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井澗裕 『サハリンのなかの日本 都市と建築』

 この論点のキーワードは「城下町」である。結論を先に言えば、札幌も豊原も城下町として建設されたのであった。札幌を「最後の城下町」とみなす説があるが、本当に最後の城下町は札幌ではなく、豊原である。それが札幌と豊原の第三の共通点でもあり、違いでもある。
 城下町とは、ただ「城」がそばにあるというだけではなく、武士や町人などの身分に応じて居住地が区分されているという構造的な特質も重要である。城を持たない札幌が城下町とみなされる理由は、開拓使本庁舎や北海道庁を「城」に見立て、その周囲の官用地を武家地に、民用地を町人地と考えるなら、その基本的な構造は江戸時代と変わらないためである。
 ……(中略)……。ただ、札幌の場合は開拓使庁舎や北海道庁庁舎(有名な赤レンガ庁舎)が明らかに「城」と位置づけられ、通りからの眺望(ビスタライン)でその搭屋が見えるようにという位置的な工夫が見られる。(p.28)


なるほど。札幌は城下町として建設されたのか。確かに、道庁赤レンガは北三条通などから見通せるようになっている。

日本の(伝統的・歴史的な)都市については不勉強なこともあり、城下町と同じ構造だということにすら気づいていなかった。



 札幌と豊原の大きな違いは、北海道・札幌は軍事行動なしに取得した土地であったのに対し、樺太・豊原はロシアとの戦闘によって得た土地であったということである。(p.29-30)


北海道のほとんどの土地を軍事行動なしに領土とした点が、植民地としての北海道の特殊性ではないかと思う。そうした記憶に残る大きな事件がないままに領土とされたためか、北海道という土地は、植民地としての性格を持っているということすら人々の脳裏に浮かばない傾向すらある。



 ちなみに「最後の城下町」と呼ばれる札幌では、こうした官民の住み分けは早々と崩れていたが、豊原は最後までそのままであった(こうした違いの背景には北海道と樺太の土地制度の違いなどがあると思う)。(p.34)


もう少し詳しく掘り下げて調べてみたい。



気候的には大差のない北海道と樺太だが、建材という点で見ると大きく明暗が分かれていた。
 北海道は開拓初期から幸運に恵まれていた。札幌と小樽の近郊では良質な軟石や粘土が豊富にあったから、早い段階でこれを建材として活用してきた。そのあらわれが、今ではすっかり観光名所として有名になった小樽運河の倉庫群や、北海道のシンボルとも言える赤レンガの北海道庁旧庁舎である。手近のすぐれた供給地はこうしたものを生み出す不可欠の素地である。
 反対に、樺太の不幸はそのどちらにも恵まれなかったことだ。全島の九割が森林という事情も手伝い、必然的に庁舎も商店も住宅も木造を選択せざるを得なくなる。基本的に船頼みという運搬費用を考えるなら、煉瓦造や石造はどうしても高くついた。
 こうした事情は1920年代に入ると変わっていく。きっかけとなったのは、製紙工場の不燃化であった。……(中略)……。煉瓦や軟石は高くて無理でも、セメントはそれほどは高くつかない。……(中略)……。モルタル市街への更新はある意味で当然の成り行きであった。(p.35-36)


小樽・札幌と樺太の建築素材に関する興味深い考察。ちなみに、1920年代からの樺太のモルタル市街化への動きが指摘されているが、同じ頃、小樽では木骨石造やレンガ造からコンクリート造への変化が起こっていた。



 1943年に樺太は植民地ではなくなった。行政上、本国(内地)に編入されたのである(その意味で、沖縄戦が唯一の本土戦であったという表現が時折用いられるが、それは間違いである)。(p.38)


こうした表記を見ると、いつものことだが、「台湾はどうだったのだろう?」と考えてしまう。



 建築architectureとは、空間変容のための技術体系と、その成果の総称である。つまり、社会や生活のために既存の空間をつくりかえるためのテクノロジーと、それによってできたものを建築と呼ぶ。たとえば、自然の洞窟は建物でも建築でもないが、そこで暮らすために敷物を敷き、物置や棚をこしらえ、風雪をしのぐ扉をたてつけたなら、それは建物ではないが建築と言える。橋や道路や港湾や鉄道なども広い意味で建築であり、建物buildingはあくまでもそうした建築の手段の一つに過ぎない。
 それゆえに、建築の成否を握るのはそこを利用する人間たちの空間に対する要求である。とくに都市の中の建築が長生きできるか否かは、構造的性能的限界や老朽化より先に、時とともに変わってゆく空間への要求に対処できるかどうかで決まることが多い。(p.44)


前段の「建築」についての考え方は興味深い。目的と結果(効果)から定義している。

後段もなるほどと思わされる。

小樽運河と倉庫群について言えば、運河も倉庫もあまり使われなくなったが、その空間も止揚する要求がなかったため、そのまま放置された。その結果、倉庫が群として残った。

台湾の日本統治時代の建築にも私は興味があるが、これについても本書の観点から考察してみると面白そうだ。



 都市も建築も生活や社会を入れる「器」である。だが、いつのころからか私たちは器に美を求めなくなっていないだろうか。美しい建築が街にとってどれほど大切か、この博物館は教えてくれている。ユジノ・サハリンスクの新婚カップルはここで記念写真を撮る。それは彼らにとって、この建物が誇りに思えるほど美しいからである。(p.50)


美しい建築、そう問われると、街のシンボルになるほどの写真ばかりを探してしまい、実感切れとなってしまった。



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キム・ナンド 『最高の自分をつくる人生の授業』

 人間の幸せは絶対値では決まらない。昨日よりもっと、期待よりもう少し、成長することで何かを手に入れたとき、人は幸せになるのだ。(p.96)


絶対値ではなく、成長しているという実感が幸せ(ないし生きがい)と関係が深いという認識は重要。引用文に付け加えておきたいことは、成長していても、そのことが感じられなければ幸福感(ないし生きがい)には繋がりにくい、ということくらいだろう。



 「1対29対300の法則」ともいわれるこのハインリッヒの法則は、リスク管理において、とても重要な理論だ。大きな事故は偶然起きるのではない。その裏には29回の小さな事故と300回の危険な状況があるということなのだ。
 この法則は、小さな兆候でも見逃してはいけないという教訓に使われる。(p.98-99)


この理論によれば、小さな事故が起こった場合でもその10倍の危険な状況があるということになる。事故が起こっていない場合でも、危険な状況は頻繁に起きている。それを放置しないことが重要だ。



何の準備もしていなかった成功はすべて危険だ。
 ……(中略)……。
 若くして成功したスターが落ちぶれていくニュースに接することは多い。この悲しいニュースは、準備できていなかった成功の裏面を見せてくれている。
 スポットライトがまぶしいほど、影も長く、濃くなる。華々しいステージに立たされたときに、ぼくらが直視すべきなのは、照明ではなく自分の影だ。
 華やかな照明だけを見ていると、目がくらんでしまう。それは、世の中をきちんと見られなくなるということだ。そして、いつか自分自身のこともきちんと見られなくなる。(p.114-115)


同意見である。



この「ランキング思考」を捨てられない大学生は、同じマインドで企業をランキングし、上位の企業に入社できないと再び絶望する。
 まったく非効率なエネルギーの消耗だ。なぜなら、人生でいちばん重要なのは、最初の職場じゃなく、最後の職場だからだ。(p.123)


確かに、最初の職場より最後の職場の方が重要だろう。だが、さらに重要なのは、どこの職場で働くかということではなく、その職場で何を学ぶことができたか、ということだろう。多くのことを学びうる職場が良い職場である。

大学のランキングを企業にも当てはめてしまうということがこの引用文の最初に述べられているのだが、大学の良し悪しというのも、同じことで、多くのことを学びうる大学が良い大学である。その可能性が高い大学とはどういう大学かというと、優秀な人材が集まる環境の方が友人や教師たちから学べるものが多いと見込める。だから、優秀な学生が集まり、優秀な教師がいる大学は良い大学なのである。偏差値は学生の優秀さの代理指標としてはある程度使えるだろう。



