アヴェスターにはこう書いている?
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松田浩 『NHK 新版――危機に立つ公共放送』

しかし、同時に、ヨーロッパの公共放送が競って独立行政制度や経営委員・会長選出への公募制導入など政府からの独立性を高め、権力監視機能を強化している流れのなかで、それに逆行する日本の姿が、彼らの目に危機的なものに映ったことは疑いなかった。(p.6)


これはBBCが2014年3月20日に「日本の公共放送は脅威にさらされているのか」と題して「安倍政権によるNHK支配」にスポットを当てた特集が組まれたことについてのコメント。

グローバル化にともなって各国が右派が勢力を伸ばしつつある中でヨーロッパの公共放送が権力監視機能を強化しているというのは意外に感じた。そうした勢力への危機感を持っている勢力が民主的なメディアを確保しようと対抗手段を講じているということだろうか?ヨーロッパの状況が気になってきた。



 「放送活動全体を通しての公平」という過去の政府見解を超えて、個々の番組ごとに機械的公平(両論併記)を求めれば、権力監視など、およそ不可能になる。(p.7)


籾井勝人NHK会長が2014』年4月30日の理事会で「個々の番組でも公平を期するよう」指示したことが報じられた。上記は、籾井の発言に対する批判。

著者の批判はもっともである。これに加えて、安倍晋三の周辺の人々が言う「公平」が、「彼らにとって都合のよい(彼らの世界観・歴史観に合致する)見解」を基準にして話している、それも強力な権力を持っている立場の人間としてそれを語っている、ということが根本的な問題であると思う。



 イギリスBBCの元会長、グレッグ・ダイク(Greg Dyke 2000~04年BBC会長)のインタビュー記事が、『毎日新聞』朝刊のオピニオン欄(2014年4月9日付)に大きく載った。
 「公共放送の役割」と題するこのインタビューのなかで、ダイク元会長は「政府との関係において、公共放送はどうあるべきか」という質問に、こう答えていた。
 「公共放送にとって重要なのは政治家を監視することだ。党派に関係なく公正、公平に全ての政治家を監視すべきだが、特に権力の大きい政府の監視はより大切だ。そのために公共放送は政府から独立していなければならない」。
 彼はまた公共放送と国益との関係を問われて、明快に指摘している。
 「政府と公共放送では目的が違う。政治家や政府の目的は権力の維持だ。権力を握った政治家は、自分たちが権力に居座ることが国益に合致すると考える。……それを踏まえたうえで公共放送は、政治家の言うことが真の国益なのかをチェックすべきだ。民主主義社会において公共放送の役割は、権力への協力ではなく監視だ」と。(p.12)


当然のことだが、現在権力を持っている側にいる安倍政権とその周辺の連中には、このような常識を持ち合わせている者は恐らくいないだろう。むしろ、こうした監視をできないように、公共放送を政府の広報機関にしようという志向が非常に明確に見えている。非常に危機的な状況にあると言わざるを得ない。



 安倍政権が周到なメディア戦略のもと、安倍首相を取り巻く財界人グループ「四季の会」と図って政権の代理人ともいうべき人物をNHKのトップに据え、NHKを変えようとしている、その“権力のメディア支配”にこそ、ことの本質がある。“籾井会長発言”は、その結果にすぎない。(p.13)


妥当。それにしても安倍晋三と財界人グループの結びつきというのは、非常にたちが悪い。



いまや独立規制機関をもたず、通信・放送行政の権限を直接、政府がにぎっている国は、主要先進国では日本とロシアぐらいなのである。
 身近なところでいえば、韓国でも2000年以来、独立行政組織・韓国放送委員会(Korean Broadcasting Commission=KBC)が発足している。06年には、台湾でも独立規制機関として国家通信放送委員会(National Communications Commission=NCC)が発足している。(p.15)


