アヴェスターにはこう書いている?
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北海道新聞社 編 『おたる再発見』(その4)

だが昭和19年、小樽経済専門学校と名称が変わって終戦。存亡の危機に直面した。占領下、百万都市以外については大学統合案が示され、北大に吸収合併されるピンチにさらされた。しかし、これを完全に阻止したのが四代目校長大野純一だった。大野は小樽高商出身で、愛校心は人一倍おう盛。日夜、各界に説いて回り、ついに熱意はGHQと政府を動かし、計画案撤回どころか、さらに単科商科大学昇格を実現させる大偉業を達成した。(p.116)


現在の小樽商科大学にも北大への吸収合併という危機があったということか。この時、大野純一がどのように政府やGHQを説得したのか、どのような考え方を最終的に採用させたのか、という点には興味が惹かれる。



 龍宮神社の創建は明治9年(1876年)で、前二社に比べ歴史は浅いが、小樽駅周辺の繁華街に面し、祭りは非常ににぎわう。(p.123)


一つ前のエントリーで龍宮神社の由来や歴史について詳しく知りたいと述べたが、創建は明治9年ということがここでわかった。明治初期の廃仏毀釈の時代にかなりの数の神社が日本中で創建されたというが、恐らく龍宮神社もそうしたものの一つだったものと想像される。

また、「稲穂」という地名はアイヌ語の「イナウ」(神)であるとの指摘があったが、この点を考えると少し意外な感じがする。龍宮神社は明治9年にできたのであれば、イナウ沢という地名はそれ以後にできたことになる。アイヌ語の地名というとかなり古いもののようにイメージしていたが、私の想像よりも遥かに新しい地名ということになる。(それとも龍宮神社が創建される前に別の神社があったのだろうか?)



 洋菓子が小樽で普及しはじめたのは大正10年代から。……(中略)……。
 ……(中略)……。「米華堂」は昭和3年のオープンで、英語のベーカー(パン屋)と仏語のガトー(菓子)を、巧みにゴロ合わせして付けられた店名といわれる。(p.136)


この米華堂という店は現在もまだあるが、名前の由来は意外だった。



明治初期の廃藩置県で、寺の維持ができなくなり、同42年(1909年)になって寺は小樽在住の松前出身者により、仏像ごと現在地に移された。(p.140)


小樽の五百羅漢の由来。寺の維持ができなくなったのは廃藩置県によるのか?廃仏毀釈ではないのか?



 天狗山の足元に広がる小樽は、文化の薫り高い町だ。そんな一面を物語るのが市立小樽文学館で、市民有志の熱心な運動が実り、市町村立の文学の殿堂としては全国で初めて、昭和53年オープンした。(p.164)


市町村立の文学館というものがこんな遅い時代までなかったということに驚いた。



 北海道画壇史の草創期を築いた画家たちを育てた小樽にふさわしい美術館を――と、文学館同様に市民運動がきっかけとなって昭和54年8月、市立美術館としては網走市に次いで道内二番目に設立された。(p.165)


こちらは道内で2番目ということなので、文学館ほどは珍しくなかったことが分かるが、文学館も美術館も70年代末に相次いで市民運動の結果として設立されているというのは興味深い。この頃の小樽は運河論争がほぼ決着しかかっていたであり、市民たちの間では自分たちの街のアイデンティティのようなものを守りたいという思いは高まっていた時期だっただろう。そうしたことは相次いで設立された背景と見ることはできるように思う。いずれにしても文学館と美術館の設立の経緯については、もう少し詳しく知りたい



 小樽港は昭和41年以来、道内唯一の畜肉輸入指定港として、北海道で消費される羊肉を一手に引き受けている。……(中略)……。
 “羊肉輸入基地”の地の利を生かした加工業も盛んだ。中でも北上商店(小樽市高島一)は試行錯誤のすえ昭和57年、「ラムステーキ」を新発売。焼くとバラバラになるロール肉を植物性タンパクなどで固め、ステーキ状に焼けるようにした画期的製品で、本州を中心に「羊肉特有の臭みもない」と売れ行き好調だ。(p.188)


この点は現在はどうなっているのだろう?今でも唯一の指定港なのだろうか?

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北海道新聞社 編 『おたる再発見』(その3)

 小樽の港は明治5年(1872年)、手宮港から小樽港へと改称された。当時の市街地の中心は現在の堺町周辺。手宮は地形的にも小樽市街との間を石山=荒巻山という丘陵に海までさえぎられ、人馬の通行を妨げていた。
 荒巻山は地主の荒巻家からその名が起きており、明治以来、その形状は人為的に変化してきている。当初、手宮と小樽を区切るような形で海まで続いていた丘陵は、人馬を通すためまず海岸部分が削られ、車馬道が完成。明治13年、今度は鉄道工事のためさらに山側が削られた。さらに、各種土木工事の増大で、石材の必要性から内陸部へと削り取られていった。鉄道、道路、築港工事など、小樽発展に欠かせない重要な事業に、荒巻山はその形を変えながら、かかわってきたといえる。
 荒巻山が手宮、小樽の交通体系整備の妨げとなっているのは、今も昔も変わらない。(p.84)


