アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その2)

 ここで忘れてはならないのは、企業が払う税金というものは存在しないことだ。どんな税も、払うのは必ず個人である。残念ながら現世で税金を払えるのは、生身の人間しかいない。なるほど形の上では企業に納税義務があり、小切手を国税庁に送ることになっている。しかし最終的に払うのは個人だ――つまり、企業は払った分を必ず取り返す従業員から(給与を減らす)、株主から(配当を減らす、株主資本を積み上げない)、消費者から(販売価格を引き上げる)、取り戻すのである。(p.187)


法人に対する課税で忘れられがちなポイント。

この点に着目すると、最近20年ほどの間、法人税が年々引き下げられてきたが、その分は、従業員に給与を上げる、株主に配当を増やす、株主資本を積み上げる、消費者に価格を下げる、といった仕方で還元されていることになる。株主や経営者という少数の持てる者に利益を還元し、従業員や消費者にはあまり還元されていないことを問題視すべきではないか。そして、政府は法人税を下げた分、消費税を増税することで税収の穴埋めをしてきたのであり、これは株主や経営者という金持ちが潤った分を一般の消費者(上のカテゴリーで言えば従業員ともほぼ重なる)に負担を負わせてきたことを意味する。



 悲しいかな、税というゲームは、弱い者がまず勝てないようにできている。(p.188)


確かに。弱者が身を守るためには、せめて知識の力が必要。



 無策で選挙に勝つことは可能か――もちろんである。選挙の歴史をひもとくと、そうした例は枚挙にいとまがない。大衆を熱狂させる公約のおかげではなく、単に敵の失敗や対立候補に対する嫌悪感から勝利を収めた政党はいくらでもある。問題は、有権者がいずれその代償を払わねばならないことだ。(p.194)


策がある政党が勝った場合でも、その内容が酷い場合、有権者は結局代償を払う必要が生じてしまう。安倍政権の成立(第一次も第二次も)はまさにこれに該当する。



 ご存知のとおり、ヨーロッパ最大の銀行BNPパリバが、2009年度に80億ユーロの利益を計上した。これまで最高だった2007年度を抜いて史上最高益だという。それがどうした、という読者もおられるかもしれない。銀行が倒産するより儲かっているほうがいいだろう、と。たしかに。
 だが、この巨額の利益がどこから来たのかを探ってみても悪くはあるまい。ヨーロッパの上位10行の2009年度の利益を合計すると、500億ユーロ近くになる。ここにアメリカの上位10行を加えると、1000億ユーロだ。欧米いずれも2009年は不況だったというのに、なぜこれほどの利益を上げられたのだろうか。理由ははっきりしている。金融危機の際に、中央銀行は超低金利で民間銀行に融資した。それを民間銀行はずっと高い金利で貸した、ということだ。貸した相手と言えば――個人、企業、そして国である。(p.205-206)


個人、企業、そして政府から銀行が金を巻き上げている。中央銀行の金融政策がそれを可能にしている。



税のダンピングに基づく成長戦略は失敗するに決まっているし、隣国にとっても有害だからである。重要なのはEUが主導権を握り、金融安定化と引き換えに、不当に低い税率を打ち切らせることだ。……(中略)……。
 ヨーロッパではどの国でも、政府税収と社会保険料収入がGDPの30~40%に達しており、これでインフラ整備や公共サービス(学校、病院など)、社会保障(失業保険、年金など)をまかなっている。法人税を12.5%という低水準に設定すると、こうした社会的な事業が回らなくなる労働所得に重税をかければ話は別だが、それは正当でも効率的でもないし、失業者を増やすだけだ。
 はっきり言おう。隣国との取引でゆたかになった国が、次には隣国の課税ベースを横取りするとしたら、これは市場経済や自由主義の原則とは何の関係もない。ただの泥棒である。そして盗まれた当人が無条件で泥棒に金を貸してやるとしたら、これは愚行である。
 さらに悪いことに、ダンピングは、それをする当の小国にとっても有害である。要するに軍拡競争と同じで、負の連鎖に陥ってしまう。アイルランドが低い法人税を維持するなら、ポーランドも、エストニアも……ということになる。このばかげたゼロサムゲームに終止符を打てるのは、EUしかいない。(p.234-236)


同意見である。課税ベースの奪い合いは自由主義の原則とは関係がなく、泥棒だという評価は興味深い。


スポンサーサイト
トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その1)

 サッチャーの首相就任と傾きかけた国を救ったとされる数々の改革から四半世紀が過ぎた現在、イギリスは生産性の低い国に成り下がっており(生産性格差はいっこうに縮まる気配がない)、他の先進国と肩を並べるために貧しい国のとる方策、すなわち税のダンピングと長時間労働に頼らざるを得なくなっている。イギリスの労働人口の生産性が低いのは、教育制度に投じる予算が少ないことと、貴族政治時代を引きずる顕著な階層化に大きな原因がある。(p.49-50)


サッチャーの新自由主義政策の帰結に対する的確な批判。なお、税のダンピングと長時間労働という方策に追い込まれているのは、日本も同じである。



また、候補者選びをぎりぎりまで先送りすることの弊害も、改めて浮き彫りになった。候補者がなかなか決まらないと、一般受けする政策を打ち出す傾向が強まり、まともな議論ができなくなってしまう。(p.77)


なるほど。



 フリードマンが経済学の研究から導き出した政治的な結論は、やはりイデオロギーを免れていない。「よい中央銀行」があればよいと言うなら、「よい福祉国家」があってもよかったはずだし、おそらく後者のほうがよいではないか。とは言え、フリードマンの重厚な研究が、20世紀で最も深刻な危機を巡る当時のコンセンサスに疑義を提出したことはまちがいないし、あのみごとな研究に裏付けられていたからこそ、彼のメッセージはあれほどの影響力を持ったのである。(p.84)


ミルトン・フリードマンに対する批判。イデオロギーであるという指摘は妥当。また、見事な研究の裏付けがあればこそ、あれだけの影響力に繋がったという指摘はなるほどと思わされた。ピケティが注目されるようになったのも、同じく見事な実証的な研究の裏付けがあればこそという点では同じだろう。その意味で、フリードマンとピケティは意外と似たところがあるのかもしれない。



 税のダンピングに基づく成長戦略は、多くの小国が採用しているが、必ず悲惨な結果につながる。アイルランドに続けとばかり多くの国が同じ道をたどっており、もはや抜けられない状況だ。いまではおおかたの東欧諸国が、法人税率を10%程度に設定している。2008年には、コンピュータ大手のデルがアイルランドの生産拠点を閉鎖してポーランドに移転すると発表し、アイルランドにパニックを引き起こした。
 外国資本への過度の依存に伴う代償は、これだけではない。アイルランドのような国は、毎年GDPの約20%を利益や配当の形で、工場や本社の外国人所有者や株主に支払っている。このため、アイルランド国民が自由に使える国民総生産(GNP)は、国内総生産(GDP)より20%も少ない。(p.166)


グローバル経済の下で、法人税のダンピングが行われているが、これがまともな成果を挙げないことを指摘している。まず、税のダンピングをすると税収が下がり、国内で生活している人々に対する行政サービスの面で支障が出る。とくに社会的な弱者ほど打撃が大きい。もし、行政サービスの切り下げが行われないとすれば国債等が増発される。この場合、返済を通じて低所得層が高所得層に所得移転を行うことになる。ピケティが指摘しているのは、こうした直接的なデメリットがありながらも、この方針を転換できなくさせられてしまうという点であり、自由に変更することができなくなる点である。

そして、外国から資本を呼び込むことに成功しても、富は国内の住人ではなく出資する側へと吸い上げられる。これもやめることができない。

重要な論点である。




国民所得は、一国の国民が実際に自由に使える所得の総額を計測する指標であり、経済活動の中心にある「人間」に注目した数字だと言える。一方GDPには、「栄光の30年」と呼ばれた経済成長期(1945~75年)の生産至上主義が反映されている。
 言い換えれば、GDPは、工業製品をどんどん買い込むことが人生の目的と化し、そのためには生産を増やせばよいと考えらえていた時代の名残なのである。いまはもうそういう時代ではない。したがって、国民所得に回帰すべき時が来たと考えられる。(p.181-182)


GDPではなく、国民所得を経済活動の指標とすべきという。



すなわち、一国の中で生産されたモノやサービスだけを計測し、その最終目的地は考慮しないので、他国に送られる利益もGDPに含まれている。たとえば、企業や生産資本の大半を外国人株主が所有しているような国では、GDPは大きくても、国外に送られる利益を差し引いた国民所得はきわめて小さくなる。(p.183)


アイルランドを例にして2つ前の引用文で述べられていること。



高史明 『レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット』

 コリアンについてなされるツイートの多くはネガティブであるが、その少なくない分量はプレゼンスが極端に高い少数の差別的なアカウントによってなされていた。ソーシャル・メディアでの差別的な言説の広まりを考えるとき、こうした差別扇動家の役割は、けっして軽視できないものであろう。また、もしもTwitterのようなプラットフォーム各社が差別的な言説を抑止しようと考えるのであれば、このようなプレゼンスが極端に高いアカウントを重点的に管理すれば、労力に比して大きな成果を挙げることができるだろう。Twitterであれば、コリアンについての発言数が上位25件までのアカウントに制限を加えるだけで、差別的な投稿の流通量を10.1%も減じることができ、しかもこれらは閲覧者数が非常に多いものである。対象を上位200位まで拡げれば、21.4%を減じることができる。(p.47)


