アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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仲正昌樹 『マックス・ウェーバーを読む』(その1)

ウェーバーは、人間にとって、自らが身に付けた価値観を離れて物事を見ることの困難さを強く意識していた。だからこそ、自らの拠って立つ価値観を認識し、それに無自覚的に引きずられないよう、自らの立脚点を常に批判的に検証し、「客観性」を追究し続けることを、学者の使命と考えた。
 そこが――階級的立場に起因する党派性を積極的に肯定したマルクスとは異なる――ウェーバーに固有の魅力である。実践的な問題に関心はあるものの、イデオロギー闘争とは一定の距離を取り、理論的な考察を深めたい学者の多くが、「理論」と「実践」の間の緊張感を保とうと苦心し続けるウェーバーのスタイルに惹かれた。(p.16)


ウェーバーの魅力は、確かにこうした点にあったように思う。しかし、著者(仲正)も指摘するように、現在、ウェーバーの魅力は以前ほど人々(研究者や読者)の心を捉えなくなってきているように思われる。社会の側の変化が反映していると思われるが、この点は自分でももっと掘り下げて考えてみたい問題である。

実際、私自身も、10年ほど前まではかなりウェーバーの思想に魅力を感じていたが、ここ数年はウェーバーを研究するというよりウェーバー研究をメタレベルから俯瞰したいという見方が強くなってきている、こうした私自身の変化もまた、社会の動きと某か関係しているのかも知れない。



 ここで述べられているように、資本主義システムが、企業家と労働者の双方に一定の規範(Norm)を内面化させ、“自発的”にそれに従って振る舞う「主体」へと形成し、それによって自己再生産しているのだとしたら、資本主義社会に生きる個人が、新たな規範を作り出すことはほぼ期待できない。しかしウェーバーは、そうしたシステムが出来上がる“以前”の状態に注目する。資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が「淘汰Auslese」――「淘汰」というのは、ダーウィン(1809~82)の進化論を念頭に置いた表現である――によって選び出されるからには、そうした生活態度や職業観念が予め成立していなければならない。(p.69-70)


こうしてウェーバーの探求は、資本主義の「精神」に先立って成立していた古プロテスタンティズムの生活態度や職業観念に遡っていくことになる。

しかし、ルーマンなどもそうだが、オートポイエーシス的にシステムを捉えると、必ずしも予め同じようなものがあり、それが進化ないし展開していったと考えなければいけない理由はなくなる。この点は「プロ倫」の論理の最も弱いところであろう。



 ウェーバーは、「職業政治家」が生まれてきた歴史的経緯を説明したうえで、「政治家」に必要な資質を問題にする。政治家が得られる第一の内的喜びは、自分が他人を動かす権力に関与している、日常を超えているという昂揚感、「権力感情Machtgefühl」である。この感情を制御して、権力に相応しい振る舞い方をするには、①情熱(Leidenschaft)②責任感(Verantwortungsgefühl)③判断力(Augenmaß)――の三つの倫理的資質が必要である、という。(p.111)


『職業としての政治』の割と有名な箇所であり、小泉純一郎が首相だった頃、しばしばこの3つの資質について語っていたのが想起された。

今、ここを改めて読み直して思うのは、安倍晋三という政治家は、まさにこの「権力感情」の虜となっているのではないか、ということである。安倍の好むタカ派的で軍事優先的な考え方は、それを主張することで「自分は強い」という錯覚を覚えることができる類のものだし、その考え方に沿って他の政治家や官僚たちを従えることもまた権力感情を呼び起こす。歴史修正主義と呼ばれる歴史観についても、「かつて日本は悪いことをした」という考え方を否定したいという願望が根本にあると考えられ、これは軍事的な拡張に対する反省をしたくないという考え方と繋がっている。当然それは上述の軍事優先的発想と軌を一にしている。安倍が「支持率」を異様に気にしていること――異常なメディア支配・統制もここに由来していると私は見る――も、自らの権力を維持すること、そして、その権力によって軍事優先主義的な政策を実現していくことのための手段だからであり、これらは安倍の権力感情は昂ぶらせてくれる。また、首相就任後など盛んに外交のため外遊していたが、政治記者などに言わせると、安倍はこうして「国を背負って」外遊すること自体を好むということも耳にしたことがあるが、これもまた権力感情が高揚するからだろう。

