アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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竹崎孜 『スウェーデンの税金は本当に高いのか』(その1)

 国民全体の税金負担は、国の税収全体に占める税金と社会保険料の合計によって計算できるとされるが、他方、個人負担のほうは、家計との比較や関係から割り出すほかはないであろう。……(中略)……。
 ……(中略)……。税負担とはこのように、家計や所得との三者関係から成り立つ
 ……(中略)……。
 今日では、家計構造についての信頼できる資料がなかなか見当たらないなか、それでもなお家計概要の推測はできよう。その際に重要なことは、税金と社会保険の負担率を明らかにすることのほかに、これまで見落とされがちであった学校や予備校・学習塾にかかる費用、多数ある民間保険の料金、貯蓄など、月々の家計出費の中でこうした絶対的に避けられない支出を見据えることである。それらをここでは「固定家計費」と命名しておこう。
 ……(中略)……。さらには、民間保険費用が家計に食い込むのは、税金と社会保険料などを払いながらも、公的保障だけでは不安で、さらに補強するのが目的であるだけに、こうした出費を省いてしまえば、生活不安が増幅してしまうからである。
 ……(中略)……。
 世界には、貯蓄に励む理由が見つからないという国民もいる。……(中略)……。
 それが日本人ならば「生活が不安だから貯蓄しておく」、あるいは「生活に困らないために貯蓄する」と、不安に追い立てられる様子を物語る。最後の言葉が象徴するように、日本での貯蓄とは、失業や傷病時の生活費、医療費、教育費、それに老後生活費を準備するものとなっている
 いずれにしても、税金による国民生活の支援や社会的セーフティネットの不備を露呈しているのと同時に、社会保障や社会保険制度の水準の低さを裏づけており、税金を支払いながらも、固定家計費の追加がどうしても不可欠で、こうした出費である貯蓄は、税金と社会保険料と並ぶ費用として合算されるべき家計支出であることを忘れてはならない。
 それも日本の家計を分析すると、税金や社会保険料に加えた固定家計費用の大きさが特別に目立つ。日本では、税金が安いと言い伝えられてきたのにもかかわらず、社会的・公的保障水準の低さがそのまま生活不安の拡大へつながっており、それぞれの家計は自力を頼みとする防衛策のためになんとか捻出しようとするのが固定家計費であって、それが生活をさらに圧迫している。(p.24-27)


本書のタイトルになっている問いに対して答えるにあたってのキー概念である「固定家計費」の考え方を説明した箇所より一部抜粋した。ここで示された考え方は日本における公的負担と公的支出のあり方を考える際に非常に参考になるものである。

固定家計費の代表的なものは教育関係費、民間保険料、貯蓄であるが、こうした固定家計費の日本の家計では支出が大きい。税や社会保険料が安くても、これらが高いので家計は苦しい。これらが必要となるのは税負担が少ないことと、負担した税が個々の家計を支えるための支出をあまりしていないためである。こうした循環が成り立っているのが日本の税と家計の姿である。

つまり、税等の負担が少なく、個々の家計に還元されない→固定家計費が必要→税負担が少ないが家計の痛税感は高い→増税を忌避し、納税を嫌い、自分以外の家計への還元を非難するような世論が形成、といった悪循環が日本では成立している。

税負担が少ないことは私には自明のことであり、この点には何の目新しさもなかったが、税の配分先として家計に戻ってくるものが少ないという点を改善しなければならないということが本書から得た収穫であった。もっとも、累進性を高めることによる増税が必要である、という私の年来の主張自体は変わらないが、増税をしても家計に戻ってこないのであれば(産業などに支出しても比較的高めの所得者を潤すだけであれば)この構図は変わらないので、まずは家計の生活を支える歳出の割合を増やす必要がある。

また、しばしば消費税の増税の議論などと絡めてマスメディアなどでは、日本は税負担が外国より少ないので、まだ増税の余地があると言われているが、固定家計費の高さを考慮に入れると、そのような言説で言われるほど増税の余地は大きくないということは理解しておかなければならないだろう。



 今回の日本型不況は、ヨーロッパ各地を1970~80年代に襲った不況に酷似しており、当時の各国が抱えこんだ悩みや苦しみを真摯に受け止め、先見の明をもって研究と分析を行っていたならば、諸国での教訓が生きて日本は不況をこれほど長く体験することはなかったと想像できる。(p.43)


私は著者が言うほど、1990年代以降の日本の「不況」と70年代頃のヨーロッパの不況とが似ているとは思わない。日本ではデフレだが、当時のヨーロッパはスタグフレーションでありインフレの状態であったことなどを見てもそう言える。ただ、経済成長が鈍い中でどのような社会を構築することで対処するかという問題を考える場合、当時のヨーロッパ諸国がとった対応をよく知っておくことは有益ではないかという気がしており、そうした志向という点では著者に共感できるところがある。

また、日本の「不況」と言われるものの構造的な要因の一つは90年代後半から始まった生産年齢人口の減少であり、今後は総人口も減少していくことである。この点も当時のヨーロッパとは状況としては異なっているが、人口の増加率が下がらないようにする対策と言う意味では学ぶべきものがあると思う。本書の上記の指摘は、事実認識としては疑問だが、それが志向するものとしては大きく間違っていないという点が逆に興味深い。


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浅野和生 『親台論――日本と台湾をむすぶ心の絆――』

 ところで、鄭成功は、2万5000もの軍勢をもって台湾へ移ってきましたから、食糧増産をしなければ軍を養っていけません。それで、台南を中心としながら、北は嘉南平野へ、南は高雄平野へと軍隊を分けて屯田開墾を進めさせることとしました。この地域にみられる、左営、新営、柳営、林鳳営などの「営」のつく地名や、前鎮、後勁などは、いずれも、もとは鄭氏の軍隊が開いた開墾地なのです。(p.72-73)


台湾の地名は(その歴史に示される通り)、外来の支配者が台湾に入ってきたときに原住民と外来の者たちがどこで生活したかということと関係が深いものが多いように思われる。



当初、芝山巌に設置されたのは、国語伝習所、つまり日本語教育の学校でした。その三年後、1898年には、名称が公学校に変更され、各地に広く設置されていきます。
 そこでは、修身、作文、読書、習字、算術、唱歌と体操の授業が行われました。一方、先住民に対しては、蕃人公学校が作られ、国語、算術、修身のほか、農業、手工芸、唱歌の授業が行われました。蕃人公学校には、職業訓練所の意味合いが持たされていたわけです。また、日本の内地から台湾へ行った人びと、当時は内地人と呼ばれていた日本人の子弟が通うのは日本と同じ小学校でした。これは、もともと日本語が使える人たちですから、日本の内地と同じ教育が可能だったわけです。(p.92-93)


日本統治時代の台湾の教育について分かりやすい説明となっている。内地人、漢人系の本島人、原住民とでそれぞれ学校が区別されており、教えられる内容にも相違があったことが分かる。本書の論調としては(他の箇所でも同様の傾向があるのだが)、植民地支配には負の側面はあったにせよ、言語(母語)が異なるため学校も区別することには合理性があったとして正当化しようとしているように思われる。

確かに、母語が異なる集団に対しては、別のクラスに分けて教育するというのも一つのやり方であるのは認めることができる。ただ、教育内容については、次の点を指摘しておきたい。日本語を国語とする場合、日本語を母語とする人々に比べ、それ以外の言語を母語としている人々には日本語を教えることにより多く時間を割かなければならないかもしれないし、教科を教えるにしても母語以外の言語で授業をするならばより多くの時間をかけなければ同じ内容に到達できないことが多いとは言えるため、カリキュラムにも工夫が必要なのは確かだろう。しかし、本書の記述にもあるように原住民の学校は職業訓練所の意味合いがあったとするような点は、それらのグループ出身者に対しては卒業後の進路の自由度を下げるような制度になっており、差別として機能する制度であったことを指摘しなければならない。(なお、日本語を国語としてそれによって教えるということ自体が特定のグループに有利に働くものであり、これを前提とする植民地支配という枠組み自体も問われなければならないのは言うまでもない。)



 台湾が大日本帝国憲法の例外地域でなくなるのは、大正11年、1922年のことです。日本国内でも大正デモクラシーで民主化が進んだこの時期、大正12年の1月1日をもって、大正11年の法律第3号、つまり法3号の体制に移行したのです。これによって、原則として日本の内地の法律を台湾にも適用する、内地延長主義に転換しました。
 このときの総督は、軍人ではない文官総督の田健次郎でした。それでも、台湾の特殊事情で、本国の法がそのまま適用できない場合には、律令が制定できる権限は残されました。(p.97)


北海道において区ではなく市が置けるようになったのも同じ年のことだったが、繋がりがあるのだろうか?



