アヴェスターにはこう書いている?
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川嶋康男 『七日食べたら鏡をごらん ホラ吹き昆布屋の挑戦』

「私は、ただものを買うというよりも、買う楽しみが必要なんだと思いますね。買ってさようなら、というのであればコンビニでいいわけですから。対面販売の楽しさというのは、人間同士の会話が楽しいから成り立つものです。そこで、ゆっくりと寛いでいただいて、お話しできる場所と考えて広い場所を確保しました。ただ、それだけでは面白くないので、昔の生活道具などガラクタを並べることにしたのです。(p.56)


基本的な考え方として、中東のスークやバーザールなどで普通に行われていることと近いように思う。正札販売かそうでないかという大きな違いはあるが。



 先にも述べたように、あちこちを見学して買い物をし、歩き疲れたがちょっと休むという場所が堺町通りにはない。喫茶店はあるが、無料でお茶を提供する店はない。そんな折に顔を出した店で、身体によい昆布茶と「アラジンの秘密」の味噌汁をサービスで飲むことができる。(p.97)


堺町通りとは、小樽の観光の中心である運河の近くにある歴史的な街並みが比較的残っており、現在はそれらを活用した土産物屋などが軒を連ねる通りであり、小樽に観光に行く人のほとんどが一度は足を運ぶ道である。

確かに言われてみれば、休憩に適した場所はあまりないかもしれない。実際、昨年、台湾から来た友人を観光案内した際も、「利尻屋みのや」を休憩所替わりに利用させてもらった。ある意味、店側の狙いどおりの動きをしたことになるわけだが、実際、特に台湾人に対してはお勧めできる店(台湾では昆布は珍しいようだ)だという私の見立ても当って、友人たちも買い物に満足していたようだった。今後も、必要があれば休憩しながら買い物も楽しむ場として活用させてもらいたいものだ。



モノを売るのではなく、コミュニケーションを活発にとれる場をつくることこそ商いの第一歩なのだと、自ら鉄則にしてきた方針を貫いているだけに23坪ものスペースを惜しげもなく開放しているのだ。それゆえ、どの店舗も売り場面積より休憩場所のスペースを広くしている。(p.99)


コミュニケーションを重視視している点はすでに引用済だが、売り場面積より休憩場所を広くしているというのは、言われてみればそうなっていることに気づき、なるほどと思わされた。スークやバーザールだと休憩所となるチャイハネなどが随所にあるので、店は商品が高密度に並べられている。この点もスークと「利尻屋みのや」の大きな違いかもしれない。



 北海道の観光土産の定番となっているメロン・カニとは異なり、昆布は地味な商品である。国内生産量の93パーセントを産する北海道にありながら、じつは地元消費は極めて少ない。(p.124)


あまり気にしたことがなかったが、確かに昆布を使う料理は多くないかもしれない。



 大正期、小樽には雑穀商が190店あり、海産商の130店を超えていたという。(p.154)


十勝地方との鉄道で繋がったことで、小豆などの取り扱いが多かったからだろうか?いずれにせよ興味深い。函館は長期にわたって漁業と関連の深い港であるのに対し、小樽港は一般的な物資の扱いの方が多い港だったことも関係するかもしれない。



妙見川をまたぐ橋からはじまる堺町通り、つまり「色内大通り」から「小樽オルゴール堂」までの約2.5キロメートルを「大正時代の街並み」に戻そうというのが、蓑谷のそもそもの構想であった。
 「行政ともタイアップしてやりたい。行政は、条例を整備してやりやすくしてくれればいいだけです。投資は民間がやります。つまり、行政にとっては一番金のかからない方法なのです」
 ……(中略)……。この小樽ルネサンスのキャッチコピーが「街並みは産業・街並みこそ文化」である。そのために五億円の借金をして、核となる施設「出世前広場」を造った(p.176)


興味深い構想。大正期は小樽にとっては黄金期で、様々な歴史的建造物がこの前後に建てられてたものだから、かつてその場にあったものを再建したり復元したりできれば、この上なく町並みは整備される。

「出世前広場」は数年前、気づいたらできててい驚いたことを覚えている。こうしたコンセプトに基づいて作られていたものだとは知らなかった。



 同じ棟の奥も、現在テナント募集中ということだ。1919(大正8)年に造られたもので、日本海に面し、かつて「鰊の千石場所」とも言われた寿都町にあった清水薬局の土蔵を移築したものだが、栄華を物語る建物としてリサイクルされている。(p.187)