ヘイトスピーチを禁止するという動きが徐々に出始めているが、ネット上でも発言を規制するようにしていくことができれば、巷でのヘイトスピーチを行う側のデモを規制するよりも容易に、かつ、そのようなものに発展する手前の段階で防止することができることがわかる。この論文では、プラットフォームの運営主体が規制するものと前提しているが、私見ではむしろ法令でもこうした発言を禁じ、プラットフォーム各社にもそうしたものを掲載させないよう規定し、それを受けてプラットフォーム各社が削除やアカウント停止などの対応を行うようにすればよいと考える。

但し、ヘイトスピーチの規制をする場合、権力側がそれを悪用して政権への批判を行う者を規制することには絶対に活用できないように厳重な設計をする必要があるとも考える。



近年の日本で古典的レイシズムに属する“古い”偏見が盛んに表出されているのは、それに先行して“在日特権”言説が広まったことを受けてのものであるのかもしれない。(p.62)


本論文ではこのことを証明はしていないのであるが、排外主義や差別主義が、「漠然とした不満感」(そこに由来する「誤った自己認識」としての被害者意識)を心理的な出発点にしているとすると、「漠然とした不満感」は「在日特権」言説を「発見」することにより被害者意識としての自己規定を持つことができることになる。そして、こうした考え方が広まり、漠然と目にする人が増えることにより、コリアンに対する否定的な評価の刷り込みがわずかずつでも行われるとすれば、この引用文で書かれているような事態も十分あり得るように思う。



その特徴とは“レイシズムは悪いことだが、レイシズムというのは黒人の知能その他の特性についての偏見を持つことと、人種分離や差別政策を支持することであって、単なる事実の摘示はレイシズムではない”、という認知があり、したがって現代的レイシズムの持ち主は自身をレイシストだとは考えないというものである。本研究は、現代的レイシズムがこのような“免罪符”の効果により受容・表出されやすいことを直接示したものではないが、現代的レイシズムの方が強く示されるということは、指摘しておく必要がある。なお、現代レイシズムが単なる事実の摘示に留まらないことは、研究5において示す。
 また、二つのレイシズムを測定する尺度はともに感情温度との間に中程度の相関を持つことから、併存的妥当性が示された。ただし、その相関は古典的レイシズムにおいてより強く、古典的レイシズムの方が感情の比重が大きく現代的レイシズムの方が認知的要素の比重が大きいとしたマコナヒー(McConahay,1986)の分析は、在日コリアンに対するレイシズムでも確かめられたことになる。(p.99)


古典的レイシズムと現代的レイシズムと感情温度という本書が用いる3つの尺度の関係について、このあたりの叙述を読んだ後、それまでよりも容易に捉えられるようになった。



オルポートは、アドルノら(Adorno, Frenkel-Brunswik, Levinson,& Sanford, 1950)を引用し、レイシズムの持ち主は、たとえ相互に矛盾しているものであっても、その否定的態度と整合するような信念・態度を、同時に肯定することがあるとしている。(p.102-103)


評価が先立ってしまうことにより、整合性よりも、自身の下したい評価に適合する認識をその都度採用してしまう。



プロテスタント的労働倫理は、勤労と節制、自助を重んじる価値観である。その資本主義の成立における重要性を初めて指摘したのはヴェーバー(Weber,1905/1920,大塚久雄訳 1980)であるが、ミレルズとギャレット(Mirels & Garrett, 1971)がその測定尺度を作成した後、様々な価値観や政治的態度(e.g., Feather, 1984)、行動(e.g., Greenberg, 1978)との関連が明らかにされてきた。(p.104)


心理学の分野でもウェーバーの業績を活用した事例があるとは知らなかったので、少し驚いた。



 このプロテスタント的労働倫理はレイシズムを強める方向に働くのだが(Katz & Hass, 1988)、古典的レイシズム/現代的レイシズムに関する直接の検討はスイムら(Swim et al., 1995)が行っている。この研究においては、プロテスタント的労働倫理は現代的レイシズムだけでなく古典的レイシズムも強める効果があった。その理由として、現代的レイシズムにおいては、このレイシズムがネガティブな感情と黒人が自助、節制、勤労などの倫理に抵触しているという認知との混合物である(Kinder & Sears, 1981; McConahay & Hough, 1976)ためと考えられるのだが、古典的レイシズムにおいては、プロテスタント的労働倫理が強いほど黒人の不利な状況を彼ら自身の劣等性に帰属しやすいことが関わっているのではないかと考えられる。(p.105-106)


プロテスタンィズムの労働倫理がレイシズムを強める方向に働くということが心理学の世界では示されていたとは!ウェーバー自身、ポーランド人に対して排外主義的で民族差別なナショナリズムを強く持っていたということが想起される。



すなわち、人道主義-平等主義は、よく知られていない、したがって特定の信念に基づいた偏見の対象ではない他者――おそらくアイヌなど――に対するネガティブな態度も、緩和する可能性があるということである。(p.118)


人道主義-平等主義は、レイシズムを緩和する効果があることがこの研究でも確かめられたことを受けての指摘。人道主義-平等主義は、確かに(本書がすでに指摘していることだが)マイノリティや弱者への共感を促すものでもあるが、もしかすると、サンデルからは「負荷なき自己」として批判されたリベラリズム的な人間観もレイシズムから遠ざからせる認知の仕方であるように思われ、こうした経路もあるとしたら更に興味深い。



 なお、生活保護受給者の1000人に100人が在日コリアンであるという中央値は、厚生労働省(2013)より計算可能な19人という数値に比べて五倍以上高く、こうした誤った信念をもとに在日外国人の社会保障についての議論がなされていることも、憂慮すべき事態である。(p.120)


同感である。



アドルノらはパーソナリティ特性として権威主義を考案したのだが、より一般的な傾性であるパーソナリティと、より個別的な態度との間にある、イデオロギーの次元として捉える方が有益である(Duckitt, 2001)。(p.124)


なるほど。権威主義をパーソナリティではなくイデオロギーとして捉える方が理念型的な使い方がしやすくなる気がする。



平井信義 『「心の基地」はおかあさん やる気と思いやりを育てる親子実例集』

 「いたずら」というのは、自発性にもとづく好奇心の現れです。……(中略)……。
 ……(中略)……。「いたずら」は自発性のある「よい子」の姿ですから、絶対に叱ったり叩いたりするような「悪い」ことではないのです。悪い行動であれば叱る必要がありますが「よい行動」ですから、「いたずら」は大いに許容してあげたいわけです。(p.14)


「いたずら」は自発性にもとづく「よい行動」であるということが、本書では繰り返し述べられる。この見方は、子育てにおいて非常に重要であり、何も知らずにいると大人側の都合で禁止してしまいがちな問題であるが故になおさら知っておく価値がある考え方であると思われる。



また、屑籠を散らかしたり、ティッシュペーパーを引き出すような「いたずら」はそのまま大目に見ていてよいのです。散らかしたあとは片づければよいし、ティッシュペーパーはビニール袋にでも入れて溜めておけば、ちゃんと使えます。しかも、赤ちゃんの好奇心が満たされてその実態がわかれば、このような「いたずら」は二、三ヵ月でしなくなってしまいます。私は、それを、発達課題を卒業した――と言っています。そして、もっと複雑な「いたずら」へと挑戦するようになっていきます。三歳までが、親たちにとって困るような「いたずら」が多いので、私はこの時期を「いたずら時代」と名づけました。(p.16)


なるほど。卒業するまで(危険のないような「いたずら」は)大目に見ておけば、自ずと卒業してしなくなる、というわけか。なかなかそこまで大らかに待つということはできない親が多いように思うが、発達の様子を見守りながら「待つ」というのは、子育てにおいても(仕事などで後輩や部下の育成においても)共通する重要な姿勢なのではないか、と思う。

個人的には、このときに「諭す」ことが必要か否かという判断が難しいと思っている。



子どもは、以前に失敗した困難に意欲的に挑戦して、それに成功したときには、強い自信をもちますし、さらに意欲がさかんになります。「やった!」というわけです。その点で、お母さんが子どもに失敗をさせないように気を配って、先がけてやってしまっていますと、これが過保護という育て方になっていますから、自信のない子どもになってしまい、何かにつけて「やって!」と言い、依存心の強い子どもに育ってしまいます。自発性の発達を阻害するのは、過保護に育てたお母さんやそのほかの家族の責任です。(p.20)


この点はしばしば指摘されることだが、やってみるとなかなか難しい点でもある。最近のように子供の数が少ないとなおさらであると思われる。



 子どもに「自由」を与えるということは、子どもに「まかせること」ですし、子どもに責任をもってもらうことにつながります。子どもは自分の力で(自発的に)何とか行動しなければならないからです。どうしてよいかわからないこともあるでしょう。困難に挑戦しなければならないこともあるでしょう。あるいは失敗を重ねることもあるでしょう。それらを自分の力で解決したときに、成功感を味わうとともに、責任感もまた育ってくるのです。子どもたちは、親たちに「まかされる」ことによって、責任感の強い子どもになるのです。ですから、お母さんもお父さんも「無言の行」をぜひ実行して下さい。初めに、それを子どもに宣言しておくとよいでしょう。
 「無言の行」を始めてみますと、自発性の発達のおくれている子どもは、すでに述べたように(28ページ参照)、ぶらぶらと過ごす状態が現れます。その姿を見ていると、お母さんはいらいらしてきます。……(中略)……。「無言の行」は、なかなかつらい修業ですが、この修行によってお母さんの人格も向上するのです。しかし、三カ月から六カ月は続けなければなりません。(p.32-33)