 日本統治以前には、キリスト教の宣教を兼ねた西欧からの医師の移住、病院の開設がなかったわけではありませんが、全般的には、民間伝承療法が中心で、漢方医がいるだけでした。つまり、日本の国内法規を適用すると、医師免許を認められる医者はほとんど皆無だったわけです。
 当然、西洋医学を身に着けた医師を、早急に増やさなければならないのですが、それだけでは当面の必要を満たせませんから、伝統的な医療を行ってきた医生に研修を受けさせ、登録させて、医生が治療行為を継続できることとしました。こうしたことは、台湾が大日本帝国憲法を柱とする日本の法制度の外に置かれていたからできた措置です。(p.105)


ここにも先ほど指摘した本書の傾向が出ている。内地と外地を区別して統治したことには、それなりの合理性があったと言いたいのだろう。ただ、この場合も仮に同じ憲法の枠内にあったとしても、「台湾では医師免許の扱いについて内地と違う扱いを認める」という内容の法律を作ればほぼ同じ効果が得られる。(もちろん、現場で決定できるのと一地方として決定に参画できるだけであることとの相違は残るが。)

憲法の枠外にあり、強い権力を持つ総督がいることで、次々と現地で必要な決定が行えるようになったというのはその通りではあるが、やや歴史を正当化し過ぎだろう。これだけ強権的な権力の支配下に置かれた人々の境遇や法的地位が異なることによる差別なども指摘が必要であると思われる。



 台湾の最南端、屏東県に、八田與一の烏山頭ダムとほぼ同じころに工事を行っていたのが、鳥居の地下ダムでした。これは、地上の川ではなく、地下水脈を地下でせき止めてその水を地上に導き、地域一帯の灌漑用水と飲料水として用いるという、まことに画期的な土木、建設事業でした。
 しかも、八田の事業が、総統府(ママ)の資金による、いわば国家的プロジェクトであったのに対して、鳥居の仕事は、台湾製糖という民間会社の事業だったのですが、その工事の質は高く、85年余を経た今日も、その大部分は当初の機能をそのまま果たしているのです。(p.116-117)


台湾に貢献した日本人として後藤新平、新渡戸稲造、八田與一などは多くの本で言及されるが、鳥居信平もしばしば挙げられる。前三者は総督府の一員として台湾にいろいろなものを残したのだが、個人の力によるというよりは、官僚として与えられた職務を立派に果たしたという種類のものであると理解しておくことは重要である。しばしば、このあたりの話は現実からやや離れた美談として語られる傾向も見られるからである。



 さて、用水路建設を予定する一帯は、先住民族のパイワン族が住むところなのですが、それは漢人が住まないところ、つまり農業その他の産業に適さない地域であったことを意味します。
 清朝統治の220年の間に、漢人が手を付けなかったからこそ、それほどの高地、山間部でないにもかかわらず先住民族の地として残されていたわけです。(p.118)


鳥居信平の地下ダムの話の続きだが、台湾における諸エスニック集団の歴史的に形成された配置についての的確な指摘がなされている。



 1942年からは、台湾で志願兵制度が実施され、1944年までに、陸軍特別志願兵、海軍特別志願兵、そして高砂義勇隊として日本軍人となった台湾の人々は1万7000人余りにのぼりました。
 しかしながら、日本の戦況が悪化するにつれて兵員の損耗が急増すると、台湾でも1945年には徴兵制が施行されるようになります。こうして、1945年までに軍人となった台湾の人々は、合計8万433人、このほかに軍夫や軍属として従軍した人が2万6750人で、総計10万7183人の人々が軍務に従事しました。

 そして、日本のために戦死した人は、合計3万304人に及びました。これらの人々も、靖国神社に祀られています。(p.132-133)


従軍した人の3割弱が戦死したことになる。靖国神社には日本の体制の側に立って戦争に参加して死亡した者が祀られるという仕組みであるため、本人や遺族が靖国神社には祀らないで欲しいと主張していても一方的に祀られてしまう。「国家」を中心とする考え方に基づいて選別していること、関係者の意思も無視していることなど、いずれも個人よりも「国家」を上位に置いた考え方となっているが、これは為政者(権力者)にとって好都合だが、被治者にとっては有害な考え方である。



そして長年居座っていた万年議員による間接選挙であった総統、つまり大統領が、1996年からは、台湾に住むすべての成人男女の直接の投票で選ばれるようになります。

 こうして、1996年には台湾は民主的な国として生まれ変わりました
 その第一回民主化選挙で国民の手で選出されたのが、李登輝総統でした。
 これはまた、大陸中国から移転してきた中国の政権としての中華民国による台湾支配から、台湾の人々自身が選んだ指導者による台湾の統治への移行を意味していました。つまり、中華民国の統治体制が外来のものから、台湾土着のものへと変化したことを意味します。中華民国の台湾化ということです。(p.188-189)


このことの意義は非常に大きい。



本書では、近隣に日本に親しみを持つ国がない中、台湾だけは違うので、そうした隣人を大切にすべきだとされている。それはそれで間違いではない。しかし、本書では日本に親しみを持たない国として北朝鮮のほか中国、韓国を想定して、これらを「反日」として規定し、いかにこれらの国が良くないか、おかしなことをしているか、といった論が展開される。これは外交的な考え方としては全く的外れな議論である。なぜならば、外交は、敵を味方にすること、味方にできない場合でも中立化することがなすべきことだからである。

本書はこれら近隣諸国を自ら敵視し、相手国の敵意を煽るような言論を展開することで、敵対関係をより強めるような議論が為されており、国際関係をより悪化させる考え方でしかない。(仮に中国や韓国は「嫌い」だから仲良くしたくない、といった類の想念が心中にあるために、こうした論になっているのだとすれば、それは政治という結果に対する責任が求められる領域で発言するだけの政治的成熟をしていないということである。)

私としては、日本の人々が台湾と親しくすることには全く異存はないし、日本の人々は台湾の歴史を知らな過ぎるので、台湾の社会や歴史に関心を持つことは非常に大事なことではあるが、国際関係を持ち出して日台関係を親密にすべきと言うのであれば、どうすれば中国や韓国との関係を良好なもの(害がないもの)にしておくことができるか、ということにも知恵を使って欲しいものである。


トーマス・W・フェラン 『魔法の1・2・3方式 「言い聞かせる」をやめればしつけはうまくいく!』

 怒鳴りつけたり、子どもを叩いたりする親の大半は、実は自分がかんしゃくを起こしているのです。そのわけは、次の3つです。

 自分でもどうすればよいのかわからない。
 ・冷静さを失っている。
 ・うまく怒りをコントロールできない。(p.29-30)


