アヴェスターにはこう書いている?
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松尾匡 『この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案』

 そしてこの本では、「アベノミクス」と銘打って遂行されている経済政策もまた、安倍さんの野望実現のための手段だと見ています。もしそうならば、「アベノミクスはお金持ちや財界や金融資本のためにやっていることで、すぐに破綻する」というような見方をしていたら、足をすくわれることになります。選挙のときに最も効果的に好景気になるように、政策のタイミングを計っているとしたらどうでしょうか。(p.6)


同意見であるが、テレビや新聞などではこうした角度からの分析などが非常に少ないように思われ、あまり政治に関心や知識が深くない人にとってはこのことはまだ十分認識されていないように思う。政権の意図を推定することになるためやりにくいという面があるのだろうが、時系列的に政策と経済情勢の変動を追えば(本書が示した通り)そろそろ示すことができる時期になっているはずである。



「左翼」というものは、搾取され虐げられた民衆のためにある勢力だということを忘れてはいけません。新自由主義の緊縮政策に苦しめられてきた民衆が望んでいるのは、政府が民衆のためにおカネを使い、まっとうな雇用をつくりだすことです。その資金は、おカネのあるところから取ればいいし、それでも足りなければ無からつくればいい!それが今、左翼の世界標準として熱狂的に支持されている政策なのです。(p.10)


左派・左翼が誰の利益を擁護する勢力かという点を正しく指摘している。本人が「虐げられている」と思っていなくても、「より権力(政治的権力だけでなく経済的な権力や社会的な権力を含む広義の権力)が小さい側の人々の権利や利益を守るべきだ」というのが左派の基本的な立場だと私も思っている。(もちろん、これとは逆に、「より権力が強い者の利益を守り、強めよう」というのが右翼や保守の立場である。)

私にとって本書の提示する議論が新しかったのは、おカネを無からつくり出す政策を採っても、現在の経済情勢の下では副作用が生じるリスクが低いため望ましいということがはっきりしてきたことであり、欧米の左派的経済政策と日本における経済政策とのズレやねじれがあるという認識である。



 でも、そういえば、世界の名うての大物左派・リベラル派論客が、「アベノミクス」を高く評価するような発言をしていました。アメリカのリベラル派ノーベル賞経済学者のポール・クルーグマンさんやジョセフ・スティグリッツさん、インド出身のノーベル賞経済学者アマルティア・センさん、フランスの人口学者エマニュエル・トッドさん。『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)がベストセラーになったトマ・ピケティさんも、「安倍政権と日銀が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい」と言っています。
 しかし、この本でくわしく見ますが、これらの論客の誰も、「第三の矢」の規制緩和路線や、消費税増税や、「第二の矢」のこれまでのおカネの使い道をほめているわけではないのです。これらの論客が支持しているのは、金融緩和と政府支出の組み合わせという枠組みだけです。(p.10-11)


この枠組みこそ欧米の左派の経済政策の枠組みであり、日本の左派はこの枠組みをさらに推進するよう圧力をかけるとともに、規制緩和路線や消費税増税に反対し、政府支出の使い道を福祉や医療、子育てなどの分野に振り分けるべきだとする。

論理的には非常に説得力があると思うが、正直に言って経済政策についてまともな知識を持たないほとんどの有権者にとってどこまで届くか、ということには不安がある。問題はどのように伝えていくかという所にあるように思われる。



円安は、約2年のラグをおいて、国内生産比率の増大をもたらすということが見て取れます。(p.37)


こうした統計の見方などで本書は参考になる点が多々あった。



 こうして、いわゆるアベノミクス「第一の矢」の金融緩和によって、輸出と設備投資が増加して、もっぱらそれに支えられて景気回復が進められてきたというのが、ここしばらくの動きだったと言えるでしょう。
 その一方で、消費税増税で消費は低迷し、政府支出も緊縮気味になっているために、しっかりした内需に支えられない、弱々しい景気回復になってしまいました。(p.41)


アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものだというわけだ。ただ、私から見て本書の理論に欠けているのは、人口の動きを加味していないところにあるように思われる。総人口または生産年齢人口が減少へ向かっていることが自動的に需要を伸び悩ませる要因の一つであり、全体の経済成長を鈍らせる働きをしている点も加味して説明を行って欲しいところである。



それに、後でもふれますが、世界の景気が悪い中で日本も景気が悪くなったのならば、有権者にはかえって、野党に経済運営を任せるのを恐れる気持ちが働くのが自然です。(p.42)


このあたりのことを考慮に入れると、著者の意見とは若干異なるが、私としては次のように考える。

ある意味ではもはや安倍政権はそれほど景気対策を本気でやらなくてもよい段階に入っているのではないだろうか。メディアに対しては十分に対策を施して(飼い慣らして)おり、よほどの問題がない限り安倍政権が強く叩かれることはない状態となっているため、あとはメディアに攻撃材料を与えないように口封じを続けれいれば、安倍政権としては次の参院選でも勝利は確実と計算しているのではないだろうか。



 官邸のしかける情報戦というものは、政権側に都合よく見える情報を流すものばかりではない、ということに注意しなければならないと思います。政権側は、一方では大衆向けに、ちょっとしたことをとらえては「アベノミクスは成果を上げている」という宣伝情報を流しますが、他方では敵側に「つぶれる、つぶれる」と言わせる作戦も考えていると思います。(p.53-54)


なるほど。この点から見ても、本書の提案するように金融緩和や政府支出が足りないと批判する方が安全な方法だというわけだ。



 これからだんだん説明していきますが、景気拡大が不充分な間は、日銀の緩和マネーで政府支出しても問題は生じません。民間から無理に借金したり増税したりして、わざわざ総需要の足を引っぱる必要はないのです。(p.99)


