アヴェスターにはこう書いている?
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村井吉敬 『エビと日本人Ⅱ――暮らしのなかのグローバル化』

この20年ほどの間にエビ輸入(消費)の世界で起きたことは、北米や中国、ヨーロッパでエビの消費量が伸びた一方、日本では1997年をピークに消費量が減少傾向にあり、輸入世界一がアメリカにとって代わられたということだ。(p.135)


90年代半ばにピークに達し、そこから減少傾向になるというパターンは、生産年齢人口が減少に転じた時期と符合している。消費は生産年齢人口の波に規定されるという論を支持するデータと言える。



エビ(ロブスターを含む)の家庭内消費のピークは1992年で年間8204円、3340グラムだった。しかしこれ以降まさに激減している。2004年にはピーク時92年の半分にまで減ってしまったのである。(p.139)


家庭内での消費に限定すると、ピークが少し早くなっている。核家族化によって油料理を家庭でしなくなってきたことが要因であるとの意見が述べられているが、確かにそれはあるかも知れない。家族の人数が少ない方が、一度使った油を再利用できないため効率が悪いし、キッチンも汚れるので掃除も面倒だし。


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ヴォルフガング・シュヴェントカー 『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』(その3)

ごく少数の日本の「ウェーベリアン」――そのなかにはかつてのマルクス主義者も混ざっていた――は1935年以降、ウェーバーによって決然と表明された価値自由の教義を発見するに至る。彼らにとって、これは日本の軍国主義下で、あたらしい軍国的官僚政体に取り込まれないための政治的・イデオロギー的な道具でもあった。こうしてマックス・ウェーバーの著作に関する仕事は、1937年の日中戦争勃発後、日本の社会科学のなかで二つの前線に挟まれながら展開していくことになる。一方は、いまや後退を余儀なくされた旧来のマルクス主義との対峙、他方はあらゆる西洋的なものに猜疑心を抱く新興の軍国主義的ナショナリズムとの対峙である。(p.287)


軍国主義化の流れの中での価値自由論の受容についてはすでに引用しておいたが、思うに、このあたりの隘路を通らなければいけなかったことがWertfreiheitを「没価値性」と訳され、(価値判断を行わないかのように)理解されたことの背景の一つかもしれない。



 日本のウェーバー研究には、もう一つ別の際立った特徴がある。これもまた権威主義的な体制下での特別な研究条件に由来するものである。日本の多くの学者は、ドイツとヨーロッパの学問への知的な結びつきを放棄しようとはしなかった。そこで彼らはウェーバーとともに「国内亡命」へと向かったのである。その際、彼らが依拠したのは、マリアンネ・ウェーバーによる伝記と、早くに日本語に翻訳されたカール・ヤスパースのウェーバー論だった。これによって、今日の私たちには奇異に思われる。宗教的装いを与えられた「求道者」としてのマックス・ウェーバーの偶像化が行なわれた。求道者とは日本の仏教の古い概念である。この系列の受容史は主観的なマックス・ウェーバー解釈の最たるものだが、これがふたたびヤスパースの影響のもとで、1950年代の日本の実存主義において復活し、さらに強化された。それは、一部の日本の「ウェーベリアン」たちのもとで、マックス・ウェーバーをヨーロッパ学問の「偉大なる巨匠」として誇大に神話化するのに貢献した。(p.287-288)


マリアンネとヤスパースの影響を受けたウェーバー像は、戦後しばらくの間のウェーバー研究者たちの間で共有されていたように思われる。1970年代頃までのウェーバーの入門書のほとんどが、多かれ少なかれこうした色彩を持っていたように思う。

青山秀夫、安藤英治、大塚久雄などが提示するウェーバー像は、まさに「宗教的装いを与えられた」求道者としてのイメージが色濃く見られる。もう一つ後の世代でも折原浩などは、「宗教的装い」はかなり薄められているが、世俗的な真理探究者という意味での「求道者」というウェーバー像を語っているように思われ、かなりの長期にわたって影響が及んでいると言える。

これへの過剰なカウンターとして「ニーチェの影響を受けたウェーバー」が90年代頃に登場するということだろう。最近の世代のウェーバー研究を見ると、これらの世代とは少し距離を置いて、醒めた目でウェーバーを見ているように見受けられる。そうだとすれば、この約70年ほどの歴史の中で起こったウェーバー像の変化は、私自身の中でここ十数年間に起こったウェーバー像の変遷と同じ流れになっており、興味深い。もっとも、古い本から順に読んできたため、私自身がこうした日本の研究に影響を受けたという面が大きいが。



 日本の国家と社会の徹底的な再編成はまた、日本のナショナリズムとマルクス主義を永続的に排除することを目指したアメリカ占領軍の目標でもあった。アメリカの社会科学は、そのためのイデオロギー装備として、いわゆる「近代化論」を提供した。それは西欧およびアメリカの発展の範例的性格を強調し、それを日本に移植しようとするものだった。(p.289)


こうした理解は本書から得た収穫の一つだった。近代化論が日本に持ち込まれた政治的な意図や効果がより鮮明に見えてきたように思う。



政治小論集は、とくにウェーバーの戦争責任についての論考が中心になった。そのテーマは「天皇制」への批判者が1950年代に主に携わっていたものである。これについては、相沢久訳『政治書簡集(附・戦争責任論)』未來社、1956年を見よ。(p.339)


戦後間もなくのウェーバーのテクストの翻訳状況に関する注より。


ヴォルフガング・シュヴェントカー 『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』(その2)

マックス・ウェーバーの社会学に関する当時の多くの出版物を傾向的に特徴づけるならば、1975年以降の日本では、彼の著作の歴史的な部分よりも、むしろ理論的な部分により強い関心が向けられたといえるだろう。『経済と社会』の文献批判的再構成を試みた折原浩の研究もまたこうした背景から見る必要がある。(p.266)


なるほど。『経済と社会』が再構成されなければならないことに気づかれた背景として、理論的な部分への関心の広まりということも挙げられるわけか。



 日本にかぎったことではないが、1920年代からウェーバー研究が取り組んできたもう一つ別の問題が1980年頃からふたたび熱心に取り上げられるようになる。それは宗教ないし倫理と経済との関係である。これにはアクチュアルな経済的・政治的理由があった。1980年代は日本にとっていろいろな意味で「黄金の10年」だった。「バブル経済」が実質所得の明確な上昇と貯蓄率の向上につながり、1980年における貯蓄率32パーセントは西側工業国のそれをはっきりと上回った。何よりもまず日本における民間経済と基礎研究を促進した巨額の投資増と先鋭化した資本輸出が、エキゾティズムを煽る西洋の異文化理解のなかで、日本を先進工業諸国のなかの模範国家に仕立て上げた。日本の「経済奇跡」はいまや西側世界に追いつき、いやそれどころか脅かす存在になりつつあると多くの人々が感じた。「日本」対「残りの世界」というタイトルでヨーロッパとアメリカのいくつかの雑誌、新聞が特集を組んだ。西側の文科闘争者の側では「ジャパン・バッシング」が起こり、これに対抗して日本ではあらたな国民意識が芽生えた。それが日本人の社会文化的・民族的な特異性についての議論、すなわちその間に有名になった日本人論へと流れ込んでいった。この発展を背景にして国際的な日本研究においては日本の成功の精神的・宗教的原因を探ろうとする機運が一気に高まり、しかもときにはマックス・ウェーバーの著作が引き合いに出されることもあった。(p.266-267)


