アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その3)

 王の広場(図5-6)の南辺を占める王のモスクは、ティムール朝のビービー・ハーヌム・モスク(図4-5)を継承しながら、いくつかの改良を見せる。まず、入口から前室に入ると、突然軸線が135度振れる(図5-7)。キブラ方向と広場の方向の調整の工夫が、ダイナミックな空間演出と化す。加えて、聳える対のミナレットが、入口前と主礼拝室前に置かれ、設置面の角度がずれているため空間に躍動感を与える。主礼拝室は二重殻ドームを冠し、外殻ドームは風船のように空へ浮かび上がり、内殻ドームはびっしりとアラベスク文様で埋め尽くされる(図5-8)。外殻ドームのボリュームはティムール朝建築にはみられない膨らみだ。モスクの中庭からその奥両隅に挿入されたマドラサの中庭への連続性が、中庭空間をより広く感じさせる。
 すなわち、人間が歩みを進めることによる視点の変化に対応する建築となっている。(p.178-179)


この王のモスクはペルシア様式の集大成とも言える建築だが、イスラーム建築全体としても最高傑作の一つと言って間違いないと思う。このダイナミズムは確かに実際に行って体感した感覚と一致する。



 1750年を超えると、イスラーム建築が西洋建築をもっぱら取り入れると従来は説かれてきた。しかし、タイルや後述するドームという個別要素を見ると、ヨーロッパとイスラームの影響関係が17世紀に活性化し、イスラーム建築での蓄積を基礎にしヨーロッパの発展が顕著となっていったようにみえる。(p.199)


なるほど。建築史では未だにヨーロッパ(西洋)中心主義的な歴史観がまかり通っている感がある(少なくとも一般向けの書籍等では)ことを考えると、こうした指摘は重要である。



 さらに地中海世界の西、ヨーロッパではドームが中心的課題となり、新たな形を生んだ。ミケランジェロのサンピエトロ寺院のドームをはじめ、ルネサンス建築はドームに大きく傾倒した。ルネサンスは古典への回帰を目指したものではあるが、ギリシア建築に大ドームはない。ローマ建築でも円形平面に大ドームを載せたパンテオンは現存したが、浴場などのドームはすでに崩壊していた。ルネサンスのドームの直接の手本となったのは、オスマン朝のドームをはじめとするイスラーム建築において展開したドームだったのだろう。この時代、地中海世界を越えて、ペルシア世界からも二重殻ドームという技法を学び、続くバロック時代には楕円ドームなど世界に類のない新種を生む(図5-61)。この推進力を見れば、建築においても、西洋とイスラームの、活力における優位が交代する予兆を読み取れよう。(p.201-202)


なるほど。非常に興味深い仮説である。確かにいわゆる古典古代(ギリシア・ローマ)の遺構にはドームが(ほとんど)ない。オスマン朝などの影響を受けていることは十分考えられる。資料として何か根拠となるものはあるのだろうか?



 従来の囲郭都市ではなく、近代的な庭園都市の道を選び、しかも歴史的蓄積のある旧市街を共存させ、市民は両者を受容するという状況が創出されたのだ。イスファハーンは、バロック都市、近代のガーデン・シティー、現代の旧市街の保存を先取りする存在であったといえよう。(p.211)


確かに、イスファハーンの都市計画は独特なものがあり、それ以前のイスラームの都市とは構成が異なるとは思っていたが、言われてみれば、ここで言われているようなものとなっているように思われる。



 手法を意味するマニエリスム、歪んだ真珠を意味するバロック、庭園の岩組みに由来するロココとは、19世紀に生まれた呼称で、それぞれ、正統的な古典主義からの変容・離脱を意味する。変容の様態として、ドームに多様な幾何学性がみられること、さらに劇的な広場の演出や幾何学庭園への傾倒などが語られる。実は、これらは本章で詳述したイスラームの建築で培われた技法や様式と同様な傾向を示している。シナン設計の一連の大ドームモスク、庭園都市イスファハーンの王の広場とチャハール・バーグ大通り、ムガル朝皇帝たちの墓建築などを考えると、イスラーム建築からの影響によってこれらの変容が引き起こされたと考えてもよいのではないだろうか。(p.218-219)


なるほど。マニエリスム、バロック、ロココのいずれも同じ方向性で正統的古典主義からの変容・離脱を示しているというのは、確かにその通り。3大帝国のイスラーム建築と共通の傾向というのもなるほどと思わされる。ただ、影響関係については、何か根拠を提示してもらえるとよいのだが。



