アヴェスターにはこう書いている?
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合田一道 『札幌謎解き散歩』

 明治政府を混乱に陥れた「開拓使官有物払い下げ事件」。その中心人物は「開拓使の黒田か、黒田の開拓使か」とまで言われた開拓長官黒田清隆にほかならないが、事件の本当の黒幕は、薩摩の黒田と対立する肥前(佐賀)出身の参議大隈重信だったとは。
 黒田は、開拓使十カ年計画の終了を翌年1月に控え、諸事業の存続をはかる目的で一社を興し、そこへ廃止となる開拓使の官有物を払い下げる計画を立てた。明治14年(1939)7月21日、この黒田の意をたいして開拓使大書記官安田定則ら4人により、「払い下げ願い」のかたちで太政官に提出された。
 願書によると、官有物の払い下げ金額は38万7千円、無利子30年賦。物件の中には東京の物産取扱所、大阪の貸付所、函館の常備倉、札幌の牧羊場、真駒内の牧牛場、ポップ園、桑園、蚕室、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、さらには「玄武丸」はじめ6隻の艦船も含まれていた。ただし採算性の低い製鋼所や製糸場、木工場などは除外されていた。
 これら官有物の実際価格は300万円を下らないといわれ、公開入札もせず、一社のみを優遇しようというもので、あまりにも独善的な願書といえた。
 激怒したのは大隈である。目にもの見せてくれるとばかり、新聞を利用して黒田叩きに走りだす。願書を提出してわずか5日後の26日、『横浜毎日新聞』がこの内容をスクープした。この時期、藩閥政治の解消が叫ばれ、国会開設を求める自由民権運動が高まりをみせていただけに、各新聞がいっせいに糾弾の矛先を政府に向けた。(p49-51)


「開拓使官有物払下げ事件」は明治時代の北海道を語るとき必ず触れられるトピックだが、黒田と大隈の対立といった政治闘争の側面にはあまり触れられないことが多い。その意味で、本書の叙述は分かりやすく政治闘争の側面を描いてくれている。単に黒田と大隈という個人の問題というより、藩閥政治と自由民権運動という当時の社会情勢が背景にあると理解することは重要と思われる。

個人的には、採算性の低い事業は引き継がないという姿勢は官公庁ではない主体が事業を引き継ぐ場合、採算性が必ず問題となるという経営的な側面のほかに、やはり私利私欲が絡んでいるように思われ、よくぞこのような計画を建てたものだと呆れる。黒田清隆は開拓使自体を私物だと錯覚していたのかもしれない、とさえ思えてくる。



 この売春防止法の施行は、すすきのにとっても新しく生まれ変わる絶好の機会だった。赤線や青線がなくなって、すすきのは再び輝きを取り戻した。
 ……(中略)……。
 昭和35年、札幌市は人口52万人を超えた。このころから本州商社の支店が次々と進出し、単身赴任者が急増した。(p.57-58)


売春防止法は昭和33年に施行されているが、すすきのの発展は、この法律の施行がきっかけというよりは、昭和30年代の札幌の都市としての発展(特に人口の増加)とそれに伴う企業や銀行などの札幌への進出(道内的な見方では一極集中だが、本書のように本州からの進出という面も見る必要がある)という要素が最大の要因だと考える。



 明治4年(1871)、開拓使は近在に入植した50戸を集めて、いまの中央区南4条通の南側に「辛未村」を設けた。辛未とは、干支で「明治4年」を指す。……(中略)……。
 ところが寄せ集めのせいか、まとまりを欠き、50戸のうち6戸が円山に、残りの44戸が琴似村に移り住み、八軒、十二軒、二十四軒にわかれて定住したことから「八軒」「十二軒」「二十四軒」の地名で呼ばれるようになった。
 どの地域もしだいに開拓され、人口が増えていったが、なぜか「十二軒」の地名だけが突然、消えることになる。
 昭和3年(1928)に秩父宮が、翌4年に高松宮が来道され、三角山と荒井山でスキーを楽しまれた。これを記念して昭和5年からは「宮様スキー大会」が開催されるようになり、十二軒周辺はいつしか「宮の森」と呼ばれるようになったのである。(p.118-119)