情けない。しかし、これは逆に言えば、お手本はいくらでもある、ということでもある。様々な事例をしっかり調べてよい制度を導入しようと思えばできる環境でもあるとも言える。安倍政権によって民主的な判断を可能にするための制度が次々と破壊されているが、できるだけダメージが小さいうちにこうした制度を整えられるように野党には準備しておいてもらいたいものだ。

ところで、ここでは中国は「新興国」という位置づけなのだろうか?私は安倍政権の下で進みつつある社会の変化が「日本の中国化」であるとも見ており、日本の社会は中華人民共和国のような社会になりつつあると見ている。中国のマスメディアは報道機関ではなく共産党の広報機関であり、まさにここ数年のNHKが進みつつある道を先取りしている。



 「政治的な意見の対立が国民の間にある場合、その対立を激化させない、というのが、NHKの基本的なモットーだということです」
 この前田発言には、NHK的「公共放送」観が象徴されている。政治的問題をめぐって国論が二つに割れているとき、その対立をあおるような報道を控えることで救われるのは、どちらなのか?救われるのは「政府の利益」であり、損なわれるのは市民の「知る権利」ではないのか。政府・与党に都合のよい情報だけを流しながら、国民的合意を図ろうとするならば、それは戦前流「一億一心」の現代版にならざるをえない。
 本来、ジャーナリズムは、政治的意見の対立がある場合、それを人々の前に明らかにして、メディアという公共の広場のなかで自由に意見をたたかわさせ、人々が問題点を発見したり、批判的な見方を身につけ、より高い次元で物事の認識に到達できるように手助けすることが使命なのである。
 「対立を激化させない」ために対立そのものを覆い隠してしまえば、人々は現実の矛盾を直視することができない。その矛盾をどう克服すべきか、政治の主権者として主体的に考える力をつけることができず、いつも権力側が作り出す既成事実に流されていくことになりかねない。
 本来、これら「不偏不党」「公平」「中立」とは対立する意見が公正に議論をたたかわせるための「言論の自由市場」のルールを指す言葉なのだ。対立する多様な意見を討論の土俵に上げないでおいて議論させれば、それは疑似討論であって、世論操作にほかならない。(p.94-95)


1966年に起きたNHKによる世論調査の項目(政府に都合の悪い調査結果)をカットするという事件に関して、当時の前田会長の発言に対する批判。

メディアが対立を覆い隠してしまうと、問題が見えにくくなり、その結果として世論を背景にした市民運動やデモなどは力を発揮しにくくなるのに対し、政府にとっては様々なことを執行する権限を与えられているがゆえに、市民運動などからの抵抗を受けずに既成事実を積み重ねることができるという市民側と政府側との力関係についての指摘は重要。



同年には、国際電気通信連合の無線通信部門で、日本が提案したスーパーハイビジョンが超高精細度テレビの国際規格として認められているので、政府のIT戦略や日本の家電業界にとっても将来、国際競争舞台での目玉商品として、“希望の星”なのだ。NHKでは、2020年に東京で予定されているオリンピックで、このスーパーハイビジョンの実用化(本放送)をめざしている。
 問題は、地上デジタル化につづいて、NHKがこのスーパーハイビジョンの開発・実用化に牽引車として先導的役割を果たすことが、視聴者にとって、どれだけ意味があるのか、である。というのは、もしスーパーハイビジョンが実用化されれば、NHKを含めて放送事業者が膨大な設備投資を強いられるだけでなく、視聴者は再び高価な受像機への買い換えを迫られるからである。(p.178-179)


これが実用化されるとしても、現在の放送の方式がいつなくなるか?ということが、この事業の意味を変えるように思われる。既存の放送方式は維持されるが別途新しい方式ができる、というだけなら、テレビの買い換えもそれほど急には進まないだろうから、その点での視聴者の負担はそれほど問題にはならない。ただ、NHKの受信料が不必要に高くなるとすれば、確かに問題ではある。



