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新谷恭明、折田悦郎 編 『大学とはなにか 九州大学に学ぶ人々へ』(その2)

 帝国大学を頂点とする日本の高等教育システムには、近代国家の建設・発展にとって有用な指導的人材を育成すること以外には、これといった有力な理念が存在しなかった。キリスト教的な「人間救済」の理念や、19世紀的な「自由な精神による真理の探究」の理念などは、当時の日本人には疎遠なものであった。また欧米とは異なり、「国家があってこその大学」という観念が支配的であった。
 そうした背景のもとで、近代国家の建設・発展にとって有用な学問として、科学技術系の学問が重視され、高い威信をもった。理学・工学・医学などである。それらはもっぱら実用学として理解されていた。東京・京都以降に作られた後発の帝国大学がみな、科学技術系の高等教育機関として設立されたのも、そうした学問が国家的に重視されたことが背景にある。(p.33)


「国家があってこその大学」という観念は、もともと大学というものが教師や学生の自発的な組合であったこととは全く異なるものとして輸入されたことを意味する。政府が大学を設置することになると、当然に政府にとって重要な学問を教える場とされていくことになり、戦前の日本の場合は科学技術系の高等教育機関が設立されていくことになったわけだ。ただ、東京帝大の場合は法学も重視されていたように思われる。

いずれにせよ、「自治から遠い大学」ということは言えそうである。



 さて、高度経済成長期になると、若者が大学に殺到するようになり、日本の大学教育はエリート段階からマス段階へと移行した。しかし激増する学生を収容する上で中心的役割を担ったのは私立大学であった。旧制大学時代においては国公立大学が私立大学よりも学生数において優位にあった。新制大学時代になると学生のなかで私立大学在籍者が多数派を占めるようになるが、それでも高度成長期が始まったばかりの1955年には、国公立と私立の学生数の比率は約2対3であった。それが高度成長期が終わる1970年には約1対3となり、私立大学の圧倒的な量的優位が確立した。そしてその後もこの約1対3という比率は変わっていない。
 そうした私立大学優位の構造がもたらされた基本的原因は、大学進学希望者の急増に見合うような大学定員拡大政策を政府が実行せず、無策のまま状況を放置したことである。(p.34-35)


日本の教育予算は少なすぎる。そのことが家計が大きな教育支出をしなければならないことの要因となっており、経済格差が教育格差に直結し、それが世代を超えた経済格差の固定化へと繋がっていくという構造の一因となっている。



 第三に、大学の教育内容が空洞化しているにもかかわらず、それを卒業することは比較的簡単である。学生が必死に勉強しなくても容易に単位を取得でいるような仕組みになっているからである。日本の学生は多くの場合、授業に何度も欠席しても、通り一遍の期末試験を受けるだけで単位を取得できる。それに対してアメリカでは大量の宿題が課せられ、単位認定も厳しい。週45時間労働の原則を大学生にも当てはめるというのがアメリカの基本的考え方である。その結果、アメリカの四年制大学では、四年間で卒業できる者の比率は約60%である。それに対して日本の学生の「サバイバル・レート」は約90%に達する。このように成績評価制度がいい加減であるため、日本の大学の卒業証書は、その知的能力の品質保証書としては社会的に通用しない。「優」「良」「可」の成績評価もあまり当てにならない。そこで企業は、入学試験で発揮した能力を信用して、有名大学卒業者を優遇する傾向がある。(p.37)


大学の成績評価制度がいい加減すぎるというのは、私自身が大学に入学したその日(大学の授業科目について評価の甘辛をまとめた表が先輩たちにより流布していた)から実感したことであり、大学に入った後もあまり大学の公式カリキュラムでの勉強には意味や価値を見いだせないことに繋がっていたように思う。(頑張って身に着けたものがあっても正当に評価されるという見通しがないのであれば、最低限の労力で単位を取得するというゲームをする方が合理的だという判断に流れることになる。)

大学の卒業証書が知的能力の品質保証書として通用しないため、企業は有名大学卒業者を優遇することになるというのは、なるほどと思わされた。



このうち講座制は、講座担当者に対して職務給(本俸の4~5割)の上乗せを保障する一方で、教授の専攻責任(専門分野)を明確にしようとするものであった。同時に明文化された教授会とこの講座制は帝国大学の自治の根幹をなす制度となり、後年惹起する大学自治問題(例えば、東京帝国大学での戸水事件、京都帝国大学での沢柳事件、滝川事件等。なお、これらの自治問題については第七章の荻野喜弘「日本における大学の自治」を参照)でも、大きな役割を果たすことになる。(p.52)


講座制は講座担当者の給与にまで関係していたとは驚いた。現在はどうなのか?



