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札幌農学校学芸会 編 『覆刻 札幌農学校』

明治九年学課表
(当時全国の学校に練兵なる課目なかりしに、本校率先して、米風に習ひて之を入れたり、実に本邦学校に兵式体操を授くるに至りたるもの、本校を以って権輿となす)(p.39)


札幌農学校に軍事教練の科目があったことは、この学校の歴史における特徴としてしばしば語られるが、アメリカのやり方に倣ったとしているのは、クラークが学長だった当時のマサチューセッツ農科大学(現・マサチューセッツ大学アマースト校)に由来するものであることを指すと思われるが、当時のアメリカの大学で軍事教練の科目があるのは一般的だったのだろうか?そのあたりは気になるところである。



 此課程を見るもの誰人か一驚せざらん、当時固より学術進歩の幼稚なる折柄、敢て其学課の難易軽重を問はざれ共、英文学及弁説等が、各学年主要の部分を占むるは、奇感なき能はず、蓋し当時の札幌農学校出身者に、英学に巧みなるもの多きは此辺に基因す。
 然れども学問の進歩と世間の評論は、札幌農学校の課程をして、永く斯かる状況にあらしめず、爾来明治十三年十四年と次第に、其形而上の学問減じ来りて、遂に農学校をして其名実相適ふに近からしむるに至りたり、今更に次に明治廿年頃の学科の大体を示し、現今の純粋農学課程に進みたる過渡時代として、読者の参考に資せんとす。(p.40-41)


札幌農学校の歴史を語るとき、クラークがマサチューセッツ農科大学のカリキュラムを参照し、当時のアメリカのリベラルアーツ・カレッジと似た教育内容であったことがよく語られる。これに対して、ここで語られているような変化が比較的早く起っていたことはあまり語られないように思う。

これは現代の北海道大学が「リベラルな大学である」というアイデンティティをある程度持っていることと関係しているように思われ興味深い。つまり、クラークによりアメリカ的なリベラルな教育がなされた独特の学校として始まったということを語ることは、現代においてもその精神的遺産を直接かつ現代に繋がるような形で受け継いでいるという印象を与えるからである。

これに対して、本書に記録されているような実際の歴史は、比較的早期に実学化が進んだことを物語っているが、だからと言って当初のリベラルな教育が顧みられなかったわけではないという点には注目が必要である。カリキュラムが実学化したとしても、随時、クラークの時代が語られ、理想を体現していた時代として語られるとすれば、その精神的遺産を受け継いでいることになるだろうからである。



第一節 校則(摘要)

 札幌農学校は文部省の直轄に属し、農理、農芸及拓殖に関する高等教育を授くる所とし、本科の外予修科、土木工学科及農芸伝習科を設く。(p.54)


明治30年頃の校則だが、「拓殖」に関する教育を行う所であるという点と、「高等教育を授ける」所とされている点に注目したい。前者に注目する理由は、札幌農学校から北海道帝国大学に至る学校の卒業生のかなりの割合が、台湾や朝鮮、満州などの日本の植民地統治に関係する仕事をしたという事実とこの学校の設置目的が合致しているからである。後者については、当時の「大学」との関係が見えてくるのが興味深い。すなわち、当時の大学は教育と共に研究の機能も期待されたのに対し、札幌農学校には「研究」が目的となっていなかったらしいことが見えてくるからである。



 本科の学年は九月十一日に始まり、翌年七月十日に終る之を分て三学期となし、第一学期は九月十一日より十二月廿四日に至り第二学期は一月八日より三月卅一日に至り、第三学期は四月八日より七月十日に至る、本科に於て修学すべき課程は左の如し。(p.54)


秋に始まり夏に終わるというのは、当時の学校の基本的な学年暦と合致すると見てよさそうだ。これについては一つ前のエントリー、『東京大学の歴史 大学制度の先駆け』を参照されたい。



夫れ一国教育の中心は必しも其政治的中心と一致せす。米国第一流の大学は、必しも華盛頓に在らずして、多くニユー、イングランド、ステーツに在り。英国第一流の大学は、必しも龍動に在らずしてヲクスフオルドケンブリツジエヂンバラーにあり。其他列強有名の大学は、必しも其首府に在らずして、反て偏僻の地に多き所以のもの、教育の中心と政治の中心とは、相一致するを要せざるを見るに足らん。吾人は信ず、我北海道は実に学問の地たり。未だ二十世紀の中葉に至らざるに、嶄然として頭角を顕はし、東洋の北極星と成り、学術の効果を遠近東西に頒與するの日あらんことを。(p.114-115)


本書は明治31年に札幌農学校という学校を紹介し、学生を集めることを目的として出された本であるが、そのことがよく表れている箇所である。この結論を言うために、本書では札幌がいかに学問に適してた地であるかということを冒頭の章で力説しているほどである。

本書の主張によれば、北海道(札幌)は学問に適した地であり、一国の教育の中心は政治の中心とは必ずしも一致せず、むしろ僻地にあることも多いということから、北海道(札幌)が日本の学問の中心地になり得るということになり、そのような北海道(札幌)の地に集え!ということになるわけだ。

教育の中心と政治の中心は必ずしも同じではないという指摘は正しい。ただ、今のところ札幌が日本の学問の中心とまでは言えないのは残念である。


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寺崎昌男 『東京大学の歴史 大学制度の先駆け』

 東京大学に限らず、日本の大学が四月を学年暦の始めにしたのは、約70年前、1921年(大正10)からである。これは法令によって決められたものではない。……(中略)……。四月学年始期制(以下、たんに四月始期制と記す)は、大学が自ら選んだものだった。だが、積極的に選んだのではなく、周囲の状況に押し切られて、否応なく呑まされたというのが正しい。
 ……(中略)……。
 明治維新の直後、東京大学の前身をなす学校ができたころ、学年の始めは秋、終わりは夏であった。
 ……(中略)……。
 帝国大学成立前の医学部の学年始めがなぜ十一月という奇妙な時期になっていたのか、判然としないが、ただ、新学期がともかく秋に始まる、ということは法理文学部さらにその源流の南校以来の流れと共通だった。その基本的な背景としては、開成学校や医学校の教官スタッフの圧倒的部分がアメリカ、イギリス、フランス、ドイツからの外国人教師だったことが大きかったと思う。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 九月始期制度がまず崩れたのは高等師範学校(後の東京教育大学)においてであり、帝国大学発足と同じ1886年のことだった。佐藤氏の調査によれば、それは文部省の指示にもとづくものであった。
 ……(中略)……。「軍に引きずられ、かつ経費支出上の便利さをもとめて学年の始期が変更されるという点に、日本の近代学校の『官』的性格がはしなくも露呈された」というのが、氏の評価である。
 高等師範学校は、当時「教育ノ総本山」という位置付けを与えられていた。その高等師範学校が四月始期制を採ると、二年後には、全国の尋常師範学校が例外なく四月始期制に切り替えた。このあとを追って、1982年(明治25)には小学校が四月始まりになる。その前年、中学校と高等女学校も四月始まりになっていた(1891年)。
 このようにして、20世紀の初めには、日本の義務教育機関と教員養成系学校に四月始期制が定着したのだった。政府会計制度と徴兵制度。この二つが学校の始期を変えさせたのである。
 ……(中略)……。
 ただし、旧制高等学校と帝国大学は別だった。それ以後、ほぼ15年余り、この二種の学校は九月始期制を続けていた。
 ……(中略)……。
 臨時教育会議は、この意を受けたのであろう。答申のなかに大学も四月を学年始めとすることを決定し、やがてそれは高等学校規程(1919年3月、文部省令第8号)のなかに四月学年始めの規定を盛り込むことになって結実した。この規定に沿った高等学校卒業生の出る1921年から、公・私立大学も含む全大学に影響を及ぼすようになったのである。
 ……(中略)……。
 なぜ、当時の大学は、消極的な姿勢にもかかわらず四月始期制を採り入れたのか?
 ……(中略)……。
 はっきりいえることは、学校のつながりにムダを無くすことによって、高等教育修了までの「修業年限短縮」を実現しなければならない、という政府の強い意向が、あらゆる教育論をおさえてこの結論を導いた、ということである。(p.14-23)


