アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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「創 緊急増刊 朝日新聞バッシングとジャーナリズムの危機 2015年2月号」(その3)
「朝日新聞バッシング この半年間、何が起きたのか」より

 尖閣諸島や竹島をめぐる問題がたびたび報じられ、この何年か、日本に急速にナショナリズムが台頭したことは多くの人が感じていることだ。現在は社会的指弾を浴びている民族排外主義的なヘイトスピーチも突然起きたわけでなく、それにつながる動きは以前からあった。
 2013年後半からは「嫌韓憎中」と言われるある種の熱狂が日本社会を覆い始めた。『週刊文春』や『週刊新潮』など右派系週刊誌がそうした特集をやると確実に売れ行きが伸びると言われるようになった。中国の食品問題などといったテーマにも、それまでにない関心が集まるようになった。
 出版不況に苦しみ、次々と赤字転落していた総合週刊誌が、それに飛びつき、年末年始あたりから、『週刊ポスト』、そして『FLASH』というふうに次々と嫌韓憎中の特集を掲げるようになった。……(中略)……。
 ……(中略)……。重要なことは、その転換の背景に、出版不況で部数減に悩む週刊誌が、その路線で売れると聞いて次々と飛びついていくという、市場原理が働いていたことだ。(p.60-61)


ナショナリズムの高まりは排外主義の高まりを常に伴う。このことが「嫌韓憎中」特集の需要の増大という形をとり、出版不況という背景によって背に腹は代えられない出版者が良心や公共的使命よりも利益のためにそれらを供給する。こうして供給される排外主義的言説が、さらにナショナリズムの元となる怒りや近隣国への不信・不満を煽っていく、という悪循環である。

こうした事態にはまってしまった以上、打開する簡単な方法はないように思われるが、ドイツがナチへの支持や賛同を法的に禁じているというのを聞いたことがあるが、こうした考え方は有効と思われる。すなわち、国際的な平和という日本社会における共通善のために、外国との関係を良好に保つため、また、関係を徒に悪化させないために、感情論的な憎悪表現を公共のメディアでは規制するということが考えられる。(当然のことだが、事実に基づいた批判をすることが禁止されるわけではない。なぜなら、相手もその事実を否定したり相対化したりする事実を提示することで反論は反批判する道が開かれているからである。)



「朝日バッシングはなぜ起きたのか」より

 部数の減少より大きいのは広告らしいですね。広告主に右翼の攻撃がものすごいでしょう。いま「朝日新聞をつぶせ」という力がものすごく働いていることは間違いないようです。(p.83)


なるほど。広告主に対する右翼の攻撃か。これはメディア(新聞やテレビなど)を見てもすぐには分からないところであり、この件からメディアの危機の深刻さへの認識を新たにさせられた。



ここ数年、どの企業もコンプライアンスが大事だって言いだしている。新聞だってそうですよ。
 このコンプライアンスっていうのは、おとなしく法規や社内の内規に従え、それを破るようなことはするな、つまり危ない橋を渡るなと言っているわけですから、本来のジャーナリズムのありように照らして言うと、向いている方向が正反対です。こういう雰囲気がこれからは強くなってくる心配がある。(p.83-84)


なるほど!ジャーナリズムにとってはコンプライアンスの強調は他の業界よりも大きな悪影響をおよぼす恐れがあるということか。

また、コンプライアンスということが強調され始めたとき、こんなことを唱えていても不正が減るわけがないのに馬鹿じゃないのかと思ったものだが、そのときの違和感が何だったのか、この引用文を読んで非常にはっきりわかって気がする。すなわち、組織が個人を強く縛り、管理し、従わせるということを言っており、それを個人の側に刷り込んでいくことだということ。組織を個人に対してより優位にするものであり、個人の軽視だということ。



慰安婦報道もさることながら、それよりも安倍政権の女性閣僚がネオナチや極右とのつながりを外国の新聞に報道されることのほうがよっぽど日本の名誉を傷つけてますよ。
青木 まったく同感です。僕は別に朝日信奉者じゃないし、朝日をそれほど信頼してるわけじゃありませんが、戦後リベラリズムの砦みたいにみなされるところがあって、その朝日が総バッシングにさらされてフラフラになっている。これはまさに戦後の終わりで、戦前の始まりなのではないかというくらいの強い危機感を覚えます。(p.84-85)


安倍政権の閣僚らがネオナチや極右との繋がりがあることは、知っている人なら周知のことだが、それが報道には出てくることがないのがまず異常である。その異常事態を外国の新聞が取り上げても、日本ではそれほど大きな問題と見なされないこともメディアが政権に支配されていることが功を奏しており、極めて危険な状態である。まさに現在は「戦後」ではなく次なる戦争の戦前の時代になっているという時代認識を持つことが必要であると思う。そのような認識に立ちながら、どうやって脱け出していくかという処方箋を出さなければならないからである。



「慰安婦問題をなかったことにしてはいけない」より

 だから吉田証言の問題を持ち出して、慰安婦問題それ自体をなかったかのように言う言説は、彼女たちに対する冒涜であり、彼女たちに対するセカンド・レイプだと思います。
 「国会に朝日を呼べ」という声がありますが、国会に呼ぶべきは彼女たち当事者ではないでしょうか。彼女たちは、何とか日本の国会で証言したいと、それを望んでいらっしゃいました。(p.91)


元「慰安婦」を国会で証言させるというのは、傾聴に値する見解と思う。



「朝日バッシング騒動がもたらす委縮への懸念」より

 戦後の言論界の流れを見た時に、もちろんいろいろな言論の自由が尊重されなければならない。一色に染まるような方向が加速されると、多様な言論が保証されなくなります。僕は今、日本のこの状況に似ていると思うのは、中国や北朝鮮もそうですが、一番はロシアなんです。ロシアのメディアのありようにすごく近づいて行っている。そうなってしまっていいのだろうかと思います。(p.96)


なるほど。私は日本の社会やメディアがどんどん中国に近づいて行っていると感じていたが、言われてみればロシアの方が近いのかもしれない。ただ、ロシアのメディア状況についてはそれほど詳しくわからないので、機会があれば少し調べてみたいところではある。



「朝日新聞バッシングとジャーナリズムの危機」より

 最初は東アジアの国々に対してそれらの国が日本にとって悪い影響があるということで何かを見つけては叩くという論調が見受けられて、まあそれは今も見られてさらにひどくなっていますが、しかし2年ほど前から外の国に敵を見つけて叩くだけでは済まなくなってしまったという気がします。今度は国内に敵を見つけてそれを激しく非難する、ののしるという流れに加速度がついている。(p.118)


確かに、バッシングの対象がより近く、より具体的になっている傾向はあるかも知れない。



今日は直接の課題ではありませんが、大阪の橋下市長のTwitterでの文化人らへの攻撃は、ある意味、あれもヘイトスピーチのようなものですね。自分に反対するような特定の言論人の名前をあげて「バカ」とか「アホ」とか口汚くののしるといったことを公的立場の人間が行い、それが支持されるというか、喝采を浴びる。あのころから日常の中ではとてもこれまでは使うことが許されなかったような言葉を平気で相手に浴びせかけていいのだ、というおかしな空気が出来上がったように感じます。(p.118-119)


橋下市長がヘイトスピーチをしている在特会の幹部と議論をするというのが、少し前にあったが、非常に違和感を感じていた。ここで述べられているように、橋下市長自身の言動がヘイトスピーチを行っている連中とほとんど同じだからである。

また、公的立場の人間がヘイトスピーチ的な発言をして、それが許容されることで、世の中にそうしたものが容認されたという空気が広がる、というのは、指摘の通りと思われる。このことは、ダン・アリエリーの不正の感染に関する研究の結果とも符合する。


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「創 緊急増刊 朝日新聞バッシングとジャーナリズムの危機 2015年2月号」(その2)
「北星学園と植村隆さんへの脅迫事件の一部始終」より