 なお帝国大学の特権的地位は、法科以外の分科大学にも見られ、例えば文科大学、理科大学出身者は、中等学校(旧制中学・高等女学校)や高等学校・専門学校(旧制)教員の供給源として大きな力を持った。(p.53)


帝国大学(東京)の国家主義的な傾向を考慮すると、こうした教員の供給源となったことは、戦前の教育に国家主義的な傾向を与える要因の一つとなっていた可能性がなかったのかという疑いを私は持ってしまう。



 なお、帝国大学は内地・植民地に広大な演習林を所有していた。これらも帝国大学特別会計法の基礎になったといわれている。(p.63)


北大の歴史を見ていると演習林はあまり登場せず、農場が重視されることが多いが、確かに演習林も重要かも知れない。



アジア進出を睨んだ国家目的は農学部設置以前の1912、1913年に大学直属の演習林が樺太・朝鮮・台湾に設置されていたことによく示されている。こうした国家目的と地域社会との要請とが結び付いた農科大学は1917年に福岡県のおよそ135万円の設立寄付金によって実現することになった。(p.159)


九州帝国大学の農科大学の設立の経緯だが、いくつか興味深い点がある。例えば、アジア進出という政府の意向が関係していること(札幌農学校の設置もロシアの南下に対抗するための北海道の防備の必要性が政府にあったことと重なる)、国立の大学であるのに国費ではなく福岡県の寄付金によって設立されているという財政面での中央政府の渋さ(東北帝大や九州帝大が設立されるときも古河財閥などの寄付が必要だったことが想起される)など、国策で設置する割には政府が金を出し渋るのは一体どういうことなのか?



 九州帝国大学は医科大学設置の時に九州・東北二大学設置が政治問題化したように、帝国大学であると同時に生まれながらにして地方大学であった。そして九州大学はこうした地域の期待によく応えてきた。戦前だけでなく戦後においても地域社会のために九州大学の果たした役割は大きい。
 学生の出身地を見ると、設立当初(1911年)の入学者こそ九州地方は31%であるが、昭和戦前期は九州地方が50%強(うち福岡県がおよそ半数)を占めるようになった。戦後新制大学になるとこの割合は著しく増加する。1951年では福岡県だけで58%を占め、その他九州が34%を占める。この傾向はその後若干低下するが、1998年でも福岡県39%、その他九州が37%を占めている。この割合は九州帝国大学と新制九州大学が地域社会の教育に果たしている役割を示している。(p.160)


九大の九州出身者の割合の多さに驚く。北大の場合、北海道出身者は半分弱程であり、関東や近畿出身の学生が25%くらいはいる。東北大では東北出身者は4割程度で、関東(3割)と中部(15%)の学生が多いようだ。学生の出身地は卒業後の学生の居住地(勤務地)にも影響がありそうなので、そのあたりとも絡めて調べてみると面白いかもしれない。



 ちなみに、外国と比較してみると、実は、大学入学者の選抜方法が日本ほど多様化したところはない。ヨーロッパ諸国は基本的に中等学校(高校)の卒業資格試験の成績で入学の可否が決まるし、多様化しているといわれるアメリカでも、基本的にはハイスクールの成績か、それに共通テストの成績を加えた学力評価だけで入学者を決定している。
 では、多様化にはメリットがあったか?天野氏は、答えはNOだという。第一に、それが過熱化した受験競争を冷却する上で大きく寄与し始めたという兆候はほとんど見られない。逆に、多様化でチャンスに恵まれた大都市部の、経済的にも恵まれた階層の人々の競争の過熱化に拍車をかけた面すらある。第二に、多様化は、入学者の学力偏差値による大学間の威信の序列を突きくずすことにも成功していない。それは、推薦入学がほとんどの大学で一般入試の補完的役割しか与えられていないことに象徴的に現れている。
 他方、多様化は深刻なマイナス効果も生んでいる。……(中略)……。最後に、⑤入試方法の多様化の結果、初等・中等教育の質が低下し、ひいては大学生の学力が低下する危険性が、もっとも懸念されるマイナス効果である。……(中略)……。その事情が一変し、早くから受験に関係ない科目を「棄てる」という履修態度が一般化しつつあるといわれる。多様化の名の下に、全教科を満遍なく学習することを求めないで本当にいいのだろうかというわけである。(p.195-196)


