アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ホッブズ 『法の原理 人間の本性と政治体』

そして小心とは、自分の力について疑念を抱いていることです。……(中略)……。祖先を自慢するのもそうであります。すべての人間は、自分が力を持っているばあいには、他人の力よりも自分自身の力を示そうとするからです。(p.99-100)


「祖先を自慢する」ことは小心であるしるしだとホッブズはここで言っている。国粋主義者たちが、自身が所属する「国家」や「日本民族」といったものを称揚する場合も、まさにこれに該当すると言うべきだろう。



 そして、コモンウェルスを構成する人びとが力を用いる権限は、かれらから主権者に譲渡されていますから、主権という権力を持つ者は(なにをなしても)罰せられないという結論が容易に導きだされましょう。(p.216)


ホッブズの議論で特徴的な考え方の一つがはっきりと表れている箇所。人々の自然権(基本的人権)は、主権者に「譲渡」されており、臣民は自然権(基本的人権)を持たない、というのがホッブズの議論の重要な構成部分となっている。もちろん、主権者は自然権を譲渡されているのだから、個々の臣民の自然権を守るように義務づけられることにはなるという一面を持ち、ホッブズもそうした指摘はしばしばしているのだが、しかし、主権者(権力者)に個々の臣民の自然権(基本的人権)を守り、それを侵害しないようにするための確実な方法や仕組みとして供えられた歯止めなどについては全く議論していないようである。この点がホッブズの思想の最も危険な部分であると私には思われる。

ホッブズの時代のイギリスの政治状況は確かに君主の権力が弱く、議会が相対的に強い力を持っていたため、一つのまとまった「近代主権国家」を形成しなければならないとした場合には、不都合な条件下にあったとは言えるかもしれず、ホッブズがこのような論理によって王権を絶対的なものにすべきだと主張する理由も理解できないことはないが、抵抗権を唱えたロックなどの方がやはり政治思想としては優れていると思われる。

そもそもホッブズの自然権を譲渡したので臣民には自然権が残っていないということ自体が問題であろう。例えば、自身が生存する権利を他人に渡すなどということができるとは私には思えない。同じくフィクションであったとしても、自身が自然権として持っている権利の一部を、社会を成立させるために必要な限りで自ら制限することによって、その空白を支配権を持つとされる人々が利用することが出来る、といったイメージでとらえた方がより現実には近いのではないか?



 雄弁とは、わたくしたちが話すことを信じさせる力にほかならず、その目的を達成するためには、聞き手の情念の助けを借りる必要があります。ところで、真理を論証したり教示するためには、じっくりと〔一般的な原理から特殊な事例を〕推論し、しっかりと注意を向けさせることが必要とされますが、このことは聞き手にとって決してわかりやすいことではありません。したがいまして、真理を求めることなく〔自分の話を〕信じさせようとする人びとはこれとはちがった方法をとります。すなわち、聞き手に信じさせたいと思うことを、すでにあるていど信じられていることがらから導きだすだけでなく、〔そのことを〕誇張してみせたり、小さく見せかけたりして、自分の必要に応じて善悪・正邪を実際以上に大きくしたり小さくしたりしなければなりません。(p.337-338)


こうしたごまかしによって人々に信じさせたいこと――それも、真実とは異なること――を信じさせるというやり方は、安倍晋三がよく使っている。それに対するマスメディアなどの抵抗が弱すぎるのは、言論の自由が制限されてきていることの表れであると捉えるべきではないかと考えている。メディアがダメだとだけ言っていても問題の解決にはならず、そもそも言論の自由が制限されていることに問題があると捉え、これを常識として共有した上で政府とマスメディアに改善への圧力をかけて行くということが必要ではないか。言論の自由が「上手に」制限されているところでは、人々の側が制限されているということに気づかない、知らされていないことがあるということに気づくことが出来ない、そういったことが問題なのだということは心しておくべきであろう。



これと同じく、雄弁に判断力の欠如が合わさりますと、ぺリアスの娘たちにみられたような判断力の欠如がメデイアのような雄弁家に乗じられて、改革という主張や希望によってコモンウェルスを切りきざむことに同意してしまうのです。事態が混乱の渦中にあるときには、改革などもとより望むべくもないことだったのであります。(p.339)


少し前には小泉改革、現在はアベノミクスと呼ばれるものなどによって、まさに日本社会というコモンウェルスが切り刻まれている最中である。確かに、昨今の日本でも、政治家たちの雄弁(真実とは異なるが信じさせたいことを人々に信じさせる方法)と人々の判断力の欠如とが結合している。


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長谷川由夫 『あなたと子供が出会う本 こう“ほめる”と子供が伸びた』

 親の完全主義とは、無限大の要求である。親が無限大の要求をもって子に対するとき、結果は常に不満しかない。もし「あるがまま」を認め、要求度がゼロならば満足ばかり残る。(p.38)


完全主義とは要求であるというのは、確かにその通りであり、親が完全主義者である場合、子にもそれを押しつける傾向になるのはよく分かる。子どもの場合は通常の人間関係より一層要求が大きくなり、かつ、それに親の側が気づかないということになりやすいように思われる。その意味で、一般の人間関係においてもここで指摘されていることは成り立つが、子育てにおいてはより重要な指摘だと思われる。



 私たちの会話は、ともすれば「半聞き」が多い。そうでなく「本聴き」をする。子供を責める代わりに自分の成長をめざすトレーニングである。聴き手の親は、子の立場を容認する思いやりが身についてくる。それは子どもに反映する。「聴く」ことは友好のしるしである。(p.45)


「聴く」というと、私が常に想起するのはヤスパースのVernunft(理性)の概念である。(この語はvernehmen(聞く)から来ている。)

この引用箇所では、「本聴き」を自分の成長を目指すトレーニングとしている点が興味深い。確かに、人の話をきちんと「聴く」のは労力というか自己を律することが求められる。また、単に受動的なものではなく、話し手の立場をよく理解し、その背景などにも想像を巡らせることを求められる。その様に考えて来ると、こうしたトレーニングを積みながら子どもに接して行けば、関係性もよくなるだろうし、子どもにも良い模範を示すことにもなる。やってみる価値のあるトレーニングではないかと思う。



 一日五回以上、子供をほめ、ほめた自分の言葉だけ書く
 ……(中略)……。
 ほめる回数を一日五回以上としたのには、意味がある。一回や二回では親のものさしや枠でほめやすいが、五回以上ともなれば、探してほめ、あるがままの子供をほめることになるからだ。
 ……(中略)……。
 子どもから話しかけた言葉を注意して聴き、その語尾だけ、一日十五回以上、書く
 ……(中略)……。
 第三の技術は、単純な「書く」ことである。……(中略)……。
 ……(中略)……。書いているうちに、ほめる事の大切さもわかり、習慣にもなる。……(中略)……。
 とかく、愛さえあれば、と考えやすいが、教育と同様に子育てにも芸と術がいる。教育学に通じていても、実習して芸と術を身につけなければ子供は動かせないように、愛があっても、表現を正しく高めなければ愛は生かされない。(p.76-79)


本書が推奨する方法(ほめる、聴く、書く)の具体的な説明の一部だが、なかなか理に適っており、かつ、実行可能な範囲内に収められているように思われ、試してみる価値はあるように思う。



だっこは身体でほめることになります。(p.139)


なるほど。



 “やりたい放題”は、叱らず、『ダメ』を使わずに、『これ面白いよ』という風に、方向・方法づけるんです。ほめれば変わります。(p.156)


基本的に正しいやり方と思う。



 長いものに巻かれろは、同時に下に向かって差別となる。権力のあるもの・強いものに絶対服従し、代わりに弱いもの・力の劣ったものを徹底して責める。
 人の顔色をうかがう人間、目立たないように逆らわぬように常に勢力の強大なものに従って自分を守ろうとする事大主義(大に事(つか)える主義)が、この子たちの生活信条になっているから問題なのである。(p.173)


ここで述べられている事大主義は、ここ数年から10年ほどの間に勢力を伸ばしてきた「保守」と名乗る政治勢力を支持する人々のメンタリティそのものではないか。(安倍晋三や稲田朋美や山谷えり子のような「保守」のことを指しているが、本来は彼らの立場は「保守」ではなく「反動的復古主義」とでも呼ぶべきものである。)



少年の嘘は、裸の自分と向き合わないための緊急避難であり、処罰を恐れた自己防衛なのだ。(p.186)


子供の嘘は大人よりは多少大目に見た方が良い場合もあるのかもしれない。



 それにしても戦争の傷跡は長く残る。一家族の上に三代にわたって影響している。幸せな結婚が、戦争のため重婚となり、当事者、その子、孫までひびくとは。
 誰が悪いのでもない。同時代の誰もが、そういう目にあったかもしれないのだ。(p.198-199)


本書は1986年に最初の版が出ているが、当時はまだ現在よりはかなり戦争の傷跡が身近なところに見える機会があったことが感じられる。

以上は、ある夫婦の夫が戦争に行き、戦後もしばらく音信不通のまま戻らなかったため、死亡したものと思い、妻は周囲の勧めで別の男と再婚し、子どもができた。そのとき死んだはずの夫が帰ってきたことで、家族に様々な不和が生じることとなり、孫の代まで影響が及んでいたという相談事例について語っている際の発言である。