 幸福感というのは、たくさんのことを成し遂げれば大きくなるものではない。期待に対してどれくらいのことを成し遂げたのかで幸福は決まるのだ。
 数学の公式のように表現すればこうなる。
 
 幸せ=成果÷期待

 この公式によれば、幸せには二つの条件が必要となる。ひとつは「成果をできるだけ大きくすること」、もうひとつは「期待をできるだけ小さくすること」だ。(p.157)


成果を大きくし続けることは非常に難しい。「足るを知る」という言葉もあるように、期待を大きくし過ぎないことは、幸福感を持って生きるにあたって非常に重要な知恵だと思う。



 結婚情報会社の調査によると、お金、家庭環境、年齢、外見を第一条件に挙げる夫婦の離婚率は高いそうだ。条件から始まった結婚は危なっかしいのだ。(p.180)


こんなことは当たり前すぎるが、一言で言うと、「条件を付けている=初めから相手に要求している」ということが根本原因である。協力して関係を築いていこう、という姿勢がないのだから、まともな人間関係が続くわけがない



 結婚生活がスタートすると、どうしても相手を自分の親と比較することが多くなる。配偶者への失望も、親との比較からはじまるのだ。妻の側は「お父さんはそうじゃなかった……」、夫の側は「何で母さんみたいにしてくれないんだ?」という愚痴から不満が始まる。
 夫婦の役割というのは、両親を長年観察して学習するものだから、こういう結果になる。知らず知らずのうちに、両親が価値基準になっているのだ。だから、自分の両親と同じ人間的長所を持った人なら、落胆する可能性は低くなる。(p.181)


なるほど。理に適っている。



 自分が大切にしている人間的長所を持った相手を見つけ、お互いの価値観を共有し、同時に相手への配慮を忘れることがなければ、温かい人生を手に入れることができる。(p.182)


文にすると長くはないが、行うのは難しい。



 当時感じたのは、育児というのは、全身全霊を捧げる必要があるということだった。ひとつの生命を育てるというのは、真心を要求されることなのだ。
 まだ言葉を話せない赤ちゃんの頃は、寝息や心臓の音をチェックしなければならない。歩いて、カタコトを話し始めたら、いつも子供の目線に合わせ、子どもの興味に相づちを打つ必要がある。育児が大変なのは、日常の延長のように適当に済ませられないからだ。(p.222)


確かにそういうところがある。ただ、うまく息抜きというか、手抜きというわけではないが、複数の人間で協力し合うことで、常に緊張状態にはならないでやっていけるようにすることも重要と思われる。すなわち、子どもと相対するときは、真剣勝負だが、その真剣勝負を他の人に任せて一人で落ち着いていられる時間が持てることが重要。

本書でもワーキングマザー、特にひとり親の場合、この環境が作りにくい、というような議論がこの後に続いていく。



 夫は家事を“手伝う”のではなく、責任を持って“分担する”のだ。(p.225)


そりゃそうだ。担当していない家事をする場合だけが「手伝う」に該当する。



 子どもの頃は、誰かが買ってくれないと欲しいものを手に入れることができない。絶望的な状況だが、長所もある。大人が、その商品が本当に必要かどうかを判断し、制御してくれるからだ。
 でも、大人になって収入ができ、支出が自由になると、ローンを組んででも購入できる。これは諸刃の剣だ。大人になると消費を制御しくれる人がいなくなるのだ。消費は、大人になって直面する難しい課題のひとつなのだ。(p.246-247)


なるほど。ただ、子どもの頃であっても、大人が本当に十分な判断力を持っているとは限らない。大人になってからも消費という課題を克服できない人はかなりいるのだから。

小中学生にスマホを持たせて、ネット依存症になったり、SNS等で人間関係のトラブルや事件に巻き込まれたりといったことがテレビなどでもしばしば話題になっているが、スマホのような「自由なおもちゃ」を十全な判断力と責任能力がない年齢層の子どもに買い与えるということ自体、大人の側の判断力のなさを物語っていると思われる。



現代は“果てしなく消費を勧められる社会”となったのだ。(p.247)


この認識は重要。マイケル・サンデルも社会のあらゆるものが市場化し、売買できるし、売買しても良いという発想が浸透していることに警鐘を鳴らしているが、同じような問題点を突いている。



 大人に必要な教育をひとつ挙げろと言われたら、ぼくは「消費者教育」を挙げたい。正しく生きるためには、まず正しい消費者になるべき時代だからだ。
 消費は人が大人になったことを確認できる、いちばん確実な証拠だ。同時に、幸せな大人になるために越えなければならない障害物でもある。大人になったら、消費の欲望を制御するのは自分しかいないからだ。(p.248-249)


なるほど。何でも買わせようとする時代ということは、消費への欲望が常に刺激される社会に生きているということである。「幸せ=成果÷期待」という公式に照らすと、「期待」の部分が膨張しやすいということだから、幸福感はそれだけ少ない社会に生きていることになる。その消費欲を制御するための教育が重要だ、ということか。



 こんなにおもしろい番組をつくっている放送関係者の方には申し訳ないが、テレビは“怠け者の最後の趣味”だ。努力も体力もいらない。……(中略)……。
 テレビは危険な趣味だ。つけるのは簡単だが、消すのは簡単じゃない。典型的な“時間泥棒”の趣味なのだ。
 ……(中略)……。
 大切なのは、自分が余暇を通じて新しいおもしろさを感じ、その経験を通じてどれだけ成長できるかだ。(p.258-259)


同意見である。


半田滋 『日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊』(その3)

 問題は日本版NSCが集め、議論する大前提となる外交・安全保障上の情報が米国頼みとなることにある。……(中略)……。
 日本の安全保障に関係する重要な情報は、とりわけ中国や北朝鮮を宇宙から撮影した米国の偵察衛星からの画像である。……(中略)……。
 仮に米国から一年前の画像を見せられ、「昨日撮影した画像」といわれても、そのウソを見破る手段がないのである。日本政府はスパイと呼ばれる特殊な工作員を一人も持っておらず、また情報を収集する在外公館は十分な活動をしているとは言い難い。アフリカではひとつの在外公館が三カ国も四カ国も兼任しており、集まる情報の質・量ともたかが知れている。
 米国が正しい情報を提供してくれれば問題ないが、米国には「フセイン政権が大量破壊兵器を隠し持っている」との誤った情報をもとにイラク戦争に突入した過去がある。大統領を頂点にする少人数のNSCで議論すれば、大統領の思う方向へとゆがんだ情報が集まる危険性があることをNSCの本家、米国が証明した。故意であれ、過失であれ、事実と異なる情報が米国から提供され、日本版NSCの閣僚が日本にとって重大な決断を下すことになるのである。(p.98-100)


安倍政権のような、物事の客観的な判断ができない(偏った考え方を持ち、事実より自分たちの願望を優先して判断する傾向が強い)人物が集まった政権ではこの危険性はさらに高い。



 発足からわずか20日後の2013年12月23日、早速、日本版NSCは重大な決断を下した。アフリカの南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に参加中の自衛隊が韓国軍に銃弾一万発を提供することを決めたのである。
 ……(中略)……。
 菅氏は過去の国会答弁と整合性がとれない点を「人道性」「緊急性」という反論しにくい理由を挙げた。「だから仕方ないだろう」との開き直りである。韓国で日本から銃弾を受け取った事実が報道されると、批判が高まり、韓国政府は「追加防御の意味で国連に弾薬の支援を要請し、国連を通じて支援を受けたというのがすべてだ」(2013年12月24日、趙泰永韓国外交部報道官)と緊急性を否定、日本側の根拠が揺らぐことになった。その後、銃弾は南スーダンで自衛隊に返還された。
 銃弾の提供は日本版NSCを拡大した元の安全保障会議メンバーである九人が集まり、即決された。会合は非公開のうえ、議事録は作成していないので当然、残っていない。どのような情報を基にどのような議論があったのか、検証する術がない。国民の見えないところで、重要政策が転換されるおそれが現実のものになった。(p.100-102)


