アヴェスターにはこう書いている?
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徳山喜雄 『安倍政権と新聞 「二極化する報道」の危機』

 以上のように産経、日経、朝日3紙の2013年10月24日朝刊に、日米豪、日露、日英の安保上の連携強化の動きが書かれ、いずれも中国への牽制を意図したものだと伝えた。そして、この連携強化とセットで、日本の秘密保護法制の整備が必要と示唆するものだった。翌25日夕刊の在京各紙は、秘密保護法案が閣議決定され、安倍政権は成立をめざすといっせいに報じた。
 話がよくできているのに驚かされる。産経、日経、朝日新聞の記者はそれぞれ別の政府関係者から情報を得て、特ダネとして記事を書いていると思われるが、蓋を開けたら、どの新聞も同じトーンで中国の脅威を訴え、日本版NSCの設置と秘密保護法案の成立の後押しを結果的にしている(させられている)のである。
 読売、毎日、東京新聞の記者にも安保をめぐる別のネタがリークされている(される)と思われる。このように安倍首相をとり巻くスタッフたちは、周到な準備をしたうえでメディアを利用していると考えられる。(p.46-47)


安倍晋三という人間の危険性に対して十分に警戒しており、メディアなどの情報に対して裏読みをしたり、背景を常に意識しながら接していれば、こうした活動をしているであろうことは容易に推測がつく。第2次安倍政権になってから、情報に接することの不快さが日増しに増している。このような悪意が見える(にもかかわらず、周囲のほとんどの人間がそのことに鈍感だ)からである。

先日の衆議院の解散(12/14の総選挙)についても、いろいろと言いたいことがあるのだが、マスメディアが次第に政府・与党の広報機関に変質している(権力側にそのイニシアティブがあるのだが、それへの抵抗をメディアが十分していないし、抵抗できないように巧妙に操作が行われてきている)のを感じる。まさに、中国のメディアが共産党の広報機関に過ぎず、権力監視の役割などになっていないのと同じになっていっているのである。



 文芸評論家の斎藤美奈子さんが東京新聞の8月28日朝刊「本音のコラム」で、汚染水漏れと五輪招致について、次のような切れ味のいい指摘をした。
 「今の福島第一原発は壊れたトイレに近い。汚水が便器からあふれ出し、バケツを集めて次々ためるもバケツも破損。汚水は床にたまり、トイレの外に浸出し、このままだと家中の床はおろか玄関から外に出て隣家にも影響しかねぬ状況だ。それなのに、この家の主は『うちで五輪を開こうぜ』などとはしゃいでいる。私には壊れたトイレを放置して友人をパーティに招こうとしているように見える。まともな友人なら『順番が違う』と思うだろう」(p.142)


うまい譬えだ。



 安倍晋三政権発足後1年余りの日本経済は、「アベノミクス」なる言葉に翻弄され振り回されてきた。仮にそう考えるなら、アベノミクスという言葉に飛びつき、喧伝しつづけたジャーナリズムやマスコミに大きな責任があるだろう。
 マスコミは見出しにとりやすいキャッチ―な言葉に弱く、多くの人に読まれたい、あるいはみてほしいと思うあまり、その本質を考えず無定見に使い出す癖がある。(p.171)


「アベノミクス」という言葉と、それを無定見に振り回すマスメディアに対する批判はもっと行われるべきだろう。

私の「アベノミクス」なる政策に対する評価は次の通りである。

「アベノミクス」を構成する「3本の矢」は「大胆な金融緩和」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」であるとされる。厖大な財政出動を行うことによって、短期的に目先の経済指標は上向くのは当然のことである。これによって旧来の自民党の支持者たちに金が配られることになる。日銀はこの膨大な国債を買い入れつつ莫大な金融緩和によって円安を招き、(海外投資ファンドの投資を呼び込むことで)株高を実現する。これは株を持っている富裕層や上場企業の経営側にいる人たちにとっては大きな利益となる。大企業がこぞって賛成するとテレビなどのマスメディアもスポンサーでもあるため、マスメディアも政権を批判しにくくなる

こうして批判の声を小さくしておいて、株高が実現したと言えば、何となく「景気が良くなった」ような気分が社会に蔓延してくる。この気分に浮かされた人びとは、政府の経済政策を支持する方向に傾く、というわけだ。そして、その支持(というかかなりの程度、単なる好印象)を取りつけつつ、安倍政権は集団的自衛権の行使(憲法改正)や原発再稼働など、本来ならば反対の方が多いような政策をなるべく目立たないようにこっそりと行うことで、次々と思い通りのことをやってのける、という算段である。