受験の多様化は百害あって一利なしというのは自論と一致している。



なお、入試制度の歴史に関心のある読者にはぜひ「竹内洋『立志・苦学・出世――受験生の社会史――』」を読んでみてほしい。本書には単なる制度の歴史の叙述を超えて、「受験」という制度が日本の近代において持った社会的意義や受験生という一種の社会階層の精神・気質の時代ごとの変化が見事に描かれており、大学入試制度の歴史を考える上でとても有益である。(p.197)


読んでみることにしたい。


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新谷恭明、折田悦郎 編 『大学とはなにか 九州大学に学ぶ人々へ』(その1)

 そうしたテキストは、講義形式(講読と呼ばれた)と、演習形式(討論と呼ばれた)によって、口述で教えられた。安価な紙も活版印刷術もなかった当時のヨーロッパにおいて、口述以外の教育方法は現実的にあり得なかった。(p.19)


中世のヨーロッパの大学における教育の状況。ヨーロッパに限らず、口述や書物の暗誦などが学習内容をなしていた時代や地域は多いが、紙や印刷術がないという前提の下では、こうした方法以外には有力な選択肢はないため、こうしたところに落ち着くわけだ。なるほど。



 そうした近代科学の建設者たちの活動は、本質的に大学の外部で行われた。大学教授もメンバーとして関与したが、彼らも研究に関しては、私費を投じて自力で行い、アカデミーや私的サークルで成果を発表する点において、在野のアマチュアと全く変わらなかった。このように大学は近代的学問の研究や発表が行われる場ではなかった。大学は研究後継者養成機関としての役割も果たさなかった。大学のカリキュラムは、旧態依然としたスコラ的な伝統を守り続けたのである。大学が近代的学問を自らのなかに取り込み、その研究・教育の中心地となるのは十九世紀のことである。(p.22)


19世紀における大学の変化その社会的な背景、さらに、そうした変化を語る前提知識としての18世紀以前の大学における研究や教育について詳しく知りたい。



また大学設置者(領邦諸国家のちに帝国)は、特別の予算を与えるための制度的枠組みとして、「ゼミナール」(人文学・社会科学系)、「インスティトゥート」(自然科学系)、「クリニック」(医学系)を設置した。(p.23)


19世紀のドイツにおける変化。大学が政府的なものをパトロンとするようになり、予算を受けるための制度的な枠組みとして、ここで語られているような制度が整備されてきたという側面もあるということか。研究や教育のための必要性からこうした制度が確立したのか、予算のための機関として確立したのか、こうしたあたりの歴史的経緯を知りたい。



 これに対してアメリカでは、実用学はほとんど抵抗なしに大学に入り込むことができた。実用学の大学における普及に大きな役割を果たしたのが、1862年に制定されたモリル法である。それは連邦政府が大学に土地を贈与することを定めた法律で、これに基づいて多くの州立大学が設立された(それらを土地付与大学と言う)。それらの多くは農学や工学のような実用学中心の大学として発足した。(p.24)


アメリカではヨーロッパと異なり実用学が抵抗なしに受け入れられたということはしばしば語られるが、ここで述べられているアメリカの州立大学の成立過程とその「実用学中心の大学」という性格は興味深いものがある。


横尾壮英 『中世大学都市への旅』(その2)

 フェローがチューターを兼ねるというのは、学生が教師を兼ねるということである。……(中略)……。
 こうしてイギリスの学寮は、学生の教育の場となると同時に、大学教師の養成の場ともなった。ドイツやフランスでは、やがてハビリタティオンやアグレガションといった一種の教員資格試験が大学教師の関門として重要な役割を果たすようになるのだが、そういう動きとはかなり異なって、イギリスでは、学問をする者が学寮で後輩を相手に教育実習をくり返すことによって、教師としての修練を積むという方式ができていった。それは、ベルリン大学の創設時にフンボルトなどが強調した理念とは類を異にする、研究と教育の相即だったといえるかも知れない。
 それにまた、チュートリアルは教師一対学生一の最も小規模な教授形態であるから、大陸部の講義を主とする高等教育とはおよそ対照的な高等教育が、イギリスで展開する要因となったともいえるだろう。(p.84-85)


チューターに報酬が支払われるようになるのは14世紀末頃で、それ以後イギリスの二大学で急速にチューター制が広まったという。後のドイツで発達するゼミナール形式とチューター制には共通点があるように思えるが、学生が教師を務めるという点がチューター制のポイントの一つであるように思われる。



