アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

潮木守一 『アメリカの大学』

しかし当時のドイツの大学はアメリカのどこかのカレッジを卒業してさえいれば、それだけで自由に入学を認めてくれた。この自由に入学を認めてくれるシステムは、アメリカ人学生にとっては、大変魅力的であった。(p.19)


19世紀のアメリカにおいてドイツの大学への留学が多かった理由がいくつか説明されているが、恐らく最も重要なポイントの一つはこれだと思われる。

本書によれば19世紀のアメリカのカレッジの教育程度はそれほど高くなかったようだが、それでも卒業していればドイツでは自由に入学できるようにしていたのは何故なのだろう?



 19世紀のアメリカのカレッジは、まずなんといっても「子どもの学校」であった。ちょっと富裕な家庭では少年が15-16歳になると、カレッジにかよわせた。カレッジの学生の多くは10代の子どもであった。この点がドイツの大学とは決定的に違っていた。ドイツは早くも19世紀の初頭に、ギムナジウムを制度的に確立させ、「子どもの教育」はギムナジウムにまかせ、大学は「大人の学校」として成立した。これに対して、アメリカのカレッジは、子どもを一人前のジェントルマンにしあげる学校として出発した。この点にドイツの大学とは基本的な性格の違いがあった。(p.24)


興味深い対比。未成熟な子供を一人前のジェントルマンに仕上げるということは、知的な教育だけではなく道徳的な教育を行うという意味合いがある。

本書を私が先日読むことにした問題関心の一つは、札幌農学校に関する理解を深めるという意味合いがあった。この観点から言うと、1876年にクラークが札幌にやって来て、校則については「Be gentleman」だけでよいとした逸話があるが、当時のアメリカのカレッジの性格を踏まえるとこの言葉が出てきた背景が理解できるように思われる。クラークは、当時の札幌農学校の学生たちに対して、あなた達は既にgentlemanであるから、そのとおり振る舞えという意味で言っていたと思われるため、本書で述べられているような「子どもの学校」のような扱いはしていない点は本書の描くアメリカのカレッジとは異なっていると言える。しかし、クラークも道徳教育を重視した点ではアメリカのカレッジの伝統と軌を一にしていることが分かるし、その理想ないしモデルがgentlemanであるということもアメリカのカレッジの伝統と一致している。ある意味、当時のアメリカのカレッジにおける伝統的な考え方がクラークの教育理念にも色濃く反映しているらしいということが見えてくる。

ちなみに、発足当初の札幌農学校の教育課程がリベラルアーツを重視したという点も、マサチューセツ農科大学をモデルにしたと札幌農学校関係の文書ではしばしば指摘されるが、本書からはもっと広い文脈の中で位置づけることが出来る。すなわち、当時のアメリカのカレッジ一般に見られた傾向であったことが本書から理解できる。(ちょうどその頃にアメリカのカレッジも徐々に変わり始めていた時期であることも本書から分かるが。)



 まずエリオットが直面した問題は、どうやったら学生の学習モティベーションを高めることができるか、という問題である。この問題はすでに見た通り、ティクナー改革のきっかけでもあった。いつの時代においても、いかなる社会においても、大学はつねにこの問題につき当たる。この問題から解放された大学はほとんど実在したことがない。(p.122)


同感である。

なお、モチベーションが上がらない要因はいろいろと考えられるが、少なくとも現代においては、学ぶことの目標が明確にしにくいこと、自由度が高すぎることが背景の一つとなっていると思われる。それとの対比では、受験勉強は頑張りやすい勉強である。



すでにいくつかの研究によって明らかにされている通り、19世紀初頭までのハーバードの卒業生は、多くが牧師となって行った。つまり彼らの職業目標は聖職者という比較的単一な目標に向けられていた。ところが、こうした状況は19世紀中葉にはすでに崩れていた。学生の多くはもはや牧師を目指してカレッジに集まってくるのではなく、彼らの職業目標はもっと別なものに広がり、それだけ多様化していた。(p.123)


19世紀半ば以降のアメリカの大学が改革を必要とした大きな要因。この更に背景には社会の階層や産業の構造など様々なことが横たわっていると見るべきだろう。



大学はもともと、人生のなかで最もエネルギーの高まった青年たちの集団であって、その彼らがすすんで勉強にエネルギーを集中させるような状態は、ごく稀にしかおきない。大学はもともと、「遊び文化」と「勉強文化」の微妙な拮抗の上に成り立った集団で、ともすれば、「遊び文化」が優位を占めることの方がはるかに多かった。知的好奇心に燃え、勉強に没頭することを好む青年は、いつの時代でも、どんな社会でも、ごく少数の例外者でしかなかった。(p.124-125)


本書の叙述の中で、目が開かれた箇所の一つ。

「遊び文化」と「勉強文化」の微妙な拮抗、それも「遊び文化」が基本的に優位にあるのが常態であるという認識に立つことで、大学生という立場について非常に的確な理解を得やすくなるように思われた。多くの大学生はそれほど勉強はしないが全くしないという者は少ないし、大学の正規のカリキュラムに沿った勉強にはそれほど力を入れない場合であっても、その他の活動によってそれなりの人生経験を積んだり、人間関係を広げたりといったことは行っている人は少なくない。これが「遊び文化」が優位な中で「勉強文化」の中にもいるという状態であろう。

個人的には大学時代を過ごす人にとって、「勉強文化」はある程度の勢力がある方がよいとは思うが、「遊び文化」の質がどのようなものであるのかが人生にとって非常に重要な意味を持つのではないかと思う。



