アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

NPO法人さっぽろ時計台の会 編集 『札幌時計台創建135周年記念 札幌ものがたり 札幌のあゆみを知る』(その3)

札幌農学校は明治40年に農科大学として大学昇格を果たしたが、分科大学ではなく独立した帝国大学となることが課題として残っていた。明治44年1月に東北帝国大学理科大学が設置され、九州では分科大学も複数設置されたのに対し、北海道ではこの時点で東北帝国大学からの独立も実現しなかった。北海道帝国大学設立の運動が展開されたが、大学独立問題が具体化したのは大正5年に東北帝国大学医科大学が創設されたことを契機とした。札幌の農科大学が独立しても東北帝国大学の維持には支障がなくなったためである。(p.111)


帝国大学は複数の学科を持たなければならないという縛りがあったことが、東北と北海道の帝国大学設置に関して非常に大きな意味を持っていたことがわかる。



 大通公園の西端を締める姿で西13丁目に札幌市資料館が建っている。堂々とした洋風建築だ。面積は2階建で1637平方メートル。黒ずんだこの建物は大正15年にできた札幌控訴院であった。……(中略)……。
 戦後の昭和22年に札幌高等裁判所と名を変え、昭和48年に札幌高裁・地方裁判所庁舎(大通西12)に移った。……(中略)……。
 高等裁判所が去ったあと、折からの都市化の波に乗って大通公園を円山まで通すために解体すべきだとか、札幌市教育会館の別館にしたらいいなどという声もあがったものの、結局、札幌市資料館として保存活用することに落ち着く。(p.114)


時計台移転論に決着がついたのが昭和41年であったが、こうした歴史的建造物の解体や保存などの問題が比較的近い時期に起きていたということが興味を惹く。こうした札幌の動きが、小樽運河の保存運動の時期とも概ね重なるということについては、前のエントリーで述べた通り。



 昭和初期という時代は、4年に世界大恐慌が起こり「大学は出たけれど」という言葉が流行るなど深刻な不景気に見舞われた時代であった。こうしたなか、政府は外貨獲得のため観光収入に注目し、昭和5年、鉄道局に国際観光局を設けた。同局は海外宣伝用映画の制作、海外事務所の開設、国立公園指定、そしてホテルの新設、改造の推進と資金の斡旋等の事業を展開していく。(p.120)


昭和初期に旅行ブームがあったことと、国際観光局の設置との関係はどのようなものだったのだろう。恐らく、旅行ブームの流れができてきた中で、国際観光局を置くことで政府としてはその流れを促進しようとした、という流れで理解した方がよさそうに思う。



 大演習と行幸という国家的大行事は札幌へ大量の人の移動をもたらし、多額の国費が投ぜられ、不況下にあった札幌に非常な経済的効果をもたらした。
 札幌市はこの機をとらえて、12年通水予定の上水道工事をはじめ道路や橋の工事、市役所庁舎の新築、札幌飛行場の改良工事等々の新都市計画を実現することができた。往時の記念碑が大通西5丁目の聖恩碑である。(p.121)


昭和11年の陸軍特別大演習で昭和天皇が札幌に来たことにより、都市基盤の整備が促進され、不況対策としての効果を持ったということか。なるほど。



 北海道ではマイクロウェーブ建設工事の完成が31年8月と予定されていたため、NHKは30年10月に札幌にテレビ放送局を建設する計画を立てた。視聴範囲を広げる目的から手稲山頂に設けるべきとの北海道電波管理局の意見もあったが、名古屋の例に倣い展望台を併設した塔高120メートル、幅(脚間)35メートルの鉄塔を大通西1丁目に建設するというものだった。工事は31年6月に着工し、翌32年8月に竣工した。設計者は、塔博士の異名をもつ建築構造学者の内藤多仲。名古屋のテレビ塔も大阪の通天閣もそして東京タワーもこの人物の設計による。(p.140)


名古屋テレビ塔(昭和29年竣工)、通天閣(昭和31年竣工)、東京タワー(昭和33年竣工)と札幌のテレビ塔はいわば兄弟建築のようなもの、ということか。



 今日の制度として都市間の交流が促進されるようになったのは第二次世界大戦後のことである。アイゼンハワー米国大統領が1956年に提唱したピープル・ツー・ピープル・プログラム「国民対国民の交流計画」が契機となったといわれる。
 我が国で最初に姉妹都市提携を結んだのは被爆地・長崎であった。昭和30年のことである。札幌市が初めての姉妹都市提携を結ぶ昭和34年11月までの間に、33都市が姉妹都市提携を結んでいたが殆どが米国の諸都市との間で結ばれていた。
 ……(中略)……。
 都市交流に求められているのは、互いの経済上の利点ばかりではなく、異なる文化・価値観に触れることで、寛容な社会を形成していくことなのではないだろうか。(p.142)


姉妹都市提携が冷戦期の産物だったとは知らなかった。アメリカの都市との間で提携が結ばれるものが初期には多かったというのは、大統領の動きを受けて、アメリカの都市が動き始めたものが多かったからであろう。被爆地である長崎が最初に姉妹都市提携を結んだというあたりも、アメリカ側がこの制度に込めた意図が示されていると思われる。被爆地というアメリカに最も反感を持ってもおかしくない都市を、自らの側に親近感を持つ方向に引きつける、という意図である。

外交とは、味方を増やし、敵を減らすことによって、自国の立場をより強くするべきものだと考えれば、外交の戦略としては、非常に理に適ったものと言える。こうした動きは、冷戦期のアメリカにとっては、東側の陣営に日本が渡ってしまうという危険を少しでも減らす方向に作用するものと言えるからである。


スポンサーサイト
NPO法人さっぽろ時計台の会 編集 『札幌時計台創建135周年記念 札幌ものがたり 札幌のあゆみを知る』(その2)

 草創期の札幌では、創成川沿いに屋号が○八の宿屋と秋田屋という2軒の宿屋が現れたように、旅人宿は創成橋や豊平橋界隈に集まっていた。それは、陸路にしろ水路にしろ主要な交通路の要であったということだ。しかし、鉄道が登場すると次第に停車場付近に集まるようになった。(p.82)