安倍には自分の利己的な思いを実現しようとする情熱は持ち合わせているかもしれないが、責任感と判断力が欠けている。責任感という語にはantwortungsという綴が見られるが、安倍は「戦争法案」とも呼ばれる安保関連法案などについて質問されてもはぐらかすだけで何ら答えようとはしない(問題から目を背けるばかりで責任を果たそうとしない)、というのが安倍の基本的な政治姿勢を端的に示している。北朝鮮や中国への脅威を(政府というより自民党として)持ち出しながら、アメリカとの同盟を強めることで「抑止力」が高まるなどと言って「戦争法案」と呼ばれる安保関連法案を提出しているが、北朝鮮の「脅威」は実際にはかなり小さなものだし、中国については、アメリカと緊張感はあるがかなり重要なパートナーとなっており、日本がアメリカ側についてアメリカと一緒に中国に対抗する、といった一面的な図式には収まらない。まさにこの法案の提出は、客観的な情勢への判断を伴わず、自らの権力感情の充足を優先させているところから出ている。



「大衆」にとっての「民主化」とは、指導者に対して影響力を行使する可能性が増えることにすぎない。(p.131-132)


こうした醒めた認識は重要と思われる。しかし、この見方には将来への希望がほとんどない。影響力をより大きく行使できるようにする方法や仕組みといったものを提示するなどして、少数支配の原理に対抗するビジョンを人々が共有できるような理論が求められるのではないか。




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孤蓬万里 『「台湾万葉集」物語』

 1972年、日本は台湾に絶交状を叩きつけ、大陸の承認に踏み切る。渉外機関として大使館のかわりに日本は交流協会、台湾は亜東関係協会を設立して経済関係を維持させた。しかしそれ以来、読売、朝日、毎日の三大新聞の誌面から台湾のニュースは消え、産経新聞のみが許される。文芸欄も全く同じことで台湾からの投稿は産経新聞を除いてはオフ・リミットとなった。(p.60)


中華人民共和国との国交樹立と中華民国との断交以後、新聞においても中華民国の扱いが変わったというのは興味深い。本当にここまではっきりと記事が出なくなったのかは疑問があり、むしろどの程度扱われなくなったのか、ということに興味が惹かれる。本当に中華民国(台湾)関係のニュースを全く取り上げなかったのだとすれば、過去のこととはいえ、問題と思われる。扱いにくい問題は扱わなくてよいのか、という問題に繋がっていくからである。


片倉佳史 『台湾鉄路と日本人 線路に刻まれた日本の軌跡』

しかし、この基隆~台北間の鉄道は台湾のみならず、清国を含めた地域においても、初の官営鉄道となった。
 ここで興味深いのは住民が反対した最大の理由である。それは線路が土地を貫くと風水が悪くなるというものだった。(p.20)


上海近郊に建設が予定されていた鉄道も同じ理由で反対が起こり、実現できなかったというが、風水を理由に鉄道敷設に反対するというのは、当時の清の領域内の人々の観念や教育の状況などが透けて見えるエピソードであると思われる。



 当初の台北駅は現在の場所ではなく、淡水河の河畔にあった。(p.21)


なるほど。淡水河と内陸を結ぶという位置づけであれば、適切な位置と言えると思われる。



 街は駅を中心に発達し、放射状に延びる道路の両脇にバロック風の装飾を施した家屋が整然と建ち並ぶ。その様子はこの町の自慢だった。(p.52)


台中に関する叙述だが、ロータリーの周囲にバロック風建築というパターンは大連を想起させる。台湾と中国東北(満州)との関係性が垣間見える。



 台東線が開通した当初から、将来的に鉄道輸送の重要性が高まることを想定し、隧道や橋梁、築堤、掘割などが一般の鉄道車両の規格に準じて造営されていたのである。(p.99)


