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野﨑敏郎 『ヴェーバー『職業としての学問』の研究(完全版)』(その2)

 価値判断論争においては、①価値判断排除によって社会政策そのものが骨抜きにされることを懸念する社会政策学会の旧世代(シュモラーら)と、②社会政策から一切の価値判断を排除しようとする画策する「似非価値自由」論者たちと、③価値の自覚的明示と冷徹・明晰な科学研究との両立をめざすヴェーバーやゾンバルトとの三極構造がみられる。この論争の錯綜とした展開過程については、細見博志の諸論考が丹念な《交通整理》をおこなっていて有益である。(p.196)


「交通整理」は読んでおきたい。



教育の場において、教員も学生も、自分にとって都合の悪い事実(段落㉛)にこそ目を向け、どのような価値を奉ずる者でも否応なしに認めざるをえない事実認定や因果関係の認識を共有し、それを手がかりとして自分自身を相対化し、みずからの利害状況の外に立って自分の奉ずる価値を見直し、さらにそこにとどまることなく、各々がその価値に則った主張をぶつけあい、熾烈な討論を共体験することこそが、価値自由な教育・研究の内容物なのである。(p.221)


価値自由という主張から学ぶべき点のエッセンスを的確にまとめてくれている。



 「価値査定」と「価値選択」は、『価値自由論』において頻用されているが、こちらの四つの邦訳も、この二つの概念のいずれにたいしても「評価」という訳語を充てているため、大きな混迷に陥っている。(p.230)


「価値査定」はBewertung、「価値選択」はWertungの訳。前者は「事物の価値にかんする判定行為一般」であるのに対し、後者は「たんなる査定にとどまらず、実践的な性格をもつ決断」、「査定した価値をわがものとし、みずからの生の現場でその価値に則って行動すること」を指すという(p.224)。



 大学教師の知識は、どのような価値選択・立場決定をなした者にたいしても有益なものでなくてはならないという教育要求は、ヴェーバーの説く教壇禁欲の根幹をなしている。(p.230-231)


確かに。このことは意外と(?)強調されることがないように思われる。(特に古い議論に対しては、価値自由や講壇禁欲にたいして、明らかに誤った理解によると思われるものが多いと私も感じていた。)



ヴェーバーは、彼の眼前にある現実において、実際に神々の闘争が現出しているとみているのではなく、まったく逆に、「『神々』が現実には争わないことを問題としたのであり、むしろ『神々』はいかに闘争すべきか」が彼の問題関心にあった。「現実の行為者は、たとえ自己の立場が排他しあう『神々』=究極的立場の混同の上に成立していても、それを直視しようとはしない」というのが彼の批判的論点であり、1913年から1917年のあいだにみられた彼の思考の成熟によって、この闘おうとしない神々をきちんと闘わせる「価値討議」へと向かう筋道が立てられていく(矢野善郎 2002:14~17頁)。(p.239-240)


この指摘は刺激的だった。今まで読んできたものでは明らかに本書で誤っているとされる理解がまかり通っており、私もそうしたものだと思っていたからである。価値討議へと繋がっていくあたりの筋道などを本書では指摘してくれており、そうした筋道が見えることにより、(ドイツ語が読めないため検証することができない私にとっても)今まで見てきたものよりも本書のこの指摘の方が説得力があるものとなっている。



段落㉖要説(二)にしめしたヘーゲルの議論を敷衍するならば、「脱イデオロギー」をみずからの立場としようとする者は、いかなるイデオロギーをも前提としてはならないが、それはあらゆるイデオロギーから距離を置くことを意味しており、あらゆるイデオロギーから距離を置くためには、あらゆるイデオロギーに通暁していなくてはならず、つまりあらゆるイデオロギーを前提としなくてはならない。その結果、「脱イデオロギー」は、あらゆる「反イデオロギー」によって自己自身をがんじがらめに縛りつけざるをえない。「脱イデオロギー」は、こうして、イデオロギーによって拘束された自縄自縛の立場であることが暴露される。(p.259)


興味深い議論。



正嘱託教授としての活動から(1903年秋~1917年春)
 この時期の彼の境遇と立場と活動については、意外なほど知られていない。とくに、彼が、1903年秋にハイデルベルク大学を退職し、以後この大学との関係が切れたかのように誤認されてきた。(p.329)


確かに、私も退職したものと思わされていたので、本書でこの時期のウェーバーの立場についての説明を読み目から鱗という感じであった。正教授からは自発的に退いたが、正嘱託教授として講義の義務からは免れるが演習や大学運営などには関わり続けた。こうした立場などを理解していた方が、彼をとりまく状況がより具体的に理解できる。(例えば、優れた人材を大学の職に就けようと努力したりすることも、大学と関わり続けていたからこそ自然と行えるものであるように思われる。)