権力と渡り合う力と意思を持っている日本のメディアは朝日新聞だ。中小マスコミは防波堤があるから戦いやすい、と。(p.40)


若干過大評価とも思うが、基本的な構図としては正しいところをついていると思う。リベラルの象徴として朝日新聞が保守派からは批判や非難の対象となり、中小のリベラルメディアは、直接の攻撃を軽減されることでより本音に近い発言がしやすいというのは確かだろう。



右翼テロへの恐怖はマスコミの一部に浸透している。北星問題を報道する最大の壁と言ってよい。(p.40)


恐らく、北星問題だけでなく、慰安婦問題の報道全般にこのことは言えるように思われる。言論を暴力によって封じることができると右翼に認識させることは極めて危険である。



「真理を究めようとしたら、権力と衝突することがある。だから学問の自由は大切だ。神戸松蔭、帝塚山、北星への脅しが成功したら、気にいらない学者は、どんどん辞めさせられる」(p.41)


山口二郎の発言。同意見である。こうしてマスコミや学者や市民が右翼の恐怖によって沈黙していると、一つ一つ、各個撃破されていき、回りまわって自分が攻撃された時にも誰も助けてくれない、ということになる。これが恐れるべき事態である。したがって、一つのところが攻撃されている時には、それ以外の人々が連帯・連携して手を差し伸べ、問題を提起していかなければならない。



 同じく戦後、教育刷新委員会の内部メンバーとして教育基本法の制定に関わった河井道は、スミス女学校の卒業生だ。第1次安倍晋三政権が教育基本法を変えたとき、北星女子中高の生徒らは政府に「先輩の作った基本法を変えないで」と要望書を送った。すると「偏向教育をしている」などと学校にメールが殺到し、教師に対するネット攻撃も起きた。今回と同じ試練を、学園はくぐり抜けてきた。(p.43)


スミス女学校とは現在の北星学園の元となった学校である。河井道という人については知らなかったが、この件を読んで矢内原忠雄を想起した。

第一次安倍政権は教育基本法を強行採決で変えてしまった。まともな説明もなく、国家主義的な傾斜を強める内容に強制的に変えられたということを知っていれば、人権の重要性や国家主義の危険性を学び、それを感得している者であれば、誰もが抵抗を感じるのが当然であり、この学園の生徒たちの行動は立派なものだと評価すべきものである。

これに対して「偏向教育」というレッテルを用いて、暴力的な言動に出る者は自らの卑劣さを恥じるべきである。安倍晋三が強行採決という手段をとった(とらざるを得なかった)のも、生徒に不当な非難を投げかけた恥知らずたちが「偏向教育」と非難を投げかけた(投げかけざるを得なかった)のも、いずれも、自らの主張を正当に主張することができない、ということに原因がある。このような主張は言論とは言えず、本来、公共空間に現れてはならないものである。



「「慰安婦」否定と朝日叩きに暗躍する“記憶の暗殺者たち”」より

日中戦争で慰安所が中国各地に作られるようになったのは、南京大虐殺(1937年)からだった。あまりに頻発した日本兵の強かん事件に困った軍上層部が、強かん防止と性病予防のため、各地の部隊に慰安所設置を指示したのである。中国人の反日感情の高まりと国際的な批判を恐れたからだった。慰安所に送り込まれたのは、日本の植民地・朝鮮や日本本土、そして中国の女性たちだった。
 太平洋戦争で戦域がアジア全域に広がり女性の数が足らなくなると、フィリピンやインドネシア、台湾、中国、マレーシア、東ティモールなどには夥しい数の「レイプセンター」(強かん所)が作られた。「強制連行の証拠はなかった」という言い草など全く通用しない、暴力的な拉致・監禁の現場である。日本政府や安倍首相は、「慰安婦」=朝鮮半島の女性たちに限定しているが、これはかなり意図的なものである。植民地・朝鮮には公娼制度が導入され、民間業者が多数いたので、女性たちを集めるために武力を使った強制連行などは不要だった。業者が甘言や誘拐、人身売買などで女性たちを徴集できたのである。
 しかし占領地では、まさにウサギ狩りのような強制連行が行われた。父親の首をはねてから娘を連行する、市場で集めた女性たちをトラックに無理やり乗せて、接収した家に何カ月、何年にもわたって閉じ込めて「慰安婦」をさせた。しかし、このようなケースにはそもそも「強制連行の証拠」などはありえない。「強制連行の証拠はなかった」から「強制連行はなかった」と主張するのは、苦し紛れの問題のすり替えである。
 こうした慰安所や強かん所について、兵士たちのほとんどは知っていたが、国民には知らされなかった。戦時中のメディアは厳しい検閲を受けていた。(p.45-46)


「朝鮮半島では強制連行を行ったという文書での証拠が見つかっていない」ということは「強制連行はなかった」ことを証拠立てるものではないことは明らかである。意図的に朝鮮半島に地域を区切り、証拠を文書資料、それも政府や軍の内外で使用された文書に限定することによって、その範囲でのその種類の証拠が発見されていない(それも廃棄処分された資料が大量にあることが知られているのに)というだけのことであり、そこから「強制連行はなかった」と主張することはできない。

もっとも、この「強制連行」や「強制」があったかどうかという論点だけを選んで、あたかも問題がなかったかのように語るということ自体、議論として正当性を欠く。同じような証言が複数の地域で複数の被害者から出ている、それも加害者側の手記などとも照応する内容のものである、ということまで否定して初めてそのような主張をする可能性が開かれる。(歴史学では文書と証言は同じレベルの資料である。発言を書き留めれば文書になるからである。文書だから信用でき、証言だから信用できない、ということは言えない。)これを更に強い根拠に基づいて否定できないのならば、そのような加害行為があったということであり、それが人権を蹂躙するものであった、と認識できなければならない。そして、戦争や情報統制というものがそれを助長する環境であった、という認識を持つことが必要である。

自分の好みではない事実を受け入れることができないことは弱さ(能力の欠如)である。(このことは上で「できる」ことが必要である――できなければならない――と述べたことと対応する。)自分が好まない事実であっても、事実は事実として真摯に受け止めるということが、この問題について発言するための最低限の水準である。それ以下の水準の者はこの問題について発言することは許されない。まずは自らの問題を解決してから社会に現れることが許される。(ある意味、これは3歳児に選挙権が与えられるべきでないのと同じである。)

なぜならば、これは公の場で説明することができるための最低限度の水準だからである。すなわち、これができて初めて自分自身と他人に対して自らの趣味判断や価値判断を明示しつつ、事実関係及びそれに対する評価を説明することが可能となるからであり、これができることによって異なる意見の者と有効な相互批判が可能となるからである。



 内務省はポツダム宣言受諾の直後、進駐してくる米軍兵士用の慰安所(RAA)の設置を決めて各県に行政通達を出し、女性を募集させて設置したが、これも秘密裏に行われた。(p.46)



この件に関しては、広岡敬一の『戦後性風俗大系 わが女神たち』により詳しく記載がある。



 「慰安婦」問題で日本に国際的な批判が高まった原因は、政府や右派メディアが言うように、朝日新聞の「慰安婦」報道にあるわけではなく、明らかに安倍政権や政治家たちのこうした「慰安婦」否定の姿勢や発言にある。(p.50)


そのとおりである。安倍政権や右派メディア自身がそのことに気づいて言動を訂正していかない限り、日本の国際関係での地位や名誉の低下は免れない。


「創 緊急増刊 朝日新聞バッシングとジャーナリズムの危機 2015年2月号」(その1)
「朝日新聞バッシングと安倍政権の思惑」より

 こうして既成事実を積み上げ、もう世の中こう変わったんだから今の憲法では対応できない、憲法を変えようとやってくると思う。そういう流れのなかで、朝日新聞をやっつけなければならないという空気が強く出てきたのではないでしょうか。
 これに対して、朝日新聞は、それを跳ね返すのでなく、弱みを衝かれたらかなわないので、そのところは先回りして訂正しておこうと、慰安婦報道をめぐって8月5・6日にあのような特集記事を出した。ところが池上問題でお粗末な対応をし、挙句が取り消すような記事ではないのに、吉田調書報道の記事取り消しをした。続報で十分対応出来たのに、上層部が続報をつぶし、対応を誤った。その前に産経・読売に吉田調書の記事が出ますが、その背後には原発再稼働を早くやりたい安倍首相の意を体した官邸の影がちらついていました。(p.7)