宿の位置(の変化)から、交通の流れ(の変化)を読むというのは、他の地域でも応用できそうだ。



 草創期の本府の用品及び商品は小樽から篠路を通り琴似川を遡って届けられていた。このため札幌、石狩、小樽間の水路の中継点として開かれた篠路と札幌を結ぶ陸路の必要性は高かったのである。(p.84)


明治6~7年にという比較的早い時期に伏古川に沿って延びる道(かつて丘珠街道とか篠路街道と呼ばれた現在の道道273号線)が開かれた背景。



 明治初期の札幌の学校を俯瞰してみると、明治4年に官立の小学校資生館が開校し、周辺の村落でも白石村では善俗堂が手稲村では時習館が開校するなど初等教育の立ち上がりは早かった。そして明治9年には高等教育機関である札幌農学校が開校している。北海道で最初の中学校が誕生したのはそれからやや間をおいた明治24年のことである。これは明治政府が当初、初等教育機関と専門性の高い高等教育機関の成立を最重要視し、中等教育は後回しになったことの表れともいえる。(p.86)


限られた資源を使う順序としては、初等教育を広く受けさせることと高等教育で専門的な技能を持った人材を育成するということに力点を置くのは理解できる。ただ、北海道以外の地域でのタイムラグと北海道との差はどれほどだったのかが気になる。



 拓銀設立の目的は、「北海道ノ拓殖事業ニ資本ヲ供給スル」(拓銀法第一条)ことであった。府県の農工銀行との最大の違いは、拓銀には、農工銀行や勧業銀行にはない総合的な金融機関としての幅広い金融活動が認められたことであった。拓銀は道外の潤沢な資金を供給する窓口となった。
 大通東1丁目で開業を迎えたが、業務の進展に伴い手狭になってきたことと、札幌の中心地が創成川付近から4丁目一帯に移ってきたことから、明治42年4月、大通西3丁目に木骨・外壁石造2階建ての本店1号館に移った。(p.90)


銀行の立地と市街の(経済活動の)中心の推移の関係も興味深い。



その間、大改修などが行われたのだが、高度成長時代に危機に見舞われた。時計台移転論である。幸い昭和41年に市議会で現在地永久保存の決議がなされて決着がついたが、時計台愛護のために時計台をまもる市民の会(現NPO法人さっぽろ時計台の会)が生まれたのは昭和50年であった。(p.93)


時計台は札幌農学校があった場所に残る唯一の遺構という意味合いも持っている。その意味で、現在地永久保存という決議はその意義を踏まえているように見受けられ、先見の明があったと思う。

興味を惹かれるのは、昭和41年は隣町である小樽で小樽運河論争が始まる契機となった埋立の決定がなされた年でもあるということである。そして、昭和48年から近隣の木骨石造倉庫の解体が始まり、その頃から市民団体が立ち上がり始めたという流れがった。札幌の市民運動はそれより2年ほど遅れて始まっているようだが、小樽運河の危機を見て、時計台にも同じことがあるかも知れないという危機感を持ち、同じように動き始めた札幌市民がいたということなのかもしれない。直接の因果関係がないとしても、共時的に事態が進行しているところが大変興味深い。時計台の保存運動などについても、もう少し詳しく知っておく必要がありそうだ。



 帝国大学の最低条件として複数学科の設置が必要であった。このため、農学校を東北帝国大学の一分科大学とするという考えから、北海道の運動は東北の運動と密接に結びついていった。39年5月に発表された北海道事業計画の中で、大学設置問題がまた、北海道拓殖計画上に位置づけられたことによって設置運動は勢いを増した。大学設置の理由はいくつか掲げられたが、その主なものは北海道産業・事業発展のための人材養成であり、大学による人材の吸引力であった。
 この頃、大学設置に関する問題は財政面のみであったといわれていた。そこに足尾鉱毒事件で非難を浴びた古河財閥から大学建設に多額な寄付が行われたのである。これにより仙台に東北帝国大学を、札幌に農科大学を設置することが決まった。(p.95)


仙台に理科大学、札幌に農科大学という分担で複数学科が設置された経緯は、帝国大学には複数学科の設置が必要だという条件が大きく効いていたわけだ。古河財閥からの寄付があったことは、現在も北海道大学構内に残る古河講堂が物語っているが、この時の寄付が大学への昇格を可能としたということか。だとすれば、古河財閥の寄付は、北海道大学の歴史にとっては非常に画期的な事実だったということになる。



 札幌で製麻は比較的早くから行われていた。慶応年間には大友亀太郎の御手作場にはロシアから麻種がもたらされていた。……(中略)……。亜麻は麻類のうち最も高級な繊維でその用途は極めて広い。道庁の保護の下、明治20年札幌に北海道製麻会社が創立した。同社は、わが国最初の亜麻を原料とする会社となった。……(中略)……。
 製麻は当初から軍需への依存度が強かった。日清戦争は同社を飛躍的に発展させたが、軍需に依存するあまり戦後になると不況に陥り、業界の再編が進められた。(p.97)


今から考えると意外な産業が軍需と関連があると聞かされ驚く。札幌でも早くから行われていた割には話題になることが少ないように思われる。


NPO法人さっぽろ時計台の会 編集 『札幌時計台創建135周年記念 札幌ものがたり 札幌のあゆみを知る』(その1)

 明治3年7月、中山峠を経由する有珠-札幌間103キロの道路開削工事が始まった。施工は東本願寺で新門主現如上人自らが指揮をとり、総経費は1万8057両、使役人員は延べ8万5300人で明治4年10月に完成した。通称「本願寺道路」、現在の国道270号[sic]である。
 東本願寺は徳川家と古くからの関係があり、鳥羽・伏見の戦いが始まった頃には薩摩・長州軍による焼き討ちを恐れていたほどだった。このため新政府に誠意を示すため、信徒の力によって北海道開拓を援助することを決め、明治2年6月新道開削、移民奨励、教化普及の3項目を掲げて政府に請願した。(p.47)