小樽の歴史を語るとき、しばしば、駅名が変わったということは指摘されるが、港の名前もかつては手宮港だったとは知らなかった。港の北側の方が現在も波が小さいことが多いことを踏まえると、港の重要な部分もおそらく北部の手宮側だったのだろうと想像する。

また、石山=荒巻山が、形を変えながらも交通の妨げとなり続けているという指摘はその通り。



 現在の稲穂(小樽駅前周辺)が小樽の中心街となったのは、明治末期以降である。明治38年(1905年)、現国鉄函館本線が開通した当時、駅(高島駅と呼ばれていた)前には、まだ沢地が残っていた。この周辺が稲穂沢といわれていた名残りである。稲穂はアイヌ語でイナウ。神の意味があり、神のいる沢を指していた。ここでいう神とは、龍宮神社のことで、アイヌの人々は龍宮神社のある沢という意味から、イナウ沢と呼んだ。函館本線開通以後は、沢のほとんどが埋め立てられ、次々に家並みが造られていった。(p.86)


明治末期に稲穂界隈が市街の中心地になったことはしばしば言及されるが、それ以前に沢地だったことはあまり語られない。龍宮神社のある沢地だからイナウ沢であり、稲穂沢となり、沢が埋め立ててなくなったら稲穂となったという地名も面白い。欲を言うと、龍宮神社の由来についてももう少し掘り下げて書いて欲しかった。



 明治17年(1884年)、花園町という名前が生まれたが、それまでは町名が不要なほど、人家に乏しい所だった。町名が生まれる二年前の同15年、避病所(伝染病患者を隔離、治療する所)が建設されたが、人里離れた山奥ということで選ばれたのが、現在の小樽市役所の土地だった。
 今、街の中心部に位置している小樽公園(花園公園)も同様である。明治13年、時の開拓長官黒田清隆は、小樽総代人渡辺兵四郎らを宿舎に呼び、小樽は将来、大きく発展するであろうから、公園造成を今から考えておく必要がある、と説いた。これを受けて提出された公園予定地は、水天宮裏だった。
 黒田はそれを聞いて、水天宮裏は将来、町の中心にはなり得ないとして、櫛形山(現在の小樽公園東山)周辺を逆提案、現在地に決められたという。
 実際に工事が着手されたのは明治26年だったが、人家がほとんど無かった場所が、将来小樽の中心になると、黒田は読み取っていたのだろう。今から百年近く前、原野と山林に覆われた場所に小樽公園が完成した時、どれほどの住民が現在の姿を予想しえただろうか。(p.87)


現在の市役所の土地が明治初期には「人里離れた山奥」であり、避病所が置かれていたとは知らなかった。

小樽公園(花園公園)の場所は黒田が将来を見据えて提案してきたものだったというのも面白い。



 三本木急坂側、つまり入船一帯が信香側に代わって小樽の街の中心となったのは、明治13年の鉄道開通以降からである。住吉停車場(現南小樽駅)ができ、乗降客が増えるにつれ、駅周辺には小間物、雑貨屋、料理屋が軒を並べていった。(p.91)


明治期の小樽の市街地の変遷はしばしば大火と結びつけて説明されるが、鉄道やその他の経済的な動きなどが背景になっていた面も加えて考慮すべきだと思う。



 明治28年(1895年)ごろから、北辰社は思い切った整地事業に乗り出し、高いところは12メートル以上切り下げ、低い場所は逆に12メートルを埋め立てて平坦な路面にした。
 この整地により、稲穂地区は市街地として急速に発展することになる。榎本の号が通りの名前として残っているのは、このいきさつのためだろう。(p.95)


この整地事業によって「イナウ沢」の沢が埋め立てられわけだ。鉄道(現在の函館本線)が開業することが決まったのはいつなのだろう。開業することに合わせて整地したのか別々の理由で進めていたところに鉄道が来たのかは気になるところである。




北海道新聞社 編 『おたる再発見』(その2)

 こうした不安定な経営から脱皮しようと、小樽では木村倉庫(明治23年創業)のように、ニシンで得た財力で倉庫を造り、別な商業活動への資本として基盤強化を図った商人も少なくなかった。その結果、ニシン不漁の影響をまともにかぶることなく、商業都市として順調に発展して行く原動力となった。(p.56)


小樽において倉庫業が持っていた意義。



 こうした小樽の経済人の文芸、風雅への理解は今日も引き継がれ、近年では各人の力を結集して、全国でもユニークな小樽文学館、小樽美術館を市へ寄贈するなど、なお伝統は生きている。(p.59)


文学館と美術館は経済人たちが寄贈したものだったとは知らなかった。



このほか小樽商人の郷土愛の気持ちは、いろいろな施設に託されている。近年では、昭和38年に市民会館が、同49年に市総合体育館と新しいおたる水族館が、経済人たちの強力な支援で完成している。(p.60)


戦後になってもこんなに企業(経済界)から支援が行われていたとは。



 その高台に邸宅を建てることが、明治38年(1905年)ごろから富豪の間で、はやり出した。伊藤整が小樽高商(現小樽商大)に通学していた大正11~14年ごろ、ほぼ屋敷町が形成されるに至った。……(中略)……。
 これらの邸宅の大方は、既に面影がない。ただ、花園2の嵐山通り上部に、ひと抱え以上もある玉石が現存し、当時の屋敷町の名残をとどめている。(p.63)


