アヴェスターにはこう書いている?
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Bruno Klein、Achim Bednorz、Rolf Toman 『GOTHIC 神秘・莊嚴 歌德藝術 1140-1500年 中世紀的視覺藝術』

然而我們可以推測,柯爾――能夠向受的藝術家充分傳達自身多元的「邊緣經驗」(borderline experience):那些介於中產階級與宮廷貴族,東方與西方,宗教與世俗之間的歷練。(p.218)


フランスのブールジュにあるジャック・クールの邸宅についての解説より。

ジャック・クールの邸宅には小康家庭から身を起こしてフランス王の財務大臣にまでなったという経歴が反映した、様々な階層の者の彫刻などが共存していることが指摘されている。彼自身のborderline experienceを芸術家に十分に伝えていたからこそ、そうした中産階級から宮廷貴族まで、東方から西方まで、宗教から世俗までに渡るものを共存させ得たのではないか、という主旨のことが書かれている。



然而在中世紀時期,狩獵活動是上流社會男性交際應酬,並展現不凡身手的社交場合。此外,當時人們把狩獵也當作戰爭的準備替代活動:(以下略)(p.249)


中世においては、狩猟は上流社会の男性の社交の場であるほか、当時の人々にとっては狩猟を戦争準備の代替活動でもあったようだ。このような指摘を受けると、戦国時代や江戸時代の日本などでも、もしかすると同じような意味があったのではないか?という気がしてくる。実際にどうなのか、少し気になるところである。


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陳柔縉 『台灣幸福百事 你想不到的第一次』(その2)

1925年春天,中治稔郎就在永樂町二丁目五十二番地<迪化街一段附近>租房子,自創「天母教」,既不屬西方基督或天主教會,也非台灣或日本的傳統教派。中治教主的做法跟特別,既去福建湄洲迎回媽祖,去福州請來城隍爺,也迎請台北寺廟奉祀的關帝爺,再加上日本的天照大神統統都拜,說是要促進台日融合。(p.120)


大正時代の末1925年の春に中治という人が天母教という新興宗教を起こした。そのやり方は特別であり、媽祖、城隍、関羽、天照大神などをすべて拝することで、台湾と日本の融合を促進しようとしたという。

日本による台湾統治においては、大正7~8年頃に矢内原忠雄が言うところの「内地延長主義」、すなわち、台湾の同化政策へと方針転換があった。思うに、この天母教の発想も、こうした政治的な変化と並行しているところが非常に興味深い。



相較於戰後美援時期,大量美國商品登陸台灣,其實,20年代,才是美國貨第一波襲台。電冰箱、雪糕、哈雷機車、米老鼠之外,福特、通用等集團的汽車也來報到。(p.132)


20年代はアメリカ商品の第一波が台湾を襲い、冷凍庫、アイスクリーム、ハーレー、ミッキーマウスのほか、フォード、GEなどのグループの車も来ていたという。こうしたことから20年代前後の台湾の社会の変化、経済的な発展がはっきりと見て取れる。



新竹並非當時台灣最繁榮的城市,但有產地之便,錦水這個地方就有油田,圓圓的油槽,高高的鐵塔油井,既是新竹早年的特色,總督府也在新竹設置了天然瓦斯研究所,新竹會率先建設天然瓦斯充氣站,其來有自。(p.190)


新竹は現在も工業都市というイメージがあるが、その歴史的背景としてはこうした資源の存在があったということか。国立清華大学を卒業した友人がいるが、台湾の大学で理系では最高レベルだとも言われているから、これらのことは一連のこととして相互に関連しあっているのではないか。機会を見て少し掘り下げてみたい。



麥當勞來台前,已在三十多個國家有七千多家分店。1983年底,台灣麥當勞的老闆孫大偉在芝加哥與總公司簽約後,台灣這邊馬上小地震;有農民立委要求政府禁止麥當勞及類似的速食業來台,因其主原料為小麥和畜肉,業者勢必自美國大量且低價進口,將威脅本地的農牧業。不過,經濟部門都表歡迎,認為讓進步的世界性食品業者登台,可刺戟台灣業者提升品質。(p.228)


83年に台湾にマクドナルドが入ってきたとき、農牧業者たちは台湾の農牧業を破壊するとして反対し、マクドナルド及び類似のファストフード業が台湾に来ることを禁止するよう政府に求めた。しかし、経済界は台湾の業者の品質を向上させる刺激になるなどとして歓迎した。

