アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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和田洋一 『新島襄』

新島は、英人もしくは仏人によって侵略され抑圧されているアジア諸民族の姿を港々で見て、侵略者、抑圧者に対する反感、いきどおりを文字で表現するということはなかった。英夷の夷に、かすかに表明されているといえばいえるぐらいのものである。
 「函館よりの略記」ないしこの期間の日記を通して推定できることは、新島は、中国人を始め東南アジアの諸民族から好ましい印象を一度も受けとらなかったということ、日本以外のアジア諸民族に、明るい未来を期待するということが、まったくなかったということである。
 ……(中略)……。

支那人の家も、見世かけは随分見苦しからざれど、其流し本、雪隠(トイレ)のきたなき事実に支那人の懶情不潔を徴するに足る。且つ支那人上向のみ飾り、内心野鄙にして更らに敵愾の志なく。宜なり英人に軽蔑せられ、豕犬の視を為さるるは。依て望む、吾州尊大盲目の人々、支那人の轍をふまざらん事を(「函館よりの略記」)。


 新島の内部に燃えていたものは、英人、仏人、米人にたいする敵愾の志ではなく、一日も早く日本を英仏米の水準にまで高めようとする志だったであろう。日本の後進性を自覚していない尊大蒙昧な日本人をいまいましく思いながら、新島は、支那人の二の舞をふむようなことがあってはならないと警戒の心を強くしたようである。
 ……(中略)……。アジアを侵略し、アジアの民衆の上に君臨している白色人種にたいする反感、怒り、憎しみよりも、侵略され、支配されているアジア諸民族への軽蔑のほうが強かったと見ていいだろう。(p.78-80)


このあたりの新島の鈍感さを指摘している点は、1973年に出版された本書がそれ以前の新島伝(いずれも偉人や聖人として新島を称揚する目的で書かれてきたとされる)とは異なった視点から描いている点と言えるだろう。

本書を読んで私が得た新島襄観とでも言うべきものから見ると、新島は身分制社会において身分が上だというだけで他人に頭を下げなければならないような関係性を強く拒否したが、それは身分制や封建制への反感というよりは個人主義や個の尊厳のようなものから発しているように見えた。しかし、それを社会全体に広げて考えるところまでは新島は至っていなかったように思われる。その意味では自分本位ないし自己中心的なものの見方が強かったと言える一面があるのではないか、といったところである。

(もっとも、基本的人権のような発想は当時の日本にはほとんどなかっただろうし、蘭学などを学んだとしても、社会や歴史に関する学問をどれほど学び得たのかには疑問があるので、理念の面ではそうした理解に立ち得なかったとしても無理はないと言える。しかし、なぜ虐げられている者に同情しなかったのか、できなかったのか、という点は問題にされてよいと考える。)

さらに言えば、新島は、欧米への憧れの強さから、自身を欧米の立場に一体化させていたという面もあるのかもしれない。


アーモスト大学は、文と理literature and scienceを教えさずける場所であったが、その文は、何よりもまずギリシア、ラテンの文学、語学を意味していた。新島としておじけづいたのも当然であっただろう。……(中略)……。
 ……(中略)……。アーモスト大学の記録によれば、新島は1868年に入学し、70年に卒業したことになっている。これは67年の9月、新島はアーモストに来て入学のためのテストを受け、古典語の学力があまりにも不足しているので、仮入学(選科生)の扱いとなり、翌68年改めて正規の学生として受けいれられたと解釈すべきであろう。アーモストの学生は、卒業に当たって、すべてバチェラー・オブ・アーツの称号をさずけられるならわしになっているが、新島だけはバチェラー・オブ・サイエンスの称号を受けた。これもまちがいなくギリシア・ラテン語の学力不足と関係があったと思われる。ついでながら、後年、新島の世話でアーモスト大学に入れてもらった内村鑑三も、卒業のときにもらった称号はやはりバチェラー・オブ・サイエンスであった。(p.101-102)


このあたりの、古典語の学力不足といったことも、新島や内村を称揚しようとだけする人が指摘しないところであるが、当時のアメリカのカレッジの状況等を踏まえて興味深い内容を含んでいる。