富岡地区などに邸宅が建てられるようになったということだろうが、明治38年というと函館方面と鉄道が繋がった時期に当たる(それまで繋がっていなかった現在の小樽駅と南小樽駅を繋ぐ鉄路が敷かれた時期に当たる)。なお、小樽駅前の稲穂エリアが開けた時期も同じ頃だったように思われる。一連の動きは連動しているように見える。



三井物産が小樽へ進出したのは明治16年。同22年出版の図絵を見ると、色内通りに三井銀行と並んで、木造二階建ての洋風な三井物産小樽支店が描かれている。小樽支店は同30年閉鎖されたが、同42年には札幌支店を小樽に移して再発足した。小樽支店の木材部は本社の木材本部を兼ね、木材部長兼務の支店長には重役級の人材が充てられた。当時、道内の木材はほとんど三井物産が一手に取り扱っていたのである。(p.69)


三井物産の北海道への進出の時期の早さには驚かされるが、三井物産と木材という組み合わせは私としては、台湾の烏来を想起させられる。小樽支店の木材部が本社の木材本部を兼ねるというのも驚きだ。当時は原野が広がる北海道から相当の木材を移出したことが想像される。



最も石造倉庫数が多かった明治41年(1908年)には、171棟を数えた。
 これは全部の倉庫198棟の86%を占めた。地域的には特に有幌町に集中し、独特の石造倉庫群の景観を形成していたが、昭和46年に道道臨港線建設のため、同町の倉庫は13棟が解体、撤去された。
 現在、臨港地帯に残されている石造倉庫は、昭和58年3月末で32棟で、倉庫総数90棟の35%となっている。
 今、有幌一帯の道路はアスファルト舗装となっているが、倉庫群が有幌に形成された大正初期のころはひどいぬかるみで、馬車の通行のため木材を敷き詰めた、木材舗装の道路だった。(p.72)


本書刊行から30年以上が経過し、現在では石造倉庫はもっと少なくなっている。

また、木材舗装の道路というのは面白い。



 建物の壁に店の印を高く掲げ、重厚な構えを見せる小樽の石造倉庫群。その建築材の軟石は、市内奥沢、天狗山、桃内で採掘されたもののほか、札幌・石山の軟石も使われている。桃内産は黄土色、天狗山産はクリーム色、奥沢産はやや緑色、石山産は灰色が特徴だ。
 石材は長さ三尺(一尺は30.3センチ)高さ一尺、厚さ五寸(一寸は3.03センチ)の規格に仕上げられる。これを積むのに「追い込み」と「割り込み」の二通りの方法がある。
 「追い込み」は規格の石材を壁の一方から並べていき、端の方で石材の長さを調節して外壁の大きさに合わせる方法。「割り込み」は規格の石を用いず、外壁全体から石材の寸法を割り出して積む。これだと石材の寸法はそろうが手間がかかる。小樽の石造倉庫群のほとんどは「追い込み」で造られ、「割り込み」の例は小樽市博物館(重要文化財、旧日本郵船小樽支店)に見られる。(p.73)


地元の軟石を使っていること、追い込みという簡便な方法で積まれていることは、短期間で安価に建てられたことを物語る。私はこの点にも北海道の植民地としての性格が表れているように思われる。


北海道新聞社 編 『おたる再発見』(その1)

 この二両を比較すると、しづか号の全重量は28.9トンに対し、大勝号は26.4トンとわずかに軽量。形態は煙突部分を除いて、そっくりである。それもそのはずで、大勝号はアメリカ・ポーター社製の輸入機関車を手本に、明治28年(1895年)に製造されたものだ。(p.25)


なるほど。現在の小樽市総合博物館に所蔵されている二両の機関車にはこういう繋がりがあったのか。



昭和37年、手宮駅は旅客取り扱いを廃止した。しかしガンガン部隊は達者である。今は小樽駅から大量の荷物を抱え、定期券を口にくわえて改札口を通り、列車に乗り込む。高齢者が多いが、車内で弁当を開く姿は、昔そのままだ。(p.26)


本書は1984年に出版されている。ガンガン部隊は80年代にはまだ健在だったことが分かる。



 小樽が明治、大正期、全道一の経済都市に成長したのは、鉄道の果たした役割が大きい。
 小樽-函館間の鉄道が開通したのは明治37年(1904年)。北海道鉄道株式会社の私鉄としてスタートし、沿線の農畜産物、木材などがどしどし小樽に入り、見返りに米、呉服が移出された。開通前、北の黒松内までが函館の商圏だったが、これが小樽の商圏に。翌38年、線路が現南小樽駅まで延び、幌内鉄道と結ばれ、ここから東部へと商圏が拡大していく。(p.27)


