アヴェスターにはこう書いている?
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W.J.モムゼン 『官僚制の時代』(その1)

のみならず「理念型」概念は、問われている問題のさまざまな側面に留意しながら、ヴェーバー自身の言葉を借りると「理念型」の適用される現実の部分の「文化的意義」にとって特に重要な諸側面を際立たせるように構築されなければならない。たとえば官僚制に関するヴェーバーの「理念型」概念には、自由な個々人によって構成される社会にとって特に危険なものと考えられる諸要素、即ち厳格な規律、官僚制的諸機能の純粋な形式合理性などが格別強調されているごとくである。(p.27)


自由な個人(により構成される社会)にとって危険な要素がウェーバーの官僚制の理念型では強調されているという指摘は興味深い。モムゼンの見るところによると、ウェーバーは自由な個人を守るべき価値としており、近代における官僚制化の進展は、これを脅かすものと見ていたことになるのだが、官僚制の理念型構成においても既にこうした見方が反映しているというわけだ。

ウェーバーの官僚制の理念型については機能的に優れている点が強調されるという、モムゼンとは逆方向からに見える批判もあるが、モムゼン的な見方に従えば、技術的な卓越性を認めていればいるほど、自由な個人にとっての脅威の度合いも高まることになると理解すれば、これらの見方はそれほど隔たっているわけではないとも言えそうである。



 しかしながら、1913年頃に、ヴェーバーの方法論的アプローチに一つの重大な変化がうかがわれる。「理念型」は、突如として、社会学的研究の唯一の方法論的用具たることをやめて、「理念型」それ自体が研究目標となった。ヴェーバーは、経験的現実に適用されるべき文脈とは無関係に、ますます理念型そのものの精緻な体系確立に関心を示すようになって行った。その出発点が、1912年に『理解社会学のカテゴリーについて』(Über einige Kategorien der 'verstehenden' Soziologie)であった。この論文――その続編はついに書かずじまいだったが――は、「理念型」の構成を意図し、社会的行為の意味の理論を発展させることを主要目的として考えられており、社会史的分析は背後に退いて、むしろ単なる注釈になっている。ヴェーバーは、ここでは「ゲマインシャフト行為」(Gemeinschaftshandeln)と「ゲゼルシャフト行為」(Gesellschaftshandeln)の基本的二分法を指摘する。(p.32-33)


モムゼンのこうした見方に対しては折原浩の指摘に基づいて批判されるべきである。まず素人であっても明らかなのは『理解社会学のカテゴリー』ではゲマインシャフト行為とゲゼルシャフト行為は二分法的な概念ではなく、前者が後者を包摂する上位概念となっており、モムゼンの叙述は明らかに不正確である。そして、この続編は書かれなかったとモムゼンは述べているが、折原によれば、それこそが『経済と社会』とされる遺稿の「旧稿」部分であった。(後年の『社会学の基礎概念』ではこれらの概念は当時の通念に近い対概念になっている。)

モムゼンの見方によれば、1913年頃にウェーバーの方法的アプローチに重大な変化が起こり、理念型構成を目的とする形でより「社会学的」なものになったと見ているのだろう。しかし、ここで「突如として」転換した割にカテゴリー論文の続編が書かれなかったのでは「転換」とは言えず、その場での変異があっただけということになってしまう。(『世界宗教の経済倫理』などとして敷衍されているという言い方はできなくはないが。)これに対し、折原の見方を採用した方が、ここ「突如として」変化が起こったと考える必要はなく、カテゴリー論文を先行して公開できるところまで構想が出来上がったまでのことであり、これに基づいて「旧稿」や『世界宗教の経済倫理』が書かれていったと考えればウェーバーの著作をスムーズに理解できるように思われる。