90年代以降、日本の社会の中に歴史修正主義的な歴史観や中国や韓国などを憎悪の対象としてヘイトスピーチなどをするような人々の物の見方が、数は多くはないとしてもジワジワと拡がってきた。これは冷戦が終結して植民地主義的な支配に関わる資料が次々と「発見」されて、植民地主義に対して50年遅れの批判が行われたことに対する対抗という面もあると思われるが、その前段の80年代にすでに「ジャパン・バッシング」への対抗という形で「あらたな国民意識」の形成の傾向があったというわけか。なるほど。



アジア経済の成長率に関するウェーバーの問いを取り上げるという形で近年彼の著作が受容されるようになったことは、むしろ社会科学における文化主義的なトレンド転換に助けられた面もある。この転換を通じて、歴史と社会の分析のなかでふたたび「文化」にあらたな意義が認められるようになった。すなわち文化は、他のファクターとならんで社会発展とナショナルなアイデンティティ規定を説明するファクターとして、あるいはさらに極端な場合には、唯一の重要な契機として扱われるようになった。その際、文化主義的な説明枠は二つの機能を果たしている。一つには、市場と情報システムのグローバル化と世界各地での移民の増加を考慮すると、「文化」が、異なる世代と社会層の人々を結束させ、あるいは異文化環境のなかで彼らをそもそも一つにまとめるための最後の絆であるように見えることである。もう一つには、共産主義圏の解体と冷戦の終結によってマルクス主義がもはや政治的に重要な役割を果たし得なくなったあと、文化がイデオロギーの代役を果たすようになったことがある。……(中略)……。
 とはいえ、この連関におけるマックス・ウェーバーの著作の役割には二義性がある。……(中略)……。ウェーバーをよく読めば、共通の価値共同体に属するとされる個々のアジア諸国が西ヨーロッパやラテンアメリカ諸国よりもはるかに多様性をもっていることが理解できたはずである。……(中略)……。それゆえ「アジア」とその政治的・文化的「価値」は雑種的で人工的な構築物であり、それによってなにがしかを説明することはできても、すべてを説明するわけにはいかない。とはいえ、それは共通の文化的遺産を指し示すことによって国家の権威を正当化するのに役立つため、いずれにせよ政治的には使い勝手のよいものである。
 日本の知識人のなかには、以前から西洋的なものすべてに対して猜疑心を抱き、マックス・ウェーバーとその日本における紹介者たちを公然と論難してきたナショナリズム派の批判者たちがいる。彼らは西洋に抵抗する文化的広域論のシナリオを自分たちの目的のために利用している。しかし日本の社会科学者の大半はウェーバーの比較宗教社会学を視野に入れながら社会構造の冷静な分析でこれに対抗し、文化主義的な敵/味方図式でものを考える右派のイデオローグたちよりも説得力のある結論にたどり着いた。(p.270-272)


「社会科学における文化主義的なトレンド転換」が90年代頃にあったという見方は興味深い。確かに、それ以前のパラダイムから見ても、粗雑な「文化」論によって社会現象を説明しようとする傾向が強まったことは否定できないように思われる。

「文化」が社会を一つにまとめる「最後の絆」であるとすれば、それは内と外を分けるものでもあるため、「敵/味方図式」へと繋がることとなる。こうした見方は「国家の権威を正当化するのに役立つ」ため、「政治的に使い勝手のよい」ものであるため、(特に右派の)政治的リーダーたちやそのブレインとなる右派のイデオローグたちによって喧伝される「文化」が冷戦時代のイデオロギーと同じような役割を果たしていくことになる、ということだろう。



だが、ウェーバーのカリスマ概念がその矛先を向けたのは、ウェーバーの時代に跳梁した予言者たちや真正カリスマの担い手たちに由来する危険に対してではなく、一見不可避に見える官僚制的合理化に対してであった。(p.273-274)


なるほど。もしそうであれば、官僚制に対する対抗手段としてのリーダー待望論にはつながりやすいが、カリスマ的支配によるリーダーの暴走への警戒というモメントは少ないということになりそうだ。注意して読み直してみたい観点。



 マックス・ウェーバーの著作のなかに同時代との関連を見つけ出す作業のなかで、群を抜いて注目を集めてきた思想家はフリードリヒ・ニーチェだった。……(中略)……。しかし日本においても近年では、ニーチェの影響についてやや行きすぎた主張がなされる傾向がある。……(中略)……。しかし、それにもかかわらず、山之内靖をはじめとする研究者の最近の研究は従来のウェーバー像への重大な挑戦だったことに変わりはない。かつてのウェーバー像は、終戦後、一方ではマルクスおよびマルクス主義者たちの著作との、他方ではアメリカ由来の近代化理論との二正面対決のなかでその輪郭を作り上げてきた。それがここ10年ほどのあいだに、マックス・ウェーバーの著作へのニーチェの影響を探り出すことが、あたらしい解釈の重要な潮流となっている。
 ……(中略)……。マックス・ウェーバーの著作の精神史的基盤を模索するなかでニーチェがこれほど遅れて顧慮されるようになった一因は、ウェーバーの死後数十年間、大きな著作研究が経済学者と社会学者によってなされたというところにあるだろう。……(中略)……。
 ……(中略)……。その際、山之内が選んだのは、もはやマックス・ウェーバーの社会学の助けを借りて近代を政治的ないし社会的ユートピアとしてモデル化する方向ではなく、むしろ20世紀における近代の危機を診断するという方向だった。(p.274-275)


戦後の日本のウェーバー像がマルクス主義と近代化論との二正面対決のなかで形成されてきたとする指摘は、簡潔でありながら的を射ている。90年代頃からニーチェの影響が重視されるようになるが、従来の近代主義的なウェーバー像から「近代の危機」を診断するいわばポストモダン的なウェーバー像が提示されている。私見では最近ではこのポストモダン的なウェーバー解釈は十分な妥当性を持たないと評価すべきと思われるが、従来の解釈の固まった方向性のようなものからの解放という意味はあったのではないか、という気がしている。