「無言の行」とは、子どものすることに干渉や口出しせずに見守ることで、親にとって多くの我慢を伴うことから「行」と名づけられているようだ。

過保護とか過干渉というのは、どこからがその領域になるのかがなかなか難しいものだが、子どもの発達段階によっても変わってくることがさらに問題を難しくしている。ただ、いずれにせよこの傾向があると自覚する親は、「無言の行」をやってみる価値があるように思う。3~6か月は続けるという目安が示されているのは参考になった。これくらいの期間続けることでようやく子どもに変化が生じてくるということがその理由のようである。



 私の経験によれば、この「無言の行」は、子どもが小学校二、三年生の頃に実現するのが、非常に効果的です。それは、子どもの心に親たちを批判する力が芽ばえるときであるからです。「無言の行」をしている間は、しつけをしようなどとは考えないことです。(p.34)


なるほど。理に適っている。



 お母さんにからだで甘えたいという要求は、順調に情緒が発達しており、母子関係が成立している子どもの場合には、思春期になるまで続きます。(p.70)


そんなに大きくなるまで続くものなのかと驚いた。



お母さん・お父さんに自分本位の心が多ければ多いほど、子どもを叱ることが多くなってしまう(p.74)


確かに。



玩具などは、お誕生日とかお正月など、日を決めて与えるとともに、その際の予算も決めておくとよいでしょう。その間に欲しい物があっても、その日まで「待つ」心を育てましょう。これが、がまんをする力を育てることになりますし、自分本位な心を自分の力で統制する能力を育てることになり、それとともに、「思いやり」の心も発達するのです。(p.79)


いつでも何でも子どもが欲しがった時に買い与えるという方針は誤っているとは思っていたが、その理由がより明確になったように思う。



お手伝いをしていないというよりも、お母さんがさせていないということです。それはなぜでしょうか。第一に、子どもにお手伝いをしてもらいますと、時間がかかったり、ものを壊したり、ダメにしたりして、かえってお母さんの手間がかかるので、自分がやったほうが能率的に家事がはかどるから――という理由があげられます。このようなお母さんが完全主義であることは当然です。未熟な子どもであることを理解して、少しずつ家事を教えていき、だんだんに上達してもらうことを考えていないのです。(p.81)


説得力がある。



子どもは、お父さんと遊ぶのが何よりも楽しく、お父さんに遊んでもらった子どもは、お父さんを慕います。(p.100)


父親が子どもとの情緒的関係を深める最大の機会は普段の遊び、ということ。



子どもと楽しく遊ぶことのできる男性には童心があります。童心があるということは、非常に柔軟性があるわけです。柔軟性があるということは、自分の考え方に固執せず、自由に考えることができることを意味しています。さらに、子どもと楽しく遊ぶことのできる人は、子どもの立場に立って考え、子どもの気持ちを汲むことができますから、「思いやり」があるわけです。(p.102)


なるほど。逆に言うと、自由に考えることができる人や「思いやり」がある人こそ、子どもと楽しく遊ぶことができるというわけだ。ある意味、人としての根本的な力量が試される。(ただ、子どもと楽しく遊ぶことができていても、「単に童心があるだけ」という人もいないわけではないと思うが…。)



つまり、子どもは不潔の体験を重ねながら、だんだんに清潔の意味を理解していくことが大切であって、急いでしつけをしないでほしいのです。子どもが泥んこ遊びで不潔なことをしていても、それを楽しんでいる子どもの気持を理解し、それでひとしきり遊んだ後に、それを清潔にする方法を教えていくわけです。(p.122)


なるほど。ここまでは自分では思い至ることができなかった…。



 興味のもてないことに対しては、お母さんだって前向きに取り組めないのと同じように、子どももそのことに取りかかるまでに時間がかかりますし、始めてみてもなかなかそれに乗ることができないものです。お母さんとしては、そのような子どもを目の前にすると、すぐに腹を立てて叱ってしまうでしょうが、叱る前に、興味のないことの原因がどこにあるかを考えてみましょう。一般的に言って、生活習慣などは子どもにとって興味のもてないことなのです。……(中略)……。お母さんとしては、せっせと子どもにやってもらいたいでしょうが、ほどほどにしておいていいことで、思春期以後になって自覚すれば、生活習慣などは自発的にやるようになるものです。
 勉強についても、学校の勉強は面白くないものです。それは、先生から一方的に押しつけられた課題であるからです。(p.124-125)


歯磨きや洗顔などの生活習慣に関することは、子どもにとってみれば興味がないことだというのは、なるほどと思わされた。思春期になれば自発的にやるようになる、というのも納得できる。

小中学校などの勉強が押し付けられた課題というのは、その通りだと思う。それをいかに自分のこととして考えられるように仕向けられるかがポイントなのではないか、という気がする。



「早く」は、お母さんの焦りを現しています。つまり、おおらかでない心、ゆとりのない心から飛び出してくる言葉です。何かにつけて、子どもがせっせとしないと怒ってしまっているわけです。その点にお母さんが気づいたならば、何とかして自分の人格におおらかな心を育てるように、努力を始める必要があります。(p.127)


親から子どもに向けて発せられる代表的な言葉のひとつが「早く」ではないか。親の側にこの責任が全面的にあるものと考えろというわけだ。確かに、子どもに多くを求めるよりはその方がかえって現実的でもあるかも知れない。


ダン・アリエリー 『お金と感情と意思決定の白熱教室 楽しい行動経済学』

だから、問題行動をひとつひとつなくしていくことが大切だ。なぜなら一人の問題行動の影響は、それだけにとどまらず、「皆そうしているから大丈夫だ」とほかの人に思わせてしまう危険性があるからだ。一人の良くない行動が連鎖的にほかの人たちに影響を与え、それが社会にとって当たり前のことになってしまう恐れがある。だからそういう行動に対しては、はっきりと批判的な態度をとり、容赦しないことが大切だ。そうしないと、やがてひとつひとつの問題に対処するよりもはるかに高いコストがかかるようになる。(p.65-66)


これはいわゆる「割れ窓理論」などで言われている結論と同じことになる。「割れ窓理論」それ自体は実証されていないという反論もあるようだが、少なくとも、本書で示された実験結果から導かれる帰結は同じところに行きついているように思われる。

このような問題行動の連鎖は、ルーマンの社会システム理論によっても理解しやすい領域の一つであるように思われる。すなわち、ある一人の問題行動が他の人々に認識される際に「そのような行動をとっても批判(非難)を受けない」ものとして理解され、他の人々がそれを規範として動き始めることで、社会の新たな規範が形成されてしまう、という社会の変動。

さらに言うと、高史明の『レイシズムを解剖する』という本について、そう遠くないうちにこのブログにもアップすることになると思うが、この本で、ネット上(ツイッター上)の在日コリアンに対するレイシズムを広めようとする言説が、少数の差別主義的な煽動者によって発せられていることが明らかにされており、この少数者をSNSの運営者が発言を制限すれば、かなりの差別発言をネット上から減らすことができ、そこからの間接的な影響も軽減できることが示唆されている。煽動者が差別発言をしても批判されない(制裁を受けない)ことによって、「皆そうしているから大丈夫だ」と思わせてしまうことになっており、それが差別発言を流通させるのに大きな意味を持ってしまっているという現状は、上記で指摘されているように、既に「一つ一つの問題に対処するよりもはるかに高いコストがかかる」段階に入ってしまっているように思われる。



優秀なスタッフは言われなくてもやるべきことを心得ている。君たちが一流の歌手だとして、報酬が減らされたからといって、わざと下手に歌うだろうか?一流の歌手なら、おのずと上手く歌うだろう。むしろキーを外して歌う方が面倒だ。コールセンターのスタッフの中には電話のマナーが良かったり、会話が上手な人もいるが、今以上の成果を期待するのは難しい。業績が高くない人にこそ、ボーナスの効果は大きいんだ。(p.176)


なるほど。あまりこのような道筋で考えたことがなかったが、言われてみればその通りだ。金銭がパフォーマンスを高める動機としては機能しにくいものであることは理解していたが、パフォーマンスの質が高ければ高いほど、お金などでは動機や技能を高めることには役立ちにくい。この辺りまではよく考えていたが、ここから一歩先に進めば、むしろ、質が低い方が効果的というところまで導くことができるわけだ。(アリエリーの行動経済学の強みは実験によってこうしたことがある程度確かめられた上で指摘している点である。)

成果主義的な考え方によれば、成果が上がっている人にボーナスを多く払い、そうでない人には低く払うべきだということになるが、これは上記のような現実から見ると明らかに倒錯したものであることが分かる。



面白いことに、人は何かに労力を注げば注ぐほど、それを高く自己評価するんだ。最も端的な例はもちろん、子供だ。
 ……(中略)……。子育ては困難で手間がかかり、説明書だってないからだ。子供への愛情の大半は、実は自分への愛情なんだが、このふたつは区別がつけ難いので、親は子供を溺愛するんだ。(p.192-193)