またオイゲン・ディーデリヒスは、1917年にラウエンシュタイン城文化集会を開催したさい、マリアンネ・ヴェーバーに招待状を送っているが、そのさい夫は度外視していた。病気のマックスは参加できないだろうと判断したためである。しかしマリアンネは、夫も参加できると返信を送り、ディーデリヒスは、あらためてマックスにも招待状を送っている(後述)。ここからわかるように、1917年は、ヴェーバーにとって、――限定つきとはいえ――公の場で活動ができるようになった重要な年である。(p.332)


ラウエンシュタイン会議への参加経緯のエピソードは興味深い。また、1917年の位置づけは妥当。



 講演会場として選ばれたのは、ミュンヒェンのアーダルベルト通15番に位置するシュタイニッケ書店内に付設されていた小ホール(Steinickesaal)である。当時、シュヴァービング地区とその周辺地域は、その独特の文化的雰囲気によって若者たちを魅了していた。(p.337)


「職業としての学問」とその再講演、さらに「職業としての政治」の講演の会場。機会があれば跡地に行ってみたい。



既述のように、禁欲的プロテスタンティズムにたいする仮借なき批判の書である『倫理と精神』が、あたかも禁欲的プロテスタンティズムを称揚する著作であるかのように偽装され、専門内への自己閉塞状況からの脱却をめざした『職業としての学問』が、あたかも自己閉塞を自他に強要する著作であるかのように偽装されてきたのである。後者の場合、尾高や出口の訳にみられる激しい改竄は、日本の社会学者・社会科学者たちの心性や自己弁明に直結していると考えられる。つまり、それは歴史的誤訳と評されるべきものである。(p.377)


「倫理」については、禁欲的プロテスタンティズムに対して批判的なものだという理解はしていたが、「学問」の誤訳には誤導された。後段で語られているのは、当時の日本の社会科学者は、自己閉塞しており、それを正当化したいという欲求があったということか。



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野﨑敏郎 『ヴェーバー『職業としての学問』の研究(完全版)』(その1)

トルストイにとって、現代科学は、細分化されたなかで、現実から超然としてみずからの職分に専念しているかのようにみせかけながら、じつはひたすら権力に奉仕する洗練された御用学問であり、これに従事する科学者は、自分がそうした現状追認の役割を担わせされていることに気づかない愚か者であるか、あるいはそれに気づかないふりをしながら仕事に没頭する自己欺瞞の主なのである。(p.84)


既存の邦訳の中では、あたかもウェーバーが専門の中に閉じこもることを推奨するかのような訳になっているのに対し、ウェーバーはこうしたトルストイの問題意識を継承しているという。



 ヴィンデルバント門下の倫理学者ヘンゼルは、1898年以降、ヴェーバーのいるハイデルベルク大学哲学部に員外准教授として勤務した後、1902年にエルランゲン大学に正教授として転出した。この講演集は、ハイデルベルク時代末期の講演に加筆したもので、その論旨は、「心性倫理(Gesinnungsethik)」と題された章をはじめとして、ヴェーバーの立論と関係が深い。ヴェーバーとこの同僚との関係は、まだくわしく研究されていないようである。(p.102)


興味深い指摘。ウェーバーと彼を取り巻く同時代の人々との関係についてはいくつかの研究があるが、むしろ広く知られているほどの人ではないような同僚たちとの関係は、しばしば指摘されるニーチェやマルクスなどに劣らず彼の思想の形成に当たって重要な役割を果たした可能性は否定できない。



 呪力剥奪は、長い歴史過程において経済外的強制が崩壊し、お仕着せの価値体系が瓦解していったこと、また人間がさまざまな束縛から解放され、自由を獲得していったことを意味する。しかしこの語は、プラスの含意を指ししめすものではなく、むしろ、そうした遺制の崩壊や束縛からの解放によって、近代社会が――また近代人が――大きな矛盾と不条理性を抱えこむにいたったことをしめすための概念だということに注意する必要がある。ヴェーバーは、近現代における呪力剥奪の深化にたいして明確に批判的な立場をとり、呪力剥奪状況からの脱却をめざすのである。(p.147)


呪力剥奪とは、しばしば「呪術からの解放」などと訳されるEntzauberungのことだが、確かに野﨑が言うようにウェーバーがこの状況にたいして批判的なのであれば、しばしば使われる解放という訳はプラスの含意を強く持ちすぎていて不適当ということになりそうである。


水島治郎 『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』

 このように既成政党・団体が弱体化し、社会に対する「把握力」が大きく低下したことは、政党エリートや団体指導者がもはや人々の「代表者」として意識されず、むしろほかの特定利益を代弁する既得権の擁護者として認識される、という結果をもたらした。政治経済エリートは「私たちの代表」ではなく、「彼らの利益の代弁者」として位置づけられてしまったのである。
 エリートに対する人々の違和感の広がり、すなわちエリートと大衆の「断絶」こそが、ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。(p.65)