多くのウェーバー研究者はナイーヴにも旧プロテスタント的職業倫理に自己同化してきた。それ自身が、じつはウェーバー研究者たちが普段批判している儒教的・封建的忠誠心の後続的帰結なのだ、と三島はいうのである。……(中略)……。こうした評価に立って、三島は進化論的ウェーバー解釈に対する「ニーチェ的批判」をさらに越え、知識社会学的水準で何人かの解釈者たちの「ウェーバー教」と「信仰告白的性格」を厳しく批判する。こうして三島は日本の学問的営為を支えてきた暗黙のルールを破ったのである。マックス・ウェーバーならばこうした論争をおそらく歓迎したことだろう。日本におけるウェーバー研究が外側からもたらされたこうした近年の挑戦に、はたして、またどのように冷静かつ知的に反応しうるかは、なお今後の課題である。(p.278)


三島憲一による批判は、本書を読む限りではウェーバー研究というより、ウェーバー研究者に対する批判でしかないが、これがどれほど生産的な議論になりうるかは疑問である。もっとも、研究スタンス自体を批判することにより、従前の研究での到達点の限界を示し、別の見方をする者の登場を促すということはありうる。

私がこの箇所(原著は1998年に出ている)を読んで想起したのは、羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002)によるウェーバー及びウェーバー研究に対する批判である。羽入による批判は全体としては妥当しないと思われるが、結局、「冷静かつ知的に反応しうるか」という観点から評価すると折原浩の反批判は(内容は概ね妥当と思うが)やや感情的と言わざるを得なかった。どちらの側もある意味ではウェーバーという人物及び作品のもつ魅力による重力圏の中にいるということであるように見受けられる。そういう意味ではウェーバーのテクストというのは、なかなか取り組みが難しいものであるのかもしれない、と思う。


ヴォルフガング・シュヴェントカー 『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』(その1)

より広い国民層には、仏教の寺院の学校が開かれていた。そこでは、1868年の政治社会的変革までに、男性の40から50パーセント、女性の15パーセントがしっかりとした教育を受けていた。これは、日本の近代化がその後成功する、決して過小評価されるべきでない要因である。(p.43)


教育の普及は社会のいわゆる近代化にとって、確かに重要な意味をもつ。寺子屋で教育を受けていた子どもがどれくらいの割合だったのかということまでは知らなかったが、ここで示されている数字が本当であれば、かなり高い就学率と言ってよいかもしれない。



理念型の方法論的適用を、三つの方向へと批判的に問うこともした。第一に、「経済人(homo oeconomicus)」の概念を例にして、現象の一側面、この場合は経済的側面が概念的に上昇していくことは、三木には問題があるように思われた。なぜならそのことによって経済史的な出来事にとって意味のある他の諸相を考慮しなくなるからである。(p.83-84)


三木清によるウェーバーの受容に関する叙述より。理念型による叙述に対する的確な批判。理念型の利点と欠点は同一の理由から生じる。理念型を構成する際に、現実のある一面を一面的に上昇させる処理をすることは、認識をクリアにしてくれることによって、認識を大いに助けてくれる場合があるが、その際、同時に他の側面を見えにくくしてしまう傾向がある。



他方で、マックス・ウェーバーの『学問論』は、日本の社会学者と歴史家が方法的に、体制に対して学者として独立を主張することを助けた。たとえば、戦後、日本のもっとも重要な社会学者の一人となる福武直は、若い頃1940年に、マックス・ウェーバーの仕事は、とくに「価値自由論」によって重要であり続けると強調した。「「ウェーバーの時代は過ぎ去った。今日では彼の科学は死せる科学である」とシュパンはいうが、われわれは彼の理論は生きていると考える」。日本の学者が1936、37年から1945年に吸収したのは、とくに価値自由の問題であった。価値自由は、たんなる社会科学的方法論もしくは知的万能薬以上のものであった。それは隙間へと退避したリベラルな学者にとって、体制とその手先である文化官僚による侵害と独占から、自らを守るための政治的およびイデオロギー的な装置でもあったのである。(p.116)


叙述を行う際の価値判断の基準について、自他に対して明示しつつ、そこから一貫した論理で事象を叙述していく。この時、自身が本当に望んでいることとは異なる特定の学問的な基準を立てて、そこから見た場合にある事象がどのように見えるか、といった叙述を行えば、自らの信念と学問的な客観性と政治的な検閲に対する抵抗のすべてをある程度満たすことができる、というわけか。思想的な抑圧に対する抵抗の手段として価値自由論が受容されたということは記憶にとどめておく価値があると思われる。



 マックス・ウェーバーの実存主義的解釈に対するあらゆる疑念にもかかわらず、ヤスパースの書物の翻訳は影響を及ぼし、人と業績の統一をめぐる議論にあらたな、しかも特殊日本的なアクセントをつけ加えた。これを明らかにするためにここで、安井郁の筆による翻訳への、いま一つの反響を取り上げる。これは有名な『国家学会雑誌』のために書かれた「求道者としてのマックス・ウェーバー」という題の論文である。……(中略)……。本来、安井の書評はヤスパースの書物の内容を忠実にくりかえしたものにすぎなかったが、ウェーバーを求道者として半宗教的な意味で特徴づけたことによって、ヤスパースの意図を超えていった。……(中略)……。
 人と作品のこの核心において宗教的に内面化された主観的な見方は、戦時中に社会科学者が直面した外的な圧迫の結果であった。(p.148-149)


ヤスパースによるウェーバー論は日本における戦時中と戦後しばらくの間のウェーバー像にとって強い影響を与えたとされる。確かに少し古い時代のウェーバーに関する解説書などを読むとそれがよくわかる。著者がウェーバーに心酔していると感じられるようなものが結構あったからである。

さすがに最近は、そうしたウェーバーという人物への評価もEntzauberungされてきていると見受けられるが、ヤスパース流の理解が戦時中の思想的言論的な抑圧状況の中で、社会科学者たちが社会に対して客観的な真理を発信することが難しいという現実を前にして、ヤスパースによって描かれたウェーバー像のような主体的な真理を求める姿勢に共感し、魅力を感じたとしても不思議はない。

なお、ウェーバーとキリスト教信仰との関係というモメントが入ってきて、キリスト教への共感を持ちながら、ウェーバーをキリスト者ないしそれに近いものとして扱おうとするところは日本に特有のウェーバー像であるらしい。近代主義者たちが欧米を理想的な追いつくべき社会として考え、憧れていたことと結びついていると思われる。



 なぜ日本内外の歴史的社会科学は、近代化論のパラダイムを日本に適用しようとしたのだろうか。その際どのように近代化研究がマックス・ウェーバーの著作に関わったのだろうか。近代化論を日本に適用するきっかけはもともとアメリカのソ連研究からはじまり、ソ連のアジアへの影響を政治的に封じ込めるグローバル戦略の一部であった。この文脈でC.E.ブラックとアレクサンダー・ガーシェンクロンの研究がこの状況をよく説明している。アメリカの日本研究者は1958年秋に最初にミシガン大学に集まって、日本の近代化に関する大規模研究プロジェクトを発足させた。……(中略)……。このプロジェクトの背景にあったのは、日本の近代化が非常に成功し、「日本の近代的発展コースを一つの有力なモデルとして」アジアやアフリカの国々に示すことができるという、アメリカ側の確信であった。(p.218)