 19世紀になると、フランスやドイツによる古代ペルシアの遺跡の考古学研究が進み、20世紀パフラヴィ―朝の時代になると、サーサーン朝のイーワーンをモチーフとしたテヘラーンの国立博物館や(図6-20)、キュロス大王の墓をモチーフとしたフェルドーシー廟などが建設され、考古学の成果がナショナル・アイデンティティー構築に用いられた。(p.246)


テヘランの国立博物館とフェルドゥシー廟のいずれも行ったことがあるが、なるほどと思わされる。

特に国立博物館の巨大なイーワーンの圧倒的な迫力は、「国家」の威容を示そうとする意図が非常によく表現されていたと思う。フェルドゥシーもナショナル・アイデンティティーと結びつけられていえるとは聞いていたが、その廟がキュロス王の墓をモチーフとしていたとは知らなかった。また行ってみたいものだ。



 カイロのリファーイー・モスクは、先に述べたエジプト総督イスマーイール・パシャの母の発願によって、14世紀のマムルーク朝のスルタン・ハサン・モスクに向かい合う形で建設が始まる(図6-25)。総督の死による工事中断の後、スルタン・ハサン・モスクに比肩するマムルーク様式で完成されるが、それを成し遂げたのはハンガリー人建築家であった。彼は西洋で紹介されたマムルーク朝様式の研究に基づいて細部にまでこの様式を貫徹させた。20世紀のエジプトにおけるモスク建築にマムルーク様式が選ばれたのである。(p.249)


リファーイー・モスクとスルタン・ハサン・モスク(マドラサ複合体)が相並んで聳え立つ様は、イスラーム都市の中では稀な高層都市カイロの様相を象徴するかのようであるが、これをハンガリー人建築家が建てたとは知らなかった。ハンガリー人の手によるマムルーク朝様式の選択には、この時代のナショナル・アイデンティティの高まりとそれがイスラーム世界より先に高まりつつあったヨーロッパとの関係が表れているように思われ興味深い。



スポンサーサイト
深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その2)

 マムルーク朝のエジプトの場合は、15世紀に土着の地方色が盛り返してきたのに対し、オスマン朝の場合は、ビザンティン建築からの影響、とりわけコンスタンティノープル攻略後に名建築ハギア・ソフィアをモスクに改修した経験によって、15世紀以降ペルシア様式から次第に脱却していく。(p.141)


15世紀頃のペルシア、エジプト、アナトリアにおけるイスラーム建築の様式の変化をペルシア様式を基準として図式化すると、ペルシアではペルシア様式が深化して完成へと向かい、エジプトではペルシア様式から土着的伝統へと回帰し、アナトリアではビザンティン建築の伝統を選択することでペルシア様式から脱却する、と図式化できる。

このあたりの整理は、私自身、エジプト(カイロ)、ペルシアから中央アジア(特にイスファハーン、シーラーズ、サマルカンド、ブハラなど)、そしてイスタンブールで、イスラーム建築に注目して旅をしたことがあるため、非常に説得力を感じ、実際に見聞したものが統一的に把握され直すという経験をひき起こしてくれた。



 インド全体として留意せねばならないのは、各地における墓建築の発展である。基本となるのは第二章のサーマーン廟(図2-25)のようなキャノピー墓ではあるが、インド特有の形態が生まれてくる。数本の柱の上にドームを載せる形態、あるいは墓室を周廊で取り囲む周廊墓である(図4-33)。12柱式プランや一回り大きい28柱プランにドームを載せた墓の周囲に多重の周廊を設けるようになる。特にデリーでは、岩のドーム以降類例の少ない八角形周廊墓が、14世紀末から次の時代のムガル朝に至るまで引き継がれた(図4-34)。ヒンドゥー教における祠堂の周囲を回る儀式、あるいは開放的な列柱建築である前殿(マンダパ)がこうした墓建築に影響を与えているのかもしれない。(p.148)