数人だけの秘密の会合で、違法・違憲の判断を含めた判断が、まともな議論もなく恣意的に決めることができるようになった、というのが日本版NSCの本性と考えるのが妥当であると思われる。

すなわち、憲法違反に当たる行為を「即決」したということは、その点について慎重に議論をしなかった、ということである。また、外部からの検証も不可能な中で、憲法との整合性がとれないような判断を下したということは、公共的な場での議論に耐えられるような内容の議論はなかったと考えるべきであり、恣意的な判断であったと言える。



 政府の弾道ミサイルに対する対応方針は、日本に影響が及ぶ事態ではない場合でも全国瞬時警報システム(Jアラート)で内閣官房から自治体に伝えることになっている。今回は二度の発射とも使われなかった。日本版NSCが創設されたことで政治的な思惑が絡む余地が生まれ、かえって情報伝達が遅くなったといえるだろう。(p.102-103)


2014年の3月3日と3月26日に北朝鮮がミサイルを発射した際、日本政府の発表は前者は18時間近く後、後者は3時間弱が経過した後と遅かった。特に前者は日朝赤十字会談への影響を考慮したものと見られ、日本版NSCなるものがどのような効果を持つものなのかがより如実に明らかになったと言える。



 GSOMIAが締結されて、米国の軍事技術が提供され、日本の防衛産業でも米軍の最新兵器の生産や修理ができるようになった。米国製の最新鋭戦闘機F35の国内生産は、その典型例である。F35の生産をきっかけに、安倍政権は武器輸出三原則を見直し、防衛装備移転三原則として全面解禁した。「わが国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」といって憲法解釈まで変えようという政権が、武器を海外に輸出して安全保障環境を一層悪化させようというのだから、まるで漫画である。(p.106)


GSOMIAとは「軍事情報包括保護協定」といい、第一次安倍政権下で締結された日米の軍事に係わる秘密保護協定である。本書によると、これが特定秘密保護法の原点であり、かつては日本政府はGSOMIAの締結を否定していたが、2003年に小泉政権が米国からミサイル防衛システムの導入を閣議決定したことによって方向転換が行われたという。

アメリカとの軍事的一体化を進める一環として理解すると、安倍政権が進める様々な動きが説明できる。GSOMIAの締結、武器の生産や修理、武器輸出三原則の否定(転換)、日本版NSCの創設、特定秘密保護法の制定、そしてもちろん、集団的自衛権の行使可能とする憲法解釈(解釈改憲)。安倍晋三らが言う憲法改正の内容がどのようなものを志向しているのかは、この流れの中に位置づけて見なければならない。



 安倍首相が取り上げたのは、日本が攻撃を受けていない場合に自衛隊が武力行使する「マイナー自衛権」の問題である。……(中略)……。
 現に中国との間で尖閣諸島の問題があるのだから、「集団的自衛権を行使して米国を守る」といった荒唐無稽な議論と比べ、現実味を帯びたテーマであることは間違いない。しかし、警察や海上保安庁では手遅れになるから、最初から自衛隊を使えとの発想は、紛争の火種をバラまくのに等しい。中国でさえ、尖閣諸島には海上警察である「海警局」が対応している。米国では軍の下にナショナル・ガードや沿岸警備隊を、ロシアは軍隊とは別の国境警備軍を設けている。他国との揉め事にいきなり軍隊が出ていって国際紛争にしないための知恵である。軍隊が国境警備を担うのは、海を隔てた大陸側の欧州各国が安定していて、警備出動の機会がない英国の例がある。
 「隙間」を埋める作業とは、結局、自衛隊の現場指揮官に武力行使の権限を与える新たな法制の整備ではないのか。(p.162-163)


先人の知恵が次々と頭の悪い安倍政権によって剥ぎ取られていくのを見るのは腹立たしいとしか言いようがない。一度失われた知恵は、再度形になるまで相当の時間を必要とするだろう。



 これまでも自衛隊を海外へ送り出すまでは国会で論議するが、派遣してしまえば「よきに計らえ」だった。達成すべき目標も撤収時期も定めず、戸惑う自衛官の背中を「とりあえず行け」と押すだけである。(p.175-176)


無責任な政治家の決定と、それに翻弄される自衛官、という側面もあるということは押さえておきたい。この場合、明確なミッションがないという点は非常に問題となる。



 ベトナム戦争で米国と、中越戦争で中国と血で血を洗う壮絶な経験をしたベトナムは、軍隊を海外へ送り出すことに慎重だった。太平洋戦争で軍人、民間人合わせて三百万人以上が死亡し、二度と戦争はしないと誓って平和憲法を制定し、海外派遣を見合わせていた日本と似ている。近年、日本のPKO協力法に相当する法律をつくり、海外派遣の検討を始めた。
 その実績からPKO大国と呼ばれるカナダ、オーストラリアではなく、なぜ日本を研修先に選んだのか。ビン少将はこういう。
 「PKOとは何か、たくさんの疑問があり、実態を知りたかった。日本は武器を使わない国際貢献を積み上げ、PKOでは人道支援に徹している。日本のPKO協力法が定めている参加五原則(①紛争当事者間の停戦合意、②紛争当事者による日本の参加同意、③活動の中立性、④以上のいずれかが満たされなくなった場合の撤退、⑤武器使用は必要最小限度にとどめる)に強い印象を受けた。いずれもベトナムの国情に合うものです」(p.184-185)


安倍政権の思惑が実現すればするほど、日本はベトナムのような平和志向の国に対する模範性を失うことになる。



 しかし、安倍政権において安全保障問題で主導権を握るのは防衛省ではなく、外務省である。……(中略)……。
 外務省と防衛省との対立は国連平和維持活動(PKO)協力法が制定された1991年当時から続く。自衛隊の海外活動を通じて、日本の国際的な評価を高め、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す外務省に対し、防衛省は「外務省の道具ではない」と反発してきた。
 ……(中略)……。
 阪田雅裕元内閣法制局長官は集団的自衛権の行使を認めろ、というのは霞が関で外務省だけという。その外務省と安倍首相が相思相愛の仲なのである。(p.200-201)


なるほど。「外務省と防衛省との対立」および「外務省と安倍晋三との蜜月の関係」という観点は非常に重要であると思われる。

このように見てくると、安倍晋三がやたらと外遊したがる傾向(国会対応よりも重視している感がある外遊の多さ)と外務省との関係の近さとの間に関連があるのでは?というあたりも気になってくる。


半田滋 『日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊』(その2)

 「集団的自衛権」という言葉の誕生はそれほど古くない。……(中略)……。
 1945年2~3月、中南米諸国が参加したチャプルテペック会議で米州いずれかの一カ国への攻撃をすべての加盟国に対する侵略行為とみなして軍事力行使を含む対抗措置をとることで合意した。「集団的自衛権」という言葉の誕生である。会議は圧倒的な軍事力を持つ米国が主導した。ダンバートン・オークス会議の武力行使の禁止から大幅に後退した。
 ……(中略)……。
 当時、東西冷戦が始まりつつあった。集団的自衛権は、同盟国・友好国を陣営に取り込む必要性があると考えた米国が生みの親となった政治的産物である。ただ、国連憲章第51条は「安全保障理事会が(略)必要な措置をとるまでの間」との条件を付けて個別的自衛権、集団的自衛権の行使を認めているに過ぎず、自衛権行使そのものが例外的措置であることを明記している。
 集団的自衛権は東西冷戦のゆりかごの中で成長した。驚くべきことに第二次世界大戦後に起きた戦争の多くは、集団的自衛権行使を大義名分にしている。(p.46-47)


集団的自衛権は、冷戦を背景として成立した政治的産物だという理解は重要と思われる。西側の軍事力が強くない国が東側から攻撃を受けた場合、アメリカをはじめとする他の西側諸国が東側に反撃するということで、攻撃を抑止する効果や実際に攻撃が生じた場合でも攻撃を受けた国が東側に制圧されないようにアメリカなどが軍事介入することができるようにした、ということ。