教師は、集まった学生から聴講料をかき集める自由業的な職業から、一定の給与を保証されて、その代わりに講義をする官吏へと転じていくのである。
 ……(中略)……。
 ところで、サラリー制がもたらした最も大事なことの一つは、教師の人事権の移動だろう。もともと学生がもっていた教師の選考権が、新しく金を提供するようになった公的な機関や権力者の手に移っていったのである。……(中略)……。
 このころのサラリーというものは、今と違って格差を当然のこととしていた。……(中略)……。
 ……(中略)……。その結果、大学の教師の間にいわば少数の特権階級と、数多い薄給の教師群とが対立するような構図ができていった。サラリー制は教師の階層化をも生み出したのである。(p.133-139)


教師の収入の変化は、大学の資金を誰が出すかという問題と連動している。学生と教師の組合から都市や王侯や政府の機関へと変わる中で、学生よりもパトロンの方が権力を強めていく流れが見て取れる。



少なくとも13世紀の段階では、イタリアでもフランスでもイギリスでもスペインでも、大学の設立権は都市にあるとみなされていた。
 しかし、そういう常識を破るような男が現われたのも、かなり早いことだった。その男は神聖ローマ皇帝として有名なフリードリヒ二世だ。……(中略)……。そして、大学団と都市が結びついてできる大学、という旧来の形にとらわれずに、人為的あるいは政策的に、自分の町ナポリに大学を作ることにした。
 それは、ボローニャからパドワが分かれてできた二年後の1224年のことだった。
 このフリードリヒ二世のやり方は、それまでの大学作りに一種の地殻変動をもたらした。彼のまねをする者がすぐに現われた。ローマ教皇の手でトゥールーズの大学や、ローマの教皇庁の大学が作られたのはそれから間もないことだった。
 教皇や皇帝といったヨーロッパの支配的な権力者が大学を作るのに、だれも異議を唱えることはできなかった。その結果、都市が大学を作るという方式と、教皇や皇帝が大学を作るという方式が両立することになった。そして、しだいに都市が作る場合にも教皇か皇帝の許可がいる、そのお墨付きがないと具合が悪いというふうに考えられるようになった。大学の設立権と認可権の分化がはじまったのである。(p.229-230)


ここではフリードリヒ二世やローマ教皇といった個人が下した決定が重要なものとして描かれているが、彼らに大学を設置することに意義があると考えさせたのは、どのような社会的な背景があったからだろうか、ということが気になる。

支配の道具としての法律の必要性が高まってきたということだろうか?もしそうなら、法律の必要性が高まったのは何故だろうか?13世紀世界システムが成立したことで経済活動が活性化し、この過程の中で貨幣による取引が増大したことが関係しているのだろうか?



 その先輩格の中世大学としては、ボローニャとパリが代表的な存在で、前者はいわゆる学生大学、後者は教師大学の祖となり、それぞれが、大まかにいうとアルプスの南と北の諸大学に強い影響を及ぼした。また全欧的に、法学部にはボローニャの、神学部にはパリの息がかかった。
 ……(中略)……。
 たとえばヴィーンではハインリヒ・フォン・ランゲンシュタインが、またハイデルベルクではマリジリウス・フォン・インゲンやコンラッド・フォン・ソルタウが、パリ大学方式の運び屋であった。(p.242-243)


中世の大学について知るにあたって、基本となる枠組みを与えてくれている。ハイデルベルクなどドイツ語圏の大学はパリの影響が強いらしい。今まであまりパリ大学には注目したことがなかった。パリとボローニャの大学については、それぞれ掘り下げる価値がありそうだ。



家族の生活が借家でもくりひろげられるように、大学も最初のころはよその軒先や賃借りした建物で活動をつづけていた。だが、時がたつにつれてその傾向はうすれ、自前の施設を手に入れ拡充していった。まず学寮が生活と修学の拠点となり、15、6世紀からは大学としてのいわゆる本館もできるようになる。だから中世大学は、大ざっぱにいって学ぶ者の集団化→学ぶシステムの開発→学ぶ施設の確保という段階を追って、その歴史を展開したといえるだろう。
 しかしそこまでくる、つまりシステムと設備が整うころになると、人もシステムもすべてが安定して動きがにぶくなる。順調な営みに鈍さや硬直性が同居する。
 大学は、本来自由に生まれて自由に消えるものだった。それが教皇や皇帝という権力のお墨付なしには設立できなくなったし、廃止も簡単にはできないような機関となった。……(中略)……。
 こうして大学は、時とともに国境のなかに自己を閉じるようになっていった。(p.253)