明治末の鉄道の拡大が大正の全盛期を支えるインフラの一つとなったことは想像に難くない。



ところで、現小樽駅から南小樽駅へ鉄道が敷設される時、幹線道路と平面交差するという問題が生じた。当時はやむをえないとされたが、以後市街地発展上、大きな支障となった。現在の立体交差・稲穂架道橋は昭和39年9月、道内初の高架橋として開通したもので、問題解決まで実に61年もかかったことになる。(p.27)


なるほど。幌内鉄道として作られたルートと北海道鉄道として作られたルートを繋いだことは、小樽駅と南小樽駅の間の線路の蛇行を説明するものであるが、このことは同時に市街地を線路が分断(両者が平面交差)するという問題も生じさせていたわけだ。



 北防波堤の建設工事に着手した明治30年(1897年)、小樽は既に港湾都市としての形態を整えつつあった。
 人口も5万5千人を数え、港に陸揚げされる物資も、年ごとに増加していった。当初は石炭積み出しが主だったが、穀物、雑貨など生活関連用品の移出入量が増えたことにより、それまで手宮が中心的だった港湾機能もそのものまで、次第に東側(小樽築港側)に移りつつあった。しかし、北防波堤は広い小樽港の手宮側、西半分に対しての防波堤という感じが強く、東側半分は相変わらず、波風に洗われる状態が続いていた。(p.35)


小林多喜二が小樽に移住した際に住んだのも、明治末頃の小樽築港エリアだった。これは当時の小樽の港湾や市街の状況を反映している面があると言えそうである。



 当時の写真を見ると、現在の小樽倉庫の前に、かなり大きな船入澗があったことが分かる。船入澗の中には艀が並び、倉庫前には馬車と、仲仕であろう人々で盛況を極めている。この船入澗は運河建設がはじまる大正3年(1914年)まで活躍した。(p.35)


小樽倉庫の繁栄や船入澗から運河へという時代の流れが見て取れる。



 ふ頭の構造の変化を示しているのが第三ふ頭。基部から真ん中部分までは昭和29年、さらに先端側は同42年と二期に分けしゅん工しているが、先端側はエプロンの幅が15メートルと基部側より5、6メートル広い。接岸船の大型化に対処した措置である。(p.36)


面白い。こういったことは一般的なものなのか、かなりレアなケースなのか、少し気になる。



 大正6、7年にかけての最盛期には、市内の堺町、南浜・北浜町(現在の色内1~3丁目運河周辺)を中心に二十数軒の豆撰工場があり、そこで働く女工たちの数は6,000人を超えたといわれる。(p.37)


第一次大戦の好況期に小樽から輸出される小豆がロンドンの相場を動かしたと言われることがあるが、その頃の市内の状況。



昭和19年以後、軍関係者を収容するため、丸井デパートでは品薄で売り場がガラ空きになった四階以上を供出、賃貸させられ、国民学校12校、中学校3校の教室や運動場が軍用となった。(p.44)



デパートが軍用とされられたというあたりからは、戦後の札幌も三越が進駐軍に接収されたということを想起させられた。



 小樽進駐軍は約4,500人という規模。三井ビル(現松田ビル)に司令部を置き、市内各所に駐在したが、そのために接収された建物は最高時、135カ所に上った。建物は目立つところをペンキで塗りつぶし、台無しになった調度類も多かった。(p.45)


松田ビルにも進駐軍の司令部として接収された過去があったとは。


堀淳一 『北海道産業遺跡の旅 栄華の残景』

 この地域に石油が湧出することは幕末から知られていた。1878年(明治11年)に石狩町の金野松五郎ほか2人によって採掘が始められたが、手堀井によったため少量しか採油できず、挫折してしまった。ついで1889年北海道鉱山、1903年インターナショナル石油が機械井を設置して本格的な採油をはじめたが、一日平均10石程度で終わり、1911年(明治44年)に日本石油に買収された。
 日石による採掘の最盛期は1922~1929年で、年産一万キロリットルに達した。(p.43)


石狩地方で石油が産出されていたとは知らなかった。本書は、どのようなガイドブックにでも乗っているような自称「穴場」ではなく、多くの人が知らない遺跡を紹介してくれるというところに価値があると思う。



 この沈澱池は現役で、今も流出し続ける有毒廃水を中和している。しかし、これが最後の沈澱池なのでは、十中八九、ない。いずれ沈殿物で満杯になって、新しい池が必要になるはずだ。その新しい沈澱池もいずれダメになって、また新しいのが……と、多分無限に続くことになるだろう。
 沈澱池をつくっておけば万事オーケー、というわけでもない。豪雨で決壊したり溢れたりすることがあり得るからだ。現に1926年と1935年に決壊が起こって、藻鼈川河流に被害を及ぼしたり、川魚の大量死をひき起こしたりしたのだ。だから不断に保安・監視に気を配っていなければならない。鉱害問題は閉山しても半永久的に鉱山会社のお荷物になるのである。(p.72-73)