 籾井会長のもとで、報道・ニュース面には、早くも懸念すべき変化が現れている。ここでは、一つだけ事例を挙げておこう。2014年7月1日に政府が閣議決定した集団的自衛権行使をめぐるNHKの報道である。集団的自衛権については、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の報告が出た5月15日から7月1日の閣議決定まで、NHKの「ニュースウォッチ9」が、頻繁にニュースに取り上げた。
 この集団的自衛権の行使に関しては、憲法論上も、また日本の安全保障上も、賛否対立する意見が存在する。国民世論も山西、反対相拮抗していた。にもかかわらず、「ニュースウォッチ9」では、問題点や反対する側の議論は、ほとんど伝えられていない。基本的なスタンスは、自公両党間で意見の食い違いがどう調整されるかの経過報告に終始していた。……(中略)……。
 戸崎は、集団的自衛権を扱った放送時間の総量が約167分、そのうち与党協議、首相や政府関係の動きは合計約114分(約70%)だったのに対し、反対の論者のコメントはわずか33秒、また官邸前抗議デモの映像は総計44秒に過ぎなかったとして、「114分対77秒 これが公平か」(『しんぶん赤旗』2014年7月31日付)と同番組の「異様な偏り」を痛烈に批判している。ここには、「政治的公平」や意見の対立している問題についての多角度な論点解明を求めた放送法第四条(番組編集準則)からの明白な逸脱がある。(p.197-199)


NHKの報道が政府よりなのはよく感じていたが、ここまでのデータが出るほどとは。日本のメディアの状況は危機的というしかない。



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ダン・アリエリー 『予想通りに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』(その2)

性教育は、生殖器官の生理学や生物学より、性的興奮にともなう感情にどう対処するかという点にもっと焦点をあてるべきだ。……(中略)……。
 ……(中略)……。10代の若者にまちがいなくセックスを避けさせたいなら、もっといい方法は、情熱の炎に引きよせられるほど近づかないうちに、そこから立ちさるよう若者に教えることだ。この助言に従うのは簡単ではないかもしれないが、今回の研究結果によれば、誘惑に引っかかってしまってからより、誘惑が生じる前のほうが若者にとっては戦いやすい。つまり、はなから誘惑を避けるほうが、誘惑にうち勝つより簡単ということだ。(p.194)


妥当。



近年の研究によると、10代の若者がひとりで運転しているときに事故にあう確率は、大人より40パーセント高い。ところが、車にもうひとり10代の若者が乗っていると、この値は二倍に跳ねあがる。三人めの若者がいれば、さらに倍増する。(p.196)


複数人で乗ると、その分だけ危険回避の注意をしてくれる可能性もあるかと思いきや、感情の高ぶりなどによって事故の可能性が高まる方が強いということか。

言われてみれば、私自身の経験でも20歳前後の頃に、学生同士で研修先に向かう時に同級生が運転している車で事故に遭ったことがある。ある意味、夢中になって話をしながら運転していたため、不注意によって事故が生じたというのが私の印象だが、そうした経験からも、なるほどという感じである。自分の子には、このような状況にならないよう気をつけた方が良さそうだ。



変率強化スケジュールは、人間をやる気にさあせる場合も驚くほど効きめがある。これはギャンブルや宝くじの根底にある魔術(いや、もっと正確には黒魔術)だ。スロットマシーンをするとき、いつも九回負けたあと一回勝つと決まっていて、いつまでつづけても同じことが繰り返されると前もってわかっていたら、どれだけ楽しめるだろう。おそらくなんの楽しみもない。やはりギャンブルの楽しみは、いつ報酬がもらえるか予測できないところにあり、だからわたしたちはやりつづけるのだ。
 では、ラットの餌やスロットマシーンはEメールとなんの関係があるのか。考えてみれば、Eメールはギャンブルのようなところがある。ほとんどのメールはジャンクメールで、スロットマシーンのレバーを引いて負けるのに等しいが、たまにほんとうに欲しかったメールが届く。働き口についてのいい知らせ、うわさ話、しばらく音信不通だった人からの連絡、あるいは何か重要な情報かもしれない。予期しなかったEメール(餌)が届くことがあまりにうれしくて、そのような思いがけない喜びをもっと求めるあまり、チェックせずにはいられなくなってしまう。わたしたちはレバーを何度も何度も押して、報酬が与えられるのを待ちつづけているのだ。(p.230-231)