初期の頃の大学が自前の施設すら十分に持たないものであり、自由に生まれ自由に消える、まさに自発的な結社であり組合だったという認識は本書から得た収穫だった。現代の大学のありようが、こうした過去の姿と対比することでより明確に浮かび上がると思われる。


横尾壮英 『中世大学都市への旅』(その1)

中世大学は、最初は、土地も建物もない人間だけの大学だった。
 やがて、そういう人間だけの大学、集団としての大学が、しだいに建物を入手する時代が来るのだが、そうした建物をもつ時代になっても、それらの建物がある敷地にまとまった形で存在したわけではない。大学の所有にかかる施設は、町のあちこちに民家と混って散在するだけで、けっして○○通りの○丁目あたりに――しかも塀をめぐらして――集中的に存在するのではなかった。(p.37)


12世紀にヨーロッパの大学が成立した頃は現在とは大きく様相を異にしていることがわかる。土地や建物を持たない「人間だけの集団としての大学」、そして土地や建物を取得するようになっても、まとまったものとして取得したのではなかった。貴族や都市そして「国家」などからの大きな財政的支援が得られる前の状態を知ることで、それ以後との変質の様子が浮かびあがあってくるように思う。



 いわゆるキャンパスというのは、ヨーロッパ起源のことばではない。アメリカの多分プリンストン大学あたりから使われだしたことばである。もともと原っぱや耕地を意味するキャンパスが大学の敷地という用語になったのは、城壁とも都市とも縁遠いアメリカの大学の環境ではじめて可能なことだった。オックスフォードやケンブリッジでさえ、そういうことばは使われなかったのである。(p.38)


なるほど。「原っぱ」が「校地(大学の敷地)」となったアメリカでこそ、キャンパス=校地という用語が誕生し得たわけだ。



 しかし14世紀になると、設立者たちの関心は、神学の助成よりもむしろ法学の助成へと移る。ボニファチウス八世とフィリップ美王の闘争以後に創設された学寮は、多かれ少なかれ世俗権と教皇権の問題、市民法と教会法を学ぶ若者のために奨学金を用意した。パリでいえばナルボンヌやボワシイといった学寮である。信頼のできる法律家や官僚を養成し確保することは、聖俗いずれの体制にとっても大事なことが年とともに強く認識された。恐らくは、今日いうナショナル・ニーズに基づく人材の養成以上にさし迫ったエリート教育の場として、学寮が新しい役割を与えられた。「学部の闘争」でも法学部が神学部に優越するようになったのである。(p.68)


中世の学問では神学が最高位にあった、といったことが(比較的通俗的な)哲学史などでは語られているのを読んだことがあるが、14世紀にはすでに法学の地位が向上していた、すなわち社会からの要求が高まっていた



 しかし、中庭を囲む建物の配置そのものは、どちらかといえば伝統的で、修道院の構造をそのまま踏襲しているように思われる。いや、修道院よりも古い、たとえばポンペイの遺跡に見られる古代ローマの住居や、ウィトルウィウスの説くギリシャの家屋とも、大いに血のつながりがあるように思われる。あるいは、中山茂の指摘するとおり、イスラム圏のマドラサとも切れない縁があるのかもしれない。(p.76-77)


ボローニャのスペイン寮についての叙述より。中庭式の建物配置がマドラサと関係があるかもしれないという指摘は興味深い。この学寮がスペインの若者のための学寮であるだけになおさらそうである。


ダン・アリエリー 『アリエリー教授の人生相談室 行動経済学で解決する100の不合理』

 私は大学院を卒業するとき、研究者としての最初の就職先にどの大学を選ぶべきかを、指導教授のジブ・カーモンに相談したんだ。教授は、五年過ごしたら今とまったくちがう人間になれそうなところに行きなさいといった。人生は学習と向上の積み重ねだから、まだ融通の利く今のうちに(私には当時まだ妻も子もいなかった)、自分の開発と成長に次の五年間を投資するべきだと。(p.18-19)