現在の日本のTPPでの議論がメディアで語られる際に取り上げられる図式と同じである。80年代は企業のグローバル化が進み、「多国籍企業」の国境を超えた進出が目立ってきた時代であった。台湾でもこれに対する反応があったことがわかる。



1988年底開始動工,政府和民間又顯得極度焦急。六線一起動工,全台北到處見到工地圍籬,交通到處打結,完工時間卻定得過度樂觀,讓大家有錯誤預期,結果,1992年應該坐上木柵線捷運的夢想,一年又一年跳票,失望程度一年深過一年,捷運被諷刺為「劫運」,連打掉的氣話都出現了。(p.230)


台北のMRTが開通するまでの経過について、1988年に着工し、92年には木柵線に乗れると楽観視していたが、1年過ぎるごとに失望も深まるというありさまで、MRTを捷運jieyunというが、これを同じ発音の「劫運」(意味は「悪運、悲運」)と諷刺されたという。

ちなみに開通したのは1996年であり、着工から最初の線が開通するまで8年を要している。清朝時代に鉄道が開通するときも遅れが酷かったが、地下鉄も(理由は記されていないが)順調にいかず、現在も桃園空港までの路線が同じように予定を大幅に遅れている状況がある。台湾のインフラ整備には意思決定において問題があるのは確かなようである。



除了移動的速度和時間更加精準,捷運一開始的嚴格規則,讓捷運站形成一種嚴肅的場域氛圍,不容隨便,於是,台北人從捷運學會排隊與不亂丟垃圾,體會了次序與整潔之美,更願意自制,於是,捷運也成為改造台北生活文化的重要推手。(p.230)


MRTは厳格な規則を始めることで、駅が一種の厳粛な場としての雰囲気を作りだし、台北人に列に並ぶことやごみのポイ捨てをしないことなどを教えており、生活文化を改造する重要な推進者となっているという。どこまで本当か微妙な感じもするが、なかなか面白い指摘である。

確かに台北のMRTは駅でも車内でも飲食禁止であり、日本の地下鉄よりも行動は制限される。(私もうっかりガムか飴を口に運んでしまったことがあり、ヒヤヒヤしたことがある。)こうした規則は、台北の若い人にとっては特段の抵抗感なく受け入れているように思われるが、恐らく、開通を経験した世代にとってはある程度の教育効果はあったのかもしれない。

ちなみに、台湾のMRTでは小さな子連れなどで乗るとほぼ間違いなく席を空けて譲ってくれる。その辺も加味すると、トータルで見たマナーは日本の地下鉄よりも良いくらいである、ということは付言しておきたい。


陳柔縉 『台灣幸福百事 你想不到的第一次』(その1)

事實上,如果台灣社會的物質文明發展程度可以畫成曲線,20到30年代,就有一段高坡,不失為一個豐富的年代,之後隨戰爭而滑落,戰後初期則低迷待甦,慢慢才在向上攀上。(p.5)


本書の一つ一つの記事を読み、それらを俯瞰してみると、こうした動き(20~30年代に物質文化が向上し、戦時中から戦後初期までは低迷しているが次第に向上し始める)をしていることが感じられる。まず、1920年代前後に近代的な生活に関する文物など(車、バイク、冷蔵庫、ヨーグルト、アイスクリーム、ミッキーマウスのようなアメリカのキャラクターなど)が次々と台湾社会にもたらされたことが見て取れる。その後、動きが鈍い時期が続いた後、60年代後半から70年代頃に社会の消費の様子が大きく変わり始めたことが分かる。例えば、インスタントラーメン、スーパーマーケットやコンビニ、クレジットカードなどの登場などがjこの時期に相次いでいる。

本書のように、はじめてのものに着目して、それを時系列で見て行くというのは、社会の変化を見るにあたっては分かりやすい方法の一つとなりうることがよく分かった。



一些富豪還賄賂官員,改變鐵道預定路線,以避開他們家的墓地。如此情狀,費時兩年,換了五次外籍總工程師,才造好十一哩路,還不到基隆。(p.14)