「出世前広場」内の建物について。本物の古い建築を移築したものを使っていたとは知らなかった。今度、じっくり見学してみたい。



 漁業用のゴム合羽やゴム手袋、ゴム長靴といったゴム製品が北海道の漁業を支えてきた。また、厳寒となる冬季の北海道において、日常生活に欠かせないものがゴム長靴であった。そして、進化したゴム長靴は、スキーの本場北海道でその文化・振興に貢献するなど、「商業で黄金時代を築いた小樽に近代工業あり!」との名声を得ることにもなった。ミツウマは、小樽のモノづくりの信頼を全国にアピールしてきたと言える。(p.201-202)


ミツウマという歴史のある会社に関する記述より。なぜ小樽にゴム製品の会社があるのか不思議に思っていた時期があったが、やはり漁業との関連だったようだ。この辺は、もっと詳しく知りたい問題。



 優れた外交手腕を持つ榎本は、留学経験のあったオランダを新国家の手本としました。オランダの面積は、北海道の約半分程度でありながら海軍力で世界に進出し、貿易立国として栄えていました。榎本は以前から北海道の豊かさを熟知しており、含み資源と開拓、西洋式農業の導入などで旧幕臣らも、十分な暮らしを立てられることを前提に、新独立国家構想をぶち上げたのでした。

 主な産物としては、豊富な農産物と海産物に加えて、石炭、火薬原料となる硫黄などもありましたが、このとき、蝦夷地の輸出総額の三割を占めていた物こそ、わたくし『昆布』でした。(p.259)


オランダを手本としたというのは、江戸時代から蘭学が入って来ていたことや、江戸時代から通商があったことも影響しているのではなかろうか。


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小林正弥 『サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か』

 日本における戦後の知のブームについて考えてみると、早い時期にはまずマルクス主義の流れがあって、左翼的思想が隆盛を極めていた。この系譜において、最近まで思想界の中心にあったのは、ポスト・モダンと言われるようなフランス系の現代思想であった。しかし、このポスト・モダン思想においては、「私たちはどう生きるべきか」「政治経済はどうあるべきか」といった問いに建設的な答えを見出すことはできないように思われる。そもそもポスト・モダンは、そういった理想や真理の体系を批判する所から生まれた知だからである。原理的に理想を見出せない思想は、いわば知の自殺行為とも言えるのではないだろうか。(p.29)


ポスト・モダンに対する評価としては概ね妥当と思われる。むしろ、ポスト・モダンによる過度の相対主義の傾向は、道徳的空白を作り出すことに積極的に寄与しており、右派の国粋主義的で全体主義的な主張の跋扈を助長しているとも言える。



 なぜ日本では政治哲学が導入されなかったのだろうか。どうやら、「多くの学問が導入された明治時代には、政治哲学を研究すると、すぐに主権とか天皇制の問題などに触れてしまうので、その危険を避けた」という説が有力である。戦後は主権在民となったにもかかわらず、明治以来の学問的伝統が影響を及ぼしているのである。(p.31)


私自身、哲学書を読み漁った時期にも、政治哲学の本はあまり読まなかったし、あまり興味を惹かれるほどのものとは出会えなかった。むしろ、政治や行政の問題に取り組む中で、政治哲学にも関心が拡がり、サンデルの思想を知ることでそれ以前に信奉していたリベラリズムの限界を認識するようになったという経緯がある。



ミルによれば、高級な喜びと低級な喜びという相違を認めることは、功利主義という考え方の改良である。だが、そもそも功利主義は、一つの基準によって、望ましさを判断するものではなかったか。だとすると、喜びに量的な違いではなく、質の違いをも考慮するような考え方は、もはや功利主義とはいえないのではないか。(p.50)


妥当。ミルの議論に、高級な喜びと低級な喜びとは、コミュニティによって決まる(部分がある)という要素を付け加えると、(功利主義というより、むしろ)コミュニタリアニズムの枠内の議論になると思われる。



 一般にネオ・リベラリズムは、市場の効率を最大にして経済成長という結果を実現するという経済学的な議論なので、その点では哲学的には功利主義ないし帰結主義の考え方に近い。これに対して多くのリバタリアニズムは哲学的な原理を主張しており、自由型正義論ないし義務・権利論の一種である。特にレーガン政権以降のアメリカでは、リバタリアニズムとネオ・リベラリズムとは、共に民営化・規制緩和や減税・福祉削減といった政策を支持し推進してきたので、あまり区別はされないこともあるが、論理的には上記のような違いが存在する。簡単に言えば、ネオ・リベラリズムの論者は経済成長という結果を可能にするためにこれらの政策を主張し、リバタリアニズムは主として自己所有に基づく正義を実現するために課税に反対する。(p.58-59)