札幌市内の地名、「八軒」「宮の森」「二十四軒」の由来。なかなか面白い。



その二年後に北海道会(現北海道議会)が設置され、第一回道会議員選挙が明治34年8月10日に行われた。
 ……(中略)……。『北海道毎日新聞』は「我邦最初の殖民地に於ける自治制の実施」と報道した。(p.185)


明治期には北海道は植民地として認識されていたと言えそうだが、この新聞記事の見方がどの程度一般化されていたのかが気になるところである。



 大島正健はクラーク精神をもっとも強く受け継ぎ、札幌独立基督教会創立後、牧師第一号となった。母校の教授になるが、新島襄に誘われ同志社の教授になる。(p.213-214)


ここでもクラークの弟子と新島襄の関係が見られる。先輩格の新島はクラークの弟子たちの世話をかなりしていたようだ。



 クラークが札幌から持ち帰ったカツラの苗木が故郷の教会前に植えられ、それが大木に育っている。その大木のそばに、クラーク夫人が日本語とローマ字で「カツラ、1881年にここに移植」と書いた標識を立てたという。(p.215)


アマーストには機会を見つけて是非行ってみたくなってきた。


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ジョン・M・マキ 『クラーク その栄光と挫折』(その2)

 マサチュセッツ州は教育熱心な所として知られておりますが、その地に本学と同様の教育機関を設置し得てから未だ10年とたっておりません。今日ここに私が札幌農学校の初代学長(プレジデント)として、同時に、ここから数千マイルの彼方、地球の向こう側にあるマサチュセッツ農科大学の学長として立ち得ますことは、私の大いなる特権であると考えております。こちらに参りましてから、開拓使直轄の三ヵ所の大試験農場のいずれでも、マサチュセッツ農科大学で学んだ日本人がその管理者となっていることを知り、欣快この上もありません。私は今ここに、農科大学の卒業生二名と共にこの大学の基礎を据えるべく参っているのであります。この学校が、やがて北海道の農業の改良と諸産業の発達とに資することの大いなるものがあることを信じております。(p.189)


クラークが札幌農学校の開校式で述べた式辞より。開拓使直轄の試験農場の管理者がマサチューセッツ農科大学で学んだ日本人であったという事実は大変興味深い。単なる偶然とは思えない。



 三人組に1877年初めに加わったブルックスは、中でも一番卓越した経歴を辿った。彼は札幌農学校に1891年まで奉職し、その間、二度にわたって教頭(プレジデント)を務めている。彼はまた北海道に、玉ねぎ、とうきび、豆類、飼料作物などといった主要な作物の導入に与って力があったし、また、日本の大豆をアメリカに導入したのも彼の尽力に負うところが大きい。(p.198)


三人組とは、クラークと彼が札幌に連れてきたホイーラー、ペンハローのことを指す。玉ねぎ、とうきび、豆類はいずれも北海道の農産物の中でそれなりに重要なものだということを考えると、ブルックスの功績がいかに大きいかがわかる。



 九月下旬、クラークは農場に建てる大きな畜舎(バーン)の設計図をホイーラーに描かせ、これを黒田に提出した。クラークはこの建築計画を優先的に実現したいと思っていたが、それは学校農場をやって行くのに必須であるだけでなく、国内あちこちに畜舎を建てる際のモデルに使えると考えたからである。当然のことながら、それはマサチュセッツ農科大学にある畜舎をモデルとしたものであった。そして、これはクラークの提案した種々の計画の中で、彼には一番忘れがたいものになった。
 一世紀たった今日でも、このモデル畜舎(バーン)は残っている。骨組はしっかりしているが、全面的修復が必要だと思われる。ちなみに、現在それは国の重要文化財の指定を受けている。このニューイングランド風の畜舎は、クラークを初め、ペンハロー、ホイーラー、ブルックス、それに多くの日本人の努力の結晶であり、その努力を記念する建物と言える。(p.206-207)


マサチューセッツにはモデルバーンのモデルになった畜舎は残っているのだろうか?残っているのなら是非見てみたい。また、「ニューイングランド風」とされているが、札幌のものとニューイングランドのスタイルとを比較してみたい。