堀淳一 『北海道 地図の中の鉄路』

 なぜこの線がそんなに早く完成したのかというと、札幌から旭川を経由して帯広や釧路に到達するのを急いだからで、実際につくりはじめた時の名前は「十勝線」。つまり、幹線扱いだったのである。ただし、これが実際に帯広まで届いたのは、ようやく1907年になってのこと。……(中略)……。
 しかし、今の根室本線の滝川-富良野間が1913年(大正2年)に開通すると、札幌から釧路へ行く直通列車は当然、距離のはるかに短いこちらを通るようになり、旭川を通らなくなった。そのため、旭川-富良野間は幹線としての地位を失って、「富良野線」という55キロ足らずのローカル線に転落してしまった。(p.10-13)


前段の部分は二つ前のエントリーで『北海道の鉄道』を取り上げた際にも言及されていたところであるが、なぜ完成を急いだのかという社会的な背景が気になる。

後段からは路線の扱いにも栄枯盛衰があることがよく分かる。



 なぜ、ホームが曲がっているのか?
 その答えは地図(図2-2)を見れば一目瞭然だ。かつては、レールが函館港の中にナナメに突き出ている青函連絡船の鉄道桟橋につながっていたからだ。(p.26)


函館駅のホームが曲がっている理由。



 実際、昭和20年(砂原回りの函館本線をつくったのと同年――つまり戦争末期の輸送力増強に躍起になっていた年だ)にそれが実行されて、この区間が複線化されたのだった(図2-8)。(p.43-47)


函館本線に関する記述。本書によると、日本政府は戦争末期に輸送力増強に躍起になっていたという。実際にいくつもの鉄道路線がその時につくられているからそうなのだろうが、何故、戦争も末期になって敗戦が濃厚になっている時期に金をかけて輸送力増強をしようとしたのかが気になる。



 長万部からは、室蘭本線が分かれる。昔は函館本線が、札幌あるいはそれより奥地へ行く時の大幹線で、優等列車もすべて函館本線を通っていたのだが、戦後の昭和35年(1960年)頃から優等列車は次々と急勾配のない室蘭本線・千歳線を経由するようになり、今では函館本線の長万部-小樽間は完全なローカル線――普通列車しか走らず、しかも本数が少ないというさびしい線――と化している(小樽-札幌間に優等列車は走っていないが、札幌近郊の通勤・通学・行楽列車の本数は多い)。(p.51-52)


昭和35年頃は小樽が斜陽化する時期と重なっているだけでなく、本書の千歳線などの記述を読んでも分かるが、室蘭本線・千歳線の沿線の都市が急速に都市化していった時期とも重なっている。高度成長の始まる頃だが、石炭から石油へのエネルギーの転換などが小樽の斜陽化の要因の一つとして語られるが、この路線変更に例えば何らかの技術的な理由があったとすれば、この路線変更自体が小樽の斜陽化の要因の一つとして数えられるべきものである可能性がある。(社会的な背景があって路線変更が行われた場合には、その社会的背景を要因として数えることが出来るかもしれない。)

なお、千歳線沿線の都市の都市化の原因は恐らく、この路線変更に求めてよいように思われる(それぞれの都市に発展する要因があったとしても、鉄道の路線沿いの都市が軒並み同じような時期に同じような都市化をしているとすれば、個々の要因よりも全体に共通する要因の方が原因と考えられるため)。



 銭函からは比較的、直線区間が多くなる。……(中略)……。
 ただし、普通列車は相変わらずスピードが出ない。いや、かえっておそいのではないだろうか?なぜか?駅がやたらと多いからだ。札幌駅まで、何と18キロの間に9駅、約2キロごとにあるのである。
 開通当初は、手稲(はじめは軽川)、琴似の2駅しかなく、それに大正13年(1924年)、桑園駅が加わっただけの状態が長らく続いたのだが、戦後、札幌の市街地がとめどもなく拡大しだしたため、その各所からの通勤・通学・買物・遊楽客を拾おう、と、昭和60年あたりから続々と駅をつくりはじめた結果、駅数が三倍増してしまったのである。(p.84)


鉄道と都市化との関係は興味深い。



 北一已を出ると右側は低い丘陵になるが、それが遠ざかる頃、秩父別駅に着き、ここを出るとふたたび水田のただ中を走って石狩沼田駅となる。ここはかつて、札幌・桑園から札沼線が来ていた。札沼線の「沼」の字はこれに由来するのだが、今ではかなりの鉄道通でも「この沼はどこから来たのか?」と頭を悩ますようだ。
 ……(中略)……。
 次の駅は藤山。この名は、明治29年に藤山要吉が農場を開いたことに由来するという。さらに次の大和田駅も、同31年に大和田荘七がこの付近で炭鉱を創業したことによっている。そうそう忘れていたが、石狩沼田駅の沼田も開拓者沼田喜三郎の姓だった。これほど人名由来の駅名が多い線区も、ちょっと珍しい。(p.166-168)


これらの人物が名を残しているのは、富裕層に大きな富が蓄積されやすい社会だったことも関係していると思われる。



 それが千歳線となって20年足らずの昭和35年頃から、まずそれまでは函館本線の山線経由で運転されていた急行列車が、峠越えがなく平坦な室蘭本線・千歳線経由で運転されるようになり、それに伴って昭和40年から複線化、また同42年から北広島以北のルート変更化の工事がはじまって、同48年には全線が複線となった。また、昭和55年には全線が電化された。(p.194)


先ほど函館本線の章から引用したp.51-52の記述と対応する。千歳線沿線の都市(千歳、恵庭、北広島)の都市化の進展や同時期の小樽の斜陽化とも関連していると見るべきだろう。



西内啓 『統計学が最強の学問である』

 だが一通りの業務がIT化されてしまうと、ITがらみのビジネスは行き詰ってしまう。いくらハードウェアやソフトウェアの処理性能が向上しても、これ以上IT化すべき業務プロセスはないし、顧客が特に性能に不満を持たなければ、商品を売り込むことはできない。だから、ハードウェアメーカーも、ソフトウェアメーカーも、それらを使ってITのサービスを提供しようとする者も、ITに関わる企業はすべて、すでに満足している顧客に、十分すぎる性能を持った新しい技術を売り込む「理由」が必要なのである。
 ポジティブな建前としては、この十分すぎる性能を使って「いかに価値を産み出すか」という考え方が必要になる。またネガティブな本音としては「価値を生み出そうがなんだろうが、大量の処理が必要になる使い道」を提案しなければならないし、それを売り込むためには「一見ビジネスの役に立ちそうなお題目」が必要にもなる。(p.30)


近頃、「ビッグデータ」ということが盛んに言われる理由の一つとして、こうした理由があるという指摘。なるほどと思わされた。

本書によれば、ランダムサンプリングができればすべてのデータを分析する必要はないというが、確かに説得力がある。



 ランダム化してしまえば、比較したい両グループの諸条件が平均的にはほぼ揃う。そして揃っていない最後の条件は実験で制御しようとした肥料だけであり、その状態で両グループの収穫量に「誤差とは考え難い差」が生じたのであれば、それはすなわち「肥料が原因で収穫量に差が出る結果になった」という因果関係がほぼ実証できたと言えるだろう。(p.116)


このようなランダム化によって因果関係を実証する方法は、考え方が簡単であるためいろいろな場面で使えそうである。本書が売れたのもよく分かる。



 ランダム化するなら、こうした「手心」を抜きにして、テキトーどころか厳密にランダムさを追求しなければならない。だが、幸いなことに今ならエクセルを立ちあげて「=rand()」とタイプするだけで、簡単にランダムな数値を得ることもできるのだ。(p.125)


エクセルのこの関数は今まで使ったことがなかったが、使いこなし方について少し調べてみたい。



 政策を実施する前にランダム化を行なうよう求める州法はすでに数千という数にも及び、公立学校の進学から裁判官の管轄まで多くの行政プロセスにランダムさが行きわたり、常にさまざまな実証評価が行なわれている。(p.125)


日本もこの考え方は学ぶべきであろう。


三笠鉄道記念館 『北海道の鉄道』

 こうして、北海道庁鉄道部(官設鉄道)は、その後、明治40年(1907)9月までに旭川~名寄間76キロメートル、旭川~釧路間248キロメートルの幹線鉄道網を完成させ、道北、道東の開拓の進展を大いに促しました。(p.3)


私としては、主に明治期の北海道開拓全般と鉄道との深い関連に注目しているため、ここで触れられている道東や道北の開拓と幹線鉄道の敷設との関係はもう少し詳しく知りたいところである。



 明治時代の中頃は私設鉄道(私鉄)の時代でした。……(中略)……。
 明治政府は、日本の主要都市を速やかに結ぶことのできる鉄道網は、国の発展や守りなど様ざまな面で必要なものであるから国の手で経営するべきだと考えていました。しかし、鉄道建設には莫大な費用がかかるため生まれたての政府としては資金も乏しく、しかたなく民間の資金にたよっていたのです。(p.4)