この件に関する説明が分かりやすくなされていたことが本書から得た大きな収穫だった。

ただ、それらの説明もやや合理主義的すぎる発想が前提されている部分があり、景気のフェイズが変わった時に適切に政策を変えられるかといったところには多少の不安がある(いかにインフレターゲットで定めておくとしても、その時の総裁が著者と同じ考え方であるとは限らない)。



 2017年4月に予定されている消費税10%への引き上げは、確実に景気を後退させる要因なので、安倍さんを攻撃する側にとっては有利な材料です。民主党が消費税引き上げを決めたことをはっきり自己批判して、引き上げ反対の立場に立つならば、支持率は大きく上がることと思います。
 たしかに、将来完全雇用が達成されてインフレ気味の時代が来れば、増税が必要になると思います。しかしそのときも、消費税という手段を使うことは適切な方法とは思えません
 よく言われる、貧しい人ほど負担が大きい「逆進的」と言われる性質があることは、その理由のひとつです。でもそれだけではありません。そもそも消費税で税収をまかなうことの意義が、人々の消費を減らすことにあるからです。(p.221)


この最後の説明は腑に落ちた。論理としては目的論的な面もあるが、この場合は消費が増税分だけ減っているというデータの裏付けもあり、目的と効果が一致しているからである。

少なくとも日本では需要不足が経済の足を引っぱっているものであり、これは今後しばらくの間は変わらないと見るべきである。そうであれば、消費税という手段は適切ではないということになる。例えば所得税や法人税、さらにはピケティが言うような資産課税(富裕税)のような税で累進性を高める手段が適切である。


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平井信義 『続「心の基地」はおかあさん やる気と思いやりを育てる親子実例集』

 「いい子」などという評価はまったくしないのが、私の子育ての方針です。
 「よい子ね」などと言えば、入れ歯を探す行為を「よい子」のすることと思ってしまう恐れがあるからです。この場合、私の困っている状態を思いやってくれること(共感)が、人格形成にとって何よりも大切なのです。
 私は、子どもたちのしてくれたことに対して、「うれしい」とか「助かった」とか、こちらの気持ちを表現することにしています。子どもたちが「よい子」にこだわることのないように――との思いを込めて……。つまり、私はほめるようなことをしないのです。(p.48)


第三者の位置から評価を下すようなことは言わず、子どもと直接向き合って自身の思いを表現するというのは、確かによい方針。子育てに限らず、仕事での部下や後輩の育成などにも使える考え方であると思われる。



強制すれば、形ばかりの「おはよう」を言うようになりますが、それは本心からではないから、本当の「思いやり」が育ってはいないのです。カッコよくやっていて、それがほめられるから、ほめてもらいたいためにしているに過ぎません。いわゆる道徳教育が危険なのは、外側の行動によってほめられるために、内心は育っていかないことにあります。(p.56-57)


内心を育てるには、一つ前の引用文のように「Iメッセージ」で自分の思いを伝えることや自身の「背中を見せる」ことによる感化が必要なのだろう。



 子どもは、散らかすことの専門家です。お母さんに言われなくては片づけをしないし、言われてもなかなかしません。なぜでしょうか。
 それは、片づけは創造性を発揮できるような仕事ではないからで、したがって子どもにとってはつまらない仕事だからです。……(中略)……。子どもは、思春期に入れば、自分の部屋をいろいろと飾ろうとする気持ちが強くなるから、散らかすことも少なくなり、進んで片づけるようになりますから、それを待つことです。
 お母さんのなかにも、片づけが好きでない人が少なくないはずです。では、なぜ片づけをしているのでしょうか。
 ……(中略)……。
 第三には、片づいていれば、気持ちがよいということがあります。これは、子どもにも伝わります。ですから、「片づけなさい!」とどなったり、さらに「自分で散らかしたんだから、全部自分でやりなさい!」などと意地の悪いことを言わないようにしましょう。そして、「お部屋をきれいにしましょう」と声をかけ、お母さんが主役で子どもに手伝ってもらうといいのです。そして、終わったときに、「きれいになって、気持ちがいいね」と喜び合いましょう。そうしているうちに、思春期になれば、進んで自分で片づけ出すのですから……。(p.58-60)


子どもにとって片づけが創造性を発揮できないつまらない仕事であり、だから片づけをしたがらないというのは、なるほどと思わされたところ。そして、ここで示されているようなやり方をきちんと続けていれば、思春期になってある程度自分で片づけるようになる可能性はあると思う。ただ、誰もが思春期になれば片づけるようになるのか、というとそうではないだろう。その点で少し楽観的過ぎる書きぶりが気になったのだが、この点に関するポイントは、親が「片付けなさい」などとイライラしながら命令するようなことを避け、もっと寛大な姿勢でサポートするのが望ましいというところにあるのだろう。

また、片づけは創造性が必要ない仕事だというのも、ほとんどの子どもにとってはそうだと言えそうだが、ものごとの整理は創造性を必要とする技術であって、片づけ一つにしても、効率的に必要なものを取り出せるようなしまい方や片づけ自体に欠ける労力を少なくような収納のあり方を考えるなど、かなり創造性を必要とする分野であるということは強調しておきたい。ただ、子どもにとっては一般にそうした必要性も低いため、関心を引かないというに過ぎない。



 子どもを甘やかすな――と言われますが、それは物質的・金銭的な要求に対してはきちっと制限をしなければならないことを言っているのであり、からだでの甘えは十分に受け入れること、つまり甘やかしてよいのです。それによって、お母さんと子どもとの間の情緒的な結びつきができるからです。(p.68)