 一般的な道徳教育よりも遥かに意義のあったのは、クラークが初めから関係していた、学校における活発な宗教活動である。クラークのこの種の活動について驚くべきことは、彼が経験したアマースト大学における劇的な回心を別にすれば、彼は本国では日曜日には決まって教会に行くだけの極めて普通のクリスチャンであり、それ以上に何か教会の活動に加わっていたとする記録が全く無いということである。(p.218)


思うに、クラークは外国(日本)に行くことによって、自らのアイデンティティの重要な一部分としての宗教を強く自覚するようになったのではなかろうか?日本に来ることによってクラーク自身にも変化が生じたと見るのは不当なことではないはずである。



 大阪と京都でもクラークは宣教師を訪ねて回った。大阪にいるデフォレスト牧師の妻は、たまたまクラークの妹イザベルのかつての教え子であった。京都では彼の遠縁にあたるラーネド牧師宅でお茶を御馳走になった。京都を訪ねたのは実はクラークの言う「私の教えた最初の日本人学生」新島襄との旧交を温めるためであった。新島がアマースト大学に入ったのは1867年のことであるが、それはクラークが同大学を辞めてマサチュセッツ農科大学の学長に転出する数カ月前のことであり、その時、短期間ながらクラークから化学を教わったと考えられる。新島は帰国してから、1875年京都に同志社大学の前身を設立した。この学校は当時まだまだ大変な時期にあったが、新島はクラークを連れて学校を案内して回っている。クラークがアマーストに戻ってから一年後のこと、彼は新島に手紙を送り、学校のことで彼を励まし、書籍や機械器具を学校のために何とかしてみようと申し出ている。(p.248-249)


クラークが北海道を離れてアメリカに帰る途中、京都で新島襄に会っていたというのは興味深い。クラークと新島、札幌農学校や札幌バンドと同志社との関係がどの程度のものだったのか?

最近私は内村鑑三の『代表的日本人』を読んだが、この本の出版に同志社の徳富蘇峰が関わっていた。彼らがどのように知りあったのか、どのような関係にあったのか、少し詳しく知りたい。ウィキペディアには「不遇だった京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。蘇峰のおかげで、『国民之友』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた」とあり、また、「大正13年(1924年)、同年に米国で可決された、排日法案に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰と和解して、『国民新聞』に何度も排日反対の分を掲載した。」との記載もある。こうした一つ一つの関係を掘り下げていくことで、上記の疑問の概要を知ることが出来ると思われる。



 先に触れたように、クラークはアマーストに帰ってから日本滞在の経験についてあちこちで話をした。1877年9月の第一日曜日には教会で日本についての最初の講演をしているが、この時は椅子が足りないほどの聴衆が集まった。この講演は広範に亘り、日本及び日本人、アイヌ、日本の学生、宗教、歴史、さらに天皇の地位、16世紀日本におけるキリスト教や現代における宣教師の活動といったものに及んだ。終わりにクラークは新島襄の活動に触れ、新島の創設した専門学校に書籍代として100ドルを送金したいので協力して欲しいと訴えた。目標額以上の献金が集まったのは勿論、海外伝道局への献金も優にいつもの三倍に達した。(p.271-272)


