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天野郁夫 『大学の誕生(下) 大学への挑戦』(その2)

 もうひとつの東北帝国大学は、札幌農学校を農科大学に昇格させ、これに理科大学を加えて発足した。新設とはいっても、東京帝大のそれよりも古い歴史を持つその農科大学は、明治40年に4学科12講座で出発し、大正4年には26講座と、東京帝大の33講座に比べても遜色のない規模を備えていた。
 開校式に臨んだ文部大臣牧野伸顕は、演説のなかで「他日、独立の北海道帝国大学を成立せしむべき基礎」だと述べているから、東北帝大の一分科大学として発足したのは、先にふれた文部省の「綜合主義」からする、便法であったことがうかがわれる(『東北大学五十年史』 上、33ページ)。牧野はまた「樺太半分は、日露戦役の結果、帝国の領土に帰したるに就ては、将来同島の経営は、専ら北海道人士に待たざるべからず(中略)蓋し是等の調査研究は、当大学に於ける適当の任務ならんと信ず。故に当大学に在る所の諸君は、此の点に於ても、深く留意されんことを望む」と、期待される役割を強調している(同書、33ページ)。「国家の須要」に応ずることこそが、この新しい帝国大学の場合にも、最重要の使命とされたのである。(p.238-239)


札幌農学校を昇格させるときに、「綜合主義」に基づいて理科大学を加えるという「便法」を用いたとする見方は、恐らく妥当なのだろうが、見方としては札幌農学校/北海道大学からの見方のように感じられる。東北大学から見た別の見方というものがあるのかどうか気になる所ではある。

また、樺太の調査研究という使命を期待されたというのも興味深い。これと関連することとしては、日本統治時代の台湾で官吏などとして活躍した卒業生が多かったということとも指摘すべきだろう。



 すでに見たように高等学校の卒業者は、一部(法・文)、二部(工・理・農)、三部(医)の枠内であれば、進学先としてどの帝国大学のどの分科大学を選ぶかについて、自由を保証されていた。それだけに後発の、とくに新設分科大学の場合には、十分な進学者が得られるかがつねに心配の種であったといってよい。東北帝大農科大学が、札幌農学校時代からの予科をそのまま残した理由のひとつはそこにあったであろうし、理科大学の場合には、それが「それまでみられなかった「門戸開放」」の形で現われることになった。すなわち東北帝大は「高等師範学校や専門学校の卒業者にもその資格を認める」という形で「門戸開放」をはかったのである(『東北大学五十年史』 上、51ページ)。(p.242)


東北帝大が「門戸開放」を行っていたことは、『回想 東北帝国大学』を読んで知っていたが、なぜそれを行ったのかという理由について納得できた。上掲書を読んだときは、大正デモクラシーなどの民主的な考え方の普及が背景にあるのかもしれないと推測していたが、主な理由は本書で指摘されているような学生を募る際の問題であろう。



 こうして文部省の原案は、審査委員会での綿密な検討・修正を経て枢密院本会議に提出され、異議なく可決された。審議の途中で寺内正毅内閣に代わって原敬内閣が成立し、文相も岡田良平から中橋徳五郎に交替したが、審議が中止されることはなかった。それだけ学制改革の機が熟していたと見るべきだろう。また第一次世界大戦がもたらした空前の好況によって、高等教育機会の拡大の最大のネックであった政府の財政事情が一挙に好転した時代状況も、あずかって力あったと見てよい。
 こうして大正7年12月6日、ついに「大学令」と新しい「高等学校令」が公布されるに至った。(p.355)


なるほど。第一次大戦による好況が高等教育機関の整備にも影響したというのは興味深い。そう考えると、小樽運河(大正3年着工、同12年竣工)のような大正期の土木事業もこうした好況が後押しした面があったのかもしれない、と思い至った。



 官立高等教育機関の積極的な拡充政策は、実際にはそれ以前に、すなわち戦時景気を背景に政府の財政事情が好転し始めた、寺内正毅内閣の岡田文相時代に始まっていたと見るべきだろう。すなわち大正6年度の予算で、北海道帝国大学と高等工業学校三校、大正7年度予算では高等学校四校、高等工業・高等商業・高等農林学校各一校、それに薬学専門学校一校の新設が決められていたからである。(p.374-375)