清朝の支配下にあった台湾において鉄道が敷かれ始めた頃の話。
1887年に工事開始したようだが、91年になるまで台北から基隆までの区間(20数キロ程度の距離)を開通できなかったという。私が台湾といつも比較する北海道では、鉄道は、小樽(手宮)-札幌間は明治12年(1879年)に測量開始し、翌年には30キロ超の区間を開通している。これと比べるとかなり進みが遅いと言える。そうした遅延の要因として、富豪が官吏に賄賂を渡して彼らの墓地を通るのを回避するように路線変更をさせるような状況があったというエピソード。2年の間に5人の外国人リーダーが交代したというのも興味深い。



英文的「公園」,最初意指王侯貴族富商獨占使用的狩獵和大庭園,擅入者不被處死,也會遭到嚴厲懲罰。十九世紀中期,封建制度崩壊,市民要求開放,「公園」才遂漸公共化,並成為近代都市結構中不可缺的元素。英國著名的海德公園就是這樣來的。(p.32)



大意は以下のような感じか。

英語で言う「公園」は最初は王侯貴族や富裕な商人が独占的に狩猟をするようなところであり、侵入者は死刑に処せられたり厳重な罰を受けるようなところであった。19世紀中期に封建制度が崩壊し、市民が解放を要求したため、「公園」はようやく少しずつ公共化し、近代都市システムの中で不可欠の要素となっていった。イギリスの著名なハイドパークはこのようにしてできた。

王侯貴族の私的なエリアだったものが都市の公共的なエリアへと変わったという指摘が興味深い。



私人醫院部分,30年代備置「X光線」已很普遍,只不過,珍珠港事變爆發,美日宣戰,英文變成敵國文字,讀1942年11月的興南新聞,會發現一日的報上,醫院廣告,這三個字突然消失,而被「理學診療科」取代了。(p.43)


30年代には「X線」という言葉はすでに広まっていたのに、日米の開戦によって英文字は敵国文字とされたため、42年の新聞ではX線の文字が消え、「理学診療科」に置き換えられていることを指摘している。



包著甜甜的紅豆、克林姆(奶油),在日本管叫這種麵包「餡パン」,是日本人的發明。1869年開業的木村家,率先把傳統和菓子的基本材料紅豆餡和西方麵包結合,創出紅豆麵包。(p.46)


甘い小豆やクリームを包んだパンを日本では「あんぱん」といい、日本人が発明したものである。1869年に開業した木村家は真っ先に伝統的和菓子の基本的材料であった小豆あんと西洋のパンを結びつけ、あんぱんをつくり出した。

大意は以上のようになるが、1869年というと明治2年であり、意外と早い時期に考えられたものであることに少し驚いた。当然、台湾には日本からあんぱんが入っていくことになる。



台灣人吃麵包已經很久,中年以上的台籍民眾不習慣講「麵包」,「胖」這個音才能勾起美味的麵包記憶。「胖」就是日語的麵包「パン」的發音,台語直接借用。(p.46)


パンという日本語も台湾語に「胖」入り、台湾ではかつては日常的に使われていたということか。中年以上の台湾籍の人がよく使っていたというが、本書は2011年に出ていることを考えると、70年代から80年代頃までよく使われていたのだろうか?(この頃に企業のグローバル化に伴い、台湾でも中国大陸と同じく「麵包」が使われるとすれば理解しやすい。)また、胖という単語が現在でも通用するのかということも気になる。



十八世紀後期,世界已經發現,從未有兩個人有相同的指紋。1891年,阿根廷的一位警官率先建立世界第一個罪犯指紋檔案,並創一套分析的方法。過沒幾年,日本司法省推動「指紋法」,法律還未立法施行,殖民地台灣已於1908年由台北監獄開始試辦。(p.56)



18世紀後期、同じ指紋を持つ人はいないことはすでに世界で知られていた。1891年にアルゼンチンの一人の警官が世界初の犯罪者の諮問の記録文書を作成し、分析方法を確立した。それから何年もしないうちに、日本の司法省は「指紋法」を推進し、法律が施行される前に植民地である台湾で1908年に台北監獄から試験的に運用を始めた。

大意は以上のような感じだが、植民地であった台湾でいろいろな社会実験的なことをしたが、犯罪捜査の方法についてもそれが行われたことがわかる。

この記述を読んで、連想したのだが、近年は植民地などというものはないことになっているが、ここ10数年ほどの間に、日本ではいろいろな「特区」を作って政策などを試しに行ってみるということがしばしばなされている。自治体などは競ってそれに手を挙げることがあるが、ある意味、こうした特区というのは、当時の殖民地と似ているところがあるのではないか?