なるほど。面白い。子供への愛情がかなりの程度、親の自己愛と区別ができないことがあるというのはそのとおりであるように思われる。

思うに、この区別がきちんとできていなければいないほど、育て方はよくないものになる傾向にあるように思われる。



ああちゃん、さやか(ビリギャル) 『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』

 児童心理学者 平井信義先生は、子どもはけんかをしながら健やかに育つ、とおっしゃっています。
 ……(中略)……。
 平井先生のおっしゃる「性善説」からしますと、4歳までの子がやることはすべて「善」であって、すべてを認めてあげることで、思いやりのある子に育つのだそうです。
 ……(中略)……。
 愛する親に、いらだちや怒りを伴って叱られることで、もともと善の意識しかない子どもは、戸惑い、傷つき、親への信頼を少しずつ失っていきます。
 ……(中略)……。
 結局、「このままでは長男が悪い子になってしまうのではないか」と、長男を信じ切れなかった母の疑いが、その頃の長男を傷つけ、悪くさせていた根源であったと思います。(p.109-110)


なるほど。4歳までの子どもには悪意を持って何かをしようなどと言うことは考えていないから、その気持ちを認めてあげながら育てるべきであり、行動面などの矯正/強制を怒りなどの感情を伴ってすべきではないということか。認めてあげつつ、社会の規範なり他人の感情なりを理解できる方向に仕向けるのだとすれば(もしそうしたことが全く必要ないというのであれば、何の働きかけもせず子育てを放棄しているような事例との違いがあまりないことになる。単に心理的に受容するだけでよいということなのだろうか?)、言うほどには簡単ではなさそうだ。

いずれにせよ、平井信義氏の考え方には参考になるものが含まれていそうであり興味を惹かれた。この点は本書からの収穫のひとつ。



 教育者の長谷川由夫先生は、その後著書のなかで、子どもを「叱る」怖さを、このように説明されています。
 「叱る」とは、ある行為を否定禁止する「罰」の1種である。
 誰しも、あたたかい信頼関係があるときには相手を「叱る」などとは思いもしない。
 人間関係において、信頼と罰とは、相反する。罰が続けば、信頼関係は壊れる。
 また叱ることは、手段として限界があり、悪循環を作る。勉強しないことを叱り続ければ、さらに勉強しなくなる。
 もっと押さえつけを徹底して、子どもを叱り続ければ、爪かみ、言葉のつっかえ(吃音)、おねしょ、ずる休みなどの神経症状や問題行動におよぶことがある。
 「叱る」ことは、ストップをかけるだけ。なにが良いかを示さないから期待行動は起きてこない。悪い行動はやめても、良いこともしない子になる。
 むしろ恐怖と不安からいじけ、消極的になり、何もしなくなる。
 さらに長期におよべば、叱る程度を、より上げなければ効かなくなる。
 そして、それは、叱る者への敵意となって返ってくる
 あるいは、子どもの自発性や自信を奪い、顔色を見る子になる。そうした子は、力に弱い権威主義者になり、強い者には絶対服従し、弱い者には、冷酷に攻撃を加えるようになる。
 わが子が「弱い者いじめ」をするのは、親が子を叱り続けたことによる、当然の結果である。
 また、親の勝手な見栄や世間体、日常の不満不安、いら立ち、自分自身の心理的安定のために、子どもを叱っているケースも、多くあるのではないか。
 自分の気が済むまで叱り続け、それが激化すると、子どもが見えなくなり、親が自分を保てず、子どもの全人格を否定するようになり、子どもはひどく傷つく。
 そうしたなかで叱られて育った子は、大人の身勝手さ、大人の無反省さを見抜く力が育ち、人間不信が心のなかで育つ。
 人に対する「不信と敵意」と、親の態度を真似た「弱者への攻撃」の2つが結合すると、「いじめ」現象が生じる。
 叱られつけた子は、2タイプに分かれる。
 耐性ができて、不信感で図太くなり、人への敵意を心に宿したたくましい子が「いじめっ子」となる。いっぽう、敏感でちりちりと委縮した子は「いじめられっ子」になる。
 叱るなら、まず自分を叱るのが第一だ。自分を叱っている人は、他を叱るひまはない。(p.115-117)


本書では先の平井先生とここで出てくる長谷川先生の教育論をベースにして教育について語られている。長谷川由夫氏の考え方も学んでみたいと思う。

「叱る」ことは罰の一種であり、信頼を損なうものであり、ストップをかけるだけで善を示さないものであり、権威主義、人間不信、人への敵意を生み出すものであるという一連の指摘には非常に納得できる。一部は自分自身が育ってきたプロセスと重なる部分があるし、他の親が子に対してしている自身の見栄に基づいた叱りつけなども見聞してきたことがある。

信頼を損ない敵意を育てることは、いろいろと感情面の作用などもあるとは思うが、論理的には、ストップをかけるだけのものであり、善を示さないものであるところに関わってくるように思われる。逆に言えば、叱るよりは何が善であるかを言動によって示すこと(明示的あるいは暗示的に)をした方がよいのではないか。心理面に着目すると受容して諭すといった流れになるのかもしれない。



 さやかの場合は、「すばらしい未来の友人たちと出会いたい」という、さやかの個性に合わせたワクワクする価値観を共有するところから、スタートしてくださいました。

 その上で、坪田先生は、本来「学ぶ(=知らないことを知る)ことは楽しいこと」であって、人生をより楽しくするための、誰もが平等に持てる“最強の武器”こそが「学問」なのだ、ということを子どもたちに教えてくださいます。
 学問は、「良い点を取って、親を喜ばせるためのもの」ではないことを、根底から教えてくださるのです。

 ……(中略)……。

 私は、さやかに勉強を嫌いになってほしくなくて、勉強を押し付けることはしてきませんでした。(p.174-175)


勉強する意味についての見解としては、高校生から大学に入る頃までの考え方としては理想的な考え方だと思う。ただ、大学を出る頃や大学院に進学するような場合には、もう少し学問の負の側面なども含めて批判的に捉えられるようになってもらいたいとも思う。

最後の一文のスタンスは非常に重要で、小学生や中学生の頃に押し付けるとまともに勉強するような子どもには育たないとはっきりと知っておくべきだろう。親は本人が必要性に気づいた時点で頑張れるように環境を整える、なるべく悪い環境にならないように配慮するのが仕事であると思う。



 長男が小学校に上がって以降の長い間、夫には、「息子には一切、口も手も出してくれるな。こいつのことのすべてはおれが決めて、幸せな人生を歩ませる。おまえなんかがちょっかいを出すと、こいつの人生は、めちゃめちゃになってしまう」と言われていました。(p.188)


夫婦の関係が悪いことが、子育てのあり方にも深く影響を及ぼす。この家庭の場合はこのあたりの分裂が非常に際立っており特徴的。ただ、ここまで極端だったからこそ、問題も見えやすくなり和解の可能性へと繋がった面もあるのかもしれない



 子どもは、何かを与えられるだけでは、幸せにはなれません。
 親は、いつでも子どもを信じ、子どもが自らの意思で、自分の望む幸せを見つけ、そしてそれを自力で手に入れるのを、あくまでも「手伝う」べきだと思うのです。(p.189)


基本的な考え方としては非常に共感するところなのだが、どのように「手伝うか」というのは、常に変化する子どもの成長の度合いとその置かれた環境の双方の先の見通しを立てながら行うことになるので、なかなか難しいとも感じている。そのあたりの「良い加減」の目安になるものを見つけたい。



 今の学校教育においては、子どもの心を理解することよりも、成績の良い子や、大人によく従う良い子を作って、問題を起こさせないことが優先されているように思います。(p.206)


親たちが権利や子どもの望ましい環境について敏感になればなるほど、逆に学校側はこうした傾向を強める可能性があるのではないかという気もしている。メディアなどによる学校への批判なども然り。



 楽しい家庭があると、それが子どもたちの原動力になり、何事にもがんばれる子に育つのだ、と思います。(p.210)


これは大事なポイント。子育てに関して、夫婦の関係が良いことが必要なのはまさにこのためではないかと思う。実際にはこれもそう簡単なことではないとも思うが。



 私たち家族は、正しさだけの旗を掲げて、人をなじったり、戒めるばかりで、思いやりやユーモアのないやり方が、嫌いなのです。
 間違ったことをしている人に「違うぞ!」と強く叱りつけることは、意外とかんたんです。
 でも、その間違っている人は、知らずにやっているのかもしれませんし、わかっていてもできないのかもしれません。
 叱ることは、誰にでもできます。
 でも、思いやりを持っている人は、怒るのではなく相手にわからせようとするものだと思います。(p.234-235)


ここで良しとされている人間関係のあり方は、確かにその通りだとは思う。しかし、例えば、ある人が育った環境(親や家族の関係)がもともとこうしたものだった場合、築きやすいと思うが、こうした関係が身近になく、こうした関係を経験したことがない人にとっては意識や努力をしようとしても成し遂げるのは至難の業であると思う。



 平井信義先生も、成果ばかりを考えて、習い事をさせることは、よほど性に合った子以外には、むしろ弊害が大きいとおっしゃっています。
 子どもの豊かな感性を育むには、子ども自身が好きで通う習い事でなければいけない、ということです。(p.240)


同意見。



 特にまーちゃんには、幼い頃から「謝りなさい」「ありがとうと言いなさい」「ごあいさつは?」というしつけはしてきませんでした。
 子どもが納得していないことを強制して、“良い子”を装わせるような道徳教育はしないできたのです。
 本当に子どもにやってほしいことは、自分でやって見せて、子どもに自主的に「真似したいなあ」と思わせるように仕向けてきました。
 それでこそ、人生に意欲的で、一度その気になったときには爆発的にがんばれる若者、大人に育つと思うのです。(p.268-269)