この考え方は重要。



 私がしばらく前にジーナ・フロストとマイク・ノートンと行った研究では、デート相手に関していえば、相手のことを知れば知るほど、恋愛感情は高まるどころかむしろ薄れるという結果が出た。簡単にいうと、恋人候補のことをほとんど知らないとき、私たちは想像をはたらかせて楽観的すぎる方法で情報の欠落を埋めるものの(たとえば相手が音楽好きとしか知らなければ、17世紀のバロック音楽じゃなく、自分の好きなタイプの音楽が好きにちがいないと思い込むなど)、その後実際に会ってお茶するうちに、過大な期待が砕け散るってわけだ。……(中略)……。
 恋愛の領域で得られる教訓の多くは、生活のほかの面にもあてはまる。人を雇う場合もそうだ。外から招かれたCEOは、生え抜きのCEOに比べて高い報酬を得るが、実績はむしろ低いことを示す証拠がいくつかあがっている。この場合も情報不足のせいで、期待がむやみに高まるのが原因なんじゃないかな。(p.30)


外部からのCEOの実績が低いという点はもう少し詳しく知りたい。行政や政治に習熟していない政治的リーダーの実績が期待よりかなり低い傾向が指摘できるのであれば、例えば、トランプ大統領のような反エスタブリッシュメントの風潮を背景や追い風として就任した政治的リーダーの実績がどのようなものになるのかを予想する際に有益だろう。(それよりもはるかに小物であり、小物過ぎて語る程の価値もないのだが、私の研究フィールドの一つである小樽市の市長にはこの傾向は明らかに成り立っている。)



 つまり、私たちは何か(選んだ歌など)をよく知っていると、その知識をもたない状態を想像しにくくなるんだ。これを「知識の呪縛」という。(p.49)


これは日常的によく感じる。



彼らは殺されようとしているマウスを助けるか、見殺しにして報酬を得るかを被験者に選ばせた。……(中略)……。
 実験の結果、マウスを見殺しにした被験者の割合は、個人条件(45.9%)よりも、市場条件の方がずっと高かった(二者間取引では72.2%、多者間取引では75.9%)。このことから、人は市場に集まると個人的な利益のために道徳的基準をないがしろにしがちだということがわかる。(p.52)


マイケル・サンデルの議論を彷彿とさせる実験。



 

どうしてゴシップ新聞や雑誌に人気があるのかさっぱりわからない。どこが魅力なんだろう?
デイブより



 私もよくわからないが、たぶんあの魅力は社会的協調とも関係があるんじゃないかな。私たちは社交の集まりに出ると、誰もが参加できる話題を探そうとして、天候やスポーツ、ゴシップなどのネタを選ぶことが多い。つまり、そういう場では誰もが会話に参加できりょうに、話題が自然と低俗になりがちだということもわかるね。(p.78)


なるほど。説得力がある。



「楽しい時間は経つのが早い」のは知っているけど、一週間をもっと長く感じられる方法はないものかな?
アヴィより


 ……(中略)……。
 今度旅行に行くときは、毎日ちがうことをして過ごすのはどうだろう。スノーボードをするもよし、スキーをしない日をつくるもよし、スキーのレッスンを受けたり、ソリ滑りを楽しんだり、ただスキーの道具を変えてみるだけでもいい。たとえスキーほど楽しめなくても、いろんな活動を織り交ぜることで、休暇が一つの長いスキーの経験としてではなく、多様な経験の連続として記憶される。(p.131-132)


なるほど。同じようなことを続けると、それがひとまとまりの記憶となる。多様な活動をすれば多様な経験の連続として記憶される。



損失回避は、社会科学の原理のなかでもとくに本質的で理解が進んでいる考え方で、ざっくりいうと、同じ価値のものであれば、得るより失う方が感情的なインパクトが大きいことをいう。(p.175)


公共事業について考えると、最初に大盤振る舞いをして後からそれを絞っていくと、絞っていく時に感情的な反発を受けやすい。最初は小出しにしておいて少しずつ必要性を満たしていく方が反発は受けにくい。しかし、場合によっては初動で大きな額を動かさなければ効果がなかったり、効果が小さい場合もある。このバランスをどうとるかというのが難しいところであると思われる。(最初から撤退の時期などを決めておくというのは一つの知恵かも知れない。)



 フェイスブックやツイッター、メールなど、インターネットで情報をやりとりする人は、なぜネット上で低俗な行動をとりがちなんだろう?
ジェームズより


 ……(中略)……。インターネットをとおすと、ふだんいかに内容の乏しいやりとりをしているのかが見えやすくなるだけなんだ。(p.181)


なるほど。確かにそういう面はありそうだ。



社会規範について覚えておくべき重要なことは、ささいな違反をした人のことも容赦なく批判する必要があるということ。違反が繰り返されるうちに規範そのものが変容し、望ましくない新しい規範に誰もがとりこまれるおそれがあるからだ。(p.212)