 ほかのすべての考慮と特権は、国民国家の維持、高揚の最高利益に従属すべきであるというこの立論は、1895年のフライブルク大学での有名な「就任講演」の中心テーマとしてヴェーバーの選んだものであった。彼はこの講演において、国民国家の利益が、他の一切の考慮に絶対的に優越すべきであること、そうして現実政治の場のみならず、立法と政治政策の決定過程に積極的な役割を演ずる学問的領域においても同様であることを明確にしようと全力を傾けた。国民経済政策学Volkswirtschaftspolitikを自称する学科は、国民国家の利益を、社会経済政策や、社会福祉立法に関する諸問題の唯一正当な基準として容認すべきは当然の理であると彼は考えた。科学は、日常生活だけでなく研究の方向づけにも有効と思われる発見物から、究極的な諸価値を抽き出せるものではあるまい――そんなことは全く不可能である――とするヴェーバーの有名な議論が力強く断定される。しかし、この文脈には、一切の学問上の仕事――一般民衆にも政治家にも、専門的助言を与えることの期待されるすべての学科において――のために、「国家理性」の原理を究極的な指針として、自由に適用できる道をつけておこうという意図があったことは明らかである。(p.49-50)


モムゼンの最後の指摘は興味深い。このような文脈でウェーバーの価値自由に関する主張(その萌芽期のもの?)を考えたことはなかった。確かに、学問自体には究極の価値を決めることはできないとされるが、主体である個人によって究極の価値が設定されるのであれば、そこに「国家理性」を置くことも可能であり、ウェーバーはこうした余地を残しておこうとしていた、ということか。こうした文脈で捉えることができるかどうか、次にウェーバーの方法論に関する論文を読む際には注意してみたい。


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テンブルック 『マックス・ヴェーバー方法論の生成』

客観性論文に続く諸論考がこの論文の仕上げないし応用であることをみとめるのは難しくない。私は、カール・クニースに関する研究(1905年、1906年)がロッシャー論文の後続部分だという事実を指しているのではなく、どこにおいてもヴェーバーは客観性論文で区切られた問題領域をとび出していないという事実を指しているのである。確かにクニースに関する考察には、客観性論文の中に遠い照応さえ全く存在しない多くの説明が提出されている。しかし、それらは全て、客観性論文が提出している問題のトポロジーの中で初めて体系中の一点を有するのである。同じことは、さらに他の著作、すなわち「文化科学の論理学の領域における批判的研究」(1906年)、「シュタムラーの唯物史観の“克服”」(1907年)、「限界効用理論と“心理物理学的”根本法則」(1908年)、「エネルギー論的“文化理論”」(1909年)にもあてはまる。だからヴェーバーは、1903年から1909年までは毎年一本ずつ、1906年には二本の、方法論的研究論文を生み出したにもかかわらず、方法論についての実質的論考は、ほぼ1904年だけに限られているのである。1905年と1906年の研究はさらに、客観性論文で達成されたものの拡大・補完として、いや事実またその検証として位置づけられるのである。これに対して、1907年から1909年にかけての諸研究は、まさに時代診断的分析(シュタムラーについて、1907年、ブレンターノについて、1908年、オストヴァルトについて、1909年)と評価されうる。これらは、ヴェーバーがまさに自から獲得したばかりの独自の立場から誤りと判断することができた、同時代の重要な諸学者の論文に対する、遅ればせながらそのときどきの機会に行なった批判という刻印を疑いようもなく持っている。したがって、客観性論文以後の一連の方法論的著作は、質の低下、関心の縮小、内容の狭小という方向によって特徴づけられるのである。(p.23-24)


客観性論文を方法論のピークとして捉え、以後は下り坂を下るような見方については、作品の完成度や内容の適用範囲の広さなどからも、テンブルックの指摘の通りの印象を私も持っている。ただ、この見方だけでは客観性論文以外の論文を不当に低く評価することになってしまうのではないかという気もする。例えば、私個人としてはマイヤー論文やシュタムラー論文には大いに参考となった内容が含まれており(例えば、認識根拠と実在根拠、客観的可能性、概念の一義的使用などについて学んだ)、客観性論文ほどではないとしても、相応の意味や価値を持った論文であると言うことができる。



我々はむしろ、ヴェーバーが方法論に取り組むには〔何か外部から〕強制するおのが必要であった、という印象さえ受けるのである。(p.29)