なるほど。同じ政策を主張・支持するので通常は区別されないが、論理的にはこうした区別を立てることができるわけだ。

一般的には、ネオリベとリバタリアニズムは、同じ論者がアドホックに都合の良い方の議論を使って自分の支持する政策を擁護しているのではなかろうか。

問題は、一つは、ネオリベの発想に立って政策を推進すると「経済成長」という結果はむしろ遠のく場合があり、現代の日本はその事例だということである。ネオリベは事実認識のレベルで誤っている。そして、リバタリアニズムの問題は、自己所有の原理が事実としては成り立っていないために根本から誤っていることだろう。だから、どちらの立場も支持し得ない、というのが私見である。



 しかし、滔々たる政治科学の流れの中では、こうした政治哲学は時代錯誤と思われていた。ところが、1960年代後半から、ベトナム反戦運動や公民権運動が燃え盛るにつれ、アメリカのそれまでの正統的な考え方が様々な領域で疑われ始めた。政治に関しては、多元主義論をはじめとする政治科学は、アメリカの政治を基本的には進んだ民主主義的なものと考えており、他国がそれを見習うべきだとしていた。だからこそ、政治に理想や規範を掲げる政治哲学の必要性はアメリカ国内についてはあまり感じられず、現実の民主政治を経験的に分析することが政治学の役割と思われたのである。
 しかし、そのアメリカがベトナム戦争を行ったり、実は黒人差別問題を内包していたことが批判されたので、それまでの政治科学、さらには社会科学全体に対する反省が生じた。そして、政治の理念や原理を根本から考え直す機運が生まれた。これが、ロールズの『正義論』の出現の背景であり、彼の提起した契約論的な論理により政治哲学が復権したのである。(p.99-100)


「進んだアメリカを見習うべき」という発想は、戦後の60年代まで特に有力であり、冷戦構造の中で西側陣営に諸国をとどめておくためのイデオロギーだった「近代化論」の発想全般の特徴である。

ポスト・モダンへも繋がっていった「疑い」(問い直し、考え直し)が、政治哲学ではロールズの議論の登場へと繋がっていったというのは興味深い。



 功利主義は、英米圏の哲学でも圧倒的な影響力を持っていたが、人権については、確固たる論理を提供することが難しかった。(p.101)


功利主義の最大の弱点の一つ。



実際の人間は他の人にも関心があるから、普通の社会保障の議論では、「貧しい人がこのままでは可哀想だし非人道的だから、貧者を助けよう」と考える。ところがロールズの議論では、仮設的な状況の下で、「他の人に無関心で、他の人の利益は考えず、あくまでも自分の利益を合理的に考える」という人間主体を想定するのである。
 普通は、自分のことだけを考える人は、「貧しい他人はどうでもいい。自分さえ豊かになればいい」と考える利己主義的(エゴイスティック)な人間だ、と思うだろう。ところが、ロールズは非常にパラドキシカルな工夫をしていて、他人に無関心で合理的な主体を考えながら、自分に「無知のベール」がかけられているために、その合理的な主体は自分が最悪な状況に置かれている場合を考えざるを得なくなって、「格差原理」に合意するのである。そのため、この原理は、現実の世界に適用された場合には、最も貧しい人のためになる内容になっている。
 このような思考は、普通の状況で考えれば、「最も惨めな人の立場になって考える」ということであり、「その人の利害を自分のそれと同一視する」ということを意味している。これは、普通の人にはなかなかできないことである。それを可能にするのが、原初状態という仮設的状況なのである。カントが格率[行為の個人的・主観的な原則]に対して普遍化可能性のテストを行うのと同じように、ロールズは原初状態という仮設的状況を想定することによって、合理的な人間が最も貧しい人の身になって考えるということを可能にしたのだ。
 ここはとても大事なところで、英米の政治哲学者の多くは、ロールズも含めて、「他の人ではなく、自分の合理的な利益を考える」人間像を想定する。主流派経済学でもやはり、利益の最大化をいわば公理として考えている。そのような考え方に基づく合理的選択理論(公共選択理論)も発展しており、ロールズもそのような流れを意識して自分の議論を展開している。
 仮にロールズが、「可哀想な人のために福祉を行わなければならない」というような議論を提起しても、彼の『正義論』のようなインパクトは持たなかっただろう。あくまでも、他人に無関心で、合理的な主体を想定しているからこそ、「誰もがそれなら合意するだろうし、その結果が福祉擁護の議論になる」と考えられて、大きな影響を与えたのである。(p.118-120)