秋に年度が始まり、夏に終わる国が多いように思うが、日本では4月から学年暦が始まるのはどうしてなのか?今まで何度か疑問に思ったことはあったが、あまり深く追究したことはなかった。本書を読み、基本的な流れが理解でき興味深かった。



 律令制の影響をつよく受けてできた明治初期の太政官制のもとでは、「部」という言葉は官庁の主管区分(セクション)を示すものだった。文省、兵省、工省、教省といった当時の中央官庁名が、そのことを示している。
 それから推すと、東京大学の中の四学部は、政府がつくり文部省が所轄する東京大学という一「大学校」の中で、法学なら法学、文学なら文学という専門教育を担当する「部(セクション)」という意味合いをもって作られたものだったのである。
 つまり法「学部」ではなく法学「部」であり、文「学部」ではなく、文学「部」だったのだ。それは文部省と東京大学が限りなく一体をなしていた揺籃期の官立東京大学の姿態を象徴していた。(p.49-50)


初期の東京大学における法学部は、法「学部」ではなく、法学「部」だったのであり、それが文部省と東京大学の一体性を示しているという。大変興味深い指摘。確かに明治期の東京大学や帝国大学は、教授たちも政府の高級官僚を兼ねていたことが『京都帝国大学の挑戦』などでも指摘されていたことが想起される。



 『東京帝国大学五十年史』は、「欧米諸大学に講座の制あるに倣ひ、帝国大学にも講座を設けんとするの議文部省内に起り」云々と記している。Lehrstuhlやchairがもともとは教授の坐る「椅子」や「座席」のことであり、それが大学教師の講義のためのものであることは、文部省側でも分かっていたものと思われる。(p.89)


旧帝大系の大学には現在も「講座」という制度があるが、教授の座る椅子が語源とは興味深い。それぞれの専門分野ごとに教授、准教授(助教授)、助教(助手)などを配置していくという仕組みと「講座」という言葉とがはじめて私の中で明確にリンクしたように思う。



 法科大学のこの優位を招いたのは、幾つかの起伏はありましたが、やはり行政官庁からの人材需要でした。とりわけ日露戦争が終わったあたりから、いわゆる海外領有地というのを日本が持つようになりますと、その地の経済活動その他を管轄していくためにも、ますます法ジェネラリストとしての教養というのが必要になってきたとみられます。(p.247)


法科大学の優位ということは、他の本でも述べられていたが、植民地支配がその背景にあったということか。なるほど。



明治20年代の半ば、すなわち1890年代初めぐらいまでは、どの進学案内書も、私学に行くことと官立学校に行くことをほとんど対等に書いている。ところが、それがだんだんと官立学校に進学するのが進学のいわば正統的な道であり、それ以外の者は私学に行け、というふうに変わってくる。
 1907年(明治40)ぐらいになりますと、学士号の持っている権威というものは非常に高いものになってまいります。この中で、たとえば早稲田大学(当時の東京専門学校)、慶應義塾大学あるいはほかのたくさんの私立学校がそれなりの発展を遂げ大学らしい学校になっていくチャンスが、大いに弱められていったのです。安かろう悪かろうの私学、一方、非常に進学は難しいがそこを出れば人生の幸福の半分ぐらいは保証される官学、この二つの区分が、進学案内書の記述を見ていくと、1900年ぐらいを境にはっきり生まれてきていることがわかるというのです。(p.251-252)


入学の難易度については、初期の頃から官立の学校と私学とでは差があったのではないかと思うが、逆に、進学案内書がそれを対等に扱っていたことに驚いた。

学士号の権威が高まったことが官学と私学との区別と関係付けられているが、さらにその背景を見ると、明治30年(1897年)に京都帝国大学が設立されたことにも見られるように、明治後期には高等教育機関への進学圧力が高まっていたことが指摘されなければならないと思われる。つまり、受験生が少なければ高等教育機関への進学は競争の様相はあまり帯びないが、受験生が多く門が狭ければ進学はより競争の様相を呈する。当時の進学案内書もそうした状況を踏まえて書かれていた、ということではなかろうか。

森脇孝 『デジカメ&ビデオカメラで動画を上手く撮る本』

 いずれにしても、パンし終わったほうがストーリーの主題(メイン)となるのが特徴です。(p.23)


パンというのは、カメラを横や縦に振りながら撮影するカメラワークのこと。今まで静止画ばかり撮ってきた私にとっては、あまり馴染のない方法であり用語だったが、ビデオカメラの場合、写真よりも動きの要素が加わる分だけ多くのことを意識しながら撮影することが必要になるように思われるので、撮影の基本単位に名前を与えておくことには、自身の中で動作を分節化し、その分節化された動作を意識し、定着させる効果があるように思われる。

本書のような指南書を読むことの効用はこうした点にある。


北海道大学125年史編集室 編 『北大の125年』(その2)

 以上のように、附属図書館が戦前期に旧外地の資料を大量に受け入れていたことは、北大が明治期以来「内国植民地」とみなされていた北海道におかれた「帝国大学」であったことによるところが少なくないであろう。しかしそれ以上に、わが国における植民学の権威であった高岡熊雄博士が約30年にわたり(1905~34年)、附属図書館長を務めた影響のほうが大きかったのではないかと思われる。(p.60a)


なるほど。旧外地の資料を豊富に所蔵するのは館長の関心の影響という要因が大きいというわけか。私も前段のような理解はあったが、後段の理由はより具体的で実証的な研究に耐え得る仮説であると思われ、興味深い。



 戦争末期には、大学構内の空地を利用した畑作りが盛んに行なわれた。(p.61)


戦争末期と戦後間もなくの間、北大の構内の随所に畑があったという。大通公園が同じ時期に畑になっていたという話はしばしば目にすることがあったが、大学の構内も同様だったとは驚いた。



土木専門部は室蘭工業専門学校とともに室蘭工業大学となった。(p.74)


新制北海道大学の誕生により、予科や専門部が廃止されていった際、小規模な大学をも生み出していたわけだ。室蘭工大は北大から分離してきた土木専門部を構成要素として成立したという関係にあったとは知らなかった。



 北大に文科系学部を創設することは戦前からの長年の悲願であった。戦後には、戦争への反省から文科系学部の必要が痛感された。(p.74)


文科系の知の批判性は非常に重要である。昨今、文系学部を廃止・縮小の方向へと政府や文科省が誘導しようとしていることは、戦争に反対する知識階層ではなく、権力に従順な技術者的な技術者層を欲していることと関係しているように思われる。権力者を縛るものを減らしたい(好き勝手に権力行使ができるようになりたい)という志向がこうしたところにも表れていると思われる。自民党が制定したい自主憲法と考え方は全く共通している。



 1952年3月31日、国鉄(現在のJR)桑園駅を東へ向けて出発した列車がキャンパスに入ってきた。……(中略)……。総延長1512mに達する「北海道大学構内鉄道引込線」の開通である。……(中略)……。既に遺構は残っていないが、農学部の裏を南北に走る道が廃線跡であり、工学部と附属図書館北分館との間の駐車場が終点の貯炭場跡である。(p.78)


今度この廃線の跡を探してみたい。



なお、これらの留学生とは別に、沖縄出身の学生も72年の沖縄復帰までは「外国人留学生」として在学していた。(p.103)


沖縄は本当に外国だったんだな、と認識させられた。



実は北大キャンパス全域が「K39遺跡」と呼ばれる遺跡なのである。現地表面から2m下には、おおよそ2000年前の続縄文文化の暮らしが埋まっている。当時、扇状地の末端であったこの場所に、人々は季節ごとに訪れは河川での漁労をしていた。それよりも1m上、現地表面下1mには、「遺跡保存庭園」から続く擦文文化の暮らしが埋まっている。(p.111)


