外すということである。現在の生活保護制度のもとでは、年金収入があればその分は保護費が減らされる。結局、未納者と同じ生活水準となり、過去において保険料を納付したり免除手続きをとったりしてきた意味がなくなってしまう。(p.221)


なるほど。興味深いアイディア。ただ、生活保護の最低生活費は(世帯の人数にもよるが)水準が高すぎるので、その水準を少し削った上で基礎年金満額受給者の生活費は現行の最低生活費を若干上回るといったような設計が良いのではないかと思う。


権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その1)

 でも残念ながら、日本にはフュックスやスティグリッツのような、社会保障を論じることができる一流の経済学者がいなかったように思えます。そのため、社会保障を論じる上で極めて重要である制度や歴史を知らないままに、経済学者が社会保障の世界に参入してきたために社会保障のまわりの議論が荒んでしまいました。それゆえに、きわめて容易に政治家たちが政争の具として社会保障を利用しやすい環境が生まれてしまったように思えます。この10年、日本の社会保障はこれ以上ないほどに政争の具とされてきました。その政争の過程では、現在の制度が国民に憎悪の対象として受け止められるように政治的に仕立て上げられていくわけですから、その時代に生きていたみなさんの意識の中には、社会保障へのいくつもの誤解、そうした誤解に基づく制度への憎しみが深く刻まれていったのではないでしょうか。(p.xii)


社会保障に限らず、税や官僚(公務員)、さらには行政全般に対して憎悪を生み出すような誤解と無理解が横行するようになっているのが日本の社会の特徴ではないかと私は考えている。著者が社会保障に対して指摘するように、より広く行政のあり方全般に対して議論が荒んでおり、政争の具にされやすい環境にあると思う。

こうした諸問題に対して正しい理解を広めるにはかなり長い道のりが必要であるように思われる。



 「扶養負担を表す指標――所得というパイを何人で生産しそこで生産されたパイを何人に分配するのかを表す指標――として最も適切なものは中高校生の教科書に図示されているような65歳以上の高齢者に対する65歳未満人口の比率ではなく、就業者1人当たりの人口であるということは「論理的、学問的にはすでに決着がついている」」と書いています。(p.2-3)


確かに。65歳以上であっても働いている人が多ければ、単に65歳という年齢で区切っても意味はない。



(前略)質問している記者は、207兆円の1割から2割、すなわち約20.7兆円から41.4兆円、1万円の束で207キロメートルから414キロメートルに関する質問をしていると思うのですけど、いつの間にか、50センチ、すなわち5,000万円の話になっているのが分かると思います。
 ……(中略)……。日本に蔓延している政府不信、官僚不信の源には、こうした「計数感覚」というのが関わっているわけでして、計数感覚というのは我々国民が、生活や社会保障を政治から守るために大切なセンスであるとも言えます。(p.33)


全く同感である。私が想起する所では、例えば何年か前に「事業仕分け」とか(霞が関)「埋蔵金」という言葉が流行ったことがあった。あのときに巷にあふれた議論は「計数感覚」が欠如した議論の典型であろう。あの時、私は例えば「埋蔵金などない」という議論をしていたが、誰もまともに取り合わなかったように思う。今から思い返して、何かものすごい「埋蔵金」が見つかったと言える人はいるだろうか?



 もっとも、北欧のように租税への依存が強くても社会保障の給付が安定しているところがあるではないかという意見もあります。彼の国とわが国の違いを言うとすれば、北欧などは、財政支出の中でも生産関連社会資本より生活関連社会資本を日本よりも重視する特徴があるわけですが、それは日本よりも労使関係における労働側の力が強いことが原因であったりもするわけです。(p.55)