近代化論のパラダイムについては、かなり前に私も集中的に批判を繰り返していた時期があった。ただ、その頃は、ここで指摘されているような含意までは把握していなかったので、目から鱗が落ちる感じである。

東西冷戦の構造の中で、共産主義陣営が共産主義というビジョンを提示して第三世界の人心を惹きつけようとするのに対して、西側の対抗イデオロギーとして近代化論が提示されていたというわけだ。その際、基本的なビジョン(理想の未来社会像)を与えるのはアメリカの社会であったが、日本の成功とそのプロセスも一つの手本として利用しうると考えられていた面もあったということか。なるほどと思わされる。



体系的な面でも安藤は日本のウェーバー研究に画期的貢献をなした。彼の大きな業績の一つは、ウェーバーのカリスマ概念を日本の学問〔世界〕に紹介したことだった。(p.252)


現在、「カリスマ」という言葉は日常的な日本語として定着していると言ってよい。「カリスマモデル」、「カリスマ店員」などといった言葉がカジュアルな場で使われていることを見てもそれがわかる。ウェーバーの用語がその元となっているということは逆に意識されなくなっている。




村井吉敬 『エビと日本人』

 エビ生産統計が登場する1894(明治27)年から、太平洋戦争に至る約半世紀、日本のエビ生産量は大して増えていない。一万数千トンだったのが、せいぜい二万トン位に増えただけである。大正時代には船の動力化が始まり、また冷蔵技術も次第に普及したので、エビ市場は地場だけでなく広域化していったのである。植民地朝鮮で獲られた大正エビが氷蔵され、下関経由で東京まで運ばれるようになったのも大正時代のことである。……(中略)……。
 このように、エビ市場の広域化は、戦前にもそれなりに進んでいた。しかし、生産量からみる限り、エビはそれほど食べられていたわけではない。一人当たり平均では300グラムにも満たない。今日の日本人の七分の一以下の消費でしかない。1950年以降、ようやく国内エビ生産の伸びが大きくなっていく。漁業の「近代化」、冷蔵・輸送技術の革新が急速に進んだ時期である。そして1961年、エビ輸入が自由化される。エビ消費量が年を追って急速に増えてゆく
 こう見てくると、日本人がエビを本格的に食卓にとりいれ始めたのは、せいぜい20年前のことである。それ以前は、地場商品であり、きわめて限られた機会に食べるぜいたく品だった。(p.168-169)


1988年に出た本なので、エビが本格的に食卓に取り入れられたのは20年前と書かれているが、このブログを書いている現在から見ると約50年前ということになる。

それはさておき、大正時代に船の動力化が始まり、冷蔵技術も普及したというあたりは、やはり北洋漁業の『蟹工船』を想起させされる。あの小説の舞台は昭和初期のことであった。漁業ではなく農業の分野でも、台湾のバナナやパイナップル缶の輸出・移出も大正時代に急増していたこと、さらに、ここにも品種改良や缶の製造などの技術革新が関与していたことが想起される。



 しかし、冷凍食の普及はかなり意図的、綿密に業者と政府とが一体になって推進したと思われる。アメリカのスーパーマーケットと冷凍食普及というモデルがあったのだろう。
 コールドチェーンは、生産地で冷凍加工した食品を、そのまま最終消費者まで運び、消費させるシステムである。……(中略)……。
 官庁が音頭をとって国民の食の「近代化」を推進するというのもおかしな話だが、おそらく、背後には、商社、水産会社、食品会社、大手スーパー、さらには冷凍冷蔵庫を売りたい電機メーカーがいたのだろう。コールドチェーン化は、塩からいものを食べない方がいいといった親切心よりも、産業界からの要請に政府が乗ったとみた方が実態に近いのではなかろうか。(p.179-181)


冷凍食という今ではあまりに一般化してしまったものも、数十年前には産業界と政府が推進した結果という面があったということに驚いた。



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

坂野徳隆 『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(その4)

 ラジオは台湾人に対する植民地政策の浸透と洗脳に貢献したともいわれるが、ラジオの普及率を内台別に見た場合、圧倒的に内地人世帯が多かった。……(中略)……。
 総督府が普及率のてこ入れをしたのは、先の番組表の1930年代半ばであり、これは満州国が建国され、軍部の締め付けが厳しくなる頃と重なる。さらに無料の受信機を配るなどして35年から37年にかけて登録者数が倍増したのは皇民化教育がはじまる時期で、新聞雑誌における漢文欄廃止と同時に日本語以外の放送が一時的に禁止されたのは昭和12(1937)年のことだった。
 ……(中略)……。
 台湾人、原住民青年に対する皇民化教育で力を発揮したのはラジオではなく地域に組織された青年団だった。(p.146-148)


メディアと統治の関係も重要な問題。新しいメディアが必ずしも有効に支配の道具になったわけではないという点は興味深い。



 台湾では『台湾日日新報』(1898年5月1日創刊)が台北唯一の日刊紙で、同紙は後藤新平民政長官の産んだ子供でもあった。後藤は着任するなり、現地の二大新聞(『台湾新報』〔明治29年創刊〕と『台湾日報』〔同明治30年〕)が対立し、他新聞が林立して総督府への批判を繰り返すのをよしとせず、官製新聞一紙に統合国体のために新聞メディアを強権的に統べるのは後藤の常套手段で、後に満州でも同様のことを行っているが、それだけメディアの持つ影響力を理解していたのだろう。(p.154-155)


メディアに対する統治権力の介入は、現在の政治状況においても非常にアクチュアルな問題である。安倍晋三が首相となった時や橋下徹が大阪府知事・大阪市長に就任した時、真っ先に行ったことの一つが、メディアに対する取り込みまたは圧力・牽制だった。安倍晋三は首相に就任してまもなく、大手新聞社やテレビ局の要人たちと相次いで食事をした。NHKに対しては経営委員や会長に自らの息のかかったものを次々と就任させて乗っ取りをかなりの程度完了しつつある。橋下徹は自分の意に沿わない報道をすると彼が見なした媒体に対して取材拒否という態度を取るなどしてメディアを委縮させた。

テレビと新聞が政治に屈した時、公共の言論空間は、本来メディアが果たすべき公共的な役割よりもより狭い党派的な意見によって占拠されることとなる。その党派的な意見とは異なる意見が公共の場に出てくることが難しくなる。現在、すでにこうした方向へと日本の社会・言論空間は進みつつある。

安倍晋三や橋下徹は教育に対しても積極的に介入しようとしているが、これは中長期的にこの悪しき状況を助長し、改善の可能性を低くするものである。こうしたことに対する危機感が日本のメディア報道や多くの市民の意見からは感じられないことに危機感を感じる。



 しかし台湾人の日本語識字率は漢文が禁止された昭和12年でも四割に満たなかった。ラジオはほぼ内地人が占有していたが、新聞にしてもその傾向はあまり変わらなかったことになる。(p.156-157)