なるほど。北海道帝国大学の設立も第一次大戦による好況が背景の一つとしてはあった、ということか。




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天野郁夫 『大学の誕生(下) 大学への挑戦』(その1)

 京都帝国大学の場合にはこのように、文部省が創設費用の大部分を負担する形で決着したが、その際に考えられた、既存の官・公立学校を移管・吸収するか、あるいは校地の寄付や建設費の負担など創設費用の大部分を、立地する府県や市などの寄付に求めるという新設費用の調達方法が、その後、帝国大学を含めて官立諸学校の設置にあたってごく一般的な方式になって行く。
 それは、本来ならば国が全面的に負担すべき費用を、地方政府や個人の寄付に依存することで、「民」の学校設立へのエネルギーを「官」の側に吸い上げていく、巧妙な方式であったと見るべきかも知れない。(p.21)


既存の学校の移管・吸収や地元の資産家や地方政府などが寄付することで官立(国立)の大学が創設された事例は即座に複数思い浮かぶ。これが一般的な方式だったというのも頷ける。



「専門学校」は「一つの事を学んで、それを実行して行ければ」それでよい。しかし「大学の卒業生は、即ち研究者でなければならぬ。新しいことが起つて来ても、或は又知らぬことが起つて来ても、それを研究する力がなければならぬ」。修養教育は、そのために必要だというのである。(p.134)


以上は文部大臣も務めた菊池大麓が大正期に入った頃の主張の一部だが、現代でも通じるものがある。

大学の卒業生に本来求められるものというのは、ここで述べられているような未知の事柄を研究する能力を身につけることが、問題の発見及び解決のための能力へと展開していくことによって、社会のリーダーとしての先見性や問題解決能力が養われていることが期待される、ということになるだろう。もっとも、大衆化した大学では、全ての大学の卒業生にこのようなことが期待されるわけではないだろうが、それでも幅広い教養を身につけることによって、こうした能力を少しでも養おうということは志向されているのではなかろうか。



 官立セクターの拡充が遅々として進まなかった最大の理由が、政府の財政的困難にあったことは、これまで見てきたとおりである。
 中学校卒業者の激増に象徴される全国的な高等教育進学熱の高まりは、政治家による高等教育機関の増設要求として、たびたび帝国議会にその姿を現わすようになったが、そのなかには高等工業・高等商業といった具体的な学校の設置を求める、地方自治体からの建議も含まれている。政府は、そうした建議を受けて官立学校の設置計画を立てたが、多くの場合その創設の費用について、少なくともその大きな部分を、学校の設置される地域の寄付金に期待していた。
 実際に設置の計画が公表されれば各地に学校の誘致運動が起こり、それが校地や校舎建築費の寄付競争の形で、創設費用の捻出を可能にする。依然として厳しいままの財政事情のもとで、多数の実業専門学校の新設が可能になったのは、そうした地方政府と地方資本家(時には住民)による資金負担のおかげであった。
 たとえば明治43年開設の小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の場合、開港地とはいえ神戸や長崎と違って、新開地である小樽の地元商業資本家の力は弱く、「地元の積極的な熱意」と「有力者の政治力」だけが頼りであった。小樽区当局は必要とされた15万円の寄付金集めに「所得税額に比例して各町内に寄附を割りあてる案」を立てたが果たさず、結局「区債」の発行でまかなうなど「苦心惨憺」したことが知られている(『緑丘五十年史』6-7ページ)。
 新設の実業専門学校の多くは、官立とはいっても「民」の力を基盤に設立されたのである。(p.155-156)


このエントリーの冒頭で引用した内容と重なるが、具体例が興味深い。例えば、ここでは力が弱いと言われている地元商業資本家は、現地(小樽)の歴史を語る際には大変な金持ちであったという扱いで語られていることや、現地の歴史では当時の小樽区(現在は小樽市)が「区債」を発行したということはあまり強調されない傾向があるからである。いずれにせよ、明治後期(30~40年代)以降の官立学校の創設は、こうした手法で行われていたということ自体が興味深い。