2014年後半の朝日新聞へのバッシングは、極めて政治闘争の色彩が強いものであるということはよく認識する必要がある。

朝日の慰安婦報道の訂正記事(8/5-6)は、戦後70年を前にした政治的な圧力への自衛策という面があったようだが、組織防衛的な側面が裏目に出た(このことが対応を誤る大きな要因となった)ものと思われる。

新聞の世界を見ると、産経は安倍晋三の極右イデオロギーを代弁するような立ち位置で、右側に政府を引っ張ろうとする安倍晋三応援団であり、最大部数を誇る読売も政府の広報紙と化している。日経は投資家や資本家、大企業を利する限りで安倍政権を支持し、イデオロギー面とは若干の距離を置きながらも批判は弱い。読売に次ぐ読者数を誇る朝日新聞は、安倍政権に対しては及び腰ながらも批判的な姿勢をちらつかせており、より規模の小さな毎日新聞や東京新聞はもう少し安倍政権に対して批判的。ただ、これらは紙数が多くなく、ある意味、産経も数は少ないが極端な主張をすることによって言論を右に引っ張る力に均衡させるだけの迫力に欠ける。地方紙は概ね安倍政権に批判的だが、地方都市や町村に比べて大都市圏の持つ政治的影響力が大きくなっていることもあり、批判の大きなうねりを起こすことができずにいる。

こうした中で朝日新聞による批判を封じてしまうことによって、残りの小勢力は容易に各個撃破できるようになる。そうなると、日本の新聞はすべて政府の広報紙的な存在になってしまい、少なくとも新聞における言論は政府に都合の良いもののみとなってしまう。この意味で朝日新聞が占める言論の世界における位置は極めて重要であり、今般の朝日新聞バッシングは日本の政治において極めて危機的な事態である。こうした中での対応の誤りは非常に痛いところである。



法的には社の恣意に委ねられる編集権の占有は否定されている。しかし日本では、編集権は経営権に属するという考え方がいまだに亡霊のように残っている。ヨーロッパやアメリカでは、編集の内部的自由という考え方が、実践的にも確立されているけれど、日本はそうなっていない。(p.12)


この問題は、NHKの問題を考えた際にも現れていた。ETV2001における番組改変事件が想起される。



 個人の不始末みたいな形で処理して、自分たちの取材の原理を捨てちゃうんだ。そういうことをやっているから、2005年のNHKの番組改編を暴いた報道も、本来なら2001年当時の安倍や中川といった政治家の介入を暴いたにも関わらず、見かけ上はNHKと朝日のケンカみたいになっちゃった。安倍はあの時「自分は何も言っていません。ただ公正中立にね、と言っただけです」と弁明したのですが、放送総局長にそう言うこと自体、大きな圧力でしょう。今回の総選挙の前にも、放送局に対して「中立公正に報道しろ」と通達を出したわけですが、同じ構図ですよ。(p.13)


同意見である。

どう考えても、安倍や中川がNHKの報道に介入したことは明白であるが、それを問題化できなかった。朝日新聞の判断の誤りとNHKの(NHKだけに限ったことではないが)組織防衛を志向する事実隠蔽とが重なって、安倍や中川の罪を問うことができなかったことは極めて痛い。念のため言うと、中川とは中川昭一(故人)であり、路チュー事件を最近起こした中川郁子(ゆうこ)の夫である。

「公正中立に」と報道機関に対して言うことは問題がないと安倍や自民党は主張しているが、どのような考え方をする人間・組織が発言したのか、また、どのような力関係の中でそれを言ったのか、ということまで考慮に入れれば、自分に都合の悪いことをさせないよう圧力をかけたことは明白である。安倍は2001年の番組改変事件の際に、「公正中立に」と言う前に極右の自慰史観に基づく自説をNHK幹部に説いてから、何を言いたいか勘繰れ、という命令をこめながら表面的な言葉としては「公正中立に」と発話したに過ぎないのではないか。

極右的な考え方をする人であるということは、それ自体、バランス感覚に乏しいということを他人に伝えていることになり、寛容さも持ち合わせていないということをも伝えることになる。そうした人間が「中立公正」ということを発言する場合、自分の極端な意見を採用すること(否定しないこと)が「中立公正」であると考えていると聞き手には伝わることになる。様々な意見を見渡したうえで、それぞれに対して、正しい部分と誤った部分を切り分けながら、それらのどれにも強く肩入れすることがない、といったような普通の意味での中立公正とは全く違った意味のことを、安倍は権力を背景として語ったのだから。



 2015年は、「戦後70年」ですね。安倍首相はこの年を戦後の総決算というか、戦後は無くなった、という年にしたいはずです。これにどう対応するか、新聞は大事な局面を迎えることになります。(p.15)


妥当。私は現在は、「戦後ではなく、来るべき戦争に対する戦前」になってしまったと捉えている。



 また、林香里委員の、日本の「慰安婦」問題に関する議論からは「女性の人権と性」という問題意識が欠落している、とする意見は重要な指摘だと思いました。(p.16)


全くその通り。日本の右派は、人権に対する感受性が全くというほどないことは、極めて問題であり、彼らの言論が国内で幅を利かせている。従って、日本国内の議論の水準や論点が、国際的な議論の水準や論点と全くずれてしまっていることは、日本を国際社会で孤立化させる方向へと作用している。こうした国際的な孤立化の方向に向かいつつある点でも、第二次大戦前と類似している。


ダン・アリエリー 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』(その2)

定職に就いていない人たちの少なくとも一部は、病的虚言癖のせいで仕事に就けないのだろうと考えたわけだ(一時雇用者が全員そうだというわけではもちろんない)。
 研究チームは108人の求職者に、一連の心理テストをやってもらった。また本人のほか、同僚や家族と一対一の面接をおこなって、病的虚言症を明らかにする、話の大きな食い違いがみられないかどうかを調べた。結果、このグループには、自分の仕事や学校教育、犯罪歴、家庭環境などについて語った話に、広範にわたって食い違いが見られる人が12人いた。彼らは詐病を繰り返していた人たちでもあった。詐病というのは、疾病手当などの利益を得るために病気を装う行為のことだ。
 続いて研究チームは、12人の病的虚言者と、病的虚言者ではない21人の求職者(対照群)に脳スキャンを行なって、脳の構造を調べた。……(中略)……。その結果、病的虚言者は対照群に比べて、灰白質の量が14%少ないことがわかった。これは心理的疾患をもつ人たちの多くに見られる特徴だ。……(中略)……。ヤンらは病的虚言者の前頭前皮質内の白質が、対照群に比べて26%から22%多いことも発見した。病的虚言者は白質が多いので(もう一度言うが、白質は灰白質をつなぐ配線だ)、いろいろな記憶や考えを、より多くの方法でつなげることができる。この接続性の高さと、灰白質に蓄えられたさまざまな連想への自由なアクセスが、彼らを生まれながらの嘘つきにしている秘密の要素なのかもしれない。
 この研究成果をふつうの人たちにあてはめると、脳の接続性が高い人ほど、嘘をつきながら、自分を立派な人間だと考えやすくなると言えるかもしれない。というのも、脳の接続性が高い人ほど、疑わしい行動を解釈、説明するための手段をたくさんもっているからだ。そしてたぶんこれが、自分の不正行為を正当化するのに欠かせない要素の一つなのではないだろうか。(p.201-203)