団体の弱体化は、日本では、日本会議や創価学会などの宗教的な勢力の相対的なプレゼンスや影響力を高めるという意味もあった(菅野完『日本会議の研究』)が、本書が指摘するように、エリートと大衆の接点が失われることで、認識のレベルにも影響を与えているとすれば、これは想像以上に大きな変動だと言わざるを得ない。もう少しこの問題は掘り下げる価値がありそうだ。



 スイスに限らず、移民排除に賛同し、積極的に右派のポピュリズム政党を支持するのは、せいぜい有権者の二~三割である。その意味では、白い羊たちのうち、黒い羊を蹴り出そうと自分で足を突き出す羊は、やはり三匹のうち一匹にすぎないのだろう。
 しかしより重要なことは、ほかの二匹の羊が、無関心を装うことによって、黒い羊の追い出し劇を事実上支持し、そして自分が手を(足を?)出さずに済んでいることに内心ほっとしていることではないだろうか。(p.158-159)


無関心やポピュリストたちの過激な発言を訂正せずに放置していることは一般に想像される以上にポピュリズムの台頭による「多数者の専制」に手を貸すことになる。

この引用文の構図に既視感があった。何かと似ているのだろうと思っていたら、「いじめ」の問題と同じであることに気付いた。いじめに積極的に加担するのはごく一部の加害者だとしても、いじめられる被害者を見て見ぬふりをしたり、面白がって見ている多数の傍観者たちがいることで、加害者が加害者としての活動ができる面がある。ポピュリストが発する刺激的な言葉を単に面白がって消費していてはいけないということを肝に銘じたい。



 しかし今回の投票後に表出した離脱賛成者への批判的視点は、実はかつてジョーンズが『チャブたち』で赤裸々に示したような、中産階級の労働者層に対する侮りのまなざしと共通するものがあった。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 『チャブたち』を著したジョーンズは、国民投票後、ただちに『ガーディアン』に論稿を寄せた。「嘆くなら嘆くがよい――しかし目の前の大きなチャレンジに備えよう』と題する文章のなかでジョーンズは、今回の投票結果はまさに「労働者階級の反逆」だったと位置づける。そして、既存の政治が彼らの抱える不安や困窮に応えられなかったことに最大の原因を見たうえで、離脱票を投じた彼らを非難することは、「ますます事態を悪化させるだけだ」と主張する。なぜなら、「離脱票を投じた人々の多くは、すでに(傍点水島)除け者にされ、無視され、忌み嫌われてきたと感じてきた」からである。
 その彼らへの軽蔑こそが、今回の投票結果を生んだのであって、その軽蔑の念を一層強め、言語化したところで、問題は解決するどころか深刻化の一途をたどるだろう。(p.186-187)


2016年のイギリスのEU離脱の国民投票について。ここで指摘されている点は非常に参考になった。こうした置き去りにされた人々に対して、たとえ少しであっても意見や不満が聞いてもらえたと実感できるような政治が出来れば、ポピュリズムの台頭を抑制する方向に作用するだろう。


『中央公論 2017年3月号 特集 ふるさと納税の本末転倒』
特集 ふるさと納税の本末転倒 「鼎談 そして、都市の逆襲が始まる……」より

片山 それから、どこかの自治体で、「寄付していただけたら実家などの雪かきをします」というのがありましたよね。これも物欲とはちょっと違う。そういう社会貢献とか地域貢献とかに限定した制度にリニューアルするという行き方は、一つあるだろうと思います。(p.37)


ふるさと納税と呼ばれている寄付金控除制度を何らかの形で存続させるのであれば、基本的にこうした方向に改正していくべきだろう。現行の制度のように、「2,000円の支払いで商品を買う」ような制度では、公共的なものというより私的な買い物(それも富裕層ほど有利な!)になっている。



石破 「物欲競争になっている」という批判はよく分かります。ただ、これも全否定すべきものではなくて、この制度を始めたからこそ「自分の地域の魅力を再発見しよう」「うちの町の素敵なもの全国にアピールしていこう」という一大ムーブメントが起こったのも、事実なのです。(p.38)


本書でこの鼎談の後に掲載されている幾つかの自治体の取り組みの状況などを見ると、確かに石破茂のこの指摘には一面の真理が含まれている。

しかし、それに対しても批判するとすれば、次のように言うことはできる。こうして探そうとする「自分の地域の魅力」のうち、活用されるものは大部分が商品や産業に偏るようなバイアスが、この制度にはあるということである。また、自分の地域の魅力を再発見しようという動きは、この制度がなくても各地域がすでに取り組まざるを得ない状況に置かれる中で取り組んでいるというのが実情ではないか。