分かりやすい整理。



 子どもにとっては、何よりも大切なのは、家庭において「笑い」の多い生活を楽しむことです。それが子どもの情緒を安定させるからです。(p.96)


なるほど。「笑い」の多い生活を楽しむことは、いわば情緒の基層にポジティブなエネルギーを与えることになるわけだ。



 年寄りになると、おもちゃやお金で孫を釣ろうとする人がいます。子どもは、もらったときはニコニコして親しみを示しますが、それはその場かぎりのもので、年寄りと孫の間の情緒的な結びつきはできていません。へたをすると、子どもの物欲・金銭欲ばかりを増大させることになります。(p.105)


金銭的な動機づけと(他者への共感などに基づく)社会的な動機づけは同居できないという指摘があるが、この問題もこれに通じる問題系であるように思われる。



早期教育に対するさまざまな企ての多くが、危険なものです。とくにそれが幼児教育産業に結びついているときに、危険は非常に大きくなります。その理由は、大人の頭が考えたプログラムを子どもに押しつけ、子どもの自発性の発達に、圧力を加えてしまうからです。
 また、早期教育を受けた子どもが、思春期以後にどのような青年になっているかという追跡調査も行われていません。(p.112)


確かに、何らかのプログラムに沿って子どもたちに何かをやらせるようなものはあまり意味はなさそうだ。



どんな立派なレールの上を走らせようとも、子どもの自発性を育てていないかぎり、子どもはどこかで挫折してしまい、その立ち直りには長い期間を要することになります。
 子どもに「自由」を与え、自発性を発達させながら、のびのびと育てていれば、子どもはいつか自分の「個性」を発見し、それを伸ばそうとし始めます。(p.114)


例えば、過干渉されて育った子どもは基本的に親がレールを敷いてしまうことになり、こうした挫折を経験することになるように思われる。子どもにとってはこの挫折からの立ち直りこそ、自発性獲得のための闘いということになる。




デーヴィド・ビーサム 『マックス・ヴェーバーと近代政治理論』(その3)

人民主権の概念を虚構として片づけてしまったために、ヴェーバーはそれを、現実に自己確証的とみなされるべき資質をもつ傑出した一人物に正当性の後光を付与する一手段以外のものとして考えることができなかったのである。
 それゆえ、ヴェーバーが民主主義を論じる場合の概念的枠組の制約の帰結、及び近代社会ではそれが「指導者民主主義」でしかありえないという主張の帰結は、二重である。第一は、民主主義の理論における強調点の一切を、社会の相異なる集団や部分が意思決定に向けてなしうる貢献からそらし、また政治過程への大衆参加の領域を拡大する可能性からそらし、指導者の性格と資質、そして彼のカリスマの「真正さ」へと向けてしまうことである。この点こそが最も重要となる。第二の帰結は、民主主義という名称のもとに、民主主義とはほとんど関係のないものを提示するということである。事実ヴェーバーのいうカリスマ的人物とは、大衆の歓呼を必要とするとはいえ、ヴェーバー自身が認めるように民主的なるものの対立物である。(p.334)


ウェーバーの民主主義論の問題点を捉えているように思われる。様々な社会集団や大衆が参加することで政治的な意思決定を行いうるという点から、ウェーバーの理論は目を逸らし、民主主義ではないものをその名のもとに示している。このやり方は知的誠実性という彼自身の重視する基準や価値自由の考え方に見られるような自らの価値理念を明示する義務から見た場合に問題になり得るだろう。



ヴェーバーがどのような意図をもって純粋に歴史的な研究に携わったにせよ、彼の叙述の一帰結は、資本主義を批判に抗して現在的には正当化することであった。というのも彼の叙述は、第一に利潤に一つの道徳的意義を賦与したからであり、第二に、利益獲得の様々なもっと非難さるべき形態を、近代資本主義の「本質」としてではなくて逸脱として片づけてしまう方途を与えたからである。
 先にヴェーバーの歴史的方法の一問題として、プロテスタンティズムの倫理の因果的意義は、広範な脈絡から抽象したのでは評価が不可能である、ということが論じられた。だがここで重要なのは、むしろヴェーバーの資本主義の精神自体の記述である。この精神こそ彼の研究が説明しようとするものなのである。これが既に、プロテスタンティズムとの結び付きの吟味に先立って、読者に資本家を極めて好意的な光の下に見させる傾向をもつ倫理的な用語で示されている。(p.339)


「倫理」論文の叙述は、(どのような意図で書かれたかとは別に、)結果的に資本主義を正当化するものだという指摘は興味深い。ウェーバーが「近代資本主義」の特徴であるとするのは、道徳的な意義が賦与された利潤獲得であり、それよりも道徳的に劣る方法での利潤獲得は、ことごとく「近代」資本主義ではない、近代資本主義から見れば逸脱したものとして描かれる。

ウェーバーが提示するプロテスタント的な労働倫理は、基本的に保守的な考え方であり、レイシズムを強める効果があるとされているが、ビーサムのここでの指摘もこうした実証的に調べられた結果と適合的である。



ヴェーバーの「理念型」はいずれも絶対的なものとして定義されているのではなく、ただ他のものとの対比という見地からのみ定義されている。これが理念型の論理の重要な点である。(p.365)


なるほど。



ヴェーバーの講演「職業としての政治」は、しばしばそれが何らの背景ももたないかの如くに論じられている。だがそれは、1918-1919年の冬という革命的な諸事件のまっただ中に行なわれたのである。ヴェーバーは、明らかに学生の組織に講演を行なうことを引き請けさせられたのだが、それはまさしく、もし彼が承認しないと学生たちがバイエルンの革命家クルト・アイスナーを招くこととなる、という危機感を抱いたが故に、であった。(p.389)