現在の日本での議論でも集団的自衛権を行使することができるようになれば「抑止力になる」と推進側は主張しているが、実際には、何らかの攻撃やそれに近い状態が一度生じた場合には、集団的自衛権の行使は戦火を拡大する方向に作用する傾向があるということははっきりさせなければならないだろう。推進しようとする側が、こうした点についてまともな説明をしているのを私は聞いたことがない。(自衛隊に犠牲が出る可能性について問われた安倍晋三は、数日前に放送されたNHKの「クローズアップ現代」でも、質問に答えず、自衛隊の仕事に敬意を表するなどと的外れの回答をしたに過ぎなかった。)

第二次大戦後の戦争の多くが集団的自衛権を名目にしている点は驚くにあたらない。当然のことである。この点については、客観的な事実を共有すべきである。現在の政府(安倍政権)は、都合の悪い事実は報道されないように振る舞っている。極めて不公正であり、不誠実であり、恣意的だと言わざるを得ない。



 ベトナム戦争を参考にすると、集団的自衛権行使を理由に参戦するのは、米国のように「攻撃を受けた外国を支援する例」、韓国のように「参戦した同盟国・友好国を支援する例」の二つのケースがあることが分かる。前者の典型例はソ連によるアフガニスタン侵攻であり、後者は自衛権を行使して攻撃を開始した米国のアフガニスタン攻撃を支援した英国の例がある。
 興味深いのは、集団的自衛権を行使して戦争に介入した国々が「勝利」していない点にある。(p.48)


集団的自衛権によって参戦する事例に2パターンあることを指摘している。安倍政権のこれまでの説明では、前者を強調しているようだが、実際に起こることは後者の方が遥かに可能性が高く、恐らくはそうした事例に軍事力の投入をすることが本当の狙いではないかと思われる。

なお、介入した国が「勝利」していないという指摘は重要である。介入された国の一般の人々から得られる支持が当該国の軍隊と比べてかなり低い場合が一般的だと思われるが、このようなことなども大きな要因と思われる。



自民党は野党だった2012年7月、それらを下位法と位置づけ、上位法である「国家安全保障基本法(概要)」を制定することを総務会で了承した。
 ……(中略)……。安倍政権はパズルをひとつひとつ埋めるように概要の項目を先取りしている。
 ……(中略)……。
 概要の第八条「自衛隊」には、「必要に応じ公共の秩序の維持に当たる」とある。(p.50-51)


この法律の内容が出てくるのは来年の夏頃だろう。自民党の考え方については、いかに個人の自由や権利を蔑ろにしているか、もっと広く知られるべきだと思う。



半田滋 『日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊』(その1)

 尖閣諸島をめぐる日中の意地の張り合いが続く限り、常に不測の事態に発展するおそれはある。中国がソ連、インド、ベトナムとの間で繰り返してきた国境紛争をみると、領有権争いが本格的な戦争に発展した例はない。(p.ⅰ)


安倍政権が憲法解釈の変更(解釈改憲)が必要だと言う理由は、煎じ詰めれば「国際情勢の変化」しかない。そして、必要だから(安倍政権が示している解釈が憲法のテクストに照らして可能であるかどうかということには触れず)解釈の変更が必要だと叫ぶだけである。しかし、中国との領土をめぐる問題は、過去の例に照らすと戦争に発展するようなものではなく、それ以外の情勢は東北アジアは概ね安定していると見るべきだというのが、本書の議論の一つである。

こうした主張をテレビや主要な新聞などのマスメディアではまず見かけないように思う。安倍政権は漠然とした不安を煽って自らの思惑の方向に世論を誘導しようとしている。このことに対して、人びとはもっと自覚的になるべきである。



 安倍首相は、2013年4月23日の参院予算委員会で「村山談話」について聞かれ、「侵略という定義は学会的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」と答弁した。明らかに間違っている。
 1974年の国連総会決議3314は「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対するまたは国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう」と侵略の定義を明快に示し、条文で具体的な侵略行為を挙げている。日本は、もちろん賛成し、全会一致で決議された。(p.14)


安倍晋三のこの発言に対して、大手の新聞(電子版)を見た限りでは、問題だという認識は示されていても、本書のように「明らかに間違っている」とまで断言したものは未だに見たことがない。明らかな間違いに対しては、本書のように明快に指摘すべきである。

報道の「自由」は政府によって首根っこを摑まえられている(取材拒否などの手段のほか、例えばテレビは放送する権限などを握られている――だから、本当の意味で「自由」ではない)。このため安倍政権のような強権的で自身と異なる意見及び事実に対して不寛容な態度をとる権力者の前では、まともに批判が行われない。この言論の不自由と、それを利用した偽りと誤魔化しに満ちた世論誘導。これらのことには、本当に苛立たされる。



 もっとトンチンカンなのは、海保に即応予備自衛官を編入させるとの主張だ。即応予備自衛官は約5千8百人いるが、すべて陸上自衛官である。陸上戦闘のプロを船乗りにしろというのは筋違いに過ぎる。安倍首相は2006年から07年まで首相として自衛隊の最高指揮官でもあったが、護衛艦のことも、即応予備自衛官のことも知らなかったと考えるほかない。この勘違い発言は価値ある提言のように報道され、マスコミの無知が証明されることにもなった。(p.22)


安倍晋三らしいトンチンカンぶりである。マスコミがこうした安倍晋三の主張に対して批判しないあたりもまた、権力の飼い犬という印象を増幅させる。



 勘違いというより、事実をねじ曲げた発言もある。2013年2月15日にあった自民党憲法改正推進本部で安倍首相はあいさつの後、非公開の場で約15分間講演した。
 翌日の『朝日新聞』によると、安倍首相は北朝鮮による拉致被害者を引き合いに出して「こういう憲法でなければ、横田めぐみさんを守れたかもしれない」と改憲を訴えたという。1970年代から80年代にかけて日本各地であった失跡事件について、警察庁は当初から北朝鮮による拉致と確信していた。しかし、政治がその重い腰を上げるのは2002年、小泉純一郎首相の訪朝まで待たなければならなかった。 
 北朝鮮と向き合ってこなかったのは、自民党政権の問題であって、憲法の問題ではない。日本が改憲して「国防軍」を持てば、北朝鮮は頭を下げ、拉致事件は解決するのだろうか。では、日本とは異なる憲法を持ち、国防軍が存在する韓国でも五百人近い拉致被害者がいる理由を安倍首相はどう考えているのか。(p.22-23)


安倍晋三を含む極右の連中の認知および発言に共通してみられる特徴は、「事実認識と価値判断の区別ができていない」ということである。もっと分かりやすく(このケースに引き付けて)言い直すと、「事実がどうであるか」ということと「こうだったら自分にとって都合がいい」ということの区別がついていないのである。拉致問題を憲法が悪いからだとすることができれば、現在の憲法を貶めることができ、世論を憲法を変える方向に誘導しやすい。だから、事実がどうであるかなどお構いなしに、願望を述べる。こうしたことはもっと公の場で批判されるべきだ。



 国会論戦を経ないで閣議決定だけで憲法の読み方を変えてよいとする首相の考えは、行政府である内閣の権限を万能であるかのように解釈する一方、立法府である国会の存在を無視するのに等しい。憲法が定めた三権分立の原則に反している。(p.30)


同意見である。立憲主義にも反している。ただ、このような暴挙が許されるのだとすれば、「自衛隊は違憲であり、いかなる自衛権の行使も禁じられている」という解釈に変更することもできるということである。少なくとも、安倍政権の解釈は憲法の本文からは明らかに導き出すことができない内容となっているが、こうした方向の解釈は憲法の法文から導き出せるという点で違憲性の度合いは全く違うことになる。



キム・ナンド 『つらいから青春だ』(その4)

わが子の人生のまえでは、母親の肝っ玉はかぎりなく小さくなる。だから、母親たちは「食べていける」とにかく安定した職業を好む。成功の可能性を最大限にするよりは、失敗のリスクを最小限にする意思決定をくだすのだ。けっきょく、母親たちがしめすわが子の未来というのは、いつも似たりよったりだ。(p.213)