創造性と結びつくような接続性の高さが、不正を助長するという説は非常に興味深い。

また、定職に就けない人の中に、ある程度の割合の病的虚言者がいるという見立てや実験によって9人に1人もの割合でそれが見られたという点も、個人的には興味を惹かれたところである。生活保護受給者(高齢世帯や障害世帯を除くいわゆる稼働年齢層)などにもこの傾向は明らかに見られると思われるからである。なお、これが器質的なものと連動しているという理解も対策を考える際に、重要性を持っていると思われる。



 不正が社会的感染をとおして人から人へと伝わるという考えは、不正を減らすにはいまとは違う手法が必要だということを示唆している。わたしたちはささいな違反行為を、文字どおりささいで無害なものと考えがちだ。しかし微罪は、それ自体はとるに足りなくても、一人の個人や大勢の人、また集団のなかに積み重なるうちに、もっと大きな不正をしても大丈夫だというシグナルを発するようになる。この観点から言うと、個々の逸脱行為がおよぼす影響が、一つの不正行為という枠を超え得ることを認識する必要がある。……(中略)……。
 割れ窓理論は立証や反証が難しいが、その考え方には一理ある。この理論は、小さな犯罪を容認、看過、容赦すべきでないと諭している。そうすることで事態がさらに悪化するからだ。(p.254-256)


不正の感染という発想は非常に重要と思う。

なお、割れ窓理論は、以前このブログでもマルコム・グラッドウェルの『急に売れ始めるにはワケがある』で紹介しており、個人的には非常にインスパイアされるところの多かった理論なのだが、その後、実証されていないということを聞いてがっかりしたことがある。しかし、著者が言うように、この考え方自体は傾聴に値するものがあることは間違いないと思っている。(本書の実験とも齟齬がない。)



 一般には、集団で仕事をすることは、結果に好ましい影響をおよぼし、意思決定の全体的な質を高めると考えられている(実際には、協働が意思決定の質を低めることを、多くの研究は示しているのだが、これについては、また別の機会に説明するとしよう)。(p.258-259)


確かに、少人数のグループワークなどで、非常に独創的なアイディアを提示したり、普通の人では見つけられないような問題を提起した場合、グループの人がその(優れた)意見に共感したり、理解を示すことができないということは、ありそうに思われる。俗論は共感を得やすいが、独創的な意見は必ずしもそうではない。そういう観点から見ると、集団での意思決定は必ずしも意思決定の質を高めるとは言えないし、むしろ低めることが多いように思う。

著者のこの問題に対する知見はぜひ知りたいと思う。

ただ、この問題は民主主義の理念と抵触しうる問題性も孕んでおり、どの程度に人数の協働で言えることなのか?また、どのような種類の意思決定で言えることなのか?といったことはある程度注意深く確定していかないといけないところはあると思う。少人数の集団で言えることが数千万人規模の集団でも言えるという保証はないからである。

むしろ、先に指摘した「俗論は共感を得やすいが、独創的な意見は必ずしもそうではない」という見方は、独創的な意見が必ずしも善いものとは限らず、非常に悪い内容の意見でもあり得るとすれば、権力と暴力との関係を考慮に入れると、最適解を選ぶことができるかどうかよりも、最悪の解を避けることができるかどうかの方が重要になってくることを考えると、民主主義はやはり独裁や専制などよりは政治的な理念としては優れている(ましである)とは言えそうである。



ふたを開けてみれば、利他主義はたしかにごまかしをする強力な動機づけになることがわかった。ごまかしが純粋に利他的な理由から行われるとき、つまりごまかしをする人自身が、その行為から何も利益を得ない場合、水増しの度合いはさらに高まったのだ。
 なぜそうなるのだろう?思うに、自分の不正によって自分と他人が利益を得るときには、利己と利他の入り交じった動機から不正をすることになる。これに対して、利益を得るのが他人だけだと、自分の問題行動を純粋に利他的なものとして正当化しやすくなり、結果的に自分の道徳的束縛をいっそう緩めてしまうのだ。(p.276)


利他主義が不正の動機になるとは、普通に思われていることとは違うところが非常に面白い。不正と自己正当化とが深くかかわっていることを理解すれば、このあたりはよくわかるように思う。

ただ、「つじつま合わせ係数」の仮説は、本書の範囲内では、正直者という自己イメージと不正によって利益を得ることの葛藤が自己正当化によって架橋されると説明されている。その意味で、利他的な動機が不正の強力な動機づけになるという事実は仮説の定式化を若干変更する必要を迫っている可能性もある。

とは言え、利他的な動機から不正を行うことで、少なくとも、本書で示されている実験の範囲では、利益を与えた相手には自分が実験で課されるテストの成績が良かったと思わせることができるという点では、不正をする者にも利益がないわけではない、とは言える。金銭的利益だけでなく、名誉のような精神的な利益も含めた利益が追求されうるという理解によって定式化は維持可能であるように思われる。

なお、上記の部分に関連する注も興味深い指摘がなされているので、次に引用しておく。

 これらの結果を見る限り、政党や非営利団体といったイデオロギー的な組織ではたらく人たちは、大義のため、また人助けのためにやっているという意識から、道徳上のルールを曲げることに違和感を覚えにくいのではないかと思われる。(p.277)





 また重要なこととして、好ましくないものごとの終わりを定め、新しいスタートを設ける方法は、社会全体という、より大きな規模でも効果がある。南アフリカの真実和解委員会が、この種のプロセスの好例だ。この法廷に似た委員会のねらいは、それまで圧倒的多数の国民を何十年にもわたって抑圧していたアパルトヘイト政府から、新しいスタートへの、そして民主主義への移行を促すことにあった。好ましくない行動を阻止し、しばし時間をおいて、再出発を促すほかの手段と同様、委員会の目的は報復ではなく、和解にあった。委員会がアパルトヘイト時代のすべての記憶や名残を消し去ったとか、アパルトヘイトほど深い傷跡が忘れ去られるとか、完全に癒えるなどと言う人は、もちろんいないだろう。それでもこの委員会は、問題行動を認め、許しを請うことが、正しい方向に向かう大切な一歩になるという、重要な例であるのは間違いない。(p.301)


「どうにでもなれ」効果に対処するために、道徳的規範をリセットするための方法が有効である。

現在、「戦後70年の安倍談話」がどのようなものになるか、ということがニュースで注目されているが、第二次大戦時の侵略と植民地支配、そして戦地でのいわゆる「従軍慰安婦」の問題などにも、ここで示されたような考え方で臨むことは有効である。しかし、安倍晋三やその周辺の政治家と財界人の考え方はネトウヨ的なものであり、歴史修正主義(これを「自虐史観」に対する「自慰史観」と私は呼んでいる)に立って、過去の自国政府が行った過ちを自己正当化しようとするものであり、まさに本書で示されている不正が行われる仕組みそのものである。すなわち、正しい行いをする者という自己イメージを持ちたいという欲求と不正(事実と異なる嘘を撒き散らすこと)によって精神的利益を得たいという欲求とがあり、それを歴史修正主義(自慰史観)というイデオロギーによって正当化できると考えているため、不正を働いてしまっている、ということである。



ダン・アリエリー 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』(その1)

脳の高次機能がすでに占有されていた七ケタグループは、本能的欲求を覆しにくくなり、多くの人がいますぐ喜びを与えてくれるチョコレートケーキに屈することになった。(p.120-121)


二桁の数字を記憶させられたグループと七桁の数字を記憶させられたグループに、チョコレートケーキと健康的なフルーツ盛り合わせという選択肢を与えたとき、七桁グループがその場の欲求を満たせる選択肢を選んだという実験結果。熟慮的な機能が占有されていると、衝動によって行動が支配されやすくなるということ。



 皮肉なことに、衝動を抑えようとする単純で日常的な努力が、自制心の在庫を減らしていき、その結果ますます誘惑に駆られやすくなるのだ。(p.135)