この箇所から、対処をしたいけれども対処法がわからないときは、イライラするというのは確かにあると気付かされた。



幼い子どもは自分を劣っていると感じています――大人よりも小さく、できないことも多い。……(中略)……。そのため、子どもは不満になり、力が欲しい、世の中に何か影響力を与えたいと思っているのです。
 ……(中略)……。
 小さな子どもが、湖へ向かって、石を投げるのを見たことがありますか。子どもは、そんなことを何時間でもやっていられます。その理由の一つは、そのときできる大きな波紋が、自分の影響力の証拠だから。この変化を引き起こしたのは、他でもない自分なのだということを実感できるからです。
 「家庭の中の出来事とそれがいったいどんな関係があるのか」と思われるかもしれません。答えは簡単です。小さな子どもが大人を怒らせることができれば、それがその子にとっての波紋です。ですから親が怒りを爆発させれば、図らずも子どもに優越感を感じさせる結果になるのです。
 ……(中略)……。
 ぜひ覚えておいてください――お子さんがあなたが嫌だと思っていることをするたびに本気で怒ったら、間違いなくお子さんはそれを繰り返すでしょう。
 しつけに必要なのは、一貫性を持ち、意志を貫き、冷静でいることです。どうか「言い聞かせない、感情的にならない」の原則に従ってください。(p.34-36)


優越性の要求をおかしな形で満たすことになってしまうということが、親の側が感情的になることは望ましくないことの一つの理由。なるほど。

「言い聞かせない、感情的にならない」という原則に従いながら、しつけにおける賞罰を、罰はルール化、賞は手段を類型化して一貫して適用するところが、本書が提唱する方式の基本的図式である。



でも、多くの場合、謝るというのは偽善の練習であるということもお忘れなく。謝るように子どもに強制するのは、子どもを罰するという要素が大きく、必ずしも後悔や思いやりの気持ちを引き起こさせるわけではないのです。(p.77)


実感としてよく分かる。



 どちらのケースについても、子どもが駄々をこねたりかんしゃくを起こしたりする場合に、必ず守りたい基本のルールがあります。それは、子どもと口をきかないこと。(p.94)


こうした場合に子どもと話をすると、「言い聞かせる」ことになり、また、親の側が「感情的になる」ことになるためであろう。この基本ルールは2つ前の引用文に関連して語られた原則(これは本書で何度も何度も出てくる)を別の言い方で言い直したものと言える。



 うそに対する対応の仕方ですが、ぜひ覚えておいていただきたいのは、うそをあまりに重大視しないことです。もちろんよいことではないのですが、かといって、ものすごく恐ろしい行為でもないのです。うそをつかれて憤慨し、この世の終わりかのような反応を示す親御さんもいますが、そうすると次のような結果を招きかねません。

 ・子どもが自分を最低の人間だと思うようになる。
 ・もっとうそをつくようになる。(p.151)


私自身としては嘘をつくということは、嘘をつく相手を侮辱することでもあると考えている。その意味で嘘を言われた場合、相当の怒りを感じるのだが、育児という局面ではあまりこれを重大視しない方がよいらしいと理解した。



たとえば夕飯を食べ終えたあと、宿題をやったのかどうか、子どもに聞いたとします。宿題はないよと6回も言ったあと、ようやく算数の宿題があることを白状したとしましょう。……(中略)……。
 さて、ここでよく考えてください。気がついていないかもしれませんが、こうすることであなたはお子さんに、うそをつく練習を6回もさせていたことになるのですよ。(p.153)


確かに。育児や教育という局面では、こうした「練習」をさせないに越したことはない。



 私たちはこう考えています――5、6歳くらいまでの子どもであれば、多少大げさにほめてもかまわない。このくらいの年齢の子は基本的にどんな励ましも喜んで受け入れます。自分がうまくやったのかどうか、自分で判断できない場合が多いからです。
 けれども1~2年生くらいになったら、注意が必要です。このくらいの年齢になると、うまくできるということがどういうことかがわかり、ほめことばが本心からかどうか判別できるようになるからです。(p.163)


なるほど。



 一番いいのは事実を淡々と述べることです。
 「ジョン、宿題を始める時間になったよ」
 「メアリー、寝る時間よ」といった具合に。この口調には「やりたくないかもしれないけど、やらなければならないよ」という感情が込められています。(p.165)


子どもに「させたいこと」をさせるときの方法として「要求する」場合の注意点の一つ。命令には反発を引き起こしやすいという要素もあり、その意味からも、こうした事実を述べるやり方は適切であると思われる。活用したい。



 まず、絶対にやってはいけないことがあります。それは、ふと思いついたときに、宿題をやったかどうか子どもに問いただすこと。これは唐突な要求の一つで、子どもは抵抗します。宿題を習慣にして、できるだけ同じ時間、同じ場所でさせることが大事なのです。
 一番いいのは、子どもが帰宅したらおやつを食べさせ、30分から45分ほどゆっくりさせたあと、宿題をさせるという手順です。多くの子どもにとって、宿題は体力が残っている日中にすませてしまったほうがよいようです。宿題が終わったら、あとは自由時間です。
 テレビをつけっぱなしで宿題をさせないように。テレビは、常に人の注意を引きつけようとしているからです。意外に思われるかもしれませんが、CDやiPodなどで音楽を聴きながらするのは問題ありません。子どもやティーンエイジャーにとって、音楽を流しておくことは外の生活音を遮断するための手段だからです。(p.207-208)


宿題をさせることについては、本書と概ね同意見である。遅くない時刻に時刻と場所を決めてする習慣をつけるというやり方は極めて妥当と思う。唐突に宿題をやったか確認してやらせるのがうまくいかないというのも参考にすべき。

なお、テレビに関しては全く同意見だが、音楽に関しては子どもの個性にもよる面があるようにも思う。



 結婚には働くことと遊ぶことの両方の要素があります。うまくやっていけるのは、そのバランスをとることができるカップルです。しかし、仕事というものはあまりに自然に、そしてあまりに支配的に私たちの生活に入り込んでくるため、遊びと仕事のバランスをとるためには、一緒に楽しむ時間を確保し続けることが重要になります。
 子どもとの関係も同じです。子どもを好きになるためには、子どもと一緒に頻繁に楽しむ必要があるのです。(p.242)


前段の結婚に関する理解は参考になる。結婚の場合の仕事は、職業的な仕事のほか家事のことも含まれると思うが、思うに家事を協力してできない場合、夫婦の関係は基本的によくないものとなると私も考えているが、それを的確に表現してくれていると思われた。



そう、「1・2・3方式」は、なによりも親が、この方式に対する親の理解と覚悟が試される方法なのです。けれども同時に、正しく行えば、親の怒りをコントロールする方法でもあります。(p.293)


この点は本書を読んで感じた私の見方とぴったり一致すると思われた。

本書の考え方から言うと、次のようになるだろうか。

子どもは「小さな大人」ではないため言い聞かせようとしても素直に納得したりはしない。このため親が怒りを感じることになり、これが暴力などに繋がる。その上、親が怒っても子どもをしつけることはできない。「言い聞かせない、感情的にならない」という原則に則り、賞罰の方法をルール化して揺らがずに一貫性を持って実行することによって子どもはすべきこととすべきでないことを適切に学ぶことができる。この一貫した実行をするには、その方法に対する理解と覚悟が必要となる。