なるほど。



 この革新主義運動の中から現れ、その後で進展していくのが消費者主義であった。これは、共和主義のように公民性を重視するのではなく、消費者の利益ないし経済的満足を実現しようとする考え方で、経済的豊かさとその公正な分配を目指すものである。これは「公民性の政治経済から消費者福利(consumer welfare)を目的とする政治経済へ」という変化を意味し、成長や分配的正義を重視する今日の政治経済への出発点となっていく。(p.199)


消費者の利益を強調する考え方とリベラリズムとの相性の良さには注目すべき。例えば、行政などでも民間企業に倣って「顧客満足度」を高めるという考え方が強調される場合がある。この考え方では、「顧客」の利益や権利を守ることには繋がるという点で功利主義やリベラリズムの利点が現われるが、共和主義的な公民性のほか、恐らく行政にとって最も重要な価値の一つである「公共性」への配慮が薄くなるという問題が生じると思われる。


須磨正敏 『ヲショロ場所をめぐる人々』(その2)

 慶応二年はタカシマ運上家にとっては大厄の年で、3月20日、ヲショロ境付近の野火が火元で季節風のヒカタにあおられ、運上家付属の建物、民家を焼きつくし、火の手は現在の小樽市手宮町にまで及んだ。鰊漁の真最中で、沖に出ていた船と網だけが残り、運上家では帳簿類のほかは箸一本も持ち出せないほど、瞬時のうちに一面炎に包まれるという参事であった。(p.176-177)


タカシマ場所の運上家はどこにあったのだろう?かつての町役場、神社、金融機関が複数集まっているあたりが、中心地だったと推測されるが、そのあたりなのだろうか?それとも明治以前には別の中心地があったのだろうか?



 元治元年(1864)、ヤムクシナイとオシャマンベの場所請負制を廃止して村並とした幕府は、翌慶応元年二月、西蝦夷地で一番和人の多いヲタルナイも同様に村並への昇格を申し渡し、従来の請負人岡田家は何らの特権を持たない、一介の追鰊取りと同様の扱いをうけることになった。この頃、請負人の場所経営は、直営事業では年々出費がかさんでいたが、追鰊業者相手の方は、入り込む漁師が増えれば増えるほど物資が動き、仕込みもふえ、したがって二八分として彼らから受け取る仕込み分の荷物も多くなっていった。
 幕府の出先機関である箱館奉行所は、ヲタルナイの村並昇格の理由の一つとして、請負人岡田家の運上金納入の遅滞や、同地への出稼ぎの者たちに対する冷酷な取扱いなどをあげているが、本音は請負人に代わって幕府が場所を直轄し、蝦夷地経営の費用を少しでも稼ぎ出そうという魂胆であった。(p.182-183)


なるほど。幕末期に蝦夷地の場所が村並になっていく理由は幕府の財政と関連していたわけだ。

あと、ヲタルナイは和人が多かったことから、早期に村並になったとは聞いていたが、他にどのような地域がどのような順序で指定されてきたかということは、あまり知らない。

ヤムクシナイは現在の山越郡にあった場所で、山越郡には長万部町が含まれていることから、ヤムクシナイとヲシャマンベはお互いに近かったようだ。なぜこの地域が最初に村並に指定されたのだろう?蝦夷地の歴史には西海岸からアプローチしているので、太平洋岸の地域にまでは知識と関心が到達していない。今後もまだまだ知るべきことは多い。



 東西両蝦夷地のうち、西蝦夷地の旧請負人は東地と違って実力者がそろっていたので、財政の豊かでなかった開拓使は主として農業に官金をつぎ込み、西地の開発は多く民間人の手にゆだねていた。また運輸、交通、通信業務にしてお、旧運上家の機構がいっきょに廃止されては、北海道の開発事業はたちまち麻痺してしまう。一方で旧制度の廃止を号令しながら、他方では、時節柄、従来以上に旧運上家の機能に対する依存の度合が大きかった。(p.189-190)


なるほど。確かに、偕楽園のあたりの農業試験場や札幌農学校など農業関係には官費が出費されているが、漁業関係はどちらかというと自由化の路線(場所請負制の廃止など)で民間の参入によって運営している。

