アヴェスターにはこう書いている?
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池上俊一 『お菓子でたどるフランス史』

 さまざまな出身、由来をもつ人々から成るフランスでは、私的な空間では独自の宗教や生活習慣や言語の自由が保障されていますが、公的な場では全フランス人が、唯一共通の原則に従わなくてはならないのです。しかし、それはともすると、同化しないものは排除・抑圧すべき、という独善的なフランス至上主義となりえます。(p.18)


フランスは例えば移民を受け入れる寛容さを持っていると言えるが、それは同時に、共通の原則が課されることによる抑圧を生み出すものにもなっている。フランスにおけるムスリムの移民がフランス式の政教分離によって(スカーフの禁止などの形で)抑圧を感じるといったことが想起される。



 十字軍は、軍事的衝突でしたが、文化交流の側面もあり、食文化に関わる物も、アラブ世界からヨーロッパへともたらされました。それは、砂糖であり、香辛料であり、オレンジ、レモン、アプリコットなどの果物でした。……(中略)……。
 ……(中略)……。アラブ人たちの間ではずっと前から食べられていた砂糖菓子やジャム、砂糖漬け果物がフランスに導入されたのは、十字軍を契機にしています。そして中世末には大ブームになったのです。(p.38-39)


十字軍の運動が持つ文化交流の側面は軽視すべきではない。実際、中東の洗練された文化がヨーロッパに伝わるにあたって大きな役割を果たした。



パン・デピスとは、蜂蜜と小麦粉(あるいはライ麦粉)で作るパンですが、それに香辛料(エピス)の香りを存分につけるものです。これは11世紀からあったようですが、中世後期、14、15世紀に広まっていきました。……(中略)……。
 パン・デピスは、中国からアラブ世界を経由して、ヨーロッパに伝わったといわれています。(p.41)


中国→中東→ヨーロッパという文化の流れは概ね17世紀頃までの基本的な構図ではあるが、ケーキに類するものも中国から来たというのはケーキはヨーロッパのものというイメージを崩してくれるものであり面白い。



一般に大陸のカトリック教国では、おいしいものへの愛や執念が、キリスト教文明の善き作法、趣味の良さとして許容されました。これは、プロテスタントの国であるドイツやイギリスではなく、カトリックのフランス、スペイン、イタリアで「おいしいもの」の追求がさかんなことと関係しています。
 イングランドなどプロテスタントの国では、料理・食べ物とは、飢えを鎮めるためにあるのであり、新たな食欲をかき立てるようなことは好ましくないとされました。……(中略)……。
 ところがカトリック諸国にとっては、美食と誠実、礼節は相反するものではまったくありませんでした。……(中略)……。
 教会は、過度に豪奢で洗練された食べ物を、あまりにも快楽をともなって食べるのはいけないが、それも社会身分、年齢、性によって異なるとしました。またカトリック教会では、社交、礼儀も重視されましたから、食卓はその教育の場になるとも考えられたのです。呪われたのは、むしろ主たる食事の間のつまみ食い、秘密の摂食、そして大食などでした。つまりカトリック教会は、食事と食卓において、社会のエリートたちを、文明人にふさわしい、礼儀正しい立ち居振る舞いと慎ましやかな社交のできる人間に、育てていこうとしたのです。(p.82-84)


社会の共通善を指定していく機能が宗教にはある(少なくともかつてはあった)が、そのことが食に対する社会の姿勢に影響していたという指摘。確かにカトリック教会には教会内の序列があり、序列が上がることで社会的身分が上がることも、引用の最後の一文のような価値観を社会に浸透させる背景として指摘できそうである。



フランス建築は、マンサールのおかげで、イタリアの影響をようやく脱し、古典主義様式が確立されていったのです。(p.88)


なるほど。イタリア(ルネサンス)の様式から脱するにあたり、フランスではさらに遡った古典古代を規範とするに至ったというわけだ。



彼(引用者注:ボードレール)はその『ロマン派芸術』の中で、

……(中略)……。観察者とは、いたるところでお忍びを楽しむ王侯なのである。



と述べています。
 散策というのは、一種の文明のふるまいであり、またまったく新しい知覚方式でもあります。それは、人と人との、そしてあふれかえるモノや商品との、出会いと相互作用の新しい形式なのです。(p.180-181)