背景を知ることは重要。



以下、訳者あとがきより。

だが、1964年に行なわれたハイデルベルクにおける「ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」におけるパーソンズ、モムゼン、マルクーゼ等が展開した鋭い緊張に満ちた論争は、ヴェーバーの思想体系が孕む未決の問題群を一挙に露わにし、これまでのヴェーバー研究の相貌をいちじるしく変えていく転機となった。1959年に刊行されたモムゼンの問題作『マックス・ヴェーバーとドイツの政治 1890-1920』が改めて注目されるに至った。これまでのリベラリスト・ヴェーバーに対してナショナリスト・ヴェーバーが、そして、ヴェーバーの思想における合理主義的側面に対して非合理主義的側面が関心の前面に押し出されてきたのである。(p.428)


1964年のシンポは、ウェーバー研究史にとって重要な転換点。これによりウェーバーはより保守的な思想家と見られるようになったようである。



そうしたなかにあって、今日のヴェーバー研究に対して決定的な影響を与えたモムゼンの著作に対して内容的にみてまさにその対重的位置にあると思われるビーサムの著作が必らずしも我が国で十分な評価を得ていないように見えることが、私たちをして本書の邦訳を思い出させた動機の一つである。(p.428)


なるほど。


デーヴィド・ビーサム 『マックス・ヴェーバーと近代政治理論』(その2)

即ち、ドイツとロシアについてのヴェーバーの説明は、しばしば政治的分析の典型的なヴェーバー的アプローチとみなされているものとは、多くの点で異なっており、また、「経済的なもの」からの(特に経済的階級からの)「政治的なもの」の独自性、理念の重要性、政治的な安定や変革を説明する際の正統性の役割、等々といった一般に言われるヴェーバー的な強調がこれらの説明ではほとんど見あたらず、いくつかの点では明瞭に否定すらされている、ということである。そうして、権力の行使とか政治的変革の現象とかの説明にあっては、階級及び階級闘争が主要な特徴とみなされている。(p.256)


興味深い指摘。ウェーバーは実際の政治的評論では、方法論などで強調される点とは異なり、階級及び階級闘争を主要な要因として扱っているという。本書はこのことをそれぞれドイツとロシアについて章立てして詳細に論じているので、それなりに説得力がある史的だと思う。

敢えてウェーバーを擁護するとすれば、政治的変革などの現象は、ブローデル的に言えば事件史の次元で捉えられるものであるが、短期で見ると階級や身分の利害が相対的に大きな力を持つことになるため、仮にウェーバー的アプローチとされる、政治や理念などの重要性は相対的に下がることになるが、「プロ倫」や『世界宗教の経済倫理』のようなものが扱っている歴史は100年やそれ以上のスパンについて叙述しているが、そうした比較的長期の時間で捉える場合には、理念が思われているよりも大きな役割を果たしている、または、役割を果たしていることを確認できるようになる、というように弁護できるかもしれない。もっとも、ウェーバー自身はこうした時間の区分などはしていなかったように思うが…。



即ち、強力な対抗的要因が存在しなければ、産業の利害は国家を支配するであろうし、また近代の大規模資本主義の本性それ自体の中には、必然的に政治的自由に資するようなものは何もない、という点であった。(p.264)


以上の引用文は本書では官僚制に関連した文脈で述べられているのだが、むしろ、冷戦後のグローバル経済では、冷戦時のブレトン・ウッズ体制という対抗的要因がなくなったので(冷戦前のウェーバーが生きた時代のように)経済の利害が各国政府に支配的な影響力を行使できるようになっているし、こうしたグローバル経済には政治的自由に資するものはなくむしろそれを抑圧する傾向があることが重なって読み取れたので興味深いと思ったところ。



 議会制に対するヴェーバーの幻滅の理由の一半は、疑いなく、選挙での彼自身の経験や、ドイツ民主党の選挙候補者名簿に選ばれるのに失敗したことにも因っていた。(p.294)


なるほど。この視点でウェーバーの思想を考えたことはなかった。ウェーバーの政治とのかかわりについて述べるとき、選挙の候補となるよう依頼を受けるほど政治に強い情熱をもっていたといったやや肯定的なイメージで述べられる場合があるが、結局は思い通りに行かなかったというウェーバー本人にとってはむしろ苦い失敗の経験であって、それが議会や議会制に対する否定的な感情を呼び起こすようになったということはあり得る。

本書ではこの要因はあまり大きく捉えるべきではないと考えているようだが、人間の行為は主観的な意図とは全く違うところから起こっており、後から筋違いの意味づけを行なっているものだということや、感情の持つ持続的な効果などの行動経済学の実験で示されていることから考えても、本人が主張する論理から説明するよりも、むしろ、こうした感情面からのアプローチの方が、思想の変化というものは適切に捉えられることが多いのではないか



 ヴォルフガング・モムゼン及び彼にならう幾人かの論者は、ヴェーバーの政治的リーダーシップの理論を、もっぱら、ドイツの大国になろうとする目標の達成という観点から解釈し、彼の理論がこの目標に従属していると見做してきた。だがこの解釈が著しく説明に失敗しているのは、人民投票型のリーダーシップをヴェーバーが強く主張したのはドイツ敗戦の時点より後であった、という点である。この敗戦の時点でヴェーバー自身、彼の国が世界政策的役割を演ずることはもはや不可能であると認めていたのである。この時点では国内の再建という問題こそが主要であった。(p.298)