当時の台湾のマスメディアの状況。教育とメディアとはやはり連動するところがあると認識させられる。



 消費文化は広告と密接に結びつき、同じブランドを共有することが内台融和を促進する側面もあった。新聞が日中戦争の泥沼化とともにそうした側面を強化した様子は、今見ても資格に恐ろしいほどこちらに訴えかけてくる。
 ……(中略)……。
 今も我々(それに台湾人)が普通に使用する有名ブランド商品が植民地の御用新聞で今と同じ顔をして宣伝(カルピスもグリコも皆同じロゴ)し、戦局に国体への協力を呼びかける様子はレトロというよりホラーである。(p.159-160)


広告というメディアも時代を映す鏡でもある。ここ数年、こうした展示を見る機会が何度かあったが、非常に興味深い。現在の広告はその点から見ると、どのような社会状況を反映しているか、ちょっと考えてみたくなる。



 昭和12(1937)年に「国語常用家庭制度」が制定され、国語(日本語)を常用する家庭は審査を経て「国語常用家庭」標識を家門に掲げることを許され、さまざまな特権を得た。前述のような配給制度での優遇である。(p.180)


この制度についてはしばしば言及された本を読んだことがあるが、あまり詳しい説明がされていないものが多い。



 一方、満州事変以後、台湾でも軍部が存在感を見せ付けはじめる。……(中略)……。
 霧社事件で徹底的な武力を見せ付けた軍への、特に産業界からの評価は、台湾経済が繁栄を迎えるその二年後(1934年)にかけて、同一線上の高まりを見せるのである。
 それは地方自治に理解を示し、四年という長い任期で社会経済の安定化を達成した最後の文官、中川健蔵総督と、反対した軍の構図とも重なる。
 中川は、台湾に政治的権利を求める運動に理解を示したリベラルな政治家だった。日本時代、ハイレベルの政治家で台湾の発展に重要な貢献をしたのは、後藤新平、明石元二郎、そしてこの中川健蔵ではないだろうか。(p.183)


なるほど。中川健蔵。あまり今まで注目したことがなかったが、今後、注目してみたい。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

坂野徳隆 『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(その3)

 皇太子の「次高山」命名により、台湾では山岳への関心が高まった。……(中略)……。
 本格的な登山環境の調査研究がはじまり、総督府に台湾山岳会が設立されたのは時代の変わり目である1926年のことだった。……(中略)……。
 そこに芽生えたのはスポーツ、文化としての山岳愛好だった。台湾では以後日月潭と組み合わせた新高山登山などが奨励され、男性を中心に登山ブームが起きた。しかしこれは思想悪化状態を覆すための思想善導、郷土教育の一環でもあった。19世紀欧米で起こったこの郷土教育は、愛国教育とも同義で、日本政府は人心の安定と社会秩序の回復のためにこの時期から積極的にそれらを取り入れていたのである。
 また、舶来のボーイスカウト運動も、台湾では青少年の精神健全化に用いられた。(p.89)


 なるほど。山岳を通して土地としての郷土に対する愛着を高めるだけでなく、それと結びつく自らの故郷としての郷土への愛着を高め、故郷に結びついている家族や近隣の人びとへの愛着とそれらが混じり合うようになっていくことから、それらを地理的にも人的にも含むものとしての「国家」という共同幻想への献身的態度を醸成していくというわけだ。

この際、本来、郷土・故郷と「国家」とは本来イコールではないが、戦争などの場合に「国家」に献身させられる際に懐かされる観念は、各自にとって身近で親しみを感じている「郷土・故郷」を守るためには「国家」を守らなければならないという論理によって導出されるように思われる。



 日本なら体育祭は秋だが、明確な秋が存在しない台湾ではスポーツに適した時期は冬となる。(p.90)


なるほど。ただ、台湾の北部は冬は天気が悪い。その意味ではあまりスポーツに適した土地ではないのかもしれない。

ちなみに、体育祭は日本では秋だと書かれているが、日本の中でも北海道の場合は運動会などの類は春に行われている。一律同じではないという点だけは指摘したい。また、台湾の冬と北海道の春・秋とは同じくらいの気温だったりするので、その辺も興味深い。



 郷土愛や人心の健全化を育むのにスポーツは最適だった。社会に自由な雰囲気をもたらすスポーツ振興は大正デモクラシーの産物でもあり、婦人運動とも結びついて、国島の漫画はスポーツウーマンが活躍し、男は三味線で家にこもるという風刺画で時代を表現している。
 なかでも野球は精神修行と結びついて内地では明治期から推奨されてきたが、台湾では領有15年後から中学校の野球団が生まれ、皇太子行啓の前には各地に野球協会が結成されるなど、その一大拡充期にあった。(p.90-91)


スポーツと政治の関係というのも、掘り下げると意外と面白そうなテーマだったりする。例えば、1か月ほど前だったか、浦和レッズの試合で「Japanese only」という横断幕が掲げられたという問題があったが、それもこのテーマと関連する問題だったりする。この問題に関してはJリーグの対応は私が予想したより素早く、処分も妥当なものだったと考えている。それは、右傾化・国家主義の流れが次第に強くなり、きな臭い世の中に向かいつつある中で、まだ日本という社会の中に良識bon sensが残されていることを示した点で非常に評価しているからである。

台湾で野球と言えば、台湾代表が戦前期の高校野球で甲子園に出場したことが想起されるが、このことも大正デモクラシー期以降の野球の興隆が背景となっているわけだ。この件について映画「KANO」が先日、台湾で放映されたことは記憶に新しい。日本での放映が待ち遠しい。



 昭和10(1935)年4月21日の新竹南部を震源とする地震は、現在までに台湾で最大の被害者数をだしたものとして記録されている。……(中略)……。
 ……(中略)……。ちなみに苗栗県三義郷には、このとき壊れた縦貫線レンガ製のアーチ橋が「龍騰断橋」の史跡として残され観光名所になっている。(p.114-115)


このアーチ橋も是非行ってみたい。



台北では淡水河が毎年決壊していたが、領有後総督府土木課の技師たちが護岸工事を行うことで被害がとまった。水害で困っていた大稲埕や萬華の住民は大喜びだったという。(p.116)


日本統治時代の近代的なインフラ整備が台湾の地に恩恵をもたらした事例の一つ。



 台湾人がしゃべる言葉は現在「台湾語」と呼ばれるが、もともとそんな名前の言葉はなく、意外だが、日本人が当時作った呼び方である。(p.127)


やはりそうだったか。台湾の言語状況はいろいろと複雑だが、社会の成り立ちが分かる意味で興味深いテーマでもある。



 日本時代も台湾人は日本語を習い、日本語使用を奨励されたが、当初はけっして強制はされなかった。台湾人の日本語教育環境が整わなかったこともあり、台湾人と日本人がそれぞれの言葉と文化で共存する複合社会が皇民化政策(教育)導入まで長く続いた。台湾人は民族のアイデンティティである言語を奪われなかったおかげで、町でも台湾語と日本語が飛び交う奇妙な二重言語の社会が展開したのである。
 戦時体制になると日本語の使用が強制される場面も増えたが、それも統治最後期の5年ほどである。日本時代の台湾人は日本文化に包囲されながらも、軸たる台湾語文化を守り、そのうえに日本語文化を形成していったのである。(p.128)