ある意味では、ここまでは「うまくいっている」と言ってよい。しかし、これはいつまでも続けられるものではないし、これをやめた後または続けた先にはより大きな後遺症が残る(内容のない株価の上昇はバブルと同じであることや国債の利子が上がると財政破綻へと至るし、タイミングによってはハイパーインフレなどのリスクも高めている)危険を高めている。

さらに「成長戦略」なるものは、内容がほとんどないので、経済的な成長、より正確には人々の暮らし向きがよくなることにはほとんど何の貢献もしない(むしろ悪くする)のは明らかである。単に人々に期待を持たせることによって支持率を得るための道具という程度のものでしかない。

こうやって時間を稼いで、人びとの生活の改善に結びつくことは何もしないでいる間に、円安による生活費の高騰によって消費環境が悪化させられ、企業の経営側に有利な制度変更(労働に関する規制の撤廃など)によって労働環境も破壊されていく。「成長戦略」の効果のなさについて、数年後には批判が高まるだろうが、その頃には無策であったことのツケが(富裕層よりも)庶民の側に回ってくることになる。この間、安倍晋三がやりたいことを次々と実現していくということは、政府の権力を縛る制度は次々に壊されていくことを意味する。つまり、少数の権力者が恣意的に統治することができるような、つまり、日本の政治体制は中国の政治体制に次第に近づいていくことになるだろう。

先日、衆議院が解散され、12/14に衆院選が行われてしまうが、この選挙は、この流れを安倍晋三が何とか維持するために仕掛けられたものである。消費税増税の先送りが争点だと言い、また、「アベノミクス」を続けるか否かが争点だとも、政府側は(勝手に)言っているが、当然そんなものはごまかしに過ぎない。選挙で与党が過半数をとった後、数ヶ月後(特に2015年4月の統一地方選挙後)には、いわゆる「安全保障」の問題がクローズアップされ、これを「国民に信を問う」ことをせず(先の総選挙で信任されたと言い張って)進めていく過程で、統治機構が破壊されて(統治側の権力がいくらでも恣意的に使える方向に変えられて)しまうであろう。

マスメディアのいくつかはある程度の抵抗を現在のところ(「安倍政権の政治手法も争点になる」などとして)抵抗を示しているが、恐らく、投票率は低くなるだろう。これは組織票を持つ公明党や自民党に有利な結果になることを意味し、結果、過半数は容易にとられることになろうだろう。そのようになれば、この選挙は政治的自由や民主的な社会の終わりへと向かう道である。

実際、今回の選挙では、安倍政権の政治手法こそ本当に問われるべきものである。それは正論であり、まさに正しいことを言ってはいる。しかし、政治にあまり関心が深くない人にとっては、そのことを争点化しようとしても、評価するための十分な尺度を持っていないため、争点にはならない可能性が高い。せいぜい願いうることは、今回の解散への違和感から自民党への批判票が野党にできるだけ多く流れてくれる――そして、その受け皿が維新の党や次世代の党のようなトンデモ政党ではない――ことくらいである。



 このような状況だから、日本のメディアは余計に、良質の考える材料を提供していかなければならない。だが、中国は共産党の独裁国家で、そう簡単に情報がとれる国ではない。報道することがきわめて難しい国といっていい。では、読み手はどうすればいいのか。情報が乏しいうえ、バイアスがかかるケースが多い中国からの報道は、複数の新聞を読み、比較しながら情報の空白部分を補っていくことが一つの解決策だ。まずは、読み比べることを薦める。(p.201)


中国に関する報道に関するコメント。本書では一つの解決策と言っているが、ほとんど唯一の解決策と言ってもいいのではないかと思う。



 それでは、近年の中国とアフリカのつながりはどのあたりからはじまったのだろうか。
 1971年秋、中国の国連参加が正式に決まり、ニューヨークの本部にある本会議場に2人の中国人代表が着席、満面に笑みをうかべ身体を大きくゆすって喜びをあらわす印象的な写真がある。……(中略)……。
 中国はこの瞬間を迎えられたことを「アフリカへの恩」という。当時の新聞を繰ってみると、深夜の国連総会で投票され、76票対35票の大差で中国の国連参加を決議、これに伴い「国府〔中華民国国民政府の略称〕、直ちに脱退表明」したとある(朝日新聞1971年10月26日夕刊)。この賛成76票のうち26票がアフリカ票だった。(p.208-209)