 もともと彼は近代語の教授として採用されたものの、就任当時、彼はドイツ語も、スペイン語も知らなかった。理事会はたとえそれらを知らなくても、数ヵ月もヨーロッパに行ってくればマスターするものだと思い込んでいた。1855年頃のハーバードの教授の採用のしかたとは、この程度のもので、教師の専門研究者としての資質など、たいして重視していなかった。こうした形でハーバードの教授となったローエルにとっては、1880年頃から始まった研究中心主義、業績主義について行けるわけがなかった。(p.250)


杜撰さに驚く。研究機関としての側面をほとんど持っていなかった当時のカレッジの実状を物語っている。



 このスロッソンの記述が物語るように、19世紀から20世紀への変わり目の頃、ウィスコンシンの教授たちは、大学外のさまざまな行政活動、立法活動にブレーンとして参画し始めた。とくに1892年、エリーがウィスコンシンに来てからは、彼はその「経済・政治・歴史学部」を「公共政策のためのウェスト・ポイント(士官学校)」にしあげようとした。彼はここを拠点として、アメリカ社会に現に存在する諸々の政治上・経済上・社会上の諸問題を研究上のテーマとしてとりあげ、大学をもって、これら諸問題解決のためのコンサルタント機関にしあげようとした。つまり彼は次第に登場し始めた社会科学を、社会改良のための応用科学として完成しようとしたのである。(p.288-289)


現代も大学教授の一部はこのタイプの活動を積極的に行っている。アメリカでは20世紀になる頃にこうした動きが強まってきたらしい。アメリカ以外の動向も気になる。例えば、日本では北海道開拓の際に札幌農学校が設けられ、台湾や韓国を植民地化した後にはこれらの地域にも帝国大学が設置されているが、これらには植民地経営に資する研究と教育を行ない、ブレーンとして仕事をさせたり養成していくという思惑があったと言えそうである。



 ひるがえって考えて見るならば、大学教師ははじめ文字通り、教える人として、この世に誕生した。しかし、研究という役割がつけ加わることによって、大学教師は教育と研究の二股をかける二重人格として変身した。そしてさらに、学内行政という役割が加わることによって、今度は三重人格となり、さらにはまた、学外活動という役割が加わることによって、四重人格として変身することとなった。機能分化・分業化を常とする現代にあって、大学教授だけは、この時代の流れとは逆行して、機能増殖、機能拡大という世にも稀な宿命を担うこととなった。
 しかしこれらの四つの役割を一身に担うことは、多かれ少なかれ、時代遅れのアクロバットを演じるようなものであった。……(中略)……。
 かくしてここに、「教育型教師」「研究型教師」「運営型教師」「学外活動型教師」といった諸類型が出現し、それに対応するサブカルチュアが大学教師の間で分化することとなった。(p.291-292)


大学教師の役割の重層化が、ここに述べられている順で歴史的に展開してきた面があることを本書は示している。これは興味深い指摘であり、大学教師の役割についてのなかなかうまい整理であるように思われる。

思うに、私が学生だった頃の私の講座の教授は「運営型」に近い人だったように思う。当時の助教授(准教授)や助手は間違いなく「研究型」であった。当時、教授と助教授や助手とを比べて、多くの人が明らかに研究者としての能力や資質において助教授や助手が優れていると感じ、「何故、彼が教授なんだ」と思っていた人も多かったように思うが、こうした整理をしてみると、教授が「運営型」であり、その中でも興味深い研究を行っている研究者に対する感度や受容度が高かったことが、優れた研究者を自らの下に置くことが出来た理由だとも考えられ、そうだとすれば、単に研究する力だけがあればよいというものではなく、研究室全体として見た場合には、各種の運営手腕というものが問われる場面がある(むしろ研究費の調達などに手腕が必要なことが多いだろう)ということを認識することは重要であることが容易に浮かび上がってくる。



スポンサーサイト
菅野完 『日本会議の研究』

 2003年から2014年までの長期間にわたり、政治家と有権者双方に対して実施された大規模世論調査を分析した谷口将紀は、有権者の好む政策争点はここ10年左右にぶれることなくほぼ不変であるにもかかわらず、政治家、とりわけ自由民主党の政治家たちだけが右側に寄り続けているという解析結果にもとづき、「たとえ過去10年間で日本政治が保守化したとしても、それは政治家の右傾化であって、有権者の政策位置が右に寄ったのではない」と指摘している(谷口2015)。(p.4-5)


右傾化ということがしばしば言われるが、誰が右傾化しているのか、ということには注意してみる必要がある。社会の一般的な大衆が極端に右傾化した事実はないという指摘は、朗報という面もあるが、そうした全体的な状況に対して耳を貸すことなく、一部の者が権力を行使できるポジションを占めることが出来る体制になってきているということをも証ししている。これらの右派政治家たちは、マスメディアに対する支配・影響力の行使と教育という手段を通しての自らのイデオロギーの社会への注入を目指していることを踏まえると、長期的にはかなり危険な方向に傾いていると見なければならない。



 地方議会での意見書採択などの活動方法は、従来、リベラル陣営や左翼陣営が展開してきた運動方法であり、運動方法として特段の新奇性があるとはいえない。むしろ、日本会議が従来の左派が行ってきた運動方法を模倣しているように見える。(p.29)


私見では右派の方が同じ方法で運動をしても、権力者の共感が得やすいため、効果を得やすい(運動により動いてくれる議員が多い)のではないか?と考えている。

しかし、本書の終盤で指摘されるように、労働運動や左派、リベラルの従来の市民運動が後継者などもなくなり影響力を落としている中、宗教団体の影響力が相対的に高くなっているというのは、社会の構造と市民運動との関係として押さえておく必要があるとは思われ、本書を読んだ後の見解としては後者の要因の方が遥かに大きな意味を持っていると考えるようになってはいるが。