旧運上家の廃止を言いながら、その機能には依存していたという指摘も興味深い。



 貞二郎は、買い手のないこの蟹で缶詰を製造することを考えついた。
 琵琶湖という魚の一大宝庫を擁している滋賀県は、湖で獲れる魚類の缶詰製造に着目し、県内の新しい産業として県民に積極的に推奨した。しかし経験のない事業のため、進んで手を出す者がいなかった。貞二郎はこの勧誘に応じ、明治19年、八幡町魚屋町に缶詰製造所を設け、小えび、鮒、小鮎のほかに、松茸、筍、青豌豆、牛肉などの缶詰の製造をはじめた。これらの製品のうち、青豌豆が各郡市で一番喜ばれ、売れゆきは上々であった。
 この経験をふまえて、明治21年に忍路、高島、小樽の三ヵ所に缶詰製造所を設けた。工場の技師は、あらかじめ八幡の工場で養成し、これを送り込んでよこした。蟹、鮭、鱈子、たまねぎ、りんごなどの缶詰を作ったが、中でもたらば蟹の缶詰製造は日本での元祖となった。(p.207-208)


鮭は当時は北海道の川ならどこにでもいたのだろうか。鱈子は、今でも積丹半島の反対側にある岩内町の名物がタラであることからも、近海で獲れたのだろう。玉ねぎは札幌黄が想起されるし、(今では余市町や仁木町が想起されるが)明治期には札幌がリンゴの産地だったことなども想起され、いずれも近くで獲れるものを加工して缶詰を作っていたであろうことが見える。

小樽で缶詰と言えば、北海製罐という大正期に小樽で設立された会社が想起されるが、この会社は元は函館の資本だったらしいので、ここでの話とは直接の繋がりはないのかもしれないが、何かかかわりはあるのだろうか?



 明治19年8月12日夜、大場庄兵衛宅ではあかあかと灯がともり、大宴会が開かれていた。主客は外務大臣井上馨、内務大臣山形有朋と随行員、これに加えて彼らを忍路まで出向えに来ていた岩村北海道長官の一行であった。……(中略)……。
 両大臣一行が交通の不便な忍路へ立ち寄り、大場邸に一泊した経緯についての詳細は明らかでない。しかし、当時、西川商店は三井物産と取引きがあり、三井の商況が週に一度は必ず忍路支店に送られてきており、大場庄兵衛は大阪滞在中足繁く三井の店に出入りしていた。この時同行していた益田孝は三井の大番頭であったことが、彼らの忍路一泊を実現させた太い絆であったようである。元来、三井物産は、井上馨の作った先収会社のあとを引き受けて、明治9年に設立されたもので、この時井上の推薦で旧先収会社の益田孝が支配人となり、おなじく馬越恭平も三井に移った。益田は鈍翁と号し三井財閥の形成に功労があり、また茶人として、茶器収集家として世に知られている。また馬越恭平は三井の重役をへて日本のビール王となった人で、酒器の収集で有名、徳利大尽と呼ばれていた。(p.225-227)


西川家と三井物産、井上馨、益田孝、馬越恭平という繋がりは、私にとってはやや意外性があり興味を惹かれた。三井や三菱の歴史を知っておくことは、明治期の日本の歴史を知るにはかなり有意義なことと思われる。知りたいことはいろいろとあるが、なかなか時間が取れないことが悔やまれる。

また、馬越恭平と北海道の繋がりと言えば、サッポロビールへと繋がる日本麦酒の経営にかかわったことが想起されるが、これはこの宴会の6年ほど後の話である。



須磨正敏 『ヲショロ場所をめぐる人々』(その1)

 地元に人別をもたない商人は藩政の中で種々の制限を受けていたが、近江商人、中でも琵琶湖畔の柳川、薩摩、八幡出身のいわゆる両浜組は、出稼ぎ商人の身分のまま、地元商人以上の特権をほしいままにしていた。彼らは城下に身元保証人である断宿(ことわりやど)をもち、この宿主である問屋の下におかれている形式をとりながら、実質上はこれらの地元商人の金主であり、逆に彼らをその傘下におさめていた。この蔭には近江商人の団結と、藩の財政の確立と維持に功労のあったその財力と、国元の彦根藩、天領の八幡町の強いうしろ楯があったのである。
 彼らが終始、出稼ぎの形式をとり、藩内に本拠を移すことを拒み続けたのは、一つには松前はあくまでも商売をするための土地であり、もし形勢不利とみれば、何時でも国元へ撤退するつもりでいたからであろう。(p.62)


蝦夷地で近江商人が大きな影響力を誇っていたことはこれまでも随所で読んだことはあるが、その要因の一つとしてここで挙げられている国元の後ろ盾としては具体的にどのようなものがあったのだろうか?