面白い見方。



 では、鉄道網の整備により、地方と中央が結ばれると、食文化はどのように変化するのでしょうか。結果としては、都会風の食べ物が地方に広がるというよりも、地方の名産品が、かつてよりずっと多く、パリに集まるようになりました。……(中略)……。
 鉄道網が敷きつめられていくと、フランスの農業のあり方も変わっていきます。1880年には農産物の価値が25年前の50億フランから80億フランに増えましたが、これは鉄道のおかげでした。というのも、農業にまったく新しい可能性が開かれたからです。つまり、それまで飢饉に備えるために雑穀を作っていた畑で、都会の市場に高く売れるものをたくさん作るようになったのです。その結果、大麦やライ麦の作付けが減って、パンやお菓子に使われる小麦、燕麦が増えました。また、砂糖の原料になる甜菜が高く売れるようになりました。貧しい地域が豊かになる可能性が高まったのです。(p.196-197)


飢饉に備えるための雑穀はどうなったのか?品種改良などで面積が少なくても量が賄えるようになったのか?それとも人件費の安い植民地などで作らせたのか?



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池上俊一 『パスタでたどるイタリア史』(その2)

 1848年はヨーロッパ中で多くの闘争がおきた年ですが、イタリアの愛国者たちも地歩を固め広げようと努めました。愛国の気運が徐々に高まり、ガリバルディ(図4-2)が組織した千人隊(赤シャツ隊)が活躍を始めました。
 そうしたなか、イタリア北西部にあったサルデーニャ王国は、以前は貴族と教会が支配する保守的な国でしたが、1848~49年の革命後、自由主義的改革を進める国へと変貌を遂げました。またそこは、イタリアにおいて唯一、憲法と議会がまともに機能している国でもありました。
 その王ヴィットリオ・エマヌエレ二世(本章扉)は、開明的な国王で、首相のカヴールやラ・マルモラとともに、自由主義的改革を強力に推進していきました。この国には多くの政治家が亡命してきて、イタリアの未来について政治的議論を繰り広げ、いかに解放と統一を達成すべきか、さまざまな案が出されました。そして、武力と交渉によって外国から解放した諸地域をサルデーニャ王国に合併していくことによる統一が現実的だ、との意見が有力になったのです。(p.142-143)


イタリア統一(1861年)前夜の状況。サルデーニャ王国が母体となってイタリア統一が成し遂げられたという認識はなかったので、少し驚いた。19世紀から20世紀前半のヨーロッパの各国史は、私にとっては盲点になっているところが多いように思う。もう少し勉強したい。



国家統一は、実際は北による南の征服であって、政治的にも社会的にも、北の論理で南を従属化することになっていく、というのが19世紀後半から20世紀にかけての現実だったのです。(p.144)


なるほど。イタリアの南北問題の政治的な起源の一つはこの辺りにもあるということか。

日本の近代国家成立について考えてみると、イタリアよりも条件が良かった面があることに気づかされる。少なくとも、本州、四国、九州は基本的に一つのまとまりを成しており、沖縄の琉球王国は清朝との関係もあったが薩摩藩も強い影響力を行使できる状態にあり、北海道(蝦夷地)も松前藩の領域までは一応の支配が及んでおり(時には蝦夷地を幕府の直轄領にすることもあった)、こうした範囲に近代国家並みの均質な支配が及ぶほどではなかったとしても、それなりの権力や権威を持つ幕府の統治機構が既に存在していたことは、統一的な近代国家を形成するための条件としては比較的有利な条件にあったと思われる。

例えば、イタリアは北が南を征服したが、日本の場合は薩長を中心とする西南部の勢力が中央を征服あるいはクーデタ的な形で乗っ取ったというような感じになる。その際、既存の官僚組織が培ってきたものが、ある程度活かされていることにも注目しておきたい。このこともあって、明治の前半は薩長などのかつての反幕府側の人間が政治的に有力な地位に就くことが多かったが、次第にそうした傾向は薄まっていったと見ることができる。