これに関しては東北帝大や九州帝大も古河財閥からの寄付がなければ実現できなかったであろうことも想起される。



 繰り返し指摘してきたように、この時期の大多数の私学は官立諸学校に教員、それも非常勤講師の供給源を全面的に依存していたのであり、近距離に官立学校が立地していなければ、その設立や存続は事実上不可能であった。先にもふれたが、法学系私学が神田界隈に集中していたのは、ひとつにはそのためであり、裏返せば慶応義塾が三田、早稲田が高田馬場と、都心を離れた場所に立地しえたのは、創設時から専任の教授陣を擁していたためといってよい。
 明治期はもちろん、いまもなお続いている私立高等教育機関の圧倒的な東京一極集中も、このことと深くかかわっている。同志社や関西大学の不振は、京都や大阪に官立の、とくに法文系の学校が長く存在しなかったことと無関係ではない。京都帝国大学法科大学、さらには分科大学が創設されてはじめて、京都や大阪が、わが国第二の私立高等教育機関の集積地として発展を遂げる基盤が、用意されたのである。(p.183-184)


明治から大正の時期にかけての高等教育機関の教師の供給と学校の立地との関係。神田界隈など、この関係性が現在まで続いているところは興味深い。

この一極集中がこれだけ続いていることを考えると、恐らく1949年の学制改革で発足したものが多いと思われるが(旧帝大やそれに準ずるものとまではいかなくても)地方にその県を代表するような国立大学が少なくとも一つは置かれてきたこと(北は弘前大学や岩手大学から南は琉球大学まで)は、この状況を多少なりとも是正するものだったように思う。



天野郁夫 『大学の誕生(上) 帝国大学の時代』

 いずれにせよ、高等教育は国、中等教育は府県という、現在まで続く教育の責任体制の基本はこの時点で決まったのであり、わが国の高等教育システムは以後、国立(官立)と私立の二セクターを中心に発展していくことになる。(p.118)


「この時点」とは明治20年頃であり、随分早期に現在にまで続くパターンが決まってしまったものだな、と思う。この時期に、府県立の高等教育機関が次々と閉校へと追い込まれることで、公立学校の発展の可能性が著しく狭められた。



 いずれにせよ、「洋語大学校」か「邦語大学校」かが議論された明治10年代を経て、明治20年代に入ると、近代西洋の学問中心の諸学校に対して、日本の伝統的な学問を重視する「日本大学」の設立構想が、相次いで現われたことに注目すべきだろう。(p.146)


明治20年設立の哲学館(現・東洋大学)と明治23年創設の国学院(現・国学院大学)のような構想がとり上げられている。



 「私立大学」、といってもアメリカ的なリベラルアーツ型の「カレッジ」の設立は、維新後に布教のため日本にやってきた、プロテスタント系の宣教師たちによっても試みられた。
 彼らにとって最重要の課題は神学校の設立であったが、同時に重視されたのは「文明開化」とともに生じた英語熱に加え、布教をはかる手段としての学校設立である。在京の立教学院・明治学院・青山学院などのミッション系・学院系の学校がそれであり、やがて私立大学の主要な淵源のひとつになっていく。(p.160-161)


なるほど。東京以外の地方でも同じような動向はありそうだ。



ほぼ同時期に進展し始めた、同志社や立教などミッション系私学のカレッジ化の動きは、アメリカ・モデルを支持する一定の基盤が作られつつあったことを示唆している。官立中心の、国家による「上から」のシステム構築に対置される、「私立」中心の、民による「下から」の自生的なシステムの形成という、異なる選択肢の併存した時代が、短期間ではあるが存在したことを忘れてはならない。
 ドイツをモデルとした、国家の大学としての帝国大学の出現は、その点でも計り知れない大きな力を、わが国の私立高等教育の発展に及ぼすものであった(p.162-163)


日本の高等教育機関黎明期のドイツ・ヨーロッパモデルとアメリカモデルの対比は(本書では随所で登場するが)興味深い。



 ただしこの「規則」は一度も実施されぬまま東京大学は帝国大学になり、明治20年公布の「学位令」によって、学位の種類は博士と大博士の二つと定められた。このうち大博士は、実際には授与されたことがなかったから、以後、第二次大戦後の学制改革により修士学位の制度が設けられるまで、学位といえば博士号をさすことになった。学士は学位ではなくなり、大学卒業者に与えられる称号に過ぎないという時代が、ごく最近まで、一世紀余り続いたのである。学士が、正規の学位として認められるようになったのは、1991年になってのことである。(p.193)