 松前へ進出してきた本州商人の中で、西川伝右衛門のように一代で天下の豪商と称され、その後、十代にわたって北海道を舞台にして永続した例は、全体から見るとまことに数少ない、幸運に恵まれたものである。文化文政時代の松前奉行所の調査によると、この時代までまがりなりにも営業を続け、あるいは途中で店を閉じ場所請負人に転じてその後も相応の渡世をしている者は、近江出身の商人に限ってみても、浜屋与三右衛門、恵比須屋源兵衛、福嶋屋新右衛門、住吉屋(西川家)ぐらいのものであった。競争相手が多くなって商いの立ち行かぬ者、慣れぬ場所請負に手を出して大けがをする者が続出した。(p.63)


小樽では西川家は明治になるまである程度の勢力を持っており、近江商人から加越能商人へのシフトということが言われるが、近江商人がこれほど長く滞在していた土地の方が珍しいという事実は重要。近江商人撤退後の各地の状況について知りたいところだ。



 明治に入り、場所請負制が廃止された頃を境に、請負人たちは場所から撤退し、あるいは没落していった。そしてこれと交替するように鰊場の親方衆が台頭してきて、明治期の鰊漁業の主役をつとめるが、これら親方衆の先祖や先輩にあたるのが、追鰊の漁民たちである。彼らはアイヌの楽園へ侵入した和人の先陣の一翼をになったともいえるが、いっぽう、明治期の開拓事業は、これに先行した追鰊漁民たちの苦闘の歴史を無視しては、その姿を正しくとらえることはできない
 たとえば、ここに一枚の表彰状がある。
 ……(中略)……。
 この中で、九代伝右衛門は、「余市忍路高島の山道を開いた」として、褒賞の言葉をもらっている。しかしこの褒賞は、西川家が独占すべきものではない。実際に山道開発の労働をになったのは、当時のヲショロ、タカシマ両場所の管轄領内で漁事を許してもらう代わりに、収穫の一部を運上家にさし出し、また、要求されるまま、ほとんど無報酬で山道の開発に当ったのである。これらの名もない漁民たちの苦労に慰労の言葉一つもかけず、西川家の名のみを讃えるのは、まったく片手落ちの褒賞であるといわざるを得ない。(p.79-81)


名もない漁民たちなどにも配慮しなければ、歴史を正しく捉えることができないというのは全くその通りである。

もう一つ付け加えると、江戸時代や明治前半頃には資力のある商人などが道路などのインフラを整備した事例が多くみられ、これを「昔の人は偉かった」といったように褒め称える言説があるのだが(これは観光のガイドなどが歴史を紹介するときにありがちかも知れない)、これらの商人たちは自分たちのビジネスに有用なインフラについて、現在のように行政が道路等の整備などをしてくれると期待できないために投資したという面が強かったということである。その反射的効果として人々の交通の便にも寄与したし、地域の経済にも寄与したというに過ぎない。こうした地域の経済が活性化することも結局は投資をした本人の商売に跳ね返ってくるというところまでもしかすると計算していたかもしれない。公共心のみから純粋に私財を投じて公共財を形成した、というわけではない、という留保をつけるべきと思う。



 北海道の鰊漁業の歴史を調べてみて興味あることの一つは、漁法が伝播してきた経路である。一つの文化が新しい地域に伝わるときの流れは、その新しい地域への人の流れと一致するのが普通である。蝦夷ヶ島への人の流れの源は東北、北陸であり、文化の運搬者もまたこの方面の人たちが、その主流を占めている。松前、江差地方の鰊差網の漁網とその技術も東北、北陸の人々の手によってもたらされたものである。鰊場の労働の歌もまたそうである。ところが、笊網・行成網といった大網の場合は、本州から北海道への人の往来の主流に逆らって、太平洋岸からオホーツク海、宗谷海峡を通って日本海を西下するコースをとっている。
 これにはいくつかの原因が考えられるが、最も有力なものが、松前藩の終始一貫した大網禁止の目を逃れるためであった。より効率よく鰊をとろうとした漁民は、藩の目の届きにくい奥地から大網の使用をはじめたのである。一藩の主要産業の技術の改良が、早くから漁場として開けた城下から遠く離れた辺土に始まったということは、珍しい事例であろう。北海道の鰊漁業を技術面から見るならば、松前、江差地方は一番遅れた地域である。(p.104)


興味深い。鰊漁業に関連する歴史遺産などを度々見ていると、使用していた網についての説明を見ることは多いが、それだけでは、それぞれの違いや歴史的な意義についてまで深く理解することはなかなかできなかった。網については、網の大きさやどれだけ大量に獲れるかという観点から整理すると分かりやすいらしいとは気づいていたが、この叙述は非常に今後の理解にとって助けとなりそうである。



昭和の「追分節」は昔とあまりにも様変わりしてしまって、満座の中で気軽に歌い出せる人が一人や二人必ずいる民謡ではなく、長年、追分道場に通って血のにじむような修業をつみ、羽織、袴に威儀を正して歌う、限られた人たちにしか出来ないものになってしまった。(p.155)