O・シュタマー 編 『ウェーバーと現代社会学 下』
ラインハルト・ベンディックスによる発言より。

ところで、よく考えておかなければならないことは、ドイツ国内ではくりかえし専ら政治家マックス・ウェーバーが語られるのですが、たとえばインドへ研究旅行しました折などには、いろいろなインドの学者が私に向かってインドに関するウェーバーの宗教社会学研究のことを驚嘆しながら語っていた、ということであります、もしもこういった事態が将来にもちこまれますと、ドイツではウェーバーの論稿は政治的側面からのみ見られるだけだ(現在でも、このようになんでも政治的に見るという傾向があるために、時折彼の科学的理念はもはやさっさとどこかへ片づけられています)とされ、科学的著作の継受は外国にまかされたままになっているという仕儀になりかねないのです。(p.57)


確かにドイツでは政治的な著作についての議論がアメリカや日本よりも盛んだったことは確かであり、これらの地域の方が方法論や宗教社会学などに関する業績に対して相対的に関心が強い傾向が続いたということは、この学会があった時期以後にも言えそうである。

もしかすると、この学会から50年ほど経過した現在における『マックス・ヴェーバー全集』の編纂にあたっても、今一つちぐはぐな対応のまま編纂が進められている面があるとすれば、それは学問的な側面への関心が相対的にドイツでは日米などより低かったことも反映しているのかもしれない。



つまり、前述の箇所で、ウェーバーは心理的刺激(アンライツ)についてだけ述べるべきだったのですけれども、実際には信仰に含まれている心理的起動力のことを述べておりますために、問題の理解にとって興味深い一つの誤りを犯しているのです。と申しますのは、信仰に含まれている刺激がどの程度まで起動力となりうるものか、もしくは、どの程度まで起動力となっているのかということが、ウェーバーの研究の決定的な問題にほかならないからです。……(中略)……。
 ……(中略)……。ウェーバーが繰り返し強調しているところによりますと、単純化と誇張とを援用する時にのみ、無限に多様な歴史的世界とこの世界を特色づける流動的な変化とを概念的に把握できるのです。プロテスタンティズム=論文においてウェーバーがとくに述べておりますのは、彼の論述がある種の神学的な根本思想を体系化しているから、厳密に原典にだけのっとってものされたものよりも、論理的には一層高度の整合性をもちうるであろうということです。……(中略)……。他方、この際閑却してはならないことは、つぎのことでありましょう。つまり、分析を行なう際にぜひとも必要だということでこういった単純化と誇張を行ないますと、理念と行為にいろいろな意味があることが捨象され、さらには、概念的に現象を捉えることが人間の関心事を理解するにあたって有効性をもつかどうか疑わしいものとなる、ということです。上に挙げた問題にあてはめて考えてみますと、このことの意味はこうです。つまり、ウェーバーにとって仮定されたある種の神学上の教義のもつ働きが全面的な妥当性をもつのは、自分の信仰にまったく忠実な人――こういう人にとっては、カルヴァン派の教義学の論理的にねられた終局的な帰結というものが心理的に決定的な意味をもっています――を考えてみるときだけである、ということです。たしかに、ウェーバーは、たいていの人間がこういった意味での宗教的な達人ではないことを強調してはおりましたが、ウェーバーは――私の見るところでは―― 一義的な概念構成と多義的な人間存在との間にここで私が述べた関係があることを明らかにしてくれてはいないのです。(p.58-59)


ウェーバーのプロテスタンティズム研究を例として理念型の構成に対して批判しているが、適切な批判であると思われる。

私の理解に基づいて、上記のベンディックスの批判の内容を敷衍すると以下のようになる。すなわち、ウェーバーが現実を一面的に上昇させたり捨象したりして構成した理念型を使って現実を認識しようとする場合、改めて現実の因果関係などを反映しているかどうかの検証をしなければならないが、ウェーバーはそうした検証をしていないために、現実を誤って認識してしまっている、ということになる。



とくに、このことは、ウェーバーの政治上の予測についていえることでして、といいますのも、ウェーバーの政治上の予測が理念型の映像にもとづいてつくられているからであります。理念型の映像というのは、論理的妥当性があると主張しうるだけで、歴史的妥当性があるとはいえないものだからであります。(p.63)


上記の批判と同じことだが適切な批判である。理念型を構成したことによって描き出されたイメージは、歴史的な現実を捉えたものとして主張することは(検証を経て妥当性が確証されるまでは)できない性格のものである。

これに続いてベンディックスは、ウェーバーによる「全般的な官僚制化の進行」というビジョンも、自らが構成した官僚制の理念型に基づいて予測されていることを指摘しているが、この点はもう少し細かく確認しなければ妥当かどうか私にはわからない。



クリスティアン・ジークリストの報告より。

ウェーバーはその苗字からしても織物師であったし、それのみか、近い先祖をたずねると、以前に排斥されていた職業集団――彼の祖父は亜麻布商人であった――と関係が深かったのであって、こういう事はウェーバーの発言の成立と連関のある、外的な事情ではある。(p.285)


ウェーバーが提起した「パーリア民族」の概念に関しての指摘。



 私には、ウェーバーの概念構成は、その構成にあたって少ないメルクマールだけに局限されることなく、概念が曖昧なままにおかれているというところに、欠点があるように思える。曖昧だというのは、ウェーバーが、概念を用いる際に、同じメルクマールを、場合によって、必要だといったり、無くともよいといったりしていることをいうのである。職業的専業化と儀礼的不浄とが、このように使われることもあり、使われないこともあるメルクマールである。……(中略)……。しかし、こんな風にメルクマールを用いたり用いなかったりしてもよいとすると、具体的な場合には常に、概念と現実との不一致が指摘され、つまり、理念型が現実によって「充実」されることがないことになるのだから、研究上の便宜主義的な戦術が生まれることもありうるのだ。(p.286-287)


ウェーバーの「パーリア民族」の理念型に対する批判。この理念型をインドに適用する場合と古代ユダヤ教に適用される場合で概念構成が異なっていることについて指摘されているものと思われる。



とりわけ、理念型に一致する、つまり極端な変異を示すことのない、場合をのみ追求し、それとは反対の場合を軽視するという傾向には、問題がある。(p.287)


理念型を用いた研究には一般にこうした傾向になりがちであると思われるため、この指摘は理念型という方法自体に備わる問題点として認識されるべきだと思われる。



 支配に反抗的な心情の投射が、支配者から少数のパーリアへ「移動」する、近代における一つの例は、産業社会における反ユダヤ主義である。抑圧されている社会層にとって、水平化の行動を実行することが安全弁となるが、反ユダヤ主義は、階級分化とそれに伴い要求される社会的安定とを破壊することなしに、この機能を果すのである。(p.298)


なるほど。



社会的保障のための整備されたシステムが欠けていると、パーリア集団の発生ないし永続化を促進する(アメリカ合衆国)。(p.301)


アメリカにおいて黒人差別が他国よりも根強く残ってきた歴史を説明する一つの要因と思われる。



 きわめて一般的に、マージナルな集団に対する排斥思想と迫害行為を刺激する魔術的な観念群が克服された時に、治療を効果的に始めることができる。……(中略)……。
 このような観念群を分析的に解明することによって、社会科学は世界の魔術からの解放に寄与する。(p.302)


現代の日本における生活保護バッシングや中国・韓国に対する排外主義的な言説などについても、確かに、「魔術的な観念群」即ち、「非合理的な観念群」があることに気付かされる。対象者に対する現実的な認識ではなく、虚像を注入された者が、これらの虚像をヘイト言説の中で再生産することで、排外主義的な言説や行為が増幅されている。こうした「魔術的な観念群」を分析的及び実証的に批判することは、確かに社会科学が果たすべき役割であろう。(ただ、誰もが社会科学の成果を理解できるわけではないという点には留保が必要にはなるが、政策立案に関わる集団やこうしたヘイト言説に対して対抗的な市民運動をエンパワメントしていくことにはなるだろう。)