中華人民共和国が国連の参加国となるに際して、アフリカ諸国からの票が大きな意味を持っていた。なるほど。こうした経験があったということが、昨今のアフリカへの積極的な進出の一つの背景にある、ということか。



 一方、中国外務省は欧米メディアの報道が伝わった23日の会見で、「靖国は東洋のナチスであるA級戦犯をまつっている」とし、我が意を得たりといわんばかりに欧州の反ナチ感情に訴えた。
 中国の各国駐在大使らは14年に入り、現地メディアへの投稿のほか記者会見や各種会合などさまざまな機会を通じて、安倍首相の靖国参拝を批判している。この中国の国際世論に訴えるネガティブ・キャンペーンは約50カ国におよぶというから、ただ事ではない。
 たとえば、朝日新聞1月24日朝刊によると、1月16日の仏紙フィガロで中国の駐仏大使が「ヒトラーの墓に花を供えるところを想像してみてほしい」といい、「A級戦犯が合祀された靖国神社を『ヒトラーの墓』になぞらえ」た。また、「イスラエルではホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を、英国では世界的なベストセラー小説『ハリー・ポッター』に登場する闇の帝王をそれぞれ引用し」ている。さらに、「安倍首相がアフリカ3カ国の歴訪を終えた1月中旬、中国の駐エチオピア大使は安倍氏を『アジア最大のトラブルメーカー』と呼ぶ記者会見を開催した」という。
 ここまでいう中国側の見識を疑いたくなるが、2013年12月26日の首相の靖国参拝以降、日中対立の波紋は東アジアにとどまらず、欧米や中東・アフリカなど世界各地に拡散している。このような中国の対日キャンペーンの最中に、安倍首相が日中の武力衝突の可能性を否定しなかったと欧米メディアに伝えられると、世界の人々は、日本のタカ派首相が受けて立つかのような強硬発言をしたとみるのではないだろうか。(p.235-237)


以上は、2014年1月22日、ダボス会議で安倍首相が尖閣諸島をめぐる日中の武力衝突の可能性に関する発言の中で、第一次大戦のイギリスとドイツが最大の貿易相手国だったが戦争は起こったと言いながら、武力行使を否定しなかったことが欧米メディアに波紋を呼んだことに関連するコメント。

安倍晋三やそれに近い立場の右翼ないし「保守」の連中の発言は、かなり国際的な常識からは離れている。中国のネガティブキャンペーンに揚げ足を取られるようなことをすべきではない。したがって、安倍晋三やそれに近いような連中が首相や政府の要職に就くべきではない。この選択に加担させられてしまっている者として恥ずかしく思う。


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札幌学院大学 北海道の魅力向上プロジェクト 編 『大学的北海道ガイド――こだわりの歩き方』(その2)

 また、オホーツク海に出会った時の感動は、その地理的なイメージだけではない。特に六月頃から八月頃にかけての北海道オホーツク沿岸は気候が非常に安定しているため、さざ波すらほとんど無い、湖のように静かな海を見ることができる確率が高い。(p.194)


オホーツク海側はあまり行ったことがないので、この時期に是非行ってみたい。



 「富良野オムカレー」に関するルールは、現在、以下の六つになっている(写真1)。
①お米は富良野産を使い、ライスは工夫を凝らす
②卵は原則富良野産を使い、オムカレーの中央に旗をたてる
③富良野産の「チーズ(バター)」もしくは「ワイン」を使用する
④野菜や肉、福神漬(ピクルス)なども富良野産にこだわる
⑤富良野産の食材にこだわった一品メニューと「ふらの牛乳」をつける
⑥料金は税込1000円以内で提供する
 以上のルールからは、なによりも徹底して富良野産の食材にこだわっていることがわかる。地産地消を重視している点は、「新・ご当地グルメ」に共通する特徴である。また、1000円以内という手頃な値段に設定されている点も、他の「新・ご当地グルメ」に共通している。これは昼食を念頭においているためで、その背景には夕食を提供するホテル・旅館とのバッティングを避け共存を目指すという明確な理念が存在する。そこにはまちづくりのための試みであるという姿勢が貫かれている。(p.273-274)


昼食向けの価格設定がホテルとの共存という考え方に基づいているという点はなるほどと思わされた。



馬鈴薯、人参、玉葱というカレーの定番となる食材が、いずれも北海道を代表する農産物であることがこうしたカレー人気の一因となっている。(p.277)