教育に関しても同じようなパターンがあったように思う。


井上勇一 『鉄道ゲージが変えた現代史 列車は国家権力を乗せて走る』

 アメリカの満州鉄道にたいする関心は、ユニオン・パシフィック鉄道会社のハリマンが世界一周鉄道計画の一環として南満州諸鉄道の日米共同経営を提案してきたことに現れているように、日露戦争以後になって強まってくる。それは米西戦争によってフィリピンを領有することに成功したアメリカが、中国大陸への関心を徐々に深めていったことと無関係ではない。(p.172)


なるほど。ここでは具体的な説明はあまりなかったが、アメリカの帝国主義的な傾向へのシフトがどのような経路をたどって形成されたかということはよく知りたいところである。


中室牧子 『「学力」の経済学』

 次いで、2002年に「教育科学改革法(Education Science Reform Act)」が制定されたことによって、自治体や教育委員会が国の予算をつけてもらうためには、自分たちの行っている教育政策にどれくらいの効果があるのかという科学的根拠を示さなければならなくなりました。このため米国では、自治体や教育委員会が、自ら積極的に教育政策の効果を科学的に検証し、そこから得られた知見が、自治体や国など全体の政策に反映されるようになっています。これを「科学的根拠に基づく教育政策」または「エビデンスベーストポリシー」といいます。(p.18-19)


実証主義及び功利主義の方向に傾くことになり、検証しやすく数値化しやすいことだけを助長するという偏りを持ったやり方ではあるが、現在までの日本の教育のようにほとんど何の根拠もないまま政策を決めているような現状と比較すると遥かに優れたやり方であり、見習うべきところであろう。



 「テストでよい点を取ればご褒美をあげます」
 「本を1冊読んだらご褒美をあげます」

 右のうち、子どもの学力を上げる効果を持つのはどちらでしょうか。
 ……(中略)……。学力テストの結果がよくなったのは、インプットにご褒美を与えられた子どもたちだったのです。

 とくに、数あるインプットの中でも、本を読むことにご褒美を与えられた子どもたちの学力の上昇は顕著でした。一方で、アウトプットにご褒美を与えられた子どもたちの学力は、意外にも、まったく改善しませんでした。……(中略)……。

 「インプット」にご褒美が与えられた場合、子どもにとって、何をすべきかは明確です。本を読み、宿題を終えればよいわけです。一方、「アウトプット」にご褒美が与えられた場合、何をすべきか、具体的な方法は示されていません。
 ご褒美は欲しいし、やる気もある。しかし、どうすれば学力を上げられるのかが、彼ら自身にわからないのです。
 ここから得られる極めて重要な教訓は、ご褒美は、「テストの点数」などのアウトプットではなく、「本を読む」「宿題をする」などのインプットに対して与えるべきということです。(p.32-36)


私自身の見解としては、勉強をさせるための手段として、あまり「ご褒美」に頼るべきではないと考えているが、この引用文で述べられている内容は、ご褒美を与える場合にはどのように与えるべきかということについて非常に重要な示唆を与えてくれる内容である。



 子どもをほめるときには、「あなたはやればできるのよ」ではなく、「今日は1時間も勉強できたんだね」「今月は遅刻や欠席が一度もなかったね」と具体的に子どもが達成した内容を挙げることが重要です。(p.51)


能力を褒めるとやる気を蝕むという。具体的に達成した事柄やそのための具体的な努力の内容を褒めることで取り組みの動機を強められる。これは子どもに限らず、仕事で同僚や部下を褒める場合にも同様のことが言えそうである。

ここで書かれていることを含め、本書の具体的な指南の大部分は、私としては当たり前のことであると思われる内容が多かったが、それらがデータによって支持されているため、元々の見解をより確信を強めてくれるという点で有益だった。



 「勉強するように言う」のは親としても簡単なのですが、この声かけの効果は低く、ときには逆効果になります。エネルギーの無駄遣いなので、やめたほうがよいでしょう。
 逆に、「勉強を見ている」または「勉強する時間を決めて守らせている」という、親が自分の時間を何らかの形で犠牲にせざるを得ないような手間暇のかかるかかわりというのは、かなり効果が高いことも明らかになりました。

② 男の子なら父親が、女の子なら母親がかかわるとよい

 家庭での学習へのかかわり方は母親に比べて低い父親ですが、世の中のお父さんたちは決して自分の役割を侮ってはいけません。なぜなら、子どもと同性の親のかかわりの効果は高く、とくに男の子にとって父親が果たす役割は重要だからです。
 最近の研究でも、とくに苦手教科の克服には、同性同士の教師と生徒の組み合せのほうが有効であるなど、類似の知見が得られているものがあります。

 ……(中略)……。実は、私たちの研究では、祖父母や兄姉、あるいは親戚などの「その他の同居者」が、子どもの横について勉強を見たり、勉強する時間を決めて守らせていても、親とあまり変わらない効果が見込めることがわかっているのです。(p.60-61)


本書の指南内容には当たり前の知見が多いと述べたが、子どもの勉強時間を増やすために「勉強するように言う」のが殆ど効果がなく逆効果の場合があるというのも、それにあたる。勉強するのと見ていたり、時間を決めたりするのが効果的だというのも、予想通りといったところだが、同性の親(保護者等)がする方が効果が高いというのは意外性があり興味深かった。



日本政策金融公庫の調査では、子どもがいる家庭は、なんと年収の約40%をも教育費に使っているそうです。(p.73)


子どもが大学に通学している間はこのくらいの割合になってもおかしくないが、それ以外の時期にここまでの割合になるのだろうか?(年収600万円の家庭だとすると240万円、月平均20万円の教育費を使っているか?また、年収300万円の家庭で月10万円も教育費をかけているだろうか?無理ではないか?)にわかに信じがたい。



学力など、「アウトプットを生み出すために必要とされるインプット」はすべて「資源」と呼ばれます(33ページの教育生産関数を参照)。具体的には、親の収入が少なかったり、仕事が忙しくてあまり子どもにかまってやれないやれないというようなことも「家庭の資源」の不足とみなします。

 そうした貧困家庭の資源の不足を補うために、ペリー幼稚園プログラムでは、週に1度1.5時間ほどの家庭訪問を行い、先生たちが普段どのように子どもと遊び、話しかけるかを実際にやってみせるなど、親に学びの機会を提供したのです。(p.79)


これは見るからに効果がありそうなやり方だが、本書によるとデータでも持続的に効果が認められているという。



 就学前教育への支出は、雇用や、生活保護の受給、逮捕率などにも影響を及ぼすことから、単に教育を受けた本人のみならず、社会全体にとってもよい影響をもたらすのです。
 ……(中略)……。

 社会収益率が7~10%にも上るということは、4歳の時に投資した100円が、65歳の時に6000円から3万円ほどになって社会に還元されているということです。(p.82)


データで見ても就学前教育は社会全体にとっても良い影響があるということは、今まであまり考えたことがなかったが、指摘されてみるとその通りと思える。



 また、心理学の分野でも、「細かく計画を立て、記録し、達成度を自分で管理する」ことが自制心を鍛えるのに有効であると多数の研究で報告されています。(p.93)


計画やその実行状況を記録することで、目的や目標が明確化され、自覚しやすくなること、さらに、目的と現状とのギャップ(差)がどの程度なのか、何をすべきなのかということが明確になる。このような「明確さ」は「自制心」を支持する重要な要素なのではなかろうか。



私が行動遺伝学の専門家である九州大学の山形准教授らとともに行った研究では、中学3年生時点の子どもの学力の35%は遺伝によって説明できることが、明らかになっています(図29)。

 これ以外にも、生まれ月、生まれ順、生まれたときの体重など、どう考えても子ども自身にはどうしようもないようなことが、子どもの学力や最終学歴に因果効果を持っていることを示すエビデンスもあります。(p.118-119)


学力と遺伝の関係は思っていた以上に深いようである。また、生まれ月や生まれ順は同じ学年でも小さい頃の1年近い違いは発達の状況の違いなどを通して成績や学歴に影響しているのだろうが、このあたりの研究についても読んでみたいものだ。



家庭の資源に格差がある中で、すべての子どもに同じ教育を行えば格差が拡大していくだけですが、その矛盾は見過ごされがちです。
 ……(中略)……。

 どうして、ゆとり教育が実施された時期に子供の学力格差が拡大したのでしょうか。きっかけは、週休2日制でした。
 一橋大学の川口教授の研究によれば、ゆとり教育の一環として学校週休2日制が導入された2002年の前後で比べると、子どもたちの学習時間に顕著な格差が生じていたのです。
 学歴の高い親に育てられた子どもは、土曜日の学習時間の減少を平日の学習時間の増加で埋め合わせたのですが、学歴の低い親はそのような行動を取らず、結果として土曜日が休みになったことで、学習時間の格差が生じた形となりました。
 九州大学の武内准教授らの研究でも、学校週休2日制が始まった後に、とくに高所得者層が子どもの学習費(とりわけ塾などへの支出)を増加させたことが明らかになっています。このように、ある世代の子ども全員を対象にして「平等」に行われた政策は、親の学歴や所得による教育格差を拡大させてしまうことがあるのです。(p.127-129)