O・シュタマー 編 『ウェーバーと現代社会学 上』(その2)
レイモン・アロンの講演「マックス・ウェーバーと権力政治」より。

 政治において彼が他の何よりも重んじた最高の価値、すなわち彼が忠誠を誓った神(あるいはデーモン)とは、ドイツの偉大さであるのだと、彼はきっぱりと決断しておりました。(p.172)


アロンのこの指摘に対しては、後の討論で異論も提示されていたが、概してウェーバーをリベラリズムや左派的な主張に引き付けたいという立場からは、この指摘に対して異論が提出され、(モムゼンのように)帝国主義や国家主義的なものとウェーバーとの親和性を指摘せざるを得ないと認める立場からは概ね賛同されるという図式が見て取れた。

私としては、現在ではアロンの見方の方がリベラルにひきつけようとする側よりも概ね適切に捉えていると考えている。こちらの説明の方がウェーバーの他の政治的な主張との整合性がとりやすく、無理がないと思われるからである。



 マックス・ウェーバーが、さまざまな幻想を拒んだことは、正しかったのです。つまり、闘争なき政治はなく、暴力なき闘争もなく、そして闘争の手段は、キリストの教えあるいは単純なモラルと、必ずしも調和するものではない、というのです。しかしながらこの理論は、二つの点で私の気に入らないのです。
 第一に、責任倫理と心術倫理という、二つの倫理概念のアンチノミーに対して、極端な、ある意味でラディカルな形式が付与されていることです。自己がくだした決断が生んだ諸結果を、まったく無視することができるでしょうか?決断をくだすその瞬間に、道徳的意識を完全に排除することが、一体できるものでしょうか?ウェーバー自身がそんなことのできぬことを知っていたことは、いうまでもありません。けれども、ただ極端な場合にのみ、現実的であるような二者択一をば、根本的なものと決めつけたことによって、彼は次のような二重の危険に自己を曝らすことになりました。すなわち、ひとつには、道徳家が浴びせるいっさいの非難を、軽蔑しつつ片づける、偽の現実主義者を正当化するという危険です。そしてふたつには、政治というものが自分たちの理想に一致しないという理由で、すべての政治に対して、みさかいもなく非難を加える、偽の理想主義者を正当化するという危険であります。このような理想主義者は、結局は、知ってか知らずか、盲目の革命家や独裁者に味方して、現存の秩序を破壊することに寄与することになるのです。
 マックス・ウェーバーは、目的によって手段を正当化しうるか、という永遠の問題には、理論的な解決はないのだ、ということを、われわれに銘記させてくれます。このことは、正しいのです。けれども、さまざまな諸価値の異質性を承認するだけでなく、それらの価値相互の葛藤が解けないものだということをも、肯定したものですから、彼は彼自身の価値体系を、正しく基礎づけることができないようになったのです。われわれが生きてゆくためには、最小限の人権が、どうしても必要である、と彼は書きました。にもかかわらず、彼は自由主義と議会主義という、彼が尊ぶ宝の値打ちを低くしてしまいました。それはそれらの宝をドイツ国(ライヒ)の偉大さに奉仕するための、単なる道具へとおとしめてしまったからであります。(p.192-193)


責任倫理と心情倫理の対比が、日常的に現実的な範囲のものではなく、極端な場合にだけ成り立つような図式として提示している(理念型を「鋭く」構成している)ため、それに伴って生じうる問題が指摘されているのは参考になる。責任倫理の立場に立てば、「道徳家」から非難されても、自分の行為は正しい結果をこれからもたらすのだから不当ではないと主張できることとなり、心情倫理の立場に立てば、現実の政治に対して「正しくない動機」が含まるとして政治への不信を正当化することになり、逆に独裁者の出現に寄与する可能性があることが指摘されている。

理念型が「鋭く」構成されて提示されているがゆえに、われわれはこうした極端な倫理的立場を意識できるようになるが、意識できるようになったが故に、それが現実的に可能な(あるいは日常的によくある)立場であると錯覚しやすくもなっている。こうした理念型そのものの立場は、むしろそれほど現実的な判断基準の実例ではないことが忘れ去られてしまう。こうしたことは理念型の弊害(問題点)の一つと言えそうである。

後段の自由主義と議会主義をウェーバーは結局、ドイツの偉大さという価値に従属させてしまったために、それらの価値を貶めたという批判は、リベラル側にウェーバーを引き付けたいと考えている側からの反論がなされる内容ではあるが、やはり基本的にはアロンの主張は妥当なものと考えるべきだろう。



 したがいまして、マックス・ウェーバーは社会学者としては、昔と同じように今日なお生き生きしてはいますが、政治家としましては、必ずしも時代に先んじてはいませんでした。(p.194)


レイモン・アロンは「政治家」と言っているが、ここは「政治思想家」ないし「政治批評家」といった意味で捉えた方がいいだろう。そして、この指摘はウェーバーの政治論を読む際には銘記しておくべき点であると思われる。もちろん、上記のように言ったからといって、社会学的な業績と政治的な主張とは無関係であるわけではないのだが、社会学という学問の成立と発展にとって、ウェーバーの理論がかつて果たしてきた役割があり、また、現在においても参考にしうるものが含まれているということと、そうした有益な理論構想と結びついている政治的な主張が前時代的で誤った要素を含んでいることとは両立しうる。



ヴォルフガング・J・モムゼンの発言より。

もし権力の濫用があった場合、どうしたらそれに対して、原理的に歯どめをかけられるのか、あるいは「正当性の中に宿る制限」を権力の濫用に対抗させることができるのか、という今日火急の問題を、ウェーバーは格別ていねいに扱うようなことはいたしませんでした。このような規範的な歯どめのためのひとつの体系としては、当時自然法がよくしられた形式でありましたが、ウェーバーは、自然法が現代の法体系あるいはさらに「立憲的民主主義」の理論を与える基礎になりうるということを拒みました。これはよくご存じのところであります。マックス・ウェーバーにとっては、支配に歯どめをかけるということよりも、むしろ積極的に権力行使を展開するという、正反対の問題が、もっぱら、緊急の問題でありました。(p.226)


ウェーバーの政治論が彼の時代に先んじていない理由はここにあると私は考える。もちろん、ウェーバーはファシズムやナチスの具体的な台頭を見ることなく世を去ったのだが、こうした経験を踏まえた後の政治論はモムゼンの言うようにどちらかというと権力濫用に対してどのように制限をかけるかという問題を無視することはできなくなったのに対し、ウェーバーはこの点に関しては非常に無邪気だと言わざるを得ないため、彼の主張をそのまま参考にすることはできない内容となっている。

ただ、ファシズムの台頭から70年以上を経過してその時代を生きていた世代が不在となりつつあり、経済のグローバル化(これと結びついた富裕層の経済的および政治的な権力の増大)という状況も戦前と類似してきた中、最近は各国で戦前的な主張が現実性を持って受けとられる傾向も現われている。各国でカリスマ的なポピュリストをリーダーとして求める機運もあるが、こうした動きとウェーバーの政治的主張は非常に重なる部分が大きいことに気付かされる。こうした点を考慮すると、ウェーバーに学んだ者が彼の誤りを明確に把握しておくことは重要であると思われる。

また、付け加えると、積極的な権力行使をどのようにすべきかという問題は、ある意味では、戦後しばらくの間よりも現在の方が真剣に検討すべき問題となっているのではないか。いかにして権力を暴走させずに、有効な具体的対応策を提示できるか、ということは現在を生きる者にとっての課題であると気づかされた。


O・シュタマー 編 『ウェーバーと現代社会学 上』(その1)
ハンス・アルバートの発言より。

さらに進んでは、究極的な矯正しうべくもない諸々の立場の間にある越え難き対立というものは、マックス・ウェーバーがしばしばそれを強調したという印象があるので大きく受けとられていますけれども、実際には遥かにわずかな意味しかもたないものです。(p.115)