鉱害と同じことは原子力(核)にも当てはまる。半永久的にお荷物になるのは、鉱山会社や電力会社にとってだけではない、という点もしっかり押さえておきたい。



積丹半島の西側の海岸は、ごらんの通り山が迫って浜が狭い――そして季節風がまあ非常に強くて波がはげしいので、大量に獲れたニシンを一度に陸揚げするのがむずかしいんですね。そしてそれをどんどん運ぶのもむずかしい。それで、ニシン場の網元たちは、今もあちこちにニシン御殿というのが残っているでしょう?あれから分かるように、ニシンで大もうけをして資金がたっぷりあったものだから、個人個人でそれぞれの小さな港のようなものをつくった。これを袋澗と呼んでいるわけです。(p.120-121)


北海道の西海岸の地形は、北海道における漁業の歴史と非常に深くかかわっている。


札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭』(その2)

とくに明治20年以降、中島公園が本格的に整備されていくにつれ、偕楽園の公園の機能は薄れていった。札幌の市街地は南にむかって伸びていき、幌内鉄道(現在の函館本線)が開通して、北側の広がりを遮断してしまってから、しだいに偕楽園一帯は、まわりの発展からとり残されていった。そうしたなかで、清華亭のみが、この地にとどまり、生きつづけるのである。(p.193)


偕楽園が公園としてはすぐに廃れたのに中島公園は長くその機能を保っている理由はどういったところにあるのだろうか?大通の北が官庁や文教、南が商業地区となり、豊平川も南側にあるということが市街の南への伸展を促した面はありそうに思う。また、幌内鉄道が小樽(手宮)から札幌まで開通したのは明治13年、幌内まで全通したのは明治15年であったが、鉄道が市街の中心と偕楽園一帯を分断したという指摘も大きな要因であるように思われる。現在でも札幌駅の北と南では雰囲気がかなり異なることからもそれは感じられる。

しかし、ある意味では、こうした分断により都市開発からとり残されることで清華亭だけでも残ることになったというのも一面の真実かもしれない。もし、こうした分断がなく、現在の札幌駅北部も南と同じように都市開発がされていれば、清華亭すら失われていたかもしれない。都市がどのように変わっていくのか、変わっていくべきかということは難しい問題だと感じる。



 昭和の時代を迎え、世相はしだいに戦時色を強め、国策は国体を重んじ、国威の発揚をめざした種々の政策をうちだしていったが、その一環として、史跡名勝の保存、伝承が叫ばれて、かつての明治天皇行幸の聖跡は、再びクローズアップされることになった。
 その気運は、一部心ある人びとの保存運動と結びつき、建造物としてもすぐれた資質を誇る北海道開拓の歴史をとどめようという動きが起こった。こうして清華亭に保存の手がさしのべられたのは、昭和初めのことであり、このとき、保存運動の中心となった人が河野常吉であった。(p.196-197)


戦前の国家主義的政策やナショナリズムの高揚と結びつく形で、昭和初期に歴史的建造物の保存の運動が起こったというのは興味深い。ある意味では国家主義の流れを汲んでいる面もありつつ、同時にそれとは同床異夢的な発想もあり、といったところだったものと想像するが、もう少し掘り下げて調べてみると面白いかもしれない。

また、北海道と台湾の比較という私の視点からすると、最近の台湾における懐日趣味が、台湾における台湾人意識の高揚と結びついているといった現象と昭和初期の北海道で見られた(他の地域はどうだったのか?)現象との共通点と相違点を調べてみたいと思う。



 清華亭は、開拓使洋風建築の中では、豊平館(1880年)、札幌農学校演武場時計塔(1881年)や植物園博物館(1882年)などと共に、後期に属するものだが、初期の洋風色濃い建築意匠とは、相当異なるものとなっている。
 もちろん、洋室棟22.29坪、和室棟14.93坪にみられるように、あくまでも洋室部が主体であるし、和室棟の大棟先端には洋風棟飾りを飾るなど、外観を洋風で統一しようとする意図は明白である。
 しかし、縁側をまわす和室を、このようにかなり重い比重で採用したものは、これ以前の開拓使洋風建築にはなかったことである。
 和様二室を接合した構成例としては、最も早いものの一つといえる。
 同時に、和室軒先出隅の反り上げや、洋室内部に床の間様の棚をしつらえたり、天井メダイオン(円形模様)の桔梗の浮彫などの細部で明らかなように、洋風を主としながらも、和風への回帰が明瞭に表れているのである。
 公式的性格を持つ豊平館に対して、庭園内の清華亭は、休憩所として、もっとくつろいだ東屋風なものとして、設計者もホッと一息つきながら、のびやかに腕をふるうことができたのかもしれない。
 とはいえ、天皇の御休憩所である。そこには格式化・様式化への志向も顕著にみられる。平面形に凹凸をつけて建物外形に変化をつけたり、外部出隅の柱を太くして重々しさを表現したり、ベイウィンドウの採用などは、その志向の表れともいえるかもしれない。
 とくにベイウィンドウ採用は、北海道の初期洋風建築では、開拓使本庁分局(1873年)と共に珍しく早い例であった。
 また、このベイウィンドウ部軒下回りを、入念な細工の持送りで飾ったり、外壁を三層構成にするなど、在来の飾り気のない、さっぱりとした意匠に対して、非常に賑やかになっていることも注目される。(p.2.09-211)