修士の学位が大戦後に設けられたこと、学士が1991年という比較的最近まで学位ではない単なる称号だった時代が続いていたというのは意外に感じられた。



 私立専門学校のほとんどが東京に、しかも帝国大学の所在する本郷と霞ヶ関の官庁街とのほぼ中間に位置する、神田界隈に集中していたひとつの理由はそこに、つまり非常勤講師たちが出講可能な時間距離のなかにあったためといってよい。例外的に専任の教員を持った慶応義塾が三田、東京専門学校が早稲田と、都心を離れた場所にキャンパスをもtことが可能であったのも、京都の同志社が出発点で躓いたのも、そうした教育人材の供給源としての帝国大学や諸官庁との距離と、無関係ではないだろう。(p.226-227)


なるほど。説得力がある。もう少し後の時代になるが京都の立命館が京都帝大があったからできたというエピソードも付け加えてよいだろう。



「学問の府」としてのドイツの大学を範としたといいながら、帝国大学は、そこでは蔑視されていた「パンのための学問」を志向する、その若者たちを入学させ、この時期最も高い社会的地位を与えられていた、官僚の世界へと送り出す役割を果たしていた。立身出世のための大学――それがこの時代の、そしてその後も長く続く社会に支配的な、帝国大学観に他ならなかった。(p.236)


このあたりの構造も基本的には現在まで続いているといってよいだろう。



やがて帝国大学との関係で発揮されることになる高等商業学校の「野党」的な性格は、そうした「官立」にして「民」のための学校という、その制度上の特異な位置づけと無関係ではないだろう。(p.258-259)


一橋はなかなか独自の位置を占めている。



 いずれにせよ札幌農学校は農学という、官僚や学校教員以外には就職先に乏しい専門分野としての特性に加えて、北海道という立地の悪さも手伝って、明治30年代初めになっても卒業者数は年間わずかに10名前後、第一回の卒業生を出した明治13年から32年までの20年間の総数250名という、きわめて非効率な学校経営を続けていた。度重なる存廃の危機は、そのことと無縁ではなかったといってよい。(p.260-261)


ここまで卒業者が少なかったとは驚いた。存廃問題が何度も持ち上がる理由になっていたことは納得。



 第二に、法学系私学でも行政官僚になった卒業生が多いが、高等官は文官・武官あわせても139人(7%)に過ぎず、ほとんどが判任官、つまり普通官僚であったことが知られる。行政官は官学、司法官は私学という住み分けと同時に、高等文官は官学、普通文官は私学という階層的な構造が作られていたことがうかがわれる。(p.340)


これは明治30年までの話だが、このあたりも基本的には現代まで引き継がれているのではないか。



『半世紀の早稲田』によれば(125ページ)、当時同校の幹事だった高田早苗は、卒業生の送別会で「第一、成るべく官吏にならないやうにしろ」、「第二、成るべく地方に行け」、「第三、立身を急ぐな」と演説したという。……(中略)……。
 中央での立身出世を強く志向する官学出身者に対して、私学出身者の役割は地方に、民間にあるというのが、のちに早稲田大学総長になる高田の餞の言葉だったのである。(p.342)


早稲田というと文学や政治というイメージだが、地方というのもキーワードになるようだ。現在どうなっているかはわからないが。



日清戦争後の経済の活況に促されて、初等・中等教育の就学・卒業者数が急速に増加し、高等教育への進学希望者も激増して進学・受験競争が激しさを増しているにもかかわらず、政府は厳しい財政事情を理由に、官立セクターの規模拡大に消極的な政策を採り続けた。そして、それは私立専門学校への進学者数を増やし、たくまざる形でその経営基盤の強化を助け、さらなる発展を可能にし、私学対策をいっそう重要な政策課題へと押し上げる役割を果たしたのである。(p.349-350)


なるほど。官立の規模拡大ができなかったことが、私立の経営を助けたというのも面白い。




「現代思想 2014vol.42-17 1月臨時増刊号 総特集 ピケティ『21世紀の資本』を読む――格差と貧困の新理論」(その3)
諸富徹 「ピケティの「グローバル富裕税」論」