確かにデリーでこうした墓建築を多数みた(特にデリー南部は墓建築の宝庫であった)。



 なぜ、これほど各地でムカルナスが好まれたのだろう。一説に、イスラームの原子論的宇宙論、すなわち宇宙は微細な原子から成り立つという説を、建築的に表現したものであるとする。ムカルナスの醸し出す陶酔的雰囲気は、ファナー(神との合一)に至る空間演出として神秘主義の興隆とも深く関係したといわれる。
 また、この時代を特色付ける地方文化の再生・再興の流れにも関係があるかもしれない。地方色を前面に打ち出そうという意識の一方で、当該建築がイスラーム建築であるとの表象を何らかの形で残す必要性があり、その道具の一つがムカルナスであった可能性が考えられる。多くのミフラーブがムカルナスで飾られていることからも、これがイスラーム装飾において必ず使われるコーランの聖句を刻んだアラビア文字の碑銘、あるいは高度な幾何学文様や抽象的なアラベスク文様(様式化された植物文様)と比肩する重要な要素であったことが推察される。ムカルナスのもつ幾何学性、アーチ小曲面の使用、幻惑的な空間効果などが入り混じった特殊な造形が、イスラーム建築の共通言語としての効力を発揮したのではないだろうか。(p.153)


確かに「イスラーム建築」と言えばムカルナスが最初に思いつく要素の一つであるし、初めて見た時のインパクトの強さは強烈だった(恐らくそう感じる人は多いだろう)。

地方ごとに独自の特色を発揮していき、共通の様式がなくなっていく方向へ向かっているからこそ、むしろ、イスラーム建築というアイデンティティ――このような意識が当時の建築家や施主にあったかどうかにはやや私は懐疑的だが――を示す必要が高まり、そのための有力な要素の一つがムカルナスだった、というわけだ。なるほど。そうかもしれない。説得力を感じる。

「イスラーム建築の共通言語」という用語も興味深い。他にどんな要素があるだろうか?と、考えると面白い。



 ティムール朝期の代表的ドームとして、ドラムに内側ドームを入れ込み、その上に支持板を介して外側ドームを構築する極端な二重殻ドームを挙げることができる。しかし、それへの変容は、現存実例から見ると、14世紀後半のわずかな期間に集中する。それ以前の二重殻ドームは、スルターニーヤのオルジェイトゥ廟(図4-8)の例に見るように、重量軽減の目的をもっていた。内側ドームと外側ドームの極端な乖離は、14世紀半ばのイスファハーンのスルタン・バフト・アガー廟(図4-41)、コニヤ・ウルゲンチのトゥラベク・ハーヌム廟(図4-42)が現存最古であり、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダにある1385年のシーリーン・ビカー・アガー廟が中間的な存在で、1390年代のトルキスタンのアフマド・ヤザヴィー廟(図4-9)やサマルカンドのグーリ・アミール廟(図4-43)では鶴首形ともいえるような二重殻ドームが完成する。しかしカイロには、すでに1360年代にティムール朝の二重殻ドームのほぼ完成形を見せる例がある(図4-44)。ただしカイロでは後続例がなく、高いドームの内側が井戸底のような単殻ドームとなる。
 これら一連の事象は二重殻ドーム技法史を表し、その後の事例からもペルシアに二重殻ドーム技法の中心があると考えられる。それでは、ティムール朝の二重殻ドームの起源はどこにあろうのだろう。そして、前述のいくつかの事例はどう結びつくのだろう。
 ペルシアの北、カザフスタンからウクライナ一帯は、14世紀にはジョチ・ウルスの領土であったが、今ではその遺構は残らない。一方、カイロのマムルークたちは、中央アジアやカフカス出身のトルコ系の人々であった。
 木造のロシア正教会の教会堂には、風変わりな玉葱形ドームが多い(図4-45)。玉葱形ドームの最初の例は明らかではないが、すでに10世紀からギリシア十次式教会堂の中央屋根には、高いドラムの上にドームが載り(図2-53)ロシア正教会としては12世紀の例が残る。小型ながらバリエーションの多いロシア正教の木造ドームが、ジョチ・ウルスの建築に影響を与え、木造と組積造の両方で二重殻ドームの技法が試されていたと考えられないだろうか。とすれば、14世紀後半に、ペルシアとカイロに極端な二重殻ドームが同時の存在するという事象は、すでにジョチ・ウルスで試された形態がもたらされたからと考えられる。(p.157-159)