このあたりの問題については、もっと詳しく知りたい。



 戦後も日本語を流暢にしゃべる日本語世代の台湾人(70代以上)、あるいは原住民に会うと、彼らのアクセントが微妙に今の標準日本語と異なることに気づくだろう。例えばアメ(飴、雨)やカキ(牡蠣、柿)のアクセントが逆なのである。もともと区別が難しいアクセントゆえ間違えたのかと思えば、当時はそう習ったのだという人が多い。これは当時、台湾に赴任した教師、警官、総督府官吏には九州や四国出身の日本人が多かったためである。
 語法にしても西日本のそれが多く、「不可能だ」を「シキラン」と言うなど、台湾語の文法に近い表現と西日本の語法が合致したものや、「来る」「行く」が標準語とは逆になるなどの語法が頻繁に現れる。(p.128-129)


日本語世代が街を歩くこともかなり最近は少なくなっているのではないだろうか。あの世代が次第にこの世からいなくなって行くことに寂しさを感じる。



 春のお花見といえば内地では桜で、台湾でも台北郊外の草山(現在の陽明山)に染井吉野を移植した。しかし亜熱帯の山地では春のタイミングは内地とは異なり、旧正月の一月終りから二月には桜に混じって桃や梅の花が盛んに咲いた。現在もその頃陽明山に行くと、桃、梅、桜が一緒に咲き乱れる奇妙な光景に包まれる。(p.134)


陽明山の花見も是非してみたい。



中秋の名月の夜、家族や仲間と楽しむ野外バーベキューは今でも台湾の風物詩だが、なぜバーベキューが人気なのか不明である。しかし当時の漫画を見るとこの野外での食事は変わっていないことがわかる。(p.135-136)


この風習については知らなかった。今度台湾人の友人に聞いてみたい。



 台湾の法制度も内地に比べ遅れていたし、例えば昭和に入ってすぐ、内地では「簡易生命保険法及郵便年金法」が導入された(1926年10月)のに対し、台湾での施行は遅れること15年後の昭和16(1941)年4月1日、樺太と同時施行だった。(p.136-137)


簡保ができたのが昭和初めだったということも初めて知った。制度ができた背景はどのようなものなのか?気になる。



 皇太子も行啓の際に入湯した、台北の北にある、落ち着いた雰囲気の北投温泉。最近では日本の北陸の有名老舗旅館も支店進出して話題となった、日本人にも人気の観光地である。もともと温泉好きな日本人が開発した、台北の奥座敷、遊廓や健康的な運動場、軍施設などが集まる一角でもあった。その温泉街からすぐの高台に昭和7(1932)年、台湾別院として開かれた長野の善光寺がある。
 本尊は当時のままである。こんなところに、と意外だが、台湾には日本の13宗派のうち8宗が入り、昭和初期には東本願寺や西本願寺が豪壮な寺院を建て、説教や講和[ママ]、葬儀、子弟教育活動を行った。そうした日本の宗教団体のなかには植民地支配に加担したものが多かったといわれる。その証明か、逆に純粋に内地人の信仰の拠り所として建てられたものは破壊されず、現存しているようである。(p.137-138)


北投温泉博物館は以前行ったときは閉まっていたので、いつか必ず行きたいと考えているが、善光寺の別院があるとは知らなかった。北投に行った際は、足をのばしてみたい。ちなみに、西門町にかつて西本願寺が、萬華に東本願寺がかつてあったが、今はない。

寺院が植民地支配に加担したというが、具体的に何を行ったかということも非常に興味がある。



総督府により内台の壁がいつまでも存在しつづけた台湾では、本島人の日本化はいわれるほど徹底していなかった。小中学校や職場で日本的な態度習慣を身につけても、家庭へ戻れば伝統的な習慣を貫いた。(p.141)


むしろ、家庭へ戻ればそれまでどおりの習慣を維持できたからこそ、統治もそれなりにうまくいったのではないか。後藤新平の「生物学の原理」のような現地の習慣を尊重するやり方は――植民地統治自体の是非という問題は措けば――むしろ妥当と言うべきだろう。




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坂野徳隆 『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(その2)

 バナナの生産拡大も領有直後から日本人研究者を大量動員して研究され、シンガポール、フィリピン、ハワイ、ジャワから輸入した30種類以上を台北の士林園芸試験分所などに植え、品種改良を行っている。また移出バナナの輸送試験なども船倉の温度湿度の調節など細かく実験された。その結果バナナは大正2(1913)年の主要果実生産高の半数を占めるようになるのである。
 しかし1920年代前半バナナ価格が下落し、アメリカの恐慌により内需が大幅に低迷。これを輸送費で補おうと、生産者の台中州は内台航路を独占する日本郵船、大阪商船に対し基隆・神戸間の運賃値下げを要求するも、拒絶されてしまう。そこに目をつけたのが台湾航路開発を目論んでいた新興船会社の山下汽船だった。
 山下は高雄・横浜間の定期航路開設を条件に、台中産のバナナ移出を一手に引き受ける。これによって京浜市場への輸送が時間・コストとも軽減されるのである。(p.46-47)


台湾のバナナも商品として売るために研究が行なわれていたというのは押さえておきたい。

また、日本郵船、大阪商船の独占(寡占)に対して山下汽船の参入により運賃が値下げという構図は、昨今の航空業界のLCCの進出と似ており興味深い。以前、高雄に行ったとき、バナナやパイナップルの缶詰などが出荷されていた時期があったことがかつての鉄道施設を利用した博物館で紹介されていたのが想起された。



 一方、バナナとともに内地で大量消費された台湾のフルーツといえば鳳梨(パイナップル)だろう。パイン缶として輸出され、量は大正期に急増している。台湾名産のスイカも続こうとしたが、中央政府による移出許可はウリミバエという南西諸島以南で瓜類や果物に寄生する害虫問題などで台湾当局の予想以上に難航し、「西瓜移出問題」として連日台湾の新聞を賑わせた。(p.47)


パイナップルの輸出・移出は缶詰の技術の発展と重なることで大きな進展を見た。この時期の缶詰と言えば、私が想起するのは小林多喜二の『蟹工船』(1929年)であり、これはオホーツク海(北洋漁業)での蟹の缶詰という商品の生産に関する問題(を題材として当時の「グローバル資本主義」の問題点)が描かれているが、台湾のパイナップル缶の生産過程などはどのようなものだったのか、気になるところである。



 農産物の移出には港湾施設とそこまでの島内の鉄道が必須だった。明治41(1908)年に台湾縦貫鉄道が完成し、大正11(1922)年には海岸線が開通。このとき国島は「バナナのようになる」と描いているが、実際にバナナが大量に移出できるようになった時期と重なっている。(p.48)