この制度によって基本的には大都市から地方の市町村へと税源が移る傾向はあるようだが、税収が減る自治体は、交付税による穴埋めで大部分は埋まるが、歳入が増える自治体も、財政を見ると、お礼の品のために使っている金を考えると、財政的にはそれほど足しになっていない(むしろトータルで見ると悪化する圧力となっていると思われる)。もっとも、財政としては支出することになるお礼の品に充てる金も、地元の産業に回るということを考えると経済効果は多少なりとも認められるようであり、評価は難しい。



特集 ふるさと納税の本末転倒 別所俊一郎 「地方財政の格差はいかに是正されるべきか」より

 制度の趣旨からは、「選ばれた」地方政府の収支が改善し、逆に選ばれなかった地方政府の収支が悪化すれば足りるように思われる。しかし、現状では選ばれなかった地方政府の収支はそれほどは悪化せず(地方交付税交付金を受け取らない不交付団体では大きく悪化する)、国の収支の悪化をもたらす。(p.81)


中央政府の財政収支が悪化するという指摘は、この論稿を読むまで気づかなかった点であり、参考になった。ある意味、「選ばれた」地域の地場産業などに対して補助金を配ったり、公共事業を実施するような側面もあるということだろう。



 正常な価格のついた市場取引を通じた販路の拡大が地方創生には不可欠であり、政策に依存した生産者が増えることは健全な地域振興とは呼べないだろう。(p.83)


産業の振興という結果が出ているかのように見える場合であっても、それは公共事業としてその産業に金が払われているようなものであって、それは健全な地域振興とは言えない。全くその通りである。それに、この金もいつ来なくなるかわからないような安定性のないものである点にも留意したい。



 しかし、ふるさと納税にはこれまでに述べてきたようなさまざまな問題点があり、徴税権を持つ地方政府が他地域からの寄付に頼りかねず、自地域の住民と向き合わなくてもよい制度となっている。(p.83)

確かに、自地域の住民より他地域からの寄付をどう集めるかという方向に関心が向かってしまう制度と言えるかもしれない。

ただ、自分の住む町の魅力や強みのようなものを見つけ出そうと努力するとき、間接的ではあるが自地域の住民の活動などに対しても配慮することになりうる、という反批判は可能かもしれない。例えば、このエントリーの最初の引用文で片山善博が語っているように、商品による競争ではなく、地域貢献的な社会活動という形で寄附に対して応えて行くならば、現行制度よりは自地域の住民と向き合ったものになりうるのではないか。



特集 新書大賞2017 「大賞 言ってはいけない」より

 建前よりも本音が優先される時代。本書は、時代の風を掴んだ一冊とも言えるだろう。(p.121)


「建前」はエスタブリッシュメントの世界に属しており、「建前」の世界にとってのタブーを語る「本音」は反エスタブリッシュメントの色彩を帯びている。ある意味、反エスタブリッシュメント的なものが説得力を持ってきている時代を反映しているということだろう。

私は未だこの本を読んでいないが、一読はしておいてもよいかもしれない。



特集 新書大賞2017 「対談 厳しい時代に“骨のある”レーベルが生き残った」より

渡邊 そうですね。新書は教養の入門書として書かれたものもありますが、ニュースを迅速に書籍化する媒体でもある。(p.151)


確かに。大学の学部生あたりには、できれば良質の新書をある程度の数読み、新書の程度の内容は容易に理解できるようになってほしいと思う。



永江 読書といえば、黙読を創造しますが、1000年以上前は、一つの書物を大勢で音読するものだった。また、書物は貴重で高価なので、読書は貴族しかできないことでした。だからここ100年が、多分、日本人にとって読書の黄金時代だった、ともいえるでしょう。(p.154)


確かに。



永江 新書市場があふれかえっている、と言われますが、2016年を振り返って思うのは、読むべきレーベルは絞られてきたな、ということです。新書は1938年の岩波新書の創刊以来、今が四度目のブームだそうですが、幾度かのブームを経た結果、読むべきレーベルと読まなくていいレーベルがはっきりしたように感じます。新書“御三家”の岩波、中公、講談社。ちょっと岩波新書のパワーダウンが気になりますが、あとは“新御三家”の、ちくま、新潮、光文社、それに集英社、幻冬舎。平凡社も渋い本を出しますね。ここらへんでしょうか。やっぱり出版社も人材や知識や、いろいろな要素の蓄積が必要なんですよ。(p.155-156)


この指摘は私が新書に対して漠然と感じてきたことをかなり明確にしてくれた。私の場合、新書を買う際に参考にする情報の一つは、どこの会社の新書か、という点を参考にしている。同じ著者が書いた本でも、どのレーベルかによって内容の掘り下げの度合いや、政治的な立ち位置のニュアンスや論理の運び方まで違いがあるように思う。

個人的には中公新書が掘り下げて論じる度合いが高いと感じており、一般向けであっても一番学術的なレベルに近いものが多いように感じる。(その分、読者の理解力や知識が要求される。)この対談によれば中公は歴史に強いと指摘されているが、その点も納得した。