なお、サルデーニャなどイタリアの北部と日本の南西部は、ともに経済的な交易のしやすさなどから考えると、イギリスやフランスのような有力な列強との接触の先端地域に該当することにも注意しておきたい。



トマトとジャガイモ、この二つの素材は、特定の「地方」に結びつかない外来物だからこそ、普遍的な「イタリア料理」のシンボル的役割を果たしえたともいえるでしょう。(p.149)


なるほど。面白い。



 もう一点、アルトゥージの「改革」は、「食」だけでなく「言語」の改革でもあったと指摘するのは、ピエロ・カンポレージという著名な文化史家です。じつはイタリア統一時に「イタリア語」を話せるのは、2.5%にすぎなかった、という計算があるように、当時はほとんどの人が「方言」を話し、イタリア人同士でもコミュニケーション不能で、まるで外国人と話しているかのようだったのです。(p.152)


2.5%というのはなかなかすごい数字だ。ドイツなども同じように領邦国家が統一したはずだがどうだったのだろう?



 アメリカ合衆国成立までは、新大陸とは、すなわち植民地を意味し、そこから旧大陸へ物資がもたらされる供給源でした。しかしアメリカ建国後は、新たな段階に突入し、人々はそこに「未来」を見るようになったのです。アメリカ移民が大量に発生したのも、こうした「憧れ」と無関係ではありません。(p.194)


なるほど。アメリカ大陸のイメージが合衆国の成立によって大きく変わったというのは面白い。



民族と不可分という点ではおなじかもしれませんが、じつは唐辛子をふんだんに使ったキムチはごく最近の産物、すなわち20世紀に入ってから普及したのであり、それを民族の魂のように持ち上げるのは、近代的イデオロギーにすぎません。(p.215)


現在のような辛いキムチも「創られた伝統」だったとは知らなかった。どのような経緯でこれが普及したのか興味がある。是非知りたい。


池上俊一 『パスタでたどるイタリア史』(その1)

 さて、この教皇がおさめるローマ教会と、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の教会の間では、教義の違い、あるいはローマ司教(教皇)が他の司教と比べて優越しているのかといった問題をめぐって、対立が深まっていきました。七世紀から八世紀前半にかけてのことです。その隙を狙って、ランゴバルド王が、教皇のいるビザンツ支配下の、ラヴェンナ・ローマ枢軸地帯にまで侵入してきました。
 ビザンツ皇帝からの援助を得ることができない教皇は、ゲルマン民族の一派で急速に勢力を拡大しつつあったフランク人と手を結ぼうと考えます。(p.27)


いわゆるゲルマン人の大移動によって東方からランゴバルド人が流入してきた際、ローマ教皇はコンスタンティノープルとの対立のため、ビザンツ皇帝から援助が受けられないという状況にあった。このことがフランク人との協力へと繋がった。そして、フランク人側にも少数の政治支配層が多数のキリスト教たる民衆を治めるにあたって、教会の協力を必要としていた。この両者の利害の一致がカールの戴冠へと繋がったということか。さすが高校生向けのジュニア新書だけあって分かりやすい説明だと感心した。