確かに、ウェーバーのいわゆる「神々の闘争」の世界観に対しては、このような世界観も対置しながら批判的に検証が必要であるように思われる。



ユルゲン・ハバーマスの発言より。

パーソンズ氏は、マックス・ウェーバーの教説はイデオロギーの終焉を到来させる上で一つの発展を示していると主張されました。ウェーバーは歴史主義、功利主義、マルクス主義というトリレンマを突破し、ヨーロッパの思想的内戦の前線を乗り越えて、自由な議論の場へと進めた人だ、というように言われています。私はマックス・ウェーバーについてこのような線の太い、そして語の最良の意味で、自由主義的な受けとり方を許す政治的伝統の中に、アメリカの同僚たちがおられることを、羨ましく思います。ここドイツの私たちはいまだに戦争責任のアリバイ探しに追われておりますので、このようなウェーバー理解にはまったく喜んで従いたいものです。ところがそうはいかないのです。ウェーバーの政治社会学は私たちのところでは今一つの歴史をもっているのです。ウェーバーは第一次世界大戦の時代に、シーザー的な指導者民主主義の像を、当時の国民国家的帝国主義を踏まえて描いてみせました。この軍国主義的な後期自由主義の帰結はワイマール時代という時期になって現われました。もっともその帰結に対しては――われわれがウェーバーを現在のドイツにおいて受けとる場合のことですが――ウェーバーに責任があるのだというべきではなくて、われわれ自身が責任を負うのでなくてはなりませんが。ということは、カール・シュミットがマックス・ウェーバーの正統的な弟子であったという事実を、われわれはおろそかにはできない、ということなのであります。以後の思想史に与えた影響という点から見るならば、ウェーバー社会学の中にある決断主義的要素は、イデオロギーの呪縛を打ち砕いたのではなく、むしろそれを強めたといえるのです。(p.128-129)


アメリカとドイツでのウェーバーに対する受けとり方、それを許す社会的文脈の相違が語られており興味深い。現在の私自身としてはアメリカよりもドイツでの受け取り方の方がより妥当だと考えている。ただ、ここでのハーバーマスの理解は、モムゼンの見方に影響を受けているように見受けられるが、責任をウェーバーではなくその後を生きているドイツの人々に負わせている点で相違があり興味深い。モムゼンよりも穏健で、より妥当な見方であるように思われる。

ただ、ウェーバーの言説がどの程度の影響を持ったのかという点については私はやや疑問視しているのだが、人民投票的指導者民主制の像を描いて当時の人々に見せたことは確かであり、このことがシュミットのように権力分立的な要素を代議制デモクラシーから排除する結果を正当化する考え方を提示し、権力側(ナチス)にそれを利用される者がいたことは少なくとも指摘されても仕方がないと考える。そして、このような結果が生じたことは、ウェーバーの影響が主たるものというわけではなく、その時代として、代議制民主主義における自由主義的要素と民主主義的要素の内、自由主義的要素を縮小ないし排除することで独裁を正当化してしまう議論が受け入れられやすい情勢があったことがより大きな要因ではないかと私は考えているが、こうした文脈が生じつつある時期にウェーバーが発言し、その発言の内容が、実際にその時代の流れ(民主主義の貫徹による独裁の正当化)を食い止めるよりは推進する方向のものであったことを軽視すべきではないという点でハーバーマスやモムゼンのような見方に賛成である。(ウェーバーは議会主義的な要素を前面に出す議論もしてはいたが、人権を保護するような観点や権力の暴走に対する抑止という発想はほとんどなかったため、結果的に、人民投票という民主主義的方法により指導者を選び、このような方法で(部分的に)支配を正当化しながら、政策の内容はその指導者に任されることを容認する主張に至ったというのが現時点での私の理解である。)



テーオドール・W・アドルノによる公式レセプションでの挨拶より。

ウェーバーは自ら次のような模範を、すなわちウェーバーからインスピレーションを受けるということは、ウェーバーが展開したことを繰り返したり、普及したりすることではないということの模範を示したわけです。……(中略)……。世間で往々にして行なわれていますように、ウェーバーをたんなる信念の英雄に仕立てるのではなくて、ものごと(ザッヘ)自体の内的論理に従ってゆく人こそ、彼に忠実な人だといえるのです。(p.160)


ウェーバーを研究すると、どうしても彼の研究内容をなぞっていくだけで、ある程度の労力が必要となってしまい、また、それをどのように解釈すべきかということに対してもテクストが比較的開かれているため、ウェーバーが展開したことを繰り返したり、普及したり、といったことになりやすい。前段はこの傾向を踏まえての発言だろう。また、後段部分については、Sachlichkeitということがウェーバーから学ぶべきことのうち最も重要なものの一つであると私も考えるが、それも端的に指摘しており適切である。


飯田洋介 『ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術』

 1880年代前半は、ドイツ国内において自由主義左派勢力が活気づいた時期でもあった。その背景には、1880年に83歳を迎えた皇帝ヴィルヘルム一世がいつ亡くなってもおかしくない状況があった。皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルムはこのとき49歳、普墺戦争や独仏戦争では一軍を率いて勝利に貢献しており、後継者としては何の問題もなかった。ただ、ビスマルクにとって不都合なことには、彼がイギリスのヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアを妃に迎え、かねてから自由主義に好意的な存在として周囲の目に映っており、また彼自身そのように振舞うこともしばしばあった。進歩党や国民自由党離脱組の自由主義左派勢力は、このような状況を前に大同団結して「ドイツ自由思想家党」を1884年に結成していたのである。フリードリヒ・ヴィルヘルムが即位すればこの政党が大きく躍進し、宰相の地位を追われるかもしれない。危機感を抱いたビスマルクは、同党に代表される親英的な自由主義左派を「帝国の敵」と位置づけて攻撃したのである。
 この時期に「帝国の敵」というレッテルを貼られたもののなかには、ポーランド人勢力もあった。「文化闘争」の折にもカトリック抑圧策を通じてプロイセン東部地域におけるポーランド人勢力を抑え込もうとしたビスマルクは、1880年代半ばになるとドイツ語教育の推進やドイツ人農民の入植といったゲルマン化政策をさらに推し進めるとともに、ドイツ国籍を持たないポーランド人農業労働者を国外に追放したのである。(p.174-175)


マックス・ウェーバーに関心を持ってきた者としては、ウェーバーが1890年に行なった東エルベの農業労働者に関する調査を行ない、ポーランド人に対して敵対的な主張がなされたことが想起される。ウェーバーの父が国民自由党の代議士であり、父と親交を持つ政治家たちとの議論などを聞きながら育ったという彼の生育環境なども伝記的なところではよく指摘されるが、こうした環境がどのようなものだったのかということを知る意味でも、ウェーバーに焦点を当てていない同時代の出来事や動きを知ることは参考になる。



 かくして、ビスマルクは政界を離れ、そしてこの世を離れたときにはじめて崇拝の対象となり、カリスマ的な存在となってその後のドイツに君臨し続けていったのである。H・U・ヴェーラーはビスマルクの統治スタイルを、マックス・ヴェーバーによる支配の三類型の一つ「カリスマ的支配」として位置づけた。確かにビスマルクは「カリスマ的」な存在としてよいであろう。だが、近年の研究が明らかにするように、彼がカリスマとして崇め奉られたのは、彼が政界を離れた1890年以降のことであり、しかも彼の実像とは大きくかけ離れたものであった。ここに見られるカリスマとしての「ビスマルク」は、常に軍服を着て、「鉄血宰相」を彷彿とさせる武断的で強力なリーダーシップを持ち、ドイツ・ナショナリズムを体現する天才的な政治能力を持った人物であった。それは20世紀ドイツの辿った激動の歴史が、まさにそうさせてしまったのであろう。(p.234-235)