なるほど。北海道とカレーは思った以上に深い関係にあるわけだ。



 大分県の取り組みと身近な成功事例から刺激を受けて、1983年にスタートした横道道政の下で奨励された、北海道版「一村一品運動」は瞬く間に全道に広がり、各自治体は競って特産品の開発に取り組んだ。……(中略)……。
 いまから振り返ると、当時の取り組みは、特産品づくりに特化しており、まちづくりという視点は弱かったように思う。低次加工のまま出荷されていた商品の付加価値を高めることが目指され、自治体主導の産業政策という性格が強かった。大分県が模範とした旧・大山町や旧・湯布院町の取り組みは、しっかりしたまちづくりの青写真があり、その一環としての特産品開発であったが、北海道へ持ち込まれた時には、その辺の事情はすっかりそぎ落とされ、特産品の開発が目標とされてしまった。「新・ご当地グルメ」の取り組みは、それに比べるとより広がりをもった活動になっている。(p.278-279)


かつての「一村一品運動」と「新・ご当地グルメ」との興味深い比較。




札幌学院大学 北海道の魅力向上プロジェクト 編 『大学的北海道ガイド――こだわりの歩き方』(その1)

 ともあれ帯広が今日のように十勝全域の農業を基盤とした商業都市として着実に発展を始めるのは、旭川への鉄道が開通した明治40年以降のことである。1916年(大正5)北海道拓殖銀行帯広支店が開設され、さらに1920年(大正9)第十二銀行(現北陸銀行)、1923年(大正12)安田銀行、と道外銀行も進出した。この大正期が商業都市としての帯広の第一段階の完成期といえよう。だが帯広はその成立の初期に遡れば、紛れもなく「植民地」の中の行政都市である。明治25年三等測候所、帯広郵便局、26年河西外二郡(河東、上川)各戸長役場、27年道庁殖民課出張所、28年釧路警察署下帯広分署、北海道集治監十勝分監、十勝農事試作場というように、「民」より先に「官」が進出しており、行政都市がその出発点である。今風にいえば、「官」が都市としての「インフラ」を整備し、十勝全域の雑穀を中心とする商品作物の生産を背景として商業都市としての帯広が生まれたのである。全国的に有名な「スイーツ王国」、「豚丼」、「屋台村」などはこの商業都市としての帯広のDNAが生み出したといえる。(p.38)


時系列でまとめ直すと、明治25年代後半に続々と「官」の施設が設置され、明治40年に旭川との鉄道が開通し、大正期に金融機関が次々と進出してきた、という流れになっている。

道東の農産物を集約するのに適した地の利が――これが官庁が集中する背景であったのだろう――、鉄道で道外へと移出できるようになったことで生かされることとなり、農産物を移出する商業都市として発展していくことに伴い、金融機関も次第に集まってきたという流れが見える。

この十勝の雑穀などは小樽港から移出されたものも多かったと推察される。この流れがあったからこそ、第一次大戦の際に小豆の世界市場で大儲けをした高橋直治のような商人も出たのであろう。

帯広の都市としての形成過程は、札幌の発展と似ているように思われる点が興味深い。北海道の内陸部の都市の開拓について、もう少し詳しく知りたくなった。



 ところで北海道を訪れた人は、札幌ではどこに行かれたであろうか。あるいはこれからの人は札幌ではどこを訪れようとしているのだろうか。
 大通り公園、道庁赤れんが(開拓使札幌本庁)、北大植物園、北大(札幌農学校)、札幌ビール園、大倉山シャンツェ、そして少し時間に余裕があればイサム・ノグチがデザインした「モエレ沼公園」、バーンスタインが仕掛けをした「PMF音楽祭」が毎年開催される「芸術の森」等といったコースを辿るのではないだろうか。
 改めて気づかされることは、殆どの来訪者が訪れるこれ等の場所はこの第一段階から第五段階において形成された都市基盤の遺跡ともいえるものであることである。この中でも特に主要な都市拠点は第三段階の「開拓使十年計画による都市形成」によるものであろう。
 開拓使十年計画の推進者は黒田清隆を中心とした旧薩摩藩の精鋭たちであったことから、この背景を良く理解している人々は「札幌は薩幌である」と言う所以がここにある。(p.49)