 興味深いのは、グローバル富裕税が、それ自体として資産を再分配するための強力な政策手段になりうるだけでなく、資産保有の実態を民主的な形で精査することを可能にし、銀行制度と国際的な資本移動を有効に規制するための基礎的インフラとしても活用できるからこそ重要なのだ、と彼が強調している点である。……(中略)……。
 ……(中略)……。ピケティの指摘が鋭いのは、グローバル富裕税の実施のために必要となる、国境を超える課税インフラの構築が、すなわち国境を超える資金の流れを掴むためのインフラ構築を促すことにもつながっていくことを指摘している点にある。(p.116-117)


累進的資産課税は単に再分配のための手段ではなく、グローバルな資産状況の把握を前提とするものであり、そのような把握可能性の確保は、資産の相対的に民主的なコントロールを可能にする手段として利用すべき、ということか。



ピケティは、彼の同僚との共同研究で、先進国の経営幹部に関する報酬に関する情報を含むデータを利用して実証分析を行った結果、近年における経営層報酬の急速な上昇は、経営層が潜在的にもたらしうる生産性向上とはほとんど関係がないことを見出した。その結果、報酬の変化はその才能に対する報酬というよりは、むしろ「運」とより多く結びついていることが示唆されるとしている。そしてこの結論は、経営層に対する高い報酬は、彼らの卓越したパフォーマンスに対する報酬だという見方が、深刻な欠陥を孕んでいることを意味すると結論づけている。
 以上のことは、経営層の高額報酬に対して課税しても、経済パフォーマンスになんら影響しない、つまり経済成長率を低下させる弊害をもたらすことなく税収を調達し、なおかつ格差是正を実行できるメリットがあることを意味している。具体的な提案として彼は、アメリカならば年収50万ドル(約5900万円)、もしくは年収100万ドル(1億1800万円)以上の所得階層の所得に対して、80パーセントの最高限界税率を適用することが考えられると述べている。(p.120-121)


経営者たちの超高額報酬が1980年代頃からの(19世紀から20世紀末までと異なる)新たな傾向であり、これはその経営者の能力や成果であるとして正当化する議論がある。日本では90年代頃からこの手の議論の声が次第に大きくなってきたように思うが、90年代や00年代ではその正当化の主張に対する批判的な議論も散見されるようになっていた。その意味では、ピケティの議論は特に目新しいものではないが、超高額報酬がもたらすであろう将来的な富の分配(超高額報酬→超高額相続→超富裕層の富裕化とそれ以外の貧困化)と、それに伴う権力の分配(超富裕層の政治的影響力の増大とその他の人々の政治的影響力の低下)、さらには超格差社会が実現してしまうことの政治的不安定性までも見据えた上で、成果主義的な正当化が受け入れられてしまうことに危機感を表明しているところには独自性がある。



中山智香子 「悲観的クズネッツ主義者の挑戦」

「トリクルダウン」は理論や仮説として、しばしばまことしやかに語られるが、調べてみるとどうも出典も論拠もない単なる説得の技法である。にもかかわらず、あるいはだからこそ、反証されることなく語られ続け、人びとの間になんとなく浸透している。論拠がないと声高に叫んでも、もともとそうしたものなので、逆に有効に響かないままである。(p.132-133)


トリクルダウン論の性質の悪さを的確に指摘している。

「アベノミクス」などとして語られる現在の政府の経済政策を擁護する際に竹中平蔵が半年ほど前だったと思うがテレビの番組で、「分配をするにしてもまずは国全体のパイが大きくならなければできない(だから、分配を考えるのではなく経済成長を優先すべきだ)」といった主張をしていた。トリクルダウンという言葉を出さなくても、こういった類の主張は、トリクルダウン論の発想と同じであり、同様に根拠がないものであることを認識しておくことが肝要である。

そもそも、ゼロ成長だったとしても、富裕層から貧困層への再分配は可能であり(ピケティが主張するようにこれは経済に悪影響を及ぼすものでもない)、超高額報酬は成果への見返りなどではなく、むしろ偶然の産物という側面が多くあり、さらに相続した財産によって富裕層となるかどうかということもほとんど偶然の産物であることを考えると、そうした偶然によって富者と貧者が分けられるくらいであれば、偶然に恩恵を受けられる者の恩恵を恵まれない側に移したとしても何の問題もないはずである。金と権力を持つ人間がそれを望まないということだけが、その障害である。



堀茂樹 「メリトクラシー再考 ピケティ『21世紀の資本』を読んで」

エマニュエル・トッドに倣ってトマ・ピケティを正真正銘の歴史家と見なし、『21世紀の資本』をアナール学派の系譜に連なる傑作と評価することに躊躇は要らないだろう。(p.140)