クラークと新島の協力と信頼の関係はかなりのものだったと推察される。



 クラークは生涯の終わりの数カ月、死の床に横たわりながらも、60年近い来し方を振り返りつつ、結構仕合わせな満足した気持を味わっていたのではないかと思う。彼は自分の生涯のさまざまな時期を思い浮かべてみていた。イーストハンプトンやカミントンでの負けん気一杯、強烈に生きた少年時代、色々な標本を集めるのが好きになり、それが生涯科学者になるきっかけとなったウィリストン高校時代、宗教的回心に救いを覚え、さらに重要なことに学者としての生涯を選ぶことになる、若い真剣な学生であったアマースト大学時代、ニューイングランドとは別の世界で念願の博士号を取得した、ドイツ留学における大学院生時代、教師として意欲十分、母校のアマースト大学で教えていた時代、やがて可愛いい子供達「クラーキーズ」の母親となる、若く美しい妻との新婚の日々、人間の自由を守ろうとして従軍し、危険、苦難をものともせず奮闘した凛々しい将校の年月、革新的な大学の建設に奉じた学長時代、遠い異国の地で国際教育と農業技術援助の先駆者となり、指導層や学生から友情と崇敬はおろか献身的愛情さえかち得た月日、学生達をキリスト教信仰に導き、思いがけなくも伝道師の役割を果たした日々、それに、自分だけでなく同郷の人達にも直ぐ富をもたらして、生涯を飾ろうとした鉱山投機家の時代。こういった生涯の中でもバラ色に映える年月を回想することは、孤独、失意、病弱、挫折、それに不本意な無為の中にあって彼には大いなる慰めであったに違いない。
 クラークは、人間として自然なことであるが、自らの生涯の比較的暗い部分に関しては内心深く思いめぐらすことはなかったと思われる。それは当時のある人々の胸にしきりに浮かんだ疑問なのであるが、彼のそういう不明な部分に関する疑問の答えが得られたなら、それはクラークという人物をより広い視野から把握する上での、大事な手がかりとなるのではなかろうか。すなわち、有能な教師としての誉れ高く、教授陣の中でも人望厚く、その上、母校の発展に寄与しつつ15年も奉職したのに、何故そのアマースト大学でその終りを全うしなかったのか。彼が信条の上から身を投じ、しかも自らの個性の一面を十全に生かせると感じた戦場から何故途中で身を引いたのか。存亡にかかわる程の財政危機の真只中にあったマサチュセッツ農科大学を、彼は何故棄てたのか。四半世紀もの長い学究生活から何故転身したのか実業界で何故あれほどまでに屈辱的な失敗を招くに至ったのか。もし、クラークが手紙とか日記とかで、こういった疑問にかかわる彼自身の動機や反応を書きとめていたとすれば、その疑問の解明が少なからずできたであろうにと惜しまれてならない。(p.339-341)


最初の段落は、クラークの生涯を非常にコンパクトにまとめた記述となっている。後段はクラークという人物が、ある意味では自ら果たすべき責任を十分には全うしきれずに挫折(逃避?)した側面について指摘しているように思われる。



彼の止むことを知らぬ勤勉、火の中に余りにも多くの鉄片を持ちたがる性癖、絶大なる自信、それに燃えあがるばかりの熱意といったもののゆえに、彼は居心地のよい、人に踏まれた所に落ち着くことができず、緑豊かと見える彼方の野に、絶えず何かを求めて行ったのである。もしこの分析が当たっているとすれば、彼が札幌において生涯に一度だけ全くの成功を収めたことの秘密は、彼の在任期間が一年以下と短く、彼の活力と努力とを激しく集中するのに適当な期間であり、そのため、その止むことを知らぬ活動力の捌け口を、日本のどこか他に求めようとする暇がなかったからだと言える。(p.344)


クラークが前段で述べられているような活動力のある人だったことは恐らくそうなのだろう。また、その札幌での成功が、在任期間が短かった故であるという指摘も妥当と思われる。クラークは「在任期間が短いにも関わらず」影響を及ぼしたというより、「短いからこそ」大きな影響を残したのである。

また、本書を読んでよく分かるのは、クラークが不得手であった財務に関する問題について、開拓使が北海道開拓のために積極的な財政支出が必要だと考えていた時期であったことは非常に大きな意味を持つと思う。もし、北海道庁時代のような民営化推進の時代であれば、クラークたちがあれほどの成果を残すことは全く考えられなかっただろう。



ジョン・M・マキ 『クラーク その栄光と挫折』(その1)

実は、アマースト大学は長らく牧師養成の大学として知られていた程に宗教色が強く、祈りを含む宗教的な日課が大学生活で重要なものとなっていた。クラークが部屋の中で独りでいた時に回心を経験したのだとしても、大学全体の信仰的雰囲気に影響されての結果と考えるのが妥当であろう。(p.36)


クラークはアマースト大学の学生のときに回心を経験したという。歴史的にみると、この経験が札幌農学校での伝道の成功と札幌バンドの形成へと繋がることになると言える。



 アマースト大学では当時の学問上の傾向を反映し、また牧師養成に主眼を置いていたせいもあって、修辞学を重要視していた。そのため、クラークは持って生まれた弁論の才能を大いに伸ばす機会に恵まれたのである。これは後のことであるが、彼はアマーストだけでなくマサチューセッツ州至る所で雄弁家としての名声をほしいままにすることになる。(p.42)