清華亭の意匠についてのコンパクトな解説だが、私があまり今まで気づかなかった点がいろいろと指摘されており興味深かった。

上記解説文については、まず、「開拓使洋風建築」というカテゴリーを用いていることも新鮮に感じた。特にこれを前期や後期と分けているのには少し驚いた。というのは、開拓使が置かれてから廃止するまでの期間は、明治2年(1869年)から明治15年(1872年)しかなく、12-13年の中で前期や後期と分ける発想を私はしたことがなかったからである。しかし、考えてみると、洋風の技術やデザインが次第に流入してきた時期であるから、多くのことを当時の建築家(大工など)は学んでいたということを考えると、期間が短くても変化を捉えることができる面もあるかも知れない。

昭和初期頃までの豪邸は、多くが和洋折衷というか和様接合の構成であるが、和様接合の構成例として清華亭は最も早いものの一つであるという指摘もなるほどと思わされた。北海道以外の地域ではこうした構成がどのように展開していたのか、といったことも含めてもっといろいろなものを見ていきたい。

清華亭のベイウィンドウについて、格式化・様式化への志向を示すという理解は、実物を見た時には気付かなかった点であり勉強になった。ベイウィンドウという様式化されたデザインを採用することで、格式の高さが演出される面がある。ベイウィンドウのな清華亭を想像すると、外観も現在のものより平板なものとなることが容易に想像できる。



ここは駅の裏手にあって労働者や低所得者が残されたこの空地に押し寄せた。北九条小学校や全市一の児童数をもち、かつ東小学校と共に“貧乏学校”などといわれた。「貧乏人の子沢山」の意だろう。
 その子たちの遊び場は、偕楽園付近と北大構内などであった。……(中略)……。
 大正7年には開道50年の喜びを迎え、大博覧会が催された。この機会に多くの人は札幌見物に集まり、やがてはここに住みたいと思い、あるいは将来を見越して土地買いを試みる人などが続出した。この期に土地は細分化され、あるいは河川敷のようなところにも人家、自給畑が開かれた。ことに資産家の山本、伊坂などが狭い道路沿いに偕楽園廉売市場を設けて小売商人に賃貸した。これがいよいよこの地区に人家を密集させる誘因となった。
 遊び場は人家に占領され、数年前のローンは姿を消した。子供たちは清華亭のスロープを駆け上り駆け下りた。やがて赤土が露出し、その下に東西の街路が設定され、大正14年には市街割りが施された。清華亭は数百坪の一角に押し込められ、北7条西7丁目という地番を以て示され、偕楽園という旧名も人々から遠いものとなった。(p.220-222)


大正時代の清華亭の付近の状況を伝えている。低所得世帯の子供たちの遊び場だったものが、投資家や資産家たちの思惑によって遊び場すら奪われていったという見方が示されている。当時住んでいた人の目線で、清華亭も現在のような狭い地域に閉じ込められるに至ったという経過を伝えいる点でこの周辺の記事は貴重な記録と思う。

こうした荒廃の後、昭和初期に国家主義と結びついた運動により保存が進められていくという流れも押さえておきたい。



 また伊藤亀太郎邸内の湧水などから流れてきたサクシュ琴似川は、線路の下、煉瓦のめがね橋の下(北6西8)を流、それが偕楽園、清華亭のあたりを経て、北大に入っていた。偕楽園には大小の池があり、遊園地のような風情も残っていた。めがね橋付近では毎日婦人の洗濯姿も見られ、その水は清く冷たくて、長くは入っていられなかった。北九条小学校の生徒時代(大正2年~8年)は、それでもよくトンギョやザリガニを取って遊んだ。五年生の頃、この川で大きくて長い八ツ目うなぎを手づかみで捕えたことを今なお覚えている。
 この川や池の水も28年前、即ち昭和27年にステーションデパートが開設され、その地下工事等のため、急にストップされてしまった。その後川や池の跡地は埋められ民間に利用されている。(p.230-231)


札幌駅の開発がサクシュコトニ川を枯れさせてしまい、今では川や池の跡地も埋められているということが分かる。こうした変化に対して当時の人々はどのように反応していたのだろうか?政府や札幌市などに対して働きかけたりはしなかったのだろうか?



 堅実で奇を求めぬ性格は、開拓使の洋風建築に一貫している。模範家畜房で伝えられたように、目に見えない構造や、新しい技術に対しても、安達をはじめとする開拓使の建築家たちは精魂を込めてとりくんだ豊平館が生みだされるまでには、こうした洋風建築修得の数年にわたる努力が積みかさねられていたのである。(p.248)


開拓使の建築」という見方には、組織に蓄積された知見というものを捉えられるという面もありそうだ。



札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭』(その1)

 この明治23年は、国会が開設された年である。国会が開かれると同時に、藩閥政府の批判の声が次第に高まり、薩摩藩閥を主とした永山行政は大きく揺らぐこととなった。明治24年5月、松方内閣は三代目長官に渡辺千秋を任命した。渡辺は薩閥一掃を図り、とくに薩派の本拠ともいわれた北海道炭鉱鉄道会社の革新を進め刷新の実を挙げた。(p.19)