確かに、長期の歴史を人口動態などを踏まえながら論じていく前半の議論などは、アナール派的である。



ずばり資本主義とは、金持ちに生まれた者が金持ちで死ぬ確率が、金持ちに生まれなかった者が金持ちで死ぬ確率よりも圧倒的に高いシステムだということである。つまり、資本主義の市場は実はメリトクラシーから相当に乖離した世界で、デモクラシーの力が主意主義的に市場に介入しない限り、金持ちがますます金持ちになり、貧乏人がますます貧乏になるシステムだということにほかならない。(p.141)


これは筆者(堀)の見解だが、概ね妥当である。ただ、ピケティは格差拡大(金持ちがますます金持ちになるプロセス)における相続の重要性を強調しており、上の記述だけではこの点についての認識がやや欠けることになる。



 人間はつねに、与えられるものと、自ら選びとるもの・創り出すものの狭間で生きている。与えられるものは資産だけではない。まず生物学的な与件があるし、歴史社会学的な与件もある。資産も物質的なものとは限らない。いわゆる文化資本も一種の資産ではないか。そして、優劣いちじるしい個人の才能・能力・資質もまた、自然の賜物である以上、与えられるものの範疇に入るはずだ。能力主義という意味の英語起源の「メリトクラシー」は、個人主義の装いにもかかわらず、実は与えられるもの、したがって自由でも平等でもないものの方に依拠してしまっている。これは再考を要するものではないか。さもないと、民主主義的な正義に叶うかに見えるメリトクラシーが、デモクラシーと支え合うどころか、デモクラシーを蝕むものになってしまいかねない。(p.148-149)


妥当。



「現代思想 2014vol.42-17 1月臨時増刊号 総特集 ピケティ『21世紀の資本』を読む――格差と貧困の新理論」(その2)
ポール・クルーグマン 「私たちはなぜ新たな金ぴか時代に居るのか」

 大方の不平等の研究者は、獲得された所得、通常は賃金があらゆる研究が行われるところであると、そして資本からの所得は重要でもないし興味深いものでもないと、一般に仮定している。だが、ピケティは今日においてさえ、所得分配の頂点では、稼ぎではなく、資本からの所得が優越していることを示す。彼はまた、過去において――ヨーロッパのベルエポックや、そこまで極端ではないが、アメリカの金ぴか時代のあいだ――不平等な賃金ではなく、資産の不平等な所有こそ所得の不均等の主要な原因であることを示す。彼はまたそうした社会に私たちが戻りつつあると主張する。(p.52-53)


不平等の研究者が資本・資産を軽視ないし無視する傾向があったことは、彼らが貧困層に着目して物事を分析する傾向が強いことから来るものであろう。ピケティも示すように、下位50%の人々はほとんど資産を保有していないのだから、貧困層に着目して分析するならば、資本・資産などというものは、そもそも視野に入ってこないことになる。

ピケティの議論の画期的なところの一つは、研究のしにくい富裕層の資産状況についてデータでアプローチする方法を見出し、それを実践してみせたことにある。



社会は情け容赦もなく、遺産相続された富による支配へと向かう。(p.54)


すぐ上で述べたこととも関係するが、不平等や格差の議論でもっと言及されるべき問題だと思う。

私自身も格差問題が話題となり始めて以降、格差という相対的な差に着目することよりも貧困化が進展していることが問題だと考えてきたが、この発想は重要ではあると今でも考えているが、この引用文で述べられている問題を見落としている点で片手落ちであった。「富による支配」が確立されていき、ごく一部の相続により富を得た富裕層が政治的な支配力を独占し、その他一般の人々による民主的な権力統制ができなくなっていく。このことがさらに資本の暴力性を助長する、というスパイラルに入りつつある。ピケティが問題視するのもこの点にあり、これは格差を研究する際に富裕層に着目することと連動している。