 日本会議事務方が行っているのは、「国歌斉唱」と「リベラル揶揄」という極めて幼稚な糾合点を軸に「なんとなく保守っぽい」有象無象の各種教団・各種団体を取りまとめ、「数」として顕在化させ、その「数」を見事にコントロールする管理能力を誇示し、政治に対する圧力に変えていく作業なのだ。(p.132)


本書ではこうした管理能力を発揮しているのがどのような人物なのかといったことまで描かれ、ある意味でその能力の高さなどに対しては高い評価を下している。

ただ、私見では、宗教団体というのは動かしやすい対象である。教団の上層部の合意さえ得られれば、それに従う信徒たちに対しては宗教的な教えに基づくものとして語りながら政治的な動員をかけることが出来るのだから。

私は宗教団体は政治団体であるという考え方をこのブログでも何度か述べてきたが、現代の宗教団体(特にカルト的な新興宗教)における政治団体としての機能の仕方を本書から学ぶことが出来たと思っているが、上記の箇所は、その仕組みを集約的に表現している箇所の一つであったと思われる。



 『チャンネル桜』が開局した2004年8月当時、安倍晋三は自民党の幹事長職を務めていた。当選回数も少なく大臣経験もない「若造」の幹事長就任は、前代未聞といっていい。この大抜擢を行ったのは、時の総理総裁・小泉純一郎。小泉はこのとき、不文律として自民党の中で長年尊重されてきた「総幹分離原則」(一派閥への権力集中を防ぐため総裁職と幹事長職を同じ派閥から出さないという人事上の原則)を無視して安倍晋三を幹事長に抜擢している。まさに、小泉の代名詞ともいえる「サプライズ人事」の典型例だ。
 ある意味、安倍晋三は、「小選挙区制の申し子」といえなくもない。中選挙区制の時代であれば、いかに小泉に絶大な国民的人気があったとはいえ、党内の因習や権力バランスを無視し、当選回数の少ない若手議員を自派閥から幹事長に抜擢することは困難を極めたはずだ。党内で造反が起こり、反執行部の狼煙が上がったにちがいない。小泉流の「サプライズ」も「即決断行」も、公認権をはじめとする党内の人事権を執行部が独占する、小選挙区制特有の仕組みがあればこそだ。同時にこの異例の抜擢は、安倍の脆弱さも物語る。そして、この大抜擢のわずか2年後、小泉のあとを引き継ぎ、安倍は総理総裁まで上り詰める。が、いかんせん、2年である。自派閥の中にさえ、中川秀直や町村信孝など、安倍よりもはるかに当選回数も閣僚経験も豊富な人材がひしめいていた。派閥の領袖としてさえ権力基盤を構築しえないまま、安倍は総理総裁になったのだ。それまでの総理総裁と比べ、安倍の党内権力基盤は驚くほどに脆弱だ。日本会議や「生長の家原理主義者ネットワーク」をはじめとする「一群の人々」が安倍の周りに群がり、影響力を行使できるのも、この権力基盤の脆弱さに由来するのではないか。安倍は他の総理総裁よりつけこみやすく、右翼団体の常套手段である「上部工作」が効きやすいのだ。(p.171-173)


小選挙区制と安倍の権力基盤に関するこの分析は妥当である。例えば、安倍が第二次内閣以後、特にマスメディア対策に力を入れているのも、こうした権力基盤の脆弱性を補うためという面があるのではないか。

なお、小選挙区制下における自民党内部の権力関係について、執行部の権力はフォーマルなルートで行使される権力は極めて集権的であり、派閥の領袖などはインフォーマルなルートで執行部に影響力を行使するしかない従属的な立場に置かれているものと思われるが、こうした権力構造については私としては研究する必要がありそうだ。


ちなみに、本書は非常に多くのことを私に教えてくれたが、日本会議流の「市民運動」に対抗するためには、かつての右派学生運動が左翼学生運動に対抗すること自体を半ば目的としていたように、彼らの運動自体の不当性や危険性を暴露していく類の運動が必要であるように思われる。単に正攻法で個々の法案や政策に対してのみ抵抗していたのでは、日本会議関連組織の運動には十分に対抗できないだろう。その意味からも、最近、日本会議に関する分析が増えてきていることは望ましいことだと思っている。


荒井宏明 『なぜなに札幌の不思議100』

 北側は、大友亀太郎の測量によって造成した大友堀(現在の創成川)を軸線としていますが、この軸が西に約9度傾いています。大友掘を基準にして、東西の通りができていったのですから、大通なども東西の軸がずれています。
 それに対して南側の山鼻地区は、ほぼ南北に合わせてつくられた兵村中央道路(現在の石山通・国道230号)を軸に道路を敷設しています。
 この2区画が互いに広がって接したのが南3~4条のあたりです。(p.24-25)


札幌は碁盤の目と言われるが、元々複数の村が繋ぎ合わされているため、それらの繋ぎ目毎にこうしたズレがある。したがって、この種のズレに着目することで札幌の市街の歴史的展開が見えてくる。この視点は、札幌の街を見るにあたってポイントの一つになる。



 七福神信仰は室町時代末期に、日本・中国・インドの神々が組み合わさって生まれたものです。徳川家康の政治指南役・天海僧正が推奨し、江戸期の庶民の間で大流行しました。(p.28)