本書には数々の興味深い仮説が提示されているが、その中でも私にとって最も興味深かったものの一つがこれであった。

特にマムルークたちの出身地を考慮に入れることで、エジプト(カイロ)と中央アジアが結びつくというあたりは、仮説ではあるにせよ、なるほどと思わされた。

なお、この仮説に興味を惹かれた理由としては、ロシアのドームとイスラームのドームの関係について、以前、疑問に思ったことがあったことも理由のひとつだろう。玉葱形のドームはロシアの他、インドにもあるが、これらはどういう関係にあるのか?この問いについても、本書にはヒントがある。ロシアは玉葱形ドームの古い歴史があり、インドにはドームを扱う文化が比較的最近までなかった、ということである。伝播があるとすればロシアからインドであり、その逆ではなさそうだ、ということになる。



 キリスト教建築との関連による技法の進化は、アーチ・ネットにも現れる。アーチ・ネット自体は、144頁で述べたようにマグリブの起源ながら、13世紀後半のターザのモスク以降、西方世界からは姿を消す。一方、12世紀前半にペルシアに導入された時、アーチ・ネットは天井に多く使われていたが、次第に、移行部に使う、二重にする、井桁状にする(図4-47)、などさまざまな事例を発展させ、ティムール朝期には、移行部の技法の主流としての位置を占める。その影響は、ティムール朝の領域を超え、オスマン朝のチニリ・キョシュク(図4-46)や先述したインドのバフマン朝(図4-13)へも波及する。
 こうした中で、先述したティムール朝の室内と外観が極端な乖離を見せる二重殻ドームが成立すると、次第に天井が低くなる。その一方で、井筒状のアーチ・ネットを用いることによって、室内が広くなる(図4-47)。この井桁状のアーチ・ネットは、14世紀のアルメニア教会の前室(ガヴィット)に使われている。アルメニア建築は、アナトリアのイスラーム建築からムカルナスを取り入れる半面(図3-44)、井桁状のアーチ・ネットを中央アジアのティムール朝建築に与えたのであろう。このように、今までは建築史を宗教別に考えることで相互関係に十分な考察が加えられてこなかった技法もあり、宗教を超えた観点に立つことによって、さまざまな交流が浮き彫りになる。(p.159-160)


こちらも大変興味深い。アーチ・ネットひとつとっても、使用される場所や技法が様々に変化していくことや、二重殻ドームの成立と井桁状アーチ・ネットを移行部で使用することとの相関も非常に面白い。



 ルネサンス時代のイタリアが求めたのは、ロマネスク、ゴシックという段階的な発展からの方向転換だったのではないだろうか。そのアイディアの源泉として古代回帰が試みられたと考えると、イスラーム建築がモンゴル帝国崩壊後、それぞれの地でペルシア風からの脱却のために地方回帰の道筋をとったことと、類似性が浮かびあがる。それぞれの地の建築において、自己アイデンティティーを主張し、それまでの流れとは一線を画する風潮が導かれたのではないだろうか。(p.165)


イタリアにおけるルネサンスの動きと、モンゴル帝国後の各地域との動きの共通性についての指摘。13世紀世界システムが瓦解したことによって、各地域がそれぞれの伝統を発見・再創造していったという流れ自体は概ねそのとおりであるように思われる。ただ、イタリアの人々がゴシックをどの程度意識した上でルネッサンス様式を採用したか、という段になると、著者が言うほどの影響があったかどうかは疑問に思う。



 日本建築史で、屋根と天井が大きく乖離し、いわゆる本堂建築を高く覆う甍のような高い屋根が鎌倉時代に構築される。禅宗様式では深い軒を支える斗栱が構造体ではなくなり、細かく密になっていく。イスラーム建築史では、モンゴル帝国以後ムカルナスが躯体から乖離することによって装飾性を増し、14世紀後半には極端な二重殻ドームが成立する。イギリスやドイツの後期ゴシックでは、本来構造を担ったリブが細密化し複雑な意匠を見せる。従来、構造と装飾は一体であったのに、この時代、構造から生み出された造形が構造から切り離され、装飾へと純化していく。なぜ、遠く離れたところでこうした共時的事象が生じたのだろう。(p.165)


本書では構造美の時代から装飾美の時代へと転換があったとする。なかなか興味深い見方ではある。ただ、装飾美の時代とされる時代に構造美が軽んじられたり脇役となったとまで言えるような変化があったかどうか、検証してみたいのだが、現時点での私の力量と時間的余裕からしてすぐにはできそうにない。もし、構造美の追求が続いているのであれば、装飾美へと転換したのではなく、それは付け加わったものということになり、意味が変わってくるように思われる。