まず、アメリカのカレッジでは19世紀もかなり遅い時期でも、まだ古典語重視の伝統的カリキュラムがある程度残っていたという点は指摘できる。アメリカでもこうした教育に対して改革する動きはすでに出ていた時期だったはずであり、徐々に変わっていったものとは思われるが、その点、発足当初の日本の大学や高等教育には、こうした足かせがなかったのは幸いだったと言えるかもしれない。(最初期には外国語での授業という形での壁があったが。)

次に、アメリカのカレッジはほとんど私立と思われるが、そうであるが故であろうか、入学や卒業にある程度融通が利いているように見える点が興味深い。一部の学力が足りなくても選科生で入学を許可したり、卒業時も新しい称号を設けて許可したりといったことが行われたとすれば、かなり柔軟な対応がなされているように見える。

当時のアメリカのカレッジは学力レベルはそれほど高くなかったとも言われるが、そうしたことやともかく学生を受け入れることで授業料が入るといった私立的な発想も影響しているとすれば、この点は昨今の日本において(定員割れが続くなど)学校の存立をかけて学生を集めなければならないような地方私立大学の状況にも通じるように見える。



 新島が同志社をなぜ京都にたてたのか、なぜ東京にたてなかったのかという疑問は、今まで多くの人によってくり返されてきた。しかし候補地は、実は新島がアメリカに滞在していたときからすでに内定していたのであって、それはボード系の宣教師の集まっている兵庫表ないしその付近であり、兵庫(神戸)から遠く離れた地域などは問題ではなかったのである。(p.157-158)


なるほど。説得力がある。

本書でも述べられているし、2013年の大河ドラマ「八重の桜」などでも、京都という仏教の勢力が強い地域ではキリスト教への反感が他の地域よりも強く、学校の設立や運営に苦労したことが描かれていたが、これも候補地がある程度限られていたことの結果だったといことか。ざっくりと言ってしまえば、大阪か京都が大きな都市で、神戸はまだ当時は小さな町だったため、大阪がダメだった場合は京都くらいしか選択肢がなかったということか。



 明治新政府は、天皇家に関する祭日をやたらに多く設定し、公立の小学校、中学校では、紀元節、春季皇霊祭、神武天皇祭、秋季皇霊祭、神嘗祭、天長節、新嘗祭を休日と定めていた。私立同志社英学校は、当初国家の祭日をすべて無視していたが、概則制定いらい紀元節と天長節とだけは特別扱いにして休日ということにした。ナショナリズムに対してちょっぴり妥協したということであろう。(p.200)


祝日の設定とナショナリズムのあり方は示唆的。国家神道的な世界観に基づくナショナリズムの醸成にあたって、こうした祝日の制定も中期的に効果があったものと思われる。



 聖書の講義は、30番と呼ばれる木造の建物の中で行なわれた。相国寺の正門と御所の裏門(今出川御門)とをつなぐ道路の西がわに同志社の校舎があり、30番は東がわにあった。「校内では聖書を教えない」という一札を入れているので、府庁に対して言いのがれができるよう、校外で聖書を教えている、正課ではない、有志の生徒が勉強しているというかっこうをとっていたのである。


興味深い。



 ジェーンズの弟子たちが、ぞくぞく京都にやって来て新たに新島の弟子となったころ、札幌ではウィリアム・S・クラークが政府おかかえの教師として農学校に赴任し、すでに授業を始めていた。彼の強い宗教的感化力は、やがて彼のまわりに札幌バンドを形成することになった。ジェーンズと同様、奴隷解放のために身を挺して戦った陸軍大佐クラークは、彼を招いた北海道開拓長官黒田清隆と激論をかわし、キリスト教を農学校の生徒に教えると主張して一歩も退かず、黒田は根負けをして、なるべく目だたないようにそおっと教えてくれと頼んだ。黒田が根負けをすれば、北海道では、もはやだれ一人邪魔をする者はいなかった。からっとした新天地北海道と、陰湿な千年の古都、仏教徒のエルサレム・京都とは、その点まるでちがっていた。クラークはやりたいことをやって、翌1877(明治10)年4月、任期満了で札幌を離れた。(p.202)