本願寺が明治以降の植民地開拓・支配に積極的に加担してきたことはしばしば目にしてきたが、その動機ないし利害関心の歴史的背景がこの叙述で理解できたように思う。

なお、本願寺道路は現在の国道270号となっているが、これは誤りで、国道230号が正しい。



薄野遊郭は、開拓の職人、人足の足止め策として官主導によって設けられたのである。(p.48)


これと同様の記述は札幌の歴史について調べるなかでしばしば目にしてきたが、『戦後性風俗大系』が指摘するように、戦前の日本社会は「売春公認」の社会だったということの一つの認識根拠と位置づけることもできるように思われる。



 この“札幌本道”は幅7~13メートルで両側に側溝を掘り、大小合わせて323橋を架けている。工事に従事した職工・人夫をはじめ関係者は延べ74万9000人、総経費84万3000円という巨費を投じて完成した日本で始めて[sic]の洋式馬車道だが、優秀な外国人技術者によって道路建設の技術と労務管理を教えられた記念すべき道路でもある。
 開拓使では、この工事に従事していた人夫1100人を札幌-銭函間の馬車道開削に回して明治6年12月に完成させた。明治2年12月の夜間、銭函と札幌とに烽火をあげ、火炎を目標に路線を定めて双方から伐木にかかったが途中の大湿地に阻まれて中止した道路である。これで札樽間の往来も可能になった。(p.49)


札幌本道が日本初の洋式馬車道であり、その工事に従事していた者が札幌-銭函間の馬車道も手掛けていたとは知らなかった。この馬車道は後の明治13年に手宮-札幌間の鉄道路線として使われるものであろう。



明治4年10月、政府財政の悪化で開拓使は厳しい予算制度をしいたのだが、積極財政をとる岩村はトップの座にある黒田の決済を受けずに、額外3万円の土木工事を独断で行った。……(中略)……。
 だが、こうした黒田を無視したともとれる岩村の独断は、黒田に対する公然とした批判であり、挑戦でもあった。
 明治5年10月11日、樺太、宗谷、根室、浦河、函館各支庁の主任官を招集しての会議が札幌で開かれた。各地のこれまでの実状を調査し、実地検査を行って将来の開拓方法を合議するという趣旨のものだった。しかし、この会議こそ、黒田と岩村に代表される薩摩と土佐の抗争に決着をつける舞台でもあった。
 大久保利通の片腕として国事に奔走する黒田に札幌本府常駐を求めると同時に、黒田の開拓次官の辞任を暗に求めているものだった。岩村はこれを草書にしたため、主任官らに署名捺印をさせて賛同を得、これをもって黒田に迫ることにしていた。
 ところが、会議3日前に札幌に乗り込んできた黒田はいち早く岩村の策動を察知し「余は病いのため会議には臨め得ず。よって会議は諸君らに委ねる」という内容の手紙を岩村に突きつけた。黒田は、自分の激怒ぶりを会議欠席という奇策で主任官らに知らせたのである。10月11日、会議場の次官官舎のガラス邸に定刻参集してきた主任官らは事態の急変に困惑し、任地へ戻ると言い出す。止むなく岩村は黒田を宿舎に訪ねるが、病気を理由に黒田は会おうとしない。岩村の再三の懇請に黒田はようやく顔を見せ、会議出席を承諾する。会議は予定通り開催されるが黒田は一言も発せず、岩村の草書は朗読も開陳もされずに終わった。翌明治6年1月17日、胆振巡視中の岩村に免官の辞令がとどいた。その他、岩村派と見られていた幹部も一斉に免官となった。そしてこのあと黒田は、同郷の薩摩出身者を続々と採用し“薩摩開拓使”を作りあげていく。(p.51)


岩村通俊と黒田清隆とが、それぞれ土佐と薩摩を代表しており、この対立の結果、薩摩が勝利したという。なるほど。この薩摩の勢力が後にはあまり目立たなくなって行くはずだが、そのターニングポイントなども知りたいところだ。



 この幅広の空地を多目的に利用しだしたのは明治8年ころからで、手はじめは花壇であった。人が集まり易い場所ゆえ農業仮博覧会や運動会場など各種の行事が催され、明治42年になって大通逍遥地として整備されていった。大正12年に都市計画法と道路交通法の適用を受けて公園と道路の二重の性格を持つようになり、14年には大通風致地区に指定された。しかし太平洋戦争中に公園機能を失い、食料事情の悪化で畑となる。戦後は塵捨場(雪捨場)の状態に。
 ……(中略)……。
 自慢でいえば、北海道拓殖銀行が寄贈した3丁目と北海道銀行による4丁目の噴水をあげておきたい。ここから眺めるテレビ塔(1丁目)の景観とテレビ塔の上から見下ろす大通公園はまことに美しい。(p.56)


大通公園の歴史。本書でも「札幌の顔」とされているが、札幌という街の成り立ちを考える際にも、非常に重要な位置づけにある場所であるため、もう少し掘り下げて知りたい場所ではある。



第2回の卒業式が終わってまもなく、演武場正面の屋上の鐘塔が時計塔に改築され、直径1.67メートルの文字盤を持つ大時計が取り付けられた。鐘塔は農学校の始業の合図のためのものだったが、大時計は市民に正確な時刻を知らせるものだった。(p.59)


札幌農学校の演武場だった現在の時計台。鐘塔から時計塔への変化は、この演武場という多目的ホールが単に札幌農学校だけのものではなく、札幌という街の人々のものでもある、という意味を持つことに(象徴的に)繋がるのかもしれない。



 開拓使ではケプロンの建言、あるいは意向を踏まえて現在の大通北1条東1丁目から東4丁目の三町四方を工業局管理地とし、米国から購入した水力・蒸気両機関を装置、アメリカから招いた機械技師の指導の下に木挽きから器械、器具製造などの器械工場を設けた。また、工業局管理地の北側隣接地には物産局管理地が設けられ、豆、麦などの農作物や農民の副業として栽培・飼育した麻や繭などを原料とする官営の加工工場が建設された。こうした生産物の工場供給で移住者の生活を安定させ、同時に海外や他府県からの移入を減らして北海道産物の移出・輸出力を増大させる、という計画だった。開拓使では40ヵ所以上の官営工場を設けたが、その半数以上が札幌に集中した。(p.60)