昭和以前の追分節は酒宴で囃子詞に全員が参加するようなラフなものだったが、昭和になってからより「高尚な」方向へと変化したようだ。変化の原因は何なのか?気になるところである。


今田光夫 『ニシン文化史 幻の鰊・カムイチェップ』(その2)

 番屋は本来漁夫の寝起の場であるが、親方の居宅をかねる場合と、漁期間だけ開く“廻り番屋”とがある。後者は板張りの粗末な建物だが、前者では家族の居住区を“上番屋”と呼び、ぜいを尽くしたものが多かった。現在“鰊御殿”とされるものがこれに当たる。出身地の四国から原材を引いて建てたという旧伊藤漁場(仙法志)もあるが、概ね土地の木材を組み上げて造った。有名な花田番屋(鬼鹿)は五ケ統約200人の漁夫の起居に充分な広さがあった。番屋と廊下は巨木で組まれ、桁材も四間のものが普通で、中には六~八間に及ぶものが見受けられた。こうした巨材は、くさびと斧で割り裂かれたもので、釘を使わないのが自慢であった。いわゆる三十三間堂(香深)、旧平田漁場(仙法志)、旧小倉漁場(沓形)などは印象の深い建物であったが、或は朽ち、或は移されて、今では見ることはできない。網類は貴重な財産であったから、網倉は火災をおそれ、他の建物から離して建てた。(p.178-179)


親方の居宅を兼ねる場合と廻り番屋との2つの類型があるとされるが、小樽の祝津にある「茨木家中出張番屋」はその中間的な位置づけと思われる。親方の家は数件分離れた場所にあり、その点では廻り番屋と同じだが、船頭のような少しランクの高い人とヤン衆のような人のエリアとに区切られており、前者のエリアの方が格が高くなっているつくりは親方の居宅を兼ねる鰊御殿と共通している。

重要文化財にも指定されている花田家番屋は是非行ってみたいのだが、まだ行けていない。小樽の祝津に移築された田中家の鰊漁場建築(鰊御殿)でも、(外の建物を含めて)120人くらいが、起居できるといった程度だったことを考えると、花田家の番屋はさらに大きいということか。



 シャクシャインの蜂起(寛文9年、1669)の後、松前藩は惣大将(大酋長)の台頭をおそれて、交易量を削減した。それははねかえって藩財政を破綻させることになる。その頃、近畿地方は慢性的な金肥(干し鰯)不足に悩んでいた。この実態と蝦夷地の可能性と日本海舟運の実力をよく知っていた近江商人は、場所請負人として蝦夷地に進出する。彼等はやがてアイヌを使役して締め粕の製造(同時に魚油を生産)をはじめ、東北、北陸、西国一円の需要に支えられて企業的に成功した。鰊粕が遠隔地での生産にも拘わらず、鰯魚肥との競争に耐えることができたのは、アイヌ労働力及び追鰊業者(二八取り)からの収奪の激しさをしめすに充分であろう。(p.222)


p.34からの引用文でも触れている話題だが、近江商人のほか、松前藩、アイヌらの状況も少し書かれているので一応メモしておく。



 昭和8、9年になると、燃料を石炭に変えるために、竈の改装が各地で進められたが、漁獲の減少に加えて、食用化が進み、実効を見ることなく終っている。当時太平洋岸ではすでに、ミール工場や油圧式工場が現われていたが、漁期の短い鰊場では、稼働率が低く、実現の見通しは全くなかった
 因みに、合同漁業KKの、昭和13年の事業計画によれば、同社の鰊搾粕の生産予定量は、漁獲量の20パーセントを占めるにすぎない。鰊も、食用化が進み、魚肥の時代は終ったのである。(p.224)


昭和の初め頃は、様々な漁業の変革期だったのではないか?調べてみたい。

また、鰊の需要は当初は魚肥としてのものが大きかったが、この頃になると食用化が進んでいたのか。




今田光夫 『ニシン文化史 幻の鰊・カムイチェップ』(その1)

 初期場所請負人は近江商人であった。古来蝦夷地の産品は、小浜、敦賀などに陸上され、琵琶湖北岸まで駄送し、それから膳所(大津)まで水運、再び駄送又は宇治川の水運で京阪市場に運ばれ、松前向けの商品は、このルートを逆に持ち込まれた。近江商人はこのルートの要に位置し、古くから松前との接触があり、蝦夷地の生産の可能性、海運の実状、さらには京阪をはじめ西国一帯の商業的農産物(油・藍・綿)の生産地の実態(金肥(魚肥)の需要の増加・高騰・品不足)を熟知していたので、あえて請負にふみ切ったのであろう。(p.34-35)