當時報紙讚說,兩人除去舊禮,共乘汽車,是一場「文明結婚」。「文明」是台灣1910年代的流行語,中國亦然,意味追趕文明是流行。那個時代,往往捨棄東方舊俗,學著西方做法,就會被冠上「文明」兩字,代表進步。(p.92)



西洋式の結婚式で新郎新婦が車に乗ることがあるが、これを1915年当時の台湾の新聞では「文明結婚」と書かれた。「文明」は1910年代の台湾の流行語であり、文明の流行を追うことを意味した。あの時代、人々は往々にして東洋の古い習俗を捨て去り、西洋のやり方を学んで、その上に「文明」の2文字を被せ、進歩を代表させた。

1910年代の台湾で「文明」が流行語となっていたという点に注目した。最初の引用文やそれに対するコメントで述べたように、本書から1920年代前後(10年代から30年代)に台湾の生活水準が大きく向上したことが分かる。10年代に「文明」という言葉が流行したのも、その頃に続々と西洋の文化が入ってきたことを反映していると言ってよいだろう。



自民党の憲法改正草案を爆発的にひろめる有志連合 『あたらしい憲法草案のはなし』

 いままでの十三条は〈すべて国民は、個人として尊重される〉となっていましたが、憲法草案では〈全ての国民は、人として尊重される〉とあらためられました。
 「個人」と「人」。たった一字の差ですが、これは大きなちがいです。
 「個人として尊重される」といったばあい、ひとりひとりの個性や考えかたのちがいを尊重するという意味です。いっぽう、「人として尊重される」というのは、ひとりひとりの個性や考えかたはどうでもよく、人間としてあつかえばそれでよろしい、という意味です。きょくたんにいうと、動物あつかい(おりにとじこめる、くさりでつなぐなど)しなければ、それでよいのです。とくに「人として問題な人」の人権は、尊重しなくてよいでしょう。(p.38)


自民党憲法草案の問題点は多岐にわたり、まさに論外の案なのだが、よく指摘される点の一つは、この13条の規定で「個人」が「人」になったという点である。「人として尊重」というのは、「動物扱いしなければそれでよい」という読み替えはなかなか直観的に理解できる分かりやすい指摘であり参考になった。今後、憲法草案について人に説明するときに使えそうなフレーズである。



 ですので、「個人の自由は国より大事」という「個人主義」をぼくめつするためにも、「個人」を「人」に変えたのです。「個」の一字を削除するだけで、わがままな人はへり、政府や国の仕事をする人たちは、仕事がやりやすくなるでしょう。
 憲法草案は人権を剥奪する(うばう)のではありません。人権を制限したい(はんいをせばめたい)だけなのです。(p.39)


最後の一文は、自民党憲法草案の考え方の重要な点を、起草者の立場に寄り添いながら非常に端的に指摘している箇所である。人権を制限する、すなわち一部を奪うことで、「国」を動かす人々が何の障害もなく自分たちの思い通りのことができるようにしたい。これが自民党憲法草案を貫く考え方の非常に重要な要素であると言える。



 緊急事態のときは、国民の生活も大きく制限されます。
 〈 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない〉(99条)
 ……(中略)……。
 緊急事態宣言が出たら、みなさんは政府の指示(命令)にしたがわなければなりません。人権は制限されるか、停止されるでしょう。……(中略)……。
 表現の自由(21条)はまっさきに規制されるでしょう。まえにも申しましたように、表現活動は、もともと国の安定をそこねる元凶なのです。(p.51-52)


最後の一文の考え方は、自民党的な発想というべきものである。自民党そして、自民党憲法草案の発想は、「国」が「国民」を支配することが第一義的な出発点であり、「国民」は「国」の活動を邪魔しない範囲で自由や権利が認められるべきだ、という発想に立っている。少なくとも、「国」から「国民」に人権が賦与されている(保障されている)という考え方が基本となっている。これは個人の人権が先にあり、それを守るために政府が存在するという発想とは逆のものである。