様々な葛藤にさらされることで、精神力が疲弊すると自制心を保つことが難しくなる。ダイエットなどが難しい理由の一つはこれか、と納得した。



時をさかのぼって古代ローマの法には、奢侈禁止令という一連の規制があった。禁止令はその後数世紀をかけてヨーロッパのほとんどの国に浸透した。この法では何よりもまず、身分や階級によって、だれが何を着てよいかがきめられていた。……(中略)……。
 こうしたルールは、上流階級のばかばかしいまでの強迫症のように思えるかもしれないが、実は世間の人たちが自らシグナリングしたとおりの身分であることを保証するための策だった。つまり、無秩序と混乱を排除するためのしくみだ(シグナリングの利点があったのは間違いないが、この体制に戻りたいとは言わない)。現代の衣服の階級制度は、むかしほど硬直的ではないが、成功と個性をシグナリングしたいという欲求は、かつてないほど高まっている。……(中略)……。

 ……(中略)……。この観点から言えば、にせものを買う人は対外シグナリングの効力を弱め、正規品(とそれを身につける人)の真正性を損なうことになる。(p.142-145)


なるほど。



わたしたちはたいてい、自分の好みや個性は、自分が一番よく知っていると思っているが、実は自分のことをあまりよくわかっていない(し、自分で思っているほど自分のことをよく知らない)。むしろわたしたちは他人の行動を観察し、評価するのと同じ方法で、自分のことを観察している。つまり自分の行動から、自分の人となりや好みを推し量っているのだ。(p.145-146)


「自己シグナリング」の説明。

自分の中を思考によって探し回っても、自分自身が何者であるかは結局わからずじまいだというのは、経験的に確かだと思う。むしろ、自分が何をするか、何をしてきたか、ということが自分自身を実際にも形作っているだろうし、周囲の人々から見た「私」の像もここから作られているだろう。この「自己シグナリング」の考え方では、さらに、自己イメージないしアイデンティティのようなものも、自分自身の行動から推し量られていることが示唆されている。

一つのポイントは、自分自身は「知られている」のではなく、「推し量られている」ということにある。行動が変われば自己イメージもそれに応じて変わることがあるわけだ。



以上の結果から、女性たちは正規ラベルを身につけても、ふだんより正直な行動を(少なくとも大幅には)促されなかったことがわかる。だがにせものをそれと知りつつ身につけると、道徳的な抑制力がいくぶん弱まり、その結果不正の道に歩を進めやすくなるのだ。(p.151)


偽ブランドを身につけることがこのような心理的効果をもたらすとは本書を読むまで思い至らなかった。こうした意外性が行動経済学の面白いところかも知れない。



ダイエットをしているとき、どんなことが起きるだろう?初めのうちは、ダイエットの厳しいルールを必死に守ろうとする。……(中略)……。誘惑に負けて一口食べたとたん、あなたの見方はがらりと変わるのだ。……(中略)……。
 ……(中略)……。いったん自分の規範を破る(ダイエットでずるをしたり、金銭的報酬を得るためにごまかしをする)ようになると、自分の行動を抑えようという努力をずっと放棄しやすくなる。そしてそれ以降、さらに不品行なことをする誘惑に、とても屈しやすくなるのだ。(p.151-156)


確かに。この「どうにでもなれ」効果は非常に大きなものがある。



「よくやった仕事」を思い出させるものがあると、その仕事を実際にどれだけよくやったかとは関係なく、自分の業績がすべて自分の手柄だと信じやすくなるようだ。(p.186)


これもよくわかる気がする。

この「よくやった仕事」が自分だけの力でやってものではないという実感を持っていれば、ある程度、自分の貢献度も相対化できるのかもしれない。



わたしたちは、自分がいましていることをなぜしているのか、選んだものをなぜ選んだのか、感じていることをなぜ感じているのかを、必ずしも正確に理解しているわけではない。だがたとえ本当の動機がよくわからなくても、自分の行動、決定、感情を説明する、もっともらしい理由をこしらえずにはいられないのだ。

 ……(中略)……。わたしたちは生まれながらに物語る動物であり、自分が納得し、信じられる程度にもっともらしい説明を考えつくまで、次から次へと物語を生み出す。その物語が自分をよりすばらしく、好ましく見せてくれるなら、なお都合がいい。(p.196-197)


第一文で指摘されているような理解困難性は、オートポイエーシスにおいて、システムの作動とシステムの作動を再帰的に観察することとの差異が、現れているように思われる。

人間は「物語る動物」であり、もっともらしい説明を考えつくまで物語を生み出して、自分を納得させようとするが、この正当化能力が、著者の「つじつま合わせ係数」仮説(正直な自己というイメージを持ちたいという欲求と不正によってもっと利益を得たいという欲求を自己正当化できる場合に不正が促進される)のポイントとなっている。




ダン・アリエリー 『不合理だからうまくいく 行動経済学で「人を動かす」』

仕事から意味を奪うのは、驚くほど簡単なことなのだ。あなたが管理職で、なんとしても部下のやる気をなくしたいのなら、部下が見ている目の前で、かれらの労作を粉砕すればいい。もうちょっとさりげなくやるなら、部下を無視したり、がんばっている様子に気づかないふりをするだけでいい。逆に、同僚や部下のやる気を高めたいなら、かれらに気を配り、がんばりや骨折りの成果に関心を払うことだ。(p.111)


仕事の動機付けには、本人が仕事に意味を与えることができるかどうかが重要であり、そのためには周囲からの承認が大きな役割を果たしている。あまりにも当たり前の話ではあるが、標準的な経済学の「合理的経済人」モデルでは、こうしたことが完全に無視されている。労働経済学でも、こうした意味づけについて適切に理論化できているモデルは少なくとも私は見たことがない。その意味では、当たり前のことが経済学の世界ではまったく理解されていない(現実を全く捉えそこねている)というのが基本的な趨勢である。行動経済学はそうした面に対する批判としての意味を持っている。



こと労働に関して言えば、人間のモチベーションは複雑で、「金のために働く」といった、短絡的な関係に集約することはできないということだ。仕事の意味が労働におよぼす影響や、労働から意味を奪うことの影響が、わたしたちがふつう思っているよりも、ずっと強力だということを、理解しなくてはいけない。(p.112)


「給料が高いからやる気が出る」などという類の認識が基本的に誤っているということは、経営学の方面(高橋伸夫などの議論)や心理学の方面ではすでに指摘されてきたし、マイケル・サンデルなどもこうした点について考察をしていたものであるが、行動経済学の実験でもそれが示されている、ということ。



つまりPETスキャンによれば、他人を罰するという決定は、喜びの感情と関わっているように思われた。(p.179-180)


PETスキャンとは、ポジトロン断層法という方法で脳をスキャンする方法。この感覚は、個人的にはよくわかる気がする。悪(ある人が悪と認定したもの)を裁くことにはある種の爽快感というか、充実感が伴うように思われる。



 しかし、報復には、恨みを晴らすという以上の意味がある。じっさい報復と信頼は、表裏一体なのだ。信頼ゲームでわかったように、人はたいていの場合、進んでお互いを信頼しあう。だれだか知らず、二度と会うこともない相手に対してもそうだ(つまり、合理的な経済学の観点からすると、わたしたちは人がよすぎるということになる)。それに、信頼をもとにした社会的契約が踏みにじられたとき、わたしたちがとても憤慨するのは、信頼が人間の基本的な要素をなしているからこそだ。だからこういう状況では、時間やお金をつぎこみ、ときに肉体的な危険を冒してまで、無礼な相手に報復しようとする。信頼関係で成り立っている社会は、信頼なき世界に比べて、はかりしれないほどの利点がある。だからこそわたしたちは、社会で高い信頼関係を維持しようとする本能をもっているのだ。(p.181-182)


