アヴェスターにはこう書いている?
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菅原琢 『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』

 10年以上前の1998年参院選を覚えている人は少ないかもしれない。この選挙では、情勢報道におけるマス・メディアの自民党の獲得予測議席数に比べて、実際の議席数が大幅に少なかったことが注目を浴びた。
 ……(中略)……。情勢報道の数値が結果から大きく外れたのは、投票率上昇をうまく織り込めなかったため、という説である。
 図1に示すように、この選挙ではそれまでの参院選(95年、95年)に比較して都市部を中心に投票率が大幅に上昇し、当時の衆院選並みとなっている。これは、投票締切時刻を以前の午後6時から午後8時まで延長し、不在者要件を大幅に緩和した、投票環境改革がもたらしたものである。(p.51-52)


投票時刻の延長などについて、あまり意味はないと思っていたが、都市部を中心に影響があったということか。投票率が上がることは良いことだが、政治的、経済的リソースがより多いと考えられる都市部が農村部のような地域に比べて相対的に力が増す方向の変化は、現在の政治経済情勢を考えると、必ずしも好ましいものではない。こうした都市部の意向が反映しやすくなったことが、小泉改革のような新自由主義政策が以前よりも強く支持される要因となっているようだからである。それは現在(第二次安倍内閣)のいわゆる「アベノミクス」のリフレ政策への支持として継続されているものである。



 1人区の性質を考えれば、野党が協力して戦うことの意義はきわめて大きい。都道府県別選挙区は歪な定数配分がされていることもあり、参院選全体の結果が1人区の結果によって決まる傾向にある。(p.94)


野党が選挙協力の体制をどう築けるかということが、非常に重要な意味を持つ。しかし、自民党の中でも保守系とされる面々と同等かそれ以上に右寄りの野党が多数存在してしまっている現状では、野党共闘するとしても野党全体がリベラル勢力が結束して与党に対抗するという図式が成立しにくくなっているように思われる。

特に、現在の野党第1党である民主党自体が、リベラルから保守系までの混在した政党であるため、左右の両側に引き裂かれる力がかかる中で判断をしなければならないという難しい状況に置かれ続けることになり、与党に対してどのように対抗していくのかを明確に打ち出すことが難しい状況に置かれているように見受けられる。

後段(参院選の結果が1人区の結果によって決まる傾向がある)については、もしそうだとすれば、1人区になっている都道府県に住む人々の判断がもたらす影響と、それ以外の選挙区に住んでいる人々の判断がもたらす影響とで、影響力が違うという、非常に見えにくい投票の不平等が存在することになる。よく一票の格差ということが選挙の度に話題となるが、それ以上に重大な意味がありそうな問題が見過ごされているのは問題である。



 このようなデータの時系列的な変化を見てわかることは、麻生太郎が「人気」になったのは、総裁選に出たためということである。つまり、もともと知名度が大してなく、したがって「次の首相」のシェアも低かったものが、他の有力な総裁候補が不出馬を決め、あるいは総裁に選出されたため、総裁候補に選択肢として残り続けた麻生が押し出されたということである。これに加えて、安倍政権下で外相や幹事長として一定の露出を確保し続けたことも重要であろう。常に「次の総裁候補」としてメディアに注目され、「次の首相にふさわしい人」調査において必ず選択肢が用意されるというVIP待遇のおかげで、「次の首相にふさわしい人」調査の上位を不動のものとしたのである。
 もっともこの構造は、この前に首相になった安倍、福田も似たようなものである。小泉政権下での露出があったからこそ、彼らは首相になったのである。
 派閥の中で徐々に地位を上げ、議員内での「アイツはできる」という評判が高まり、支持団体から評価されることで資金力を上げ、派閥領袖となり総裁選を戦い、最終的に首相になるというような、昔の自民党における立身出世とはまったく異なる構造がここにはある。周囲やメディアが後継総裁候補とみなし、そのように盛んに報道したからこそ、彼らは首相のイスに近づいたのであって、派閥内、党内、党外による長期的な評価で選別されてきたのではない。数字が上がったのであって、能力が上がった、評価が上がったわけではない。せいぜい上がったのは知名度くらいである。
 このことを指して「民主的」と評価する向きもあるかもしれない。一般の人々から認知され、支持されることが、派閥の評価よりも優先されるというのは、たしかに聞こえは良い。
 しかしその実態はどうか。……(中略)……。
 3つの内閣支持率の急落が意味するのは、「次の首相」調査の数字や初期の内閣支持率というものは、非常に脆いものだということである。……(中略)……。
 もし昔のように、長期の出世競争の中で人物が磨かれ、評価され、そして首相候補として浮上してくるのであれば、ある程度の質は確保されていただろう。(p.179-181)