台東線は当初は軽便鉄道規格であったが、戦後になってから改軌工事が行われたが、スムーズに工事が進んだのは当初の日本の技術者たちの先見の明によるものだという。

私が思うに、技術者たちの先見の明というのもあっただろうが、長期的に台湾を統治していこうという当時の日本政府の考え方も反映していると思われる。



 日本統治時代初期、総督府は「工業の日本」に対し、「農業の台湾」という構図を描いていた。そして、台湾中部の彰化を境に、北は米作、南はサトウキビ栽培という構図が存在した。(p.105)


当時の総督府の考え方は、現実を単純化した図式ではあるが、大まかな方向性としては理解できる考え方であると思われる。



1901年に操業を開始した橋仔頭糖業所が最初の鉄道敷設案を提出し、1907年に総督府から許可を得ている。そして、同年11月、台湾で最初の製糖鉄道が走り出した。
 この時、台湾製糖株式会社はアメリカの機関車メーカーであるポーター社から3両の蒸気機関車を購入している。ポーター社製の機関車は簡素な構造で扱いやすく、評価が高かったという。(p.109)


上に引用した「農業の台湾」という図式に合わせて、台湾製糖業の父とも言うべき新渡戸稲造をはじめとする札幌農学校の卒業生たちが台湾で製糖業や米作などの研究や事業に関わっていたが、北海道で最初で走ったのも同じポーター社製の機関車であった。このあたりに何か繋がりはあるのだろうか?非常に興味深いところである。ポーター社というのは当時それほど有名なメーカーではなかったとも聞いたことがあるので、なおさらこの附合は興味深い。



 この台車軌道が日本で登場するきっかけとなったのは、北海道の開拓に際してである。もともとは建設資材や生活物資を運搬するために敷設されたが、その後、徐々に旅客輸送をも行なうようになっていった。これらは「拓殖鉄道」と呼ばれたが、その発展期に台湾の領有が決まったこともあり、領台当初から各地で敷設が計画されることとなった。(p.115)


北海道と台湾の比較や関係に関心のある私にとって、特に興味を惹かれた箇所のひとつ。台湾各地に作られたトロッコもまた北海道開拓と連動していたとは!今まではあまり軽便鉄道やトロッコなどには関心を持っていなかったが、そういった部分まで掘り下げるとさらにいろいろと見えてくるものがありそうである。



松村隆 『江差 街並み今・昔』

 追分会館計画がきっかけになって、北海道大学工学部建築学科のスタッフによって街並みが見直され、新たな構想でいま歴史の街並み再現が進められている。(p.13)


昭和40年代に新しい国道が海岸沿いに造成され、古い街並みが壊されてしまったが、この国道沿いに江差追分会館を建てたことをきっかけに、街並みの見直しがされたという。江差の昭和の歴史を見ると、小樽の歴史と非常に共通性がある。ただ、江差の方が見直す動きが鈍いのか、行政側の動きが早いのか、せっかくの伝統的な景観などの喪失は大きいように思う。これは街の規模の違いも効いているのかもしれない。小さな町は少しだけ壊されても残るものが少ないが、少しでも町が大きければ同じだけ壊されても何とか残るものが出てくるといった具合に。

海沿いに国道が造成されてしまい、伝統的な街並みが失われるという図式は、小樽運河の埋め立てと臨港線の造成と同じである。国道がそのままできてしまった(?)江差と、道道が半分だけ造られて運河が半分残った小樽というのは、上で述べた二つの街の違いを象徴しているように思われる。



 新国道のバイパスが裏の海岸に造成され、つづいて港湾の拡張工事で海が埋め立てられ、江戸文化の面影を残していた景観が失われた。
 海岸に連なる問屋の羽出しは、江差ならではの景観だが、いまはもう見ることができない。(p.19)