岩波新書は確かにパワーダウンと言われているとおり、掘り下げが足りない本も結構散見される。ただ、現在の社会に起きている問題、それも新聞やニュースだけではなかなか見抜けないようなところまで気づかせるような内容のものが多いように思う。その意味で、入門としては最低限使えるので、このレーベルには失敗がないという安心感がある。

ここで触れられていないものとしては、朝日新書なども濫立した新興レーベルの中では、私としては知りたいと思えるテーマを扱っていることが多い。しかし、何となく買って読むほどの深みを感じないようなテーマだったりするので、それほど多くは読んでいないが…。


A・ツィンゲルレ 『マックス・ウェーバー 影響と受容』

ウェーバーのカリスマ構図の場合、この構図の理論的ないっそうの展開、もしくは経験的に新しく増加しつつある事態へのその適用を目安とする限り、何よりもまず20年間にわたる影響および受容の空白が確認されるべきである。おそらく1920年と1940年の間の20年間の政治の世界に、このカリスマ構図に対応する現実的な現象が大量に存在したことが、まさしくウェーバー流の距離を置いた分析への眼差しをさえぎったのかもしれないし、――おそらく、ドイツの社会学者で英雄崇拝的風潮のなかでウェーバーの直接あとに成長した世代も、ウェーバーの人格の印象がまだあまりにも強すぎたために、かれの学説に沿った分析上の含みを十分に理解できなかったのかも知れない。(p.149-150)


ウェーバーの理論の中でももっとも有名なものの一つは支配の正当性に関する3つの理念型であり、カリスマ的支配であろう。それが彼の死後20年間はほとんど影響を与えなかったというのは意外であった。特にこの時期にムッソリーニやヒトラーのようなカリスマ的支配者が台頭しているのだからなおさらである。

ただ、ツィンゲルレがここで述べている理由は論拠としては弱いような気がする。むしろ、いわゆる支配の社会学に関連する叙述の大部分は基本的に生前は発表されていなかったのではなかったか?政治的主張を新聞等に寄稿することはあっても、まとまった理論として著作を出していなかったのではなかろうか。そのことがすぐに影響が生じなかった大きな要因ではなかろうか?


待鳥聡史 『代議制民主主義 「民意」と「政治家」を問い直す』(その2)

たとえば、有権者の視野が狭く、民意が移ろいやすいとしても、議員に十分な裁量範囲が与えられているのなら、裁量範囲を活かした議員の自律的な政策決定によって、選挙公約とは異なるが、結局は有権者に最大の利益をもたらすことが起りうる。
 逆に、権力分立をしていたとしても、異なった種類の政治家がすべて選挙時の有権者からの委任に厳格に拘束されるとすれば、妥協の余地がない政策決定はすぐに行き詰まり、有権者にはマイナスになってしまうであろう。つまり、委任と責任の関係における説明責任を果たすことは、民意に忠実であることと同じではない。(p.137)


民意に完全に忠実ではなくても、有権者にそれなりに納得できるような説明ができるような政策を実施することが委任を受けた者には求められる。



 議員や官僚の仕事を無償のヴォランティアにしたり、人員をできるだけ削減して一人当たりの業務量を増大させ「何でも屋」にしてしまうことは、委任内容を曖昧にし、制裁が難しくなることにつながってしまう。そもそも誰が担うべき仕事だったのかが分からなければ、適当にやっつけ仕事として済ます、あるいはやらずに済ませるという誘因を与えているのと同じことになる。委任内容が曖昧な仕事について、不始末の責任は問えないからである。議員や官僚の業務内容は、代議制民主主義が円滑に作動しているときには意識されにくく、ともすれば無用にすら思える。もっとたくさんの仕事を、もっと少ない人数で、もっと安くできるような気がするのも分からないではない。
 しかし、意識しないからといって存在していないこととは異なる。……(中略)……。
 ……(中略)……。委任と責任の連鎖関係を曖昧にし、政治家や官僚の業務を「何でも屋」にすることは、一見したところ代議制民主主義に要する費用を削減するように思える。だが、実際には委任内容が果たされなくなり「タダより高いものはない」という状態を招く恐れが大きい。ヴォランティアとして、あるいは極めて低水準の報償であっても、みんなのためになることなのだから献身的に奉仕すべきだ、というのは、誘因構造を無視した精神論か一時的なカタルシスに過ぎない。
 必要な改革は、むしろ逆の方向にある。委任と責任の連鎖関係を円滑に機能させることで代議制民主主義をより良いものにしていくには、適切な誘因構造に基づいた明確な契約関係の構築が不可欠である。すなわち、誰に何を委任するのか、委任内容が果たされた場合にいかなる報償を与えるのか、あるいは果たされなかったときにいかなる責任を問い、制裁を加えるのかについて、できるだけ明示するとともに、褒賞や制裁の水準を適正化することが必要となる。
 それはとりもなおさず、委任と責任の連鎖関係を規定している執政制度と選挙制度の改革を意味する。委任先である政治家や官僚が担う業務や裁量の範囲、複数の委任先の間に存在する役割分担、そして説明責任を確保する手段、これらを規定するルールを変えることで、政治家や官僚を「より上手に使う」ようにすることが、世界的に見て代議制民主主義を改革する上での焦点なのである。(p.202-204)