構内に遺跡があることはしばしば耳にする機会があったが、このような形になっていたとは驚いた。



 北海道の開拓に必要な人材の養成を目的とする専門教育機関からスタートした北大が、このように規模の大きな総合大学に発展する過程には、歴史の転換点ともいうべき節目がいくつかった。節目を経由することで大学として発展を遂げてきたのである。
 大きな節目のひとつは、日露戦争後における農学校から帝国大学への転換であった。これによって単科大学から総合大学への途が開かれた。もうひとつは、第2次世界大戦後における文系学部の新設と新制大学への転換である。これを経て、1967年には今ある12の学部がすべて揃うことになった。2つの転換を画期として、北大125年の歴史は30年余の農学校時代、40年余の帝国大学時代、50年余の新制総合大学時代に大別されるといってよい。(p.118-119)


農学校から帝国大学への転換は、単に単科大学から総合大学という意味ではなく、学校の存在意義を政府にどの程度認められているかという問題と直結していた点で、より重要な意味を持っていたのではないか。

なお、2016年現在における時代区分は、「国立大学法人」時代とすべきだろう。





北海道大学125年史編集室 編 『北大の125年』(その1)

 札幌農学校では、1880年代後半以降、ほとんどの基礎的科目を廃止し、「学術技芸」の専門化・分化を進め、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムの影響から脱した。このような改編は、1886年には工部大学校が帝国大学工科大学に、90年には東京農林学校が帝国大学農科大学となり、工学・農学分野における「学術と実地」は、急速に「学術の蘊奥」へと傾斜しつつあったことと無縁ではない。(p.17)


クラークがいた頃の初期の札幌農学校は、アメリカ的なリベラルアーツ・カレッジのようなカリキュラムであったものが、それほどの時間を置かないうちに専門分化の方向に転換していった。

このあたりの推移は、明治31年に出た学校案内の書である『札幌農学校』などを見ても具体的に見えてくる。なお、この本についても、後日、このブログに記録する予定である。



 1928年の調査によれば、大学本科卒業生458人の在住地が判明する。道内112人、道外223人、台湾40人、樺太6人、朝鮮18人、中華民国35人(うち満州19人)、欧米16人、その他8人である。北海道在住者は24%である。93人(22%)が台湾・朝鮮・中国に在住していた。いずれも台湾総督府(台北)・三井合名会社朝鮮農林事務所(京城)・関東庁(旅順)・東洋拓殖会社(奉天)など、植民地経営に深くかかわる機関・企業に勤務していた。農学実家卒業生162人中33人(20%)、林学実科では195人中32人(16%)、土木工学科では166人中20人(12%)、水産学科では258人中32人(12%)が台湾・朝鮮・中国で職を得ていた。農科大学は「膨張的帝国の鴻図を翼賛」していた。(p.26)


このあたりのことには非常に興味がある。数年前に北大図書館で展示されていた北大の卒業生と台湾とのかかわりについてのパネル展を興味深く見たのが思い出される。

この問題については、他の帝国大学や私立大学などの全体的な状況と併せて把握したいと思う。



札幌農学校から北海道帝国大学への過程と節目は、いずれも原敬・中央政界の動向に直接重なっていた。(p.32)


このあたりの具体的な内容についてももう少し知りたい。



 東京・京都帝国大学は文・法・経済学部、東北・九州帝国大学は法文学部、京城帝国大学は法文学部、台北帝国大学は文政学部を備えており、1928年に文系学部を有していないのは北海道帝国大学のみであった。北海道帝国大学が際立った位置にあることは明白であった。(p.33)


このような状況であった背景や理由を考えると面白そうである。明治初期から中央官僚の供給を東京帝大が担ってきたことや明治30年にその競争相手として創立された面がある京都帝大で文系学部が充実するのは理に適っているというべきだろうが、北海道よりも中央から遠く、新しい大学である京城や台北の帝大には文系学部があるのに、それよりも創立が早い北海道に文系学部がない理由には興味が惹かれる。

要因の一つは、北海道帝大は札幌農学校が母体だということだろう。北海道開拓というミッションに対しては官僚は中央から供給可能だが、北の大地に適した技術を持つ技術者の養成が必要だったため、農学のほか、工学や医学などが優先されるのもやむを得ない。

また、朝鮮や台湾のような当時の植民地においては、言語や習俗の違いが大きいことから統治のための社会科学的研究がより必要だったことが文系学部を早期に持った背景にあるのではないだろうか?これに対して、北海道はアイヌの人々などがいたとしても、より以前から和人が入植していることや、土地の広さとアイヌの人口の少なさなども、他の植民地ほどには文系の知が必要とされなかった地政学的背景ではなかろうか。もし、この仮説が正しければ、文系学部とはいっても、社会を多面的かつ批判的に見る学問というよりは、既存の権威や権力をさらに強めるための学問が求められていたのではないか、と予想される。



 柳条湖事件(1931年9月18日)を機に引き起こされた満州事変は、一時収束したかにみえたが、37年7月の盧溝橋事件により全面戦争と化した。軍部の発言力も格段に強くなり、国内は急速に戦時体制へと変わっていった。北大は、どのような影響を受けたのだろうか。まず、研究施設・研究体制が拡大・充実したことが指摘できる。日中戦争期(37年7月~41年12月)から太平洋戦争期(41年12月~45年8月)にかけて実現した新研究施設はたくさんある。(p.46)


戦争の時期は自然科学の研究者にとっては研究しやすい時代だったということは、科学史などではよく言われることであり、ここで述べられていることもそうした動きの一環である。



 一方、文科系を補う存在として北方文化研究室(1937年10月設置)が挙げられる。医学部を中心に行なわれてきたアイヌ研究を継承すると同時に文献の保存・整理も行なうこととされている。(p.47)


北方文化研究室も中国大陸への進出後になってから出来ていることからすると、やはり植民地統治に結びつく研究が期待されていたのかも知れない。また、アイヌ研究が医学部によって行われていたというのは意外だった。和人との解剖学的ないし民族的な相違などを中心に研究されていたということだろうか。



「雪博士」として知られる中谷宇吉郎は、当初、原子物理学の研究を志していたが、北大では実験が困難であることから、雪の研究にテーマを変えた。(p.48)


中谷宇吉郎が原子物理学を志していたというのは、寺田寅彦に師事していたことなどからも納得できる。そして、中谷の雪の結晶の研究は複雑系的な研究だと私は見ているが、ここから私は、寺田寅彦の思考が複雑系の発想に近いという河本英夫の指摘を想起させられる。



 研究体制の面では、従来行なわれてきた日本学術振興会の研究補助金とは別に、文部省「科学研究費」(いわゆる科研費)の制度が1939年度から始められ、学振補助金に比べ、はるかに大規模に研究費が給付された。(p.48)


科研費の制度も戦時中の総動員体制の産物だったとは!