札幌の都市形成の過程を5つの段階に分けて概説した後のコメント。黒田清隆が札幌の都市形成や北海道の初期の開拓に関して極めて大きな影響を与えたことは、私もここ数年理解が徐々に深まってきたが、「札幌は薩幌である」というフレーズはなるほどと思わされるというか、旧薩摩藩の勢力が大きな影響を与えたことを銘記する上でも有用であると思われる。



札幌を「薩幌」ということは前にも触れたところであるが、お馴染みのサッポロビールのマークに使われている五稜星のデザインは元々薩摩藩の旗印でもある。(p.57)


サッポロビールの五稜星のデザインは、普通、観光ガイドなどでは「開拓使のマークである五稜星と同じ」といった形で紹介されていると思う。ということは、開拓使の五稜星も薩摩藩に由来するということか?興味深い。



薩摩藩主島津斉彬は軍需だけではなく民需産業の育成に力を注いだ工場群「集成館」を薩摩の地に創り出した。開拓使はこの「集成館」をモデルに大通りから開拓使通りに掛けて大産業施設群(コンビナート)を創ろうとしていた。このプロジェクトの中核を担ったのが村橋久成であるといわれている。……(中略)……。
 
 現在では唯一その当時の痕跡の一部を見出すことができる札幌ビール園を訪れる人は多い。ここを訪れる際には、出来ることなら先ず鹿児島にある「尚古集成館」に行き、往時の集成館事業の絵図面を手に入れて欲しい。そして札幌工業局機械所図と見比べながら、かっての「開拓使通り」界隈を歩いてみることを是非ともお薦めする。(p.58-59)


現在のサッポロビール博物館、サッポロビール園があるところやサッポロファクトリーの界隈など創成川の東側の一帯は開拓使によって工業用地として計画されたことはよく知られている。ここでも薩摩がモデルになっていたとは知らなかった。後段で述べられているように鹿児島の集成館と比較するのは、是非やってみたい。



 明治時代の洋風建築物は、札幌に限らず道外の多くの都市に存在するが、札幌と他都市との明確な違いは、札幌の近代洋風建築がアメリカ系木造建築様式で統一されている点である。それは北海道開拓に貢献のあったホーレス・ケプロンやウィリアム・クラークなどが、北海道と同緯度のアメリカ東部ニューイングランドの出身であり、森林事情も似ていたことから、開拓においていち早く造られたのが蒸気動力と水車動力をもつ製材所・札幌工作場であった。森林を伐採して板や角材に製材し、木材を活用したまちづくりを行ったことが、札幌に木造洋風建築物が多いひとつの要因である。また、開拓使工業局営繕課だけが西洋館を建てたが、開拓使を指導したお雇いアメリカ人の中にも営繕課の技術者の中にも建築の専門家がいなかったことが二つ目の要因としてあげられる。つまり、専門家がいないことを補うために、アメリカの建築のパターンブック(建築雛形書)を利用し、これを手本に図面を引き建築した結果、札幌の近代洋風建築物はアメリカ系の木造西洋館に統一されるという特徴が生まれた。(p.68)


北海道開拓は全般にアメリカの影響が強いので、建築においても同じことが当てはまる訳だ。また、木造であることは札幌周辺も当時は森林だったことが背景にあるというのは、なるほどと思わされた。



 開拓使の西洋館スタイルには、1877年を境に二つの傾向が認められる。1877年以前にはアメリカ東部の古典式木造建築様式・ネオクラシシズムに属するスタイルが用いられ、1873年竣工の旧開拓使札幌本庁舎(1879年焼失、開拓の村に外観再現)はこの様式の建物であり、この様式美は高く評価されている。1877年以降ではアメリカ中・西部の開拓地の木造建築構造様式が取り入れられ、その代表的な建物が1878年築の旧札幌農学校演武場(札幌時計台)である。アメリカ中西部の開拓地の木造建築構造様式はバルーン・フレーム構法といわれ、2×4工法(ツーバイフォー建築)のルーツとなった建築様式である。建築様式としては純度が高くないといわれるが、アメリカの開拓において、これ以上に相応しい技術はなくアメリカの木造技術の頂点に立つものであると評価される。(p.69)


開拓使が設置されたのは1869年(明治2年)で、廃止されたのが1882年(明治15年)。1877年(明治10年)は設置されてから約8年、廃止まで5年ほどの期間が残された時期なので、概ね開拓使の時代の中頃ということになる。また、黒田清隆が開拓使長官だったのは1874年(明治7年)~1882年(明治15年)であり、この変化は黒田長官時代に起きたことがわかる。

1877年(明治10年)に何かの変化があったのだろうか?それとも建てられる建物の性質(種類や役割など)が違うものになったということか?