もう少し具体的なレベルに落としてみると、日本国憲法では自由や人権に関連して「●●を侵してはならない」というような表現が多くみられるが、自民党草案では基本的にそれらの箇所は「●●は保障する」と書き換えられている。ここには主語が書かれていないが、日本国憲法では、まず個人が自由や権利を持っており、これを政府が「侵してはならない」と規定しているのは明らかであり、政府を規制する法となっている。これに対して、自民党草案では、隠された主語は個人ではなく「国」であり、「国」が「国民」に対して自由や権利を保障する、という書き方になっている。少なくともそのように読む余地を十分に残した書き方になっている。この発想は個人が権利を持つのではなく、「国」が「国民」に権利を与えている、という発想に立つもの、少なくともそうした考え方を排除していないという点で問題があり、また、憲法が政府を規制するのではなく、政府が国民への権利の付与の度合いを調整できる余地を与えている点で立憲主義の考え方にも抵触する点があることを指摘しておきたい。



 また、緊急事態条項は国民への命令をふくむ強い条項ですので、これを徹底させるには、政府をバックアップして国民をだまらせる強い力が必要です。そこでかつやくするのが「三」でおはなしした国防軍なのです。
 戦前の日本でも、日露戦争後の日比谷焼き討ち事件(明治38年)、関東大震災(大正12年)、2.26事件(昭和11年)のさいに、緊急事態宣言に似た「戒厳」という措置がとられ、軍隊がかつやくして国民をきびしくとりしまりました。
 憲法草案の三原則が「日ごろのそなえ」だとしたら、緊急事態条項は「いざというときの切り札」です。この両面からのまもりで、日本はますます強い国になるのです。(p.53-54)


「自衛隊」では、国民に向けての取り締まりはできないが、「国防軍」にすることによってそれが可能になるという指摘はなるほどと思わされる。

緊急事態条項について議論する際は、かつての戒厳令などが敷かれた際の歴史をしっかりと踏まえる必要がある。日本の戒厳令については私はそれほど詳しくないが、私が日頃から関心を持っている台湾の地は、戦後48年から87年までの期間、戒厳令が敷かれていたことがあり、「白色テロ」の名で呼ばれるような自由にものが言えない時代を経験していることは知っている。このことから、一時的なものであるはずの戒厳令が非常に長期にわたって恣意的に政権によって設定されることもあり得ること、それに対して抵抗しようにも言論や表現や結社の自由などが制限されるため事実上非常に困難な状況に置かれる可能性があり、また、そうした条件下で様々なこと(憲法改正国民投票や人権をさらに制限できるような法律の施行)が決定されていく可能性があること、少なくともそうしたことに大幅に余地を開けることになるということは理解しておくべきだと考えている。



 憲法で国家権力をしばる。憲法は国民から権力にむけられた命令である。このような考えかたを「立憲主義」といいます。立憲主義は、すべての国の憲法に共通した原則です。
 しかし、あたらしい憲法草案では、この原則が逆転いたしました。
 〈全て国民は、この憲法を尊重しなければならない〉(102条)
 世界じゅうの憲法で、こんな条文をもつ憲法はほかにありません。ですので、憲法学者をはじめ、おおくの人が「それはまちがっている」といいました。
 ですが、みなさん、それは日本ではなく、他の国がまちがっているのです。
 国の最高法規である憲法を、国民がまもらなくてよいなど、おかしいではありませんか。民のくせに国のリーダーに命令するなど、おこがましいではありませんか。(p.55-56)


自民党憲法草案が立憲主義に立たず、権力を持つ側が「国民」を規制しようという意図は明らかである。



 憲法を変えるということは、国のかたちを変えることです。そうして一度、国のかたちが変ったら、もとにもどすのは困難です。憲法は変えやすくなるのだから、いやならまた変えればよいと思うかもしれません。それはまったくまちがいです。
 この憲法草案がほんとうの憲法になったら、いろいろな人の意見をきいて、なにがよいかを国民みんなできめるという政治のやりかたではなくなるからです。国民主権は縮小され、基本的人権は制限され、情報は統制されますので、政府に反対する意見は日本から消え、国民は政府によろこんでしたがうほかなくなるでしょう。
 「強く美しい国」は、国外の敵(日本をこうげきしてくる国)と勇敢に戦い、国内の敵(政府に反抗的な人びと)を強い力でだんあつしなければ、つくれません。ですから憲法の三原則を変更し、国防軍をつくって、緊急事態条項をもうけたのです。
 ここでおはなしした以外にも、憲法草案にはおおくの変更があります。自民党の人たちは強い意志とかくごをもって、この草案をつくったのです。みなさんも、二度と引きかえせない道に踏みだすのだ、というかくごで、よくお考えください。勇気をもって憲法を改正すれば、みなさんも「強く美しい国」の一員になれるのです。(p.58-59)