井上美香 『北海道人が知らない 北海道歴史ワンダーランド』

 「札幌の街は広く、うんざりするほど直線的だった。僕はそれまで直線だけで構成された街を歩きまわることがどれほど人を摩耗させていくか知らなかった」
 『羊をめぐる冒険』のなかで、札幌を訪れた主人公にこう呟かせ、一目瞭然でわかりやすい直線構造が、逆に主人公の方向感覚を失わせていく様を描いています。(p.86)


なるほど。確かに言われてみればこうした感覚も分かるような気がする。ただ、現実には各十字路には信号があり、それに付いている表示を見れば、現在どの座標におり、どちらの方角を向いているかが分かるので、ここで指摘されているほど感覚が狂わされることはあまりないと思う。慣れていない人が札幌の中心付近を歩くときは、感覚と知性とを交互に使いながら歩くのであり、感覚だけで歩くのは逆に普通の歩き方ではないように思われる。(目的地がないままさまよう場合に上記のような感覚になりやすいかもしれない。)

ただ、札幌は思われているほど直線の街ではなく、古い集落ごとにまとまりがあるためそれらを繋ぐ箇所などで不自然に道が折れ曲がりながら繋げられていると理解した方が妥当であると思われる。



 ≪日本は、その歴史の初期と近代にふたつの計画都市をつくった。京都と札幌である。ふるい都市の代表である京都も、あたらしい都市の代表選手である札幌も、ともに自然発生的な都市ではなく、日本ではひじょうにまれな人工の都市である。京都は中国を、札幌はアメリカをモデルにした都市であり、日本文明の特徴があらわれているといえないだろうか。文明とは自己のもつ原理原則の不定性を根本とする。日本の文明は、可変性という原則を不変的にもちつづけた文明であり、札幌の発展は、古代以来の日本文明が、いまだに健在であることのよき例証であろう。(執筆:園田英弘)≫
 なるほど京都と札幌は、外来の文化を換骨奪胎し独自の文明・文化を構築してきた、まさに「日本文明的」都市といえるわけです。(p.87)


京都と札幌は人工都市であり、モデルが中国とアメリカという指摘が面白かったので引用しておく。ただ、京都は長安をモデルにしているとされているが、朝鮮経由で同じパターンが入ってきたことが分かってきており、直接中国(長安)をモデルにしたわけではないようだということは付け加えた方が良いように思う。また、札幌はアメリカをモデルにした人工都市ではあるが、北海道には帯広や旭川など「人工都市」が多くあり、ここで述べられていることは、細部を知らずに大上段から語りすぎている感は否定できない。

なお、文明というものが原理原則の不定性を根本とするという考え方も私としては拒否しておく。



 北大構内にいまもあるクラーク胸像に観光客が殺到し、学内環境が悪化したため、1976年に札幌市が羊ヶ丘展望台に新設したのが、よく知られるあの立像なのです。つまり、羊ヶ丘展望台に建つクラーク像は、顕彰という意味よりも観光客に対するサービスとして存在しているわけです。
 おそらくクラーク先生は、羊ヶ丘に来たことなどなかったでしょう。北海道農業試験場の用地でもあるこの展望台は、羊毛の国内自給率を上げるための国策によって大正時代と戦後に種羊場が置かれた場所で、クラークがいた時分は何もない丘だったはずです。(p.97)


羊ヶ丘に建つクラーク像の意味についてあまり考えたことはなかったが観光用だったとは…。



 ソクラテス、ブッダ、キリスト、孔子……これら偉人はみな、自ら何かを書き遺したわけではありません。すべては、弟子たちが師の偉業と言葉を後世に語り継いできました。こうした弟子たちがいなければ、ブッダもキリストも存在し得なかったといっても過言ではないのです。世界の偉人と同列に語ることはできませんが、クラークの場合も、師の精神を後世に残したいと願う弟子たちの思いによって、その存在が現在まで語り継がれてきたといえるのです。(p.100-101)


確かに。



 スクリーンに現われる北海道は、敗戦後の日本人にある種のロマンを与えました。戦後によって樺太や満州を失った日本人の心に、安心して訪れることのできる異郷を提供したのです。(p.174)


「作られた北海道」像があるのは現在でも変わらないかもしれない。



 とはいえ、現在の北海道はやはり「自然豊か」とか「食べ物が美味い」などといった大地の豊かさによる評価が大半を占めます。言いかえれば、いまだ未開地的な豊穣のイメージがそこにはあるのです。そうした“外”からの北海道的イメージを再確認できるのが、村上龍の『希望の国のエクソダス』(2000年、文藝春秋)です。


ポストコロニアリズム的な見方でこうした表象(外から作られた北海道的イメージ)を批判するのはそう難しくはなさそうだが、このイメージは北海道という地を搾取するものというよりは地元の観光産業や地域経済にむしろ奉仕するものとして使われていることの方が多いように思われ、微妙なねじれのようなものを感じる。



榎本守恵 『北海道の歴史』(その4)

 道民性論議はさておいて、この校長会およびその前後からの市町村教育是制定のなかで、先の“拓殖精神”と並んで“開拓精神”なる語が登場する。論議からみると、“拓殖精神”は第二拓計の無形の推進力が中心であり、“開拓精神”は明治以来の北海道は“皇威隆替に関する”“北門の鎖鑰(さやく)”という歴史的意味を含めたものになっているようだ。ときにこの歴史は江戸時代以前までさかのぼる。論者が、それを確実に理解して発言しているわけではなく、ただ表現のちがいぐらいに考えているようだが、言葉は“開拓精神”にうつっていく。だが、十年代に入ってまもなく開拓精神と同義語として使用されてくるのは、“屯田精神”“屯田魂”である。この語が“開拓精神”の具体的表現として使用されたのは、満蒙開拓が課題になってからである。
 満州開拓の問題が出てくるのは、満州事変以後のことであり、その過程で北満寒地の武装移民が考えられてからである。満州と北海道との同じ寒地農業の経験、そして必要な武力、それを兼ねそなえたものに北海道屯田兵の先例がある。屯田兵はにわかにクローズアップされてきたのである。北海道は、それまで国家政治の客体としてのみ利用されてきたが、満州武装移民団は北海道の独自的性格からの、国政へ積極的意味をもっての参与という形になってきたのである。昭和11年の北海道における陸軍特別大演習は、そのことと無関係ではない。(p.316-317)


拓殖精神→開拓精神→屯田精神と、言葉が変遷してきたという。以上を私が理解したところによると、「拓殖精神」は、はっきりした境界を持たないような曖昧な境界の「外側的な領域」を拓くようなニュアンスが残っているのに対し、「開拓精神」は、「国内のうちの外部に接する領域」を拓くニュアンスとなり、この外から内への変化には、国防論的ニュアンスが付加されている。さらに「屯田精神」になると、武装移民による防衛的侵略のニュアンスを帯びているが、これは満州への進出が背景になっている、という指摘と思われる。

昭和11年の陸軍大演習は北大のキャンパスや史蹟について語る際に取り上げられるが、この演習がかつての北海道における「開拓」の経験と重ねられた満州への進出と結びついているという理解はなるほどと思わされた。



 昭和26年、田中知事が再選されてまもなく、政府は北海道の開発は北海道にやらせず、国の機関で実施することをきめ、北海道開発局を新設した。驚いた北海道は、道民大会を開いて反対したが国会で押しきられ、北海道の開発行政と自治行政を一本でやってきた慣例は、ここで分離された。(p.328)


中央政府の意に沿うよりも道民の自治を重んじようとする知事に対して、中央政府は自らの意向を強制的に実現させることを優先するために開発局を置いたというわけだ。中央政府の強権により地方自治が否定される構図は、現在の沖縄の辺野古への基地移設などの動きと似ている


榎本守恵 『北海道の歴史』(その3)

 ところで、金子堅太郎の視察課題の一つに、開拓使以来の薩閥の弊害をのぞく問題があった。しかし、道庁設置以降も、旧県令などの薩閥官僚は道庁理事官および屯田兵幹部として、いぜん勢力をもっていたのである。井上・山県両相の視察も、薩閥の背後に黒田があるとすれば、黒田に対抗しうる大物の派遣という意味だったといわれる。明治21年4月末、伊藤博文が首相から枢密院議長に転じ、黒田清隆が首相になっていくばくもない6月、岩村は元老院議官に追われ、二代目道庁長官は、屯田兵本部長、薩閥の永山武四郎が兼ねたのである。(p.259)


北海道開拓初期における薩摩の勢力の影響力とそれに対抗する政治的な動きは、もっと詳しく知りたいのだが、観光地などに残されている資料などではこうした側面は削られてしまっており現地を軽く見に行った程度ではなかなか分かりにくい(例えば、旧永山武四郎邸など)。「薩閥の背後には黒田がいる」という認識は、この関係を紐解く際の重要なポイントを指摘しているように思われる。