確かに。「納得していないこと」を「強制しない」ということがまず重要である。納得していないことを強制すると、子どもの意思は否定されるため意欲がない人間になりやすい。こういうことをする必要性が生じないようにするには、納得させることが重要なのだが、言葉で納得させることも必要な場面は必ずあると思うが、できるだけ行動によって示していくことで、自ら子どもが気付くことになるため良い効果が見込めるわけだ。



 教育者の長谷川由夫先生は、前出の『あなたと子供が出会う本』のなかで、現代は情報過多でありながら、正しい情報を選別しにくい情報飢餓時代でもある、として、こういったことをおっしゃっています。
 現代は、誰か偉い方が旗を掲げて言い出した、いかにも正しそうなスローガンを、疑わずに正しいと思い込み、ワーッとみながなだれ込んで真似をする。その絶対数が多いほうが正しい、とされがちな時代である。
 例えば、「人に迷惑をかけない」というスローガンが、どこの学校にも誇らしく掲げられるようになったことについて、「高慢な人間を作りかねないのではないか?」。
 なぜなら、人間は多くのものに面倒をかけどおしのなかで、やっと育っていけるものである。なのに、「人に迷惑をかけない」というスローガンにより、「みんな、迷惑をかけながら生きている」という自覚がなくなってしまう。
 こうしたスローガンのせいで、「草木や他の動物すべてに迷惑をかけながら、我々はやっと生きているのだ、だからすべてに感謝しないといけない」ということをわからない子が多く育つのではないか?――と。(p.270-271)


なるほど。前段の時代診断については、教育の場面というより昨今の政治の場面を思い浮かべてしまう。特に小泉政権や第二次安倍政権などの姿勢と重なるものを感じてしまう。

それは措くとして、「人に迷惑をかけない」という考え方が学校で掲げられているかどうかは分からないが、確かにこの考え方は次第に強まってきた趨勢にはあると思う。一昔前の方が「おたがい様」ということを言い合う機会は多かったように思われ、それが次第に「人に迷惑をかけない」の方が優位になってきた感じはする。これは80年代以降の新自由主義的な考え方の蔓延と並行していると考えるべきだろう。

「人に迷惑をかけない」より、「互いに依存しあっているという事実を認めて、感謝し合いながら生きる」の方が人間としても社会としても望ましいように思われる。



 児童心理学者 平井信義先生は、こうおっしゃっています。
 子どもにとっての天国とは、「自分が言いたいことが自由に言える」「自分のやりたいことが自由にできる」場所のことだ、と。
 言いたいことは変わってもいいのです。情けない愚痴でも、嘆きでもいいのです。そのとき、そう思っているのなら、思った通りのことを言えばいい。かつての発言と矛盾していてもいい。
 子どもにとっての家庭とは、そんな場所でないといけないのでしょう。(p.291)


自由に発言でき、自由に行動できる場というのは確かに重要である。自由に発言できるためには受容的に聞いてもらえるということが重要であり、自由に行動できるためには危険の少ない場所であることが必要であると思う。前者はよく強調されるが、実は後者の方が意外と難しいことのように思う。



「100点を目指す」という思考を当たり前にしていたら、「常に不満足」であり、「常に不幸せ」な心理状態に陥ります。(p.343)


確かに。これでは減点主義の評価になってしまう。



 「教育」というのは、誰しもが「持論」という名の素朴概念を持っています。
 日本で生まれれば、必ず小学校から中学校まで9年間の義務教育を受けて育っていますし、また、親なり親戚なり行政の担当者なりから、必ず「教育を受けて」私たちは育ってきました。
 よって、「子育ては、こうあるべきだ」という「信念」を、何かしらの形で形成してきているわけです。これは、例えるならば、「数学を、学問として学んでもいない人が、何らかの数学の理論を振りかざす」ようなものです。実際の数学に関しては、そうした場面にはなかなか遭遇しませんが、「教育について、学問として学んでいない人が、平気で教育理論を振りかざす」場面は往々にしてあります。
 しかも、それが、「学問上、理論上もその通り!」という納得のできるものであればまだしも、あくまでも「自分一人の経験」や「子ども二人を育てた経験」、あるいは「自分の親がそうだった」という根拠をもとに、「こうあるべきだ」と考えていらっしゃるのです。
 それは、例えるならば、「野球が下手な人が編み出した打撃理論を、頑なに信じている」というのと変わらないように思えます。(p.345-346)


確かに、教育に関しては、こうした素朴概念を振りかざすことになりやすい。政治家がイデオロギー的に介入をしてくる可能性が大きいのも、これと無関係ではない。だから、通常の行政と教育行政は切り離すことが必要なのであるが、最近は第一次安倍政権の教育基本法の改悪や儀式における君が代の強制の動きなどを見ても、教育についてまともな知見のない、一般の人々を権力者に奉仕させることを善しとするような極端に保守的なイデオロギーの信奉者による介入が強まりつつあり憂慮すべきである。



 「大丈夫。あなたがやらなくても、世間は確実に『Doing』や『Having』であなたのお子さんを評価してくれます
 それによって、子どもたちが傷つくことも多々出てきます。
 自己と世間との関係性においてバランスを崩し、絶望しかける瞬間も出てくるでしょう。
 そんなとき、「私の親は、どんなときも、私の存在を肯定してくれている。だから、相談してみよう」と思えるのか、それとも、「親に言うのは、恥ずかしい。“また”親に迷惑をかけてしまう」と思ってしまうのか。
 それが子どもの自信や、幸福感を大きく左右することになってきます。
 何が起こるかわからない人生において、「圧倒的な無償の愛情」をベースとした関係性を築けて、常に安定したバランスを子どもに供給でき、それにより「勇気」を与えることができるのは、「親」である「あなた」しか、いないのではないでしょうか?
 誰か一人でも、「本当に心から、こんな自分でも愛してくれている人がいる」、そう信じられる状態である、これこそが「幸せ」なことなのではないでしょうか。(p.348-349)


doingやhavingではなく、beingで評価することが親のすべきことであり、ある意味では親だけができることと言える。子の環境を整えるという仕事も、こうした愛情をベースにできていれば理想的だと思う。


田崎史郎 『安倍官邸の正体』

 情報番組は報道番組よりお世論形成に大きな影響を与える。(p.69)


政治に関心が高い人々は、報道番組を熱心に見る傾向が強そうだが、むしろ、その他の情報と混じって面白おかしく、かつ、単純化しすぎるほど「わかりやすい」情報番組の影響力の方が大きいというのは重要だと思う。ある意味、現在の選挙制度の下では、それほど強い支持を受けていない政党が国会では非常に多くの議席を得ることができ、与党になってしまえば、官邸に集中された権力によってかなりのことが好き勝手にできてしまうという状態になっていることを考えると、野党の側としては情報番組の影響力を利用することが重要な手段の一つになりうるはずである。この点に気づくべきではないか。むしろ、自民党のメディア操作の方がこちらに影響を既に及ぼしているのではないか、という危惧を覚える。(野党が活用することには問題はないが、与党がメディアを自身のために操作するのは言論・報道の自由や知る権利などの観点から非常に問題があると考える。)



 官邸から見た自民党の雰囲気について、官邸スタッフは一次政権と比較してこう見る。
「決定的な違いは派閥勢力、対抗勢力があるかどうかだ。一次政権の時は派閥の長老がいたが、自民党が世代交代して圧倒的に強い人がいない」(p.77)


なるほど。第一次安倍政権と第二次政権では、自民党の党内の力関係も変わっており、安倍が力をつけたというより、強い長老たちがいなくなったということが安倍政権にとって有利な条件となっている、ということか。



ダブル辞任になったのではなく、あえてダブル辞任にした、いわばマネジメントされ、打撃を最小限に抑え込む辞任劇だと思ったからだ。実際、閣僚辞任の衝撃は一度で済んだ。(p.85)


2014年の小渕優子が政治資金収支報告書の問題で、また、松島みどりがうちわ配布問題で辞任したが、同時に辞任したのは、あえて政権へのダメージを最小限に管理した結果だったという。

第一次政権で無様な失敗を繰り返した安倍晋三だが、その「お友達スタッフ」たちも同時に皆がその失敗を経験しているということが第二次政権で活かされているわけだ。政権側がマスメディアの特性などに注意を払った対応になっていることに鑑み、マスメディアは政治権力に利用されないために動き方を変える必要があるように思われる。



「私がやりたいことと、国民がまずこれをやってくれということが、必ずしも一致していなかった。そのことがしっかり見えていなかった。私が一番反省しているのは、その点です」(p.130)


安倍晋三のこの自己分析は基本的に妥当なものだ。

ただ、難を言えば、安倍がやりたい積極的な軍事大国化政策と国民が「まず」これをやってほしいことが一致していないだけではなく、安倍がやりたいことを多くの国民はむしろやってほしくないと考えているというところまで語るべきだ。ある意味、そのことを安倍は理解していると思われる。だから96条改憲、憲法解釈の変更による集団的自衛権行使などという姑息な手段や違法な手段に訴えなければ安倍がやりたいことは実現できないと考えているのだろう。

安倍の考え方がはっきりと分かりやすく語られることがあれば、そのことは自ずと明らかになるのだが、そのことを知っているが故に、安倍は国民を騙して裏口入学を繰り返す。極めて悪質だと言わざるを得ない。