確かにビスマルクというと、「鉄血宰相」として武断的なイメージがある。本書ではそうしたイメージとは異なる姿が描かれており、大変参考になったのだが、武断的なイメージはその後のドイツ・ナショナリズムの高揚の中で一種の「国父」のようなものとしてビスマルクが祀り上げられたことにより作りだされたもののようである。

ウェーバーはビスマルクが政界を引退した後の1890年代頃から1910年代に政治的な発言をしていくが、これに関連して、ビスマルクなきあとのドイツの政治を誰が担うべきかという課題を彼は持っていたことがよく指摘される。ウェーバーのこうした問題設定自体もビスマルク神話の形成と同時進行していったものであることが見えてくるように思われる。


ヴォルフガング・J・モムゼン 『マックス・ヴェーバー 社会・政治・歴史』

問題は明白である。すなわちヴェーバーは、現代の党組織を、その階層制的・技術的・機能主義的特徴を強調することによって、オストロゴルスキの意味での「マシーン」の型とやや軽率に同一視しなかったかどうか、ということである。こういう疑問は他の場合にも、とくに官僚制概念についても湧いてくる。事実ヴェーバーの現代政党機械の描写は、彼の主観とはうらはらに、全体主義政党にピッタリのものである。(p.65)


最後の一文の指摘はなるほどと思わされた。ウェーバーの理念型は、価値自由に構成しようという努力は払われているが、その政治的な意味合いを明らかにしていくと、いろいろと問題が摘出できそうに思う。(少なくとも、政治以外の視点からの分析によって問題点を析出しようとするより、遥かに難易度が低いのではないか。)



第一に、「人民投票的指導者民主制」は、ボナパルティズムとカエサル主義の周知の現象に、ある点で接近していると言うことができる。支配する者と支配される者との関係が、人に結びついた激情的な性格のものであること、これが両者に共通している。選挙は公然と人間的=人民投票的性格を帯びる。選挙行為は「賛同」の形に近づく。すなわち、勝利を得る政治家の純個人的な指導者資質の承認という形に近づく。(p.79)


人民投票的指導者民主制においては、選挙では、ある政治家が行おうとしている(とされる)「政策」が選ばれるのではなく、「リーダーとしての資質」さらに言えば「人間性」や「人柄」(に対する有権者が抱くイメージ)によって当選者が決められるということだろう。これはまさに21世紀初頭の現在世界中で起こっている潮流と合致する。ここでは、選挙は政策決定ではなく人気投票に近づく。

ウェーバーが人民投票的指導者民主制の議論において決定的に見落としているのは、このように選ばれた指導者が独裁的な権力を行使し、被治者の人権を(生存権を含めて)決定的に奪い得るということである。こうしたリスクに対して、ウェーバーは次の選挙で落とせばよいとも主張していたようだが、言論や情報の統制により正しい判断が出来ないように仕向けられるリスクもある。こうした致命的な政策が実施される場合、数年ごとに行なわれる選挙で落選させるという選択では遅すぎる。

最近、待鳥聡史の『代議制民主主義』を読んでいるところだが、この本に対する私の(読んでいる最中の)理解に従って、ウェーバーの議論を特徴づけてみたい。人民が国の政策を決定しようとする民主主義的な要素だけが強調されることになると全体主義になる危険があるが、代議制民主主義というのは、議会という自由主義的な要素(エリート間の競争による権力の相互抑制)によって民主主義のそうした行き過ぎを抑制する制度として機能してきた(近頃は機能不全になってきているが)。民主主義が行き過ぎると全体主義に転化するため、必ずそれを抑制する別の原理が必要だというのが私がこの本から受け取っている理解であり、ウェーバーの議論もまさに「民主主義の過剰」の典型であるように思われる。また、ポピュリズム的な政治家の台頭もまた、同様に「抑制を欠いた民主主義」の要求を背景としているように思われる。



指導的政治家は――彼の術語の意味で――完全にカリスマ的な特質を備えている。政治家はもっぱら自分自身と、自分が特定の個人的価値理想に照らして選びとった課題とに対して義務を負う。彼の責任は「証すること」に限定される。すなわち彼は、彼のひとそのものに対する従士団の無条件の帰依が内面的な根拠に基づくものであることを、結果によって証明しなければならない。これに反して、大衆の物質的目標に対する義務づけは一切ない。民主主義的指導者は彼の選挙民の負託を実行せねばならなぬ、という理論の残滓は、すべてヴェーバーの断固として排撃するところとなった。(p.193)


ウェーバーの人民投票的指導者民主制の恐ろしい所は、まさにここにあると思われる。「政策」ではなく「人」が選ばれるが故に、指導者に選ばれた者はやりたい放題で、大衆の利益など全く顧慮に値しないとされる。現実には、有権者たちは自分たちに指導者が利益をもたらしてくれるかどうかをかなり計算に入れて指導者を評価するだろうから、理念型の通りにはならないだろうが。



ライプニッツ 『単子論』
この『単子論』は岩波文庫版であり、訳者は河野与一である。

『説』le systèmeは17世紀及び18世紀前半に於ては今日の「体系」の意味に用ゐられたことは寧ろ少く、普通には「意見」「見解」「説」「仮説」の意味に用ゐられてゐた。(p.61)


訳注より。用語の意味の変遷は面白い。次に知りたいことは、何が契機や背景となって意味の変化が起こったのか?である。



 ここにライプニツの最善観 l'optimismeが現れてゐる。現実の世界は可能的世界の最善なるものである。最も豊富な合成体で、場所が最もうまく利用されて、できるだけ多数の要素を含み、而もその要素は展開して最も完全な調和を実現するやうになつている。勿論さう云つたところで世界が毫も悪を含まないといふのではなく又悪の量が少いといふのでもない。創造に先立つて可能的なものの中に豫め必然的に存した不完全性は神と創造物との区別をつける点であつて創造の後にも消滅せずにゐる。さうしないと想像につて神と同じものが出来ることになるから不合理である。然し神の選んだ世界は悪の量ができるだけ少くなつてゐる。(p.268)


訳注より。最善観とされているものの意味内容が理解できたように思う。ただ、不完全性は神と被造物の区別のために必要だとする理由づけは、誰もが承認しうるような議論とは言えず、キリスト教の特定の考え方に抵触しない世界観を表現しなければならないという前提のもとで、その前提から発してひねり出された理由としか思えず、説得力には乏しい議論と言わざるを得ない。また、ライプニッツの哲学全体に言えることだが、これこれのものとして観察し、確認された事実を述べているところは形而上学的な著作においてはほぼないと言ってよいほどであり、これに代わって上記のような前提からひねり出された発想に基づく想定をあたかも事実として扱い、それによって前提に抵触せずに説明できたことにライプニッツは満足しているように見える。(こうしたことはライプニッツに限らず、同時代の哲学にはよくみられるが。)



私はこの作用力があらゆる実体に内在し如何なる作用も常にそこから生ずると説く。従つて、物体的実体でも(精神的実体と同様に)作用を止めることは決してない。物体的実体の本質が専ら拡がりにのみ存する、乃至不可入性にのみ存すると考へ、物体はどう見ても静止してゐるものだと考へる人々は、十分この点に気附いてゐないやうである。(p.470)


これは「単子論」ではなく「第一哲学の改善と実体概念」という論文からの引用だが、例えば、デカルトは物体を「延長」として規定したが、「延長」や「拡がり」や「侵入できないこと」といった性質によって物質を規定する場合、極めて静態的なイメージにより理解されることになるが、ライプニッツはこれに対して、「実体」をより動的なものであると捉えているところに特徴がある。観察者の視点で書かれているが、システムの作動の局面を感得しているものと推察される。