学歴の高い親のどのような行動(ないし価値観)がどのような形を通して子どもの学習時間の変化に繋がったのか?このあたりのメカニズムはいつも気になるところである。


渡辺真吾 著、渡辺真吾、土屋周三 編 『小樽歴史年表~戦前編~』

 北海道最初の機関車は幌内鉄道の1号「義経」と2号「弁慶」である。……(中略)……。この機関車は軽量で力はあまりないかわり、脆弱な線路でも走れ、幌内鉄道にふさわしいものだった。
 ……(中略)……。機関車1両1両に固有の名称をつけるのもアメリカ式で、日本ではほとんど例がない。
 幌内鉄道は機関車だけではなく、鉄道そのものがアメリカ式だった。客車・貨車ももちろんアメリカ製で、駅舎や橋などもすべてアメリカ式。客車には便所・空気ブレーキ・自動連結器・ストーブが装備されていた。これらはすべて日本最初で、幌内鉄道を引き継いだ北海道炭礦鉄道でもこの客車をモデルとして、手宮工場などで製作している。……(中略)……。本州での空気ブレーキ・自動連結器の採用が大正末期だったことを考えると約45年も先んじていたわけである。
 ……(中略)……。国有化後、これらの車両は小形であったこともあり、標準型の車両が登場すると樺太や私鉄にうつり、幹線からは姿を消していった。(p.24)


北海道の開拓自体がアメリカの影響を強く受けて行われたのであり、鉄道もそうした中に位置づけられる。お雇い外国人クロフォードだけでなく、平井晴二郎や松本荘一郎などアメリカに留学した技術者たちの果たした役割も大きい。



 「小樽市空前の椿事」、手宮駅構内で火薬爆発事故が起きたのは、暮れも押し詰まった1924(大正13)年12月27日のことだった。……(中略)……。
 ……(中略)……。共同倉庫は「殆ど全倉庫壊滅」、右近倉庫・広海倉庫・北都組倉庫・近海郵船倉庫も「大破壊され」、渋沢倉庫・板谷倉庫・糧秣倉庫・専売局出張所・北海製缶なども被害甚大。(p.138)


右近倉庫や広海倉庫などは現存する倉庫だが、現在のこれらの倉庫からもこの爆発事故の痕跡を見つけることが出来るのだろうか?少し気になる。


札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫41 札幌とキリスト教』(その3)

 昭和42年2月11日、最初の建国記念の日、道内各地でこれに抗議するキリスト者の集会が開かれ、札幌や小樽では特に大きな集会となった。火付け役となったのは道キ平の運動であったが、集会が終わるとすぐに教会の間で専門機関の必要性が訴えられるようになった。(p.202)


建国記念の日は、日本という国が建国された日は歴史的には明確に示されていないため、建国神話の登場人物で初代天皇とされる神武天皇が即位した日を西暦に換算した日が指定されたというものであり、かなり復古的で国粋主義的な性格の祝日である(明治憲法が制定された日でもある)。これに対してキリスト者たちは抗議する集会を開いたという。

この類の集会は現在も行なわれているようだが、残念ながら大きくニュースに取り上げられることは最近ではあまりないように思う。こうした抗議を逐一行っていくということ、そして、それが人々に知られるということ、こうしたことを積み重ねていくことが重要だと思う。



大国元助

 同13年、27歳で札幌に転居し、南6条西1丁目の創成川畔に居を構え、材木商を始めた。材木の運搬に創成川の舟運を利用できる便利さがあったからである。(p.240)


大国元助は、札幌におけるカトリックの元祖ともいうべき人とされている人物である。明治初期には創成川の舟運もそれなりに大きな役割を果たしていたということか。



 大正8年(1919)11月、大国元助66歳、夫妻は45年間住んだ第二の故郷札幌を離れ、台湾総督府農事試験場勤務の次男・督宅に身を寄せ、同9年7月27日、台北で死去した。なお、台湾で没した植物学者フォリー神父の功績を讃えるブロンズ製の胸像が、大正6年、台北植物園に建立された。(p.241)


次男は台湾総督府で農事試験場に勤務していたということは、札幌農学校の卒業生だろうか?札幌農学校の卒業生には台湾で農業系の事業にかかわった人物が多くいる。



佐藤善七

 特に佐藤、黒澤らはデンマークのグルンドビー牧師の説く三愛主義、「土地を愛し、人を愛し、神を愛す」に深く傾倒し愛土、愛人、愛神の思想に立って酪農従事者の要請を目標とした教育施設、酪農義塾、野幌機農高等学校、三愛女子高等学校、短期大学、大学などを次々に設立し、運営の中心にいて尽力した。(p.252-253)


酪農義塾は現在の酪農学園大学の起源となった。この学校自体がキリスト教とどの程度関係があるのかもやや気になる。



フォリー、ジャン・ウルバン

 フォリー神父は、宗教家としてよりも、わが国の植物を採取研究した植物者として有名である。神父の植物採集の範囲は、広く植物界全体にわたり、ことに人の困難とする苔類、蘚類、地衣類、羊歯類、禾本科を得意としていた。また採集場所は、日本全国はもとより、樺太・台湾・朝鮮・ハワイにまで及んだ。(p.277)


樺太、台湾、朝鮮はいずれも明治後期には日本の殖民地となっており、植民地となったらいち早く伝道をしに行ったらしいことが推察できる。



 大正4年(1915)7月4日、68歳で台湾での急逝も、植物採集のために花蓮港付近の山中で野宿して熟睡中に、鼻孔から蛭が入り、これがもとで急逝したもので、いわば植物学のための殉教であった。(p.277)


かつての自然の調査の過酷さに驚く!



宮部金吾

植物園こそは園長として27年間その存置、充実に力を尽くし、大都市の只中に幽邃清雅の趣きに富む植物園の今日を在らしめ、戦後貫通道路を通せ!との声があった時、断固拒絶したことなどは、円山自然林保護と共に市を挙げて感謝するところである。(p.282)


都市化に抗して植物園や円山自然林を守った功績は大きい。

宮部金吾も札幌農学校関係者としてはかなりよく名前が出てくるが、意外と具体的に何をした人かは語られないように思われる。宮部については、もう少し詳しく知りたいと思う。


札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫41 札幌とキリスト教』(その2)

 明治9年(1876)東京女子師範学校に付設されたわが国最初の幼稚園には、キリスト教と縁の深い人々が多くいた。このことは、来日したキリスト教の宣教師たちが伝道の手段として始めた日曜学校に、幼稚園の創始者フレーベルの保育法を取り入れていたことと無関係ではなかった。わが国の幼児教育は、キリスト教と共に移入され、キリスト教の伝道ことにプロテスタント系教会の日曜学校と深いかかわりをもって普及されていくのである。昭和19年までに札幌で開設された私立幼稚園は12、そのうち9つがキリスト教と関係した施設であった。今は廃止されているものがあるにしても、この事実は札幌とキリスト教のかかわりが就学前教育の分野にも深く及んでいたことを物語るのである。(p.140)


キリスト教と幼児教育との関係は興味深い。前のエントリーで「キリスト教会への国家の圧迫は、教会に先立って教育界にあらわれている」と本書で述べられている箇所を引用したが、キリスト教も外国を伝道するにあたって教育と結びついて入ってきたことも、ある意味では同じようなやり方をしていたことになる。すなわち、その社会の中で人を育てながら時間をかけて浸透していくのが最も自然に入りこめる方法の一つであるということを利用しているように思われる。

違いは、中央政府が教育を乗っ取る場合は、それに対して抵抗することがより難しいという点に求められるように思われる。合法的に抵抗することが難しいという一点をとっても、それは明白であり、このような抵抗の困難性は、政府と教育との間に距離を取ることを求めるべきである理由であると考える。



 札幌で最初の幼児教育施設は、明治20年(1887)9月スミスの私塾に付設された幼稚部である。……(中略)……。解説早々にして教室は生徒でいっぱいになり、その様子を知って北海道庁長官岩村通俊は、木造二階建校舎を新築し、無償で貸与してくれた。(p.140-141)


一私塾に対して北海道庁長官が校舎を新築して無償貸与とは現在の感覚からすると破格の扱いである。スミス女学校に関してはもう少し踏み込んで知りたいことが多くあるが、札幌農学校関係者やその卒業生もいたであろう道庁関係者などの支援が得られたということはこの学校にとって幸運だったとは言えそうである。



 北16条西2丁目に札幌藤高等女学校が開設したのは、大正14年(1925)4月である。“殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会”が経営するこの女学校は、カトリック精神を基調にし、ドイツ風の質素で堅実な婦人を育成するという教育理念がすこぶる評判が高く、その建学の精神を幼児教育にも及ぼすべきであるという要望も各方面から起こってきた。これにこたえて最初の幼稚園が小樽に設置され、次いで昭和13年4月、札幌藤幼稚園が女学校に付設して開園された。(p.146-147)


高等女学校が1925年に開設されたというのは、札幌においてもキリスト教の勢力拡大がみられた1900年頃より少し経った頃であったことが背景の一つを成していたと思われる。それにしても幼稚園を最初から女学校付設として札幌に作るのではなく小樽にできたというのが奇異な印象を受ける。なぜこのような経緯となったのか気になるところである。小樽藤幼稚園のhpによると開設は1934年(昭和9年)であり、小樽の経済はピークを迎えていた頃にあたる。小樽のカトリック信徒で財力がある者がいて、多額の寄付があったのだろうか?