本書は2009年12月に出版されているので、以上の引用文は、民主党への政権交代が起こった頃に、それまでの自民党政権の末期、具体的には第一次安倍内閣、福田内閣、麻生内閣が成立した構造を分析したものである。

長期的で組織的な評価ではなく、短期的な視野で遠くから見た人からどう見えるか、という程度の評価によって首相が決まることの問題性を指摘しているが、全く同意見である。



 しかし、ここでの解説が正しいとすれば、自民党の政治家たちは随分と内閣改造に踊らされてきたということになる。内閣改造をすれば支持率が上がるという神話は、世論調査の質問文に少々の変更が加えられたことによる、中身のない数字上の変化だったのだから。(p.192-193)


「内閣改造」を行うと、世論調査が行われるが、この時、改造前より大抵は「支持率」が上がる。しかし、この「支持率」の上昇は、有権者による内閣に対する評価が上がったのではなく、質問文が改造前と変わることによって回答内容が変わっただけだという。

ただ、毎回このようにして支持率が上がったように見せかけることができるだけでも、政権にとっては好都合ということになる。これでは、権力を監視する機能を持つべきメディアが、その役割を果たすどころか、誤った見方を拡散させているということになる。



 ネット上の「現象」は、有権者の数に比べれば遥かに少ない一部の、あえて言えば特殊な人々によって作られている。……(中略)……。ネットに世論がある、世論が表出されていると想定すること自体、バカげている。「ネット世論」という言葉も不適切で、「ネット小言」あたりに言い換えたほうがよい。

 専門家の役割
 このようにネット上の政治現象は規模的に小さいにもかかわらず、一部の既存メディアは些末な出来事を取り上げ、話を大きくしてしまうことがある。……(中略)……。本来、大した問題でない、大きな動きとはなっていないような事柄も、既存メディアに取り上げられることによってまるで大きな出来事であるかのような印象を世の中に与えてしまう。(p.224-225)


ネットに世論が表出しているとは見做せない、という点は社会の見方として重要と思われる。マスメディアがそれを大きく取り上げることによって、一部の局所的な動きが増幅されてしまう、という点に、マスメディアはもう少し注意を払ってほしいと思う。

例えば、NHKの番組などでもツイッターなどで視聴者のコメントを画面に表示したりすることがあるが、あれも「ネット上の政治現象」に関わるような「一部の特殊な人々」が参加するものであって、それを公共の電波に乗せることは、公共性という観点から見て問題ではないかと感じる。もちろん、すべてのツイートを掲載しているのではなく、ある程度のフィルタはかけているのだろうが、それでもある程度落ち着いて編集をする作業とは異なるプロセスしか経ずに電波に乗ってしまう点で、問題ではなかろうか。せめて、そうした情報は表示しないことをデフォルトとして、表示したい人だけが見られるというような扱いを基本とすべきではないだろうか。


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蝦名賢造 『札幌市の都市形成と一極集中』(その2)

 札幌市は歴史的に計画的に都市づくりを進めてきているが、冬季オリンピックを目途とした「札幌五ヵ年計画」においては、特に多額の資金を投入し、札幌はまったく一変したとすら言われている。基幹的道路体系が確立され、さらにわが国第4番目の距離をもつ地下鉄「南北線12キロ」も開通される。都心では大型店舗・地下商店街・ホテル等の建設ラッシュが続き、新庁舎に象徴されるようなビルの高層化がすすんで、“詩の都”のイメージの札幌市は“国際都市札幌”の名にふさわしく近代的な街なみに整備されてゆく。(p.74)


現在の札幌の街並みや都市の構造は、1972年の冬季オリンピックのときに造られたインフラ(特に地下鉄と地下街)がその骨組をなしているようである。



 全国各地において、当時の大都市は京浜、中京、阪神という工業地帯のなかに所在していたため、幾度も幾度もB29の空襲を受けている。そのなかで、無傷だったのは京都と札幌の二市だけである。(p.75)


なるほど。京都が空襲を受けなかったのは歴史的な文化遺産が多く残っていることもあったのではなかろうか。また、札幌は工業都市になれなかったことが、幸いしたとも言えるように思われる。



「北海道は、昭和45年に至る10年間に、農林漁業と鉱業で30万人の就業者が減少し、労働力流動化を激しいものにした。一方、就業者の増加した産業は約60万人である。この間、札幌で増加した就業者は22万人であるから、全道で増加した就業者の3分の1を吸収したことになる。」(p.86)
鉱業とあるのは、主に石炭関係であろう。空知地方の炭鉱から札幌への流出があったとされるが、彼らはその後どのような業種へと転換したのだろうか?興味を惹かれる。