W.J.モムゼン 『官僚制の時代』(その3)

産業化の進展の結果として、ブルジョワ諸階級はいたるところで社会的にも政治的にも崩壊しようとしていた。所得構造の格差の急速な拡大は、19世紀初期にみられた中産階級の相対的同質性を破壊しようとしており、そのことがまた彼らのブルジョワ的エトスを根底から掘り崩したのである。ドイツの場合、この点で事態は特に悪化していた。ドイツ自由主義は、最も基本的な政治問題についてすら、もはや協調不可能な無数の対立拮抗する諸集団に分裂していた。自由主義は1900年頃には政治的にいつまで続くか分らないような挫折感に陥っており、自由主義者たちは政治的エネルギーを喪失し、政治的対立者たちの抵抗を克服するに足る機会すら失っていた。(p.128)


これは19世紀末の状況についての叙述だが、前段の所得格差の拡大が中産階級の同質性を破壊していたという指摘は、ピケティのデータが第一次大戦前のヨーロッパは極めて所得や資産の格差が大きな社会だったことを示していることと合致する。

この時代にドイツの自由主義が挫折感に陥り、政治的エネルギーを喪失していたというのは、現在の世界の情勢と通じるものがある。リベラルな政治的立場は、従来型の保守だけでなく、リバタリアン的な保守やより過激な反動主義者たち(後の二者は既存の秩序に対する拒否を伴うポピュリズムとも結びついている)によって押される傾向になっていることと重なる。そして、現在の世界は、ピケティが指摘しているように、世界大戦後の相対的に不平等が緩和された世界から、再び世界大戦前の不平等な社会に戻りつつあるのだが、これはリベラリズムが政治的な勢いを持てなくなってきていることとは深く関係しているのではないか。



人はすべて、自らの諸価値を選びとり、自らの生の過程においてそれらを立証してゆかなければならないとするヴェーバーの主張はニーチェ哲学から深甚な影響を受けている。(p.138)


この点に限らず、モムゼンはウェーバーに対するニーチェの影響やその精神的な近さを強調する。絶対的な価値に対する懐疑的ないし批判的な姿勢や、精神的貴族主義とでも言うべきメンタリティなど両者に共通する考え方は確かにかなりある。しかし、私の見るところでは、そうしたものは、ニーチェを読んで影響を受けたり学ぶというより、もともと同じようなメンタリティや考え方が(漠然としたものであっても)あり、だからこそ読んで共感し、(はっきりした形を与えられるなどして)表出しやすくなるというようなものであるように思われる。もしそうなのであれば、ニーチェとウェーバーの関係は、単純な影響関係というより、共通の基盤を持つ共鳴関係ということになるのではないか。こうした点への踏み込みがモムゼンには見られず、詰めが甘いと感じる。(モムゼンは歴史家であり思想家や哲学者ではないのでやむを得ないのかもしれないが。)



「訳者あとがき」より。

氏はこの著において、両義性と逆説にみちたヴェーバー思想の統一的な把握を志向し、そのことを、既刊のヴェーバー作品によりは、むしろ未公刊資料の重要性に着眼し、大々的な資料発掘と収集の束の中から手がかりを引きだそうとし、ヴェーバーの思想を制約した「時代的な係数の確定」を図った。(p.174)


「この著」とは『マックス・ヴェーバーとドイツ政治』である。モムゼンが既刊の作品より未公刊資料を重視したというスタンスに対しては、折原浩の『日独ヴェーバー論争』で批判されている。


W.J.モムゼン 『官僚制の時代』(その2)

フリードリッヒ・ハイエック、ハンナ・アレント、カール・J・フリートリッヒのように、1950年代の西欧政治思想に強力な影響を与えた人々は、共産主義との論争で彼らの知的武器の多くのものをマックス・ヴェーバーの議論から学びとった。(p.73)

市場は資本主義制度の主要な機能であるというのがヴェーバーの一貫した見地であった。この理念型的定義において、彼は市場の役割を資本主義の合理性とダイナミズムの特有な源泉としてますます強調するようになった。1950年代の新自由主義者たちに大きな影響を与えたのはこの考え方である。(p.92-93)


冷戦が始まる頃の「西側」陣営の思想家たちに、ウェーバーの議論が影響を与えたという。確かに、「資本主義」という語が歴史上初めて登場し、論争が生じた際の論客の一人がウェーバーだったことを考えれば、「共産主義陣営」が成立していく世界において、原点の理論に立ち返って問題を考えようとすれば、ウェーバーの議論にも行き当たることになったということか。



議会制民主主義は、ヴェーバーには、人民の自己決定原理の実現ではなかった。彼の考えでは、そうしたものは単なるイデオロギーの紙屑に過ぎなかった。議会制民主主義の主要な目的は、純粋なカリスマ的資質の持ち主である政治家――狭量な官僚ではなく、有効な政治的指導者――を権力の座につけることにあったのである。(p.115)


ウェーバーの議会制民主主義に対する理解は非常に問題を含むものだと言え、モムゼンもウェーバーを批判しているが、ウェーバーによる人民投票的指導者民主制の考え方は、昨今見られる政治家の役割についてのある考え方(ポピュリズムを支持する人びとによく見られる)と共通点が多い。当選してしまえばあとは政治家の好き勝手ができるという発想と上記で指摘されているような、議会は権力者を選ぶ手段に過ぎないという発想はほぼ同じことであると言っても過言ではない。



 ヴェーバーは、現代の「人民投票的民主主義」におけるすべてのリーダーシップを、カリスマとの関連で記述するのに躊躇しなかった。一般民衆だけでなく、代表者のグループは、政治的指導者に服従するよう期待されてはいるが、それは指導者が特定の政策見解に立っているからというよりも、むしろ民衆と代表者たちが指導者の個人的指導能力に信頼しているからなのである。一般に民衆というものは、重要な政治問題を現実的利害得失に立って判断することのできない存在であるとヴェーバーは無遠慮に述べている。民衆は問題を最も説得的な仕方で表現する指導者に追随してゆく。従って、民主的プロセスは本質的に、民衆の支持を獲得するために競い合う政治的指導者の闘争であり、その中にあって指導者それぞれの「積極的で、デマゴーギッシュな」資質が格別に重要になってくるのである。このことは明らかにヴェーバーが経済学の領域から、議会制的大衆民主主義の領域に移植された自由競争のモデルである。同時にそこには、この競争における最後の勝利者は、フォーマルな意味で最も有能な指導者であるばかりでなく、彼の政治的プログラムもまた最もすぐれたものであるとする想定に立っているのである。(p.116)


何をするか(政策)よりも誰がするか(指導者)を支持し、服従するというウェーバーの議論は本末転倒というほかない。しかし、ウェーバーがこの議論を展開してから100年後である現在、世界の政治の現実はウェーバーの議論にかなり近い形で動いている部分がある。

ウェーバーが民衆の政治的判断力を低く見ている点は、現在の価値観からするととんでもない見方ということになるが、人々が政策よりも指導者を求めているのだとすれば、その政治的判断力は(個人を見ればそうでない人が多くいるとしても、全体的には)ウェーバーが指摘した程度のものでしかない人が多いということになる。

議会制大衆民主主義における自由競争モデルは、私の見解では、最善の政策を選ぶ方法としては必ずしも適していない。この競争の最後の勝利者の政治的プログラムが優れたものである保証はないし、指導者としての有能さも別のことである。例えば、多くの人を騙してでもその指導者自身を支持させる能力と、政治家や官僚、関係団体などとの利害調整する能力は別のものである。政策立案能力も同様。