当時、幼稚園に子供を通わせる家庭は限られていたから、園児の確保という面のあったことも否定できないが、やはり伝道という使命がその根本にあったのである。大正15年(1926)「幼稚園令」が公布されてからは、キリスト教教育もおのずと制約されるが、園児の家庭にキリスト教を認知させたことだけは確かである。そして、幼い子供たちにクリスマスやイースターの行事などで、生涯忘れることのない思い出をつくらせ、この世にキリスト教の存在することを覚えさせた役割は、なによりも大きなものであったのである。(p.147-148)


最後の一文などは、私自身も子どもの頃にキリスト教系の幼稚園に通っていたので、非常によく分かる。キリスト教に対する親近感は確実に高まったと言える。(例えば、幼稚園から小学校に上がった際、幼稚園では弁当を食べる前に神に祈ることになっていたが、学校では給食を食べる前に祈らないことに違和感を覚えたことがある。)



 スミスが師範学校の教師になった目的は、札幌に女学校を開設する基盤をつくることにあった。スミスはこの塾を「札幌長老教会伝道女子寄宿学校」と称したが、伝道協会は許可しなかったのである。彼女の健康と事業の困難さを予想し、むしろ反対の意向を示し、当面、師範学校からの俸給(月額60円)を自由に使用することを許しただけであった。したがって、スミス個人の私塾として始められたといえるのである。
 スミスが伝道協会の反対を承知の上で事業を継続できたのは、宣教師としての自覚もさることながら、札幌における最初の教会である札幌基督教会の会員と、北海道庁の援助があったからである。ことに岩村通俊長官は、女子教育の必要性を認識して、塾の開設を許しただけでなく、物心両面にわたる積極的な支援を惜しまなかった。(p.158)


スミス女学校(現在の北星学園)について。

札幌という地が当時にあっては辺境の地であり、中央権力の監視や権力が十分に及ばない土地であったこと、その地にクラークが札幌農学校の学生達の伝道に成功したこと、学生達は卒業後、札幌基督教会や北海道庁に所属していたこと、といった遠近様々な要因が、スミスの女学校を支援する方向へと作用していたように思われる。また、伝道協会が反対する中で成し遂げられた事業であるという点も興味深い。



 キリスト教は、正規の時間に聖書科を設定して教えていた。修身科が導入されても、その内容は聖書であった。皇国民錬成教育が至上命令となり、修身の内容が限定されるとあらためて聖書科を独立させた。高等女学校では認められない聖書の時間を厳守するため、あえて不利な各種学校の資格に甘んじていたのである。しかし、生徒にその不利益を被らせないために、施設・設備を必要以上に整え、教科目を増やし、内容を高める努力をした。その結果、大正8年高等女学校同等の指定を受けて専門学校入学資格を獲得、同15年には小学校教員無試験検定の資格を得て、それぞれへの進路を開くことができたのである。しかし、国の教育制度の画一化政策は、こうした努力を無効にする方向で進められた。高等女学校への転換は、こうした情勢の中で実施されたのであるが、その準備は女学校を財団法人にして伝道協会から独立した段階から整えられていた。そしてこの独立にしても、学校を維持するためには必要欠くべからざる条件であったのである。時勢は、西洋人即敵国人という状況にあったのである。したがって、昭和16年の財団法人設立と共に、ミッション・スクール北星女学校は消滅し、北星高等女学校設立と同時にキリスト教教育は放棄されることになった。しかし、寄宿舎の生徒たちは別であった。寄宿舎は親権者から委託された生徒たちの私生活の場であったから、徹底したクリスチャン・ホームの生活を採っていたのである。(p.160-161)


高等女学校に敢えてならずに各種学校の資格に甘んじていたこともそうだが、財団法人を設立して伝道協会から独立させ、キリスト教教育を学校の場からは放棄しつつ、寄宿舎はクリスチャン・ホームとするというあたりは、涙ぐましい努力と工夫であり、国粋主義的な「国家」に対する見事な抵抗であり、敬意を表したいところである。


札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫41 札幌とキリスト教』(その1)

キリスト教側の計画的な働きかけ以前に、市民のなかにキリスト教の信仰を求める動きが、教派横断的に起こりつつあったのである。しかもそれは、初期のキリスト教のように、明治維新後の士族の転進願望や、1890年以前の欧化主義時代の物珍しさに浮かされたものではなく、全く精神的な欲求であった。
 大挙伝道は、1900年に全国的に組織され、札幌は北海道第一区と定められた。札幌では同年12月、19世紀感謝演説会をそして祈祷会を催し、これを皮切りに活動が開始された。翌1901年、全国的に非常な勢いで、“リバイバル”(信仰復興)が起こり、熱烈な信仰の気運に促されて取り組まれた。(p.45)


明治30年代にキリスト教を受容する社会的な動きがあったという指摘は興味深い。大正時代頃には、北海道でもビールを飲む中間層やサラリーマン層が次第に増えてきていたはずだが、このような欧米のライフスタイルを受容するような社会層が育ってきていたことと関連があるように思われる。



 ロシア革命の影響や、社会不安の結果生じた社会主義思想とその運動を弾圧する一方で、政府は意図的に唯神論と唯物論の対立をあおって、宗教者を政府側にとりこみ、宗教の影響力を国策に利用した。同時に皇室神道と国家とを結合させた“国家神道”を思想統制の道具として、国民に尊崇を強要した。「神社は国の祭祀にして宗教に非ず」というのが、神社参拝を強制した論理であった。(p.58)


社会主義や共産主義の思想と運動に対抗するにあたって、政府が宗教者を取り込んで利用したという指摘は興味深い。確かに、当時の政府にとっては社会主義や共産主義のように時の政府を覆そうとすることさえある思想や運動よりも宗教の方が危険性の少ないイデオロギーであるのは間違いない。

昨今では創価学会を支持基盤とする公明党と自民党が結合することで小選挙区制において大きな議席を獲得できる極めて効率的な集票マシンとして宗教が利用されていたり、日本会議も宗教団体から集票できるような仕組みを持っていることなど、政治に対する宗教の影響力が強まっているが、この場合の宗教団体も基本的に社会主義や共産主義には反対の方向で政治に働きかけていると同時に利用されていることと何か通じるものがあるように感じられる。



ミッションスクールへの圧迫

 キリスト教会への国家の圧迫は、教会に先立って教育界にあらわれている。1928年の北海道会では、札幌市立高等女学校の女教師(カトリック教会信徒)が札幌神社(現・北海道神宮)での集団参拝に加わらなかったとして(誤解であったが)、問題とされ、また、北星・藤両ミッションスクールでの三大節(この場合、神道行事である紀元節、天長節、明治節)を忠実に行っているかどうかとの質問があった。北星・藤に続く、札幌市内三番目のミッションスクールである現・光星高等学校の設立(1933年)の経過と、その後の歩みは苦難の連続であった。(p.64)


この歴史は示唆的である!宗教に限らず思想や言論や表現や集会の自由に対する政府による圧迫は、組織に対する圧迫に先立って教育を通して行われる。2006年に第一次安倍政権によって行われた教育基本法の強行採決による改悪などは、まさにこの方向に一歩進めたものであった。教育とマスメディアは思想・言論・表現・集会・結社などの自由に対する戦場の最前線であると認識すべきである。特に「おかしな動き」に対して敏感でなければならない分野であると広く認識されるべきである。



 教会の礼拝にも特高警察が目を光らせ、牧師の説教や信徒の言動が逐一、記録されていた。礼拝には国民儀礼が先立って行われた。……(中略)……。
 説教の中では、専ら聖書についてのみ語り、戦争について語らず、消極的な抵抗を示す教会がある一方、神社参拝を積極的に行い国策への協力を示して、官憲とのまさつを少なくすることに腐心した牧師もいた。なかには、北光教会の椿真六牧師のように、『日本精神と基督教』を著すなど、国粋主義の風潮が圧するなかで、日本の社会におけるキリスト教の適応を図ろうとする主張がみられた。しかし、これも体制順応のなかに埋没し、国策や天皇制思想に都合のよい聖書解釈に追い込まれるなど、国家に対するキリスト教の屈服となった。この点、日本統治下の朝鮮のクリスチャンの神社参拝拒否の闘い、神学者カール・バルトらによるドイツの教会闘争に匹敵するような抵抗を日本の教会は生み出さなかった。(p.70)