報復は信頼と表裏一体というのは、少なくとも私にとっては感覚的に非常に説得力がある。

ここ30年ほどの間の日本社会の動向を見ると、信頼関係で成り立っている社会から、信頼なき社会へと変わりつつあり、政府が率先してそのような信頼を破壊するような政策を打っている、ということは指摘しておきたい。



きっと、いやなことは中断せず一気にやった方が苦痛が少ないし、楽しいことは何度かに分けてやった方が、楽しめるはずだ。何かをしている最中に中断すれば、順応が妨げられる。ならば、いやなことを中断すればもっといやになるが、楽しいことは中断した方がもっと楽しくなるのではないかと考えたのだ。
 ……(中略)……。いらだたしい体験や退屈な体験は、中断した方がつらくないように思われるが、じつは中断のせいで、順応能力が低下してしまうから、もう一度その体験に戻ったとき、前にも増していやな気分になるのだ。家を掃除したり、確定申告の準備をしたりするときのコツは、腰を落ち着けて一気に片づけてしまうことだ。(p.252-254)


人間には、楽しいことをしていても続けていると順応によって次第にその楽しみは薄れてしまい、苦痛なことでも次第にその苦痛に慣れてしまうという性質がある。ここから、楽しいことや好きなことは中断しながらやり、苦しいことや嫌いなことは一気にやってしまうことで、より快適に生活することができる、ということが導かれる。この点は、私にとっては本書で一番面白かったところの一つである。



でももうわかっていると思うが、わたしたちが新しいものにあっという間に順応してしまうことを考えれば、少しずつものを買い足していく方が、じつは満足度が高いのだ。買い物をセーブして、次の買い物まで時間をおく。こうして順応プロセスのペースをゆるめれば、自分のお金の「満足購買力」を、めいっぱい引き出すことができる。
 ここでのコツは、楽しみのペースを落とすことだ。……(中略)……。
 順応を自分に役立てるもう一つの方法は、消費の上限を決めておくことだ。……(中略)……。トムに言わせると、一本50ドルもする高級ワインに手を出せば、その等級のワインに慣れてしまって、安いワインを楽しめなくなる。……(中略)……。そもそも50ドル以上もする高級ワインを飲んだことがなければ、自分の好きな価格帯のワインの質のちがいに、いちばん敏感でいられるから、満足度が高まるはずだ。……(中略)……。

 同じ理屈から、順応を活用して全体的な満足度を高めるために、いつも触れる身近なものよりも、もっと一時的ではかない商品やサービスにお金をかけるのも一つの手だ。たとえば一般的に言って、ステレオや家具はしょっちゅう触れるものだから、すぐ慣れてしまう。それにひきかえ、つかの間の体験(四日間の小旅行、スキューバダイビングのツアー、コンサートなど)は、すぐ終わってしまうから、そう簡単に順応できない。(p.262-265)


順応を考慮した満足度の高め方は、非常に興味深い。

消費のペースを落とすことは、無駄な買い物を防ぐことにも繋がるため、私自身もよく使う戦略である。

引用文での二つ目の消費の上限を決めておくことについては、多少の異論もある。というのは、高級なワインの満足感を知っているか知らないかということによって、知っている世界の広さが変わる場合があるからだ。

すなわち、ワインのような嗜好品であれば、それほど大した意味はないかもしれないが、例えば、本について、1,000円以下の文庫や新書しか買わないという選択をしている場合、数千円の学術書でなければ得られないような知的好奇心の充足を知らずに過ごすことになってしまう。そうして得た知見を持って文庫や新書を読む方が、さらにより深く物事を認識できるようになり、様々なことに対して味わいが深くなる、ということがあり得るからである。

第三の一時的なサービスへの出費というのは、よく「モノ」を買うことと「コト(体験)」を買うことの対比が語られるが、後者の方が満足度に寄与する度合いが高いことを意味していると思われる。私自身は前者より後者に重きを置く考え方をしてきたので、その妥当性をさらに強化する事実が示されたことになる。



 もしわたしたちが完璧な存在なら、自分が浅はかなふるまいを決定したときの感情を、いつまでも忘れずにいるだろう。だが現実には、自分が以前どんな気分でいたかなんて、すぐ忘れてしまう(こないだの水曜の午後3時30分にどんな気分だったか、覚えているだろうか?)それなのに、自分のとった行動のことだけは、覚えている。そんなわけで、同じ決定を(たとえもとは感情まかせの決定だったとしても)、何度も下し続けるのだ。要するに、いったん感情にまかせて行動することを選び、行きあたりばったりの決定を下すと、そのせいで長い間にわたって決定に影響がおよぶ場合があるということだ。(p.367)


感情自体はすぐに消えてしまうし、その感情のことなどはすぐに忘れてしまうが、行為は感情よりも遥かに記憶に残りやすく、このことから次に自分が起こす行動に基準を与える形で影響を与え続けることがある。この考え方は、オートポイエティックなシステムを想起させる。(コンティンジェントな)次の自分の行為が選択される際には、過去に自らが起こした行為が参照されているあたりがそうである。システムの構造形成の議論と筋道が非常に近いように思う。



何かの感情にとらわれている間は何もしなければ、短期的、長期的に害がおよぶことはない。ところが、感情にまかせて決定を下すと、その直接の結果に苦しめられるだけでなく、そのことで長期的な決定のパターンができあがってしまい、長い間にわたって、誤った方向に導かれるおそれがある。……(中略)……。

 感情の連鎖がもたらす危険の、いちばにわかりやすい例が、夫婦関係ではないだろうか(もちろん一般的な教訓は、どんな関係にもあてはまる)。夫婦が、お金や子ども、夕飯の献立といった、さまざまな問題に対処するために話し合う(どなり合う)とき、じつは目の前の問題について話し合っているだけではない。こういうことをとおして、「行動のレパートリー」を生み出し、このレパートリーが、その後長い間にわたって、二人の関わり方を方向づけるのだ。感情は――どれほど無関係なものでも――こういった話し合いの中に、いやおうなく忍びこみ、コミュニケーションのパターンを変えてしまうことがある。その感情にとらわれている、短い間だけでなく、長期にわたってだ。そして、もうわかるだろう。こういうパターンは、いったんできあがると、なかなか変えられないのだ。
 ……(中略)……。それなら、こんなふうに関係が悪化していくのを防ぐ方法はないのだろうか?わたしの簡単なアドバイスは、こういう悪循環が起こりにくい相手を選ぶことだ。でもどうやって?……(中略)……。
 要するに、こういうことだ。だれかと長い関係を誓う前に、二人がはっきりした社会的なきまりごとがないような環境に置かれたときどうなるかを、まず調べてみよう(たとえばカップルは結婚する前に、結婚式の計画を一緒に立てて、それでもお互いを好きでいられたら、そのままゴールインすればいいのではないだろうか)。それに、行動パターンが悪化していないか、つねに気を配ることも大切だ。初期の危険信号に気づいたら、まずい関わり方のパターンができあがってしまう前に、すばやく行動を起こして、望ましくない方向に行かないように軌道修正することだ。(p.383-387)


夫婦関係という例での説明は、なるほどと思わされる。

悪循環が起こりにくい相手を選ぶためには、明確なルールがない環境に置いてみる、というのは理に適っている。明確なルールがある環境では、とるべき行動パターンも規制されており、定型化されているため、問題は起こりにくい。明確なルールがない場合でも、不要な衝突をせずに協力関係を築いて行けるなら、その後も協力的な関係を構築していける可能性は高いと見てよいだろう。

「成田離婚」などという言葉が示す事柄も、海外旅行という非日常的な環境で、適切な関係を築けないことが明らかとなったために生じる現象だと言える。また、入籍する前に同居してみる(いわゆる同棲)、という方法もあり得るが、その決定自体がそれなりに重く、一度同居してしまうと、容易に別居できなくなる(住居を確保するなど多大な手間がかかる)というリスクや、懐胎により離別が妨げられるというリスクも高まる点で、ある程度の試行錯誤をした後の最後のステップとしてであればありなのかもしれない。(この場合、まず、入居するときの引越やそのための計画で協力関係が築けるかどうかは非常に重要なチェックポイントとなる。この段階で協力関係が築けないとすれば、長期間の同居はしない方が無難ということになるだろう。)