クラークの札幌での成功と新島らの京都での苦闘との対比は、それぞれの土地を巡る歴史や権力状況なども背景にあったという理解は重要。特にクラークの成功を考える際に、黒田を説得すればあとは邪魔できる者はいなかったということは大きい。



 新島は、田中不二麿と連れだってアメリカの東部各地をまわったとき、アーモストに四泊し、州立農科大学を訪問し、クラーク学長に学内を案内してもらったこともある(1872年4月24日)。京都へ来て5年ぶりに新島に出あったクラークは“My boy”と呼びかけて同志社の生徒を驚かせた。……(中略)……。新島校長に案内されて、校内を巡覧しながら、クラークは一つ一つの建物に、少し宛の金を寄付して行ったという話も伝わっている。……(中略)……。
 ……(中略)……クラークはさらに、この神学校の生徒の大部分は布教師になることを願っていると語っている。新島や宣教師たちは、相手がアメリカ人のクラークなので、安心してほんとうのことを言ったのであろう。同志社英学校という名称は、外へ向かってのもので、実質は神学校だったのである。
 クラークはアメリカへ帰ったのち、札幌の教え子たちと手紙のやりとりをつづけているが、京都の新島とのあいだにも文通はながくつづいている。(p.203-204)


新島とクラークとの関係には興味があり、私が本書を読んだ動機の一つもそれであった。新島や宣教師たちがクラークには同志社の本当のことを語ったという件は面白い。以前から多少の面識はあったにしても、お互いかなり意気投合というかウマが合うというか、そんな感じだったのではなかろうか。



「福音は万人のためのものである、男性のためのものであるとともに女性のためのものである」。デビスは、どのような方法で女性に接触していけばいいのか自信がもてず、「日本において女性にたいして働きかける仕事は、女性によってなされねばならない」と感じ、そのことをアメリカン・ボードに伝え、女性の宣教師を派遣するよう依頼した。神戸女学院の前身である小さな女学校は、デビスの求めに応じて派遣された二人のアメリカ人女性によって始められたのである。……(中略)……。
 明治時代の前半に設立されたミッション・スクールないしクリスチャン・スクールの数は約70、そのうち約50が女学校であるということは、デビスと考えを同じうする宣教師が、全国各地にいたこと、同時に中央、地方の官庁が、女子教育をおろそかにしていた事実を物語っている。(p.207-209)


興味深い指摘。



 ピューリタニズムは、一般的に人間の視野をせまくし、かたよったものにするということが言えるだろう。新島はしかし、絶えず旅行することによって、未知の世界の中に踏み入り、異なった風俗に接触し、さまざまな階層の人々と語り合うことによって経験を豊富にし、気分の転換を行なっていたものと思える。(p.229)


本書で描かれる新島のこの一面には大いに共感できるところがある。



アンドーバー神学校の恩師パーク、アンドーバーのフィリップス・アカデミー時代に世話になったヒッドン兄妹、札幌の農学校で教えたW.S.クラークら、そんほか新島の教え子蔵原惟郭がアメリカに来ていたし、既知の青年内村鑑三が新島を訪ねて来るということもあった。内村はペンシルベニア州立白痴院の看護夫として働いていて、いかに生きるべきかにひどく悩んでいたので、新島は彼の相談相手になってやり、シーリー学長に頼んで内村をアーモスト大学に入学できるようにしてやった。内村は、後年、新島の悪口を言ったり、失礼な態度をとったりしているが、この時期には、新島の親切に対して心からの感謝を数通の手紙の中で重ねて表明している。(p.254)


内村と新島との関係ももう少し知りたいところである。ここで書かれているものとしては、内村が後年、新島への悪口や失礼な態度をとったとされることには興味がある。日本の教会の合同の際に新島が反対したことに関係するのだろうか?