 安倍が経済政策重視に大きく傾くのは11年3月11日の東日本大震災後のことである。一次、二次政権で内閣広報官を務めた長谷川榮一は同年3月下旬、「集団的自衛権や憲法も大事だが、これからは経済、くらしですよ」と進言した。それからしばらくして、自民党衆院議員・山本幸三が大震災の復興財源に国債を発行する構想に反対して、安倍を会長に、山本が幹事長を務める議員連盟「増税によらない復興財源を求める会」、「日銀法改正でデフレ・円高を解消する会」という勉強会を立ち上げた。
 ここで、安倍は日銀副総裁・岩田規久男、日本経済研究センター理事長・岩田一政(元日銀副総裁)、内閣官房参与・浜田宏一(米イェール大学名誉教授)、政策研究大学院大学教授・伊藤隆俊らとの接点ができた。安倍はそれ以前から内閣官房参与・本田悦郎(静岡県立大学教授)、嘉悦大学教授・高橋洋一、元日銀審議委員・中原伸之らと付き合っている。いずれも適度なインフレを主張する「リフレ派」と呼ばれる人たちだ。
 安倍はこの人たちとの交流を通じて、「日本経済の最大課題はデフレからの脱却」と確信するようになった。(p.132-133)


大震災が起きたことによって復興という問題が生じ、ここから経済や財政に関する問題に取り組む中でリフレ派の人々との接点ができ、現在の経済政策を練っていくことになったということか。

なお、ここでは「経済政策重視に大きく傾く」と書かれており、この引用文の少し前では、著者は安倍は「戦後レジームからの脱却」などの「美しい国」路線から経済政策を最重要政策に据えたとしているが、この見立ては誤っていると見るべきだろう。安倍にとっての目的は「戦後レジームからの脱却」であることに変わりはなく、そのための支持率や安定的な政治力を発揮するための手段として経済政策を掲げたり実施するという関係に過ぎない。その意味では安倍にとっての最重要政策は今でも「戦後レジームからの脱却」であり憲法改正だと考えるべきだろう。なぜならば、この路線に繋がることは(96条改正の議論を除くと)かなり強引に進めているからである。(例えば、日本版NSCと特定秘密保護法、集団的自衛権の憲法解釈変更の閣議決定、安保関連法の強行採決。)

それにしても、東日本大震災という未曽有の大災害を前にして、原発事故とそれに波及する避難生活などに苦しむ人々が多くいる中、原発再稼働を推進し、そうした人びとの復興のために税による再配分を拒否し、金融政策という人びとの生活からやや離れた手段によって一部の人々を富ませることによって経済が良くなったと思わせるような政策に関心を深めていったというあたりに、人権や個人の生活の尊重などは顧みず、自身と一体化した「国家」を最優先し、その「国家」を「強く」することにしか関心がない、といった安倍晋三という人間のメンタリティが見て取れるように思われる。



 こうした日程をこなしながら、午前7時から8時まで、正午から午後1時まで、夜は7時から8時半まで、8時半すぎから10時まで――と、1日4回、官僚以外の政治家、経済人、有識者、メディアと話す時間をつくっている。会うメディアは新聞、テレビ、通信社だけでなく、週刊誌、夕刊紙まで実に幅広い。
 政権批判、あるいは菅個人への批判が案外少ないのは、菅のたゆまぬ努力の賜物かもしれない。記者の習性として情報過疎になると狂暴になるが、一定の情報を与えられていると案外、静かである。(p.181)


記者の習性についての洞察は確かにそうなのだろうと思わされる。ここでもマスメディアは政治権力に飼い慣らされているように思われ、違和感や危機感を感じる。


河本英夫 『<わたし>の哲学 オートポイエーシス入門』

忘れたことは、次に思い起こすとき、まったく別様なものになることが多い。想起とは、再組織化の仕組みでもある。忘れることは、最も貴重な経験の一つであり、なにを学ぶかではなく、なにを忘れるかによって、経験の輪郭は決まる。少年は忘れることをつうじて、学んでいるのである。少年とは忘れるということの弾力のことである。
 ……(中略)……。
 そのため誤解しやすいのだが、ほとんどの根本的な問いは、直接解答の出るようなものではない。同じ問題を考え続けていれば、誰であれどこか妄想様の想念に取りつかれたり、偏執性のこだわりが生じやすくなる。同じ問題は一度忘れて、しばらく経ってから再度取り組んでみるのがよい。忘却と想起をつうじて、問いそのものが変容していくのである。(p.7-8)


言われてみれば思い当たる節があるが、なかなかこうしたことを指摘してくれる人はいない。観察者がすれ違ってしまうもの、見落としてしまうものを感知できるようにしてくれるオートポイエーシスの構想から学ぶものは多い。



注意には、現実性そのものを成立させることにかかわる遂行的注意がある。注意が向き、なにかの現実に気づくのである。成立した現実を詳細に捉えようとすると、焦点的注意が働き、対象が特定されて、見るべきものを見るようになる。これが知覚である。知覚はすでに成立している現実を正確に捉える働きである。なにかあると感じられるさいには、遂行的注意が働いているが、そこからどの局面を焦点化していくかにかかわるのが、選択的注意である。
 不思議さの感覚は、まさに不思議な事象がそれとして気づかれるので、遂行的注意である。そこから焦点化の手前で、特定のなにかに局面を絞るのが選択的注意であり、一般的にはセンスと呼ばれるものである。センスのよい人は、一般には「見えているものが違う」と感じられる。学習の最短性の要請から、多くの児童や少年は一般に見えるべきものを見るように訓練され、焦点化されが知覚を学んでいる。だがそれでは「経験の可動域」が狭くなりすぎるのである。(p.54)


遂行的注意を働かせ続けるには、むしろ不思議なものは不思議なままにしておき、選択的注意を働かせ過ぎない方がよく、その方が「経験の可動域」は広くなるということか。

いわゆる詰め込み教育とか知識偏重などとして学校教育が批判されるが、その議論も、現行の教育が選択的注意ばかりを働かせるものであるところに問題が感じられているところに由来する面がある。一時期、「ゆとり教育」という方針が出されたが、遂行的注意を働かせることに寄与するかという点から見ると、そうは言えないように思われる。単に選択的注意を活用する機会を減らすだけでは、遂行的注意をよく使うことの可能性は多少は開かれるかもしれないが、それほどうまくつながる(遂行的注意の力を育てる)ことはないだろう。では、どのような教育であれば「遂行的注意」の力を鍛えることができるのだろうか?



 観察は、一般によく見ることであり、物事の意味を捉えることである。その点で観察の中心には、つねに知覚が置かれた。知覚は、対象をそれとして捉える感覚的直観であり、捉えられたものが意味である。そして発見とは、この意味を別様に捉えることだと言われてきた。そのさいしばしば、天動説から地動説への移行、フロギストン説(燃素が飛び出すことを燃焼だとする)から酸素説(酸素の化合を燃焼だとする)への移行が、歴史的な典型事例として取り上げられ、議論されてきたのである。そこでは視点を切り替えるように、物事の捉え方を全面的に変えることが発見だと言われてきた。そしてそれが「パラダイム転換」と呼ばれた。
 こうした主張に対して、私はいつもなにか変だという思いを抱き続けてきた。実は、発見とは視点の転換だというような議論は、発見がなされた後に、複数の捉え方を知っている人間から見た発見についての解釈なのである。発見が実際に起きたという事実と、発見が前のものからの不連続な飛躍であることを知った上で、そこで起きたことを、再度視点の転換だと解釈してきたのである。これは複数の捉え方をすでに知っている歴史的傍観者による解釈である。
 少なくとも、発見のプロセスのさなかを進むものは、そのとき何が起きているかが分からないような局面を進む。そのさなかで五感を目一杯開き、勘だけを頼りになお進んでいく部分がある。それは視点を切り替えるような作業とは異なる。(p.55)


科学史や科学哲学などでかつて議論されてきた問題に対するオートポイエーシスからの批判。



 現象がおのずと見えるようになるということは、ただ見ていたり、教えられたことを見つけるような学習とは異なる。教えられてはじめて見えることは、教えられたようにしか見ることはできず、また教えられたことしか見ることができない。ところが何かの拍子に、突然見え始めるような現実がある。こうしたタイプの注意は、選択的注意とは異なるタイプの注意であり、現実性そのものの成立にかかわっている。おのずと何かが見えるようになるためには、現実の宙吊りが必要であり、しばらくそれを維持することが必要になる。(p.62)


このあたりは、2つ前の引用文に対するコメントで私が最後に述べたことと深くかかわっている。思考の宙吊りとそれの維持をさせるような教育とはどのようなものか?