台湾の経済発展と交通インフラの整備状況の整合的な関係には注目すべき。



もっとも国島が頻繁に描いたのは、灌漑用水にも利用可能な自然湖ダムで、もうひとつの台湾の大インフラ事業「日月潭工事」だった。日月潭は台湾中央部、750メートルの高地にある自然湖で、その水位を上げて発電用貯水池とし、10万キロワットという当時東洋最大の発電施設を造る計画だった。台湾中心部に、台湾を動かす一大電源となることから台湾の心臓と呼ばれた。
 前述の第七代台湾総督・明石元二郎が命がけで推進し、台湾を農業国から工業国へ転換させるための一大プロジェクトである。しかし不況や工事費高騰などにより、10年に亘って工事は中断。その工事のために設立された台湾最大の半官半民会社「台湾電力」や、台湾・本国経済界を巻き込む数々のドラマチックな社会・政治問題に国島が興味を持ったのは当然だろう。(p.50-51)


日月潭は現在は有名な観光地でもあるが、まだ行ったことがない。是非行ってみたい。「農業国から工業国へと転換させる一大プロジェクト」という位置づけは現在の風光明媚な観光地としてのイメージとはかなり異なるが、そのギャップもまた興味深いところ。台湾の近現代の歴史を理解するためには、「台湾電力」についてももう少し詳しく知る必要があると感じている。



 台南、そして基隆や淡水を占領したスペイン人は、原住民が金製の装飾を着けていることに気づく。訊ねると、東部で発見したという。彼らは南部の恒春や台東で砂金を発見しながら、東海岸の山や渓谷で金鉱を探した。しかし見つからぬままオランダに駆逐され、台湾全島はオランダの統治下に入る。東という見立ては当たっており、実際に東北部の金瓜石鉱山が偶然台湾人により発見されるのは、日本人が領有する直前のことだった。
 ……(中略)……。
 金瓜石の金が日本時代にとり尽くされた後、金脈はこれまで見つかっていない。金瓜石は現在観光地として整備され当時の様子もよくわかるので、台湾版ゴールドラッシュやスペイン人の金をめぐる探検、横堀博士の見立てに騒いだ社会を想像することができるだろう。(p.52-54)


台湾に眠る金が原住民にも古くから利用されていたという点は興味深い。金瓜石の黄金博物館にも是非行ってみたいのだが、私の計画では、北海道の夕張市の石炭博物館とこれを比較してみたいと考えている。



 台湾では炭鉱も開発されていたが、良質のものは深堀りが必要で技術的に困難だった。対岸中国で安く上等な石炭が輸出されるため、台湾は石炭を輸入に頼ったほどである。山が高く高低差を活かした水力発電所の建設は理にかなっていたといえる。(p.54)


地形と水力発電の適合性についての指摘はなるほどと思わされた。



 阿里山などで巨大なヒノキ林を見たひとも多いだろうが、台湾では1990年代になるまで一部山岳部への進入には制限がかけられていたため、桃園近郊のヒノキの森など近年公開されたエリアの樹齢2000年の巨木は圧巻である。台湾の山は、世界でも日本と台湾にしか分布しない、これら貴重な巨木の宝庫だった。(p.55)


ここ数年、台湾人の友人たちが台湾で山登りをして巨木の写真をfacebookなどにアップロードしているのを目にする機会があったが、その背景がわかったような気がする。私も是非一度は見てみたいものである。



 一方、クスノキからとれる樟脳は大正時代までセルロイドの可塑剤や防虫剤に使われ、台湾総統府の初期の重要な輸出産物のひとつになる。台湾中部にクスノキプランテーションが造られ、世界屈指の産出地となったが、大正末期にドイツで工業用合成樟脳が開発され、プラスチックが主流になると次第に衰退していった。(p.55-56)


樟脳が台湾の輸出産物だったことはしばしば目にして知っていたが、ドイツを中心とした化学工業の発展がその衰退の要因となっていたわけだ。工業化が進展した時代らしい産物の変遷であり興味深い。



 戦後、国民党政府は日本人がヒノキなど天然資源を乱獲し台湾の山を破壊したように反日宣伝していたが、山林大国から来た日本人は木材管理を厳重に行い、逆に乱獲したのは山地の環境保護にまったく目を向けなかった国民党政府の方である。天然資源の乱獲は総督府により制御され、つねに科学者の調査による計画的な伐採と保護が行われたのである。(p.56-57)


やや総督府を持ち上げすぎの感もするが、戦後、台湾にやってきた国民党の兵士らの教育水準等を考えてみても、基本的な方向性としては恐らくそれほど誤ってはいなさそうに思う。ただ、最近は台湾の人びとは環境への配慮についても、かなり関心は高いと感じており、この点に関しては日本以上ではないかと思う。

(ついでに言うと、原発に対する態度や政府の独断的で非民主的な決定への抵抗――台湾政府が独断で中国とのサービス貿易協定を締結しようとしたことに対し、学生らが立法院を占拠したことは記憶に新しい――といった点でも台湾社会は日本社会より上を行っていると思う。)





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坂野徳隆 『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(その1)

 国島が渡った頃の台湾はすでに急速な発展を遂げており、帝国政府の南進基地として内地からの移住が奨励される注目の新天地でもあった。さらに、台湾は、安定度、幸福度という点から見れば、国島が乗り込んだあたりから、満州事変による昭和の動乱期までが最高の時代だった。(p.15)


新聞風刺漫画家・国島水馬が台湾に渡ったのは大正5年(1916年)のこと。この頃からの約20年間が日本統治期の台湾が安定していた時代というのは、確かにそのとおり。ということは、日本統治下の台湾を研究する場合、この時代のことは調べやすいかもしれない。



領台直後から、土匪鎮圧のため生死をかける兵士らが刹那的な快楽を求めることで酒と女の街として有名だった台北は、色香漂う「カフェー文化」を受け入れる土壌があったのである。(p.18-19)


台湾での「土匪鎮圧」のようなものはなかったと思われるが、北海道開拓開始時の札幌にも、すぐにススキノの遊廓ができたことなどが想起された。



 北門から市民大通の高速道路陸橋を潜り、城外へ。中華路はそのまま延平北路にかわり、かつての台北の面影をもっとも色濃く残す大同地区へ伸びていく。道の左右には、日本時代からある建物が並ぶ。古い外壁が崩れ、上部には草が生え、かつての洋風装飾が周囲の近代的ビルのガラスの反射に幻のように見える。南京西路を左に塔城街との交差点あたりが六館街の跡で、色街として日本人で賑わった場所である。領有二年目にはすでに高級料亭が建ち、台北の不夜城と呼ばれた大稲埕の中心だった。
 このそう広くないエリアは淡水河岸の波止場の茶貿易拠点として発達し、日本人が来る頃、台北の人口五万弱の約半数が住んでいた。日本人も最初の銀行や法院、医院をここに建てるほどの繁栄ぶり。しかしそこは台湾人街として城内の日本人街と区別された。そしてその「異境」の匂いが淫靡な空気を孕み、「金魚」に誘われた大和紳士の釣り人たちを招き入れていたのである。(p.21)