雄弁家としてのクラークの才能は、札幌でも学生たちを惹きつける要因の一つであったと思われる。



 かくして、新設のマサチュセッツ農科大学は教授陣4名、学生約50名、校舎三棟という、ささやかな規模で出発した。その出発当時の一番の頼みとなっていたのは、学長クラークの精神的な推進力そのものであった。(p.114)


札幌農学校の開校時と非常に似た状況と思われる。



このダーフィ植物館は開館三年にして、クラークが考えていたその使命を十分に果たすようになった。というのは、その年の大学年報によると、ヴィクトリア・レギアなる睡蓮がそこですくすく育ち、花つきもよく、葉の大きさは直径約3メートルにも達し、「普通の人が乗っても大丈夫な」ほどであったからである。
 ……(中略)……。25年以上も前、クラークをあれほど虜にしたキュー王立植物園の美しい花を、彼が今度は自分の土地で上手に育てることができて御機嫌そのものであったに違いない。
 彼はまた学長第一年目に、モデル畜舎(バーン)の設計図と設計明細書を準備する一方、その建築費を特別に確保して置いた。これは間口100フィート、奥行き50フィートという規模のもので、それから数年後に彼が札幌農学校でモデル畜舎を建てることになった時の着想もこれから発している。
 クラーク外3名の教授は当然のことながら教育課程の実施計画を立てるのに一刻を惜しむ思いであった。それによると、土曜日と日曜日を除いて毎日授業「または、それ相当の講義か作文演習」が三講あり、土曜日の午後はリクリエーションや視察、見学旅行に当てられている。これはアマースト大学やゲオルギア・アウグスタ大学でのクラークの経験は勿論のこと、ウィリストン高校にまで遡る彼の経験を生かしたものであるし、この種の学外実習は後年、札幌農学校の一つの特徴ともなるものであった。(p.115-116)


クラークの前半生の経歴の中に札幌農学校に繋がる要素が随所に見られるのが大変興味深い。なお、現在北大構内にあるクラーク像の土台にヴィクトリア・レギアの葉のレリーフがある。



開学第一年次に、クラークは学生が農場での労働作業を大変喜んでやっているようだと報告しているが、1870年春には学生の間に労働作業についての不満が高まり、ついにストライキを決行するまでになった。……(中略)……。
 ……(中略)……。その際、ストライキの首謀者の一人ウィリアム・ホイーラーは学長に向かって、「学長先生、必修の労働作業とは腕を磨いて行くための訓練に資するものだと、大学便覧にちゃんと書いてあることなのですが、その契約履行を要求することを学長は反抗とお考えになるのですか」と迫った。
 ……(中略)……。
 ……(中略)……。クラークがこの一件を結局はどのように受けとめたかを知る一つの手がかりとして次の事実がある。それはストライキ事件から6年後のことになるが、彼が重要な使命を帯びて札幌に行く際に、自分の助力者の一人として、例のストライキの先頭に立ったホイーラーを選んでいるのである。
 第二の事件は、これほど劇的なものではない。1872年6月上旬、三年目学生19名のうち12名が、年1回の学内弁論大会への一年目、二年目学生の参加者の選出について抗議し、署名入りの書面を学長クラークに提出した。……(中略)……。署名した三年目学生12名の中にペンハローもいたが、他ならぬ、クラークが北海道出張の際に連れて行った二名の助力者のうちの一人となった学生である。(p.119-122)


ホイーラーとペンハローに関する興味深いエピソード。



 クラークは内藤よりも前に、もう一人の日本人と接触があった。この日本人の方が、クラークの日本招聘にさらに大きな役割を果たしたと考えられるが、それは他ならぬ新島襄のことである。彼はアマースト大学を卒業した日本人の中で一番有名だと思われるが、1860年代に遠い異国の地、西洋に強烈な魅力を感じた若者の一人であった。彼は密かに日本を脱出し、あるアメリカの船長の厚遇を受け、ボストンに連れて行ってもらい、そこで今度はその船主の援助を受けた。その後、彼は1867年アマースト大学に入学する。これはクラークが同大学を辞める年に当たるが、彼はクラークから教えを受けたようである。何年か後のことになるが、クラークが新島のことを「私の教えた最初の日本人学生」と言っているからである。(p.151-152)