これは日本のキリスト教界が反省すべき点であろう。言論や思想信条や表現や結社の自由などが巧妙に制限されていたり、世論も国粋主義的な方向に流されていたり、といった環境の相違ももちろんあったとは思われ、こうした「精神的自由」がいかに重要なものであるか、教育やマスメディアの場でこそ強調して人々に教えられるべきである。しかし、現実は心もとない(マスメディアの状況はむしろ反対方向に向かいつつある)と言わざるを得ない。



 転々と市街を経巡っていた教会であるが、ある時期、落ち着きをみせはじめる。それは、気軽に移転できないような大会堂を建てはじめるからである。大会堂の出現の最も早い時期のものの一つ、今日、私たちが眼にし得る最も古い会堂である札幌教会堂(旧・札幌美以教会堂)が創成川河畔に姿を見せるのは、1904年(明治37)のことである。この会堂が札幌軟石で築きあげられたのは、旧会堂の焼失という苦い経験によるものであった。(p.88)


初期の教会堂は転々と市街を動き回っていたが、大会堂が建てはじめられた明治末から大正期頃に移動が落ち着くというのは、先ほど引用した明治30年代からキリスト教を受容する社会層が増大してきたという動きと連動しており興味深い。大正の頃には信徒がかなり増えたであろうことが推察される。

札幌教会堂は、北1条東1丁目に現在も見ることができるが、あの美しい教会堂は、こうした札幌におけるキリスト教の歴史的展開をも示しているものだという点は銘記しておきたい。



 聖公会(△印)の会堂は北2条西4丁目にある。会堂近くに信徒の分布があり、鉄道線以北にもある。もうひとつ南2・3条西7~11丁目地域への集中がみられる。この地域は、1896年(明治29)以降あらわれた市街地である。
 札幌の市街地は1882年(明治15)までに、おおよそ北7~南7条、東2~西8丁目間と郊外の山鼻東西屯田通が開けていた。続いて1900年(明治33)くらいまでに琴似と、西へは北5条大通間で17丁目まで、東へは南1条以南で豊平川を渡り豊平まで開け、1899年(明治32)の札幌農学校移転に伴って北へは北13条までと市街地が拡大していた。そして、その後はこれらの外側に新しい宅地が広がっていったのである(都市化過程図「札幌」国土地理院による)。(p.117-118)


札幌の市街の拡張プロセスは、川や湿地などが当時どのように分布していたのかといったこととも密接に関連しているように思われ、探求してみると単に社会的な動き(経済や人口などの動き)だけでは追い切れないように思われる。例えば、東は創成川が交通を遮る形になる面があり、北は湿地なども結構あったのではないか。地形や地質などには詳しくないが、私としては、もう少し掘り下げて知っておいてよいことであるように思われる。

札幌農学校のキャンパス移転と結びつけて北の市街地の展開が述べられているのは興味深い。



矢内原忠雄 『続 余の尊敬する人物』

パウロの戦った戦ひは、その後いくども文明の危機において戦はれ、人類を形式主義、律法主義の沈滞と虚偽から救ったのです。アウグスチヌスが律法主義のペラギウスと戦った武器はパウロでした。ルッターが形式主義のカトリック教会と戦ったのもパウロによったのです。内村鑑三が一切の坊主的・祭司的キリスト教と戦ったのも、同じくパウロによりました。古来すべての宗教改革はつねにパウロに帰ることによって戦はれたのであります。(p.81)


「すべての宗教改革」がパウロに帰ることにより戦われたかどうか、といことには疑問はある。例えば、カルヴィニズムはかなり形式主義の側面を強く持っている。しかし、律法主義や形式主義とされるようなものに対して信仰(内面)が重要であると主張する際に、キリスト教においてはパウロ(が書いたもの)が原点というか帰るべき場所を与えたという評価は妥当であるように思われ、そこにパウロの価値を見いだしているところにも、矢内原自身の立場が表われている。



 法王による「赦罪」の制度は第九世紀に始まったものですが、それが有価証券の形を取って、代理人によって販売せされる「神聖な商品」となったのは1393年以来のことであります。(p.91)


贖宥状は、ルター以前に100年余りの歴史を持っていたことになる。なぜ14世紀末という時点で「神聖な商品」が開発されたのか?その社会経済的な背景に興味がある。13世紀のゴシックの教会堂が次々と建てられた頃にはこのような金集めの方法は使われておらず、それより後の時代になってから始められていることの意味。

ヨーロッパにおける経済の停滞やその一因でもあったと思われるペストの流行による人口減少や社会構造の変容も影響しているのだろうか?そうした社会経済の変容によって教会の権力、特に経済・財政的な基盤が弱体化が生じたということだろうか?



 教育勅語は実行すべきものであって、礼拝すべきものではない。その実行論において、その非礼拝論において、内村鑑三は彼の基督教の信仰によって立ったのであります。しかも彼はただ論じただけではありません。彼一人が立って勅語に礼拝しなかったその行為に、恐らくは彼が意識した以上の決定的意味がありました。彼はここに偶像崇拝の精神に対して一撃を与へたのであります。日本の教育界は彼の行為をもって不敬であるとなし、日本の民衆は彼の住む家に石を投げました。しかし今では勝負は明瞭であります。教育勅語の形式的な礼拝と捧読と暗誦とは日本の国民道徳を改善しませんでした。かへつて多くの偽善がそのなかからはぐくまれました。内村鑑三がこのとき戦端を切った戦ひは近年に至って極めて激しき形で再燃し、彼の弟子たちの幾人かが同じく不敬と呼ばれ、国賊と罵られたのでありますが、奇異なことには、内村鑑三の不敬事件はあれほど著名な社会問題であったに拘らず、警察その他官憲の手が一度も彼の身辺に臨まず、是非の論争が公然と発表せられたのであります。これに比べると近年における言論、思想、並びに信仰に対する官憲の弾圧迫害がいかに大であったかがわかります。自由の国としての近年の日本は、日清戦争前の日本に比して遥かに退歩してゐたのであります。国の敗れ、衰へたこともまた当然であります。形式的な尊王愛国論が栄えて、心霊の自由を重んずる「平民的思想」の乏しきところ、国は興隆するはずがないのであります。そのことを内村鑑三は身をもって叫んだのであります。(p.166-167)


教育勅語が実行されるべきものだったかどうかは別として、「律法主義・形式主義との戦い」の問題として信仰と教育とを同じ問題の構図において論じているのが面白い。

教育勅語(の形式的な礼拝と奉読と暗誦)は道徳を改善しなかったという指摘は現在においても共有されるべきものであろう。その内容の面に対する批判がないのは、本書が発表されたのが戦後まもない時期で教育勅語が刷りこまれている人々が多かった時代であることも反映しているのかもしれない。

内村の時代(日清戦争以前)よりも、日中戦争から第二次大戦の頃の方が言論や思想への弾圧が強く、自由がなかったというのは事実だろう。ただ、内村と比べて矢内原が彼が置かれた時代の世相に対する抵抗ができなかった理由を弁明するような意味合いもあるように思われる。



 不敬事件を惹起したのちの内村鑑三は大阪に移り、熊本に移り、京都に移り、名古屋に移り、転々として居を移しつつ、他人の階段の昇りにくく、他人のパンの塩からきをつぶさに経験しました。それはフィレンツェを追放せられたダンテに比すべき流竄の生活でありました。彼は大阪や熊本の学校に勤めましたが、どこでも衝突して長続きしませんでした。(p.167)


内村鑑三は偉人、少なくとも偉大なクリスチャンとして描かれることが多かったように思われるが、「この世的な基準」で見ると社会にあまり適応できない人であった節がある。



I for Japan;
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God.(p.175)


内村鑑三の墓石に刻されているという有名な言葉である。小学生か中学生の頃に学校で先生から聞いた覚えがあるが、恐らく今の子供達にまでは伝わっていないのではないかと思われる。今の子供達が教わる言葉はどのようなものなのだろうか?