 アナロジーは、当の現象との隔たりがなおかなりある場合であっても、さらにそこに謎を残し、不思議さを残し続ける。アナロジーによる現象の解明は、別段決着がつかなくてもよい。現象を考えるための手掛かりは増え、少しずつピントが合う程度でも十分なのである。(p.63)


容易に決着がつかない問題には、こうした方法によって宙吊りを行うことが有効。



 キュビズムの仕組みで見る限り、形状が基本形の加算となり、持ち合わせた基本形に現実の事物を変形していく。この変形のプロセスに、イメージが関与する。物を見る。眼を閉じる。そしてさきほどの物を可能な限りイメージのなかで蘇生させる。ある意味でイメージをつうじた解釈である。そしていくつかの基本形から事物を再構成するような手順を踏んでいく。このとき現実の物との接点をどこかに残していかなければならない。物をどのように変形させようと、それが物であることの感触を残し、かつ多様でありうることの可能性を残しながら構成されなくてはならない。
 この構成には、現実の物と作品が離れすぎてはならず、近すぎてもいけないような微妙な均衡点があるに違いない。しかもその均衡点は、一つには決まらない。その均衡点をかたちと色から探り当てるところが、それぞれの作家の才能であり、資質である。……(中略)……。
 かたちの変形を極端にまで推し進めれば、実は抽象絵画になってしまう。……(中略)……。
 抽象絵画は、方法的な視点から現実性を別様に解釈できること、さらには方法的に制御できる変数を変えることで、際限のない多様性を確保できるかに見える点に特徴がある。ところが抽象絵画には「何かが欠けてしまっている」という印象が残り続ける。方法的に実行される圧倒的な多様性のもとで何かが欠けるのである。おそらくマティスにとってそれが存在するものの個体性であり、個体のもつ強さであった。
 物は、みずからによって物である。女体はそれ自身によって女体である。あるいは女体はみずから女体であることによって、それじたい一つの喜びである。絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する。この個体化するものが、みずからによる存在である。そしてそこにまで届かせようとすると、方法的な制御の一歩先で起きてしまうことにかかわらなければならない。それが抽象絵画ではごっそりと抜け落ちてしまうのである。
 このことは抽象絵画が、一目見ただけで面白さも良さも、またそれを描いた者の才気の質まで分かるが、それで打ち止めになってしまうことに関係している。絵から才気は感じられるが、そしてそれは小さなことではないにもかかわらず、それだけなのである。才気は、おのずと感じられることが必要であり、スタンドプレーではないはずである。見せつけるような才気には、凄さと同時にどこか過度に意図して見せつけるような余分さが感じられる。またその意味では見え透いている部分が残り続ける。一般に方法的に制御されなければ、作品は無作為が過剰となり、方法的に制御されているだけであれば、作品の現実は貧困になる。(p.106-108)


前半ではキュビズムに関して述べられているが、現実の物と作品との距離の微妙な均衡点について語られているところは、なるほどと思わされた。そして、その一つに決まらない均衡点を見つけるには才気がいるということも然り。一見すると子どもでも描けそうだ、などと言われるキュビズムや抽象絵画なども、実際に書いてみようとするとそううまくは行かないことが分かるが、その秘密が少し理解できたように思う。

また、抽象絵画に対する批評も、今まで抽象絵画に対して私が感じてきた違和感のようなもののかなりの部分を言い当ててくれているように思われる。ある意味、今まで読んできた中で最良の絵画に対する批評・解説だと思う。



 制作の試行錯誤は、一般に次のプロセスに進むことができるかどうかである。次のプロセスに進むことができたものは、その手前の部分が集合のメンバー(構成素)として確定していく。そしてプロセスの接続点には、ほぼ必然的に選択肢がある。このときプロセスが進めば、なにか特定の傾向がそのプロセス群のなかに出現してくることがある。そのとき作者は、よく分からない力によってそちらに引っ張られていくと感じることがあり、時としてまるで出発点では気づいていなかったものに向かって行ってしまうこともある。
 ところがこのプロセスの連鎖は、どこまでも続くわけではない。制作プロセスの連鎖が、どこかのプロセスに接続して、プロセスの閉域ができたとき、そこに作品の個体が出現する。すると、これはすでにある個体の必要条件を述べているのではなく、個体そのものの出現の仕方を定式化しようとしていることになる。
 しかもプロセスのさなかを進む経験は、個体が出現したとき、それが何であるかを知りようがない。……(中略)……。
 制作プロセスと作られた作品は、異なる次元(ディメンション)にあり、二重の現実性として成立している。(p.120-121)


一つ前の引用文の中で「絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する」と述べられているが、こうした個体化のプロセスがどのようなものであるかを示しているのがこの箇所である。

制作する行為の連鎖がシステムであり、作品はそのシステムの外部に副産物的なものとして生成している。一つ前の引用文で「方法的に制御されているだけであれば、作品の現実は貧困になる」と述べられているが、これは、こうした場合には、システムと作品とのギャップが非常に小さなものになることと関係している。



 ちなみに新たな角度や観点から、なにかが分かるということじたいは、それほど重要なことではない。むしろ重要なのは、どの程度の展開可能性があるかである。「器官なき身体」という概念で、さらにどの程度、展開見込みがあるかを感じ取り、考えてみるのである。そうするとこの語に込められた主張は、いささか過激なものだが、ほとんど展開見込みがないことが分かる。こうした場面で働く評価が、センスである。こうした場合には、一度それを理解したら笑って脇に置いておくのがよい。少なくともこうした視点を全面的に切り替えるような主張を、自己正当化の言説として活用するようなことは、ただの自己主張である。そこでは実際にはほとんど何も生み出されはしないのである。(p.186-187)


ここではドゥルーズとガタリについて批判しているが、ポストモダンと呼ばれたような議論のほとんどが、展開可能性はほとんどないように思う。あれらはいずれも過度に観察者の立場に立ちすぎており、それまで誰も語らなかった観点を探し、その角度から何かを語ってみただけ、(そして、そういう発見をした自分はすごいだろうと誇ってみたいだけ)という程度のものでしかない、というのが私の評価である。ある意味、二つ前の引用文で、河本は抽象絵画について才気は感じられるが、ただそれだけだと語っていたが、ポストモダニズムもそれと同じようなものだと考えている。

なお、展開可能性がないという主張に対して反論するためには、実際に展開させてみてどれほどのことが言えるかを示すことが重要であり、単に反論者があり得ると思っている可能性について語るだけではほとんど何の意味もない。


佐藤優×石川知裕 『政治って何だ!? いまこそ、マックス・ウェーバー『職業としての政治』に学ぶ』(その2)

佐藤 ここに出てくる中央党と社会民主党、この二つの政党の特徴は政治運動をやっていないということです。正義運動をやっています。つまり、「正義を追求するために自分たちのグループが必要だ」というかたちで活動しているのです。民主主義において、そういう政党はプレイヤーにはなりません。あえて外側にいて権力意思が形成されるように仕向けるということでもありません。彼らは道徳や美学を基準にして動きますから、「現実の汚れたところで妥協して」ということにはならないのです。(p.194)


正義運動とはうまい言い方をするものだ。現在の日本でいえば、社民党や共産党がこうした特徴を持っている。確かに佐藤優の指摘するように、正義を基準にして運動すると、妥協することはすべて悪の部類に入ってしまうのであり、その潔癖主義を許容するような運動ではない限り、大きな勢力を持つことも難しいし、議席を多く獲得したとしても与党として現実の政治を行う際には、必ず妥協したことによる分裂や亀裂などが生じるだろう。

戦争法とも呼ばれる安保法が2015年に成立したことを受けて、共産党は昨今、以前とは立ち位置を変えつつあるが、現実的な方向へと足を踏み入れることによる妥協をどの程度までできるようになっているのかが一つのポイントになるだろう。また、他の野党も共産党に対するアレルギー的な反応をいかに出さないで済ませるか、ということが成否を分ける重要なポイントと思われる。



それでも私はウェーバーの方法論のなかに決定的な問題があると思います。要するにウェーバーは「宗教現象など諸々の現象を、すべて個性記述的――個別具体にこだわる――科学によって説明することができる、つまり科学からはずれる世界はない」という考えを持っていたのです。(p.200)


確かにウェーバーの方法論や世界観では科学は大きな価値があるものと位置づけられているように思われる。しかし、あらゆる現象を科学によって説明できると考えていたかどうかは疑問である。むしろ、知識の限界を自覚するように促している場面も多いように思われる。例えば、価値理念などを重視する考え方などがそれである。



佐藤優×石川知裕 『政治って何だ!? いまこそ、マックス・ウェーバー『職業としての政治』に学ぶ』(その1)

佐藤 いい喩えだと思います。ウェーバーの影響はおそらくドイツやイギリス、アメリカよりも日本のほうが圧倒的に強いです。ウェーバーの影響がこれだけ強い国は、世界でも日本以外にないと思います。
石川 そういえば中国は社会科学や数学の基礎体力が強くないと聞きましたが、彼らは欧米の社会科学書や数学書を日本語に訳されたものから再翻訳して、勉強しています。その関係もあって、中国や韓国でもウェーバーの影響が強いのですね。
佐藤 ではなぜ日本ではウェーバーの影響が強いのでしょうか。これは第一次世界大戦後の極端なインフレと関係します。第一次世界大戦後にドイツに留学した学者やエリートが、インフレに乗じて大量にドイツの文献を購入して、日本に持ち込んだのです。その後の日本の思想界はこのドイツの文献に強く影響をうけたというわけです。その一部にウェーバーの著作がありました。(p.19-20)


前段では、日本でウェーバーの影響が強いことが、中国や韓国での影響の強さにも反映しているという指摘が興味深かった。なお、中国(大陸)よりも台湾での方がウェーバーの影響は強いのではないかと思う。

また、第一次大戦後のドイツのインフレが、ドイツへの留学や文献の流入につながり、ドイツの思想が日本の思想界では影響力を持ったというのは本書では何度も語られるが興味深い。



佐藤 ところが現在は大学を卒業しても実質的に専門科目は修めていません。専門的な科目は企業に入って企業の研究所でやるとか、あるいは大学院でやるとか――いまは大学院のレベルが落ちてしまっているから、留学してからやるとか――そういう状況です。事実上、十数年間一般教養をやっているわけです。(p.114)


なるほど。



日本の近代化のなかで、東京帝国大学はイギリスのバーミンガム大学をコピーしました。ちなみに東京大学は世界で最初に工学部ができた大学です。東大に神学部はありません。神学部がないのみならず、哲学部もありません。文学部のなかの一学科に哲学を持ってきてしまいました。東大をモデルとする日本の大学は、過度に実学志向なのです。(p.144)