この指摘の意味は最初よく分からなかったが、こういうことだろうか?生産関連社会資本より生活関連社会資本を政府が重視することと、労使関係との関係は、労働側と使用者側の直接の交渉力の問題というよりも、労働側と使用者側それぞれの政府に対する影響力の強さがどの程度あるかが、生産関連と生活関連の社会資本への財政支出がどちらの側に重点的になるかということに影響する。すなわち、日本のように使用者や資本家(投資家)が政府に行使できる影響力が強ければ、企業が生産を行うための生産関連社会資本が整備されやすい。これに対し、労働者の政府に対する影響力が強ければ、個々人の生活をより直接サポートする方向で財政支出するように働きかけるから生活関連社会資本の側により多くの支出がなされる。この点に対する説明をもう少し詳しく知りたい。



 なお、小さな政府とは奢侈品が豊富にある社会であり、政府が大きくなるにつれて奢侈品が減り生活必需品が増えていく――日本は、今でさえ「小さすぎる政府」であるため、「ある程度大きな政府」にした方が、確実に住み心地のよい社会になる。(p.89)


政府の財政規模と奢侈品・必需品の多寡という問題はあまり考えたことがなかったが、言われてみるとそうだ。例えば福祉や教育のサービスなどに財政が使われる方が、このための費用を税で徴収せずに自由に使途が決められる場合、確実にこれ以外の奢侈品に使われる分の金が発生するだろう。

日本が小さすぎる政府だというのも私も10年以上前から言い続けており、もっと財政規模を大きくした方が生活はよくなると考える点は権丈氏と同意見である。


北村崇教、本郷敏志 監修 『北海道「地理・地名・地図」の謎』

 北海道の地名の多くがアイヌ語に語源を持つことはよく知られているが、そのアイヌ語由来の地名の多くが「川」に関するものだということはあまり知られていない。これはアイヌの人々の生活の中心に「川」があったことによる。アイヌの人々にとって「川」は重要な食料のありかであり、通行のための道でもあり、地域の目印としての役割も担っていたため、その特徴を示す名前がつけられたのだ。(p.12)


言われてみれば、確かに川や水に関係する語源が多い。本書が指摘するように、「●●別」はアイヌ語の「ペツ」に由来し、「●●内」はアイヌ語の「ナイ」に由来するが、いずれも川である(ペツの方が比較的大きな川で、ナイは小さな川を指すことが多いらしい。)。



 1890(明治23)年に、現在の砂川・歌志内に奈江村が設置されているが、同じころ、砂川がオタシナイと呼ばれていたという記録も残っており、1891(明治24)年に北海道庁から刊行された「北海道鉱床調査報文」のなかの地図で現在の砂川市街は「歌臼内」と表記されている。音訳と意訳の両方が現在の砂川市を指す名称として使われていたのである。音訳と意訳を使い分けるようになったのは1891(明治24)年の鉄道開通の際に、砂川駅と歌志内駅が設置されたのがきっかけである。(p.36)


砂川と歌志内は「オタウシナイ」の意訳と音訳であるという。鉄道の駅が地名を決めるというパターンが結構見られるようだ。北海道の場合、開拓の進展と並行するようにして鉄道が普及していったため、地名をつける時期と鉄道の駅を設置する時期が重なっていたことが駅名が地名を確定させる効果を持ったのではないか。



1874(明治7)年に制定された屯田兵制度は、明治維新後の廃藩置県で失職した武士たちの救済策でもあった。そのため屯田兵への応募は当初士族出身者に限られていたのだ。士別は、この屯田兵が開いた最後の町なのである。(p.38-39)