親が子に望む職業が、失敗のリスクを最小限にするものとなるというのは、確かにそういう傾向がある。これは親自身が子の将来に対して責任を負うことができないことから来ていると思う。



 少なくともぼくは既存の成功には安住しなかったし、ぼくができることではなく、社会がぼくに必要とすることを探して全力投球してきた。(p.224)


特に若い人が職業を探すときの姿勢として、この考え方が適切だと考える。「自分がしたいこと」や「自分ができること」という自己中心的な発想から探していても、いつまでも良い答えは見つからないように思う。それは自分という小さな存在に社会の側を合わせようとするという無理があるからである。

そうではなく、「社会が自分に対して貢献することを求めて来ること」を探すという社会の側から発想することによって、適切な場所を見つけることができるように思う。仕事というものは、何かを作ったり、売ったり、運んだりするが、その何かを必要とする人が社会の中にいるからできるのであって、誰からも必要とされないものは仕事にはならないからである。だから、自分がしたいかどうか、できるかどうか、ということは、二の次にした方が良い。自分が好きでないと思ったことであっても、やってみると違った、ということはよくある。同じように、自分にはできないと思っていたことも、やってみたら違うということもありうる。



 マーケティングの核心は自慢ではなく、消費者が「それ」を買う理由を、たったひとつでも納得いくようしめすことだ。その理由が製品にしっかりとけこんでいるとき、「それ」はまさに納得のいく「ブランド」になる。
 就職も同じだ。自分がどれだけ一生懸命生きてきたかを一句一句知らせても意味がない。会社がなぜきみを採用すべきなのか、たったひとつの理由でもきちんと伝えることが重要だ。(p.241)


一つ前の引用文に対するコメントと同じことが言える。自分を中心として発想(説明)するのではなく、社会や会社が自分を必要としているということを言えるかどうかが就職の時には重要、ということだ。

人に対して就職のアドバイスをする時にも、現在の私は「会社の側」から見て、採用したい人がどんな人だろうか、ということを考え、会社が求めているであろう人物像と求職者の言動がマッチするかどうかを考える。そこのマッチングを考えて就職のアドバイスをすると、本人だけで決めるときよりもはるかに高い確率で就職が決まる。本当に面白いように就職先が決まる。自分の就職活動の時に、この考え方や経験を既に身につけていたら、人生は違ったものになっていたに違いないと思う。



 スペックとは、ある人の貢献度を判断するのが難しいとき、これを予想する代理指標にすぎない。学歴、成績、TOEICの成績などは、学習能力、知能、誠実さの代理指標であって、資格やさまざまな経験などは、業務関連知識、組織適応力、その人の性質などについての代理指標だ。(p.243)


なるほど。だから、就職の面接などでは多少の効果があるが、実際に働いてからは、こうした「スペック」などよりも、実際の貢献度を直接見ることができるから、あまり意味がないわけだ。



キム・ナンド 『つらいから青春だ』(その3)

キープする何人もの人のなかから、学歴だ、外見だ、家がらだ、などという「属性」をすべて検討してから選択した結果が、ただだれかひとりとであってつきあう場合よりも、なぜうまくいかないのか?
 答えは思いのほかシンプルだ。人はショッピングする対象ではないからだ。人間関係はショッピングとはちがう。人間関係というのはいいパートナーを「選択」することではなく、いいパートナーに「なる」ことだ。友だち同士でもそうだし、恋人同士ではなおさらだ。それなのにいつもみんな「損をしない」選択をしようとする。けれども、関係というのは相互に与えあうものだ。相手も損しなくないと思ったなら、たがいに幸せになる選択はできなくなってしまう。(p.108-109)


同意見である。ただ、この程度の簡単なことも弁えていない人間が余りに多いことには閉口することがある。恋愛依存症的な言動をする人々は全て例外なく、この程度のことを見て取ることができないでいる。



だれかを「管理」できると信じるのは、いっけん、たいした自信のようだが、じつはとても卑怯な生きかただ。自分を投げだして愛する勇気がないということなのだから。
 ……(中略)……。愛する勇気と責任を知らない卑怯な相手とは、それ以上の未来はない。(p.110)


まったく同意見である。



 このように、決意を実行するのが難しいのは、決意の大部分が、自分の「習慣」をかえようとするものだからだ。習慣をかえることは難しい。日本の生物学者、石浦章一氏によると、習慣をかえるには脳の仕組みをかえなくてはならず、そのためには最低一カ月はくりかえす必要があるという。……(中略)……。
 わたしたちはなにかをするためにまず、決心、すなわち心を決める。……(中略)……。
 だが、生きかたは決意ではない。練習だ。ちょうど水泳をおぼえるのと似ている。本でうまく泳ぐ方法を完璧におぼえて、「明日からはうまく泳げるぞ!」と決意すれば、水泳選手のパク・テファンのようになれるだろうか?もちろんそんなことはありえない。泳ぎがうまくなるためには練習しなければならない。毎日毎日練習して、少しずつ自分自身をかえていかなければならない。(p.147-149)


単なる決意にはほとんど意味がない。毎日の練習の積み重ねによって習慣を作り変えていくことによってこそ、自分をつくりかえていく――すなわち成長する――ことができる。



 韓国では大学に進学すると人間関係の問題がようやく本格的に現れてくる。まず、大学には固定したクラスがない。幼稚園から高校まではクラス中心の毎日だった。三十~四十人ほどのかぎられた共同体のなかで、ケンカし、仲直りし、好きになって憎んで、そうしてもまれながら一年をすごす。ところが、大学ではそうしたクラスがない。
 クラスがないというのは、量的にも質的にも大きな変化だ。友だち関係、先生との関係がすべてだった小学校、中学、高校では、人間関係のパターンが比較的単純だ。けれども、大学に入り、成人してからは、異性の友人、同性の友人、先輩、後輩、教授、職場の上司、同僚、外部の協力者など、かなり親しい一次集団的な関係から、仕事で知りあうきわめて機能的な関係にいたるまで、人間関係が大幅に広がる。
 人間関係の幅がぐっと広がり、であう人の数も飛躍的に増えるいっぽうで、個々に接する時間と機会は大きく減っていく。だから、以前のような親密な関係を結ぶのが難しくなる。一度の失敗で関係がこじれると修復もたいへんだ。そのためか、中学高校、小学校時代の友だちくらい親しい関係はないともよくいわれる。(p.153-154)


なるほど。日本でも同じではなかろうか。大学の受験生や新入生には、こうしたことを知らせた上で、この状況に対する心構えなどを伝えたい気持ちになる。



むしろ、中学、高校で学べなかったさまざまな人間関係を経験すべきだ。
 ……(中略)……。オンラインには、それなりに強力な影響力やおもしろさがある。だが、オンラインにはオンラインなりの、オフラインには実生活ならではの、人間関係の可能性と必要性がそれぞれべつに存在するのだ。(p.157)


前段は一つ前の引用文と関わる。現在の私から見て、大学に進学する意味とは、「自分以上の人間と出会うことができる可能性が高い場に身を置き、そうした人間と対等の関係を築くチャンスを得る」ということであると思う。

義務教育は、社会の底辺に近い社会層からそれなりの生活ができる社会層まで比較的幅広い層の人間が交わるという意味がある。高校は学力によるランク分けがハッキリするので、社会的背景は似てくる。大学もその点は同様で、ある程度以下の生活水準しかない社会層の子弟は極端に少ない。逆に言えば、ある程度は自分の能力を伸ばすことが社会的に可能だった学生たちが集まるそういう中で切磋琢磨するチャンスが大学にはある。職業に就いてしまうと、より機能的な集団としての側面が強いので、人間関係も仕事に係わる場面での交流が大きな位置を占めやすい。大学では、そうした限定が少ないため、優れた人間と出会ったとき、より全面的に知りあうことができる機会を得やすい。発想の鋭さや独特さに驚かされることもあるかも知れないし、頭や気分の切り替えの力に驚くかもしれない。そういう中で自分も伍していこうとすることで成長が促される