議会の定数削減などの議論が適切ではなく、執政制度と選挙制度を変えることで政治家や官僚をうまく使いこなせるようにすべき。まっとうな意見であり、議員や官僚が何をしているかが一般に知られていないことが誤った意見がまかり通る背景にあることも指摘されているが、現実問題として政治家は別としても個々の官僚の動きを直接有権者が知ることは極めて難しいし、必ずしも適当でもない。その意味では、政治のこうした仕組みを教育の段階から深く理解させられるような教育が必要であるように思われる。



アメリカで生まれた大統領制は、議会の暴走すなわち「多数者の専制」を拒否権などによって大統領が止めるという構想から出発したが、20世紀に入ると政策課題の複雑化や困難化に対応して、大統領と官僚の役割が拡大した。今日の大統領制は、執政長官の暴走を議会が止めるのが基本的な構図になっている。これが先にふれた大統領制の現代化である。(p.216-217)


興味深い変化。三権分立のうち行政が強くなったことがこうした変化をもたらしている。これを前提すると必要なのはいかに行政に対する歯止めを設けるか、ということになる。特に官僚よりもそのトップに対する歯止めが重要である。



有権者から説明責任を果たすよう求められることと引き換えに、一定の裁量と自律性を政治家に認めることによって、現在の有権者には不人気な政策決定を可能とするとともに、民意の一時の動きが致命的な悪影響を及ぼさないようにするところに、代議制民主主義が自由主義的要素を持つ積極的な意義がある。(p.252)


現在の日本の政治で問題なのは、説明責任を果たさなくても政府が裁量で何でも決めることができてしまうことにある。集団的自衛権の閣議決定やそれに続く安保法制などがその典型だろう。説明責任が果たされていないことを判定する基準を設け、これを満たさない決定を強行した場合には、政府(行政)に対して内閣不信任などのペナルティを課すような仕組みが作れないだろうか、などと考えさせられる。


待鳥聡史 『代議制民主主義 「民意」と「政治家」を問い直す』(その1)

 代議制民主主義に対するこれらの挑戦は、共産主義とファシズムとしてそれぞれに括られる。その主たる唱道者のイデオロギー的位置の違いから、最左派と最右派という二つの極端な立場からの挑戦だと理解されることが多いが、両者には共通点もある。それは、代議制民主主義の持つ自由主義的要素をとりわけ否定したことである。……(中略)……。
 ……(中略)……。このように、社会全体の利益を強調し、それが政治的競争ではなく実質的な独裁によって追求できるという考え方を全体主義という。(p.57)


本書では共産主義を左派全体主義、ファシズムを右派全体主義としてどちらも全体主義の一部だという見方が示されるが妥当である。

本書の見方では、代議制民主主義は民主主義要素と自由主義要素から成ると理解されるが、自由主義要素を否定した純粋な民主主義的な考え方では、社会全員が全員を直接統治することができない以上、全員の意見を代表しているとする少数者が統治することにならざるを得ない。しかし、自由主義的要素を否定してしまっているが故に、少数者の行為が社会全体の意見と異なる場合でも歯止めをかけることができないという問題が生じる。また、私がこの問題に関していつも思うのは、支配する少数者が社会全体の意見を代表するということを担保する制度や仕組みといったものが存在したことがないし、どのようにして担保させるかについて誰も知らないということである。



 戦勝国であるか敗戦国であるかを問わず、平和の到来とともに復員する男性兵士が多数出現して、各国にベビーブームが起こった。たとえば日本の場合、1949年の年間出生数は269万6638人で、自然人口増は175万1194人に達した(厚生労働省『人口動態統計』)。……(中略)……。
 ……(中略)……。彼らは1960年代後半になると大学に進学し、成人するようになるが、大人になったベビーブーム世代が見出したのは、各国の戦後社会の「いかがわしさ」であった。とりもなおさず、それは代議制民主主義の「いかがわしさ」でもあった。
 かくして、アメリカ、フランス、日本など先進諸国の各地で、1960年代後半にはベビーブーム世代を中心にした大規模な社会への異議申し立てが発生した。それは、具体的な異議申立ての対象と担い手によって、学生運動、住民運動、女性運動、反公害運動、反戦運動、差別反対運動などさまざまな形をとった。各国の運動が国際的に連帯する例や、過激で暴力的な反体制、反社会的運動に転化する例も見られた。しかし共通して認識されていたのは、選挙をはじめとする従来の政治参加ルートの機能不全であった。……(中略)……。代議制民主主義への懐疑、あるいは代議制民主主義における民主主義的要素の強化こそが、これらの異議申し立ての隠れたテーマだったともいえよう。(p.67-69)