モムゼンの『マックス・ヴェーバーとドイツ政治1890~1920』に対する興味深い批判。



 このようにヴェーバーの議会制的政府の理論は、エリート主義的要素と自由主義的要素の間のバランスを保とうと試みていたのである。彼の戦後の憲法案の意義は、それがこのバランスをくずしたことにある。人民投票による大統領という図式は、彼が以前力説していた自由主義的な配慮のいくらかのものの腐蝕を伴っていた。とりわけこの図式は、大統領の人事権独占や議会の頭越しに人民に訴える権利、そして彼の好きな時に議会を解散できる権限のために、議会の独立を脅かした。この制度内での唯一の抑制要因は人民自体のうちにおかれていた。だが、ヴェーバーも承知していたに違いないのだが、大統領解任のための国民投票を要求する人民の権利は名目的なものでしかありえなかった。なぜならそうした状況での主導権は、組織されていない大衆の側というよりは、指導者自身の側にあろうからである。人民は、指導者の誤りに際して審判席に着くのではなくして、まず最初に絞首台へと送られるであろう。以上のどの観点から見ても、ヴェーバーの提案は、議会と市民的自由を犠牲に、国家の長への重大な権力移行を包含していたのである。(p.300)


ウェーバーの議会の強化から人民投票的指導者民主主義へと主張が変わったことについて、前者ではエリート主義と自由主義のバランスをとっていたが、後者では自由主義的な要素がほとんど削ぎ落とされてしまったということ。かなり説得力のある議論と思う。




デーヴィド・ビーサム 『マックス・ヴェーバーと近代政治理論』(その1)

だが、『経済と社会』での官僚制の説明は、ヴェーバーの著作に見出されるべき官僚制の三つの異なった側面ないし理論のうちの一つを成すにすぎない。しかも、この説明がヴェーバーの同時代人に対してもった意義すら充分には把握されてきていない。というのも、その背景をなす社会政策学会内での論争が無視されていたからである。ヴェーバーの三つの理論のいずれもが、学会の「保守」派によって採られた官僚制観に反対して構想されたのである。従って、ヴェーバー自身の説明を考察する出発点として、この「保守」派の見解を取りあげるのが適当である。(p.77)


社会政策学会の「保守」派とは、ウェーバーより上の世代の学者であるシュモラーらのことである。また、ここでの官僚制の三つの異なった理論とは、本書によれば、①官僚制は技術的に効率の良い行政手段であるということ、②官僚制は社会内部の一つの独立した力となって、その社会の目標や性格に影響を与えることができるようになるという内在的傾向を持つということ、③官僚制は社会の階級構造を反映するということ、である(p.78-81)。本書によると、こうした見方はいずれも「保守」派の官僚制論を批判するものであったという。

ある思想や理論などを理解する際、それが何をどのように批判して成立してきたかということを理解することが非常に重要な場合があるし、これを理解することでなぜそのようなことを言うのか、ということが理解でき、こうしたことを踏まえないでいるよりも一段深い理解に至ることができることが多い。一人の思想家が書いたテクストを読み解く場合、このように少し視野を広げながら読み解いていくことは重要である。



イギリスとドイツの統治制度の対比はドイツの政治分析の常套であり、イギリスの議会は民主的改革を唱えた人々にとって一つのモデルとして受け容れられた、と言ってよい。その意味では、ヴェーバーの類型論には特に独創的なものは何もなかった。だがヴェーバーは、異なった視覚から接近することによって、この常套手段に新たな光をあてるという独自の方法を用いた。ここでヴェーバーによって強調された議会的政府の特質は、それがより「民主的」だというのではなく、むしろ、それが近代官僚制を統禦しうるようなリーダーシップを発達させるという点にあった。……(中略)……。ヴェーバーの立場の特異性は、彼が、近代の状況のもとでは形式的に民主的な諸制度が力強い政治的リーダーシップの最良の保障をなす、と考えるところにあった。(p.124)


ウェーバーの政治思想の核心に近いところに触れているように思われる。ウェーバーの理想では、「民主的」かどうかといったことはあまり問題とされず、国家や民族の「名誉」であったり、官僚制化に対する「自由」といったことが重視される。ウェーバーがその政治思想において思考が発する出発点は、ひとりひとりの個人ではなく、国家や民族であるという点で、根本的に保守的な立場である。ただ、そのための手段としては、第一次大戦頃までは議会の権限強化という手段を重視していた点でリベラル派と政策的に共通していたというに過ぎない。このように「理想や目的」の次元では根本的に保守的であり、そのための「手段」としてはリベラルな方法によって達成できると考えていたところに、ウェーバーの政治思想の両面価値的な評価、様々な価値観の立場から自らに引き付けた解釈を許す余地があった、と私は今のところ見ている。(もっとも、ウェーバーの政治思想については、改めて関係する諸論文を読み直さなければならないと考えている。)



彼はまた、ブルジョアジーの「赤い幽霊」への恐怖が幻であることを暴露した。その特に有名な例は、1907年にマンハイムで開かれた社会政策学会の会合で彼が行なった発言である。討議の主題は地方自治の制度と行政であったが、話は選挙権の拡大についての議論にまで発展し、拡大の結果として大都市域で社会民主党が権力を握るであろうということに多くの人々の恐怖が表明された。ヴェーバーはそうした恐怖を嘲笑しようとした。彼はこう論じた。社会主義者が官職を得たあかつきには、第一に重要なことの一つは、革命的イデオロギーの担い手たちと、彼らの勢力拡張に物質的利害関心を抱く一群の党支持者との間に対立が現れるだろうということである。真に危機に陥るものは前者であろう。長期的にみて、都市や国家を征服するのは社会民主主義なのではなく、むしろ国家の方が社会民主主義を征服するであろう。(p.209)