開拓使は官営工場を多数設けたが、北海道庁時代には政策の転換により民営化の方向になっていく。なお、土地の管理も部局ごとに管理地が決まっているシステムというのが興味深い。



豊下楢彦、古関彰一 『集団的自衛権と安全保障』

 さて問題は、安倍首相が安保法制懇を組織し、集団的自衛権の行使に向けて本格的な取り組みに乗り出したのが、温家宝首相の来日の当月であった、ということにある。これが意味していることは、安倍首相にとって集団的自衛権の問題は、必ずしも「安全保障環境の悪化」の問題と直接結びついてはいない、ということなのである。それでは、そもそも何が安倍首相を集団的自衛権に駆り立てるのであろうか。それは言うまでもなく、「戦後レジームからの脱却」という宿願を果たしていく上で、不可欠の課題であるからに他ならない。(p.ⅺ)


「安全保障環境の悪化」を口実として、集団的自衛権行使に向けての動きが進められているが、それは本当の理由ではない、少なくとも安倍晋三本人やそのシンパにとっては主たる理由ではない。このことは、安倍晋三とその周辺の人々に対して警戒感や違和感を持っている人であれば、ほとんどの人が感じとっていることと思う。人の意図がどういうものであるかを直接証明することは不可能ではあるが、言動の矛盾や内容からそれなりに推定することはできる。「戦後レジームからの脱却」というキャッチフレーズに表された安倍の情念から出ていると考えれば、あらゆる点で説明がつく。少なくともそれを否定するような材料を私は知らない。

経済政策で支持を得た上で、(日本における「戦後レジーム」を否定する)軍事力増強至上主義的な政策を進めていこう、というのが第二次安倍政権の基本的な方針であると見るべきであろう。




 ちなみに、「固有の領土」という言葉が改めて明記されたことで、学校現場では大いなる混乱が予想されるのである。なぜなら「固有の領土」とは、そもそも国際法上の概念では全くなく、「北方領土」という言葉を正当化するために日本政府がつくりだした「日本に固有の概念」であるため、学校の先生方には教えることが不可能だからである。例えば、尖閣諸島を含む沖縄が、いつから日本の「固有の領土」になったのか、教科書に責任をもつ文科省の官僚であっても、誰一人答えることはできないであろう(「固有の領土」の概念については、豊下『「尖閣問題」とは何か』第四章四節参照)。



安倍政権は2014年、竹島について「日本固有の領土」「韓国が不法に占拠」などと、教科書に明記することを決定したことに関するコメントより。

「固有の領土」なる言葉は、法的な概念ではなく、政治的な言葉であることは、特に詳しく聞かなくても分かる。明確な領土の概念は、西欧で誕生した主権国家の概念に付随して実現してきたのであり、少なくとも主権国家が成立する以前の地域には「固有の領土」などという言葉で指示できるようなものはないからである。主権国家が成立した後に「領土になった」のであれば、「固有の領土」とは言えないだろう。そのような矛盾がある言葉であるため、学校で教えることはできない、ということか。

ちなみに、安倍政権が上記のような内容を教科書に記載することを決定することは、学問としての歴史学に対する冒涜であり、教育に対する特定の政治的立場からの干渉であり、否定されるべき行為である。この行為を許すということは、安倍晋三とは全く思想信条が異なる首相が、この内容での記述をしてはいけないと決定することも許すものでなければならない、ということを保守派・右派(少なくとも安倍晋三に共感を持つ人々)は知っておくべきである。




 そもそも戦略性とは、単純化すれば、直面する諸課題をその重要性に従って区分けすることである。具体的には、最も重要な課題に外交的、政治的資源を集中させるために、副次的な課題については柔軟に現実的に対応する、ということである。とすれば、中国や北朝鮮の深刻な脅威に対処する上で、竹島問題はいかなる重要性を持つものか、それこそ戦略的に判断されねばならない。
 ……(中略)……。あるいはまた、『日経新聞』も竹島問題について、「島そのものにさほどの価値はない」のであり、日韓両国にとっては漁場の確保こそが問題である以上、この「漁業紛争という原点に戻れば歩み寄れるはずだ」と指摘した(2014年3月9日)。つまり竹島問題は、日韓の対立局面を緩和していける現実的な対処の方向が様々に存在するのである。
 ところが、安倍政権の竹島問題や歴史問題での“強硬路線”を受けて、第一章で指摘したように、韓国は韓米同盟を堅持しつつも中国に接近し、かつてない“中韓蜜月”が生みだされているのである。……(中略)……。
 国家が対外的な危機に対処するにあたり、「最大限見方を多くし最小限敵を少なくする」ことは戦略論のイロハである。それでは、中国という「強大な敵」に立ち向かおうとする時に、なぜ敢えて韓国を中国に“追いやる”ような路線が推し進められるのであろうか。なぜ、国際政治のイロハが理解されないのであろうか。つまるところ、この驚くべき戦略性の不在がどこから来ているかと言えば、それは安倍首相や彼の支持基盤の歴史認識の問題から生み出されている、と言わざるを得ない。(p.47-49)


妥当な指摘である。



 憲法改正案の原案は、米国ではなくGHQの手によるものであり、GHQの独断によって急遽、作成されたのである。しかしそれは天皇制を象徴として残し、そのために戦争を放棄する条項を加えて初めて成立した。(p.107)


日本国憲法は「アメリカに押しつけられた」という、いわゆる「押し付け憲法」論に対する非常に興味深い反論である。また、象徴天皇制と戦争放棄とは対であり、前者を実現するための政治的手段として後者が加えられたという経緯が手短に示されている。