この六館街の場所は、今の迪化街のすぐ南のあたりと思われる。やはり札幌の狸小路やススキノの歴史と重なるものを感じる。



 いうまでもなく、台湾島はもともと対岸中国から渡り根を下ろした、いわゆる台湾人のものだが、日本統治時代「本島人」と別称された彼らは、文化、権力の中心から外れたところで二等国民の身分に甘んじていた。そんな彼らのなかから大正デモクラシーに触発され「新文化運動」と呼ばれる文化啓発活動が興り、中心地となったのが、当時富裕層と文化人の多かった大稲埕だった。
 迪化街のすぐ東側へ出た、車の往来が多い延平北路と民生西路の交差点周辺は「新文化運動」でできた台湾人の劇場、カフェー文化が盛んだったエリアだ。大正デモクラシー全盛時の飲食店は現存しないが、延平北路に昭和9(1934)年に開店し、今も当時のまま残る喫茶レストラン「BOLERO 波麗路(旧名「ボレロ」」は台湾人のみならず内地の文化人がクラシック音楽を鑑賞しながら芸術文化を論じた有名店である。
 また永楽座(現在の私立天主教静修女子中学の大講堂)は当時台湾を代表する激情として伝統戯曲や現代口語劇を上演。ここからは、やがて日本人統治者たちの警戒心を煽る社会改革運動が勃興し、大正10(1921)年11月には台湾民族運動の指導者として有名な林献堂が「台湾文化協会」を創設し、成立大会が盛大に行われている。(p.22-24)


大稲埕の自由な空間が、社会運動へと繋がったという点は今まで認識していなかった点で、本書から得た収穫の一つ。

次に台北に行く際は、是非「BOLERO 波麗路」という店に行ってみたい。



 ところが文官総督は内地の政党政治により政権交代が起こるたびにその首もころころとすげ換えられるようになる。諸事決定が先送りとなり、島内のプロジェクトは滞り、武官時代のダイナミックな経済発展は停滞してしまうのである。
 文官総督が運んできた内地延長主義とは、第一次大戦で西欧諸国の植民地における民族主義が高揚し、日本でも当時の首相原敬が自由と民主の思想を重んじるようになったことが背景にあった。(p.28)


武官総督から文官総督に変わったことは、台湾の歴史を紐解くと必ずと言ってよいほど出てくる話題だが、その意味するところは、それほど明確に語られないことが多い。本書はそのあたりを比較的単純明快にわかりやすく書いてくれるので、イメージしやすくなる。

文官総督は、内地の政党政治と連動したものであること、それとも関連して内地延長主義が政策の基本的な方向性であったことは押さえておくべきだろう。



台湾の老人たちの話を聴いていると、なかでも一番タメになったことは民族アイデンティティの自覚だったという。清朝が妻帯渡航を禁じたため、彼らの父系祖先は遡れても、母方は平埔族が多く、家系があやふやである。一度も直轄の政府も持たず、まとまりのなかった台湾に、基本的に単一民族でひとつの言語を話す民族色の濃い日本人がやってきて支配した。台湾人は初めて目の前に鏡を突きつけられたのである。
 台湾人と日本人はこうして表面的には肩を組み、互いを、あるいは自らを知り始めていく。しかしそれまで台湾人と日本人は結婚することすら許されていなかった。共婚法が施行されたのは昭和7(1932)年。(p.36-37)


台湾人というアイデンティティは確かに、日本統治時代に確立されていったものだろう。共婚法が昭和7年施行というのは、確かにかなり遅いと言うべきだろう。






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河添邦俊、河添幸江 『イラストでみる 乳幼児の一日の生活のしかた 生活リズムの確立』

 人間の子どもは、おとなになるためにおとなに向かっておとなの真似をしながら育っていきます。そのおとなの真似をすることを「習う」とか、「学ぶ」とか、「遊ぶ」といいます。……(中略)……。「継続は力」ともいわれていますが、おとなと生活を共にしながら、おとなの真似を毎日積み重ねていくことが、子どもの習慣形成の基本となるものなのです。(p.12)


大人自身の生活習慣が規則的で自然の理にかなったものであることが、子どもの生活習慣の確立にとっても重要。



子どもは、一緒に食べることで、正しい食事のマナーも、おとなの食事する姿から学び、身につけていくこともできるはずなのです。(p.57)


おとなと一緒に行動して、それを手本としてマナーを身につけていく、というのは、食事に限らず重要なのではないか。



人びとは、常に仲間と共に、“労働”(「労」は火で加工するという意味と、いま一つは残り火でかたづけをするという意味とがあったようです。「働」とは重荷を負い腕に力を込めている様子です)<=耕作し、収穫し、調理し、食べ、かたづけ、残った物を保存>してきました。この一貫した仕事のことを、「ままごと(まま=飯は、食の意味で、ごとは仕事の意味です。ままごと=飯事は、食に関する仕事のことです)」と呼んできたわけなのです。そこに食事にも、計画性と働くリズムを持ったのが、人間の進歩と賢さの中心的内容であったといえるでしょう。(p.69)


「ままごと」は「食に関する仕事」か。なるほど。私は、小さな頃、「ママ(母親)の真似事」のことかと思っていた(笑)。しかし、これでは性別の役割分担という点からも問題のある言葉になってしまうな。



 偏食は、多くの場合は父か母の偏食に似る上に、さらに育て方の甘さから輪をかけてくることがよくあります。食事には、マナーが必要なものです。それは仲間と共にすることが大切だからです。マナーの悪い食事は、一人でたのしくない食事をしている状態が多いことから来ている場合もあります。あるいは、家族との食事でマナーの悪いのは、家族がそろって悪かったり、放任や過保護的家族であったり、わがままを許し過ぎている状態が多いからのものです。そうした子どもは、偏食やむら食いも多くなりがちです。(p.71)


偏食とわがままを許し過ぎる育て方とは、確かに相関関係がありそうである。

一人で楽しくない食事をしている場合というのは、その食事の場には社会が存在していない。過度に放任的な育て方は、養育者が子に対してかかわりを持たないということでもあるから、そこにも社会的な接触は希薄である。過保護な家族関係では、子どもの自我が直接拡大したものが家族関係ということになるから、そこにも「他者」は存在せず、社会は存在しないと同然である。「仲間と共にする」食事は、社会的な行為であり、社会が存在しない場では育成できない。



 1歳半頃から2歳に向かう頃、1日1回の昼寝になって行きます。その際、午後の昼寝をなくして、午前中1回の昼寝に統一していく方が育ちのためにより良いように思われます。(p.110)


夜は早めに就寝し、しっかりまとめて寝ることができるからである。この点は、個人的には本書で最も参考になった点の一つ。



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