クラークと新島襄の関係がどれくらい深かったのか、非常に興味が惹かれる。クラークは彼の札幌農学校の弟子たちに、信徒として新島を頼るようしばしば助言しているが、こうした札幌の弟子たちと新島との関係も是非知りたいと思う。




県民学研究会編 『思わず人に話したくなる北海道学』

 昭和に入った余市ではニシンも不漁となり、網元たちが建てた石造倉庫も次々と主を失っていった。余市蒸留所の正門や石造壁、倉庫群は、ニシン長者たちが手放した倉庫の石を活用したものだ。(p.39)


なるほど。確かに軟石で出来ているとは思ったが、そのような歴史的経緯があったとは知らなかった。この土地の産業の移り変わりをも象徴しており興味深い。



鉄なくして近代化は不可能だ。というわけで、明治政府は製鉄所づくりに力を注いだ。第一号は岩手県釜石市で明治13年(1880)に操業を開始した官営釜石製鉄所。第二号が福岡県北九州市で明治34年に操業を始めた官営八幡製鉄所である。
 三番目にできたのが、明治42年創業の室蘭製鉄所。釜石と八幡が官営から民営化されたのに対し、室蘭は最初から民間の三井財閥がつくった。(p.50)


室蘭製鉄所がこんなに古いとは知らなかった。三井財閥(北炭)は空知地方の炭鉱にも進出しており、室蘭はその有力な積出港だったことを考えると、わりと自然な流れという面もあるように思われるが、この時代の室蘭製鉄所の産業史的な位置づけなどももう少し掘り下げてみたいと思う。



 北海道大学のホームページによると、日本の国土の570分の1は北海道大学だという。全国各地にある北大関連施設の総面積は約700平方キロメートル。大学の敷地面積としては日本一だ。どのくらいの広さかというと、東京23区が621平方キロ、琵琶湖が670平方キロ。シンガポールが714、」函館市が678、石狩市が722。北大の次に広い東京大学は約320平方キロで、北大の半分以下だ。(p.66)


北大の敷地面積が大学では一番広いというのは以前から知っていたが、国土の1/570という表現は面白い。東京23区より広いというのも旅行ガイド(大学案内)をする際などに使えるフレーズかも知れない。



 北海道への入植者のうち四割は東北地方、二割は北陸地方の出身だといわれている。彼らが拓いた地には、故郷の言葉が植えられた。道南の「仕事さ行く」は東北弁がルーツだ。「なまら」は新潟や香川、愛媛の、「わや」は関西の言葉だ。村々の交流が進むと言葉は入り交じり、溶け合って、独自の成長を遂げた。(p.68)


代表的な北海道弁のひとつ「なまら」が新潟や四国から来ていたものとは知らなかった。



過去形にすれば丁寧な表現になる、というのは立派な北海道弁である。(p.69)


過去形にすれば丁寧な表現になるのは英語にも共通する感覚であり、北海道特有のものではないと思われる。例えば、want toよりwould like toの方が丁寧なのと同じだろう。



 箱館はたびたび大火に襲われたが、再建する家は和洋折衷の建築にせよとのお達しが行政からでた。一階は和風にしてもよいが、二階は洋風の外観にせよというのだ。坂の下の港から住宅街を見上げたとき、斜面に洋風建築が立ち並んでいるようにみせるための工夫だ。(p.105-106)


確かに、現在でも函館にはいくつかこうした建築が残っているが、函館の地形であれば効果的な演出になっていたと思われる。この時代の景観を見てみたいものである。



義経と弁慶らが蝦夷地から大陸に渡り、義経がチンギスハンになって大活躍したというストーリーは大正時代に広まった。大陸侵出への野心が社会背景としてあった。(p.137)