ヴェーバーが「方法論者」であるという認識に対して、本書は批判しているが、この指摘にはなるほどと思わされた。とは言え、折原浩がヴェーバーにおいては経験的モノグラフと方法論とは相互補完的な関係にあることなどを指摘しているが、こうした観点から見ると、専ら外部的な要因だけから説明するのも適切とは言えない、というところになるだろう。ヴェーバーの思想にとって内在的な理由もあったからこそ、それなりの内容の方法論を書き得たという面も同時に認識しておく必要があるだろう。



以上要するに、短かい方法論の時期と、そこからの、明白に〔彼の業績全体の〕中核をなす即事象的な研究への即座の復帰、という像である。したがって、方法論者という像からではなく、〔本来の〕道をはずして一時的に方法論の領域へと入り込んだ専門学者という像から、〔この問題局面は〕解釈がなされねばならないのである。(p.32)


ヴェーバーを方法論の専門家と見なす解釈よりは実像に近いと言える。ただ、「カテゴリー論文」や「社会学の根本概念」などは方法論ではなく、理論的論稿であるとテンブルックは言うが(p.26)、これらの論文には「理解社会学」の方法についての知見が含まれており、まったく方法論と関係がないとは言えない。そして、これらの基礎カテゴリーを理論的に提示する論稿が『経済と社会』の実質的な社会現象を扱う部分と相互補完的な関係にあるとすれば、ヴェーバーにおいては方法論は「道をはずした」ものとまでは言えないことになる。もちろん、どちらが主たるものであるかということで言えば、経験的モノグラフの側であり、その意味で「専門学者」であるという指摘は正しい。しかし、方法論を活用することにかけては「一時的」なものではなく、継続的なものがあり、その意味で「一時的に方法論の領域に入り込んだ」というより、「経験的モノグラフを書くために方法論的な整理を必要とし、それを実践していた専門学者」という理解の方が妥当であるように思われる。



理念型は確かに一個のユートピアにすぎない。しかし、我々はそれを用いることで初めて現実のもつ特徴を理解するのである。理論経済学を非現実的であるとして斥けるのではなく、その非現実性を放棄しないことが、客観性論文のもつ新しさであり、歴史学派の態度に比べて新しいことであり、かつ、ロッシャー論文に比べても新しい点なのである。(p.41)


なるほど。理念型の非現実性が持つ積極的な機能については、客観性論文から私も学んだことではあるが、その点がこの論文の独自性であるということまでは考えていなかった。なお、本書によれば、この新しさこそ、ヴェーバーによる理論経済学と歴史学派経済学との論争を解決するものであるという(p.44参照)。



訳者による「あとがき」より。

興味深いのは、丁度この時期にテンブルック論文とともに通説破壊的効果を及ぼした著述が相ついで現われたことである。一つはW・モムゼンの『マックス・ヴェーバーと1890-1920年のドイツ政治』であり、他の一つはR・ベンディックスの『マックス・ヴェーバー』(1960)である。前者はこれまで自明的とされていた自由主義の闘士ヴェーバーの像(ビルト)を破壊してしまい、後者は方法論者ヴェーバー像の大幅な修正を要求するものであった。その意味ではこの時期から戦後ヴェーバー研究の特徴的な諸潮流が形成されはじまるのである。それは戦前に比してヴェーバーの宗教社会学、支配社会学等々の実質的な研究にまで視野を大きく広げた点で画期的であった。それについてはツィンゲルレの『マックス・ヴェーバーの歴史社会学』(1981)が極めて適切な概観を与えている。(p.158)


本書(原論文)は1959年に出たが、1960年前後にヴェーバー研究に一つの画期があったという指摘は興味深い。

冷戦体制の形成がその背景にある可能性はある。

例えば、マルクスに対する(補完する)ヴェーバーという認識が少なくとも戦後日本ではあったが、ヴェーバーの西洋近代のみが近代的な「合理化」を成し遂げたという考え方は、東西冷戦においては西側が「合理化」の発祥であるという考え方に繋がる。ヴェーバーの思想を大きく捉えれば、この(普遍史的な合理化という)問題を扱うにあたって最も重要と彼が見做していたであろう宗教社会学や支配社会学に焦点が当たるのは自然な流れということになる。