 第二次大戦で日本と戦った連合国の多くの国々は、東京裁判で天皇が起訴されるべきだと考えていた。しかし、マッカーサーは、天皇制を残す憲法をつくることを望んでいた。ただし、天皇制をそのまま残すことには連合国の賛同を得られないと考え、政治権力を持たない「象徴」としての地位と引き換えに、軍事戦略として日本が二度と戦争をしない保障として「戦争の放棄」を憲法で定めることを考えたのである(通称「マッカーサー三原則」)。
 ……(中略)……。
 しかし、軍人であるマッカーサーが戦略を考えずに「平和憲法」をつくるはずはない。マッカーサーは、天皇を政治権力を持たない「象徴」として残し、本土に戦争放棄と戦力不保持の憲法を制定し、これによって連合国の合意を得、そのうえで沖縄を米軍の強固な軍事基地にすれば、外国――当時はソ連であった――が日本本土に侵略しても、沖縄から米空軍を発動して本土の平和は護れると考えていたのであった。(p.113-114)


マッカーサー三原則の内容は、しばしば目にすることがあったが、沖縄の基地化までセットとして見る見方には、目を見開かされた思いがする。



 もちろん、ベトナム戦争も議会の承認なしに行われていた。それが合衆国憲法の権力分立にかかわる問題であることは言うまでもなく、そうした背景から1973年に戦争権限法が制定されることになった。
 同法は、大統領は議会の開戦宣言がないままに米軍による武力行使を行った場合、60日以内に議会の事後承認を得られない場合は、米軍を撤退させなければならない、という内容である。
 ここで、日米安保条約、なかでも五条の日本防衛義務、さらには周辺事態法(1999年)の定める自衛隊による米軍への後方地域支援義務が問題となる。……(中略)……。
 ……(中略)……。つまり、米大統領が、60日以内に議会の承認を得られないと判断して、日米の共同防衛作戦中に米軍が撤退を始めたとき、周辺事態法に従って後方地域支援に従事していた日本の自衛隊(あるいは国防軍)は、どうするのであろうか。(p.162-163)


アメリカ一辺倒の日本の保守派が検討すべき最大の問題かも知れない。



この湾岸戦争に際し、日本は90億ドル(最終的には135億ドル)もの巨額を拠出しながら、当のクウェートからは、いかなる「感謝」も受けられなかった。
 だが現実には、クウェートが日本を無視したのは当然のことであって、日本の支援額1兆1700億円のうち同国に渡ったのは6億2600万円にすぎず、九割以上は米国に流れたからなのである(『日経新聞』2014年4月27日)。とはいえ、「カネだけ出して汗も血も流さない」とのトラウマを日本は抱え込み、その後の「国際貢献」論に拍車がかかることになった。(p.192)


この事実はもっと広く知られるべきだ。



……(前略)……要するに、レーガン政権下の1983年頃から、ブッシュ・シニア政権下でイラクのクウェート侵攻が行われた前夜まで、イラクの穀物輸入に関わって米国政府が供与した総額50億ドルにものぼる債務保証をフセイン大統領が化学兵器開発や大量の兵器調達に充てていた、という一大スキャンダルなのである。
 事件の背景には、1980年に始まったイラン・イラク戦争があり、ホメイニ革命のイランに敵対するイラクを米国は「重要な友好国」と位置づけることになったのであるが、皮肉なことにその契機は、後に国防長官としてイラク戦争を指揮することになるラムズフェルドがレーガン大統領の「特使」として93年末[ママ]にフセイン大統領を訪問したことであった。……(中略)……。
 問題は米国だけではなかった。1988年にまで及ぶイラン・イラク戦争の最中、さらには戦争の終結後も、サッチャー政権下の英国、フランス、旧西ドイツ、旧ソ連などの軍需産業にとってイラクは格好の「兵器市場」となり、最新の軍事テクノロジーや関係資材、「二重用途」(dual use)の製品などが、文字どおりなりふり構わず売り込まれたのである。……(中略)……。
 要するに湾岸戦争とは、イランに侵攻した侵略者であり、米国務省でさえ「世界における最も野蛮で抑圧的な体制」と見做していた独裁者フセインが率いるイラクに対し、「兵器輸出諸大国」が膨大な可燃物資を売りさばき、その結果モンスターと化したフセインが大火事(クウェート侵攻)を引き起こすと、モンスターを育てた自らの責任は棚上げにして、「共同で消化に努めるのは国際社会の責務だ」と、恥ずかしげもなく言い募った戦争にほかならないのである。
 ……(中略)……。
 「イラク・ゲート」事件で明らかなように、日本はトラウマどころか全く逆に、フセインに対して一切の兵器を供与しなかったことに“誇り”を持つべきなのである。ところが、湾岸戦争の本質が、諸大国のなりふり構わぬ兵器輸出にあったという厳然たる事実があるにもかかわらず、それを無視し、その愚を繰り返そうとするのが、安倍政権が踏み切った武器三原則の撤廃に他ならないのである。(p.192-195)


「イラク・ゲート」事件発覚後の湾岸戦争に対する評価。

湾岸戦争とイラン・イラク戦争が地続きだという理解は重要。そして、この「地続き」となる媒介は諸大国による兵器輸出、イラクの武器市場化だったということ。アルカイダを育てたのもアメリカ、というのと構図的にはほぼ同じようなものだろう。


なお、引用文中に[ママ]と表記した部分は93年と書いてあるが、83年の誤りと思われる。




広岡敬一 『戦後性風俗大系 わが女神たち』

戦後性風俗年表1

昭和20年(1945)
8月15日 終戦
8月18日 警視庁は、進駐軍兵士のための慰安設備について花柳業界代表と協議内務省は、各地方行政に進駐軍慰安設備の確保を指令
8月19日 東久邇内閣の副総理近衛文麿は、警視総監に日本女性の操を進駐軍の毒牙から守るよう依頼。
8月26日 花柳界代表が「特殊慰安婦設備協会」(RAA)の設立を決定。資本金一億円のうち5,500万円は国の保証により勧業銀行が支出。
8月27日 RAAは占領軍兵士の性的慰安設備として、大森海岸に料亭「小町園」を開業占領軍の進駐に先立つ三日前のことである。
10月22日 GHQの要請で、東京都は日本人売春婦に対する「性病予防規則」を制定。戦後都政が発令した第一号条例となる。(p.8)