屯田兵本部長との兼任だったからあるていどはやむをえないが、永山長官時代の道庁は腐敗の極だったという。
 道庁長官が総理大臣直属から内務大臣管轄にかわって、松方内閣の品川弥二郎内相は、永山の兼務をとき、渡辺千秋を抜擢して道庁長官に任じた。渡辺の使命は多年北海道に根をひろげた薩摩の“芋づる”征伐にあった。庁内は粛正され、人事は刷新された。渡辺の最大の標的は、かげの長官堀基の北海道炭礦鉄道会社であった。(p.262)


永山は北海道の開発について海か内陸かという争いについて、後者の立場に立っていたようだが、屯田兵本部長という立場ともそれは関係していたのではないかと想像する。具体的に調べられれば面白いかもしれない。この開発の海か内陸かという議論も知りたいのだが、当時の政治的な話題であるが故にだと思われるが、あまり解説されていないのが残念である。

また、「影の長官」率いる北炭という会社の歴史もまた当時の政治状況との関係から理解したいのだが、これも同じく詳しい解説がされているものは少ない。知りたいことがあっても通り一遍の一般書ではなかなか知り得ないことが多くあり、もどかしいところである。



室蘭線から夕張炭山へ通ずる夕張支線は、馬追から分岐して栗山を経て夕張へ入る予定であった。工事の難度や経費の事情もあったが、堀は、路線変更の許可をとらずに、独断で追分から分岐させたのである。……(中略)……。工事の指揮は、かつてクロフォードのもとで幌内鉄道を建設した松本荘一郎が、道庁技師として担当していた。(p.262)


明治期の鉄道敷設に関して松本荘一郎や平井晴二郎に焦点を当てて調べてみるのも面白そうな課題である。



 北炭は、そのほかコークス・製鉄・電灯・造林(杭木用)などの副業を経営するが、やがて三井資本の系列にくみこまれる。北海道の企業のたどる運命は、つねに中央大資本の下請けか、系列下であり、資本移住の当然の結果ともいえよう。(p.263)


このあたりは北海道の植民地的な性格をよく表していると私には思われる。



おおざっぱにいって、20年代に空知地方の開拓が進み、20年代から30年代は上川開発がクローズアップされる。30年代に入って、開拓前線は南下して十勝に入り、一部は北見方面へ進むといったもよかろう。これには道路・鉄道の問題も関係するが、それは後述する。(p.272)


この概要の説明は非常に見えやすい見取図を示しており参考になった。

明治20年代に空知地方の開拓が進む前提としては、明治初期に炭鉱が発見され、明治15年には幌内鉄道が全通し、小樽港まで石炭を運び出せるルートが出来ていたことがあったことは間違いないと思われる。上川地方の開拓については、私はほとんど知らないが、内陸開発論者だった永山武四郎が道庁長官を務めたのが明治20年代だったことも一つの要素となっているのではないかと推測する。十勝の開発は道央地域と十勝地方を繋ぐ鉄道が明治30年代にできたことと並行しているのではないか。

このように見てくると、私の北海道開拓に関する知識は、ほとんど道央と道南地域に集中していることが自覚させられる。他の地域に関心を広げていく時期になりつつあるように思う。



 道路・鉄道の発達は開拓の動脈として奥地開拓を促進し、沿線には開拓集落がつぎつぎに形成されていった。もっとも、それまで海運ルートによって全道を掌握していた函館商圏にたいし、こんどは上川線・釧路線を通じて小樽商人が道央・道東に進出するようになった。そのうえ、日露戦争後の樺太領有によって、小樽商圏はさらに発展した。(p.297)


明治30年代以降についての説明か。小樽の商圏がこの頃に道東に進出した事については、このことを象徴する歴史的建造物があるので私はいつもそれを想起する。現在の小樽オルゴール堂の建物がそれである。もともと共成(株)という米穀商が明治45年に建てた木骨レンガ造の建物だが、小樽の米穀商がこの時期にこれだけ立派な建物を建てたというのも、北海道の内陸の開発が進んだことにより、そこに本州から小樽経由で米を運ぶ需要が増大したことを反映しているからである。(この点については資料による裏付けがあったと記憶しているが、本稿執筆時にはすぐに発見できなかったため、誤りが含まれているかもしれない。)

他にも小樽商人の高橋直治が「豆成金」「小豆将軍」などと言われたのも十勝の小豆を第一次大戦時に高く売ったことで財を成したことに由来すると聞いているが、これも一つの象徴的な事例だろう。(彼が大正12年に建てた邸宅が「旧寿原邸」として小樽に残っている。)

なお、小樽商圏の発展にとって樺太は思われていたほど大きな重みはなかったと最近の研究では言われているということは付記しておこう。



大土地の払い下げをうけた大地主たちは、ほとんど東京在住の不在地主である。無償の北海道国有未開地処分法の時代、いわゆる寄生地主制が大きく形成されたのである。
 開拓者のほとんどは内地で産を失って移住してきたものである。まじめに開拓しようとする、資力のない移民が新天地に希望をいだいてやってきたとき、よい土地はみな資本家が占有していた。……(中略)……。
 明治33年(1900)に営業を開始した特殊銀行、北海道拓殖銀行は、国有未開地処分法に対応して、大資本家や大地主にたいする融資を担ったが、中小資本家には冷たかった。そこで中小地主は、他府県同様の農工銀行設立をはかったが成功しなかった。拓殖銀行は大正末・昭和初頭、融資の抵当流れで、いつのまにか寄生地主の側面をもつにいたる。(p.300-301)


このあたりも先の北海道の企業は中央大資本の系列になるという議論と同様、植民地として「内地」とは異なる位置に置かれていた北海道の状況をよく示している。



ストーブの使用は幕末・昭和初年の官の施設までさかのぼるが、一般家庭への普及は第一次大戦前後、むしろ後といったほうがよいだろうが、それと成金が結びつけられて話になるのである。大・小豆、菜豆、エンドウ豆などの豆類王国は十勝である。豆類はもっとも投機的作物(ここに水田農業を中核とする本州農民とのちがいがあるが)だが、従来、大・小豆は必ずしも輸出商品として重視されていたわけでもなく、とくに大豆は満州・朝鮮産に押され、大正3年からは暴落した。だが明治40年における大豆8円73銭、小豆8円95銭が、5年後の大正元年には、それぞれ9円32銭5厘、13円52銭5厘に高騰した。この情勢をつかんで日本郵船を利用し、大もうけをして小豆将軍といわれたのが小樽の高橋直治である。(p.303)


高橋直治については上で少し述べたが、日本郵船との繋がりはあまり私も知らないので、詳しく知りたい。日本郵船が豆の投機的売買のために(?)ヨーロッパへの航路を開いたといったことがあったのか?