90年代の日本で社会党が政権与党に入ったことによって生じた現象を言い当てているように思われる。私見では、例えば、社会的弱者や個人の権利を擁護することと政権を運営していくことの間にはどうしても矛盾がある。すべての人をひとり残らず同じ程度だけ満足させることはできない。このため弱者や権利を擁護する立場の者が権力を握った場合、この矛盾がより大きく表れてしまう。ここに左派・リベラル派が権力を握った後の運営の難しさがあるように思われる。

(もちろん、だからと言って保守的な立場の者が政権につくことが望ましいとは全く思わない。安倍政権の集団的自衛権に関する閣議決定や法制化に見られるように、権力濫用の懸念が大きいことや社会全体にとっての有益性よりも一部の特権階級的な人々の短期的な利益に沿った利益誘導、例えば法人税の減税と消費税の増税や、震災復興の最中に東京オリンピックの招致をして復興のための資源を奪ってしまうことなどによって社会全体としてのバランスが崩れるため結果として悪い結果になることが多いと思われるため。私の見るところ、「保守」は強い者をより強くしようとするため、彼らの望む何をやってもバランスが崩れることになる。)




 この倫理の二類型を区別するなかで、ヴェーバーは政治的道徳性の普遍的な問題を強調してはいるが、その論争的な目的と背景とは明白である。この区別は、彼の政治的敵対者たちを非政治的な一範疇へと追放するのに有用な案出物であった。この範疇でみれば、彼らが自己矛盾にとらわれていることを示しうる、つまり彼らが、本質的に現世外指向の態度によって現世内の目的を達成しようと試みていた、というのである。(p.220)


ここでの倫理の二類型とは、もちろん、あの有名な「心情倫理」と「責任倫理」のことである。ビーサムによれば、ウェーバーは政治を行うには責任倫理がふさわしく、心情倫理はふさわしくないと考えているとした上で、上記の議論を展開している。心情倫理によって行動している人々は、政治に相応しくないとすることができる区分であるというわけだ。

心情倫理と責任倫理という概念はいろいろな解釈がされてきていると思うが、さすがに本書は70年代の著作ということもあり、このあたりの理解は単純になされているという感はある。ただ、確かにこのような使い方をされている節はあり、ウェーバーの主観的意図に沿った説明にはなっているのではないかと思える。

ただ、ウェーバーは理念型を構成する場合、批判に耐えられるように流動性を持たせたりするので、そのことがこれら二つの倫理の関係を複雑にしており、後世の研究者たちの頭を悩ませているのではないか、という気がする。(例えば、理想的な責任倫理的立場では心情倫理の要素も求められており、これらは単純な2項対立ではないという理解も可能であり、私もそのように理解している面もある。つまり、論理的には双方の良いところが組み合わされることで理想的な倫理になるように構成されているが、実際に概念が使用されている場面では本書のような仕方で使われているのではないか。特に後段の部分についてウェーバーのテクストに立ち返って検証しなおしてみたい。)



 ヴェーバーの議論は、社会主義者を、真の政治家ならば含まれない一範疇に入れようとした。彼らが、恐らくは情熱はあろうが、見透しをもたぬ人々であったから。彼の議論の弱点は、それが、政治的行為の結果〔の評価〕についての相違、つまり長期的な効果と短期的な効果のいずれが考慮されるべきかについての相違としても示すことのできるものを、道徳的範疇の差異として示したことであった。……(中略)……。ヴェーバーは、彼の敵対者たちが自らの魂の救済よりもむしろ現世内での成果について真剣に考えるのであれば、彼らは結果に関する経済的議論の地盤に立つべきだ、と主張した点では正しかった。しかし、その結果については正しい見解がただ一つしかありえないかの如くに語った点で彼は誤っていた。(p.222)


これは一つ前の引用文で問題にされていた心情倫理と責任倫理の対比に関する考察の続きだが、鋭い批判だと思う。

ウェーバーが責任倫理の重要性を主張するとき、確かに、正しい見通しが一つしかないかのように語っているという印象が強い。しかし、結果に対する見通しは、どのような要素を考慮に入れるか、また、どの程度の時間軸で考えるか、といったことにより様々な結論が導かれるはずであるにも関わらず、この点に関してウェーバーのテクストでもあまり突っ込んだ議論が展開されていないように思われる。従って、引用文の批判は、ウェーバーの二つの倫理を巡る議論が学問的にみると不十分であることを示す、かなり強力な批判になっている。

とはいえ、「責任倫理」というカテゴリーを示すことによって、政治などのような重大な決定を下す際には、結果に対する考慮を重視せよというメッセージを発することはできている。「責任倫理」という概念は、教育的な意味がある概念であり、ウェーバーの議論を参考にして鍛え上げていく価値があると思う。


ユルゲン・コッカ 『〔新版〕ヴェーバー論争』

まず、フーフナーゲルが浩瀚な文献的知識に依って明らかにしているように、ヴェーバーは彼の「理念型」概念を決して十全かつ体系的に説明したことはなく、それ以来理念型には、高度の――ある人には厄介な、他の人には「可能性豊かな」――「両義性(アンビヴァレンツ)」がつきまとっている。次に、モムゼンが明確に示した如く、マックス・ヴェーバーの理念型理解はいくつかの段階を経てきた。後期ヴェーバーの理念型は、「プロテスタンティズム」論文や「客観性」論文の理念型と較べると、現代の社会科学者・行動科学者のつかう一般命題により近似していると言えるのではなかろうか。(p.33)