この件は本書を読んで最も強い印象を受けた箇所の一つである。その理由はいくつかある。スマホを持ってメールなどをやたらチェックしたくなるのは、こういうメカニズムだったのか、というのが一つ。

そして、スマホ依存症はギャンブル依存症と同系列の問題系に属すると考えられると分かったことがもう一つである。中学生や高校生などでこのような症状になっているのは大人がギャンブル依存やアルコール依存に陥るのと同じ系列の問題であり、私の見立てでは若年期にスマホ依存にはまるような人間は、そのまま放置しておくと、その後、ギャンブル依存やアルコール依存になる可能性も高いのではないか?と考えている。



 わたしたちは、扉をあけておきたいという不合理な衝動を抱えている。人間はそのようにできている。しかし、だからといって扉を閉じる努力などしないほうがいいというわけではない。……(中略)……。
 時間を無駄にするだけの委員会からは抜けよう。べつの生活やちがうタイプの友人に移っていった人たちにクリスマスカードを送るのはやめよう。バスケットボールを観戦して、ゴルフとスカッシュをやって、そのうえ家族をひとつにしておくだけの時間がほんとうに確保できるのかと自問しよう。ひょっとすると、いくつかスポーツをあきらめたほうがいいのかもしれない。(p.278-279)


人間は最適なものではなくても選択肢を残しておきたがる性質を持っているということ。不適当な選択肢は捨てることも重要であること。なるほどと思わされる。

本書の無料の力についての説明で、人間は何かを失うことを恐れるという指摘があった。選択肢を失うことへの恐れもこのことと繋がっているように思われる。



不正行為は、現金から一歩離れたときにやりやすくなる。(p.407)


これも指摘されて、なるほどと強く印象に残っている箇所の一つ。様々な不正事件の要因として思い当たるものがある。



 では、経費報告書はどうだろう。仕事で出張に行く場合、だれしも職場の規則を心得ているはずだが、経費報告書も現金からは一歩(ときには数歩)離れている。ニーナとふたりでおこなった研究の結果、支出によって、経費として正当化できるかどうかという点にちがいがあることがわかった。たとえば、すてきな初対面の人に五ドルのマグカップを買ってプレゼントした支出は、あきらかに経費の範疇にははいらない。だが、同じ初対面の人に、バーで八ドルの飲み物をおごった支出を経費で落とすのは、かなり正当化しやすい。ちがいはその品物の値段でもなければ、ばれることへの怖れでもない。経費を正当な理由で使ったと自分自身を納得させられるかどうかにかかっている。
 経費についてほかにもいくつか調査したところ、同じような合理化が見られた。ある研究では、事務アシスタントに領収書をまわして提出してもらう場合、不正行為から一歩離れることになるため、疑わしい領収書をまぎれこませやすくなることがわかった。べつの研究では、ニューヨークに住むビジネスマンが子どもへのみやげを買う場合、サンフランシスコの空港(あるいは家から遠く離れたどこか)で買うほうが、ニューヨークの空港(あるいは空港からの帰り道)で買うより、必要経費だと考えやすいことがわかった。どちらも道理にかなっていない。だが、交換の媒体がお金でないときには、わたしたちの正当化の能力は飛躍的に増加するのだ。(p.414)