60年代末の様々な異議申し立てをベビーブーム世代の生育環境と、彼らの代議制民主主義の体制に対する疑念によってある程度の共通の背景を説明できており、その隠れたテーマについて指摘しているが、このあたりは目から鱗という感じで、非常に参考になった。



マクロに見れば、先進諸国の経済成長は60年代後半には鈍化しはじめ、70年代の石油危機がとどめを刺す形で、成長に依拠していた戦後和解体制の維持は困難になっていた。それまで主流であった社会保障の拡充を中心とするケインズ政策や福祉国家化は財政悪化や社会規律に悪影響を及ぼすものとして批判の対象となり、代わって市場経済の潜在能力を重視した政策が追求されて、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本などで保守長期政権が登場した。
 この現象は、代議制民主主義の持つ自由主義的要素と民主主義的要素の裂け目という観点からは、1960年代から70年代前半までの民主主義的要素の重視から、自由主義的要素の再台頭として位置づけられる。(p.71)


この現象を、一つ前の引用文のような世代論を敷衍して説明すると、次のようになるのではないか。民主主義的要素を強化しようとする60年代から70年代の運動が、様々な個別の成果は挙げつつも、代議制民主主義の体制自体は変革しきれなかった挫折ののち、働き盛りで納税により社会を主として支える役回りを演じる時期に入ったベビーブーム世代は、その政府・政治への不信から、納税額が少なく済むことを望んだという一面もあるのかもしれない。もっとも、このような世代論による説明は部分的なものでしかないが。



 無党派層とは、政治や政党に対して関心を持たない人々のみを指すわけではなく、むしろ政治的関心や政党への期待水準が高く、そうであるがゆえに既成政党に満足できない人々を含んでいる。このような人々は、自らの利害関心をより適切に政策決定に表出してくれる政党が登場したと感じた場合に、雪崩を打ってその政党を支持する場合がある。(p.92-93)


なるほど。無党派層というと、何となく特定の党派を支持する人よりも政治的関心が低そうなイメージで捉えがちだが、逆に政治への関心が高いが故に既成政党に満足できない人々もここに分類されている。無党派層には本当に無関心な人と感心や要求水準が高い人の2つの異なったカテゴリーに属する人が含まれていると考えると、これらには別の名前を与えて分類する方が適切かもしれない。



 代議制民主主義は、アドルフ・ヒトラーを筆頭に繰り返し扇動政治家の登場を許し、そのたびごとに反省が語られてもきた。だが、民主主義は有権者の意向が政策決定に反映されることに意義を見出し、意向が形成される際の判断基準が理性的であることまでは求めていない以上、扇動政治家の出現は避けきれない面もある。代議制民主主義にとって大きな課題である。(p.113)


このエントリーの最初の引用文に対するコメントで私が述べたことと関連する問題である。

説明責任を果たす圧力を高めること、説明責任が果たされなかった場合に、いかに速やかに委任を受けた者を退場させたりペナルティを与えることができるかということが、この問題を解くためのポイントの一つなのかも知れない。(説明を受ける有権者側の判断が妥当かどうかという問題は残るが。)

例えば、現在行われている国会でも、森友学園に関する追及への首相や政府の答弁や名前を変えた共謀罪法案に対する法務大臣の体をなさない答弁など、説明責任を果たしていない重大な事例が次々と出ているが、これを追及しきれないような制度設計には極めて大きな問題があると言わざるを得ない。



2010年に始った「アラブの春」は、反体制運動に加わった人々がインターネットのSNSを使いこなして相互に連帯し、かつ先進諸国をはじめとする海外からの支持を集めた点に注目が集まった。確かに運動の手法ないし技術という点で新奇さはあったが、それまで約20年にわたって続いてきた世界的な民主主義体制の拡大が、中東地域にまで及んだという側面も持っていた。(p.114)


世界的に民主的要素を求める動きが強まっていることがアラブの春の背景の一つになっていたわけだ。なるほど。


竹崎孜 『スウェーデンの税金は本当に高いのか』(その2)

 しかも国内ではとかく、日本社会の高齢者増加が世界のどの国も経験したことのなかった非常事態として、不可抗力だったかのごとく強調されてきた。ところが、スウェーデンでは、1890年に世界に先駆けて高齢化社会となり、1975年には遂に高齢社会へ突入したが、国民の生活安定を図る政治をいち早く展開していたので、高齢社会をものともしなかった。
 日本は、視線が経済成長へ向いても、国民生活からは目をそむけ、あげくには長寿化に付随する数々の社会変化を無視したため、社会問題を山積させてしまったのである。(p.52)