なるほど。興味深い。


山本博文 『あなたの知らない北海道の歴史』

 余市町の大川遺跡は、遼や女真といった十世紀から十三世紀の大陸の土器と酷似する黒色土器や、ロシア沿海州地方原産と見られる環状錫製品などを出土する。また律令制の衣服令による規定で律令官人の身分を表わす革帯に装着された銙帯金具も出土。これは朝廷の位階を受けたから授けられたものだ。この余市あたりは、北海道と大陸、本州との広域の交易に使われたポイントだったに違いない。……(中略)……。
 大川遺跡出土の銙帯金具も、朝廷が渤海との交流の仲立ちをした擦文人を律令体制下に組み入れることで北海道の擦文文化圏やオホーツク文化圏、さらには日本海をはさんで対岸の渤海国との交流を円滑に行おうとしたツールだと考えられる。(p.39)


北海道は本州との関係もさることながら、大陸との関係もかなり深い土地であったようだが、中国東北部や沿海州の文化などについての知識が日本の一般書ではほとんど得られないので、なかなかこのあたりの関係性についての認識を深めることが出来ないのが残念である。



近江商人の商いは組織的な行動に特徴があり、北海道に進出する際も「両浜組」という組織をつくって本州との遠隔地交易を行っている。
 ……(中略)……。両浜組のバックアップにより松前の漁業は、それまでの自給自足的なものから大規模な経済活動へと発展し、後には松前藩の財政を支える産業にまで成長したのである。
 その他にも両浜組は、松前藩に参勤交代の経費を融資するなど財政面でも協力的だったことから、藩からさまざまな特権を与えられて優遇されていた。だが、十八世紀末頃から、より資本力のある江戸系商人が松前・蝦夷地に進出すると、相対的にその地位は低下していく。また、その頃には両浜組が拠点としていた和人地の漁業が停滞していたこともあり、次第に彼らの組織立った活動は勢いを失っていったのである。(p.108-109)


江戸時代における近江商人の北海道への進出もなかなか興味深いテーマであるが、北海道だけ見ていても全体像が見えない問題であり、なかなか手が付けられずにいる。

近江商人は北海道の多くの地域で比較的早く撤退したとされるが、江戸系商人が進出してきたことがその相対的没落と関係しているという指摘は私は本書で初めて接した。道南地方でのニシンの不漁などは分かりやすい理由だが、この点は江戸系商人も同じだとすれば、江戸系商人はどのように進出していったのだろうか?



 この東北戦争のさなか、会津・庄内両藩が蝦夷地に所有する領地の売却をプロイセン(現・ドイツ)に対して持ちかけていたという記録が、ドイツの国立軍事文書館に残されている。……(中略)……。
 しかし列強各国は戊辰戦争に対して局外中立を保つことを申し合わせており、ビスマルクは両藩の申し出を断る意向であったという。もっとも当時日本・ドイツ間の連絡には船便で二か月を要したため、このやり取りが終わらぬうちに会津藩は降伏し、売却話は幻と消えたのである。
 ……(中略)……。
 だがこの売却が仮に実現していた場合、日本は国内に外国勢力の拠点を抱えることになり、後の北海道開拓にも大きな影響が出たはずである。戊辰戦争を短期間で終了させたことで、日本は最悪の事態を辛くも切り抜けたのである。(p.140-141)


いかにも帝国主義の時代らしい話である。全体として実現する可能性は低かったと思われるが、仮に実現していたとすれば、本書の指摘のとおりその後の歴史は大きく変わっていただろう。


関根眞一 『となりのクレーマー 「苦情を言う人」との交渉術』

「Bさん、私は持てる限りの情報と最善の方法で対応させていただけるよう、説明させていただいたつもりです。それがダメとなると、社に戻ってもそれ以上の対応はなかなかできないと思います。何かよい方法はございますか」(p.46)


こういった対応は仕事でもつかえるかもしれないと一瞬思ったが、対応する人が変わると結果が変わると思わせてしまう点が欠点だと思われる。本書の事例は百貨店で金銭目当てなどのクレームに対して対応する場合だから、こういった駆け引きもあり得るかも知れないが、業種などが違うと必ずしもこうしたやり方はできない。



 この「言った、言わない」の問題になると、Bさんと販売員の一対一の問答であって、証明が立ちません。こうなると、顧客優位とみるのが百貨店の基本です。(p.49)