室町時代は大陸との交易が相対的に大きかった時代であり、この時代に中国やインドの神々と土着の神々が組み合わされたというのは、なるほどと思わされる。これが江戸時代に流行したというあたりは、もう少しその経緯を知りたいところである。家康の政治指南役が推奨したというあたりからすると、政治的な目的があったのだろうと推測するが、それがどのようなものだったのか?また、実際にこの信仰が広がったことでどのような効果が得られたのか?興味をそそられる。



もともと大通の西10丁目以西は屯田兵の練兵場で、屯田兵制度が廃止になった後に大通の一部になりました。しかし、利用する人は少なく、ゴミ捨て場や雪捨て場にされてしまいます。(p.53)


大通の歴史というと札幌市資料館で紹介されているのが想起されるが、私が以前訪れた際に見た際には、このあたりのことは印象に残っていない。紹介されていたのだろうか?次に訪れるときに注意して見てみよう。(以前訪れた際の資料も見直してみたい。)



それぞれの区画で南北に走る車道があるのですが、なぜか8、9丁目だけがつながっています。しかし、もともとは他の区画と同じく、南北に抜ける車道があったのです。
 今から約20年前、札幌市が世界的彫刻家イサム・ノグチ氏に「大通公園のシンボルとなるような彫刻を」と制作を依頼しました。札幌市は9丁目のクジラ山(滑り台)を撤去して、ノグチ氏の作品を置こうと考えていました。しかし、1988(昭和63)年に現地を訪れたノグチ氏は、歓声を上げながらクジラ山を楽しんでいる子どもたちを見て、それを拒否します。そして8、9丁目間の道路の真ん中に立つと「ここがいいね」と言いました。
 クジラ山を残し、自分の作品を置くことで2丁画をつなげ、子どもたちがのびのび遊べるようにしよう、と提案したのです。(p.54) 


大通の歴史はなかなか面白い。

こうして最終的にこの場所に置かれたのが「ブラック・スライド・マントラ」という作品だという。この作品が現在の大通のシンボルとなっているかどうかはやや疑問という感じはするが、話としてはいい逸話。(上記の引用文の後の経過も含めて興味深い。この冬にはノグチは死去し、市は最初は西8丁目に作品を設置したが、その後、故人の意思に従って道路をふさいだという。)

機会があれば、子どもを連れて遊びに行ってみたい。



 明治の初期は、創成川に接した南1条あたりがもっとも賑わい、そこを軸に民家も広がっていました。一方、北海道開拓使本庁舎(現在の北海道庁本庁舎)から駅前通あたりは地価が極端に安く、商店などもまったく栄えませんでした。
 しかし、草木が生えるままにしておかないのが、明治人の律義さです。1874(明治7)年からその翌年にかけて、開拓使は、南北は北5条から北1条、東西は西4丁目から西8丁目、現在でいうと札幌グランドホテルやHBC、道警本部、毎日新聞社北海道支社などが丸ごと入る一帯に大規模な果樹林を設けたのです。……(中略)……。
 1880(明治13)年になると、石炭輸送のために手宮鉄道が開通。創成川による水上輸送から陸上輸送へのシフトが始まり、賑わいの中心線が現在の駅前通に移りました。そうなると、いつまでも果樹林にしておくわけにもいかず、一帯は行政や民間の建物が並ぶ地区へと変わっていきます。


 明治初期の札幌の市街の変遷もなかなか興味深い。物流の中心が創成川(大友掘)だったときはそこが軸であったが、鉄道に物流の中心が移ると駅前通が軸となった。

なお、果樹林の西側に接続するような場所に現在の北大植物園が設置されている。札幌農学校の植物園が設置されたのが明治19年であることから推すと、果樹園がなくなっていく中にあって、植物園がその西側に残された形になる。これらの間に何らかの関係があったのか?興味が惹かれる。



夏堀正元 『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』(その2)

≪――日本の労働者と朝鮮人労働者の共同戦線は焦眉の急である。なぜなら、日本の支配層は最下層に置いた朝鮮人労働者を利用して、日本の労働運動そのものを攪乱するに違ひないからである。したがつて、朝鮮人労働者に加へられた差別と虐待は、日本の労働者自身に加へられた差別と虐待とみなさなければならない≫(p.77)


大正10年(1921年)に書かれた手紙より。当時の日本に朝鮮人労働者がある程度の数いたという認識は重要。こうした事実は歴史叙述において積極的に語られることは少ない。本書は90年代前半に書かれているので、ポストコロニアリズムなどが台頭しつつあった当時の思想的な相対的にリベラルな流れに乗って書かれている節があるので、こうしたよくないことが、当然あったものとして書かれているが、90年代末頃からはどちらかというとバックラッシュ的な反動的言説が勢力を増して来たこともあり、本書で語られているような当然の事実を何の躊躇もなく描き出すことに対して書き手が躊躇する傾向が出てきているように感じる。これは非常によくないことである。その意味で、90年代前半頃までに当然のことを当然のこととして書いてあるものから学ぶべき事実は今の時代においては結構多いのではないかと思う。



 小樽高商は1911(明治44)年に創立された国立の専門学校で、高商としては東京、神戸、山口、長崎につぐ“第五高等商業”であった。日清・日露戦争後、急速な産業革命の進行期を迎えた日本は、企業で働くサラリーマンという新階層を生みだした。
 政府はそのサラリーマンづくりに、相当な力を注いだ。明治36年から大正2年にかけて、帝国大学が1校から4校に増えたが、専門学校は国立が4校から23校、公立が4校から7校、私立は37校から56校へと急増している。(p.85)