第二次大戦が終結し、進駐軍が来るまでの間と来た直後、これほどまでに迅速に日本の(中央及び地方)政府が動いていたことに驚いた。

従軍慰安婦問題に関連して、最近韓国で「米軍慰安婦」の問題も出て来たという話から、「米軍慰安婦なら日本にもいた」という話を目にした(そのことが本書に書かれているということで、本書を手にとることになった)。本書のしょっぱなの年表から、それらしい話で埋めつくされていることに本当に驚いた。



 いま従軍慰安婦の問題がアジアの諸国から激しく批判されているが、その是非はともかく、こうした詮議に往々にして欠落しがちなのが時代背景だ。もともと日本は歴史的には“売春公認”のお国柄であった。江戸の昔から“遊廓”があったし、戦時中には占領下の国々に、“慰安所”があった。強制的かどうかを別にすれば、それまでは「売春は罪悪」という時代ではなかったのである。(p.9)


確かに、歴史を見る際には、その時代のその社会における考え方というものを内在的に理解することは非常に重要である。その点、戦中戦前の日本社会には、売春が女性の人権を蹂躙する行為であるといったような捉え方も十分に広まっていなかった、ということについて、これが事実であると呼べる蓋然性は高いと判断できる。

従軍慰安婦問題に対する国外からの批判の基本線は、現在の人権意識に照らして「過去の日本軍の行為が許し得ないものである」と評価しているところにあると思われる。この評価自体は誤っていないと私は考えるが、筆者の主張を私が展開すれば、「現在の人権意識に照らして許されないとしても、当時の価値観でそこまで求めるのは無理があった、ということは理解して――ほんのわずかなものになるだろうが――、相応の情状酌量はしてほしい」といった評価につながる。歴史的な客観性という観点から見ると、この評価は妥当なものと思われる。

日本国内向けの議論では、「強制連行」が朝鮮半島で行われた証拠は見当たらない、ということをもって、強制的ではなかった(だからそれほど悪いことではない?)などといった主張が一部で行われているように見える。これは完全に的が外れているとしか言いようがない。さらに、国内でも国外でも、この議論はナショナリズムと結びついた状態で叫ばれているため、性質が悪い。



 戦争終結から10日後、街の看板と新聞に募集広告が出た。
戦後処理の国家緊急施設の一端として駐屯軍慰安の大事業に参加する“新日本女性”の率先参加を求む。女子事務員募集、年齢18才以上25才まで。宿舎、被服、食料全部当方支給」
 広告主は、銀座に本部を置くRAAという団体だった。実体は分からないが、「就職できたとしたら夢みたいな話だわ」とメアリーは面接会場を訪れた。一日の応募者300人以上。RAAという団体は、じつは「特殊慰安婦設備協会」の略称で、募集事務員とは“進駐軍専用の娼婦”のことだったのである。そのことを面接で知らされると、大半の女性は驚いて立ち去った。ところが、困窮の極にあったメアリーは、あえて慰安婦の道を選ぶ。(p.11-12)


「娼婦」を「事務員」と呼ぶのは、明らかに虚偽と言ってよい。終戦直後は、未亡人や夫がいつ引揚げて来るかわからない中で子どもや親族の面倒を見なければならないような女性が多くいた。その困窮状態につけこんでいる点で、彼女たちの行った「選択」は、ある傾斜の中で行われたものだったと言うべきだろう。



 RAA経営の慰安所は、「小町園」を皮切りに、東京だけで25ヵ所。それを含めて全国の公的な慰安所は、約45ヵ所。慰安婦の数は東京で1,360人、全国では4,000人を超えた。
 国策売春の目的は、日本女性の純潔を占領軍兵士から守ることにあったが、それでも基地周辺では米兵による強姦が頻発した。神奈川一県に絞ってもその被害者は、年間300人以上。全国ではおよそ1,000人と推定される。しかし、この種の事件は、新聞では報道されなかった。報道記事は占領軍総司令部の検閲下に置かれており、不都合な記事はすべて差し止められたからである。
 RAA経営の公的慰安所は、日本女性の純潔を守る防波堤にはならなかった。戦災でわずかに焼け残った吉原、鳩の街など、都内の民間の遊廓にも米兵が進出しはじめたのだ。(p.18)


米兵による強姦というと、沖縄を想起してしまう。ここには連続性がある。


藻谷浩介、NHK広島取材班 『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』

 このように、中国地方では太古から戦後まもない頃まで、山から得た資源を徹底して活用する知恵を絞り、山を中心にして地域の経済を成立させていたのである。
 それを破壊したのが、戦後、圧倒的な物量で海の向こうから押し寄せてきた資源であった。特に石油はとても安く、便利で使いやすいため、爆発的に利用が拡大。木炭に取って代わるのにそれほど時間はかからなかった。
 そこに追い打ちをかけたのが、1960年に始まった木材の輸入自由化。そして、木造住宅の需要の低迷。(p.41)


『バナナと日本人』『エビと日本人』『かつお節と日本人』などからも、1960年代に様々なものの輸入が自由化されていたことがわかり、そのことが意味することについて私は関心を持っているのだが、木材もそれらより少し早い時期にすでに自由化されていたことを本書で知り、さらに興味を刺激された。



 労働市場でも、ペレットは、ガスや原油にはない、大きな可能性を生み出した。そもそも原油や天然ガスの輸入ばかりしていては、雇用はほとんど増えない。
 ペレットやそれを利用したボイラーの生産技術は、オーストリアが他国の二歩も三歩も先を進んでいる。他国にはない産業を育てれば、当然、関連技術も自前で育てることになり、労働需要が高まる。(p.77)