スペインによる南イタリアの支配という体制は、スペイン継承戦争(1701~14年)によってスペインの王家がブルボン家に替わったあとも、一時の例外をのぞいて、イタリアの国家統一(1861年)まで継続したのです。
 スペイン支配下では、諸侯や騎士の権利は抑制され、都市の自治も完全に抑圧されました。商業は特権を得た外国商人が行い、宮廷の高級役職も王国の財政実務も外国人が独占しました。本国からやってきた王族や王権と結託して広大な所領をもつ大貴族だけでなく、土着の貴族も、スペイン王に忠誠誓約をし軍役奉仕をすることで、特権を得ました。領主が農民を収奪する構造、外国人のために現地人が犠牲になるという構造がずっとつづいたのです。
 またイタリアの北・中部の都市は、ナポリ王国やシチリア王国に毛織物などの各種商品を輸出して、小麦をはじめとする食料・原料を輸入するようになりました。イタリア統一以後明白になる南北問題――南が経済的に北に従属する構造――は、すでにこの時期から始まっていたとも考えられます。そんな状況では、南イタリアの都市は、第1章に見た北・中部のような自治都市として発展すべくもありませんでした。北イタリアのように都市が中心地として周辺のコンタードを支配する、というような都市・農村関係もなかったのです。
 南イタリアの農民を困窮させたスペインの支配は、彼らにとって幸福なことではもちろんなかったでしょう。しかし一方で、スペインからすぐに新大陸産の新食材が入ってくる、という食文化史上のメリットは、たしかにありました。(p.64-65)


14世紀から19世紀まで南イタリアはスペインの植民地のような状況だったということか。普通に世界史の教科書などを読んでいてもこの辺りにはあまり注目されることがないように思うが、現在でもイタリアには南北の経済的格差のほか、政治的にも「ソーシャル・キャピタル」(ロバート・パトナム)に差があるとされていることを考えると、両地域の歴史的な経路を理解したり、国民国家の統一ということの意味などを考える際にも重要になってくる事実であると思われる。

また、パスタを含めた「イタリア料理」にトマトなどの新大陸に由来する食材が使われるが、この背景にはスペインとの関係の深さがあるという指摘も興味深い。



 サトウキビ栽培は、イスラーム教徒の支配したシチリア島やキプロス島などでは、比較的早くからさかんになりましたし、十字軍を契機にサトウキビ栽培および製糖技術もヨーロッパに伝わるようになりました。しかし大量消費が可能になったのは、ようやく十六世紀になってから、スペイン領のカリブ海の島々で、ついでポルトガル人支配下のブラジルにおいて、大規模なプランテーションが始まってからのことでした。ですから砂糖は、中世では薬品ないし一種の香辛料として扱われていたのであり、使えるのは貴族にかぎられていました。パスタに使うのも貴族だけだったことでしょう。(p.67-68)


砂糖の歴史も、川北稔などが書いたやさしい本(『砂糖の世界史』)などもあり興味深いものだとは知っていたが、やはり食糧や食材などについての歴史を見ていくと、必ずというほど突き当たる。このことは、ある意味、現在がいかに砂糖にまみれた(?)生活をしているかということが反映しているように思われる。

砂糖がヨーロッパで大量消費できるようになったのは、南北アメリカを植民地化し、そこでのプランテーションによるものだったというのは重要。本書の姉妹編である『お菓子でたどるフランス史』でもこのあたりについては触れられるだろう。



 こうした甘いパスタの痕跡は、現在、思いがけないところに残っています。というのも、イタリア語の甘いパスタとしての「マッケローニ」maccheroniが、フランス語の「マカロン」macaronsになり、今、日本でもデパートの洋菓子店などによく見られるようになった、人気のお菓子のひとつの名前になったからです。(p.69)


一つ前の引用文の最後に、パスタに砂糖を使ったということを示す一文があるが、16世紀頃のイタリアでは香辛料としての砂糖を使ったパスタが食べられていたという。これがマカロンの名に繋がっていったというのは面白い。



 ここで、いわゆるルネサンス期の歴史について、簡単に触れておきましょう(バロック期の歴史については本章末尾参照)。イタリア半島では、中世末には多数の小さな都市国家に分かれていましたが、15~16世紀には、それらが集合して大きくなり、今日の「地方」regioneに等しい大きさの領域国家となっていきました。そして政治体制としては、コムーネ(自治都市)がシニョーリア(君主国)に席を譲ることになります。
 これらの君主が皇帝か教皇から封建的な称号をもらうと、正式の「君主国」になります。ミラノのヴィスコンティ家、マントヴァのゴンザガ家、フェッラーラのエステ家、フィレンツェのメディチ家などが君主となり、中心都市に立派な宮廷をかまえ、廷臣たちが群がったのですが、また教皇宮廷も同様な役割を果たしました。宮廷は、当時の政治・文化の中心で、芸術家・学者をも集めることになりました。
 こうした君主たちは、「パトロン」となって学者・芸術家たちを保護しました。その結果、世界と歴史の中心に人間をおき、言語文献学と市民道徳を融合した運動である人文主義が花開き、芸術分野でも、神中心ではない、人間中心のルネサンス芸術が開花したのです。これには、古典古代の文献・文化の再発見と、諸科学・技術の一大進歩を伴っていました。(p.107-108)