後段のオンラインとオフラインの関係については、オンラインの関係は住居が離れていたりする人たちとのコンタクトがとりやすくなるため、お互いを意識し合って友人関係を続けやすくなるというのが最大のメリットだと思う。私の場合、旅先で知りあった日本人旅行者や現地人の友だちとの関係を維持し、深めていくために活用している。



いい友だちとは、そして、かわらない人間家計とは、どこかに探し求めるのではなく、努力して、いっしょにつくっていくものだ。(p.159)


その通り。これは友人関係に限ったことではない。



 意味のない習慣になっている趣味を「唯一の楽しみ」といういいわけでごまかすな。この世で最大の楽しみはなんだと思う?それは成長する楽しみだ。成長にどうしても必要な栄養である「時間」をうばう行動は、ほんとうの楽しみではない。たんなる時間つぶしが増えるほど、きみの存在の厚みはうすくなる。無意味にくりかえされる趣味、時間つぶしはいますぐやめろ。(p.181)


この著者とは価値観ないし考え方が非常に近いと感じる。



 挫折によって成長するんだ。うまくいっているときはだれも自分をふりかえらない。失敗を経験してそのときはじめて、なにが問題だったのかを反省する。そうしてこそ自分の成長のステップにできるんだ。だから、人生全体をみれば、ものすごい大失敗より、あいまいな成功のほうが、ずっと危険だ。(p.202)


私の人生訓の中で比較的大きな意味をもっている言葉の一つに、哲学者カール・ヤスパースの言葉「人間が挫折をどのように経験するかということは、その人間を決定する要点であります」というのがある(草薙訳『哲学入門』p.28)。このように、私が実存哲学から受けた影響の部分と、この著者の考え方が非常に強く共鳴している。




キム・ナンド 『つらいから青春だ』(その2)

親がものすごい金持ちでない限り(そういう人ははやくから財テクをはじめる必要もないだろう)、二十代でつくれる資金などじつは微々たる額だ。だから、わずかばかりのお金を倹約して、財テクをはじめるくらいなら、いっそのこと使いはたしてしまったほうがいい。
 もちろん、その出費は自分を成長させるためのものでなくてはならない。本を買い、旅にでて、なにかを学ぶことに使うのだ。
ほんとうにまとまったお金をつくりたいならば、はした金で数年はやく財テクをはじめるよりは、「よりよい自分」のためにお金を使おう。究極的には、自分の価値を高めて、高い年俸を得ることが「最高の財テク」であることを忘れずに。(p.69)


韓国で多くの若者が財テクをしていることに対する批判。確かに、20代で倹約しすぎて成長の機会を狭めてしまうよりは、成長の機会をいかにして得るかを考えながら金を使った方がいい。単なる消費のためではなく、自己教育のための投資のために金を使うべきだということ。これは若い人に限った話ではないとも思う。



 ぼくが財テクをやめたのは損するのがこわいからではなく、むしろ利益がこわくなったからだ。
 ……(中略)……。「金のような投資先がもっとないか?」と、関心がつねにそこに向いている自分に気づいたのだ。投資で稼ぐことが、仕事の楽しさをうばっていくと考えるようになったためだ。(p.70-71)


なるほど。利益が恐くなるという表現は面白い。関心が仕事そのものではなく、単なる金銭獲得、それも本業とは違うものに向ってしまうことによって、本業である仕事の楽しさが阻害される。そんなことをするくらいなら、本業での実力をつけるよう成長する方がいい、というわけだ。



ぼくは、ほんとうの成果を得るには、明確な目標と適切な方法、誠実な実践の三つがあわさってはじめて可能だと考えている。ところが多くの人が、さきほど木を伐る人のように「目標」と「方法」はさておいて、それ以上は考えず、「実践」の誠実性ばかりを問題にするのだ。
 これはひとつの惰性だ。ふりかえることをさぼった、勤勉なる怠惰だ。ふりかえらなければ、誤った目標に盲目的に突進したり、まちがったやりかたでムダな努力を続けることになる。

 では、どうやって自分をふりかえればいいのだろう?
 ……(中略)……。だが、ただ考えたり悩んだりするだけでは省察にはならない。もっと重要なのは経験だ。直接経験し、たくさんの本を読み、会話し、旅にでることだ。

 経験ほど人間を成長させてくれるものはない。ことさら、感受性が豊かな青春の時代に積んだ経験は、なにより貴重だ。自分をふりかえるのにこれ以上の方法はない。だから、できるかぎりさまざまな経験をしてほしい。それが非難されるような行動だったり、必要以上にきみの時間や労力を消耗することでないならば。「若いときの苦労は買ってでもしろ」ということわざは、意味もなく生まれたのではないのだ。

 ……(中略)……。

 会話は読書と同じくらい有意義な経験のチャンネルだ。とくに自分より経験が豊富だったり、洞察力がある人との会話は大きな気づきを与えてくれる。学校で学生たちをじっと観察していると、予想外に会話が少ない。かれらは自分では多いと思っているだろうが、それは気楽な友人や親しい先輩と「おしゃべり」しているだけだ。もちろんそこでは、ともに経験する困難を分かちあうという満足などを得られるだろうが、同じ迷路をさまよっていることも多く、自己省察できる慧眼を得るにはほど遠いだろう。
 それよりも、よきメンターを探そう。(p.75-77)


明確な目標、適切な方法、誠実な実践という3つの要素のうち、明確な目標と適切な方法は省察を必要とし、省察の最もよい方法は経験を積むことであるという。そして、経験のチャンネルとして著者が挙げているのが、直接経験、読書、会話、旅の4つである。

確かに、実践と反省(省察)とがかみ合うと非常に大きな力となる。本書の議論で独特なのは省察の方法を「経験」と呼んでいることだろう。経験を積んで成長することによって、成長する以前との比較や過去の捉え返しが適切にできるというのは、言われてみればその通りという気がする。成長がなければ反省するにも、過去の自分と現在の自分の到達レベルが同じ程度であれば客観視することは難しい。現在の自分と過去の自分の間に乖離があるからこそ客観視できる(しやすい)。

経験のチャンネルとしても、直接経験は言うまでもないが、読書、会話、旅のいずれも共感できる。これらの共通点は自分の視野を広げてくれるもの(ないし、自分の常識を覆すことがあるもの)だということではなかろうか。これによって直接経験をすることの意味もより深いものすることができる。読書や会話のない単なる直接経験だけでは、そこから学び取ることも限られてしまいがちに思う。



旅は、自分の不在が知人や共同体にとってどんな意味があるのか、思いめぐらせるいいきっかけになる。
 ……(中略)……。
 もうひとつ旅のいいところは、自分がしごくとうぜんだと感じていたことが、じつはまったくそうではなかったと感じさせてくれることだ。外国に行くとますますそう思う。……(中略)……。
 だから、カメラとケータイはひきだしにしまって、ちょくちょく旅にでよう。ガイドブックにでてくる名勝地だけを訪ねて写真を撮り歩く旅行ではなく、きみ自身にであいに行く、そんな旅に。(p.78-79)


ここで述べられている2つとも、同じような思いを抱いたことがある。やはり旅はよい。

カメラと携帯を持たずに旅に出ようとするのも、なるほどと思わされる。旅先で出会う人やひとりの時間を通して自分自身を省察することになるから、これらのものはその邪魔になることの方が多い。携帯については、特にfacebookなどを通して、リアルタイムに旅先のことを身近な人に知らせるツールとして使ってしまうが、これは旅の非日常性を日常の中に組み込んでしまうところがあり、旅の良さをかなり減じてしまうように思う。

カメラは人よりも場所や物に対して関心を寄せてしまう傾向を生むので、省察とは少し違う方向に関心を向けがちではある。ただ、壮大な景色や歴史的な場所へ足を運ぶことは、そのこと自体が精神を啓発することがある。カメラを通して自分の見方や関心が見えることもある。特に他の人の写真と自分の撮ったものを比較することでそれが見える。カメラは携帯よりは害が小さい(さらに言えば、別の効用を持ちうる)と思う。