札幌農学校のモデルバーン(模範家畜房)は1876年にバルーンフレーム構法で建てられている。モデルバーンと札幌農学校演武場はいずれもウィリアム・ホイラーの設計で、彼はクラークと共に1876年(明治9年)に札幌に来ている。このことが建築様式の変更と深くかかわっているのではないだろうか?機会があれば掘り下げて調べてみたい問題である。



 札幌に居たのでは北海道が直面している問題はわからない。これからの北海道経済を担っていく学生諸君にとって、地方都市に行き、自分の目で見て、肌で感じ取ることこそ大切である。(p.131)


同感である。「東京に居たのでは日本が直面している問題はわからない」という形でかなり前から私の持論の一つになっていたものとほぼ一致している。

東京にいることは、流行などを知る(発信する)には有利かもしれないが、社会の構造変化のようなものを知るには不利であると言ってよい。



J.S.ミル 『大学教育について』

再び、ホエートリ大主教の言葉を拝借するならば、「慣れ親しんでいることを正確な知識」と思い誤るのは人間の習性です。われわれは、毎日目に触れるものの意味を問うというようなことをほとんどしません。……(中略)……。このような悪い習慣が、ある言語を他の言語に正確に翻訳する訓練と、われわれが子供の頃から絶えず使用して慣れ親しんできたのではない言葉が表現する意味を探り出す訓練とによって矯正されるようになるということは、今や明白です。(p.34-35)


外国語(本書の文脈では主にギリシア語やラテン語)を習得することの効用として、慣れ親しんで当たり前になってしまったものの意味を問い直すことに繋がるという点を挙げている。ある意味、学問の基本の一つと言える。



外国人は自分たちとは違った考え方をすると思うだけで、なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解するのでなければ、われわれのうぬぼれは増長し、われわれの国民的虚栄心は自国の特異性の保持に向けられてしまうでしょう。(p.37-38)


現代日本の右派ないし保守派と呼ばれる政治家(安倍晋三や石原慎太郎のような人たちやその近くにいる人びと)や所謂ネトウヨのような人びとが陥っている状態を的確に指摘している。



人間の知性の成功と失敗、その完璧な成果とともにその挫折を知ることや、すでに完全に解決のついた問題とともに未解決な問題があることに気づくことも教育上有益です。(p.90)


決着のついていない(見解の一致を見るに至っていない)哲学の議論について知ることの教育上の価値について述べている。哲学史や思想史の教育的意義は、最近顧みられることがない気がするが、それなりに重要なことであると思う。



 英国で「芸術」(Art)という語が単独で用いられるようになり、「科学」「政治」「宗教」と同様に「芸術」について何かが語られるようになったのはごく最近で、それも外国人がそうするからそれを模倣したというだけの話です。(p.118)


Artという語が単独で用いられるようになったのが最近(1867年当時)というのは意外性はないが、外国人を模倣したという認識である点は興味深い。現実の過程としてはどうだったのだろうか?



職業の高貴さなどというものは、本来、仕事そのものにあるのではなく、ただその遂行の仕方によって生ずるものであります(p.128)


なるほど。職業に限らず、どのような作業や仕事にもこれは言えるかもしれない。



しかしただ一つ、諸君の期待を決して裏切ることのない、いわば利害を超越した報酬があります。なぜそうなるかと申しますと、それは、ことのある結果ではなく、それを受けるに値するという事実そのものに内在しているものであるからです。では、それは一体何であるかと申しますと、「諸君が人生に対してますます深く、ますます多種多様な興味を感ずるようになる」ということであります。それは、人生を十倍も価値あるものにし、しかも生涯を終えるまで持ち続けることのできる価値です。(p.134)


大学教育がもたらす(べき)価値とはこうしたものであろう。確かに、私もいろいろな学問に触れることによって、こうした面白さを初めて知るようになった、という経験があるので、言っていることはよくわかる。これから大学に入ろうとしているような身内などにはぜひ教えたいとも感じているが、実際に体験していない人に伝えることの難しさも感じる。



「公衆衛生」の問題は、19世紀中頃のイングランドでは、もっとも関心の高い社会問題の一つであり、またその改善のために多大の努力が払われた。(p.146)


明治から大正の頃に日本で後藤新平などが公衆衛生について伝え、都市計画などにも反映させたというような事態は、そ、このようなイングランドでの動向も背景の一つだったのであろう。