ヘイトスピーチや歴史修正主義などにこのことは非常によくあてはまる。もっと強くこれらは批判されるべきである。



 自分の経験したことをよく覚えている人ほど、人生に対する満足感と幸福感が高いことがわかっている。(p.235)


経験を覚えていると、その記憶を思い出すことでも幸福感を感じられるということも、その要因だろうか。このためには新しい経験を積み続けることが有効であるようだ。



運のいい人はいろんなことをしょっちゅう試していて、頻繁に試す分、成功することも多いんだ。……(中略)……。
 ……(中略)……。つまり運のいい人っていうのは、何かを試す回数が多いだけじゃなく、うまくいかなさそうな道をすばやく切り捨てて、有望な道に力を注いでいるんだね。(p.239-240)


これに当てはまるような人が確かにいる。次々とアイディアを出していろいろなことを試している。試行錯誤を重ねる中で研ぎ澄まされた感覚で事の軽重を直観的に判断している。そんな人に見習うべき点は多い。



 いったん環境が決まると、私たちはおおむねそれに見合った行動をとるようになる。とはいえ、現実の私たちは日々ドーナツの誘惑にさらされる必要はない。職場からドーナツ売りを締め出すことはできるし、より一般的にいうと、失敗の可能性を減らすように環境を設定することはできるんだ。
 私たちの自由意思が宿るのはそこだ。自分たちの強みを活かし、より重要なこととして、弱みを克服するような方法で環境をデザインする能力にこそ、自由意思がある。(p.244-245)


環境のコントロールは重要だ。このことに思い至らない人が結構いる。社会科学的な知識や多様な経験を積んでいることは、環境をコントロールするための工夫を促しうる要素の一つであるように思われる。


『市民の科学 2015年第8号 責任倫理から共生倫理へ ヴェーバー生誕150年』
「現代は「エートス」を生成するか」より

 レスリスバーガーは、次のように観察を総括する。労働者たちは金銭的欲求よりも、職場における人間関係性の中で社会的承認を求める存在であることを指摘する。(p.23)


労働者たちは職場において社会的承認を求めるということは、ある意味では非常に当たり前のことではある。しかし、金銭上の取り扱いによって「インセンティブ」を与えようとする誤った方法がしばしば提唱されることによって、こうした当たり前のことが見えにくくされてしまうことがある。



「東北弁と「知性」」より

英語中心社会であるアメリカ社会では、スペイン語に対する見下しが日常的に行われている。スペイン語への見下しは、もとをただせばスペイン語圏、そしてスペイン語話者たちへの見下しが原因である(白人は、見下しとは思っていないが)。(p.124)


日本において東北弁に対してもこれと同様の見下しがあるとする点は興味深い論点と思われた。これは掘り下げて調べてみる価値がある問題であるように思われる。


上山安敏、三吉敏博、西村稔 編訳 『ウェーバーの大学論』

 ウェーバーがハイデルベルク大学に招聘されるときには、実際にゼミナールが問題になっている。ゼミナールは、自然科学にみられる研究所とともに大学の官僚制化の進行にとって推進力になっている。ゼミナールは一般の講義形式ではなく、個々人にディアローグ形式でなされ、学生が口頭で討論するユーブンクであるが、もともとこれは授業革命の性質をもっていた。18世紀後半に全ドイツに普及したこの制度は、教師養成が神学部に独占されていたのを、神学部から独立させた風潮の中で生れている。アウグスト・ウォルフが神学部とは独立して実践教育学的な方法を編み出したのである。(p.175-176)


大学の官僚制化とゼミナールとの関係というのは、一見すると見えにくいのだが、ドイツの大学では、自然科学がインスティテュートを設立しているのに対し、哲学部では教授が一人でインスティテュートを設立し、各学科がゼミナールを設置するという形をとった。こうした制度を利用して政府から予算を取ってくる。こうした一連の布置状況が官僚制化の進展を促進するものだった、といったところか。



学部は中世以来のヨーロッパ大学の組織であったし、研究所は産業革命以来の自然科学を中心とした科学の大経営化の申し子である。それがアメリカにみられる、私的基金の大学への流入によってその異質化が促進された。この「学部」と「研究所」が学界のリクルート形態として「私講師制」と「助手制」に対応していたことは、前述のことから読者も気づかれておろう。いわばこの異質の組織集団の同化する方法が模索されたのである。学部正教授の研究所所長兼任がその解決のひとつだった。(p.180)