 目標、方法、実践。
 世間的な意味での成功であれ、自分だけの夢であれ、人生でなにかを叶えるためには、この三つがひとつにあわさらなければならない。目標がなければ意味がなく、方法が正しくなければ非効率で、実践しなければ成しとげることはできない。ひとつでも欠けると、人生は、足が一本短い三脚台のように、力なく倒れる。
 つねにこの三つのバランスをとるためには、たえず自分をふりかえらなければいけない。この三角形の中心点に、自己省察があるのだ。


簡潔なまとめ。


キム・ナンド 『つらいから青春だ』(その1)

自分の情熱ではなく、人がいいという理由で選んだ職業や、安定した高収入が保証されそうだからと選んだ職業はむなしい、ということを指摘したいのだ。(p.34)


ここを読んだとき、「いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである」(尾高訳p23)という『職業としての学問』におけるウェーバーの言葉を想起した。

ただ、情熱が重要だとしても、「自分のやりたいこと」をすべきだ、とか、「自分のやりたいこと」を探す、という発想での職探しは基本的に誤ったものであると私は考えている。(本書もその点では同じようなことを述べている箇所があり、共感するところの一つである。)自分が職業選択をしていた時期にはそこまで思い至らなかったことなので、その点について本書についてのコメントで書ければと思う。



 大学に進学して最初に感じる困難は「目標が広がってしまうこと」だ。十二年間の小中高校教育をそっくり背負って「大学進学」という大目標が達成されたあと、「なにをすればいいのか」ばくぜんとしてしまうことによって感じる苦しさだ。(p.53)


今になってふり返ると非常によくわかる。私の場合は、大学に進学した時点では目の前に目標があったので、普通の学生としての学生生活は切り捨てて目の前の目標ばかりを見ていた。だから、進学直後にはこの苦しみは感じていなかった。しかし、その目標を失った後に、この痛みがやってきた。こうやって今、読書メモのブログを書いているのも、そうした苦しい日々を越える過程でいくつかの本や思想家、さらには共に考える仲間たちと出会ったことなどが遠い原因となっている。



失敗から学び、そこから一歩ずつ自分を成長させること。それが偶然への正しい頼りかただ。(p.55)


大学に進学して、上記のように目標が広がってしまうことによる苦しみの中に置かれたら、偶然に頼って自身を成長させるといい、というアドバイス。そして、失敗をして、そこから学べという。非常に理に適ったアドバイスだと思う。

自分が生きる社会がオートポイエティックなシステムであるかそれに近い動き方をするものである場合、偶然によって生成する事態と遭遇せざるを得ない。それに対しては事前に定まった対処法はない。当然、ここでは事前に定まった対処法がある場合よりも失敗する可能性は高い。こうした事態自体を自身の成長の糧とする発想に立てば、偶然の事態の捉え方も変わるし、そこから実際に成長することによって自分とその周りの社会にも(基本的により善い方向へと)変化が生じていくことになる。



 だが、資格試験や考試の受験を選んだのは、逆説的にも、安易で手を抜いた決断ともいえる。なぜか?自分では決意に満ちて試験準備を選択したと思うかもしれないが、じつのところは、自分の可能性について深く考えることを投げだした瞬間、自分の状況にみあった試験準備を安易にはじめたのではないのか。
 きみはこれまでの生涯、「試験勉強」だけやってきた。勉強はもううんざりだというが、内心は勉強(じつは試験をうけること)がいちばん楽になってしまっている。人との関係をつくっていくことも、ねばりづよく就職の扉をたたくことも、勉強とは次元のちがう「仕事のやりかた」に慣れることも、ものすごく難しい。「勉強がいちばん楽だった」のだ。しかも、若さのあらゆる問題を受験にすりかえてしまえば、その問題もしばらく猶予される。親や友だちに、そして自分に、ただ遊んでいるのではなく「なにかを一生懸命やっている」というメッセージもしめせる。
 だから、試験準備ははためにはすごくがんばっているようにみえても、人生の全体的なフレームからみれば、モラトリアムな怠惰のプロセスでもある。(p.60)


筆者が教えるソウル大学のような一流(有名)大学の学生に対するアドバイスとしては確かに的確と思う。例えば、日本でも、司法試験や公務員試験を受ける有名国立大学の学生のある程度の部分に対しては同じアドバイスが成り立つだろう。こういう場合でも、試験の結果がうまくいけばまだ良いが――実際、合格した後に出会う「偶然」によって、自信を成長させていけるようになる可能性はある――、試験に逃げているだけの状態で不合格が続くと精神的にもきつくなる。そういう人には、今受けようとしている試験は逃げ道ではないかと示唆してやることも必要な場合があるかも知れない。



 どんな職業でもいいから安定して高収入であればいい、という発想は、非常に消費中心的な考えかただ。……(中略)……。
 わたしたちの人生は仕事と余暇で成り立っている。仕事は職業と、余暇は消費と深い関係がある。そのため、ほんとうに幸せになるためには、良質の消費を楽しむのは半分にすぎず、楽しく働ける職業で残りの半分を満たさなければならない、ということに気づく必要がある。
 ……(中略)……。人生でもっとも本質的なよろこびを与えてくれるのは、消費ではなく仕事だ。好きな仕事をしているときの達成感は、よいものを買ったときのうれしさよりもずっと価値がある。(p.62-63)


安定した高収入の職業を希望する発想が消費中心的なものだという指摘は、今まで気づかなかった所だったので興味深かった。良質の消費をするための条件としての職業選択をしているということだと捉えられるから、これが消費中心的発想だということだろう。

確かに、著者が言うように、仕事の達成感と良いものを買ったうれしさでは違いがある。この対比(仕事と消費)は理念型的に用いることができそうに思う。つまり、例えば、中間的な領域を検出するときにも使えそうな気がする。

たとえば、仕事と消費の中間に、「家庭での生活」というものがあると思う。食事や余暇の主な場であるという意味では家庭は消費的な場であるが、例えば「子育て」は消費ではなく「仕事」のカテゴリーに入る。家庭において最も喜びを与えてくれるものは何か、何を家庭生活で価値があるものと見なせばよいか、ということを考えると、その中で「仕事」に相当するものだ、ということになるだろう。

また、余暇や消費でもいわゆる「体験型」と呼ばれるような消費がある。「旅行」や「●●作り体験」のようなものなど。単なるモノを買う消費よりも、こうした体験型の消費の方がより本質的な喜びを感じられるということも、この図式から導く(説明する)ことができる。

投資や流動性そのものへの選好の位置づけという問題はあるが、投資はその結果として単に金銭を増やそうという意味での投資なのか、何らかの活動の場や機会へと繋がることという意味での投資なのか、といった内容を分析することで、「仕事と消費」のどちらに近いかが決まるだろう。たとえば、「不動産ころがし」のような「投資」と、恵まれない子どもたちへの教育機会を与えるために教育施設などを創るといった意味での「投資」では同じ言葉を使っていても、意味合いは全く異なる。また、上述の「不動産ころがし」のタイプの投資ともつながるが、流動性そのものへの選好については、基本的に「金を買う」という消費の中に入ると考えてよい。だから、本質的な喜びは得られないし、モノを買うよりも喜びは小さい。だから、より多くの数字を求めざるを得なくなるのではないか、と思う。



マイケル・サンデル 『ハーバード白熱教室 世界の人たちと正義の話をしよう+東北大特別授業』

成績向上のための金銭的インセンティブのほうは、どれもあまりうまくいかなかった。一方で、本を一冊読むたびに二ドルもらった八歳の生徒たちは、実際に本をたくさん読むようになった。どんどん薄い本を選ぶようになったのだが。(一同笑)
 だが一番の問題は、本を読んでもお金をもらえなくなったとき、子どもたちがどうなるかということだ。(p.44)