当時のイタリア半島では都市国家から領域国家へと規模が拡大し、君主の宮廷が成立していったことが、学者・芸術家たちにパトロンが存在し得るようになった背景にあったということか。なるほど。科学史や思想史などから見れば、イスラーム世界からの学問の翻訳・輸入があり、その原典としてのギリシアやローマの発見といった要因が指摘されるが、宮廷のパトロンの下に多くの学者や芸術家が集まり活躍したという形になったことの社会的な背景としては、この国家規模の拡大があり、そして恐らくこれに伴う宮廷の財力の拡大ということがあったのかもしれない。




越智敏之 『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』

 実際には西洋の食の中心は肉というイメージが確立するのは、十八世紀に農業革命のおかげで肉類を一年をとおして供給するシステムが確立してからだ。それまでは意外にも、魚のほうが肉より消費量が多かったと言っていい。(p.4-5)


この認識は、本書を読んで最も興味深く、参考になったものの一つ。欧米というと肉食というイメージは、比較的新しいものであり、「創られた伝統」と言ってよいかもしれない。

 上記の三種類のなかで、持ちが一番いいのは塩ダラだった。つまりストックフィッシュよりも航海のための食糧として打ってつけということで、冷凍技術が生まれるまえでは、赤道を越えても腐ることのない数少ない保存食だった。大航海時代といえば黄金や財宝、スパイス、植民地の獲得といった華々しいイメージばかりが先行する。だが、ストックフィッシュがヴァイキングの高い航海能力を支えたように、ストックフィッシュや塩ダラがなければ、大航海時代があそこまで爆発的な勢いを持つことはなかったのではないかと考える研究者は多い。(p.154)


確かに、言われてみれば長期間の航海が行われるには保存食が必要だが冷凍技術がない時代には、この条件がクリアされない限り、数カ月や数年という航海はほぼ不可能だと思われる(アフリカからアジアへのルートでは、寄港地で次々と食糧を仕入れていくことで対応できる部分はあるとしても、大西洋を横断したり、さらに太平洋まで抜けていくようなルートでは必要不可欠と思われる)。



坪田信貴 『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』

 この子は、見た目と違って素直だ、これなら絶対大丈夫、相当行けるぞ。
 ひねて、妙にプライドが高い子は、自説をなかなか変えようとしませんそういう子は「あ、はい。でも……」と、なかなか行動を変えたがらないのです。そうした場合は指導に少々手こずります。そういう子は、自分がこれまで間違ったやり方、バカなやり方をしていたと認めるのが恥ずかしいから、常に無意識に反論してくるからです。
 でも、この子なら、さやかちゃんなら、勧めたやり方をすぐ受け入れるのではないか。そうだ、この子は、伸ばせる――(p.27)


素直さが重要だという点は非常に納得ができたというか、偏差値が急激に伸びた理由として非常に大きなポイントだっただろうと思われたところ。

実際には大した実力がないのに、「自分はある程度できている」と勘違いしている生徒は、「妙にプライドが高い」というパターンの一つの典型例だと思われる。自分の実力を客観的に見ることができていない時点で、この類型の場合、自分自身で正しい方法を見つけることができないが、恐らくは、自分の実力が客観的には自分が思いたいほどの水準ではないと薄々感じているからこそ、自分自身を守るために「プライドが高い」振る舞いをしなければならなくなっている面もあると思われる。この場合の「プライド」は、この言葉が本来示しているはずの「自尊心」ではなく、他人に対して自分をよく見せるための「虚栄心」となっている。この虚栄心が邪魔をして、正しい方法を提示されても、素直にそれを受け入れることができないため、いつまで経っても力がつかない、ということになる。成績が伸びない受験生のかなりの割合が、これに近い状態なのではないかという気がする。