政治家の政治資金などが不正に使われることは、こうした正当化が普通の会社員の出張などよりはるかにやりやすいため、通常以上に発生しやすいことが理解できる。こうした研究の結果を活用することで、不正を減らすことができればよいのだが、まずはそうした状態がどのような場合に起きやすいかを知ることから始めたい。



ダン・アリエリー 『予想通りに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』(その1)

 無料!の何がこんなにも心をそそるのだろう。自分がほんとうに求めているものではなくても、無料!となると不合理にも飛びつきたくなるのはなぜなのか。
 わたしの考える答えはこうだ。たいていの商取引にはよい面と悪い面があるが、何かが無料!になると、わたしたちは悪い面を忘れさり、無料!であることに感動して、提供されているものを実際よりずっと価値あるものと思ってしまう。なぜだろう。それは、人間が失うことを本質的に恐れるからではないかと思う。無料!のほんとうの魅力は、恐れと結びついてる。無料!のものを選べば、目に見えて何かを失う心配はない(なにしろ無料なのだ)。ところが、無料でないものを選ぶと、まずい選択をしたかもしれないという危険性がどうしても残る。だから、どちらにするかと言われれば、無料のほうを選ぶ。(p.103-104)


本書の第3章では無料という価格の特別な力について説明されているが、人は何かを失うことを恐れるということが、その根本にあるという解釈は説得力がある。なるほどと思わされた。(明らかにこの恐れが強いと思われる人が、無料や割引などに弱いという事例を知っているので、その人のことが想起された。)

俗に「ただより高いものはない」と言われるが、それには深い理由があったのだなぁ、と改めて思った次第。



 決断をくだすとき罠に陥らないために、無料!の誘惑を見きわめて対抗するのは大事なことだが、無料!を味方にできる場合もある。たとえば、友人たちとレストランへ行くというありがちな事例を考えてみよう。食事の終わりに給仕係が請求書を置いていくと、みんなが清算のしかたを見さだめようと躍起になるのはよくあることだ。それぞれが自分で注文した分を支払う?割り勘にする?ジョンだけグラスワインとクレームブリュレを余計に頼んだのに?無料!は、この問題を解決するのにひと役買ってくれるうえ、ひいては友人との外食をもっと楽しいものにしてくれる。
 答えは意外にも、だれかひとりが全員の分を支払い、のちのち、そのほかの人たちもべつの機会に順繰りに払う、というものだ。説明しよう。わたしたちはお金を払うとき、金額に関係なく、なんらかの精神的な痛みを感じる。社会科学では「出費の痛み」と呼ばれ、苦労して手に入れた現金を、どんな状況であれ手放すときにつきものの不快さをいう。出費の痛みには興味深い特徴がふたつある。ひとつは火を見るよりあきらかなことで、何も支払わないとき(たとえば、だれかがおごってくれるとき)は、なんの出費の痛みもない。もうひとつの特徴はそれほどあきらかではないが、出費の痛みは支払う金額にわりあい鈍感なのだ。つまり、請求額が高いほど痛みも大きくなるが、一ドル加算されるごとに増える痛みの量は、小さくなっていく(これを「感応度の逓減性」という。空っぽのリュックに500グラム足せばずいぶん重くなったように感じるが、リュックにはじめからノートパソコンや本が何冊もはいっていれば、500グラム増えてもそれほど大きなちがいは感じられないのと同じだ)。出費の痛みに対する感応度の逓減とは、言ってみれば、最初に支払う一ドルからくる痛みがいちばん大きく、二ドルめの一ドルからくる痛みはそれより小さくなり、三ドルめ、四ドルめと痛みはもっと小さくなっていって、やがて47ドルめともなると、ちょっとずきんとする程度になる、ということだ。
 そのため、だれかと外食する場合、自分が何も支払わないとき(無料!)、もっとも幸福度が高い。何がしか支払わなければならないと、幸福度は低くなる。そして、しぶしぶ支払う金額が増えるにしたがって、追加の一ドルが与える痛みは小さくなっていく。論理にかなった結論は、だれかひとりが全額を支払うことだ。(p.116-117)


外国に行くとよくこういう誰かひとりが支払うという習慣がある場所がある。中国や台湾が即座に想起される。中国などに関しては、「メンツを重んじるから」このような――不合理な、という意味を若干含めている場合がある――慣習があるとよく言われる。しかし、そうしたメンツという問題だけでなく、こうすることで全員の満足度が相対的に高くなるということをその社会が経験的に知っているから、このような慣習が続けられているのではなかろうか?