だが、昆布からとれる塩化カリは火薬の原料になる。思わぬところで、第一次大戦中に輸出が高まったのである。(p.304)


第一次大戦が日本の経済に及ぼした影響は大きなものがあるが、昆布もここに関係してくるとは驚いた。




榎本守恵 『北海道の歴史』(その2)

箱館開港後、長崎俵物諸色は箱館から清国直輸出になったが、イギリス商人のかげで実質をにぎる清国商人に昆布相場をあやつられて、道内商人はひどく苦労した。(p.197)


こうした清国商人がどのような人々であったのか、少し詳しく知りたい。



 黒田は、榎本武揚以下箱館戦争の敵、脱走軍幹部の新技術を認めて多数開拓使に登用した。また、郷里の鹿児島県出身者もしきりに採用した。明治5年末の開拓使奏任官以上26人のうち、鹿児島7人、榎本ら旧幕臣8人であるが、明治10年には幹部20人のうち鹿児島11人になり、旧幕臣は4人に減少、開拓使廃止時点では長官・札幌本庁・函館支庁・根室支庁・七重試験場・東京出張所・屯田事務局など各部局長は全部鹿児島県人で独占されるにいたった。黒田王国の“いもづる”と悪評されるゆえんである。黒田は参議になってからは、当然東京での要務に多忙であったであろう。しかし、そのまえの次官就任以来長官罷免までの11年半のあいだ、北海道にはたまにしか来道せず、もっぱら東京出張所で指令していた。(p.205)


黒田の影響はいろいろと大きなものがある。



農業移民が地租・地方税など当分免除されたのにたいし、道内唯一の既成産業であった漁業には重税を課されていたのである。先にのべた道内の税収の大部分は、この水産税と出港税であった。(p.209)


開拓初期の段階では農業からは税を取ろうにもとれる状態ではなかったはずであり、そうなると漁業から税収を上げるしかないといったところか。農業と漁業の扱いの違いは面白い。



ケプロンは芝増上寺を宿舎とし、4年の任期中3回来道しただけで、多くは前記3人のほか、必要に応じて雇い入れた部下を派遣して調査させた。(p.212)


先ほど黒田清隆もたまにしか北海道を訪れなかったことも書かれていたが、ケプロンもそうだったのか。



 クロフォードが資材購入のため一時渡米したさい、松本・平井ら日本人技師だけで工事を少しのまちがいもなく指揮監督し、クロフォードをよく助けた。かれらがいなかったならば、クロフォードの業績も完成しなかったかもしれない。(p.216-217)


松本荘一郎と平井晴二郎の幌内鉄道開通に関わる功績はもっと知られてよいと思われる。



 一期生からは佐藤昌介や大島正健ら、二期生からは内村鑑三・新渡戸稲造・宮部金吾らの国際的人物が育った。二期生は、クラーク去ったあとだが、一期生からキリスト教の影響をうけ、大部分が誓約に署名した。横浜バンド・熊本バンドとならび、異彩ある札幌バンドを形成したが、三期生は全員アンチクリスチャンで、四期生には国粋主義者志賀重昴が出た。農学校のキリスト教は一時中絶したのである。(p.230)


札幌農学校に関しては、一期生と二期生のことはよく語られるが、三期生以降については語られることがほとんどない。クラークの精神が受け継がれているというストーリーにとっては、アンチクリスチャンである三期生や国粋主義者が開学後まもなく現れていることは都合が悪いということか。



榎本守恵 『北海道の歴史』(その1)

 ところで、日本列島をひとしなみに縄文文化とよぶが、北海道の最初の土器は、縄目文でなく貝殻文土器で、二つの流れがあった。一つは道南地域にみられる底がとがっている尖底土器グループで、東北地方と共通性がみられるもの、いま一つは底の平らな平底土器のグループである。尖底土器は床面に立てて置くことはできないので、火灰の中に立てて石で支えたものであろう。ものを煮るには熱が伝わりやすいからである。あるいは、芝や枯れ草の床につきさしていたのかもしれない。
 このように土器が使われはじめたころには、東北地方と道西南部が一つの文化圏をもっており、こののちは、たえず北と南からの文化の流入がある舞台が北海道なのである。(p.21)


東北地方と北海道の南西部との文化的な繋がりは意外と強い。北海道についてある程度理解が深まったら東北についても学んでみたい。



また、コシャマインのマインは、のちのシャクシャインなどにもみられるように、酋長の名に多い。じつは男性名にはアイヌが付せられるが、慣例として一般には語尾までよまず、酋長のばあいにはアイヌまでつける。アイヌは、アインになるのである。(p.57-58)


なるほど。



 松前地には本土と同じように村を設け、五人組制度、村役人を通じて支配し、土地売買は禁止された。アイヌにたいしては、「蝦夷は蝦夷次第」ということで、従来の慣例にあまり変化をあたえないようにした。アイヌと和人とのまさつを避けようとしたものであろうが、アイヌの社会形態を従来どおり存続させることで、和人社会との格差が、アイヌ搾取のテコになったといえる。(p.79)


これは松前藩の統治についての記述だが、習慣などが異なる集団を統治する場合、同化政策をとるかそれぞれの文化を認める「寛容な」政策をとるか、という問題は避けがたいものがあるが、後者の方針は一見するとリベラルであるように見えるが、力関係などによっては逆に経済力や技術力の格差を固定化することもあり得るという見方は興味深く、参考になる。



 当時、この騒動の背後にはロシア人の扇動があったとのうわさも流れた。幕府および松前藩の政治のうえでは秘密事項ではあったが、ロシア南下問題は、幕閣の一部や識者のなかで知っていたのである。だから、和人の蝦夷介抱の不十分、酷使・不正が蝦夷に不満と怨みをいだかせていたことは、ロシア人のうわさとも結びつく重大な問題であった。(p.118)


「この騒動」とは、1789年に起こったクナリシ・メナシの騒動のことである。天明の飢饉による食糧不足などもあり、和人によるアイヌに対する搾取が激化していたことなどが背景にあるとされるが、アイヌが和人に敵対するようになるとロシアと結びついてしまうという恐れを幕府が抱いてしまうというのはなるほどと思わされる。



通商条約の締結にもとづいて、安政6年6月、箱館は正式に貿易港になり、それから文久3年(1863)までの6年間に、商船148隻、軍艦99隻、猟船60隻が入港した。国別では商船がイギリスとアメリカ各66隻、ロシア6隻、オランダ5隻、プロシア4隻、フランス1隻の順である。ロシア商船が意外と少ない。軍艦ではロシア82隻、イギリス13隻、アメリカ・フランスが各1隻、軍艦ではロシアが圧倒的に多い。猟船はアメリカ56隻、ロシア4隻である。北太平洋の捕鯨業・ラッコ猟の主流は米露にかわってきたらしい。商船はイギリス・アメリカが群を抜いて多いが、そのほとんどは蝦夷地産物を中国(清)に運ぶものであった。これは、従来長崎俵物諸色として重要な役割を果たしたイリコ・干鮑、とくに昆布であり、貿易は輸出が大部分、輸入はせいぜい外人居留民の必要品で、きわめて少額であった。ただ、ここで問題なのは、従来の長崎輸出の俵物諸色が、長崎会所の訴えにかかわらずその独占体制がくずれたことである。……(中略)……。ところが、例えばイギリス商人が箱館で公正に昆布などを購入し、清国へ適正に輸出するならばさして問題は残らない。内実はイギリス商人の名目で、実際は清国商人が蝦夷地昆布を安く買いたたき、独占的利益を占めるようになると、道内の商人・生産者はいちじるしい苦境に立たされることになる。この問題は、維新以降も尾を引き、国策会社が何度も設立されて対策に苦慮したのである。(p.161-162)


前段は開国前には「通商」を求めてきていたロシアが商船が少なく軍艦が圧倒的に多いのが興味を惹かれる。

後段ではイギリス商人の名目で清の商人が安く買いたたいて独占的利益を得ていたという件からは、中国の商人のしたたかさを感じる。



諸術調所は、幕府の開成所を小型にしたようなものであったが、入学者は幕臣たると藩士たるとを問わず、ひろく門戸を解放していた。学生は原書で講義する原書生と、訳書で勉強する訳書生とにわけ、オランダ文典・航海術・算法などひろい指導をうけた。当時の学生のなかには、明治の工部大学校で活躍した山尾庸三や、郵便制度の生みの親前島密、鉄道の父井上勝、航海者蛯子末次郎らの俊才が集まった。武田を慕って箱館にきたが、かれが不在だったために福士成豊の援助をうけてアメリカに密出国した上州安中藩士新島七五三太(新島襄)のような青年もいた。福士成豊は、船大工続豊治の子で、のちに気象学などで北海道に貢献した傑物である。
 前述の箱館丸による日本一周や、亀田丸のニコライエフスク行きや、建順丸の上海行きの指導は、学生の実施訓練や視野拡大に大きく役立ったことであろう。文久2年(1862)、鉱物調査のために招かれてきた、アメリカの地質学者パンペリーが、この諸術調所で鉱山採掘法・溶鉱法・分析法などを指導した。諸術調所は幕府開成所以上に視野がひろく、進歩的であった。(p.164)