大学受験で求められる学力水準など実際には大したものではないから、正しいやり方で必要なだけの量をこなせば、本来の能力にやや特別な欠落(知的障害など)がない限り、一般に「難関」と呼ばれるような大学に合格できる程度の水準まで到達するのは容易である。私立大学の場合は、受験科目も少ないので半分以下の努力で到達できる(例えば、国立大学など、普通の私立より科目数が2倍ある場合、苦手科目も普通の人の得意科目並みかそれ以上の水準に達することを求められるため、実際の難易度は2倍よりもかなり高いと考えられる。)



「テストって、さやか、嫌いだなー。だって、点数が出て終わりでしょ」
「そっかなぁ。僕は点数が出てからが始まりだと思ってる。だって、できないことがわかったら、そこからできるようにすればいいだけじゃん?」(p.31)


ここでの主人公さやかちゃんの考え方は、「テスト」というものに対してしばしば抱かれがちなイメージであり、先生の意見はそれなりに(大学受験に限らず)受験に関わりを持ったことがある人にとっては当然の考え方であると思われる。

本番の入試というのは、合格や不合格を決めるための「テスト」、すなわち、入学に相応しいかどうかを「試す」ためのものであり、結果が重要な類のテストだが、学校で行われる日常的なテストや模擬試験のようなものは、様々な分野や項目についての到達水準がどの程度であるかを「試す」ための「テスト」であり、この種のテストは出来ないところを明らかにすることに意味がある。テストというものは、点数がつくことによって他人(教師や同級生など)から評価される事になるため、そのことばかりに気を取られてしまうと、自分を良く見せるための自己防衛的な観念がまとわりつくので、こうした当たり前のことが見えなくなる傾向があるように思う。



さやかちゃんが慶應に行ったら、周りのみんな、マジでビビるよ。で、スゲーってなる。でもね、何より、絶対無理!って言われることを成し遂げたことが、自信になるんだ。それが大人になってからも、大事なことなんだ(p.31)


この点は、ある意味、大学受験が人生に及ぼす影響のうちでも、比較的大きな点であるように思われる。本書の主人公ほど劇的な人はそう多くはないが、いわゆる難関といわれるような大学に入学することは、そのこと自体が「自分はこのくらいの事は成し遂げられた」という自信を与えてくれるものだろう。(ただ、それで満足したり、それだけしか自信になるようなことを成し遂げられていないようだと、周囲からの評価はむしろ下がることになるが。)

もっとも、これよりも大きな影響は、いわゆる「良い大学」には、それなりにできのいい学生の割合が高く、人生の中で優れた人物と交流することから得られる影響や人脈自体が持つネットワークの力などがあり、こちらの方が社会学的な観点から見ると重要な意味を持つと思われるが。(この点についても本書で指摘があり共感したところ。)



慶應に関しても、坪田先生が、“慶應に受かって、ものを知っている仲間たちと出会うと、さらに世界が広がるよ”と教えてくれました。(p.89)


上で述べた通り、共感したところ。私自身が、大学受験に失敗した生徒に、いわゆる良い大学に行く意味はこの点にあると話したことがある。学歴が高いことがあまり意味を持たなくなってきているなどと言われることがあるが、私は逆に、資産と所得の格差が拡がっていることが実証されている現在においては、より恵まれた環境にいる社会層とそうでない社会層のどちらに属するかということの意味は、以前にも増して大きくなっている面があると考えている。



 受験は、「マラソン大会」に似ています。……(中略)……。
 大学受験というのは、すでに10年以上マラソン大会をやってきている選手たちのラストスパートの場です。みんな必死です。
 たとえて言うなら、
 偏差値70の子たちは、時速30キロで走っています。
 偏差値60の子たちは、時速25キロで走っています。
 偏差値50の子たちは、時速20キロで走っています。
 偏差値40の子たちは、時速15キロで走っています。
 偏差値30の子たちは、時速10キロで走っています。

