アヴェスターにはこう書いている?
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光瀬憲子 『台湾一周!安旨食堂の旅』(その1)

 「月台」
 この二文字を見て何を思い浮かべるだろうか。
 かつて、中国の宮殿や寺廟など伝統建築の前にはバルコニーのような場所が設けられていた。そして、何もさえぎるものがないこの場所で月を見ることは最高のぜいたくだったという。月台はそんな「月見台」に由来している。今でも台北や台南の孔子廟には、この建築構造が残っている。
 台湾では列車の乗り降りに使うホームを月台(ユエタイ)と言う。(p.5)


私もはじめて台湾に行ったとき、駅のホームに「月台」と書かれていて、この文字でどうしてホームの意味になるんだろう?と不思議に思っていたことがあるので、そういうことだったのか、と納得した。台南の孔子廟は私も行ったことがあるが、詳細には覚えていないが、確かにバルコニー的なものがあったように思う。今度行くときには、この辺も見てみたい。



 超高層ビル、TAIPEI101がモダン・台北の象徴だとすると、「圓環(ユェンホァン)」は日本風に言えば昭和・台北の象徴と言えるかもしれない。……(中略)……。
 圓環はロータリーを意味する。何本もの道路が交差し、その中心部が円く形作られた場所。同じく日本の植民地だった韓国や中国東北部(旧満州)の都市にも散見される。台北にはロータリーがいくつかあるけれど、圓環と言えば昔から南京西路(ナンジンシールー)の圓環を指すのが常だった。南京西路と重慶北路(ツォンチンベイルー)という2本の大きな目抜き通りと天水路と寧夏路、合計4本の道路が交っている。最近ではガイドブックの地図にも記されなくなり、単なる旧市街の交差点に成り下がってしまっている。
 ……(中略)……。
 寧夏夜市はなぜ魅力的なのか?理由のひとつに周辺の歴史的背景がある。1900年代始めに日本人が欧米の都市計画にならい、円形のロータリーを設計し、ここを「圓公園」と名づけた。公園には人が集まるようになり、やがて露店が出て、市場が開かれ、台北市民の消費生活の中心となっていった。
 ……(中略)……。
 けれど、1980年代に行われた台北市の都市再開発にともない、台北市の重点は西側から東側へと移る。……(中略)……。
 そんな圓環がかつて台北の中心だったことを物語るもののひとつが「寧夏夜市」なのだ。……(中略)……。
 また、圓環を中心とした寧夏夜市一帯、そして乾物街として知られる迪化街のあたりまでは「後車站(ホゥチャザン)」(駅裏)と呼ばれるエリアでもある。台北駅は昔から多くの人が集まる台北の中心地だった。そして、高雄、台南、台中など、地方都市から台北に集まる人々は、汽車で台北駅に到着した。そんな地方出身者が台北でまず根を下ろすのが、この駅裏エリアだったのだ。彼らはこの近辺を拠点として働いた。だから、自然と生活に必要な物も駅裏エリアに集まってきた。そんな昔ながらの食事処がかつての圓環であり、今もなおその姿を残す寧夏夜市なのだ。(p.10-13)


ロータリーが昭和初期頃くらいの日本の(植民地的な都市の?)都市計画で流行していた(?)というのは、これまで私もいろいろと都市を見てきた中で感じていたことだったが、台北にもあったとは知らなかった。

ロータリーは、中国東北部で私が見てきたところとしては大連が印象的であり、一般的にも有名だろう。ここでは触れられていないが、内モンゴルの呼和浩特(フフホト)にも日本占領下で設計されたロータリーがある。また、北海道の小樽にも昭和初期頃に作られたロータリーがある。

寧夏夜市のあたりが地方出身者たちが拠点とした駅裏エリアだという指摘は地図を見てもなるほどと思う。かつての城壁より外で大稲埕や艋舺のような古くからの住人がいる地区でもなく、西門町や城内のような内地人地区でもないが、駅からは遠くない。



 駅前の一等地という立地は、日本や韓国では外れの店が多いが、台湾にこの方程式は当てはまらない。廟脇の1軒目、駅前の1軒目というロケーションの店に思い切って入ってみると、期待以上の味が待っていることが多い。(p.153)


今度試してみよう。



そもそも、度小月の擔仔麵は台北の「鼎泰豊」の小龍包のようなものではないかと思う。マスコミに紹介されたことがきっかけで、観光客が押し寄せる。店を改装し、建物が立派になる。値段が高くなる。儲かって海外にも店舗を出す。結果、東京や上海でも鼎泰豊が食べられる。それほど美味しいのか?他の小龍包とそれほど差があるのか?と言えば、私は言葉につまる。地元の人は、度小月や鼎泰豊なんて高すぎてあまり行かないのである。(p.179-180)


鼎泰豊なんかは、確かに他の店より高いかもしれないが、初めて台湾に行くような場合などは一度食べてみてよいのではないかと思う。度小月は行ったことがないので、今度機会があれば試してみよう。

私見では、鼎泰豊は、日本の大抵の小龍包よりは数段美味しいし、金額も高くないと思う。ただ、台湾に行けば、もっと安くて同じくらい美味しい小龍包は他にもあるようだ、というのはわかるので、リピーターであれば、もっと安いのに美味しい店に行くべきではあるのだろう。