開成所より諸術調所の方が進歩的であるのは、それだけ政治権力の目が及ばない地であったことと関係しているのではないか。

新島襄が北海道に渡っていたのは知っているが、武田斐三郎を慕って来ていたとは知らなかった。



コーヒーのばあい、とくにおもしろい話が伝えられる。すでにのべたように、蝦夷警備隊は越冬にさいして多く浮腫病(水腫病)で陣没した。壊血病の一種ともみられる。その対策として、箱館奉行は各場所にコーヒー豆(オランダ豆ともいう)を配給した。もちろん日本でははじめてのことである。箱館奉行は詳細な説明書を添付、そのなかで「黒くなるまでよくいって、こまかくたらりとなるまでつきくだき、二さじほど麻袋に入れ、熱湯で番茶のような色にふりだし、土びんに入れておき、冷えたら適当にあたため、砂糖を加えて用うべし」とのべている。日本におけるコーヒーのはじまりは、このような特殊薬用であり、蝦夷地警備隊がその先鞭をつけたのである。(p.165-166)


上記のような病気に効き目はあるのだろうか?また、箱館奉行がこれほど詳しい説明を書くことができたということは、蝦夷警備隊が飲む以前に誰かが日本でも飲んでいたのではないか?という疑問を抱かせる。


潮木守一 『京都帝国大学の挑戦』

つまり大学には教育という役割と並んで、研究という役割も課せられているのだという考え方は、19世紀に至って初めて登場した考え方で、中世から始まる長い大学の歴史のなかでは、ごく最近のことでしかない。(p.39)


研究により「何か新しい(something new)知識」を見出すことが学問に求められ、学問もそうしたものであろうとしていったこの時代の傾向と合致している。



つまりドイツの場合、大学とは別個に学者を集めて研究をさせる組織を新たに作り出すほど、経済的余裕がなかったのだとする説のほうが、案外当たっているのかもしれない。(p.41)


フランスの大学は教育の機関であり、研究は別の機関に委ねたのに対し、ドイツは大学に教育に加えて研究という役割を付け加えたとされる。この相違が生じた理由についての説明だが、私もこの違いの指摘を受けた時点で筆者と同じ仮説を抱いた。当時の小邦分立のドイツと相対的に中央集権型の政治システムを構築していたフランスとの相違と言ってもよいかもしれない。



つまり当時の学生は、一つの大学だけで卒業していくという例はほとんどなく、たいていの場合、二つか三つ、場合によってはそれ以上の大学を、次々と渡り歩いて行ったことになる。
 ただこれにも大学での差がみられ、たとえば、ケーニヒスベルク、ブレスラウ、チュービンゲンでは、学生の在籍期間が長く、四学期から四・五学期となっている。これに対して、ハイデルベルク、ボンなどは土地柄もあって、夏学期になると学生があちこちから移動してきた。その結果この二つの大学の場合、学生の在籍期間はきわめて短く、平均して二学期、つまり一年にしかならなかった。だからこの二つの大学は、Sommer-Universitätと呼ばれたりした。要するにサマー・スクールということである。(p.44-45)


19世紀末頃のドイツの大学の状況。この辺りの事情は私の場合、マックス・ウェーバーの経歴などを想起すると想像できるところがある。彼はハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲン、再度ベルリンと4回学校を変えている。

ただ、ハイデルベルクとボンが夏学期に学生を引きつける「土地柄」とは具体的にはどのようなことなのか?もう少し詳しく知りたいところではある。



しかし、19世紀のドイツの大学において行なわれた教育上の一大イノベーションとは、まさに学生自身に何らかの特定テーマを研究させ、それを通じて学生をトレーニングし、教育するというこの方式だったのである。そしてさらに、その学生が独自に行なった研究を発表させ、それについて議論を展開させる場が、ゼミナールだったのである。(p.56)


この教育方法は、現代でも確かにインパクトがある。私自身にとっても高校までと大学とで決定的に違うと思わされたのは、こうしたシステムだったからである。

本書ではこうした方式の問題点なども的確に指摘しており、適した分野とそうでない分野があることなどが指摘されているが、社会科学を学ぶ場合、講義を聞くよりも、自身で問題に取り組んでいくことで問題意識が啓発されることが多いように思われるし、また、過去の学問業績の習得(使いこなせるようになる)という点でも効果があるように思う。ただし、ある程度以上の基礎学力があることが望ましく、水準以下の知識しかない場合は、闇の中を模索するだけで得るものは少ないという結果もあり得るだろう。



 もともとこのゼミナールという制度は、きわめて実用的な目標、つまり職業訓練上の必要から生まれたものである。(p.70)


本書では主にドイツにおけるゼミナールの歴史が簡単に述べられているが、私としては非常に興味深く読んだ箇所だった。

本書によればゼミナールは神学と言語学の分野がはしりであり、それぞれ牧師と古典語教師(ギムナジウム教師)の養成と関わっていたという。19世紀後半になるとこの性格は変質していき、専門研究者の養成のためのものへと変わっていったという。いずれの目的にとってもゼミナール方式は適切な方法であり得ているように思われる。



 もう一つ、ゼミナールの性格を特徴づけたのは、大学の普通の講義とは異なって、ごく少数の学生だけを採用する、いわば一種のエリート養成の場だったということである。(p.72)


本書によればこうした性質も学生数の増加に伴って19世紀後半には変質していき、一般学生にまで対象が広がって行ったとされる。ゼミナール方式の教育は、やはりどこまで行ってもエリート教育的なものにならざるを得ないと私は考えている。実際、先に「ある程度以上の基礎学力」が必要だと述べたが、私が想定する水準を満たす学生は、今のように大衆化した大学の中では一割もいないと思われる。(主体的な意欲さえあれば、単なる知識の不足であればある程度の期間の修練を積むことでカバーできるとも思うが。)



 すでに述べたように、パウルゼンにとっては、「ゼミナールでの演習こそ、近代の大学教育の本質」だったのであろうが、まかりまちがえば、ゼミナールとは、相互理解ができないことを、ただ確認し合う場になりかねなかった。(p.85-86)


ゼミナール方式の問題点を的確に指摘している。特に正規のカリキュラムとして必修科目になっているような場合、こうしたことは避けがたいだろう。ゼミナールはやはり「エリート教育」なのだと割り切って、つまり「適切なメンバーのみで」実施することでこそ効果を発揮するのではないか。



一つのことを根掘り葉掘り研究することが、教育になるのだというのが、19世紀のドイツの大学の教育方式の理念だったのだが、そこには、このアメリカ青年の当惑をまつまでもなく、いくらでも疑問の余地があった。(p.93)


確かに疑問を呈するのは容易ではある。しかし、私がこの部分に興味を惹かれたのは、またもやウェーバー関係なのだが、『職業としての学問』において、ここで批判されているような細かいことを徹底的に研究することを是とする考え方が示されており、ウェーバーの思想には19世紀末頃のドイツにおける「時代の子」としての性格が意外と濃厚に見られるという思いを強くさせられたからである。




都会生活研究プロジェクト[北海道チーム] 『北海道ルール 北海道なんもなんも!ライフを楽しむための48のルール』
 ところで、ザンギというなんとも意味不明な名称はどこから来たのか。
 一般的に、中国語で「鶏の唐揚げ」を意味する言葉「ザーチ(炸鶏)」が由来という説が濃厚だが(戦後の北海道には、旧満州や中国から引き揚げてきた人も多かった)、鶏肉を骨ごと切る(散切り)から「ザンギ」と名づけられたという説も。(p.51)

北海道では鶏の唐揚げのことをザンギというが、その語源について。中国語由来というのは、確かに満州などからの引揚者が多かったという事実もあって確かにもっともらしいと感じられる。