北海道長官が永山武四郎から渡辺千秋に替わった背景には、国会の開設と、それに伴う藩閥政治への批判があったという指摘はなるほどと思わされた。北炭も明治期の北海道の歴史を考えるにあたっては要となるものの一つであり、ここで指摘されているような政治的背景を理解しておくことは重要と思われる。



6年満州事変勃発、7年満州国独立。この年三越札幌支店開業、8年には国際連盟脱退の詔書が渙発され、7月には非常時国民運動協議会が開かれるなど一気に緊迫の度を加えて行く。このあわただしい状況のなかで、この年11月明治天皇行幸ゆかりの施設は聖蹟と指定され、札幌市では豊平館、清華亭が史蹟として、史跡名勝天然記念物法により文部大臣指定とされた。(p.25-26)


1930年代の戦時体制への移行と国家主義の高揚を目論む動きと聖蹟指定とは連動していると押さえるのがよいだろう。こうした政策は、全体としては否定的に評価されるべきだが、「聖蹟」に指定されたことによって戦時も保存されたため、歴史的遺産として保存されることにも繋がっていったという一面もあると私は理解している。



 昭和22年2月、新学制として採用された6・3制。24年6月公布の教育刷新審議会、社会教育法などによる戦後社会教育の推進は、豊平館の公民館機能を高めさせた。豊平館は整備され23年2月に札幌市公民館として再出発し、24年9月には札幌市民会館と改称、社会教育機能はさらに活発に動き出すこととなった。
 25年には国からその敷地4,922坪が払い下げられた。そして、その機能を十分に生かすための近代設備を整えた新しい札幌市民会館建設のためと、明治時代の洋式木造建築物としての代表作でもある豊平館の保存のために、豊平館を中島公園に移設、そのあと地に市民会館建設を決定し、昭和32年2月19日、豊平館の解体式が行われた。(p.27-28)


2008年に建て替えられた札幌市民ホール(現在はわくわくホリデーホール)の場所にあった市民会館は昭和33年(1958年)にできたものだった。この時、この地にあった豊平館が中島公園に移築された。

その歴史的背景として、公民館機能に対する社会の需要があり、それを民主的な社会教育が後押ししていたことも挙げられる、と私は理解した。

ちなみに現在の日本の右派ないし保守派が教育を改革すべきと発言することがしばしばあるが、その際に6・3制(6・3・3制)をやめて柔軟な体制にすべきだ、などと言われることがある。しかし、その理由を訊ねても説得力のある回答は見受けられない。その理由は、彼等の目的は戦後まもなく決められた制度を自身の手で壊して書き換えていくこと自体にあるからであろう。そして、それは「押し付け憲法論」のような悪質なイデオロギーを根拠として「自主憲法制定」を目指す考え方と全く同じ発想であるということは指摘していてよいだろう。

なぜ右派・保守派とされる人々は、教育や憲法に対してこうした同じ反応を示しているのだろうか?彼らは民主的なものや個人の権利・人権というものに対して嫌悪感を抱いており、それは突き詰めると権力者を縛るからである、と見れば、彼等の打ち出す政策を整合的に理解することができる。(例えば、自民党の憲法草案を見れば、現在の憲法よりも個人の人権を制限し、政府の権限が大幅に増えるようになっていることは容易に見て取れる。)



 この敷地は、最初、西南戦争で没した屯田兵の招魂碑を設置する地所として、決定していた。が、洋造旅館の計画に当り、「庁下の中央に位置し、滞在客の開拓使庁や市街への往復に便よく、かつ、胆振川の河流を敷地内に導けば、庭前に泉池を設けることができ、旅館建築に必適の場所」であるため、明治11年10月1日、屯田事務局が工業局へ譲ったものである。なお、招魂碑は、清華亭構内の西南隅に建立された。(p.62)


豊平館が建てられた現在の北1条西1丁目の土地についての記述。確かに市街の中心と創成川の両方に近い。



 豊平館が中島公園に移築されたのは昭和32年で、それによってその由緒深い歴史的な生命は失われ、単なる文化財としての建築上の価値だけしか残らなくなった
 もし創建された昔の姿のままで、北一西一の地に、原始林を背景として今日まで残存していたならば、時計台とともに、札幌開発の象徴として高く評価され、市民からは貴重な存在として崇められたり、親しまれたりして、大きな意義と価値とをもたらしていたに違いない。(p.165)


豊平館の移築に対する一つの評価。本書は複数の著者によりかかれているので別の評価をする者もいるが、こうした評価にも一理ある。

歴史的建築は、その土地にあってこそ価値が高まるというのは一般的に言っても全くその通りであり、豊平館については札幌の開拓初期の象徴となっただろうことも同意見である。とはいえ、中島公園に移築したからこそ現在でも建築だけは保存されたという一面もあったように思われる。昭和33年と言えば札幌が急速に大きくなり始めた時期であり、日本全体としても60年代の高度成長期に入る頃であり、その頃の考え方に照らせば、比較的大きな敷地と共にある木造2階建ての建物はある意味では邪魔者扱いされる危険が高かった。(時計台は市内中心部に残っているが、これも曳家で移動している。)そうしたリスクを避けられたという意味では移築にも一理あったのではないか。