理念型理解がいくつかの段階を経たというのは、「十全かつ体系的に説明したこと」がないのであれば、単に揺れ動きがあるだけ、という可能性もあるように思われる。今後、モムゼンの本も何冊か代表的なものは押さえておきたいと考えている。



一方でヴェーバーの徹底した

「価値の不可知論」

、つまり価値と行為目標に関する理性的な討論の断念、そしてこの問題をもっぱら闘争と決断の領域に放っておこうとすることは、民主主義概念のこうした危険な形式化へ、議会制の道具化へ、そうして(行政がますます目的合理性を増してゆくなかで)政治的な〔意思〕決定過程の形骸化、いやまさにその非合理化へと導いた。(p.40)


このあたりの指摘は、サンデルがリベラリズムの中立性の要請を批判しているのと同じ論点と思われる。



もしも――グスタフ・シュミットが明らかにしたように――人民投票的指導者民主主義の諸要素へのヴェーバーと同様な共感が――他の面では、価値の問題性に関するヴェーバーの見解も、「官僚制的凍死」に対する彼の懊悩もほとんど分かち持ってはいなかった――マイネッケやトレルチにおいても見出せるならば、かのヴェーバーの提案を、モムゼンが行っているようにひたすらヴェーバーの思想全体の傾向から説明しようとするのは正しいかどうかが問われることとなる。(p.42)


なるほど。



近代的官僚制と経営の革新能力は、ヴェーバーにとって(他には例えばシュンペーターによっても)著しく過小評価されていたようである。これは社会的変動に関する彼のモデルの弱点を示している。彼のモデルでは――イデオロギー的な倍音を少しく含んで――変化の運動法があまりにも偉大な人間個性――経済の領域でいうと、企業者個人の資質――につなぎ留められている。(p.55)


伝統的支配や合法的支配のもつ硬直的というか変化に抵抗する局面をカリスマ的支配によって打破するというモデルになりやすい。ウェーバーの理論では、社会変動について説明する道具立てが不足している



 この半世紀の発展は、いったいヴェーバーの社会硬直化という予測を確証しているであろうか?政治、経済及び文化における偉大な独一の個性をもった人間の役割が疑いなく減少したにもかかわらず、変動はますます急速かつ全般的となっている、と少なからず確実に論じられるのではないか?このことは再度、こうした諸々の変貌とスピードアップとを説明することも予測することもなかった彼の社会変動モデルの弱点を示している。(p.55)


ウェーバーの社会変動モデルに対する鋭い批判。



 最後に、ヴェーバーのとった態度や彼のなした定式化の多くを、彼が論争し、抗議を行なっていた当時の状況から理解すべきではないか、という問題が吟味されるべきであろう。彼は、不断の闘争と評価の分析に対する独立性というテーゼを、彼の基本的な傾向に適切であった以上のものにまでしてしまったのではなかったか?というのも、固有の政治的立場の隠蔽のために専門知識を濫用することに対して、彼は徹底した反対の意を表していたからである。彼はまた恐らくは、認識を導く観点の、研究対象の構造からの、実際にはただ相対的でしかない独立性を――彼の確信に照らしてみると正当であったものの度を越えて――強調しすぎたのではないか?というのも彼は、客観主義者たちに対して、認識論の領域における素朴さや独断主義に対して、論争的に議論していたからであり、また彼の学問論は、論争的な個別論文の一集成だからである。彼はおそらく、その立憲政治の諸提案の中で、多くのリベラルで民主主義的な、反権威主義的な、また反情念的な保証――そんなものへの言及など当時の具体的な状況裡にあっては何ら論争的な機能を持たなかったであろう――については、この保証が、多分彼の基本的な立場の帰結にあったのであろうが、いや彼にはこんな保証などおそらくは明々白々と思われていたにせよ、彼は黙殺したのではないか?このような考察は、ヴェーバーの著作における亀裂を取り除くことはないが、それでも次のことの助けとはなりうるであろう。まずその亀裂を理解すること、そうして、〔論者による〕多くの定式化が有する論争上の一面性について、強調されることが余りに少なかったそれの対重局面を見逃すようなことからヴェーバー解釈を救うこと、である。この対重局面は、ヴェーバーの立場を〔従来の解釈と〕全く同等に刻印づけているのである。(p.56-57)


ウェーバーの議論の論争的な性格が、様々な定式化を一面的なものとしており、ウェーバー本人の考え方を正しく表現していないところがあるとコッカは見ている。論争的に書くことで一面性が高まるというのは確かにありがちなことであり、ウェーバーに限らず一般にテクストを読む際には、発言の相手や文脈を踏まえて読み解くことは、テクストのより深い理解のためには重要



トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その3)

 今回の一件は、報道機関の資金源と独立性という大きな問題も投げかけている。2007年にレ・ゼコーの記者たちは、ベルナール・アルノー率いるLVMHグループに買収を仕掛けられて抵抗した経緯がある。彼らは当然ながら、自分たちの独立性が脅かされるのではないかと懸念し、多数の署名を集めて差し止めを陳情した――が、無駄だった。こうしたわけで2007年以降、フランス最大の経済日刊紙はフランス最大の富豪の所有に帰している。同紙は、現政権が支持する案件を好意的に報じる傾向が次第にあからさまになっているが、それが買収と関係があるかどうかは、筆者の知るところではない。しかし、国民運動連合(UMP)の上院議員で資産家のセルジュ・ダッソーが所有するル・フィガロ紙を読んでいて、ほとんど政府の広報紙だと感じたことはある。あるいはレ・ゼコーの記者たちは、購買者の利益を守ろうとしているだけだが、その購読者自身が次第に世間一般から乖離してきたのだろうか。いずれにせよ、多くの記者が示すこの変身ぶりは、民主主義にとって憂慮すべきことである。(p.276-277)