大学などの体育会系の部活動などでも、先輩と後輩が一緒に食事やお酒を飲むとき、先輩が後輩に常におごってくれるという暗黙のルールがある場合がある。特定の人同士の関係で見ると、ある先輩はある後輩に一方的におごるだけだが、おごられた後輩はその後輩へと利益を返していくのであり、そのグループ全体として見た場合にはバランスがとれるということになる。このような慣習は、見かけよりもはるかに合理的だと言える。



人々がお金のためより信条のために熱心に働くことを示す例はたくさんある。たとえば、数年前、全米退職者協会は複数の弁護士に声をかけ、一時間あたり30ドル程度の低価格で、困窮している退職者の相談に乗ってくれないかと依頼した。弁護士たちは断った。しかし、その後、全米退職者協会のプログラム責任者はすばらしいアイデアを思いついた。困窮している退職者の相談に無報酬で乗ってくれないかと依頼したのだ。すると、圧倒的多数の弁護士が引きうけると答えた。
 どういうことだろう。0ドルのほうが30ドルより魅力的だなどということがありうるだろうか。実は、お金の話が出たとき、弁護士たちは市場規範を適用したため、市場での収入に比べてこの低次金額では足りないと考えた。ところが、お金の話抜きで頼まれると、社会規範を適用し、進んで自分の時間を割く気になった。30ドルもらってするボランティアと考えてもよかったはずなのに、なぜ30ドルでは承知しなかったのだろう。考えのなかにいったん市場規範がはいりこむと、社会規範が消えてしまうからだ。(p.126-127)


「市場規範」なるものは、自分自身の利益だけを考える傾向を帯びているが、「社会規範」は自分以外の利益を考える傾向を帯びているため、方向性が全く逆を向いている。昨今の世界や日本の動向としては、次第に社会規範の領域に市場規範が過剰に進入してきている。一度社会規範が失われると、それを取り戻すのは容易ではないとされる。今、われわれはそうしたものを失いつつある。この問題については、優れた研究者などはかなり気づいていて、発言もしているのだろうが、もっと広く認識されるべきだと思う。



 プレゼントが社会規範と市場規範のあいだのどのあたりに落ちつくのか調べるため、わたしとジェームズは新しい実験をすることにした。今回は、コンピューター画面で円をドラッグしてもらってお金を払うかわりに、プレゼントをわたした。50セントの報酬をスニッカーズのチョコバー(約50セント相当)に、5ドルの報酬をゴディバのチョコレートひと箱(約5ドル相当)に差しかえた。
 実験協力者には、実験室に来てプレゼントを受けとったあと、思うように作業してもらった。その結果、三つの実験グループは、いずれも同じだけ熱心に課題に取りくんだことがわかった。小さいスニッカーズをもらったか(このグループがドラッグした円は平均162個)、ゴディバのチョコレートをもらったか(同じく平均169個)、何ももらわなかったか(同じく平均168個)は無関係だった。そこで結論。ちょっとしたプレゼントで気分を害する人はいない。たとえたいしたものでなくても、それによって社会的交流の世界にとどまることができ、市場規範に近づかなくてすむからだ。(p.128-129)