内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その3)

小樽市内で入舟町ほど隣接町の多い町はない、これは一面入舟町が小樽発展史における中枢地区であったことを物語るものでもある。……天狗山から海岸続くこの町が同じ町内に下町と山の手という二つの違った両面を持つのも無理ではない。5丁目から以西9丁目までは住宅地であり1丁目から4丁目までは純然たる商店街でありその中間が工場外を形成している。明治4・5年前までは土人部落であったが、住吉町一帯にアイヌが移住し11年から14年まで公認貸し座敷が許可され、それが住ノ江町遊廓の移籍と共に明治20年を中心として入舟街小売の繁盛となったのである。主なる物産問屋や港町に軒をならべ入舟町は専ら市内向けの雑貨、花柳界宛て込みの呉服屋、大三岡田、山三山田などが巾を利かせていた、明治30年代から小松を始め戸出物産などが卸専業の店を構え南小樽駅との連絡に便利な位置としてだんだん卸屋街に変わった……。入舟町が真に織物問屋に進んだのは欧州戦争ころで南小樽駅へ殺到する七島包みの織物の出荷は年々増した」(北海タイムス社、「おらが町内人記」:31)。(p.260)


入船町が小樽発展史の中枢地区という発想は斬新に感じられる。歴史の実態を捉えているかは別として。



 花園町の場合、町内の成立が小樽の発展=人口増と関係する。……(中略)……。「……(中略)……17年1月になって漸く花園町が新設せられた。これは南部入舟町添と北部の於古発添に住家が建設せられたので行政の運営上独立の町名を付けざるを得なくなったからである」(『花園町史』1962:1-2)。
 当時の花園町はその大部分が草原であった。「新町名が設置せられたが最初に建物が建築されたのは明治15年で現市役所の場所に避病所が出来たのがそれである。小樽は、大正4年全市及ぶ町名番地の変更を実施した。その結果、錯綜していた「入船町と花園町の境界が整理」されることになった」(『花園町史』1962:98)。(p.262)


花園町というと、現在の小樽では商業などの面では衰退の傾向にあるとはいっても、一応、市の中心的な地区の一つと言ってよい地域である。明治17年になって漸く町名がつき、その頃にはまだ草原であったというのは容易に想像できない意外さがある。隣りの稲穂町が沢だったことも併せて考えると、明治後半にいかに市街が急速に発展したかが想像できる。



最下層には日雇いの港湾労働者があった。しかし、都市小樽の再生産にかかわる射程を、この都市に石炭を運び、この都市を成立させる一因となった幌内炭鉱にまで広げてみると、繁栄する都市小樽を支えた真の下層民が都市小樽の内部にではなく、都市小樽の外側における幌内炭鉱にあることが明らかとなる。われわれはともするとこの視点、都市の繁栄を支えた資源供給地における人々を見逃しがちである。幌内を嚆矢として開発されていった北海道の炭鉱とその炭鉱で働いた労働者たちこそ、囚人を含め過酷な作業に堪えた労働者たちこそ、都市小樽の発展=再生産を、「最底辺」において支えた人々であり、都市小樽の形成史において忘れてはならない人々である。(p.282)


この視点は本書で最も興味深かった点の一つであった。都市の最下層民は都市の内部にいるとは限らず、むしろ、都市の外にいる。都市を考える際にも、行政的な区域で完結して考えるのではなく、より広いシステムの中に位置づけて考える必要がある。



 囚人労働は北海道開拓史を特徴づける強制労働の源流であった。
 「北海道開拓史を特徴づける強制労働とは、〈集治監囚徒〉(囚人)と〈タコ部屋労働者(タコ労働者)〉と戦時中に強制連行された〈朝鮮人・中国人の強制労働〉」を指すものであった」(小池喜學 1983:280)。(p.287)


北海道の「開拓」において忘れてはならない側面。



 もちろん、幌内炭鉱にも囚人は動員されている。
 「明治15年(現在三笠市)に空知集治監が設置されたのは、幌内炭鉱に外役所を設けて囚人を投入するためで、以来27年11月まで囚人は幌内炭鉱の主要労働力であった。……(中略)……。」(小池喜學、前掲:293)。(p.289)


これが都市小樽の最底辺の労働者である。



 都市小樽における下層貧民と炭山における底辺層は共に厳しい搾取にさらされた人々であったが、北海道炭礦汽船株式会社は前近代的制度に依存して成長した。その初期段階で不安定であった炭山と鉄道経営を成長の軌道に乗せるまで、国家による惜しみない支援が行われ、賃下げや拂下げによる富の民間移転、事業の官業から民業への移転が実施された。北海道炭礦汽船株式会社は藩閥を中心とする、少数の特権的、特恵的階層や華族の資本参加によって富を築き、圧倒的多数の下層労働者は徹底的に収奪された。(p.311)


北炭が「前近代的制度」に依存して成長したと本書は指摘するが、世界システム論的な見方では、この奴隷制的な労働搾取はむしろ、「近代的」なものとされているものだろう。



〈むかし炭鉱、いま原発〉 次々に起こるニュースに見入る中で、思わず頭に浮かんだ言葉だ。福島の原子力発電所は、長い間、首都圏にエネルギーを送り続け、人々の生活を支えてきた。いわばフクシマは、日本の経済を動かす心臓部だったとも言えた。同じように、かつて日本全国の炭鉱から掘り出された石炭は、明治以降、日本の発展をささえてきた。そんな日本を動かすエネルギーをつくり出してきたのは、いつも地方の、名もない無数の労働者であった。構造があまりにも似ていた。だが、同じに見えても、炭鉱と原発には決定的な違いがある。炭鉱は文化を生みだしたが、原発は文化を生みださなかった」(熊谷博子 2012:1-2)。(p.315)


確かに明治期の炭鉱と現在の原発とは構造が非常によく似ている。非常に鋭い指摘である。炭鉱が文化を生みだしたという点で原発よりも肯定的な評価となっているが、その評価の根拠となっている文化とはどのようなものを指しているのだろう?私としては炭鉱都市における相互扶助の仕組みなどが想起される。



幌内鉄道の敷設に黒田清隆のもった影響力は絶大であった。黒田なくして幌内鉄道はなく、結果的に小樽の発展もなかったといえよう。(p.317)


明治初期の北海道における黒田清隆のはたらきは非常に大きなものがある。



榎本は小樽に「地所熱」をもたらした。小樽は大きな地主を誕生させたがその背景に榎本・北垣による土地取得があった。(p.317)


「地所熱」が発生するには、この頃(明治後半)にはそれが発生するほど経済力がある者がいたという背景が必要である点に留意しておこう。


内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その2)

 一言でいえば、明治以前の小樽は、運上屋の時代であった。
「明治以前の所謂運上屋時代には、運上屋自体が豊富な資力で、独占的に漁獲した鰊や鮭の製品を、自己の所有する千石船(弁財船)に積んで、北陸一帯の港や、関門、四国、尾道、兵庫、大阪、名古屋まで輸送して此れを売り捌き、帰りの船には漁業用資材や米味噌、雑貨、大物類を満載して漁民に此れを鬻いだ。すなわち運上屋が漁業と商業を兼業する立場にあったのである。尤も其他にも小規模ながら鰊製品を漁師から買入れて此れを東北、北陸方面へ売捌き、その見返へりとして生活物資を移入していた商人が幾らかあったが、真の商人が現れたのは、維新後運上屋が廃され、自由漁業が許された以後と見做して宜しかろう」(本間勇児 1970:1-2)。
 そして、草創期から明治20年代までの小樽における支配的勢力は、幕末以来小樽において漁業を営み、明治初期には戸長などをつとめた山田吉兵衛や船樹忠郎をはじめ、明治10年代から漁業・商業などをもって小樽の財界に地盤を固めて来た人々であった。その当時の小樽はそうした支配層が君臨し都市の秩序を形成した。しかし、明治30年代に入るとそうした状況に変化が生まれてくる。その契機は何と言っても都市小樽の成長である。(p.85-86)


明治30年代における変化の背景には、明治15年に全通した幌内鉄道や北海道の内陸への開拓の進展があると言ってよいのではないか。それ以前は鰊を中心とする漁業が中心的な産業であったが、北海道からの石炭の移出のほか、内陸への生活物資の出入口として商業都市へと比重を移していったのではなかろうか。



小樽には早川系と唱え、寿原系と呼び、野口系と称し、何系と名乗る「連絡商店」が多く、全道各市街地に亘って緊密な連絡を形成している商店が少なくない。(p.101)


ここは小町谷純、倉内孝治からの引用の部分である。連絡商店とは聞き慣れない語であるが、どのようなものなのか気になる。



 小樽は、鰊漁を中心にした漁業家の繁栄期、鰊の不漁と海産商の盛況、第一次世界大戦後の雑穀商の旺盛(本間勇児、前掲:2)という変遷を経験した。(p.103)


明治大正期の小樽の中心的ないし代表的な産業の変遷について簡潔に述べていると思われる。海産商は海産物を移出し、生活物資を移入するという経済が確立する過程で盛況したと思われ、雑穀商は北海道における農業の発展と交通網の整備と関連していると思われる。



 近代日本の場合、国家による都市の支配(権力の構造)が明確で、国家と都市の関係には権力をめぐるダイナミックな関係があまり見られない。それに対し、都市の内部は、複数勢力による対立・紛争がありきわめてダイナミックであった。しかし、そのダイナミックな勢力関係も権力との対抗にまで発展しなかった。小樽の場合で言えば、勢力による国家(道庁)への非同調的行動はあったけれども、それは権力=国家との対抗にまでは至らなかった。そこに、すなわち、勢力間の闘争が権力の対抗までに至らなかったところに近代日本の特質がある。それは自治のエネルギーを内部に潜在させながら、その発露を勢力に留め、権力=国家に向けることのできなかった近代日本の都市がもつ脆弱性であった。その形は現代においても継承されている。戦後の日本においても都市と国家の対立という例はまれである。(p.111)


都市(住民や地方政府)が国家(中央政府)の権力を脅かすことが少ないというのはその通りであると思われる。



明治初期、石狩、天塩、北見、胆振方面の農産物は、大小豆が主で、夫等奥地の農産物は札幌の商人の手にかかって小樽え運ばれ、それが小樽の海陸物産商に依て本州各府県に移出されたが、その頃大きな雑穀商は多く札幌にあった。ところが明治25年札幌に大火があって以来、札幌の商人が疲弊した。これがたまたま、此の年室蘭・夕張線の鉄道が開通し、それ以来雑穀類は小樽の商人の手を経ることが多くなった。(p.117)