しかし、モムゼンによるヴェーバー批判は、ここで私が指摘した見方を取ろうとしても、政治思想に焦点を当てた場合、ヴェーバーの国家主義や権力国家への志向、そして人権への配慮の不足などが戦後の「常識」の水準から見ると嫌でも目につくことになるため、東西冷戦における西側を代表する思想家としてヴェーバーを位置づけることには困難があることを早くも(同じ時期に)明るみに出したものと言えるかもしれない。

最後に触れられているツィンゲルレの本は読んでみたい。


W.G.ランシマン 『マックス・ウェーバーの社会科学論』

徹頭徹尾実証主義者である人々の主張の、また徹頭徹尾観念論者である人々の主張の、最も容易な吟味は、その困難ゆえにあえて選ばれた範例に即して、それを吟味してみることである。(p.22-23)


ある主張にとって都合の良い範例に即してその主張を吟味してみても、その主張を検証したことにはならない。むしろ、その主張にとって説明が難しい範例に即してどのような説明が可能かということを吟味することが、その主張の妥当性や妥当する範囲などを確認することに繋がる。



島善高 『早稲田大学小史』(その2)

 この当時、各道府県には一校以上の公立中学校を置くことが義務付けられていたため、中学校の数は次第に増加して、明治33年には全国に217校が存在し、卒業生の数は7,747名を数えた。
 これに対して官立の高等諸校は、全国五つの高等学校を始めとして、高等師範、高等商業、医学専門、外国語学校、美術学校、士官学校、海軍兵学校などがあったけれども、すべて併せて五千余名しか受け入れ能力がなかった。従って、官立学校に合格できない、いわゆる浪人が多数出現することとなって、受験生のみならず、文部省としても私立学校に期待せざるを得なくなった。(p.59)


明治期から続く「私立頼み」の高等教育政策が、現在の公的な教育支出が少なく、それに反比例して家計による教育支出を要求する社会へと繋がっている。



 早稲田大学は明治35(1902)年以来「大学」と称するようになり、商科や理工科を設置して綜合大学の実を備えるようになったけれども、法令上は飽くまでも専門学校に過ぎず、正式の大学は帝国大学のみであった。明治政府がモデルとしたドイツには私立大学が一つも存在せず、国家の重責に任じる者は官立大学でこれを養成しなければならないという考えが一般的であったからである。
 しかし第一次世界大戦でドイツ・オーストリアが敗退し、勝利を占めた連合国のイギリスには官立大学が一つもなく、またアメリカでも第一流の大学はむしろ私立大学であるという現実を知るに及んで、官立大学偏重の考えが次第に修正されるようになってきた。
 そこで帝国大学以外の私立大学はさまざまな働きかけをし、また政府内部でも大学制度改革の機運が高まって、大正7(1918)年12月になってようやく、帝国大学、公立大学、私立大学を一律に規律する「大学令」(全21ヶ条)が公布されるに至った。(p.94-95)


戦争でドイツが負けたことと大学に関する考え方が戦勝国である英米にシフトしたとする説明は興味深い。ただ、高等教育の必要性が高まっていたことも重要な要因ではないかと推測されるなど、上記以外の要因がいろいろとあると思われるので、そうしたところをよりトータルに知りたいと思う。



 配属将校の指導下に行なう軍事教練が学苑で始まったのは、大正14(1925)年からであった。軍事教練導入に際して、学生たちは全早稲田軍事教練反対同盟を組織して反対運動を行なったが、学生の検挙や家宅捜索などの弾圧があり、また軍事教練を受けた学生に対する在営期間短縮の好餌もあって、次第に反対する学生も少なくなり、軍事教練は定着していった。
 当初、配属将校は学苑の教育に介入することはなかったけれども、昭和9年、平野助九郎大佐が御真影の奉載及び四方拝(1月1日)・紀元節(2月11日)・天長節(4月29日)・明治節(11月3日)の四大節拝賀式の挙行を迫り、学苑はこれを受け入れた。また昭和14年からは、従来、希望者のみに実施されていた大学部軍事教練が学生全員の必修科目になった
 「昭和16年度学部・学年別教練出席者比率」によれば、各学部の学生は、在営期間が短縮され、また幹部候補生試験に有利であるというので、七割から九割がこれに参加しているのに対して、文学部学生の出席率は悪く、出席率は六割から七割ほどであった。文学部には自由奔放で勇気のある学生が多かった証拠であろうか。(p.126)