浜矩子 「国家の社会性を取り戻すために 『21世紀の資本』が壊すトリクルダウンの幻想」

 安倍政権は、「日本を取り戻す」というスローガンを掲げて登場した。どんな日本を誰から取り戻したいのか。……(中略)……。
 要するに、取り戻したいのは強い日本だ。そして、強い日本を取り戻すためには、強い経済を取り戻す必要がある。強い経済を取り戻すことで強い日本を取り戻すことが出来れば、誇りある日本を取り戻すことが出来る。このような筋道で取り戻し大作戦を貫徹しようとしているらしい。
 誰から日本を取り戻すのか。どうも、彼らは国民から日本という国家を取り戻したがっているのではないか。(p.65-66)


なかなか面白い。ひとつ前の引用文へのコメントで述べたように、「富による支配」が確立されていき、民主的な権力統制ができなくなっていくのだが、安倍政権がやろうとしていることはまさにこれである。そして、国民から「取り戻した」権力を好き勝手に行使できるように法律(果ては研究)まで変えていく。つい昨日頃に閣議決定された安全保障関連の法案のようなものが出てくるのも、そうした流れのなかに位置づけられるだろう。



中野佳裕 「公共哲学としての『21世紀の資本』 経済の民主化の構想のために」

経済は経済学の範疇で考えるものだという考えが、現在の英米圏の主流派経済学にはありますが、経済の根本には公共性や制度設計、あるいは社会正義をめぐる問題が存在するということを、ピケティは重視したのです。(p.107-108)


このあたりの事情はピケティの本(『21世紀の資本』)の面白いところだろう。



「現代思想 2014vol.42-17 1月臨時増刊号 総特集 ピケティ『21世紀の資本』を読む――格差と貧困の新理論」(その1)
トマ・ピケティ、ニック・ピアス、マーティン・オニール 「資本、労働、成長そして不平等」

 サマーズが正しい点は、そしてこれが彼の言いたかったことだと思うんですが、最近、米国、イギリス、そしてユーロ圏など、あらゆるところで、私たちは独創的な金融政策に多くを要求しすぎているという点です。結局のところ、公債や一部の短期、中期貸付の金利を低くしているわけですが、これは不動産や株式市場の一部など、他の資産でのバブルを引き起こしています。ですから、公債がゼロ金利になっているのと同時に、他の資産では莫大な収益があがっているのです。実際、これは収益率の大きな不均一性をさらに増幅しているといえるでしょう。(p.26)


なるほど。金融緩和への的を射た批判。r>gという式のr(資本収益率)は、様々な資産からの収益を平均したようなものだが、政府や中央銀行が金融緩和という政策をとることによって、公債の収益率が下がり、他の資産での収益率を上げることになり、資産家たちに収益を上げさせる結果になるというわけだ。なお、この政策への批判としては、社会全体にはリスクを負わせている点にも注目しておきたい。



さらに、富への累進課税は金融の透明性――資産と企業会計の透明性――の増大を伴います。これは非常に重要です。……(中略)……。

 ですから私は、課税とは課税以上のものだと思うのです。それは法的なカテゴリーを生み出す方法、財務の透明性と民主的な説明責任とを生み出す方法なのです。(p.28)


この点についての認識は、本書からの収穫の一つだった。富への課税は、資産と企業会計の計算を伴うため、それらの公的な資料の整備を伴うものであり、これは富の蓄積や分配についての民主的な説明責任を可能にするものであり、そのことを通して、富の蓄積や分配についての民主的な統制を可能にする道を開き得るものであるという認識。



エミリー・エイキン 「キャピタル・マン」

 r>g時代の注目すべき例外は、1945年から1970年までの時期、資本主義のいわゆる黄金時代である。「大幅な圧縮」とも呼ばれるこの時代には、西欧やアメリカの経済は拡大し、不平等は縮小した。ピケティが示唆したように、この時期に「自由市場がすべての人に恩恵をもたらす」という近代経済学の楽観的な信条が生まれたのは偶然ではない。この呪文(マントラ)は幻想に基づいていると彼は主張する。歴史を長い目で見れば、黄金時代が逸脱――陰鬱なr>gルールの一時的な例外――であったことは明らかである。(p.37-38)


経済思想史的な指摘として重要。



彼はこう書いている。「あまりにも長い間、経済学者たちは彼らが科学的と考える方法で自分たちの立場を定義しようとしてきた。この方法は、数学的モデルの節操のない利用に訴えているが、実際のところ、それが学問分野を占領していることや内容の欠如を誤魔化していることに対する言い訳以上のものであった験しはほとんどない。人々が説明しようとしている経済的事実や解決しようとしている社会的・政治的問題を解き明かすことなく、あまりにも多くの労力を純粋に理論的な思弁に無駄に費やしてきたし、未だに費やしている」。(p.38)