 札幌市の人口増加は、短期間にかつ急激に展開された。これは札幌市と同等の地方ブロック拠点都市にくらべてもきわめて激しい集中度である。この現象は植民地または新興国における首都人口の異常な集中度を類推させるものがある。(p.86)


この点も私の関心(北海道開拓とその他の植民地支配との関連性ないし連続性はどのようになっているか)に照らして興味を惹かれる記述である。



 この調査でユニークなのは、「読書力」という項目であり、第十章にその結果分析が示されている。海保によれば、この調査項目は台湾(旧日本帝国植民地)に次ぐものであるという。読書力とは、「読ミ書キ得ル」ことであり、今日の「活字文化接触度」とか「図書購入程度」とか、または「図書館利用状況」とかではなく、単に「識字力」である。台湾に次ぐ国内2番目という点では、いわゆる内国植民地と考えられた当時の北海道、そして札幌の開化度を象徴するものとして、興味深い。(p.162)


この調査とは、高岡熊雄による「札幌区々勢調査研究」(大正9年)である。識字力が台湾に次ぐというのは、やや意外な感がある。台湾はもともと日本語話者ではない人がほとんどだったと思うが、北海道は本州などから渡ってきた人が多かったのだから、日本語話者ではあったはずである。それにもかかわらず、台湾の方が識字力が高いというのには驚いた。「識字率」ではなく「識字力」というのがポイントなのか?



蝦名賢造 『札幌市の都市形成と一極集中』(その1)

 黒田清隆の北海道開拓の上に残した足跡は限りないが、その一つに北海道開拓の指導者たちを主としてアメリカに仰いだ点があげられる。……(中略)……。黒田は在職中、新知識を得るために外国人のお雇い技師を招聘し、75人の多きに及んだが、そのうち45人はアメリカ人であった。(p.24)


いわゆる北海道開拓はアメリカの西部開拓の続きとしても捉えられるが、ここを結びつける決定に大きな役割を果たしたのが黒田清隆だった。



 明治15年の札幌・幌内間の幌内鉄道の開通は、札幌の区画に影響を与えるとともに、その完成は、小樽から札幌を経て幌内までの鉄道建設となり、東京・横浜間、大津・大阪間に次いで日本で三番目の開通となり、札幌を中心とする交通網の大動脈となった。この路線の開通によって、道都札幌への物資補給にとっての安定した輸送路が完成し、また札幌周辺への移住がほぼ終了し、それ以降の石狩平野内部の開拓に向っての跳躍台となった。(p.26)


幌内鉄道については、小樽から見ると、空知の炭鉱から小樽(手宮)の港へと石炭を運んでいくものとしての意味が強調されることになるが、札幌から見ると、行政の中心地である札幌と外港である小樽、また、札幌と内陸部を繋ぐ流通経路としての意味が強調される。鉄道敷設のルート決定に際しては、札幌を経由するルートであることも幌内鉄道が小樽の港と結ばれることとなった要因になっていたのではなかろうか。

なお、幌内鉄道はしばしば日本で三番目に開通したと言われるが、厳密にはこれより数か月先にできていた鉄道がある(数カ月で廃線となった)ため、正確ではない。



 幌内鉄道全通により奥地の開発が進められ、その好影響も現れ、鉱山・農村方面に対する札幌の商圏も次第に拡張し、札幌最初の商業の発展と称せられる繁栄の時代を現出している。
 ……(中略)……。

 札幌は道庁設置以後このような発展をとげてゆくが、明治25年大火が発生し、地方裁判所、区役所、警察署、銀行、新聞社など、消失実に887戸に及んだ。しかも現場は市街地随一の繁華街南3、2、1条、大通西2、3、4丁目、市街地の約5分の1の消失であり、前年に比し同年末には戸数707を減じ、空家1000軒といわれ、札幌始まって以来の大不況の到来となった。
 その結果、開発途上にあった札幌の商圏も、すでに明治22年特別輸出港に指定されるなど発展途上にあった小樽を基盤とする小樽商人に追い上げられ、奪われていった。……(中略)……。
 この時期以後、札幌は小樽の商圏にその勢力範囲を奪われ、明治、大正、昭和へとそうした状態が継続し、昭和10年代より戦中、さらに戦時体制時代にまで及んでいる。ちなみに札幌が商業、金融上の事実上の北海道のセンターとしての地位を次第に獲得してゆく時期は、金融にあっては昭和17年札幌に日本銀行支店設置されて以後のことであり、戦後の昭和25年頃に札幌の道センターとしての地位が確保されてゆくが、その経緯については後章に触れるところである。(p.28-29)