この時代の社会の変化(サラリーマン層の出現も含む)は高等教育の需要を高め、その圧力が高等教育機関を次々と作らせる結果へと繋がった。そうした流れの中に東北帝国大学や小樽高商などの設立は位置づけられるわけだ。なるほど。



道内出身者は四分の一で、道外からの者が圧倒的に多く、無試験制度もあったためか、ほとんど全国府県にまたがっていた。(p.85)


小樽高商の第一期生72人の出身地域についての説明。現在の小樽商大はほとんどが道内出身者であることを考えると、なかなか興味深い。当時(明治44年)の北海道には高等教育に対する需要が少なかったり、貧困のためそうした教育どころではないといった状況があったものと推察される。



 治安維持法施行の本家である内務省に入った東京帝大時代の学友成田英之進からの手紙によれば、学生の軍事教練は陸相宇垣一成の強い要望によるものだったらしい。
 宇垣は軍縮であまった現役将校を中学以上の各学校に配属して軍事教練をおこなうほか、明年度には全国に青年訓練所をつくり、そこでも軍事教練を実施する計画であるという。(p.145-146)


以上の指摘と関連して、本書によると、第一次大戦後の軍縮により将校が余ってしまうため、軍部は中学校以上の学校を彼らのいわば「天下り先」にするため軍事教練を正式な科目にさせた面があるという。なかなか興味深い指摘である。



 北辺の港町で不意に起つた小樽高商軍教事件は、いまから考へると、大学高専にたいして軍国化教育を押しつける政府の企図がもろにあらはれた点で、きわめて歴史的必然の高いものでした。あの事件が突発しなければ、政府の“陰謀”はまだ前面にあらはれず、正体不明のままでしたでせう。小樽高商軍教事件が迅速に中央の軍教反対闘争に発展したのをみて、あわてた政府は京都学連事件のやうな杜撰で不法な捜査に走り、デタラメな起訴をでつちあげるといふ醜状を示してくれたわけです。小樽高商の事件がなければ、政府はもつと周到に、計画的・組織的に大がかりな水も洩らさぬといった様子で、全国の大学高専の学生生徒への弾圧をおこなひ、おそらく進歩的な、今の日本にはかえ替えのない教授連中、労働組合の指導者たちを大量検束に追ひこんでゐたでせう。小樽の事件で、政府はポロリと危険な意図をあらはしたわけで、われわれとしては一歩後退した上で、慎重かつ大胆に反撃する手だてを考へることが出来たといふ次第です。(p.192-193)


小樽高商軍教事件は、政府を「あわて」させることで、政府に対し用意周到に意図を隠した動きに徹することができない状況にすることができ、抵抗する運動にとっても政府側の動きを見ながら抵抗ができるようになったと(上記手紙の主は)前向きにとらえているようである。

政府が(安倍政権のように)悪だくみをしているような場合、やりたいことを隠されたままにしておくと、抵抗はますますしにくくなる。それを暴き出すことが攻略のためには有力な方法となり得るし、攻略のための方法を考える際の考え方のモデルの一つを提供してくれている。



夏堀正元 『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』(その1)

 藤山要吉よりすこしあとのことになるが、明治なかばには金子元三郎(のちの貴族院議員)もあらわれた。……(中略)……。
 なかなか肚のすわった若者で、中谷宇吉という小樽商工会の切れ者とともに、明治20年代はじめに朝鮮独立の志士で日本に亡命していた金玉均をかくまって、朝鮮から送りこまれる暗殺団から守っていた
 ……(中略)……。明治24L年、金子は若干22歳であった。
 当時、金子は新聞の発刊を計画していた。
 「札幌には『北海道毎日新聞』があるが、小樽にはまだ新聞がない。しかも『北海道毎日新聞』は道庁の補助を受けているから、いわばお上の御用新聞だ。ほんとうの拓殖上の世論を反映したとはいえない新聞づくりをしている。これは同紙が本道の新聞界を独占しているからである。したがってぼくは道庁の補助を受けない自由な新聞をだすことで、北海道の世論を正しく喚起したいのである」(p.38)


金子元三郎については、経営していた店舗の建築(明治20年竣工)は現在も残っており、『北門新報』という新聞を発行したことで知られているが、朝鮮独立の志士をかくまっていたとは意外だった。どちらかというと政治思想的には保守的な部類に属するのではないかと私は思っていたので、特に意外だった。

後段は『北門新報』を発刊する金子に動機について語らせている箇所。当時の北海道の言論状況の一端が垣間見えて興味深い。



 社説が兆民らしくなるのは、すべて属官まかせで東京に栄進して帰ることしか念頭にない薩摩の陸軍少将永山武四郎道庁長官(前長官・参議・首相を歴任した黒田清隆の子分)を非難した「北海道庁」、さらにまた千坪一円で大土地を払い下げるという、金持と官員優遇策の矛盾と醜行を衝いた「日本国の富海」「六千余方里の土塊」などの論説であった。(p.42-43)


前述の『北門新報』は、中江兆民を主筆に招いたことでも知られる。中江兆民による永山武四郎に対する批判は、永山が遺言に従い北海道に埋葬されていることを考えると、必ずしも全面的に首肯できるものではないように思われる。