武士が開いたから「士」をつけているという説。



 曽田氏は北海道の北見・札幌、千葉、長野、岡山の五ヶ所で栽培を試みた。そのうち札幌で育てたラベンダーが発育状態や色、香り、すべてにおいて最良だったために、1940(昭和15)年に、札幌市南区南沢に農場を作って栽培を開始したのである。つまり、ラベンダー発祥の地は、富良野ではなく札幌だったのだ。
 農場設置から二年後、曽田氏は日本初のラベンダーオイル抽出に成功している。
 戦時中は、食糧増産のため、多くの畑が転作を余儀なくされたが、戦争が終わると、ラベンダーオイルの生産が本格化し、南沢のラベンダー園には周辺から多くの見物客が訪れるようになったという。
 やがてラベンダーの苗は、富良野をはじめとする北海道全土に移植され、北海道のあちこちで花を咲かせるようになった。ところが、昭和40年代にラベンダーオイルの輸入自由化が決定すると、ラベンダーオイルの価格は急落。ラベンダー園は次々と閉園に追い込まれてしまったのである。
 札幌の南沢ラベンダー園も1972(昭和47)年に閉鎖され、富良野のラベンダー園も、わずかひとつが残されるのみだったのが、1976(昭和51)年、国鉄(当時)のカレンダーに富良野のラベンダー畑が採用されたことで一躍その存在が全国に知れ渡り、多くの観光客が訪れるようになったのだ。以後、富良野ではほかのラベンダー園も復活し、今では観光の目玉となっているのである。(p.48-49)


ラベンダーを栽培してオイルの生産をしていたが輸入自由化でラベンダー畑が閉鎖されていく中、国鉄のカレンダーをきっかけに富良野のラベンダーが観光産業としてブレイクしたという流れは興味深い。



 しかし、同じように欧米に倣ったとはいえ、札幌と旭川や帯広では、街の様子が少し違っている。旭川や帯広には、碁盤の目のように南北・東西に伸びた道路とは別に、斜交する道が組み入れられているからだ。
 この違いは、札幌の建設を担当した開拓使判官の島義勇が、当初、中国の長安や日本の平安京のような東洋風の街をイメージしていたことによる。ところが、島は1870(明治3)年に罷免され、当時開拓使のトップだった岩村通俊がアメリカ式の都市計画を推し進めた。そのため、札幌は、東西路は「南一条」、南北路は「西一丁目」といった京都風の名称がある一方、当初は道に「札幌通」や「石狩通」といった名前をつけるアメリカ風のネーミングが採用されるなど、和洋折衷の様相を呈していたのである。
 一方、旭川や帯広は、全面的にアメリカの都市をモデルとして造られた町だ。それは、これらの町を計画したのが、アメリカのミシガン大学、ニューヨーク大学で学んだ経歴を持つ時任静一という人物だったからである。(p.86)


これも面白い。「札幌通」などの名称が「アメリカ風」というのは今まで気づかなかった。



 北海道は炭酸飲料の消費が非常に多い土地である。2008(平成20)~10(平成22)年の一世帯当たりの炭酸飲料の年間消費額は、札幌市が4165円で全国二位。全国平均の3276円を大きく上回る結果である。(p.136)


これは何故だろうか?



 明治はじめの開拓期、多くの欧米人が開拓に協力するために北海道を訪れている。その影響で札幌近郊ではキリスト教がよく広まっていたという。そのため、キリスト教由来の行事であるハロウィーンと七夕が混ざり合って「ろうそくもらい」の行事ができあがったのではないかというわけである。(p.138-139)


興味深い説。



 そもそも北海道の主要道路は、未開拓地を整備していった関係で、家々が集まり町になったところに道路をつくったのではなく、道路をつくったところに人や家が集まって町を形成してきたという歴史がある。そうした事情から、北海道には広くてまっすぐな道が多いのである。(p.166)


なるほど。



とくに上川方面の開拓を早く進めたいという目論見があった北海道庁では、上川方面の開拓をスムーズに進めるためにも上川道路(国道12号線)の建設が急務であると判断したのだ。こうして樺戸集治監の囚人500人が動員され、国道12号線の原形となった上川仮道はわずか95日間で完成している。(p.167)


思うに上川方面の開拓を早く進めるというのは、北海道という島の支配を固める(ロシアの南進に備える)にあたっての軍事的な必要性があるという判断に基づくものと思われる。なお、囚人労働が北海道の開拓でもそれなりに多くあったということはよく銘記すべきことである。