 もともとは、昭和初期に軍人用の栄養ドリンクとして開発されたもので、「活素(かつもと)」と呼ばれていたという。そんな古めかしい由来のあるドリンクが、なぜ今も北海道だけで根強く支持されているのかというと、同じ乳酸菌飲料の王様“ヤクルト”が北海道に上陸する前に普及した時代背景が挙げられる。(p.53)
北海道のご当地ドリンクとなっている「ソフトカツゲン」の由来。軍人用の栄養ドリンクというのは、あのドリンクの味わいからして納得できるものがある。ヤクルトが上陸する前に普及したというが、これはヤクルトが普及するのが遅かったということなのか、それとも北海道でカツゲンが普及するのが早かったということなのか?やや疑問が残る。個人的には前者と推測するが。


 ガラナとは、ドクターペッパーに似た独特の風味がある炭酸飲料。昭和30年代にかけて、輸入解禁を控えた「コカ・コーラ」への対抗馬として各地で売り出された。
 なかでも北海道は、コカ・コーラの製造・販売が他の都府県に比べて遅かったため、ひと足先にガラナが普及。その流れで、現在も北海道には中小のガラナ飲料メーカーおよび大手飲料が販売するガラナが25種類近く存在する。(p.53-54)
カツゲンも同じパターンだったのではないかと推測する。


 この甘納豆版赤飯が普及したのは、昭和20年代後半から30年代にかけて。札幌市内にある光塩学園女子短大初代学長であり、料理研究家として知られる南部明子先生が、子どもに喜ばれ、かつ忙しい働く女性でも手軽にできるレシピを考案したのがルーツだ。(p.61)
戦後まもない時期に一挙に広まって小豆版赤飯が駆逐されたということか。北海道以外には広まらず、北海道では小豆版赤飯がほとんど消えてしまったという経緯には興味を惹かれる。


 しきたりにこだわらず、大晦日につくった料理は、おいしいうちに食べようという北海道ならではの合理主義?とも思うが、おせち料理のルーツをたどると、もともとは年迎えの膳料理として大晦日の夜に食べられていたという。
 北海道でおせち料理(もしくは寿司やオードブルなど)を大晦日に食べるのはその名残であり、道外の青森や岩手、石川などでも大晦日にご馳走を食べる風習がある。
 また、同じく北海道限定の年末年始の季節モノに、“口取り”と呼ばれる正月用の甘い菓子がある。海老、鯛、松竹梅など縁起物に模して作った練り切り菓子で、専用の重箱入りで販売される。いわば飾り物だが、本州に来て、“口取り”が北海道限定のものだと初めて知って、ショックを受ける人も多いとか。(p.63)
私の家はもともとおせち料理を食べるという習慣がなかったので、おせち料理は正月に食べるものと思っていたのだが、妻(北海道出身)が大晦日におせち料理を出してきたので、おかしなことをする奴だな、と思ったことを想起させられた。本書を読んで初めて、北海道では大晦日に食べる習慣があると知り驚いた。

「口取り」というのも、あまり食べることはなかったが、これも北海道限定と本書で知り驚いた。どうして北海道でこれが普及したのだろう?興味を惹かれる。


 北海道独自の風習ともいわれる会費制だが、これ、1950年代、戦後の日本の復興を支えるべく、全国的に実施された「新生活運動」なるものの一環だ。
 生活コストを抑えるべく、冠婚葬祭の改善、虚礼廃止などがうたわれたが、大半のエリアではなかなか根づかなかった。北海道で定着したのは、古い因習に縛られず、しかも家意識が強固でない土地柄ゆえだ。(p.107)
結婚式の会費制は確かに北海道に独特のものだと思っていたが、このような経緯があったとは初めて知った。確かに北海道はもともと異なる地域の出身者が多いから、結婚式のしきたりなども地方による違いがあるとするとどちらかの方式を採用するというより、北海道的な新しいスタイルでやる方が感情的な対立や葛藤も少なくて済むだろう。本書は北海道を合理的と特徴づけるが、この点は確かにその通りだと思える。また、北海道は全国平均より所得が低いことも会費制を受け入れる土壌の一つではあったのだろう。


大阪社会保障推進協議会 『住民運動のための国保ハンドブック2012』(その2)
 2012年1月24日の「国民健康保険制度の基盤強化に関する国と地方の協議」での「国保の構造的な問題点」(32頁)のひとつに「財政運営が不安定になるリスクの高い小規模保険者」と書かれています。しかし、実際には小規模自治体で国保会計の赤字のところはなく、赤字なのは、大規模自治体、そして大都市自治体だけです。(p.39)
興味深い指摘。中央政府が国保の都道府県単位化をしようとするときに言われている理由が事実と異なっていると認識しておくことは重要。


 和歌山県上富田町ではここ数年、特定健診の受診率が伸びている。必須項目に加えて町では、町医師会の意見や住民の要望を踏まえ、尿酸値や腎機能を調べる検査も受けられるようにしている(いずれも無料)。その結果、健診が始まった2008年度と2009年度の受診率は、それぞれ22.1%、23.9%と低調だったが、集団健診の回数を増やしたり、医療機関へ直接行けば受診できるようにしたりした。電話や自宅への訪問でも受診を促した。11年度からは、普段から通院している場所でも受けられるように、対応する医療機関を田辺市や白浜町にも広げた結果、受診率は10年度に38.8%、11年度は40.1%になり、県内の市町村別でもトップクラスに急激に改善した。(p.80)
今後の国保の都道府県単位化が行われる際の保険者に対する評価指標の一つとして特定健診の受診率などが使われそうな情勢だというが、工夫次第でかなり受診率が伸びることがあるというのは興味深い。医療機関に直接行けば受診できるようにしたというのは、受診券などを予め配布せずに済ませるということだろうか?重複受診の排除などはどのようにしてコントロールしているのか気になるところではある。医療機関からその都度保険者に受診者を連絡するとか?集団健診とはどのようなものなのかも気になる。


 国保は公的な医療保障制度であり、病気や怪我のときに使えなければ制度の意味はありません。保険料を払っていようがいまいが、加入していようがいまいが、病気や怪我の人が目の前にいるときには、自治体は保険証を発行しなければならないのです。(p.90)
基本的人権のようなものを考えれば確かに本書の言うことは理に適っているのだが、制度としては「措置」ではなく「保険」制度になっている問題と、まっとうに保険料を払ってきた人と意図的に保険料を払っていない人がいたとして、これらの人が同じ扱いを受けられるとしたら、そこでの公平性はどうなるのか?という問題は残る。本書のような主張を思う存分行うためには、保険ではなく措置にするよう求めるべきだというのが私の見解である。保険である以上は、保険料を払わない場合は多少の不都合があるのもやむを得ないと認める合意が成立しているということではないのか。(なお、払えない場合は減免制度がある。)

7割の保険給付がなかったとしても、10割負担で医療費を払えば医療を受けられるのだから医療へのアクセスが完全に断たれたわけではないということも考慮すべきではないか。むろん、このような考え方は酷だという意見はあり得るだろう。ただ、保険料の支払いを回避し続けてきたような人が、都合が悪くなった時(医療が必要になった時)だけメリットを享受できるような制度が公正だとは私には思えない。一時的な医療の給付を行うのだとすれば、例えば、それ以後の保険料を一般的な保険料よりも重課し続けるなどのペナルティが必要ではないか。(もちろん、加算分は減免制度でも原則として減免されるべきではない。)

保険であることからこうした結論が導かれるのであり、私がより理想的だと考えるのは医療給付を税で賄うやり方であり、もちろん、そのために必要なだけの税を集めるべきだ(さらに言えば、政府全体として予算の全額を税で賄うべきであり、一般会計で言えば税収は50兆円前後ではなく90兆円以上必要だ)と考える。


 条例減免制度は市町村国保であるからこそできるもので、広域化されれば必ず今あるものがなくなります。(p.104)
確かに。都道府県単位化によりこうしたデメリットが生じることは十分にあり得る。