 「その榎本さんですがね、芸者好きはともかくとして、明治なかばには小樽の中心部に二万坪とか三万坪の土地を政府からただ同然に貰っていたんでやすから、驚きでさね。まったく官員サマサマの時代スよ」
と、裁判所書記の桑山甲介は貞二郎にいって、ケッ、ケッ、と笑った。あの清廉ともみえた榎本が、そんなことをしていたのか、と貞二郎は驚きの色を隠せなかった。
 「まったく維新政府なんてものは、北国の自然の猛威にあえぎながら生活している庶民など、まったく眼中になかったんスな」
と、桑山は赤い舌先をちょろりとだすようにして喋りだした。
 「北海道は政府のお偉方が財閥づくりに狂奔した土地でやす。早い話が、幌内炭鉱から札幌をへてこの小樽に敷いた鉄道と、政府があれほど大切にしていた高収入を生んだ幌内炭鉱を、明治22年に破格の安値で三井財閥に払い下げたんでやす。(p.58-59)


榎本が取得した土地(現在の小樽市稲穂)には、「梁川通り」という榎本の雅号から名前をとった通りが未だに存在している。
北海道は政府のお偉方が財閥作りに狂奔した土地であるという認識は興味深い。幌内鉄道と炭鉱を三井に払い下げたという指摘に対して、これを聞いた夏川貞二郎は「開拓使官有物払下げ事件」と同じではないかと指摘した。これに対して、本書は次のように言う。



 「まさにおっしゃるとおりスよ。ただし、あのときとは違って、スキャンダル扱いされるのを避けるために、三井側は周到な根まわしをしたんでさ。まず黒田首相(明治21年4月就任)の確約をとりつけたうえで、内大臣三条実美を通じて皇室を大口株主にしてしまったんでやすよ。皇室をもちだすなんざ、口封じにはうまい手でやすな。
 それから渋沢栄一、福沢諭吉の了承を得て、有力財界人や華族らを発起人にして、判事もよくご存知のいまをときめく北海道炭鉱鉄道会社をあらたに興したっちゅうわけス。そしてこの会社を基点として、やがて夕張炭鉱、空知炭鉱を開いていき、北海道における三井王国をつくりあげていったんでやす」
 「しかし、三菱も黙視していたわけじゃあるまい?」
と貞二郎は訊いた。
 「もちろん、三菱は北海道の定期船や海上輸送をがっちりとおさえてましたよ。ま、三菱は北海道だけじゃなくて、政府の手厚い保護を受けて、全国の海運業界を独占していたといわれたくらいスからな」
 三菱が海運業界の覇者となったのは、明治7年の台湾侵略がきっかけだったことは、貞二郎も知っていた。大久保利通や大隈重信に取りいって、軍需物資の海上輸送の認可を受けたのが、三菱を「海運王」といわせる大きな契機となったのである。
 だが、桑山書記の話によると、明治15年ころには三井を中核にした資本金600万円(うち政府出資260万円)の共同運輸会社がつくられて、三菱に挑戦したという。小樽の港には三菱と三井の船が入り乱れ、ついに運賃のダンピング競争にまで発展した。そしてこの抗争は明治18年に両者が合併して日本郵船会社が創立されるまでつづいたということである。その一方で、三菱は三井に対抗して政府の認可をとって道内各地に炭鉱を開いていった。
 「なるほどね、明治中期までの政官財癒着が小樽に活気をあたえ、富をもたらしたということになるのかね」(p.60-61)


明治期の北海道を語ると必ず出てくるのがこの「北炭」である。北炭の誕生と日本郵船の誕生のいずれにも三井が絡んでおり、ここにおける政官財の癒着が小樽の繁栄を支えていたことが最後に指摘されている。

北炭と日本郵船という会社のこと、そして三井の北海道や台湾などでの活動については、以前から謎に包まれている部分が多いので知りたいと考えている。これらの問題の関連を本書のこの部分は簡単に指示してくれているように思われる。

また、三菱が海運業界の覇者となったのは、台湾侵略がきっかけというのももう少し掘り下げて知りたいテーマである。


朝日新聞社小樽通信局 編 『坂と歴史の港町 小樽 改訂版』

 安政年間に小樽内の場所請負人、恵比須屋半兵衛が、箱館奉行所の許可を得て私費により熊碓(今の東小樽)から銭函まで海沿いに約10キロの道をつけた記録がある。
 やがて明治政府が北海道開拓をはじめ、半兵衛の道を改良し、さらに明治13年、クロフォードなどの指導で、この道に鉄道が敷設され、汽車が札樽間を走るようになった。(p.72-73)


幌内鉄道が短期間のうちに敷設できたのは、こうした既存の道路を利用できたことも理由として大きかったのだろうか。



 明治41年の5月に小樽高等商業学校の地ならし工事が始まった。……(中略)……。校舎の設計は未定であったらしいが、文部省建築課札幌出張所長からの通達では大体は長崎高商の建物の平明図までつけられていたという。着工以来1年余をへて明治43年2月に、はるか港を見下ろす高台の地に木造二階建ての校舎ができあがった。(p.86)


小樽高商の校舎は、長崎高商の校舎を参考にして、あるいはそれをコピーして建てられたということか?