本間勇児からの引用。雑穀商は初期は札幌が優勢だったが、明治25年の大火により札幌の勢力が疲弊し、同時に石炭輸送における幌内線のライバルとなる室蘭・夕張線ができたことで、小樽では石炭よりも雑穀などの生活必需品へと港で扱われる商品も変わっていった、ということか。(室蘭・夕張線と小樽の雑穀商が活躍することとの関係が明示されておらず分かりにくい。)




内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その1)

都市=小樽の構造は、まず何よりも、国家の意思=権力によって規定されている。都市=小樽の発展の端緒は明治国家の北方政策であった。……(中略)……。
 ……(中略)……。小樽の経済的繁栄を原初的に規定したのは明治国家の意思と権力であった。明治国家の意思と権力に依存していた限り、小樽は大きな制約を有していた。具体的に言えば小樽における発展の可能性と都市自治は明治国家の枠を超えることができなかった。(p.15-16)


小樽という都市を見る視点としては適切な見方である。本書のこの部分をもう少し敷衍すると、小樽というより北海道開拓自体が明治政府の北方政策に大きく規定されており、その北海道開拓という事業において小樽という都市が極めて重要な位置を占めていた(占めるように政策により規定された)、と理解すべきだろう。



 顧みて、こうした小樽の発展にとって重要な契機をなした出来事は開拓使の設置であった。小樽にとって開拓使の設置は大きな意味をもっていた。開拓使が陸海運輸の近代的基地をここに定めたことは小樽発展の基盤が開拓使によって始まったことを意味している。小樽の繁栄を約束した全国第三番目の鉄道と築港によるインフラの整備は開拓使にその淵源をもつものである。小樽港を活用する機関、船会社、銀行が次々と立地した。開拓使は、「小樽市における生産業の燭光は実に漁業に始まる」(小樽市役所 1949:28)といわれる事態=漁業の小樽という歴史に大きな転換をもたらした。官営事業をはじめ開拓使の先駆的方針は後の小樽産業の発展に寄与するところ大であった。明治13年、機関車や各種鉄具製作・客車・貨車などの製造と修理のために設けられた手宮工場はその象徴である。(p.43-44)


この部分には、一つ前の引用文に対するコメントで私が述べたことと共通の認識が示されているように思われる。

開拓使が札幌に設置され、小樽がその外港となったことにより、「漁業の小樽」に大きな転換がもたらされたという認識は適切であろう。もちろん、明治期には漁業も小樽の繁栄にとってまだ大きな位置は締め続けるが、逆に言えば、札幌の外港であり北海道の物資の玄関口とならなければ、漁業が廃れた時点で小樽の経済発展は止まってしまっていたと見てよく、大正時代に全盛期を迎えることはなかっただろう。

余談だが、以上の引用文で「全国第三番目の鉄道」と呼ばれている幌内鉄道は、(その約9か月前に岩手県の釜石鉱山鉄道が開通しているため)厳密には三番目ではないことが明らかになっており、四番目かどうかという確証が得られていないこともあって、最近では「北海道最初の鉄道」と呼ばれることが増えている。

ちなみに、「手宮工場」があった場所は現在の小樽市総合博物館本館がある場所であり、現在も現存する国内最古の機関車庫や明治15年にアメリカから輸入されたSLしづか号(7100型)、大正時代の転車台、国産の機関車として2番目に製造され、現存では最古の国産機関車「大勝号」(7150型)などが展示されている。



小樽の周縁部に下層階級の居住者が多く、内部には大体中流以上の者が住んでいるという事は前記貧民層の研究において述べた通りである。更にこの研究に依り南部及び北部には下層階級中でも生活能力を有するものが多く居住し、中の沢付近には生活能力の小なるものが多く住んでいると云う事になるのである。……以上を要約すれば小樽の日雇労働者の大約は手宮富士付近に、残りの大部分は勝納川下流沿岸に住み、中部には僅少であって、その分布状態は大体において貧民の分布と似ているが、中の沢部落には殆んど日雇を見ることが出来ない。即ちこの現象は港小樽の荷役を反映するものである」(渡辺祐一郎1936:1-4)(p.60-61)


渡辺祐一郎とは、昭和初期の庁立小樽中学校の生徒であるらしいが、旧制中学ってこんなにレベル高かったのか?と思わされる内容である。

昭和初期の小樽の地区ごとの社会階層の居住状況。「中の沢」というのは聞きなれない地名だが、私の推測では、現在の入船町あたりで、国道5号線より山側ではないかと思っている。確かに、この地域は仕事をするには川も海も遠い(当時はメルヘン交差点に流れ込む川があったようだが、勝納川のように工場があったわけではないようだ)。

手宮富士というのは、現在の石山町、長橋、稲穂5丁目あたりで囲まれた山を指すらしい。石山町界隈はいかにも労働者の町だったという雰囲気が今でも感じられる。手宮よりもこの界隈の方が運河に近く、当時の港湾労働者にとっては好都合な立地であることは頷ける。勝納川周辺に工場があったため、この周辺にも労働者が多かったというわけだ。

職場と住居の関係、経済的な階層と居住地区の関係が分かると地区ごとの特性もいろいろと見えてきそうだ。



「手宮の石炭桟橋は明治45年から使われていた。……昭和11年には114万トンをここから京浜方面に送った。日本を代表する重工業地帯の、ライフラインを支える桟橋のIGR(インペリアル・ガバメント・レールウェー)の大文字は港を睥睨していた。その頃手宮の労働者は鉄道員と人夫に二分された。鉄道員はエリートで、垣根をまわした官舎に住まいし、水汲み女を雇えた。官舎は手宮公園への傾斜に段々と広がっていた。人夫の多くは、手宮を流れるドブ川沿いの長屋に肩を寄せ合うように暮らしていた。石炭人夫千人、沖中人夫千人がここにいた。人夫のほとんどが日銭稼ぎで、波止場の朝は仕事をも求める人夫たち、艀の出入り、石炭列車の入れ替え、機関車、サンパンの汽笛で戦場になった。……」(北海道新聞社 2002:16)(p.62)


手宮の中でも階層があったという指摘。ところで、人夫があたりに住んでいたドブ川とはどこにあったのだろうか?



渡辺祐一郎によって確認された地形が形成される一方、富裕層や名望家がそして中間層が多く居住する地域が分化・形成されていく。小樽の場合、富裕層の住む水天宮の丘や日銀支店長の公舎がおかれた富岡町そして富裕層の別荘や中間層が居住した緑町は、いずれも高い所に位置する場所で、明らかに、北部の手宮などとは趣を異にした異国情緒を漂わせた地域であった。(p.63-64)


ここに指摘されている居住地区の相違は、現在の歴史的建造物(のうち、住宅)の所在を見ても分かる。旧板谷邸や旧寿原邸は水天宮の丘にあり、富岡町には旧遠藤邸(現在は立正佼成会が使用)などがある。緑町のあたり(住所としては入船5丁目だが、緑町と隣接)には先日、公開が終了してしまったが坂牛邸がある。



 港湾労働者の内部もまた階層的に構成されていた。常雇と日雇・臨雇は別であった。艀の労務者も、大頭・小頭・船頭・道具方・常雇に分かれていた(北海道立総合経済研究所、前掲:15)。常雇・日雇いを含めて小樽における港湾労働者の社会的地位は低いものであった。その一因は彼らの得る収入にあったというよりは港湾労働者の杜撰な雇用形態と過酷な労働条件にあった。「昭和2年当時、小樽にどの程度の港湾労働者がいたかを明確にする統計はない。それなのに工場労働者については明治43年からの統計がある。大きな違いである。その頃朝鮮人労働者もかなりいたが、それについても、わからないことが多い」(毎日新聞社1985)という事態は彼らの社会的地位の低さを物語る。
 発達・成長する小樽は、統計に表されることにない人々の世界を、絶対に必要な部分として抱えていたのであろる。かれらは名望家の対極に位置していた。名望家は記憶され記録された人であるが、労働者や下層民は忘れられ記録されていない人間である。戦前に小樽のコミュニティを生きた人はそのような人々であった。(p.73-74)


統計に表れるか否かということをメルクマールとして社会的地位の程度を推定しているのが興味深い。

社会的地位が低かったことやどの程度低かったかを具体的に示すには、別の資料からももう少し説明する方が良いようにも思うが、社会的地位が高いほど記録が残りやすく、低いほど忘れられた存在になりやすいというのは、傾向としてはその通りであるように思われ、個人としてではなく数としてすら記録に残らない人々の社会的地位はかなり低いものだったと見ることは可能であろう。

また、この箇所で注目しなければならないのは、昭和初期の頃に朝鮮人労働者もかなりいたという指摘である。日本の近代化の過程において底辺の労働者として、こうした人びとがおり、社会的な待遇は必ずしも良くなかったということは知っておく必要があることであると思われる。