日本の大学が過度に実学志向というのは、なるほどと思ったところ。



石川 官僚が考えている非政治性というのは、まさに国家理性――国家の目的を国家そのものの維持や強化とし、そのために守らなければならない法則や行動基準――に関する非政治性ではありませんか。ということは、彼らの非党派性というのは極めて党派的だと思います。
 端的に言えば、安倍政権における中立性に偏っています。たぶんいま官吏に要請される中立性というのは、自民党の方針で状況が民主党政権時代からどのように変わったかを認識して、「第一条、自民党は正しい」「第二条、自民党が間違えている場合も第一条に準ずる」ということで理屈を組み立てられる能力と思います。それが実は非政治的なかたちでの官僚なのでしょう。そしてそれは、いまの霞が関官僚文化のなかでは極めて自民党寄りで政治的だということになると思います。(p.152-153)


ちなみに、安倍政権における中立性とは、マスメディアに対しては次のような意味になっている。すなわち、政権に対して批判的な意見と肯定的な意見を、たとえ肯定的な運動が極めて小さかったとしても批判的な意見と同等に扱い両論併記にとどめろ、というわけである。



強力な指導者がいる時の全国各地のコーカス・マシーンはほとんど無原則で、完全に党首(リーダー)のいいなりになる。こうして議会の上には、マシーンの力を借りて大衆の支持を得た独裁者――事実上人民投票的な――が君臨し、議員はこれに追従する政治的な受禄者に過ぎなくなる。(p.177)


ウェーバーの『職業としての政治』より孫引き。小選挙区になってからの自民党における総裁への権力集中などが想起される。



 ちなみに江戸末期から明治初期にかけて、日本から色々な人たちがイギリスに留学しました。でもオックスフォード大学とケンブリッジ大学の卒業生はほとんどいません。いてもごく一部です。
……(中略)……。
 じつはオックスフォード大学とケンブリッジ大学は、卒業要件が国教徒であることでした。国教徒でない人は卒業証書をもらえません。留学して研修をすることはできますが、卒業証書はもらえなかったのです。これが変わったのは19世紀の終わりです。(p.181-182)


この卒業要件には驚いた。



佐藤 階級制度というのはイギリス特有の現象です。これは話し言葉でもわかります。たとえばデザートのことをdessertと言うのは上流階級です。普通の人たちはデザートなんて言いません。中産階級はsweets(スウィーツ)と言います。労働者階級はafter(アフター)と言います。メインを食べた後に出てくるからafterです。このようにすべてのところにおいて、言葉も習慣も違うわけです。そういうところから出てきたのが、現代の保守党と労働党の二大政党制なのです。(p.184)


dessertとsweetsとafterなどと同じようなものを指す言葉も違うというのは興味深い。日本にはdessertから入ってきたのは、エリートが留学した際に学んできたのでイギリス側でも上流階級の人と接することが多かったからではないかと思われる。最近、sweetsという言葉が日本でも頻繁に使われ出したのは、グローバル化でビジネス的な交流が増えたことにより日本とイギリスの中産階級的な人々の間での交流が増えたことも反映しているのだろうか?そして、afterという言葉が日本ではあまり知られていないのはイギリスの労働者階級と日本の人びとはあまり接触がないからではないか。



佐藤 なぜ日本に二大政党制が馴染まないのかというと、まず、宗教によって国家が二分化されたことがないからです。それから階級によって二分化されたこともありませんかつての社会党と自民党の関係というのは、国際情勢による二分化であったわけです。米ソの東西冷戦という構造を反映していたわけです。(p.186)


二大政党制の社会的な基盤がないというのはその通りであろう。また、かつての社会党と自民党が冷戦を反映していたものという指摘は興味深い。



ニクラス・ルーマン 『権力』

 権力は、しかしまた、権力に襲われる自我の側にも別の諸行為の可能性が開かれている、ということを前提している。権力が伝達の働きをおこなえるのは、自我が別の諸行為もなしうるという状況のもとで、自我の行為(あるいは無行為)の選択に影響を与えることができるからである。自我の側に行為もしくは無行為の魅力的なさまざまな選択肢があるのに、なおかつ自己を貫徹することのできる権力こそ、強力な権力である。したがって、権力は、権力服従者の側での自由が高まっていく場合にかぎって高まっていく、と言うことができるのである。
 それゆえ、権力は、具体的に明確に定められた何事かをなすべきだとする強制とは、区別されなければならない。強制を受けるとき、彼の選択可能性はゼロに下がってしまう。強制は、極端な場合には、物理的な暴力の行使ということになり、ひいては、他者が聞き入れない行動を自分で代ってするという結果になる。権力の性格が強制に近づいていくにつれて、その権力は、二重の偶発性を橋わたしするという機能を失なっていく。強制とは、シンボルによる一般化の利点を放棄するということを意味しているのであり、パートナーの選択性を操縦するのをあきらめることである。多くの場合、権力が欠けているために強制が行使されなければならない、と言うことができるのであるが、強制を行使するひとは、その行使の度合いに応じて、選択と意思決定の負担を自分で引き受けなければならなくなる。(p.13-14)


権力と強制は異なるという理解は、これまで主にウェーバーの権力概念に依拠して権力を捉えてきた私にとっては新鮮だった。ルーマンの権力はコミュニケーション・メディアであるから、コミュニケーションの前提としての二重の偶発性(ダブル・コンティンジェンシー)を欠くことができない。強制においては自我の側の選択肢がなくなってしまうためコミュニケーションが生じない、というわけだ。

明確に定められた何事かをなすべきと言葉によって命令されただけであれば、コミュニケーションが成立する余地があり、権力の出番がある。普通、日常用語では「強制」という語には、こうした場合も含まれることが多いように思う。この区別を明確に成り立たせるためには、「強制」という語の意味をかなり限定しなければならないように思う。



 帰属化させてラベルを貼るという関心のあとに続くのは、行為の事実を前提してそれに説明を与える類別化、すなわち自己の行為や他者の行為の体験のしかたを秩序づける類別化である。意志(理性とは区別された)の概念や選択の偶発性を自由(偶然とは区別された)として把握することは、この類別化の一部であるし、最近でいえば、とくに動機や意図の認定がそうである。自由意志というのは、行為の古代ヨーロッパ的な一属性であるし、動機づけられているという性質は、行為の近代的な一属性である。それらは、どちらの場合にも第一次的な事実ではなく、ましてや行為の<原因>ではない。そうではなくて、それらは、行為についての社会的に一致した体験を可能にする帰属認定のあり方である。動機は、行為するにあたって必要なものではないが、行為を理解しつつ体験するためには必要なものである。(p.31-32)


このあたりはウェーバーの理解社会学の方法に対する批判になっているように思われる。動機を理解しても行為を理解することには必ずしも繋がらない。むしろ、観察者による理解が行為の理解を妨げることになる面もある。



定式化された権力は、コミュニケーションの過程では、脅しの性格を受けとる。したがって、この権力は明示的な拒否の可能性にさらされている。それは、回避選択肢の実現化へのすでに第一歩、権力破壊への第一歩であり、この理由から、権力の定式化はなるたけ回避される。そのため、たとえば強制力を直接に表に出すのではなくて、強制力を内に秘めた権利主張を引き合いに出すといったやり方がとられる。(p.40)


権力が明示的に定式化されることは、それへの拒否の可能性をも生じさせるという部分が特に興味深い。何かが強くなると、それへの反対も強くなるというような形での両義性の発生がルーマンの議論では頻出するが、この論理はいろいろな場面で認識の役に立つように思う。個人的にはルーマンの理論から学びたいところのひとつかもしれない。



 社会の複合性の増大とともに選択の伝達ということに対する要求も高まるのであるが、コミュニケーション・メディアがこの要求を満たさなければならない場合に、こうした副次コードが形成される。その結果、抽象的で特定的でなければならない本来のコミュニケーション・コードと並んで、これとは逆向きに形成される副次コードが発生する。これは、本来的なコードと対立する諸属性をもちながらも、ある程度までは同じ機能をはたすことができる。(p.63)


一つ前の引用文と同じく、ルーマンの理論で多用される興味深い論理。



 さらに注記しておかなければならないことだが、交換に特定化されたメディアとして、貨幣は転換に対していちばん鈍感で抵抗力が強いので、他の諸メディアの保護のために、貨幣を遮断するような制度化がほどこされなければならない。(p.197)


ネオリベやリバタリアンへの批判として、この議論は参考になるように思う。



訳者解説より

 まず組織という社会システムの水準では、権力の増大は選択肢の布置の多様化・重畳化ということを同時に意味しているのだが、このことによって、互いに妨害しあえるような権力が発生する。なるほど上司は命令することができるが、多くのことを命令することができる場合には、彼はすべてのことを細部にわたって自分で指図することはできない。彼は部下の協力を当てにしており、自分が命令すべきことについても、逆にひとの方からこうしますからと言ってくれることすら当てにしている。(p.242)


上司と部下のヒエラルヒー的な関係においては、組織論などでは上司は部下に対して命令することができることが強調されてきたが、ルーマンは、むしろ部下の側にも上司に対してかなりの権力を持っていることを喝破している。

組織中央の権力が強くなると、こうした逆方向の権力が発生するため、中央集権化をしようとしてもなかなか頂点に権力が集中しきることはないということも示唆している。