かつての小樽市民病院跡には立派な水道局の建物が建っており、古い図書館の建物がいっそう素朴に見えてくる。坂道を港の方に向かって下りて来ると、通りに面して右側に勤労婦人センターや職員会館の目新しい建物がめにつく。
 坂道の中ほど左側に郵船海陸運輸株式会社の嵐山社宅がある。その基礎地盤を支えている石がきにふと目を見張った。……(中略)……。
 市の社会教育研究所におられる高橋利蔵先生にうかがったところ、大正5年ごろ、小豆相場で巨万の富をきずいた高橋直治が、邸宅を建てるのに築いた石がきで、当時の金で一個につき10円出すから持ってこいと言って集めたとのことである。(p.88-89)


小樽は坂が多い町なので、この種の石垣は多く残っていそうである。



 現在の中野植物園内奥の源山にわいた清流のいくところを清水町、川幅が広くなった所は豊川町と決めた。その流れの源となる辺り一帯を源町として、「源、清水、豊川の流れは美しくにしきの如し」というわけで錦町の名が生まれたというのである。(p.125)


源町という地名は現在は使われておらず、清水町に含まれているが、一連の流れを長命にするというのは面白い。



 大正時代の小樽繁栄期に三井、三菱、住友系の各商社、銀行などが競って小樽に出先機関を設け、本州からの転勤者のために社宅の建設が急がれることになった。社宅地に選ばれたのが現在の富岡町一帯。板谷商船や榎本武揚らの北辰社の社有地で、買収が容易であったらしい。
 社宅ができると、古くから開けた勝納川、オコバチ川の流域や、港に近い町並みとは違った雰囲気をかもしだしてきたが、これは港町共通のものである。函館市の山の手ハリストス教会やカトリック教会、そして多くの寺院が集まっている元町あたりの住宅地がそのよい例。そのほか横浜、神戸、長崎なども下町と対照的な山の手ができあがっている。(p.130)


小樽の繁栄期に銀行や商社などが進出してきたため社宅が必要になり、買収が容易であり、函館からの鉄道も開通した駅の付近でもある富岡町に建てられることになり、それによってこの界隈が山の手を構成することとなったということか。



蘭島、塩谷はブドウ産地として知られるが、昭和の初期のニシン不漁期に、収入安定を図るための殖産としてすすめられ、今日に至っている。(p.207)


現在の蘭島や塩谷にはあまりブドウ産地というイメージはない。むしろ、すぐ隣の余市町や仁木町にこうした果物産地のイメージが色濃い。ブドウ栽培もやめてしまったということか?少し調べてみたい。


安丸良夫 『神々の明治維新――神仏分離と廃仏毀釈――』

 だが、16世紀末から17世紀はじめにかけて、儒教の影響力はまだ小さく、幕藩体制を根拠づける支配の思想としての地位を獲得してはいなかった。……(中略)……。しかし、あたらしい権力者は、彼ら自身が個々の宗教的存在をこえる絶対性と超越性をもって君臨したために、みずからを神格化する傾向があった。
 政治的権力者自身を神格化する方向に道を拓いたのは、信長であった。……(中略)……。あたらしく成立してきた統一権力の従来の宗教勢力への優位性の確認が、権力者自身の神格化を通じてなされたのである。こうした権力者自身を神格化する態度は、秀吉や家康の時代にもうけつがれ、地方の大名なども神格化された。……(中略)……。
 現世の権力者や功績ある者が神として祀られるようになるのは、この時代より以降のことである。(p.22-24)


儒教が影響力を獲得していくのは江戸時代になってから、という理解は重要であろう。

また、権力者や功績ある者を神として祀るのも概ね安土桃山時代や江戸時代以後のことだという点も興味深い。日本統治時代の台湾でこうした現象が多くみられたが、この「伝統」は日本の江戸時代以後の考え方によるものということになろうか。(台湾の住民にも同様の観念があったという可能性もあるが。)



農村でも都市でも、家の自立化が家ごとの祖霊祭祀をよびおこし、それが仏教と結びついた。そして、家ごとに仏壇が成立したことが、他方では神棚の分立をもたらした、という(竹田聴洲「近世社会と仏教」)。(p.26)


家の自立化という社会学的な事実が信仰心の形態や信仰の対象に影響したというのは興味深い。



宗教は、それ自体魔術的なものであるがゆえに容易に制御しがたいのであり、民心をたやすく蠱惑してしまう、忠孝などの身分制倫理を内面化していない民衆は、その誘惑に抵抗しえないだろう、というわけである。キリスト教の魔術的な威力と民心の動向という二つの容易に統御しえないものが結びつけられて、想念のなかで危機意識がいっきょに膨張するような仕組みになっている、といえよう。(p.35)


幕末尊王攘夷思想の代表作『新論』(会沢安)についての解説。この本は明治以後の教育勅語や修身教育の淵源となる性格が強い書物であるという。

この「想念のなかで危機意識がいっきょに膨張するような仕組み」は、極右や極左のような極端な思想にしばしばみられる思考パターンではないだろうか。こうした仕組みが組み込まれていることによって、この種の思想に「感染」した人々は、「危機」の客観的な度合いを正確に見積もることができなくされているように思えてならない。

少なくとも、安倍晋三が2015年に安保法制を強引に成立させようとした時に使ったレトリックは、一般の政治的に関心の低い層に対して、こうした危機感を煽ることによって自らの論理的・客観的に無理のある主張に同調させようとしたものであるとは言える。反対する立場の人々の批判に対して、安倍や政府がまともに答えることができなかったことも、政府側の発想が「想念のなかで」膨張した危機感に捉われている限りにおいてしか同意を得られないものであることに原因がある。

ここで指摘されているような思想的な仕組みについては、もう少し掘り下げて考えてみる価値がありそうだ。



 ここにみられるのは、記紀神話などに記された神々と、皇統につらなる人々と、国家に功績ある人々を国家的に祭祀し、そのことによってこれらの神々の祟りを避け、その冥護をえようという思想である。こうした神々が、たんなる道義的崇敬などからではなく、祟りをなす怨霊への恐怖にもとづいて祭祀されなければならないとされたことは、注意を要するが、国体神学が日本人の神観にもたらした決定的な転換は、右のような神々をこそ祭祀すべき神として措定し、それ以外の多様な神仏を祀るに値しない俗信・淫祀として斥けたことにあった。
 こうした考えにそって、明治元(慶応四)年以降、神社の創建があいついだ。(p.60-61)