ここで指摘されている学部と研究所の対比は興味深い。教師や学生の組合であったところから立ち上がってきた中世の大学は、「自治的な組織」であり、私講師(俸給なし、官吏ではない)はこうした伝統から出てきている。これに対し、研究所は政府からの公的資金などを受けて設立された「統治機構に組み込まれた組織」であり、国家官吏として助手から幾つかの階梯を登って主任教授へと昇進する助手制(俸給あり)は、まさにこうした成立事情と一致している。


宇野重規 『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』

 社会も人間性も複雑である。そうだとすれば、単純な原理に基づく単純な政府は、ただそれだけで問題がある。(p.56)


バークの保守主義を解説する中で出てきたこのフレーズは、恐らく、現代のポピュリズムに対する批判として述べられているように思われる。



 エリオットに代表される英国の保守主義の基盤にあるのは、このような共通感覚であり、伝統の観念であり、さらにいえばヒューモアの感覚なのだろう。逆にいえば、このような共通感覚が失われ、イデオロギーが互いに何も共有することなしにぶつかり合うとき、政治的な空白と秩序の崩壊が生じる。(p.79)


現代アメリカの政治状況はこうした秩序の崩壊に近いように思われる。



統治とは、何かより良い社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある。それぞれの個人が自らの幸福を追求しつつ、相互に折り合っていくには「精緻な儀式」が必要である。そのような「精緻な儀式」として、法や制度を提供することが統治の役割なのである。
 そうだとすれば、統治者のつとめは、人々の情念に火をつけることではない。むしろ、あまりに情熱的になっている人々に、この世界には自分とは異なる他者が暮らしていることを思い起こさせることが肝心である。(p.99)


オークショットの思想について述べている箇所だが、ここでもポピュリズムに対する批判ともなる内容が語られている。



多くの異なる言葉が出会い、互いを認め合い、そして同化することを求めないのが会話の本質である。一つの「声」が他を圧倒してしまうのは、会話ではない。(p.100)


ポピュリストや現代の日本で「保守」を名乗っている復古的反動主義者たちに決定的に欠けているものの一つは、ここで述べられているような「会話」であろう。

最近の政治の場での討論や議論を見ていると、「会話」が全く成り立っていないと痛感する。森友学園に関わる問題や自衛隊の日報の問題などを見ると、政府の側の隠蔽、誤魔化し、強弁、露骨な印象操作などは明らかに度を越えている。政権側を恐れるメディアもそれを十分追及できていない。政府に対して質問をしても、不都合な事実は隠蔽し、答えると都合の悪いことは資料がないことにしたり、答えることをせずに誤魔化したりといった対応ばかりが目につく。



現状に強い不満をもつ人間が、一定の世界観に基づいて変革を主張する。このような革新主義に対し、反発を覚える自己を認識したものが保守派となる。すなわち、保守は必ず革新に遅れて登場するというのである。
 そのような保守派はイデオロギーを必要としない。自らの生活感情に根ざして必要な改革を行えばいいのであり、むしろ「保守主義」なる大義名分をかざして自分を正当化しようとすれば「反動」となってしまう。(p.160-161)


福田恆存(つねあり)の保守主義論について解説している箇所だが、この最後にのべられているものは、まさに現代日本で「保守」を名乗る人々の多くに当てはまるものである。かつて(15年くらい前まで)「保守本流」を名乗っていた相対的に中道的な保守主義者の政治力は弱まり、現在は安倍晋三が代表的だが、復古主義的な反動主義者たちが「保守」を名乗っているが、まさにこれらの人々に、ここで述べられていることはぴったり当てはまるように思われる。彼らが名乗る「保守」とは自己正当化のための大義名分に過ぎない。



 ハイトは道徳基盤を、<ケア>、<公正>、<自由>、<忠誠>、<権威>、<神聖>の六つに分類する。……(中略)……。
 ハイトの実験によれば、この六つの道徳基盤のうち、リベラルがもっぱら<ケア>と<公正>と<自由>を重視して、<忠誠>、<権威>、<神聖>を無視しがちなのに対し、保守の側は六つをほぼ等しく扱っているという。(p.196-197)


この実験結果は、マイケル・サンデルのリベラリズム批判とも通底するものがあるように思われる。例えば、「負荷なき自己」からは忠誠、権威、神聖といったものとの関わりは剥ぎ取られている。



 背景にあったのは、過去に進歩主義のおごりや迷走を批判してきた保守主義であるが、いまはむしろ保守主義におごりや迷走が見られるのではないか、という問題意識である。(p.210)


確かに。妥当な問題意識。