 モンゴル帝国が瓦解し、15世紀になると、イスラーム建築においてはペルシア風の流行から脱し、地方文化へ回帰する現象が見えてくることを述べた。各地の建築文化が地方様式を加味した定形化の時代に入り、効率性を担保する量産化、複合建築による壮大性などが主眼となっていく。こうした現象はイスラーム建築に限らず、中国の明時代の宮殿や寺院建築、インドのヒンドゥー建築、西洋のキリスト教会堂にも共通するように思われる。比較建築史的研究が期待される時代であろう。(p.166-167)


確かに、明の故宮や仏教寺院は複合建築による壮大性があるように思われるし、建物の配置などにパターンがあり、これは定形化と見ることもできそうである。インドと西洋の事例については、あまりすぐに浮かばない。ルネサンス建築の合理性は、効率性に繋がりそうにも思われるが、どうなのだろう?

各地の地方回帰は、定型化や効率化・量産化、複合による壮大化といった現象も伴うという指摘は、なるほどと思わされるだけの合理性がある。ただ、これだけ世界中の建築で時代も15世紀ころと限ってしまうと、私の関心が比較的薄い時代であることもあり、なかなか具体的なものが次々とは出てこない。もっと勉強したい。



深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その1)

 ユダヤ教の建築は、その後の歩みを見ても、定形をもたず、さまざまな建築文化に依拠していく。ただし、聖櫃を納める場所と説教壇はどのシナゴーグにも設置される。イスラーム建築がモスクの奥壁に仏像や神像のようなものを置かず、メッカの方角を指し示すミフラーブ(壁龕)と、宗教指導者が説教を行うミンバル(説教壇)を置くことは、シナゴーグに学んだ可能性が高い。また、シナゴーグとモスクが、信徒たちの集会所である点も共通する。(p.4-5)


モスクがシナゴーグから深く影響を受けている可能性というのは、確かに、ムハンマドが生きていた頃のメッカやメディナなどの状況からしても大いにありうることと思われる。



(引用者注:ムハンマド)が生きているころは、大きな石を置き、壁に槍を立てかけて礼拝の方角を示していた。礼拝の方角のことをキブラ(向かう方向)と呼び、7世紀にはキブラ側の壁(キブラ壁)に木の絵を描くこともあった。8世紀にはモスクにおいて礼拝の方角を示すミフラーブ(図2-40)が確立する。ミフラーブはアーチ形で、キリスト教会堂のアプスや、シナゴーグのニッチが手本になった(図1-3、5)。
 ムハンマドは三段の踏み台に腰かけて信者たちに説教を行った。これが起源となり、8世紀ころまでにミンバルが確立する。その過程には、シナゴーグの説教壇や教会堂の聖職者席などからの影響が考えられる。……(中略)……。またミナレットの成立にも、灯台やキリスト教会堂の鐘楼が大きく影響した。(p.19-20)


確かに、私も教会堂の聖職者席とミンバルの類似性や影響関係について思いついたことはあるし、鐘楼とミナレットの類似などにも何度も思い至ったことがある。

本書は上に引用した類の仮説が多数提示されている。しかし、残念なのはそれを検証まではしてくれていないことである。この場合、検証ができるのは専門家だけであり、素人と専門家の最大の違いはここにあると言ってもよいのだが、残念ながら一般向けの本ということもあり、この点に関する掘り下げには物足りなさを感じる。



 11世紀以降、イスラーム教の墓建築ではキャノピー墓と墓塔が各地へと広まり、モスクのミナレットも西アジアでは断面が円形になり、さらに高くなる。アジア各地に伝播した仏教建築においても塔建築が盛んになり、日本でも木造の塔が数多く建てられる。インドのヒンドゥー教でも本殿の上にたつ塔(シカラ)が強調される。ボロブドゥールやアンコール・ワットを加えると、9世紀ころから12世紀ころまで、このような塔文化が宗教を超えて、東アジアから西アジアまでアジア一帯を包んでいた。塔の思想の背景には、天を希求する思想があり、こうした思想が12世紀のフランスでゴシック建築を生みだす原動力となったのではないだろうか。イスラームの墓建築やミナレットもその一端を担う存在として位置付けられよう。(p.46-47)