日本人にとっての伝統的な信仰と思われている神社での信仰も、かなりの部分は明治以後に新しく「創られた伝統」であることは押さえておく必要がある。神社の創建が明治以後に相次いだという点は、地域研究(私の場合は小樽、札幌、台北の都市研究)と結びつけるとかなり面白そうである。



 宮中の祭儀や行事などの神道化も、右のような動向に照応するものといえよう。これにさきだって、幕末の宮中では、仏教や陰陽道や民間の俗信などが複雑にいりまじった祭儀や行事がおこなわれていた。新嘗祭など、のちの宮中祭儀につななるもののほか、節分、端午の節句、七夕、盂蘭盆、八朔などの民俗行事がとりいれられており、即位前の幼い明治天皇が病気になると、祇園社などに祈願し、護持僧に祈禱させた。これらの祭儀や行事などには、民俗的な行事や習俗などをもっとも煩瑣にしたような性格があった。……(中略)……。
 また、天皇その他の皇族の霊は、平安時代以来、宮中のお黒戸に祀られていた。お黒戸は、民家の仏壇にあたるもので、そこに位牌がおかれ、仏式で祀られていたのである。天皇家の菩提寺にあたるのは泉涌寺で、天皇や皇族の死にさいしては、泉涌寺の僧侶を中心にして仏式の葬儀がおこなわれてきた。皇霊の祭儀が神式に改められたのは、明治元年12月25日の孝明天皇三年祭からである。(p.64)


天皇や皇族が神道的な行事を行うというのは、現在のわれわれの漠然とした観念に照らすともっともらしく見えるかもしれないが、これは近代になって「創られた伝統」であって、もともと皇族も仏教や民間信仰などに基づいて儀式などを行っていたことを理解しておくことは重要である。



 仏教側の動向のうち、もっとも重要なのは両本願寺である。幕末の政治情勢のなかで、その創立の由来からしても東本願寺が佐幕的だったのにたいし、西本願寺門末には勤王僧の活躍が顕著だった。後者の中心は長防グループで、西本願寺の重要な拠点である長防二国には、長州藩の尊攘倒幕派と結んで活躍する活動的な勤王僧が輩出したが、こうした動向は、やがて西本願寺を幕末の政局にひきこんでゆくことになった。とりわけ、鳥羽伏見の戦いにさきだって、慶應3年12月26日、門主広如が参内を命ぜられ、新々門跡の明如がかわって参内すると、西本願寺は朝廷方を構成する勢力の一部となった。鳥羽伏見の戦いにさいしては、西本願寺は御所猿ヶ辻の警備を命ぜられ、武装した僧侶百名余が御所を固めるとともに、諸国門徒に出京を求めた。
 これにたいして東本願寺は、鳥羽伏見の戦いが朝廷側に有利に展開しそうなのを見て、あわてて忠誠を誓った。……(中略)……。しかし、こうした政治姿勢の相違にもかかわらず、両本願寺が朝廷に忠誠を誓ったこと、とりわけ厖大な献金をおこなったことは、まだ権力基盤の弱い維新政府にとって重要であった。(p.77)


やはり本願寺と政治との関係は興味深い。幕末における幕府や朝廷との関係もそうだが、維新政府に厖大な献金を行ったという指摘は見逃せない。例えば、北海道の歴史などでも本願寺道路の建設など、政府の開拓を助けていたこととも繋がっているように思われる。



 五節句の廃止と新祝日の制定は、新暦への転換(6年1月)とあいまって、国家的祝祭日をもって民間の習俗と行事の体系をつくり変えようとするものだった。同年10月には、元始祭以下の祝祭日があらためて制定されて、近代日本における祝祭日の体系が完成したが、こうした国家的祝祭日と民間の信仰行事との葛藤は、国民意識の国家への統合をめぐる重要な対抗軸として、明治末年までひきつがれた。(p.134)


長期的にみると、政府の意図(民間の習俗と行事の体系を作り変えようとする)は、かなりの程度成功を収めたように思われる。権力は時間をかければ人々の心のありようまでかなり変えることができる場合があることがわかる。



 廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は、四年以降、近代的国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらなた宗教体系の強制であった。(p.142-143)


明治時代には膨大な「伝統」が創られており、それは近代国民国家に対するある種の忠誠を調達するためのものであったと理解しておきたい。なお、安倍晋三やそのシンパたちの国家思想は、被治者たちの内面への支配を欲する点でも明治期を理想としているように見える。



 こうした多様な神仏関係のなかから、国家によって神社祭祀が体系化されたとき、村の氏神(産土社)だけが選びだされ、しかも、氏寺や仏像を排して、一村一社の神道式の氏神の成立が目標とされたのであった。……(中略)……。こうして、村々に祀られていた多様な神仏のなかから、産土神だけが浮上してきた他を抑え、いま私たちが村や町で見るような氏神が成立した。私たちが神社の様式としてごく自然に思いうかべてしまう鳥居、社殿、神体(鏡)や礼拝の様式なども、その大部分は、こうした国家の政策を背景として成立したものであった。(p.167)


神社の様式や礼拝の様式について、もっと詳しい分析をしてほしい。宗教建築を含めた建築の様式には個人的に興味を持っている分野でもあるので、神社建築についても深く(そして批判的に)学んでみたいと思う。