軍事教練に関しては、『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』という本を通して私は知ったのだが、この本でも早稲田での反対運動についての言及があるなど、早稲田での反対運動は大きな意味を持つものであったようだ。

この軍事教練は、第一次大戦後の軍備の縮小により余った将校を学校に天下りさせるためのものであったようだが、満州事変以後には配属将校の教育への介入や軍事教練の必修化など、軍国主義化の流れに沿った動きをしていったことがわかる。

文学部の軍事教練への出席率が低いという指摘は興味深い。これについては、人文・社会科学を学ぶことが批判的思考の育成に繋がっていたのではないかと推察する。



 かくて学苑の学生・生徒はそのほとんどが勤労動員に駆り出されるようになった。さらに同年10月2日には「在学徴集延期臨時特例」が公布され、在学中の徴集延期特典も停止された。ただし工・理・医の各学部、高等学校・大学予科の理科、各医科大学、各工業大学の予科、医学・薬学・農学などの専門学校の学生・生徒は、召集を延期され大学に留まることが出来た。
 また選定された大学院特別研究生に対しても、徴集その他の動員を免除し、月額90円以上の学費を支給して、国策遂行に直接結びつく研究に従事させることになった。その対象となる大学は、七帝国大学、東京商科・東京工業・東京文理科の三官立大学、それに早稲田・慶應の私立大学の合計12大学に限定されていた。(p.134)


昭和17年に戦況が悪化し始めた後の、昭和18年の状況。

理系の専門的な知識や技術を習得する学生には、研究を通して国策(戦争)に加担させ、そうでない者には勤労動員という形で国策(戦争)に加担させていたことがよく分かる。

大学院特別研究生に国策遂行に直接結びつく研究に従事させる対象となった12大学について、政府による各大学の研究水準に対する評価が反映されているとすれば興味深い。ただ、七帝国大学とあるが、昭和18年当時には帝国大学は9校あったことが気になる。9大学に適用されていたが当時の外地にあった2校(京城、台北)は現在は日本国内にないということで本書が(または依拠した資料が)除外しているのか、それとも昭和18年当時の段階で外地の2大学には別のルールを課していたのかが気になる。



 昭和18年10月に閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」及びそれに基づく措置は、私立大学にとって死活問題であった。すなわち高等教育を徹底して理工系中心に再編成し、商科大学は産業経営を主眼とする大学として刷新し、文科系大学は入学定員を三分の一程度に、文科系専門部は入学定員を二分の一程度に縮小し、文系大学・専門部で理科系専門学校へ転換可能のものはその実現を図るというものであったからである。
 これを受けて昭和19年9月、東京商科大学が東京産業大学に、神戸商業大学が神戸経済大学に大学の名称を変更した。戦時下に営利を目的とする商業を研究するのは適当でないという意見があったからである。(p.137)


少し前にも文系学部を廃止の方向へと持って行くといった発言が政府の側からあったが、現代の時代の空気は当時と通じるものがあるのではないか。



 昭和17(1942)年に学徒錬成部に吸収されていた体育会は、昭和20年4月に学徒錬成部が廃止となったため、同年11月、新たな体育会規程によって復活した。……(中略)……。
 ところが終戦直後の戸塚球場は甘藷畑と化しており、……(中略)……、いずれも直ちに使用しうる状態ではなかった。(p.158)