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大島正健 著、大島正満、大島智夫 補訂 『クラーク先生とその弟子たち』

明治5年まで弥十郎は引続き芝浦高輪間の鉄道工事に従事し、多数の人夫を使役して盛んに業務に身を入れていたところが、かねて御用達を仰せつけられていた開拓使の懇望で、同年正月二十八日突如開拓使十二等出仕を仰せつけられ、北海道国道開削の重任を託されることとなった。(p.30)


平野弥十郎は札幌農学校第一期生伊藤一隆の父であり、東京横浜間に(日本最初の)鉄道を敷設する工事を請負った人物。このような人が北海道の国道開削の請負もしていたというのは興味深い。



 開校直後クラーク先生はそれ等の生徒たちを集めて一場の訓辞をされた。曰く

「この学校の前身である札幌学校には極めて細密な規則があって生徒達の一挙一動を縛っていたようであるが、その内容には非難すべき点は一つもない。然し自分が主宰するこの学校ではその凡てを廃止することを宣言する。今後自分が諸君に臨む鉄則は只一語に尽きる。
 “Be gentleman”
これだけである。
 ゼントルマンというものは定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られてやるのではなくて、自己の良心に従って行動するのである。学校は学ぶところであるから、起床の鐘が鳴ったらベッドを蹴ってとびおきねばならぬ。食卓へいく時には合図をするからすぐさま集り、礼儀正しく箸をとらねばならぬ。消燈時間には一斉に燈火を消して眠につかねばならぬ。出処進退すべて正しい自己の判断によるのであるから、この学校にはやかましい規則は不要だ。」

と申されて先生は太い眉をピクリと動かされた。(p.92-93)


クラークに関する逸話や彼の残した有名な言葉の中で、最も私が好むものの一つがこのBe gentlemanである。

私がこれまで19世紀のアメリカの大学やクラークの生涯などについて学んできたことから考えると、ピューリタン的な理想、アメリカのカレッジにおける伝統としての人格教育、(クラークも留学した)ドイツの大学のような学生を大人として扱う考え方など、いろいろなものがその背景にあるように思われる。



 日本のキリスト教は国情を理解せぬ宗派的な宣教師の手では決して芽生えないし、人種的優越感を以て我等に臨む彼等の手によっては永久に育たない。我が国に福音を述べ伝うるために宗派的な宣教師は不必要である。日本の伝道は日本人の手でと主張する新島先生は我が独立キリスト教会の宣言に心から同感の意を表して出来る限りの援助を惜しまなかったのである。(p.234)


札幌のクラークの弟子たちと新島襄との関係は非常に興味深いものがある。無教会派と新島の考え方や信仰は、大きく違うように思われるので疑問は深まる。



塚本虎二 「大島正健先生告別の辞」より

これらの人達の中で伝道者になったのは内村先生だけであり同先生の日本キリスト教に対する貢献の如何に大であるかは多弁を要しないが、その内村先生をクリスチャンにしたのは第一期生であり、殊に大島先生がその急先鋒であったことを忘れてはならぬ。内村先生により唱えられた無教会主義――教会なきキリスト教があり得るという信仰の意義が重大であればあるだけ、間接ではあるが大島先生の隠れた偉大な功労没すべからずである。(p.265)


内村鑑三を改宗させたことが大島正健の功績だという。これは札幌農学校の第二期生と第一期生との関係を象徴するような誉め方かもしれない。



大島智夫 「大島正健の東都遊学とその意義――百年目に世に出たセルフ・ヘルプ――」より

 一期生、二期生に対し三期生以下は耶蘇教に対し一致団結して反撥してその間に断絶が生じた。断絶は宗教問題に名を借りるがむしろ学生の質の問題であった。その断絶はすでに二期生どうしの中でも始まっていた。二期生の私費入校生の二名は学力全く不足し予科に落第させられるに及びそれを不服として自発的に退学した。その際、札幌農学校では外人教師が耶蘇教をすすめ、入信しない学生を差別して追放すると学力の問題を宗教問題にすりかえて新聞に投書して波紋をなげた(北大百年史札幌農学校史料(一)291、296)。二期生のうちイエスを信ずる者の契約に署名しハリスに洗礼を受けた7名の学生がそろってクラスの成績の上位を占めたことも、非信徒の学生の感情的反撥を強めていった(同史料299)。
 東京大学予備門より学生を募集することは明治11年以降婉曲に断わられ(同史料314、316)、三期生からは予科卒業生および公募による学生が代って入学するようになり、三期生以下の学生の学力と質は、一期生、二期生に比し、格段の遜色を見るに至った。(p.295)