「言った、言わない」という水掛け論になる苦情は、どのような業種でも必ず生じうるものだと思うが、百貨店が顧客優位とするのは、個別の対応における公正さや利益よりも、もう少し中長期的な利益の観点に主導された結果であるように思われる。



「関根さん、俺たち輩から見たら、百貨店に働く関根さんたちは超エリートの人間に見えるんだよ。だから癇に触る言葉には、異常な反応を示したくなる。分かってくれよな」(p.73)


こういう心理からクレームが生じることは確かにしばしばあるように思われる。



 金銭での解決は、その場しのぎで早く終わらせたい、というこちらの弱い姿勢から出てくるものです。できるかぎりこれをしないのは、私たちの基本方針です。(p.97)


この辺りは非常に共感できたところ。金銭に限らず、理を曲げて相手の要求に屈してしまうという安易な解決策を採るのは、弱い姿勢から出るものであり、好ましくない。



 さらに、何度も電話をガチャンと切るのは、「私は怒っているのですよ!」と伝えている恐喝の一種です。(p.106)


確かに。本書ではこうした場合にも迅速に対応しているようだが、私の考えは違う(仕事で求められることが違うためどう対応すべきかもおのずと異なる)。自分が要求を伝えた後、こちらがそれに対する反応を言う前に相手方が一方的に電話を切った場合には対応する必要はないと考える。その要求に対してこちらが「対応できません」と答えているかもしれないのに相手方が勝手にコミュニケーションを切ったからであり、相手方の要求がかなえられない責任は、相手方自身の行動によって相手方に帰せられるからである。



 現場で起きたクレームや苦情は、なるべく現場で解決する、という心構えで臨みましょう。決して最初から上司を頼りにしないことです。
 「私の責任で対応させていただきます」という気持ちを強く持って臨むことで、自ずと慎重になり、敬語や謙譲語も使い分けられるようになります。
 相手はそこに誠意を感じてくれます。(p.180)


現場で解決するという心構えで臨むことで、自ずと慎重になり、相手方の言うことをまずはしっかり聞くというスタンスが生じる。これが第一歩ではないかと思われる。敬語や謙譲語の使い分けなどは、その次かさらにその次くらいのステップの話かと思われる。


片野勧 『明治 お雇い外国人とその弟子たち 日本の近代化を支えた25人のプロフェッショナル』

アメリカのケプロンも北軍の将軍で現役の農務長官だったが、グラント米大統領とそりが合わなかったために、日本にきて北海道開拓に尽力した。(p.21)


こういった、本国での人間関係がよくないことを背景として来日したお雇い外国人は結構いたのではないか。日本側が比較的良い待遇を用意していたことがこれと結びつくと人材を招聘する効果が高まりそうだ。



日本に写真が入ってきた当初、人々は肖像を撮られることをあまり好まなかった。しかし、それが大量に登場するのは日清戦争、日露戦争のころ。いずれも、毅然とした態度で、軍服か礼服を着用していた肖像である。(p.166)


写真は近代国家における権威を表示するツールとなった。



 ラグーザの帰国後、日本は欧化政策の反動ともいえる国粋主義に傾斜していく。1882年に開催された第一回内国絵画共進会では、洋画の出品が一切拒否され、洋風彫刻は「冬の時代」を迎えたのである。(p.215)


国粋主義というより排外主義という方が妥当かも知れない。



年齢は、曾禰が24歳で最年長。教師のコンドルと同じ年齢だった。しかし、ほかの学生も3歳と違わない。みんな同じ仲間といった感じである。この日の講義のテーマは「建築とは何か」。約1時間半、近代建築の理論を整然と学生たちにレクチャーした。語学の達者な曾禰は要点をノートにメモした。しかし、辰野のように語学が不得手な者には、コンドルの流暢な英語は、まるでオーケストラを聴いているようだったという。(p.223)


コンドルと工部大学校の一期生たちが同じ仲間のような年齢だったとは気づかなかった。個々の建築を通して建築家を知るということが多かったが、建築家同士の関係などを中心に見ていくと、また別のものが見えてくることを予感させる。