終戦直後の大学の敷地が畑になっていたというのは、北大も同じであった。また、札幌の大通公園も同様である。



 学苑では創立125周年に向けて、アジア太平洋地域における新たな教育研究拠点作りを進めているけれども、まさにシンガポールはこのような拠点として理想的な環境であり、今後、アジア地域研究の拠点として、また遠隔教育の拠点として展開することが期待されている。(p.214)


こうした動きを率先して行っていくあたりも私立大学らしいと思う。教育や研究を目的として掲げはするが、いかに学生を集めるかという視点からもこれらの取り組みは説明が可能である点に留意したい。



 早稲田大学は、平成9(1997)年度から同志社大学との間で学生の相互交流をスタートさせた。早稲田大学と同志社大学とは古くから教員招聘などで親しい交流が続いていたけれども、学習機会の多様化、カリキュラム改革の一環として、全学部学生を対象として相互に交流させることとしたのである。
 ……(中略)……。
 このようにして私立大学同士が互いに協定を結び、足りない部分を他の大学で補うことが出来るようになり、学生もまた学部・大学の垣根を越え、講義や教員を主体的に選ぶことができるようになって、教育のオープン化が進んできた。(p.215-217)


限られた資源しかない私立大学が相互補完し合うという関係はなかなか興味深い。これも経営面から見て合理性がある点に留意しておきたい。

また、こうした交流が早稲田の場合、同志社との間での締結を嚆矢とする点も興味深い。歴史的経緯もこうしたところに反映しているのであろう。


島善高 『早稲田大学小史』(その1)

下野をした大隈が立憲改進党を結成し、そうした直ちに学校を作るのであるから、政府はその学校は立憲改進党の党員養成所ではないかと警戒していた。それにもかかわらず、東京専門学校は大胆不敵にも政治を前面に出したのであった。
 第二の特徴は邦語講義を打ち出したことである。当時、学界を代表する東京大学では日本人の教授も英語で講義をし、しかもドイツ語も課していた。大隈はこのような欧米心酔を遺憾とし、学問の自主性を確立するためにも日本語による講義が必要であると考えていた。(p.30)


現在でも早稲田は文学や政治に強いというイメージがあるが、創立当初から政治を前面に出していたというのは興味深い。本書を通読しても、ここにはそれなりの連続性があるように見える。

邦語講義を打ち出したことを誇っているのが興味深かった。今までは官立大学に関する本を読むことが多かったので、明治前半には外国語での講義はやむを得ないものであると考えていたし、大学によっては英語で抗議を受けて(苦労しながらも)十分理解できるほど学生の語学水準が高かったことを誇るような叙述もあったのに対し、私学に目を転じるとそれとは別の風景が見える。

ただ、明治初期について言えば、ある程度まともな水準の学問を学ぶにはやはり外国人教師から外国語で学ぶしかなかったのではないかと考える。私学は、それよりも低い水準の学問を教えていたり、広く学生を募らなければ経営が立ち行かないという事情があった、という現実から邦語講義というものは自然と出て来るのではないか。これに対し、大隈は学問の自主性を確立するという名目を掲げているが、当時の学生の質と数を考えると邦語しか選択肢はなかったのではないかと私は疑義を持っている。(他の私学がどうだったかを見ることでこの問題はある程度の解答が得られると考えており、この点はそうしたものを読むことで判明してくると思う。)



 式典の中で山田は、東京専門学校の教育方針として掲げた日本語による講義が成果を挙げていると自負したけれども、これは決して自己満足の弁ではなかった。それというのも、明治16年に、文部卿福岡孝弟の名で、東京大学でも外国語を主とする講義方針を止め、日本語を主として講義をする方針をとったからである。
 このことを聞き知った小野梓は、明治16年5月15日の日記に「余聞く、東京大学の我が専門学校を模倣し、邦語を以て授くるの専門の科を設くるの議を決すと。案(つくえ)を拍して曰く、是れ賀すべきなり。我が校の贏(か)ちなり」(原寛文)と記して喜んだ。(p.41)