なるほど。もう10年以上も前になるが、私の大学の後輩がペレットのエネルギーやエコロジー的な観点などからの意義について関心を持っている者がおり、私はペレットというものをその人を通して知った。大規模のエネルギーの代替として考えるにはあまりに小規模のものだと当時は感じていたのだが、本書を読み、その可能性の広がりについての認識が深まった。

関連技術の開発とそのための労働需要の創出、そして、その技術を産業として売り出していくことによる収益。こうしたものがあればあらゆる問題が解決するという訳ではないが、あるかないかの違いが持つ意味は小さくない、ということ。10年以上前に関連した話をしばしば耳していたからこそ、本書から啓発を受けることができたのではないか、と思う。やはりいろいろな人との議論や意見交換などをすることは重要だ。



 オーストリアは、世界でも珍しい「脱原発」を憲法に明記している国家である。1999年い制定された新憲法律「原子力から自由なオーストリア」では、第二項で原発を新たに建設することと、既に建設された原発を稼働させることを禁止している。ちなみに第一項では核兵器の製造、保有、移送、実験、使用を禁止している。つまり、オーストリアは、軍事利用であれ、平和利用であれ、原子力の利用そのものを憲法で否定している数少ない国の一つなのだ。(p.88)


これは知らなかった。オーストリアはまだ行ったことがないが、関心が高まった。機会があれば、ぜひ行ってみたい。



 日本では、国にできないことを先に地方からやってしまうことが、コトを動かす秘訣なのだ。(p.137-138)


確かに。劇的に一気に社会を変えることは容易ではないが、比較的小さな地方で有益な事例をつくり、それを広めていく中で一気に展開するということもしばしばある。



 このように物々交換というのは奥深い。特定の人間たちの間で物々交換が重ねられると、そこに「絆」「ネットワーク」と呼ばれるものも生れる。(p.143)


なるほど。金ではなく物を交換することは、単なる経済的行為ではなく社会的なネットワークを生み出すことにも繋がる。相手が必要なものを知っている方が物々交換は有効に機能するから、自分自身も交換相手に自分のことを知ってもらうことが有利になる。お互いが共に自己開示しながら相手のことを考えつつ必要なものを与え、さらにそれに対するフィードバックをしていくという経験を重ねていけば、自ずとコミュニティの結び付きは強まる。

価値の共通基盤としての金だけを流通させていくマネー資本主義が、こうした社会的なネットワークを破壊する方向に作用するのと対極的である。



 筆者は、今日本人が享受している経済的な繁栄への執着こそが、日本人の不安の大元の源泉だと思う。(p.251)


なるほど。鋭く深い洞察。



 ところで全体の繁栄が難しいということになると、誰かを叩いて切り捨てるという発想が出て来やすい。官僚がけしからん、大企業がけしからん、マスコミがけしからん、政権がけしからんと、切り捨てる側の気分で叩いてきたが、そのうちに、「自分こそが、そのけしからん奴らから巧妙に、切り捨てられている側なのではないか」と疑心暗鬼になる人が増えてきた。特に日本人の四人に一人を占める高齢者には、経済社会の一線を退いた結果として、世の中から置き去りにされるのではないかという危惧を抱く層が多い。やりがいのある定職を持てない若者も、自分は置き去りにされているという実感が強いだろう。これが不満となり、さらにはその不満を共有しないように見える(うまい汁を吸っているのではないかと思われる)一部の日本人に対する不信、日本を叩くことで自国の繁栄を図っているのかもしれない(!?)周辺国に対する不信となって、蓄積され始めた。(p.252)


現代日本の社会に漂う空気をうまく捉え、分析している。

全体の繁栄が続くという認識が持てなくなる中で、それに執着してしまうことから不安が生じ、その不安を解消するために「全体」が繁栄できないならば、せめて「自分の側」は「繁栄」を続けるには、誰かが繁栄から脱落してほしいし、脱落させるために叩きたくなる、というわけだ。そうしたバッシング系の言説が流布する機会が増えると、どんなに何かをけしからんと叩いても、自分の生活が改善するわけではない中でそうした言説を頻繁に耳にすることになるから、そのうち、自分が切り捨てられる側(被害者側)になっているかもしれないということに「気づく」わけだ。そこで被害者意識が昂じていくと、その不安を共有しない「自分とは別サイドにいる人びと」に対する不信や嫌悪が強く出てくる、というわけだ。ヘイトスピーチなどを行う人びとが共有する被害者意識は、まさにこのようなものであろう。

この分析は主にヘイトスピーチやネトウヨのような右派側に強くあてはまるが、リバタリアン的ないしネオリベラリズムな志向の人々(さらには比較的リベラルな人びとも)が共有する官僚バッシングにも当てはまる。



 さあいよいよ今度は日本全体が、切り捨てられる側になってきたのではないかと不安に思う層が増え、不安・不満・不信を共有することで成り立つ疑似共同体を形成し始める。そういう種類の疑似共同体に属することで本当に安心立命が得られるのかどうか、はなはだ疑問ではあるが、一度属して少しでも仲間とつながった感覚になると、そこからはじき出されるのはイヤだ。はじき出されないためには、不安・不満・不信を強調しあうことで自分も仲間だとアピールするしかない。つまり疑似共同体が、不安・不満・不信を癒す場ではなく、煽りあって高めあう場として機能してしまう。
 安倍首相も、不安・不満・不信を解消する力量のある人物というよりは、自分と同じ目線で不安・不満・不信を共有し、自分の側に立って行動してくれる人物として人気になる。
 これが選挙前に維新を押し上げ、そして選挙後には安倍氏への期待を高めている浮動票の意識、彼らに迎合した一部マスコミなどが形成している「世の空気」の構造だ。(p.253-254)