プレゼントは、社会規範と市場規範では、社会規範の側に入る。少なくとも市場規範には近づかずにすむもの。この知見は社会生活を営んでいく上で非常に有用と思う。活用していきたい。ただ、プレゼントといっても、商品券や金額がある程度分かるようなカタログギフトのようなものだと、それは(特に前者は)市場規範の範囲に入ってしまうだろう。あまりお金をかけずに手間暇を少しかけるようなものというのが一番良いのかもしれない。



 これまでの感触では、共通試験や能力給によって教育が社会規範から市場規範へ押しやられてしまう可能性が高いように思う。すでにアメリカは、生徒ひとりにつき、どの西洋社会より多くのお金を注ぎこんでいる。ここへきて金額をさらに増やすのは賢明だろうか。試験についても同じような検討が必要だ。すでに頻繁に試験をおこなっているのだから、これ以上増やしても教育の質が向上する見込みは少ない。
 わたしは、社会規範の領域に答えがあるのではないかと考えている。これまでの実験から学んだように、現金ではある程度のことしかできない。社会規範こそ長い目で見たときにちがいを生む力だ。教師や親や子どもの関心を試験の点数や給料や競争に向けさせるかわりに、教育の目的や任務や誇りの感覚を吹きこむほうがいいかもしれない。……(中略)……。向学心はお金では買えない。無理に買おうとすれば追い散らしてしまうかもしれない。
 ……(中略)……。
 結局のところ、人をやる気にさせる方法としては、お金に頼るのがたいていもっとも高くつく。社会規範は安あがりなだけでなく、より効果的な場合が多い。(p.144-146)


同意見である。



もちろん、全員が全員そうではないかもしれないが、多くの人にとって職場はたんなる収入源ではなく、意欲や自己定義の源でもあるのだと思う。
 このような感情は、職場と従業員の双方のためになる。こうした感情を喚起できる雇い主は、勤務時間が終わったあとも仕事がらみの問題を解決しようと考えるような、献身的でやる気のある従業員を得られる。また、仕事に誇りを持っている従業員は、幸福感や目的意識を抱いている。しかし、市場規範によって社会規範がむしばまれることがあるのと同じように、人々が職場で感じる誇りや意義も市場規範によって(たとえば、学校の先生に生徒の標準テストの成績に応じて支給するなどして)じわじわと損なわれる恐れがある。(p.152-153)


能力給や成果主義を広めることは、社会を市場規範で満たす方向に変えてしまい、これは社会規範や仕事のやりがいを奪うという帰結を伴う、自滅へと導く道である。



需要の理論はたしかなものである――ただし、値段ゼロを扱うときを除いて。やりとりに金銭が絡まないとなると、かならず社会規範がついてくる。社会規範は人々に他者の幸福を思いださせ、その結果、利用できる資源に負担をかけすぎない程度まで消費を抑えさせる。ひとことで言えば、値段がゼロで社会規範が問題になっているとき、人々は世界を共同体のものとしてとらえる。以上をひっくるめた重要な教訓?値段をもちださないことが社会規範をもたらし、社会規範があることでわたしたちは他者のことをもっと気にかけるようになる。(p.170-171)


無料には様々な力があるようだが、ここで述べられているような社会規範と結びつく側面は重要と思われる。



 キャップ・アンド・トレードがまちがいだというわけではないが、公共政策や環境問題が問われているいま、わたしたちの務めは、社会規範と市場規範のどちらがもっとも望ましい結果を生むか解明することだと思う。とくに政策立案者は、社会規範を弱体化させるおそれのある市場規範をいたずらに導入すべきではない。(p.176)


妥当。



非常に感情的になりやすい目的――ウェディングドレスを手に入れること――に身も心も集中しているとき、ほかの人の幸福を考慮するのはむずかしい。(p.177)


これは国家主義イデオロギーに囚われている者やイスラーム過激派などを含む極端な思想に囚われている者にも共通していると思われる。彼らは自分自身の信念やそれを強く共有する範囲の人々以外に対しては幸福を考慮しない。