大変興味深い。北大や札幌農学校の歴史をふり返るとき、原点とされるクラーク精神は一期生と二期生に受け継がれたというストーリーで描かれる。そこには三期生以下は出てこないし、あまり語られることもない。この間には学力レベルにおいて質の差があったと大島智夫は指摘している。東大予備門からの入学がなくなったという事実の指摘は、その学生たちの質の差があったという主張に対してかなり説得的な根拠となっている。また、三期生以下が団結してキリスト教に対して抵抗したのも、二期生の退学者が予め対抗的な宣伝をしていたとすれば納得できる。ある意味、この時点ですでに札幌農学校の後の伝統となるべき「クラーク精神」は大きく変容していると言えそうである。



大島智夫 「島松の離別――Boys be ambitious!を誰が聞き、どのように広まったか――」より

 不思議なことに明治25年以前の札幌農学校の現存する記録の中には現在これ程有名になっている“Boys be ambitious”の語が全く見当らない。それに反し、学校当局の耶蘇教に対する嫌悪・警戒・排除の姿勢が目立っている(北大百年史札幌農学校史料(一)285、296、620)。
 「母校の危機」にも触れてある通り、明治18年に伊藤博文の懐刀金子堅太郎が札幌農学校を「学理高尚に過ぎ、開墾の実技に暗く尤モ北海道に適セザルモノ」と北海道三県巡視復命書の中に批判したことは、農学校廃止の噂を呼び、学校当局は危機感をつのらせた。この背景には明治政府の統制の埒外にあって米国のカレッジ方式をとり、高度の人文・教養教育を施し、あまつさえ耶蘇教が生徒にひろまるを容認した札幌農学校教育に対する明治政府の嫌悪感がある。農学校は二者択一の前にたたされた。創立の理想を堅持して廃校のリスクをおかすか、政府の意を迎えて存続をはかるかで、勿論後者が選択された。それはクラーク離れ、マサチューセッツ離れを意味し、同時にアメリカの影響を払拭し、ドイツ型の技術者養成の専学単芸型の教育機関に転身し、もって国家の要請にこたえる人材を養成し、ひいては北海道帝国大学に昇格してゆく路線を選択したことであった。学校の中にもはや“Boys be ambitious”の声の上る余地のない変身であった。そのヘゲモニーを握ったのが校長心得より校長ついで北大総長となってゆく同級生佐藤昌介であった。(p.301-302)


北大の歴史として語られる中では、佐藤昌介は北大を救った英雄として描かれる。本書ではそれとは異なった評価が与えられており興味深い。佐藤によって選択された変化は、「クラーク離れ」であり、「創立の理想」を捨て去って政府に迎合するものとされる。ある意味、結果を考慮して判断するならば、この選択はやむを得ないものであると言え、本書の評価はやや一方的過ぎる面もある。佐藤の業績については、北大を存続させるという大きな目的を達したが、その際に創立の理想を曲げざるを得なかった、という形で整理しておきたい。



 佐藤昌介は明治24k年校長心得となるや、大島正健に陰に陽に、牧師をやめるか、教授をやめるかの選択を迫る圧力をかけた形跡がある。祖父は結局その両者を選択して札幌を去るのであるが、その決意を固めたのが明治25年頃と思われる。
 たまたまこのころ予科生が自発的に学芸会をつくり、祖父が講演を依頼された際、この機会に熱情をこめて創立の精神たるクラークの教育の神髄を学生達に伝え、消えゆくものを残してゆこうとした。それが25年9月の演説である。この推定は周囲の状況からみてそれ程間違ってはいないと思う。(p.302-303)


佐藤昌介が大島正健に牧師か教授をやめるよう圧力をかけたというのは、北大の歴史などを見ていてもあまり出てこないところである。関係者であるが故に描こうという動機が生じていることが感じられる。特に、「祖父は」と述べているあたりに、孫である著者の思い入れが表れている。

この箇所のすぐ後で、佐藤昌介はキリスト信徒でありながら、札幌バンドに加わっていなかったという記述があるが、このあたりの同級生と佐藤昌介との関係という問題も興味深いものである。