特に中国と朝鮮半島に対する排外主義的なナショナリズムが高まっている構造はこうしたところに求められるだろう。

そして、集団的自衛権の議論でも、安倍が人びとの不安を煽るもの言いを続けるのも、ある意味ではこうした構造についてある程度の自覚があるからだろう。



 しかし冷静に考えて欲しいのだが、過去20年間でみれば日本のGDP総額は増えていないが、減ってもいない。バブルの頃世界最高だった一人当たりGDPも、今では世界17位だというが、絶対額ではこの間も微増している。それどころか生産年齢人口(15~64歳)当たりのGDPを計算してみると、今でも日本の伸び率が先進国最高だという。経済的な繁栄の絶対的な水準は、まったく下がっていないのである。
 ……(中略)……。
 経済は「ゼロサム」の世界だと思っていて、「他国が繁栄したということは、その分こっちが落ちたのだ」と何となく思い込んでしまう人がいるようだが、まったくの考え違いだ。
 過去20年間に北京は、馬車や自転車が行き交う田舎町から高速道路と地下鉄が縦横に走る大都会に一気に変貌したが、東京がその陰で、牛馬で物を運ぶ社会に転落したわけではない。(p.258-259)


何となく人々が感じる「衰退感」に対してデータに基づき反論している点は妥当。ただ、人びとが感じる衰退感や不安は、データで示される「絶対的な水準」以上に他国との相対的な比較に基づく「相対的な水準」に基づく面がある点には留意が必要かもしれない。

バブルの頃には、アメリカと一部の西欧の国を除けば、日本と同じ程度の生活水準の国はほとんどなかっただろう。現在ではそうした国だけではなく、韓国や中国の相対的に富裕な層なども日本と同じかそれ以上の生活水準を享受するようになっている(と見える)。周辺で随一であると自認しているときに感じる優越感や自己肯定感が、かつて格下と見なしていたような社会が同列のものと見えるようになることで失われていく。「誇り」が盛んに言われるのは、そうした不安ないし不満が背景にある。この、ある種のゆがんだ喪失感への対応ももしかすると必要になってくるものではないかと思う。里山資本主義ではマネー資本主義とは異なる価値観を実現することによって、その点を乗り越えていると思うが、多くの人にそれが実感を持って共有されるまでの道のりは長いように思う。



 「しかし現に日本は震災を契機に31年ぶりの貿易赤字になり、さらに赤字が拡大しているではないか」と反論される方もあろう。赤字になったのはその通りだが、原因は原発事故を契機に化石燃料の価格が高騰し輸入が増えたからであって、輸出=日本製品の海外での売り上げが落ちたからではない。そのため、日本が赤字を貢いでいる相手は資源国ばかりであり、中国(+香港)、韓国、台湾、シンガポール、タイ、インド、米国、英国、ドイツなどに対しては、引き続き日本の方が貿易黒字である。つまり幾ら欧米や東アジアから稼いでも、丸ごとアラブなどの産油国に持っていかれてしまう状態だということだが、このあたりの数字を確認せずに、日本が新興工業国との経済競争に敗れた、中国(+香港)や韓国に対して赤字になったと早とちりしている人が学者、政治家、マスコミ関係者の中にもたいへん多いのには、筆者は本当に辟易している。
 しかも国際収支は貿易収支だけで決まるのではない。(p.264-265)


マスコミの情報を見聞きしている限り、このあたりの数字に接することなく言説だけが踊っているということは常々感じる。円安を進めることで化石燃料のために支払うために円がより多く必要になる金融緩和も貿易赤字の原因の一つと言ってよいのではなかろうか。(これは輸出が増えるはずの分と相殺する部分があるので、あまり触れられることがないのだろう。)



 確かに、際限なくお札を刷ればいつかは必ずインフレになる。……(中略)……さらなる金融緩和の末に突然に極端なインフレが起きるという可能性もある。
 ……(中略)……。
 インフレがそのように急激にではなく、緩やかに始まるという根拠はあるのかといわれれば、「リフレ論」にはそれを保証するほどの理論的成熟も実証データの蓄積もない。間違ってインフレが過熱したときにそれを制御できる方策があるのかと問うと、「現に日銀がこれだけ長期のデフレをもたらしているのだから、今度は日銀が金融引き締めをすれば簡単にインフレは収まる」という答えが返ってくるのだが、そもそも「今のデフレは日銀のせいである」という説が正しくない限りは、彼らの言う対策も効きそうにもない。これは結局、信じる人は信じるという話で、賛否の議論が「神学論争」と呼ばれるゆえんである。
 ただリフレ論の信者に、ある共通の属性があることは間違いない。「市場経済は政府当局が自在にコントロールできる」という一種の確信を持っていることであり、これを筆者は「近代経済学のマルクス経済学化」と呼んでいる。昔ならマルクス経済学に流れたような思考回路の人間(少数の変数で複雑な現実を説明でき、コントロールできると信じる世間知らずのタイプ)が、旧ソ連の凋落以降、近代経済学に流れているということかもしれない。
 実際には日銀は、別段日本経済を滅ぼそうとしている悪の組織ではなく、これまで十数年続けた金融緩和が実際に物価上昇につながらなかったという経験をもとに行動している。(p.268-269)


リフレ論の信者の信仰内容を的確に定式化していると思う。確かに、金融政策によって政府が市場をコントロールできると信じることは、社会主義国の政府が計画経済によって経済をコントロールできると信じることと通じるものがあるし、金融政策の力を過信しているあたりも、経済という土台が政治や文化などの上部構造を規定しているという図式とよく似ている。



 結論だけを申せば、日本で「デフレ」といわれているものの正体は、不動産、車、家電、安価な食品など、主たる顧客層が減り行く現役世代であるような商品の供給過剰を、機械化され自動化されたシステムによる低価格大量生産に慣れきった企業が止められないことによって生じた、「ミクロ経済学上の値崩れ」である。……(中略)……。そしてその解決は、それら企業が合理的に採算を追求し、需給バランスがまだ崩れていない、コストを価格転嫁できる分野を開拓してシフトしていくことでしか図れない。(p.270-271)


『デフレの正体』の結論を一言で要約するとこうなる。私もこの見方が妥当だと考える。したがって、金融緩和という処方箋は危険性は高めるが「デフレ」への本当の対処法にはなり得ない(むしろ、問題を解決せずに先送りして更に悪化を招いているのが現状である)と考える。