なるほど。9~12世紀頃に、ユーラシア各地で高い塔が建てられたというのは興味深い。本書は天を希求するという思想的なものがこの背景にあるとするが、私は少し違った見方である。すなわち、このあたりの時代は「13世紀世界システム」のグローバルなリンケージが確立へ向かう途上の時代であり、各地のヒト・モノ・カネの結び付きが次第に強くなっていく時代であることから、都市化が進み、富裕層の富が増していく時代だったと理解する。そのようにして都市に集中しつつあった富と権威を誇示する手段として高い塔が好んで建てられた、ということではなかろうか。



 初期の仏教文化においては、釈尊の骨を納めたストゥーパが人々の崇敬を集め、饅頭形で内部空間をもたない建造物であった(図2-61)。2世紀ころにはストゥーパと共に仏像を崇拝するようになる。ストゥーパも小型化し、建造物の中に祀られるようになり、ストゥーパや仏像を祀るチャイティヤ(祠堂)が造られる。ストゥーパはやがて塔の形に姿を変え、日本の仏塔では屋根の頂部に付く伏鉢となる。
 仏教寺院においては、ストゥーパや仏像などの崇拝の対象を納める建築と同時に、出家した僧侶たちが暮らす建築が必要であった。前者のチャイティヤに対して後者をヴィハーラ(図2-62)と呼び、日本では僧坊という。中庭や石窟の広間の周りに小さな部屋が並ぶ。次章で新たなジャンルとして、マドラサについて述べるが、マドラサ建築の成立には仏教の僧院建築(ヴィハーラ)が影響を与えたとされる。
 一方、仏教を圧倒したヒンドゥー教の建造物(図2-63)は、日本の神社のように、御神体を奉納する本殿(ガルバグリハ)とその前殿(マンダパ)という構成をとる。古代ギリシアの神殿建築も同様で、神の宿る場所の作り方の共通する形の一つかもしれない。本殿の上にはシカラ(塔)が建ち、周りを巡る形式も現れる。また、本殿と前殿の間にいくつかの部屋が挿入されていく点も、日本の神社建築とよく似ている。最初は石窟や石彫だったヒンドゥー寺院は、石積寺院に収斂し、シカラに地方色が現れるようになる。(p.66-67)


ストゥーパが日本の仏塔になったというのはよく言われるが、五重塔のような塔自体というより、その屋根の上についている金属製のポールのような部分がそれである。

マドラサは中庭を持ち、周囲に部屋や大空間を置くチャハール・イーワーン形式の建築として普及していくが、単に中東の風土の問題というだけでなく、仏教の僧院建築の影響もあったというのは興味深い。

ヒンドゥー教寺院と日本の神社建築の構造の類似性については、私もインドでヒンドゥー教寺院の実物を見てきた後で気付いたが、南アジアから東南アジアにはある程度深く影響しているが、その外の世界からはやや隔離されたイメージを持たれるインドの建築が、実際にはいろいろな建築文化の地域と影響関係にあったり、共通の形式を持っていたりするというのは大変興味深い。



 ロマネスク建築とゴシック建築は、いくつかの道筋から、イスラーム建築と関係をもつと考えられる。10世紀にアンダルシアに発生したアーチ・ネット(口絵3、図2-14)は、ペルシアへと伝わった(図3-25)だけではなく、ロマネスク建築にも、アーチ・ネットに類するリブを用いてドームを構築する実例がある(図3-42)。特にイベリア半島のモサラベ教会堂や南フランスのロマネスク教会堂の交差部のドームなどに顕著である。また、この時代に西欧一帯で流行した四分ヴォールトや六分ヴォールトは(図3-41)、区画の対角線にアーチを交差して架けるので、アーチ・ネットの変種とみなすこともできよう。建設時に構造的なガイドラインとしてアーチ形のリブを用いることによって、見栄えも施行度も高くなるようアーチを交差させるという点が共通する。構造的な工夫から生まれたものが、意匠的な美しさに転化して発展を遂げるのである。アンダルシアからのアーチ・ネットの波が、西欧のロマネスク建築やゴシック建築を生む誘因の一つとなったのかもしれない。アーチを交差させる造形は、ロマネスク建築の回廊部分や西正面にも好んで用いられ、交差する半円アーチが、続くゴシック建築で支配的となる尖頭形アーチを生み出した。(p.106-107)


興味深い仮説ではある。ただ、この時代の建造物が、本書の指摘する通り構造美を特徴とするのだとすれば、必ずしも直接的な影響関係がなくても並行的に生じたと考えることもできるように思われる。そのあたりをどのように検証・反証していくのか興味が惹かれる。