ピケティが指摘する格差の拡大、超富裕層の経済的な権力が増大することが、政治的な民主性も腐食させていく。マスメディアに圧力をかけていくこと(ここで述べられているような資金源を押さえるというやり方のほか、昨今の日本での総務相などの電波停止発言などによる威嚇や公共放送のトップに政権に近い立場の人物を送り込んでコントロールしようとすることなど)で権力の監視という機能を果たせないようにしていく流れは、日本だけではなくフランスでも進んでいるということがよく分かる記事であった。



というのも保護主義は、警察と同じで、基本的に抑止力にとどまるべきものだからだ。国はこれを奥の手としてとっておくが、利益の源泉とはしない(p.291)


なるほど。あまり考えたことがない発想に触れるのは面白い。



度を超した高所得に歯止めをかけられるのは税金という武器しかない(p.311)


名言。高所得者への累進課税は徹底的に行うのが望ましい。



アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)が、ワイオミング州債かテキサス州債のどちらを買い入れるか毎朝選んでいたら、安定的な金融政策を実行することはむずかしい。欧州中央銀行(ECB)はこれに類したばかげた状況に置かれている以上、金融の安定化に十分な役割を果たすことはできない。(p.312)


ピケティは本書で繰り返し「欧州共同債」の創設を提唱しているが、その必要性の一端について最も分かりやすい例で示している箇所。



 フランスでは黒人団体代表委員会(CRAN)が2005年に結成され、フランス預金供託公庫(さきほどの「貢ぎ物」を運営したとされる)を訴えて係争中だ。ただし彼らは個人賠償を求めているのではない。賠償金は徹底的な調査と記念館(たとえばリヴァプールにある国際奴隷貿易博物館のような)の建設に充て、問題の全容を広く知らしめるために使うという。そのためには、問題全体の解明を任務とする委員会を設置する必要があろう。(p.354-355)


植民地支配や戦争犯罪などに関連する償いの方法として参考にすべき考え方が含まれている。



 まことに嘆かわしいことだが、フランスの高等教育は全体としてかなり貧しいので、さほど大金を注ぎ込まなくとも大きなちがいを生み出すことが可能だ。どのくらい貧しいかと言うと、フランスの高等教育・研究予算は、2007年には110億ユーロ足らずで、2013年にようやく120億ユーロに届いたのである。この間のインフレを考えれば、実質的には横這いである。一方、世界各国の大学は、有力な教授を引き抜き、寄付金を精力的に集めるなどして力強く成長を続けており、フランスから少なからぬ技術者、研究者、学生を呼び込んでいる。これでは、もともとあった差が開くばかりだ。
 この120億ユーロという金額は、大学その他の高等教育機関・研究所に割り当てられる予算の総額(給与、運営、設備投資)であることに注意されたい。この金額は、GDP(約2兆ユーロ)の0.5%をすこし上回る程度にすぎない。また政府支出(GDPの約半分、すなわち1兆ユーロ)に占める割合は1%ということになる。(p.371-372)


日本の教育予算の低さを考えると、フランスでこんなに嘆くのは嘆きすぎじゃないかと思えるほどだが、ピケティが日本の教育予算を見たら、どのようなコメントをするのか興味を惹かれるところだ。



 フランスでは、高校卒業時の試験でバカロレア(大学入学資格)をとっていれば、全国の国立大学に原則としてどこにでも入学できる(グランゼコールは別)。バカロレアの合格率は70%前後に達する。大学進学率が高まる一方で、教員採用とも関連するが大学の定員数が増えていないため、定員オーバー状態が続いている大学進学者の半数以上が途中でドロップアウトするという。(p.373)


これは訳者らによる注だが、フランスの大学の状況は日本とは大きく異なっており興味深い。進学者の半数以上がドロップアウトするというのは、欧米の大学は入学より卒業の方が難しいと言われるが、それが文字どおりのことだと分かり興味深い。中学生レベルの学力でも入学でき(偏差値40前後の大学の学力レベルはこのくらいである)、入学してしまえばよほどのことがない限り卒業できないなどということがない日本の大学を考えると、欧米並みに厳しい卒業の基準を設けることも必要なのではないかという気がする。



フランスの高校は公立が圧倒的に多く、公立に進む場合には入学選抜試験はない。パリの場合、中学の成績と本人の希望(第八希望ぐらいまで出すようである)に応じてコンピュータ・ソフトで振り分けられる。第一ラウンドで希望校に行けない場合、第二ラウンドで空きのある高校に振り分けられる。(p.379)


これも訳者による注だが、非常に驚いた。入学試験がなくコンピュータで振り分けられるとは…。まぁ、中学の成績が参照されているのだから、それほど大きく間違った選択はされないのだろうが、中学校ごとに成績の平準化などはできるようになっているのだろうか?共通のテストなどで学力を測定しているのだろうか?などなど、いろいろと気になる。



フランスの経済モデルは、毎年生み出される富の約半分を税金や社会保険料などさまざまな拠出金の形で共有し、国民全員が恩恵を受けるインフラ、公共サービス、国防に充当することで成り立っている。払う側と受け取る側というものはない。誰もが払い、誰もが受け取る。(p.389)


税や社会保険料について、簡潔に、かつ力強く、その意義を表現しており印象的である。今の日本に、こうした当たり前のことを十分に理解している人がどれほどいるだろうか?税の問題については、世間に正しい理解が広まることが是非とも必要である。