学ぶことによる成長が本来の目的であり、学んだ結果の状態を確認し、その後への反省のために成績の評価が行われるのが本来の姿である。成長の手段が学習であり、学習をよりよくするための手段として成績評価がある。

これに対して、成績向上のために金銭を与えるというやり方は、学習する主体であるはずの子どもの側から見れば、お金をもらうための手段として勉強を行うということになる。学習が金銭取得という目的のための手段となっている。この場合の「勉強」は、成長を目的とする学びの場合とは異なり、「外部(金銭を支払う評価を行う人)から見て一定の基準を満たしいているという姿を見せること」が主な活動となる。その結果として、成績向上に結び付くような内容を習得することよりも、一定の外形的な見かけの状態を作ることを行うこととなり、結果として学ぶべき内容を習得(成長)できず、その結果として成績も向上もしない、ということになるのだろう。

金銭的インセンティブに限らず、勉強した形を残すことに対して短期的な評価を行い、「そうした評価に基づいた意味づけを行った遊びに連れて行く」などの報奨を与えるという行動を続けることによって、学ぶということがどういうことなのか全く理解していない子供が育つことがある。その場合でも、小学生くらいの間はよほど基準を下回らない限りテストの点数も80~90点くらいは誰でもとれるが、次第に中学や高校へと進む頃になると、そうした活動をしてきた子どもとそうでない子どもの間にはっきりとした違いが現れてくる。誤った習慣づけをされた子どもがここから転換することは極めて困難となる。

これは子どもの勉強に限ったことではなく、大人の仕事の評価についても同じだろう。成果主義的な発想がうまくいかない事の説明も以上と全く同じ形で行うことができる。



 長いあいだ、スイス政府は核廃棄物処理場を建設する場所を探していた。しかし、そんな施設を抱え込みたいというコミュニティはなかった。最終的に政府は、処理場建設にもっとも安全な場所として、スイス山中のある小さな村を候補地に選んだ。……(中略)……。そこで建設地決定の前に、政府はその小さな村の住人に調査を行った――「あなたの村が核廃棄物処理場の建設地として選ばれたら、受け入れに賛成票を投じますか?」
 さまざまなリスクが伴うにもかかわらず、51パーセントの住民が受け入れいると回答した。
 続いて、調査員は二つ目の質問で「アメ」を付け加えてみた。「この村が核廃棄物処理場の建設地に議会で選ばれた場合、村民一人ひとりに毎年補償金を支払います」――ちなみに、提案した額は一人当たり6000ユーロ。「それなら核廃棄物処理場の建設に賛成してくれますか?」
 ……(中略)……。
 現実はこうだった。補償金をプラスした二つ目の質問では、処理場の受け入れに賛成と答えた人は51パーセントから25パーセントに半減した。つまり、標準的な経済分析とは矛盾する結果が出たわけだ。標準的な経済分析によれば、ある負担を受け入れてもらうための金銭的インセンティブや金銭の提供は、受け入れの意欲を増すことはあっても、減らすことはないとされる。しかし、この調査では賛成が半分以下になった。(p.45-46)


インセンティブを与えれば、その通りに誘導できるという考え方自体が必ずしも成り立たないということは重要な指摘。なお、この点も住民の受け取り方を考慮した上で目的論的に整理すると説明が付きやすい。



男子学生6
 ……(前略)……。しかし、僕たちは共産主義社会に生きています。共産主義の定義は、誰もが高い道徳心を持つことですから、(一同笑)経済的な利益を犠牲にしてでも道徳や国や社会への貢献を選んでも不思議はありません。(p.47)


一つ前の引用文でサンデルが中国の学生たちに求めた質問に対する学生側の回答より。共産主義の定義として、述べられている内容が日本での一般的な理解とあまりにかけ離れているのが興味深い。中国の学生たちもこれに対して笑ったということからも、その定義が完全にまじめに受け止められているわけではないことはわかるが、施されてきている教育内容が(日本とは)異なっているだろうということは垣間見えるコメントではある。

逆に言うと、日本国内で流通している観念も諸外国から見ると同様にズレているものがあるかも知れない、ということは念頭におくべきだ、ということでもある。



 社会の中で市場の力が大きくなると、市民のもっとも重要な価値観が締め出されてしまう可能性がある。損なわれる恐れのある最も重要な価値の一つとは、公共という意識だ。つまり連帯感、私たちはみんな共にあるという意識
 ……(中略)……。私が子どものころは、最も高価な座席と最も安価な外野席の値段の差は二ドルほどだったんだ。そのことが当時もたらしていた効果の一つとして、スポーツイベントというものが、社会的背景も職業も階層も異なる人たちが一緒になって楽しめる場だったということが挙げられる。……(中略)……。今ではもう、そんなことはない。
 なぜなら今では野球でもサッカーでも、ほとんどのスタジアムに特等席、ボックス席があるからだ。……(中略)……。
 多くの点で社会全体、社会生活全般が分かれてしまっている。……(中略)……。民主主義は完全に平等であることは求めないが、社会的、経済的背景の異なる人たちが、日々の生活の中で、公共の場で交流することを求めている。(p.126-127)


市場が余りに力を持ちすぎると、民主主義の前提である公共的な意識が失われてしまう。サンデルの近年の主な主張はこの点にあると思われ、現代という時代にとって重要な指摘である。



女性教師
 ……(前略)……。聞き取りや小テストなどで満点を取った時など、生徒に青いシールをあげていましたが、シールをあげるのをやめると子どもたちは勉強しなくなりました。やる気をなくしたのです。
 子どもたちにとって青いシールはプレゼントと同じで、勉強の目的がプレゼントをもらうことになってしまって、勉強そのものではなくなるのです。ですから、子どもたちには長期的な動機づけをすべきだと思います。つまり読書という行為そのもののために読書をさせるようにするのです。お金は子どもに直接わたすのではなく、学校施設や教師の研修などのために使うべきだと思います。(p.157-158)


韓国での講義で勉強と金銭的インセンティブの問題を議論した際に出てきた意見より。p.44からの引用文の最後に、「本を読んでお金がもらえなくなたっとき、子どもたちがどうなるか」が問題だと指摘しているが、この教師によると、効果は持続しないということだ。目的と手段を逆立ちさせる非本来的なやり方は避けるべきだと私も思う。



51パーセントの住民が受け入れの意志を示した時、彼らは公共のために犠牲となる重責を受け入れようとした。……(中略)……。しかし、補償を提示されると、住民はそれを金銭の絡む取引であるととらえ、自分や家族にリスクにさらしてまで6000ユーロを受け取ろうとは思わなかったのだ。……(中略)……。補償の提示が責任感を追いやった。これは、金銭的インセンティブの重要な特徴を示している。金銭的インセンティブはほかの価値を追いやることがある。
 ……(中略)……。責任感がいったん金銭的な関係性によって追いやられ、失われてしまうと、それを取り戻すのは非常に難しいということだ。(p.162-163)


p.45-46の引用文と同じ問題について、韓国での講義でも議論している。ここでは中国での場合よりもさらに踏み込んで議論が行われているように思う。

ここで金銭的インセンティブの特徴として述べられていることを、同じくNHKの「白熱教室」シリーズ(お金と感情と意思決定の白熱教室)で取り上げられたダン・アリエリー教授の講義では、確か「社会的動機と金銭的動機は両立しない」として定式化していた。この講義を聴いた時、サンデルの指摘がより明確に私の中で理解できたと思った。すなわち、「社会的動機」は利他的な志向を持っているのに対して、「金銭的動機」は利己的な志向を持っているものだから両立しえない、少なくともほとんど常に衝突する、と理解できた。だから、金銭的インセンティブが跋扈する社会では公共的な意識が育ちにくくなる。常に利己的な方向へと意識が誘導されるからである。



納得とは、みなの意見を聞き、それぞれの考えを理解することから始まる。全員の意見を採用することはできないかもしれない。それでも、みなが共に暮らす地域を再建するには、全員の声を聞き、その意見について検討されるということが大切なのだと。(p.215)


民主的なプロセスが善き社会をつくる上で重要である理由。