ピケティによる経済学への批判だが、まったく同意見である。経済学は、数学(統計や確率に関するものを除く)を多用すればするほど信用するに値しない。



「数学的モデルにはこうした不毛さがあります。数学的モデルは現実に基づいているのではなく、人々の行動がそうであるべきだと誰かが考えたことに基づいているのです。経済学は大問題に取り組むことに対する興味を失ってしまいました。私たちはちっぽけな問題にかかずらっています。その極端な例は、大相撲の力士の行動や、麻薬の売人はなぜ母親と同居するのかを論じた『ヤバい経済学(フリーエコノミクス)』でしょう。スペインでは失業率が25%にも達しているというのに、あなた方は相撲の話をしているんですよ!」(p.39-40)


ピケティの本への賛同者ブランコ・ミラノヴィッチの言葉。

数学的モデルの問題点を鋭く指摘している。上で私も数式を多用する経済学は信用できないと述べたが、それもこの点に関連している。現実に基づくのではなく、誰かがこうあるべきと考えたことに基づいている――そのように意図していなくても、いつの間にか数式の通りになるべきものだと受け取られていく――ものでありながら、そのようなものであることを隠蔽しながら――少なくともそのことを明示的に前面に出して述べることなく――経済学者(例えばネオリベ的政策を推進した竹中平蔵やリフレ派の金融緩和を推進している岩田規久男などを想起)は、その理論を政策に反映させようと運動するところに最大の問題がある。



ピケティがはっきり述べているように、『21世紀の資本』は、経済学という学問がどうあるべきかについての彼の考えを表したものである。それは、マクロ(成長)問題とミクロ(所得分配)問題を結びつけ、膨大な実証データに依拠し、社会学、歴史、文学への言及によって彩られ、数学に対しては禁欲的である。(p.40)


妥当な論評。私もここで指摘されているような経済学こそ、あるべき経済学のあり方ではないかと思う。特に実証データの重視と数学への禁欲的な対応は重要だろう。どちらも恣意的な予断の入る余地を小さくするものである。(データにはデータ化しやすいものだけが扱われるという別の偏りがあるが、現在の数学的な理論重視の経済学よりはマシであり、また、当面の間はこの偏りの方が、理論による恣意的な理想の設定よりも害が少ないと考える。)

また、成長というマクロの問題と分配というミクロの問題を結びつけるというのは、ピケティの大きな業績ではないかとも思う。



クズネッツ本人は、「クズネッツ曲線」の評価について、ほとんどの信奉者よりもずっと慎重だった。ピケティは彼の信奉者たちがクズネッツ曲線に熱中したのは冷戦の地政学のせいだったとしている。「ソビエトモデルと資本主義モデルの競争が非常に激しかったころには、西側の人々は市場経済が不平等を縮小することができる、所得分配と富のバランスをとることができると今よりもずっと信じたがりました」と彼は言う。(p.42)


1945-1970年は、所得格差の縮小が見られた時期だったという事実に加えて、この事実を解釈する際に、冷戦の地政学的な影響が加わっていたという指摘。鋭い指摘と思う。



最近、ピケティの議論は、国際通貨基金というほとんど過激さとは無縁の機関が二月に発表した、かなり話題になった研究から間接的に影響を受けてさらに勢いをました。所得不平等に関する多国間分析を行ったこの研究は、「再分配のための典型的な取り組み」――課税と控除――「は概して成長に悪影響を及ぼすということの証拠はほとんどない」だけでなく、不平等の縮小は一般的に成長を加速させるということを発見した。(p.44-45)


現在の日本のように需要不足型の経済ではなおさら不平等の縮小が成長を促進するだろう。

不平等化が一時的に進んだとしてもまずは全体のパイを成長させることが必要だ、などと不平等の是正に消極的な論者はしばしば主張するが、彼らの議論が論理的にも実証的にもきちんと説得力のあるものとして示されたことは一度もない。むしろ、ピケティの『21世紀の資本』では、こうして増やされた全体のパイのほとんどが富裕層の懐に入り、それが相続財産となってさらに所得格差を拡大させることがデータで示されている。