また、引用文には、「原始林を背景として」とあるが、そうした環境を含めた保存は札幌の中心にあることに照らすと現実的ではないように思われる。だからこそ時計台なども、その歴史的な意義を認識できない場合、観光地としてガッカリする人がいるところとして紹介されてしまうのだと思われる。確かに時計台と豊平館が近接して残っていれば、そうしたガッカリを減らすことができるような相乗効果は多少期待できるかもしれないが、戦後の札幌の急速な都市化の進展を考えると、そこまで理想的な展開を期待できないと感じる。

豊平館はつい最近、保存修理工事を完了し再公開されたので、訪れた上で改めてこうした移築に関する問題について考えてみたい。


佐藤昌彦、大西直樹、関秀志 編・訳 『クラークの手紙――札幌農学校生徒との往復書簡――』

 私が日本で過ごした日々は私の人生の最も幸せな日々でありました。だから今は私の愛するキリスト者の生徒から愛情あふれる手紙を受けとり、君の魅力ある国でキリスト教がしっかり前進しているのを知ることほど嬉しいことはありません。(p.84-85)


クラークにとっては本当に日本での日々は幸福な日々であったようだ。



キリスト教の主張はそれを信ずる者が模範的な行為によって裏付けした時、聖書そのものに最もよく表されてくるものです。人々がどうしても神を称えずにいられなくなるよう、君は君の光を輝かせなさい。これこそ救い主の命令です。(p.87)


クラークの信仰観の一面がよく出ている箇所と思われる。クラーク自身、札幌でこのような信念の下に振る舞っていたように思われる。



西京の新島牧師に手紙を書いて、日本語の宗教冊子を君に送るよう頼んで下さい。それから横浜のJ.L.ギュリック牧師には日本語の聖書やその他を頼んでみなさい。(p.88)


クラークにとって最初の日本人の学生である新島襄に対する信頼は並々ならぬものであると感じられる。クラークと新島、クラークの札幌の弟子たちという三者(?)の関係については非常に興味が惹かれる。



 京都の神学校の創立者で校長である新島ジョセフ牧師が、最近私に会いに来て、君の教会の独立について私の考えに同意していました。牧師と人々が国中から選びすぐって組織し統括される真の日本の教会を立てて下さい。
 きっと君も知っていると思うのですが、蝦夷の北東部の海岸で札幌から遠くない所におもに神戸出身のキリスト者からなる浦河の殖民地があり、新島君は彼等に並々ならぬ関心を持っています。もし機会が与えられれば、君もその人たちを訪問して、彼等と君の精神のために連絡を保つことを期待しています。
 私としては、君の教会が日本人牧師を求めている旨、すぐに京都の学校に緊急の訴えを送るよう忠告します。(p.125-126)


クラークの観点から見ると、新島襄はある意味、札幌の学生たちの兄弟子のような位置づけであるように見える。札幌の学生たちから見た新島は、どのような者として捉えられていたのだろうか?また、新島は札幌の学生たちをどのように見ていたのか?



佐藤昌彦 「クラークにおける信仰と政治」より。

 クラークについての著書は、マキ教授の『クラーク・その栄光と挫折』が1978年に、太田準教授の『クラークの一年』が1979年に、蝦名教授の『札幌農学校・クラークとその弟子達』が1980年に、北海道放送の『大志と野望・ウイリアム・エス・クラークの足跡をたずねて』が1981年に、それぞれ刊行されている。即ち、昭和53年からの4年間に、4冊の著書が刊行されたわけであって、これに戦前刊行の大島博士の『クラーク先生とその弟子達』(新版昭和12年)と、戦後間もなく執筆された逢坂師の『クラーク先生詳伝』(新版昭和32年)を加えると、クラーク伝は、合計6冊となるわけである。(p.131)


上記6冊のうち、私はまだ1冊しか読んでいないが、そう遠くないうちにすべてを読んでみたい。それにしても1978年から81年までの間に相次いで出版されたのは何故だろうか?1876年にクラークが札幌に来てから100年が経過したことが契機となっているのだろうか?



佐藤昌彦 「クラークにおける信仰と政治」より。

クラークが政治に強い関心を持っていたことは、「太田」147頁に現われているところであるのが、元来、クラークのようなピューリタンは、政治とは深い関係をもっている。ピューリタンは団体としては、宗教団体であると同時に、政治団体なのである。(p.134)


ピューリタンに限らず、基本的に宗教団体は政治団体としての側面を持っていると考えるべきであろう。



「訳者あとがき」より

そして、日本では人口に膾炙したあの「少年よ!大志を抱け」のモットーと共に、少なくともその名は遍く知れわたっている。これに反し、アメリカ本国では出身地であるマサチューセッツ州アマーストでさえ、彼の名や日本での業績を知る人の数はごくごく限られている。このような日米両国におけるクラーク理解のアンバランスもさることながら、日本国内について考えてみても、彼の実際の姿はあの、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の句にかくれてなかなか見えてこない。(p.187)


確かに、クラークの名と「Boys, be ambitious」という言葉はよく知られているが、彼の業績や人物像などはあまり見えないという指摘は現在でも有効と思われる。だからこそ、知ろうとする努力が必要になる。