幌内鉄道が札幌にもたらした経済的な効果はかなり大きなものだったということか。

ここの記述で違和感を感じるのは、小樽商人に商圏を追い上げられ奪われた、という趣旨の叙述である。札幌ができた時から一貫して小樽の方が人口が多かったはずで、小樽商人が札幌を「追い上げた」というのは当たらないのではないか?むしろ、現在の状態を過去に持ち込んで解釈しているようにも思われる。



 明治37、38年の日露戦争の勃発は、札幌における近代的工場増設の一大契機となった。38年に大日本麦酒会社が設立され、全日本ビール産業の市場を独占するに至る。40年には帝国製麻会社による日本製麻業の地位を独占する。この時代、札幌地区の工業生産額の全道比は30%内外を占め、札幌が工業都市としての機能の充実発展と地位の確立が明確になってゆく。(p.34)


札幌は現在も2次産業が弱い町ではある。北海道の中では集中しているが、それがすなわち工業が盛んであるということを意味するとは限らない。その点に注意が必要と思われる。



 戦前、小樽はまさしく北海道の金融面の中心地であった。明治26年派出所としての設置に始まる日本銀行小樽支店は、発足当時朝鮮半島への金融の抑えとしての門司支店と並んで、樺太に対する金融上の拠点と言われた。日露戦争終了後の明治41年頃は、小樽は北海道で最大の商業都市であり、大正の初期青函連絡船の開通とともに少しはかげりが見えはじめたものの、第一次大戦では海運業や倉庫業が小樽商人の活況を支えた。「小樽は道内金融の中心として、一時期、小樽市内の銀行街は“北のウォール街”の異名をとっていた」(日本経済新聞社編『日本都市シリーズ札幌』P.165参照)こともある。
 しかし第一次大戦後、室蘭港の発展とともに石炭積出港としての機能も小樽から室蘭に移り、北海道唯一の物資流通拠点港としての地位も函館に脅かされるに至る。
 そして昭和17年、戦中の統制経済の実施とともに、著しく数多くの行政官庁が札幌市に設置されるとともに、それらの連絡その他の理由により札幌市に日銀支店が設置されるに及んで、自から各種の金融機関の札幌市集中がみられるようになる。かくして札幌市は北海道の金融上の中心都市となった。(p.43)



青函連絡船ができたことは、函館の流通拠点としての機能を高めるため、小樽が独占的に占めていた地位が相対的に下がったということか。また、室蘭との石炭積出港としての競合については、明治44年、室蘭港に石炭積出用海上高架桟橋が建設されていることが注目される。北海道の主要港湾の歴史を並行して眺めてみると北海道の流通の歴史がかなり見えてくるかもしれないと感じる。



 島判官の本府建設構想のイメージは、『新札幌市史』によれば、「おそらく近世の城下町を考慮にいれての構想と思われ」、「特に土塁で区切られているとはいえ、民地を本府に隣接して本府区域内に配置する構造は、島判官の出身佐賀藩の城下町である佐賀の都市構造に類似している」とされる(第二巻通史二、32頁参照)。(p.45)


城下町の配置となっているという見方は他の本でも指摘されていたが、島判官の出身地佐賀と類似しているというのは、興味深い。


北海道近代建築研究会 編、角幸博 監修 『札幌の建築探訪』
永山武四郎邸

 明治13(1880)年ころに自邸として建設し、西正面外観は主に洋風意匠が施されているが、玄関の基礎だけがほかより低い和風の特徴を持つ。基壇に軟石を用い、木部も寒冷地用に工夫されている。
 内部は、接客スペースに特徴があり、特に部屋の出入口額縁と洋風装飾は表裏異なったデザインで、素材、縦横比、配置など独特の表現をしており、その堂々とした様は目を引く。この装飾を境に書院座敷と洋風応接室が接続し、座敷の床はより高く、天井は逆に低くなっている。洋風応接室から見ると、まさに「洋」の額縁を通じて書院座敷の「和」を見るという趣向である。こうした特徴は、住宅史の上で過渡期の和洋混成として重要な価値がある。(p.40)


ここは何度か訪れたことがあるが、玄関の基礎が低くなっていることには、今まで気づかなかった。応接室から段差で高くなっている和室を見ると、額縁を通じて眺めるような形になるというのは、確かにこの建物の見どころの一つかもしれない。