 こうして走者の集団ができあがるわけですが、偏差値30の子が、40に追いつこうとすると、当然、偏差値40の子たち以上のスピードで走らないといけません。(p.118-119)


この点も、大学受験に失敗した生徒に同じ主旨のことを説明したことがあり、共感したところ。実際に、偏差値50以下というのは、基礎学力が相当足りない状態であることをも示しているので、基礎固めをどれほどの速さでできるかに勝敗がかかってくる。偏差値50台は基礎がまだ不安定なので、どこが弱いかを見極めて効率的に攻略するステージであり、60を超えてきたら基礎より受験問題に対応するためのいわゆる応用力をどこまで鍛えられるかによって到達水準が決まってくるという感じだと思っている。

もっとも、大学入試の場合は、大学の出題傾向の把握が先にあり、それに対応した対策をとるのが最も効率的であるため、一般的な模試などでの偏差値は必ずしも重要ではないが、総合的な基礎学力の習得度を図るという意味では偏差値の数字にも意味があると考える。(偏差値は相対的な値ではあるが、毎年似たような教育を受けた多数の生徒たちが叩き出す結果であるため、相対的な位置を知ることが絶対的な水準を計る目安となると考えている。)



 自分が成功することを“知っている”こと。自分が天才だと“知っている”こと。根拠なんていりません。そう“知っている”だけでいいんです。もし、そう思い込めないなら、
「言葉に出して、みんなに言いふらすといいよ」
と僕はさやかちゃんに助言しました(そして実際、素直にそうしたようです)。
 たぶん、周りのみんなは「バカだ」とか「無理だ」とか「恥ずかしい」とか言うでしょう。だけど、なんと言われてもそれを「口にし続ける」ことで、自分自身がそう思い込み始めるのです。これが大切なんです。そこに、2、3人でいいんです、信頼できる人の肯定を加えられれば、知らぬ間に人は伸びていきます。これが成功のための第一歩なのです。(p.122-123)


前段の部分、成功することを知っているかどうかが重要だという点は、先ほどまで何度か書いてきた受験に失敗した生徒に話をした際に同じようなことを話していたこともあり、共感したところ。

自分自身の経験として、最終的に受験先を決めた際、間違いなく受かるという確信が自分の腹の底にあったことを覚えている。このような感覚があるかどうかを、その生徒に尋ねたが、その感覚はないと言い、泣き出したことが印象的なやりとりだった。

引用文後段の、言葉に出して人に言うというのは、なるほどと思わされた。私が大学生の頃に読んだナポレオン・ヒルの『成功哲学』の考え方と同じだと思った。こうやって無意識が働くようにしていくことがいかに能力を発揮する上で重要か、よくわかる。上述の話をした際、ここまでアドバイスできていればよかったのに、と少し悔しい思いになった。



 基本、参考書ベースではなく、問題集ベースでやることが大切です。なぜなら「入試」は問題ベースですから。参考書はあくまでも「参考」程度。問題が解けない場合だけ解説を見て、「解き方を覚える」。そして、とにかく「解いてみる」。これで十分なのです。(p.129)


私自身の経験とも合致する。浪人していた頃、予備校の授業を聞いていても何の意味もないと判断して、1~2か月ほどで行くのをやめたのだが、その理由がこれだった。授業を聞いていても点数には結びつかず、通学に往復3時間近く取られることも時間の無駄になっていたからである。

私見では、授業や参考書が必要(重要)な場合があるとすれば、それは基礎が全く固まっていない科目だけである。偏差値が40台以下の科目では問題を次々解こうとしても、まったく歯が立たない場合がある。そうした場合に、短期集中で(!)覚えるべきことを完ぺきに頭の中に叩き込む。それがある程度まで行ったら、問題集ベースに切り替えて覚えたことの使い方を練習する