今も若干は羽出しが見られるが、本来海に突き出していたものが道路沿いに見られるに過ぎない。残念。



 1961年(昭和36年)から港湾整備計画がはじまると、この渡りケーソンが南埠頭になって最初に埋め立てられていった。……(中略)……。
 港湾整備が国の経済成長政策にのって進められ鴎島の自然は失われていった。渡りケーソンの砂浜は残すべきだったという人が多い。(p.30-31)


こうした流れにもう少し「取り残されて」いれば、江差は今よりももっと魅力的な町であり続けることができたと思うので、残念だ。



ニシン漁には津軽、秋田方面から大勢の出稼ぎやん衆たちがやってくる。ニシン漁で稼いだ金を弁天さんの土地で使わないと災難にあうという。たんまり稼いだ金をもって船にのろうものなら、船もろとも波にのまれてしまうのだ。(p.35)


江差という街から見た場合、非常に経済合理性のある言伝えである。出稼ぎにきた人たちが江差の街で金を使わなければ、江差の街に住む人々の生活が成り立たず、江差で商売などをする人がいなければ、出稼ぎの人たちも仕事がしにくくなる。だから江差で稼いだ金を江差に落としていくことは理に適っている。姥神の伝説もそうだが、江差に伝わる伝説は非常に素直というか、合理的であることが直に伝わるようなものが多く面白い



 境内入り口に建つ古式風雅な山門は明治15年に江差奉行所の表門を移したもので道内でも最古の建造物という。(p.64)


江差の法華寺の山門。奉行所の門が寺の門として移築されるというのは、現代の感覚からすると少し違和感があるが、江戸時代までの権力関係などからすると、寺は政治ないし行政との繋がりが現在よりはるかに強かったので、こうしたこともそれほど奇異なことではなかったのかもしれない。




片倉佳史 『古写真が語る台湾 日本統治時代の50年1895-1945』

椰子は南部に偏っていた。台北や台中でも見られるが、これは観賞用に改良されたもので実はならない。

レンブ 「蓮霧」と表記され、17世紀にオランダ人によってもたらされた。

水牛 台湾の水牛はオランダ人が持ち込んだものとされる。(p.11)



台湾の椰子の一部は人工的に改良されたものだとは驚いた。また、台湾を象徴する動物とされる水牛のほか、レンブなどもオランダ人が持ち込んだというのは興味深い。オランダ本国から持ち込んだのではなく、東南アジアの植民地などから持ち込んだということなのだろう。もう少し詳しく知りたいところ。



家並みについては1911(明治44)年8月に、台風による被害で在来家屋の大半が倒壊するという事態が起こり、これを契機に大がかりな整備が進んだ。(p.35)


台北についての記述。北海道の都市は明治期の大火によって街並みが形成されるが、台湾では台風が大きな役割を演じたことが多いのかもしれない。



 日本統治時代、台湾の四大産物と言えば、米、茶、砂糖、そして、石炭が挙げられたが、その中で石炭は炭鉱のほぼすべてが北部にあり、中でも宜蘭線と平渓線の沿線に集中していた。瑞芳はその中心となっていた町である。(p.105)


石炭が北部に集中していたのは、九州に炭鉱があることと関係しているものと推測する。台湾の地殻のプレートは北部と東部と南西部との3つに分かれているというのを先日テレビで見たが、これと関連しているのではないかと思う。残念ながら私は地学的な知見はほとんど持ち合わせていないので詳しくはわからないが。



 その後、清国統治時代に入ると、安平の地位は急速に低下した。清仏戦争には基隆や淡水、打狗(高雄)とともに開港したものの、土砂の堆積が進んで港湾機能が低下。船舶の停泊ができなくなった。1926(大正15)年には台南との間に運河が完成し、はしけを用いた物資の運搬が行なわれたが、これも高雄港が整備されたため、興隆に結びつくことはなかった。(p.192)