札幌カトリック司教座教会堂聖堂

 外壁の黄色味帯びたスクラッチタイルは、その名の通り引っ掻き傷のようなざらざらした感触のタイルで、昭和初期の建築でよく採用された建材の一つだ。(p.42)


スクラッチタイルが昭和初期によく採用されたというのは、今後も注目してみたい。確かに、これまで国内の近代建築でも見たことがあるような気がする。



杉野目宅

 円山、山鼻地区には、旧北海道帝国大学の教授たちのモダンな住宅が少なくない。(p.58)



なぜその界隈に多いのか?札幌の街がどのように展開してきたかを把握することで理解していきたい。



北大交流プラザ エルムの森

 明治33(1900)年に現農学部本館の場所に時計塔をもつ木造2階建ての農学教室が建ち、続いて動植物学教室、農芸化学教室、昆虫学及養蚕学教室、農業経済及農政学教室、図書館・書庫が建築された。これらキャンパスの設計を担当したのは、東京帝国大学建築学科を出て間もない文部省技師中條精一郎中庭を囲む校舎配置は、当時の日本国内では珍しいアメリカ式のキャンパス計画であった。
 ……(中略)……。
 旧昆虫学及養蚕学教室は屋根が瓦葺きからトタンに変更され、内部では天井が下げられたことを除いて、ほとんど当時のままの姿だ。(p.80)


北海道大学のキャンパスの正門から農学部あたりの配置を見ると、確かに、中庭を囲むようなプランが今でも透けて見える。これもアメリカ式だったとは。北海道の開拓にあたってはアメリカの技術などが様々に取り入れられたが、この時期(明治後期)になってもアメリカ式のキャンパス配置が採用されたというのは興味深い。



北海道大学出版会

 旧図書館は大正3(1914)年に両翼が若干延ばされ、昭和26(1951)年には、西隣にあった理化学教室の講堂を移築して、正面玄関部分を増築しているものの、往時の雰囲気をよく残している。(p.81)


玄関部分は移築したものを継ぎ足したようなものか。なるほど。不思議な姿の理由が分かった気がする。



琴似屯田兵屋

しかし、建築の技術で注目すべき点は、小屋組にキングポストトラスを採用したことであり、わが国の洋風小屋組の極めて早い例である。(p.104)


この建築は、明治7年のもの。キングポストトラスとは、本書の解説によると「山形構造の中央に垂直材(真束)のあるトラス(三角形の集合形式に組まれた構造)」だが、トラス構造は明治期の北海道の木造建築(鰊番屋の類)の小屋組でよく見かけるものでもあり、これがどのような経路で入って来たものなのか、非常に興味がある。



新琴似屯田兵中隊本部

 中隊本部の建物は、ほかに江別市に野幌屯田兵第二中隊本部(明治17年ころ)が現存する。玄関ポーチとその装飾、小屋裏の構造は本建物とよく似ている。(p.108)


新琴似の中隊本部は行ったことがあるが、野幌にもあるとは知らなかった。調べてみると4月末から11月初め頃まで週末(土日祝)に公開しているらしいので、来年にでも行ってみたい。



札幌中央郵便局

 今でこそ大通公園は1丁目から12丁目まで、一帯の公園として広く市民に認知されているが、2丁目だけは昭和37年に郵便局舎が解体されるまでは公園でなかった。正確にいうと、南側3分の2が道路で(昭和30年代はバスの駐車場になっていたが)、北側3分の1を郵便局が占めていたわけである。(p.135)


大通公園にもいろいろな歴史がある。



 つまり、大通の北側は、お役人やお雇い外国人、それに学生たちがフロンティアスピリットについて英語で熱く語り合った英語圏であり、南側は、新天地に夢を託して移住してきた庶民が開拓の苦楽を語り合った日本語圏であったという見方ができる。(p.161)


大通より北の官庁街、文教地区、南の商業、居住地区といった分け方で紹介されることが多い区画について、英語圏-日本語圏という対比にしてしまうところはなかなか独創的。ただ、ややイメージが先行しすぎてしまっている感はある。



 昭和47(1972)年、札幌で開かれた冬季オリンピックを機に札幌は大きく様変わりした。(p.161)


確かに地下鉄やそれに付随する地下街など、現在に続く「近代的な札幌」の骨組はここでできたと言っても過言ではないかもしれない。



 札幌の街の建て替えがどんどん広まったのは、昭和33年の博覧会あたりがきっかけだったのだろうか。その頃までの住宅は戦前からのものが多く、二戸建、四戸建などの長屋がたくさんあった。(p.162)


なるほど。オリンピックによる近代化の背景には、戦後の官庁(出先機関等)の集中、高度成長期の人口流入等があると見た方がよさそうだ。