高校3年生で授業を聞くのは、初めて知る知識だから意味があるが、予備校で授業を聞くのはほとんど意味がない。このことを良く弁えることは非常に重要だと思う。



“なんで僕が君に慶應、慶應って言うかわかるか。卒業したら、慶應のすごさがわかるよ。慶應の卒業生にはすごい人が多いから、素晴らしい人生の宝になるような人たちに出会えるよ”(p.130-131)


89頁の引用文と同じだが、良い大学にいく意味は究極的にはこれに尽きると言ってもよいように思う。



 結局、学校教育の現場には、なかなかそうした臨在性も迫真性も持ち込めていないのが問題なんです。(p.137)


臨在性とは、「まさにそこにある、という感覚」であり、迫真性とは、「まさにいま、自分がやらなきゃいけない、という感覚」だという。

学校教育にそれがないというのはなるほどと思わされた。高校でいえば、いわゆるレベルが低い、受験から遠い高校ほどその傾向は強そうに思う。いわゆる良い高校から良い大学へと進学しやすい理由の一つは、こうした感覚を持っている生徒の割合が高いことが、その他の生徒たちにも伝染していく効果があるということにあるように思われる。



 そして、今や「理想的な家族」と見えるこのご家庭から学んだことは、結局、「子どもの成長」と共に、「家族も成長」するのだなということです。

 さまざまな教育的な背景、価値観が違う人間が家庭を作る。そこでいざこざがあるのは「普通のこと」なのです。
 誰のせいとか、何が良い悪いとかではなくて、「家族」というのもたぶん、結婚した時を0歳として「成人」していくものなのかもしれません。(p.271)


なるほど。



●「一喜一憂するな」
 僕が受験指導をする上で最も数多く発する言葉です。いちいち悲しんだり喜んだりするんじゃないと。
 ……(中略)……。
 でも、そういう感情の上下があまりにも大きいと、「いろいろな理由」を思い浮かべることができて、まったく勉強しなくなる傾向が出てきます。(p.300)


確かに。



 ポイントは、「何回言ったら、わかるんだ!?」というしかり方は、「お前は何回言っても、わからない奴だ」というラベルを貼っているに過ぎない点です。実際は、そんなに何度も言ったりはしていないはずです。「ただ言葉をかけるだけ」ですと、500回も言わなければ、行動まで変化することはないと知ってください。
 これを知っているだけでも、大きな差になると思います。(p.307)


これは受験というよりも社会に出てから仕事で人を指導するようになってからの方が重要なことかもしれない。



 「やればできる」という言葉を多用すると、相手の「やる気がなくなる」のです。
 なぜなら、本人の中に本当に「やればできる」という確証がない状態でものごとをやってみて、もしもできなかったら、それは「自分の能力がないことを証明することになる」からです。
 真剣にやらずにいれば、いつまでも「やればできる」と言ってもらえます。
 ですから、やる気のない「やる気なしお」くんに「君は、やればできるんだから!」と声をかけると、ますますやらなくなるのです。(p.312)


確かに、この言葉をかけられている子どもが「できる」ようになったのを見たことがない。



 多くの親御さんが、「うちの子のやる気スイッチはどこにあるのでしょう?やる気になれば、やるようになるし、うちの子もやればできると思うのに」とおっしゃいます。
 僕はそんな時、「それは順番が違いますね」と言います。「やる気になる→やる→できるようになる」ではなく、「やってみる→できる→やる気になる」が正しい順番なのです。(p.312-313)


まったくその通り。「やってみる」にうまく誘導できるのが、教える人として優れているかどうかを分ける一つのポイントだと思う。



 逆に言えば、思春期にいる子どもたちは、「年中生理中」という状態なのです。よって、時期が過ぎれば、そうした人生の生理も終わります。その時期に、「あなたはわがままだ!」とか、「そんな考え方では世の中通用しない!」とか、「私だって大変なんだ!」とか、理論や理屈や感情でぶつかって行っても、相手はただイライラが募るだけで、しかもレッテルをたくさん貼ってしまう分だけ、悪影響しかありません。
 この「年中生理中」というのを「知る」だけで、安心する親御さんは多いですね。(p.315)


なるほど。うまいことを言うもんだと感心する。