自民党草案が憲法になってしまったら、本書が指摘するように人権や自由が縮小され、言論や情報も規制されるため、反対することが出来なくなっていくのは間違いなく、長い期間その支配下に置かれることになるだろうことを指摘しているが、正しい判断である。

変えてダメならまた変えればいい、という楽観的な発想を広めるため「お試し改憲」論が盛んに表に出て来た時期もあるが、そうした発想ではなく、より慎重な議論を行なわなければならないという考え方は広く共有されるべきである。

そのためにも、本書は自民党憲法草案の三原則を、国民主権の縮小、戦争放棄の放棄、基本的人権の制限、であると喝破しているが、このことの持つ意味を一般に広めていくことが重要である。


橘木俊詔 『21世紀の資本主義を読み解く』

平均所得200万円以下の家庭の大学進学率は28.2%、600万~800万円未満で49.4%、1200万円超で62.8%となっています。家計所得の低い層と高い層、いわゆる年収の差によって30ポイント以上の大きな差が出ています。
 また上図を見ると、国公立大学の進学率はどの所得階層も10%前後なので、家計所得、すなわち親の年収による差がほとんどないことがわかります。(p.111-112)


親の所得が大学進学に関係することは分かっていたが、国公立大学の場合はほとんど差がないというのは興味深い。ただ、東大などへの進学者の場合、所得の影響があることが分かっている。国公立大学内での親の所得階層ごとの進学率を知りたい。



 1959年には国立大学の授業料は年間9000円、私立大学の平均では年間3万円で約3倍の差がありました。ところが10年後の1969年には国立大学が年間1万2000円に対して私立大学は平均7万6400円と、約6倍強に拡大しています。
 この事情に対して、国立大学の学生だけが優遇されすぎではないのかという不公平感が世の中に生まれてきました。また国立大学で良質の教育を受けられる学生には、それ相応の自己負担を求めるべきではないか、という見方が強まってきました。
 とくに「自己負担すべきだ」という考え方は、それまで公共財的に考えられてきた国立大学の教育に、より私的材の要素を加味もしくは転換すべきだと判断されるようになってきたということです。
 そして現在、日本の大学の平均授業料は文部科学省の調査では国立・公立とも53万円ほどとなっており、一方の私立大学は学部により大きく異なりますが、85万円ほどとなっています。

 この背景には大きな経済的な要因があります。1965年に戦後初めて赤字国債が発行されるなど、国家財政が逼迫し始め、いくつかの財政支出を抑制する政策が実施されるようになり、国家による教育費支出の抑制が進んだこともあります。
 1970年代後半から、国公立大学に通う学生にも相応の学費を求めるようになってきました。つまり、国公立大学の授業料や入学金が上昇し始めます。そして、現在は、国立と私立の格差は1.5倍から3.0倍あたりまで縮小しています。格差という面で、国立と私立の格差は縮小しましたが、学費の面で、いわば「上に合わせる」施策をとってきたため、今度は経済状況から進学できる人とできない人の格差が拡大してきたのです。
 なお、この傾向には例外があります。それは医学部です。医学部の学費における国立と私立の格差は今日、6~10倍に達しています。(p.115-116)


学費に対する考え方の変化が、経済と財政の状況に応じて生じてきたのは、教育以外の分野でも同様だろう。これに対する再度の転換が必要である。



政府は、祖父母からの教育費支援を促すために、教育に関して相続税制の緩和を打ち出しました。それは、国家挙げての高所得家族への優遇策と言えますし、教育格差を助長させそうです。(p.117)


実際に、かなりの金持ちの家庭で、この制度を使って孫に資産を移転している事例を知っているので、この指摘は非常にリアリティをもって感じられる。



 韓国や日本に特有である塾について、欧米人に説明することは困難です。このような学校外教育機関は、欧米にはほとんどないからです。(p.129)


欧米には塾がないというのは、今まであまり気にしたことがなかった。台湾にはあるように思われるが、これらの国に塾が多いのはどうしてなのか?逆に気になる。日本の場合は、明治以前からの民間の教育機関があったということもあるだろうが、明治以後、政府があまり教育に予算を割いてこなかったことなどが関係しているのではないかと思われる。