この引用文で指摘されている事柄は、仕事などの場合、ある程度のルールがあるので、そのまま適用できないところがあるかも知れないが、プライベートの関係については、応用範囲が広いように思われる。



ニクラス・ルーマン 『社会システム理論』(その2)

要素の自己準拠によって意味されているのは、要素が「自己同一性」と「自己相違性」の組み合わせをとおして要素それ自体を要素の内部で規定する能力のことなのである。要素の内部規定と外部規定が関連していることが明確に把握されなければ要素の自己準拠は解明されえない。要素の自己準拠がこのように捉えられると、ウェーバーが行為の「主観的に思念された意味」を取り上げたさいに、かれが念頭においたと考えられることがらを適切に再構成することが可能になる。(p.542)


ルーマンのシステム理論とウェーバーの行為理論との関係は確かに気になるところであり、今後、理解を深めたいと思う問題。

この点について、本書の訳者が解説で触れており、参考になるので引用しておく。

満員の電車の中で一人の紳士がある婦人に席をゆずろうとしたばあい、紳士は、自分が席を立てば相手がその席に座るだろうと見込み、そのことを前提として自分の行為に意味を付与している。しかし、そうした意味規定では紳士の行為の意味が尽くされてはいない。なぜなら、たとえば、婦人がその席に座らずにハンドバックをおくという事態などが考えられうるからである。そうしてみると、みずからの行為に対する他者の意味規定というものをもあわせて考えないと、みずからの行為に接続する他者の行為は予期できないのは明らかであろう。みずからでみずからの行為に託した意味、つまり、意味の内部的規定だけでは、相互作用状況における行為の意味のすべてが尽くされえないのであり、その行為に対する他者の意味規定ということをあわせて考慮に入れなければならない。……(中略)……。ルーマンは、ウェーバーが行為の「主観的に思念された意味」を取り上げたさいに、行為の意味に関する内部的規定にとどまり、外部的規定との連動の問題を捉えそこねているとみている(本書下巻542頁)。この点をやや大げさに言えば、ルーマンの社会システム理論は、理解社会学の展開と言っても差し支えないし、あるいはそれをふまえた歴史社会学を具体化している(例えば『情熱としての愛』(1982年)をみよ)とさえ言えるだろう。(p.968-969)





そればかりか、「オートポイエシス」もまた、有機体システムから社会システムに転用されるさいに、意味が変容している。つまり、オートポイエシスは、社会システムのばあいには、生命の連続をではなく、行為の接続能力を保証しているのである。(p.681)


マトゥラーナやヴァレラからルーマンはオートポイエーシスの概念を継承しているが、部分的に更新もしている。



道徳も、とりわけ、法も、コンフリクトを促進するように作用している。というのも、道徳や法によって、みずからの立場が正当な側にあり、相手の側が公的な拒絶にさらされたり、それどころか裁判をとおしてサンクションを相手側に突きつけたりすることができることが保証されるからである。科学による立証もまた、コンフリクトを鼓舞したり、それを支援したりすることがあるだろう。(p.715)


なるほど。一般的に漠然と思っている意見とは異なる見方であり、興味深い。二分法コードによって、正と不正、真と偽を分けるものであるということとこれは関わっていると思われる。



それと同時に、運動の目標は運動がうまくいかないことのアリバイとして、つまり運動が中断しえないことの証拠として、要するに運動それ自体のオートポイエシスのシンボルとして役立っている運動の目標を一つの目標に固定化してしまうと、運動を展開しても目標が達成できず、運動がラディカル化する傾向が生み出される。ラディカリズムは、運動の成立条件ではなく運動の維持条件なのである。(p.731-732)


なるほど。最初の文は、「永久革命論」を想起させる。

また、固定化された目標を掲げることによって、目標が達成できないことが明らかになり、ラディカル化するという指摘は、イスラーム主義の運動(アメリカのキリスト教原理主義やインドにおけるヒンドゥー・ナショナリズムも同じ)がラディカル化しやすい理由を説明してくれる。宗教的なイデオロギーを掲げる場合、そこに目標がすでに示されてしまっており、それを動かすことが難しいため、過激化へと導かれるというわけだ。



 自己準拠的システムの概念は、主体概念より使いやすいわけではないが、しかし主体概念よりも、間違った使用がされにくい。とりわけ自己準拠的システム概念は、一つの主体(あるいは少なくともなんらかの種類の諸主体)へのいかなる中心化も前提しないので、この概念は、今日の諸科学の非中心的な世界像によりよく適合している。(p.801)


非中心的な世界像と自己準拠的システムの概念の適合関係というのは、なるほどという感じがする。学問領域のなかでも特に非中心的な考え方が優勢である社会学の分野で自己準拠的システムの理論が大きなものとして登場したのも偶然ではないだろう。



出来事を要素として用いている十分に時間化されたシステムでは、そのシステムの要素の水準において、いかなる因果的循環性もありえない。この要素の水準での因果的循環性に、決定的に重要な意義を認める諸理論、たとえばサイバネティクス・コントロールの理論は、こうした要素が時間的には「ごくささいな存在であること」を見逃しているのである。それぞれの出来事は、それが生成するや否やただちに消滅している。したがって、出来事は、もう次の瞬間にはいかなる作用をおこなうこともできない。因果的反作用というものは、それによってはじめて出来事がふたたび生起することのできる、かなりの高度の秩序の形式(または出来事と出来事との連関の形)を前提としている。出来事は、そうしたシステムでは、時間の不可逆性という性質を呈している。可逆性を達成するためには、構造が形成されなければならない。(p.819-820)


第一文が、「いかなる因果的関係も」ではなく、「いかなる因果的循環性も」となっているあたりには、周到に言葉を選んでいることが感じられる。

因果的な作用は時間化された(瞬時に消え去る)出来事の間でも生じるが、ある出来事が原因となって次の出来事が生じても、それが次に影響を与えようとするときには、すでに原因となって出来事は消滅しているため、次々と出来事が連鎖するとしても、因果的な循環が生じているわけではない。

ある程度安定的な構造が形成される場合には、ある要素群から別の要素群への因果的反作用がありうるということか。サイバネティクスや動的平衡系のようなシステムの説明が成り立つのはこの水準での話。



 政治という機能システムには、経済システムのばあいと精確な同形はみられないが、明確な機能的等価物が存している。なぜ機能的な同形がみられないのかといえば、権力というコミュニケーション・メディアは、貨幣のばあいと同一の精確さで使用しえないし、貨幣に比肩しうるだけの高度な統合力を保持していないからである。権力の行使は、まさにその事実によってすでに政治的現象であるというわけではない。そうであるがゆえに、政治という機能システムにおいては、このシステムの統一体がなんらかの自己描写をとおしてさらに補強されることによって、このシステムという統一体が、自己準拠的な情報処理のための準拠点として役立つことになる。こうした機能を果たしているのが、国家概念にほかならない。(p.843)


「国家」概念の曖昧さと不正確さゆえに、この「自己描写」は機能を果たしうるのだろう。



つまり、政治システムと政治システムの自己描写が区別されることにより、国家概念や政治概念についての不毛な概念論議から脱して、現実の国家や政治が取り上げられることになり、国家というものは、政治システムの自己描写にほかならないと述べることができることになる。(p.844)


妥当。



教育を専門的に扱っているメディアはない。なぜなら、教育は、成果のあるコミュニケーションをめざすにとどまらず、人格の変革をその課題としているからである。この点において、学習のはたらきは、典型的には学習することそれ自体を鍛えそれを向上させているがゆえに、あの循環的な自己準拠が成立している。(p.845)


経済の場合は貨幣があり、政治の場合は権力というメディアがあったが、教育にはそれらに該当するものがないというのは興味深い。オートポイエーシスは、単純な二分法コードでシステムと環境を区別するが、教育においては、それに相当するものもないのではないか?