淡水や安平の土砂の堆積というのは、共通の原因によるものなのだろうか?そのあたりのメカニズムも少し興味が惹かれる。



日本統治時代の名は「花蓮港」だったが、築港が進められたのは昭和時代に入ってからである。……(中略)……。
 ……(中略)……。漢人は台南・高雄から南端を経由し、台東を経てやってきた。つまり、花蓮港は台湾で最後に漢人の移入を受けた土地である。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 ただし、日本統治時代初期の暮らしは厳しい自然環境に翻弄され、その労苦は語り尽くせないものとされていた。その状況は「花蓮港」にかけて、入りたくても「入れん港」、暮らしたくても「食われん港」、そして、一度来てしまったら「帰れん港」などと揶揄されたという。(p.226-227)


花蓮が「花蓮港」と呼ばれていたことは知っていたが、築港は昭和期になってからというのは面白い。台湾の日本語世代では今でも「花蓮港」と呼ぶ人もいるようである。

漢人が最後に移入した土地というのは、東部の街の全体的な傾向であるが、日本統治時代に日本人の割合が相対的に高かったことと関係している。これらの地域は原住民が住む土地であり、漢人が少ないだけでなく、人口も少なかった。そこに日本人が開拓にやってきたため、相対的に日本人の割合が高い地域となったということ。


光瀬憲子 『台湾縦断! 人情食堂と美景の旅』

 路地裏に裁縫用品店が多いのは、1950年代、鹽埕の全盛期のなごりだ。
 19世紀初頭の日本統治時代は塩田ができて栄え、太平洋戦争が始まると日本軍の重要な物資輸送港となった。終戦後の1950年、鹽埕の港は「3号埠頭」としてその名を全国にとどろかせることになる。あらゆる物資や品物がこの3号埠頭に集まり、鹽埕は南部最大の繁華街となった。
 金物なら新興街(シンシンジエ)、腕時計なら大勇路(ダーヨンジエ)、革靴やメガネなら五福四路(ウーフースールー)、といった具合に専門店通りがたくさんできた。そして、鹽埕街は「レディースファッション通り」だった。この近くに店を構えたのが正美であり、となりのアーケードには生地やボタンの専門店が立ち並んだ。オーダーメイドの服をつくろうと、大勢の女性たちが押しかけたのだろう。高雄で初めて5階建ての百貨店ができたのも鹽埕だった。「高雄に鹽埕あり」「鹽埕こそ高雄」といわれた時代だ。(p.123)


こういった都市の歴史の展開は非常に興味深い。鹽埕に行ったときにこうしたことを知っていたら、もっと興味深く散策できただろう。



 堀江商場は、鹽埕の全盛期である1950年代には舶来品を扱う店が軒を連ねていた。(p.126)


これは戦後に鹽埕が栄えた理由(以下に引用する部分)と関係がある。



 鹽埕の街が栄えたもう一つの理由、そして最大の理由はアメリカ軍だ。アメリカ兵を語らずにして、鹽埕は語れない。
 鹽埕には七賢三路(チーシェンサンルー)という大通りがある。現在の高雄港漁人碼頭(ユーレンマートウ)からまっすぐに北に向かって延びる片側二車線の目抜き通り。この広い通りを港方面に歩いていくと、はるか向こうに大きなゲートがそびえていて、道路沿いにはレストランやオフィスビルが立ち並んでいる。1960年代、ここは「酒吧街(ジョウバージエ)」(バーストリート)と呼ばれた。高雄、いや台湾南部でいちばんのにぎわいを見せた第3埠頭には海軍の第7艦隊が停泊し、バーストリートにはアメリカ海軍兵があふれていたのだ。
 第二次世界大戦が終結し、1950年代に入ると朝鮮戦争が、そして1960年代にはベトナム戦争が勃発した。台湾はといえば、中国内戦から逃れた蒋介石率いる国民党やその軍隊が台湾に入り、「光復」を宣言したのが1945年のことだ。
 中国大陸と台湾とのあいだの緊迫は続いており、アメリカは台湾が共産党勢力に占拠されることを恐れた。このため、1954年に台湾とのあいだで「米華相互防衛条約」を締結。アメリカは台湾南部に第7艦隊を停泊させ、台湾を防衛する代わりに鹽埕の第3埠頭を通して物資の補給を行った。1970年代後半にアメリカと台湾が断交するまでこの関係は続き、鹽埕は20年あまりにわたる全盛期を手に入れた。(p.127-128)