日本語による講義が成果を挙げたのはそうなのだろう。ただ、この根拠として東京大学が日本語の講義を主とする方針をとったことを持ち出してくるのはどうかと思う。東京大学がこの方針を決定した理由などを見ていないので確かなことは言えないが、基本的にこれはお雇い外国人教師に支払う莫大な報酬という重荷があり、彼らから教えを受けて学問を習得した弟子たちをさらに留学させて最先端の成果を身につけさせるところまで育成し、教師としての役目を果たせる日本人が出てきたら順次お雇い外国人を置き換えて行く必要があったという事情があるからである。つまり、こうしたことを考慮するだけでも、東京専門学校が非常に成果を挙げているから東京大学もそれに倣ったというわけではないのではないか、と言える。

このことの説明のために、日記を持ち出しているのもいただけない。日記は公開を前提していないので他者からの批判を前提していないため好き勝手なことを書ける媒体であり、その記事の内容を根拠として、東京専門学校は素晴らしい(成功していた)と言おうとすること自体、本書の叙述の客観的妥当性に疑義を抱かせるものである。早稲田はかなり早い時期から私学の雄であり続けたのだから、学校として優れていたことを示すために、こうした無理な理由づけは必要ないように思われる。



 開講時の文学科には坪内以外に、高田早苗、畠山健、饗庭篁村、森槐南、下山寛一郎、落合直文、三島中洲、森田思軒、三宅雄二郎、信夫恕軒、関根正直らの錚々たる講師陣がおり、明治24年11月からは大西祝(操山)が加わり、哲学を担当するようになった。大西は同志社英学校で学んだ秀才で、新島襄がひそかに後継者と目していたほどの人物である。大西以来、同志社からは浮田和民、安部磯雄、岸本能武太らが次々と迎えられ、わが学苑と同志社との密接な関係が形成されることとなった。(p.46)


同志社と早稲田との密接な関係がどのようなものであったのか、興味を惹かれる。この叙述からも、私学関係について個別に調べるにあたっては同志社は外せないという認識を深めた。



 ところで明治21年5月には、私立法律学校が帝国大学総長の監督を脱したのを機会に、明治法律学校、英吉利法律学校、東京専門学校、専修学校、東京法学校(後に和仏法律学校と改称)の五校が集まって「聯合討論会」を結成し、民事刑事の問題について意見を戦わせた。しかしこの五大法律学校討論会も明治24年になると中絶してしまった。それは、この頃に明治政府の法典編纂が一段落し、いかなる法理を日本に導入するかという議論は終わって、今度はいかに成文法典を解釈するかということになったから、次第に法律学は魅力がなくなり、私立法律学校の入学者も激減したからであった。(p.52)


法典編纂が一段落したことで成文法典の解釈が主要問題となり法学に魅力がなくなったというのは恐らくそうなのだろう。ただ、そのことと私立法律学校への入学者が激減したことを直接結びつけている点には問題があると思われる。



 東京専門学校では、明治19(1886)年5月、各学科の講義録を発行し、これを頒布して校外生を募集することにした。様々の理由で高等教育を受けることの出来ない人々に勉学の機会を与えることも、学苑の使命であると考えたからである。
 ……(中略)……。
 東京専門学校出版部が発行する講義録は予想外の評判を得、大学経営に資するところもまた大であった。(p.53-54)


講義録の発行は教育上の使命であるというのは確かにその通りとしても、大学経営に資することについても想定はしていたと見るのが妥当ではないか。



 此学校は決して一人のものではない。国のものである。社会のものである。所が、それならば何ぜ文部省がしないかといふに、茲に文部大臣も御出だが、文部省でさう何から何まで出来るものではない。それで時々国家も病気してどうかすると一方向に走る。それで何でも私立で権力の下に支配されずして、さうして独立して意の向ふ所に赴くが必要。元来、私立学校から大政治家、大国法家又は大宗教家も起る。そこで此私立は矢張り必要である。決して是は大隈のものではない。(p.54-55)


明治30年、創立15周年祝典での大隈重信の演説より。官立では政治や行政からの独立が危ぶまれ、政府も時に一方向に走るため私学が必要という主張にはそれなりの説得力がある。