初期の場所請負人に近江商人が多かった理由。



 祝津は小樽近海の千石場所であったが、浜が狭いので漁場はそれぞれ間口十五間に限られ、そこに青山、白鳥、茨木の三漁場が並び、番屋建築はぜいを競っていた。
 茨木家は堅実だがしぶちん、青山家は教育熱心といわれていた。白鳥家では当主がなくなって三兄弟が後に残されたが、いずれも遊び好きで膨大な遺産を三、四年で蕩尽したといわれている。真偽の程はわからないが、小樽花柳界始って以来の大尽遊び、芸妓を裸にして金貨を拾わせたとか、下駄を探すのに百円札で火を点したなどと伝えられていた。(p.69)


祝津は今も鰊漁場に関する建築が多く残されている地区であり、広い意味での鰊御殿がいくつも残っているが、漁場の間口が限られていたとは知らなかった。確かに浜は狭いかもしれない。

青山、白鳥、茨木という祝津の三大網元の家柄についての論評はなかなか面白い。



 安郎の父猪俣安之丞は蝋燭場所ほか鰊漁場の経営で財をなし、余市きっての財閥にのし上がった。現ニッカ工場の敷地を含む余市川右岸の埋立は彼の独力の工事であり、現道立中央水試(当時国立北海道水試)の建設もほとんど彼の寄付によるものであった。彼の邸宅はその全盛期の明治6年(1873)の建造で、それを明治30年(1897)から三年がかりで、ほとんど新築に近い改装をしたものと伝えられている。越後の宮大工、米山仙蔵の設計で、木造瓦葺地下室付き二階建て、延約千平方メートル。屋根は猪俣家の家紋入りの若狭瓦、土台は御影石、柱・梁など美事な一本材を使った伽藍調の建物である。屋根の両端には木製のしゃちほこ、天守閣を模した望楼が目をひく。大正末期の古い記憶をたどると、漁舎は隣接して別に設けていたから、この建物はもっぱら住宅・事務所・来客接待にあてられていたようである。正に「鰊御殿」の名にふさわしい建物といえる。やがて鰊漁業が不振となり、遂には人手にわたり、昭和14年(1939)小樽市の現在地(平磯岬の頂き)に移された。名付けて「銀鱗荘」、時の北海道長官石黒英彦の命名という。(p.72-73)


余市の猪俣家の「銀鱗荘」には、行ってみたいと思いながら、なかなか行けずにいる。料亭・旅館として活用されているのだが、何となく敷居が高い感じがしているのも大きな要因となっているように思う。



 場所請負制度が全蝦夷地に行き渡ったのは元文期(1736~41)とされているが、追鰊もこの時期以後は、凶漁対策もさることながら、生産の拡大を志向したものと思われる。場所が利尻、礼文、宗谷地方にまで拡大されると、それまでの追鰊の概念は薄れ、生産の拡大一方に変わった。(p.93-95)


鰊漁の漁場が北へと展開していくが、凶漁対策から生産拡大へと目的が変わっていったという理解は興味深い。根拠が明確かつ簡潔に示されていればなおよいのだが。



商場の経営を商人に請負わせる場所請負制が発足してからは、運上屋の機能は、交易所から漁業経営の拠点へと変わり、それまで、対等の儀礼として行われていた「オムシャ」も藩あるいは幕府の法令や漁場内の規則を申し聞かせる伝達式に変わり、運上屋は行政官庁的機能をもった場所支配の拠点へと変質した。(p.107-108)


運上屋の役割などもまだまだ分からないことが多いところ。



 当時の唯一の遺構として「旧 下ヨイチ運上家」(重要文化財、昭和46年指定)がある。
 荒れ果てて放置されていたが、嘉永6年(1853)の古図に基づいて復元された(昭和54年)。当時の場所請負人竹屋長左衛門が建てたものである。規模は、桁行28.9メートル(当時39.8メートル)梁間15.3メートル、切り妻造り、長柾葺きの石置屋根。建物の右半分を上手といい、畳敷き中廊下形式の止宿所で、通行の役人、勤番下役を泊める座敷を並べ、中央は帳場、番人居間、台所、左手は土間、酒部屋、雑部屋とし、一部二階に、番人、下働き女、一般通行人の寝部屋八室を設けた。
 この建物に使った木材量は213立方メートルに達し、木柄は極めて大きく、運上家建築の標準型と見られ、其後に建てられた鰊場建築の原型と考えられている。(p.109)


旧下ヨイチ運上家は是非行ってみたいと考えている。