最後の一文の指摘は、日本の政治と社会の関係を的確に指摘していると思う。



 国民へ還元される予算のうち、なかでも生活にもっとも密着するものが社会保障関係である。旧総理府がかつて公表した古い資料によれば、税・社会保険料に対する社会保障還元率の比較表では、第1位がスウェーデンの75.6%、引き続いて英国やドイツがおよそ59%、そして米国が53.2%となっているのに比べて、日本は41.6%の最下位にとどまっていた。(p.53)


予算を生活を直接支えるために使わないのが日本の特徴であり、このため各家計では本書の言う「固定家計費」が多額に必要となり、これが階層が固定化され、貧困層の厚みが減らないことにつながるなど、様々な社会問題へと繋がっていく。

税収がもっと必要であるとしても、税収の配分(産業から生活へ)も見直しが必要である。なお、税収を得る方法は、もちろん累進課税を強化するような方向性以外には適切なものはないということは付け加えておく。



高校や大学への進学のためには学校の勉強だけで充分とされ、成績表すら小学6年までは競争心をあおるとして廃止となった。(p.66)


成績表の廃止というアイディアはいろいろと考えさせるものだ。確かに、数字や三重丸などの他人と比較できるような評価を科目ごとにつけることは、このくらいの年齢の子どもには必要ないかもしれない。ただ、日ごろの取り組みの様子や達成の度合いに対して、一律で比較できる記号によってではなく、教師側からの言葉によるフィードバックという形をとることなどは考えられるように思う。そうしたやり方は教師側の負担増となり、そちらの面も含めて総合的に考えていく必要がある。



ただし、働きながら将来の進路を探り、やがて大学などでの勉学を再開するのが通例となっており、高校から大学への直行ではなくても不利でないばかりか、むしろ、熟考ののちに将来像を描くほうがかえって有利とされる。(p.66)


この仕組みは良いと思う。現在の日本の学校制度では、学校を卒業して就職するにしても、高校や大学を出た後の職業について具体的なイメージを持つことが難しい。生徒や学生はそうした中で就職先の選択を迫られる状況である。スウェーデンのように高校を出たらいったん就職した上で、自身の適性や仕事の具体的な内容などを理解した上で大学で学び直すというシステムには合理性がある。ただし、大学がそうした知識を授けたり、そのために必要な議論をする場として機能すれば、という条件が加わるので、日本の大学にこうしたことが期待できるのかは、やや心もとない気はするが。



「税金は、あらゆる社会で国民的目的の共同費用として集められるが、国民が税金をいくら払うのかは、社会が引き受けた健康、介護、教育、住宅などに関する責任範囲で決まる」(p.95)


これはスウェーデンの繁華街にある広報センターで配布されている資料の序文であるという。

こうした説明は日本ではなかなか受けることができない。学校でもメディアでもこうした基本的な考え方は明確に説明されることがない。まずはこうした知識環境から変わる必要があるように思う。



 課税が経営へおよぼす悪影響はなるほど一部企業にはあてはまるであろうが、税金を支払えない企業であれば、おそらく生産性は低い、賃金は安い、労働時間は長い、あげくに雇用は不安定など、労働者の職と生活の安定をおびやかしており、それだけでも社会の利益に反するという。よって、自由競争に耐えられない企業は、将来の発展性も期待できないから淘汰が望ましい、と容赦しない。
 ……(中略)……。
 社会保障税が制度化された根拠のひとつは、企業の人材育成や教育にかかる費用のすべては公費、すなわち税金が投じられており、したがって、社会が育成した人材のコストを支払う責任が企業にはあるとされる。さらには、企業活動が可能であるのも、社会のインフラストラクチャーが利用できるからであって、この視点からも社会コストは企業経費に含められるべき、つまり費用の分担をすべきと解釈される。(p.123-124)


スウェーデンで社会保障税が全額企業負担の税とされる理由。非常に筋の通った考え方になっていると同時に、日本の考え方がいかに企業に甘いのかということも感じさせられる。

税金が払えない企業は被用者の労働環境も悪いだろうというのは使える論理だと思う。さらに言えば、税金を払いたくない企業であれば、同じように被用者からも搾り取ろうとするだろうから労働環境も悪いだろう、とも言うべきであり、こうして内部留保や経営側の超高額報酬も可能となっていると捉えるべきだろう。

倒産した後に次の企業が現れるかどうか、失業者のうち教育やスキルが十分高くない者が再就職できるかどうか、といった問題が日本での議論からは出て来るだろう。スウェーデンでこうしたことが日本ほど問題とされないように見えるのは、それ以前の教育制度や再就職までの社会保障・職業訓練などが充実しているからであるように思われる。本書を通して見えてくる日本社会の問題点からは、生活を保障する体制がないことがどのような制度改革にもつきまとう障害となっていることがわかる。