ただ、それでも学習のはたらきにおいては自己準拠が成立しているというのも面白い。学習がうまくいっている時は、さらに興味が引きだされるという形や学習の方法を習得していくことで学習能力を高めるといった形で、学習が強化されていくように思われる。



「法治国家」ということが意味しているのは、この観点から考察すれば、権力所持者がみずからの権力を法律上有効な決定の遂行のためにだけ投入してよいが、その権力それ自体の維持や更新のためには投入してならない、ということなのである。(p.917)


この注を読んで真っ先に想起されたのが、現在の安倍政権であった。安倍政権による統治は「法治国家」ではない。安倍晋三が主に権力を用いるのは、自らの権力を維持・更新するためであり、NHKの乗っ取りや(自分の思惑と相容れない考えを提示する)各種マスメディアへの恫喝と個別対応(それぞれのメディアに個別にインタビューなどに応じていく手法や各種の情報リーク)による「情報=利益」供与によるマスメディア操作に、それは典型的に現れている。

もちろん、現実の政治では権力者は常に自らの権力をその権力の維持や更新のためにも使う。しかし、それは本来禁止されていることを理解し、法治国家の理念の枠内に留まれる程度の逸脱しかしないのが普通である。安倍政権はそうではない。法の恣意的な解釈(集団的自衛権に関する憲法解釈の一方的な変更)を平然と行うような姿勢にも、そうしたことが反映している。法よりも権力者個人の意思が優先されるのであれば、それは「人治国家」であり、私は日本の政治体制や社会が、中国の政治体制や社会(例えば、あの国ではマスメディアも報道機関ではなく党の宣伝機関に過ぎない)にどんどん近づいていると感じる。




ニクラス・ルーマン 『社会システム理論』(その1)

 さらに、複合的システムが分析の対象とされるようになると、選択Selektion)の概念が変わってくる。いまや選択は、なんらかの主体が引き起こすものとしてはもはや捉えられないのであり、つまり行為とのアナロジーにおいて捉えることはできない。選択は、主体を欠いた出来事なのであり、なんらかの差異の構築をとおして作動しているシステムのオペレーションにほかならない。(p.49)


ルーマンの社会システム理論には様々な概念が登場するが、「選択」の意味も、日常用語とは異なっており、本書を読む際にはこれらの概念を一つひとつ的確に捉えておく必要がある。

この場合の「選択」は、進化論の自然淘汰ないし自然選択と呼ばれる場合の選択の概念と近いものとして説明されうるのであり、そうしたイメージでとらえておけばそう誤った理解にはならないだろうと思われる。

この「選択」という概念は、別様でもあり得た中からある特定の状態へと進んだということ、に関する記述に使われると思われるが、私としてはあまりこの概念にこだわって説明することには意味を見いだせないところがある。(今のところの私の理解では、)この「選択」には偶然性の要素が常に付きまとっていることさえ理解されていれば、それ以上のことは本質的ではないように思われるからである。



 複合性の時間化は、すでに述べたとおり、システムの諸要素の時間化をとおして成立している。短い時間しか持続しえない不安定な諸要素から、しかもそのうえ、たとえば行為のばあいのように、そもそもそれ自体の持続時間がなく、生成するや否や再び消え去る諸要素から、そのシステムが形成されている。時間の順序の点で、いうまでもなくそれぞれの要素は一定の時点を必要としている。しかし、その要素がそれ以上に分解されえない統一体として取り扱われる時間の長さは、そのシステム自体によって規定されており、言い換えれば、その要素の時間の長さは、システムによって要素に付与されており、それ自体として存立しうる性格のものではない。そのことに相応して、不安定な諸要素から十分に安定しているシステムが成り立っている。言い換えれば、そうした十分に安定したシステムは、その諸要素に依拠するのではなく、そのシステムそれ自体によって支えられている。つまり、かかるシステムは、システムにとってはまったく「現存して」いない基盤の上で編成されており、まさしくこの意味でオートポイエーシス的なシステムなのである。(p.75)


ルーマンは「時間化」という分かりにくい概念を持ち出して説明を長々と続けるので、正直分かりにくいのだが、「時間化」の概念の重要なポイントは、(私の理解では)「出来事」が常に生成消滅して持続しない(持続時間がきわめて短い)ものであるということであって、それ以上に長々と説明する必要がよくわからないところがある。



出来事としての性格を有する要素の再生産をオペレーションOperation)と名づけることにしたい。(p.77)


オペレーションの概念はオートポイエーシスの理解にとっては、極めて重要なのだが、人に説明しようとするとなかなか難しかったりする部分だったりするので、分かりやすい説明の一例としてメモしておく。



社会的なものを特別のリアリティとして構成している基礎的過程は、コミュニケーション過程にほかならない。しかしながら、このコミュニケーション過程は、その過程自体を進展させうるためには、諸行為へと縮減され、諸行為に分解されなければならない。そんなわけで、人間の有機体的-心理的-体質に基づいて行為が生み出されており、しかも社会的なものとのかかわりなしにそれだけで行為が成り立つことのできるという見解で考えられているような、そうした行為から社会システムが作り上げられているのではない。社会システムは諸行為に分解されるのだが、そうした行為への縮減によって、社会システムは、コミュニケーションの次の過程への接続基盤を獲得しているのである。(p.217)


コミュニケーションはルーマンの社会システム理論では情報、伝達、理解の統一体として捉えられており、このコミュニケーションが連鎖することによって社会システムが形成されることになる。コミュニケーションはそれ自体では行為ではないため、これらの関係がいかなるものであるのか、ということは問題の一つとなる。そのことに本書でも一つの章を割いているのだが、最も簡潔に要約されている箇所の一つと思われたので抜粋してみた。

情報が伝達され、受け手によって理解されると、何らかの行為としてそれが表現されることで、理解した内容に基づく情報が他者に伝達され、理解されるという繋がりが生まれる、ということが想定されているように思われる。



逆に、ある種のテーマは多くの関与者にとってあまりにも新しくなじめないがゆえに、およそ有意義な寄与に駆り立てることができないかもしれない。(p.245)


たしかに、斬新すぎるテーマは人を動かすことができず、せっかくの卓見が生かされないということがある。



われわれは、こうした行為概念を提案することによって理論史的には、当然のことながら、行為の意図を理解することによって行為を説明しようとするマックス・ウェーバーのもくろみがはらんでいる問題点を払い除けようとしているのである。(p.428)


これは次のような行為概念の説明に関してつけられた注釈である。

行為が成立するのは、なんらかの根拠からか、なんらかのコンテキストにおいて、なんらかのゼマンティーク(「意図」「動機」「利害関心」)によって、選択がシステムに帰属されることによってなのである。この行為概念は、心理的なものを顧慮しえないがゆえに、行為についての十分な因果的説明をおこないえないことは明白である。(p.261)



選択がシステムの環境ではなく、システムに関係づけられているということは、コミュニケーション(情報・伝達・理解という3つの選択の統一体)の連鎖の中に、この選択が組み込まれているということか。情報をどのように切り出すか、伝達するためにどのように振る舞うかを決めるか、理解することに応じてどのように反応するか、というような選択として行われ、このことを媒介項としてコミュニケーションがさらに連鎖していく場合に、行為というものが構成される、ということか。

ウェーバーの行為理論では、行為者が抱く主観的な意図を観察者が理解することを通して、なぜその行為が行われたのかを説明することになるが、行為者が抱いた意図を観察者が同じように理解できるということは保証されないという難点がある。(ウェーバーは「平均的」という用語を使って、このあたりを何となく理解できるような気にさせるように論を進めてはいるが。)ルーマンはこのズレをはじめから考慮に入れてシステム(コミュニケーション概念)を考えており、そこに行為を位置づけなおしたものと思われる。