冷戦がもたらした鹽埕の繁栄。

七賢三路は、言われてみれば当時の雰囲気が何となく残っている。外国風のレストランがこの界隈に現在でも多かったように思うが、これも歴史的な繋がりによるのだろう。



 特にベトナム戦争中だった1960年代、米軍は高雄を物資補給の港として利用したほか、兵隊を休暇に立ち寄らせていた第3埠頭に船が着くと、そこから降り立つアメリカ兵たちは七賢三路の北にあるアメリカンクラブに向かう。港からクラブまで続く七賢三路沿いにはバーやレストランなどが立ち並び、彼らはここでビールを飲んだり、サンドイッチをつまんだりしながら一息つくというわけだ。(p.130)


なるほど。



 高度成長期の台湾で、鹽埕はたしかに米軍の駐在を受けて大いに栄えた。でも、なぜ秩序が守られていたかといえば、休暇だったため気持ちが穏やかだった、という理由のほかに、アメリカ兵の活動エリアと地元の人たちのクラスエリアがはっきり分かれていたという点があるようだ。(p.132)


参考にしうる。



光瀬憲子 『台湾一周!安旨食堂の旅』(その2)

 ここ数年、「陸客(ルーク―)」という言葉が台湾メディアで取り沙汰されるようになった。陸は「大陸」、客は「旅行客」を意味する。つまり、中国大陸からの旅行客を略して陸客と呼ぶのだ。中国のことを「大陸」と呼ぶのは台湾人と香港人、韓国人くらいだろうか。(p.224)


こうした言葉が流通する背景には、中国の観光客の数が台湾でもかなり増えていることがある。

台湾は最近は変化が見られるが、かつては「どちらが中国か」という正統性を中華人民共和国と争っていたということも「大陸」と呼ぶ理由なのではないかと思う。香港は中国の行政区になったが、やはり中国人と自分たちは違うというアイデンティティを持っていることが反映しているように思われる。韓国は自分たちが「半島」に住んでいるのに対して「大陸」という比較的純粋に地理的な関係で言っているのだろうか?



おでんは北京語では「黒輪」と書く。北京語読みは「ヘイルン」だが、台湾語読みでは「オーレン」。そう、おでんがなまったものだ。(p.228)


こういう言葉が残っているのも台湾の面白いところ。似たようなパターンの言葉としては「麻糬」がある。北京語読みは[ma shu(マァシュー)」だが、台湾語では「マヂィー」で、餅(もち)がなまったものだという。日本統治時代50年間はいろいろな形で刻印が残っている。



 ところが、1990年代後半、私が台湾で暮らしていた頃には「爸爸回家吃晚飯」(パパ、うちで夕飯を食べよう)という政府主導の運動が展開され、外での飲酒機会が極端に減ってしまった。当然、酒を置く店は激減。そば屋だろうが、ラーメン屋だろうが、どこでも酒が飲める日本や韓国と比べると勝手がちがう。日本や韓国は酒飲みに対して寛大だが、台湾はいつのまにか酒酔っ払いに対する風当たりが強い国になっていた。(p.279-280)


なるほど。台湾にはじめて行ったとき、居酒屋的なものがないというのが一つの印象で、その後何度か足を運んでも、気軽に酒が飲める飲食店というのがないというのが特徴的だと思っていた。政府主導の運動によって外での飲酒機会が減ったということだが、これはどのような状況に対するどのような対応策として行われていたのかが気になる。



一部の廟は、ときとして地域の黒社会や影の組織と密接に関わっていることがある。台湾の場合、それはかならずしも悪いことではなく、地域の中心である寺を組織が守ることで、その土地の治安は維持されている面も否定できない。日本では通用しなくなった街の論理が台湾ではまだ健在だ。(p.291)


映画とかで描かれていそうな関係性だな。