実際、鼎泰豊などに地元の人はあまり行かないというのは、思い当たる節がある。



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『台湾と日本人 台湾が歩んだ激動の400年史と、それを支えた日本人たちの群像』

もともと台湾総督は台湾の武力鎮圧の使命があったから武官が任命され、軍事長官としての権限は与えられていた。そこに行政と立法の権限も与えられたわけで、まさに台湾の皇帝というべき独裁権力を付与されていたのである。それだけの強権力によって統治しなければならないほど初期の台湾経営は困難をともなうものであり、日本では「いっそ、台湾はフランスに売却してしまえ」という論議が起きたほどであった。(p.34-35)


台湾総督の権限の大きさと、初期の台湾経営の困難の大きさを関連付けて捉える見方には、なるほどと思わされたところ。


宮本孝 『なぜ台湾はこんなに懐かしいのか 台湾に「日本」を訪ねる旅』

 ところで始政40年を迎えた台北の人口はどのくらいあったのか。明治28年の始政時は約4万6千人だったのに対し、昭和10年には約6倍の28万余に達し、内地人も8万余を数えた。(p.17)


台湾と北海道の比較という私の観点から見ると、昭和初期の台北は北海道のどの都市よりも人口が多くなっていることに興味が惹かれる。それほど台湾は有望な土地だったということなのだろう。

ちなみに昭和10年の北海道の都市で人口が最も多いのは函館市で20.7万人、次いで札幌市19.6万人、小樽市15.3万人と続く。



当時の町名は樺山(第一代総督)町、乃木(第三代)町、児玉(第四代)町、佐久間(第五代)町、明石(第七代)町といった歴代総督にちなんだ町が多いのに対し、古亭町は“生蕃”とも呼ばれた原住民に由来する。
 台北橋のたもとで長年医療活動に尽力された林彦卿氏(附属小、台北一中卒)著『非情山地』によると「あたりは蕃界で、ここに住んでいた人達は村落附近に亭を建て、亭内に太鼓を設置し、生蕃を見つけると太鼓をたたき、村中の若者を集めて対抗した。この村落はいつの間にか“鼓亭町”と呼ばれるようになった。そのうち生蕃は出てこなくなったので太鼓は必要がなくなり……音の似かよった“古亭”に改称された」という。(p.24)


台北に現在も残る地名「古亭」の由来。台北の地名にはこの種の地名は結構多い。剣潭や木柵なども原住民と関係する由来だと聞いたことがある。

ただ、古亭付近も原住民が住む地区だったというのは、台北城からかなり近い場所であるだけに意外に思えた。

余談だが、台湾にもともと住んでいた人たちを「原住民」というが、日本語の語感だと差別的なニュアンスがあるとして避けられることが多いように思うが、私見ではこの言葉は「オリジナルの住民」ということだから、むしろ本来は少し肯定的なニュアンスの言葉と考えた方が良いのではないかと思う。中国語で「原住民」と呼んでいるということもあるが、少なくとも私は以上のように捉えて台湾の「原住民」をこの言葉で呼ぶ。



思えば高雄港の主役は時代とともに交代してきた。戦前は砂糖の積み出し、戦時中は南方への海軍拠点、そして戦後は奇跡的な経済発展を牽引する“メイドイン台湾”の輸出港として。
 日本が領台した頃の高雄は見渡す限りの塩田がつづく静かな漁村であった。それが明治33年(1900年)に高雄郊外の橋仔頭(現・橋頭郷)に台湾製糖の第一号工場が操業を開始するや、街は砂糖の積み出し港へと一変する。……(中略)……。
 以後、高雄港は本格的な築港と埋立てが始まり、明治41年には打狗停車場(旧・高雄駅)が完成し、いわゆる“浜線”が港まで走るようになった。(p.96-97)


台湾の都市の歴史では、台北の歴史が非常に詳しく語られることが多いが、高雄は歴史は浅いが台湾の主に経済的な変動と密接にかかわっている点で興味深い都市であると思う。



彼らは中村輝夫(アミ族名・スニヨン)一等兵(1974年モロタイ島で発見され、帰国して3年半後に死亡)の如く、南方のジャングル戦で日本兵顔負けの活躍をしただけに、戦後が何年過ぎようと、日本(軍)との一体感は老いてますます強いものがある。高砂族の村々を訪ねるたび、村の老兵たちが今も鬼畜米英何するものぞと言って、かつての戦果を昨日のことのように語り始めるほどである。しかし、そうした老兵も年々少数派となり、彼らの最後の願いの一つが「かつての上官と再会したい」というものだ。……(中略)……。こうした、かつての上官と部下、あるいは恩師と教え子、同窓生などによる感激の再会が昭和50年から60年代にかけてピークを迎えたのだった……。(p.141-142)


台湾の原住民には、日本統治時代の太平洋戦争の際に「高砂義勇隊」として戦争に駆り出された人たちがいる。こうした人たちとかつて台湾に住んでいた日本人の再会が昭和50年から60年代にピークを迎えたというのが興味深い。

海外への渡航ということが次第に容易になったためだろうか?中華民国と日本とが断交したことの影響もあるのだろうか(民間レベルで繋がりを再確認ないし促進したいと言ったような意図)?もちろん、経済的に豊かになってきたため、こうした余裕が生まれたこともあるかも知れない。そして、平成になってピークを過ぎるのは高齢化のためだろう。