アヴェスターにはこう書いている?
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大塚久雄 編 『マックス・ヴェーバー研究 生誕百年記念シンポジウム』
米堀庸三 「歴史学とヴェーバー」より

 ヴェーバーが生まれたドイツにおきましては、戦前には、ヴェーバーの理論ないしは実証的な研究を歴史家自体が引用することもかなり多かったのでありますが、戦後においては、むしろヴェーバーから離れようとしているような傾向が見受けられます。フランスおよびイギリスにおきましては、ヴェーバーの歴史上の研究が、その社会学的な理論とともに問題になることは、はなはだ少ないように思われます。
 戦後においては、御存じのように、アメリカで、タルコット・パーソンズによるヴェーバーの紹介が行なわれました。しかしアメリカの歴史学のなかにヴェーバーがどれだけ取り入れられたかということになりますと、それはかなり問題であると思われます。私が知っておりますかぎりでは、既成の欧米史研究家のあいだには、ヴェーバーの研究を取り入れた人は、むしろきわめて少ないと言わざるを得ないように思います。そんなところからいたしまして、「歴史学とヴェーバー」といった問題が、大きな研究会の報告のテーマになるということは、わが国のきわめて特殊な事情であると言って宜いように思います。(p.57)


歴史学に限らず、ウェーバーに対する関心の高さに関して、日本はやや特殊な位置にあると言ってよさそうに思う。



丸山真男 「戦前における日本のヴェーバー研究」より

 ここでは、「戦前における」という限定をつけましたが、たとえばきょう、あすに行なわれるようなかたちでヴェーバーについてのシンポジウムをもつということは、少なくとも戦前では考えられなかったと思うのです。つまり、社会科学の学界全体としてヴェーバーを問題とするという状況は、戦後にはじめて生まれたものであって、そういう意味での、ヴェーバー研究の「動向」といったものは、戦前にはそもそも語りえないことを御承知おきねがいます。(p.151)


戦後の一時期(このシンポジウムが行なわれた時期の前後10年程度?)のウェーバーに対する関心の高まりは、確かにそれ以外の時代とは違っているかもしれない。



戦時中、ヴェーバーの東洋社会論が着目されることになるのは、自然のなりゆきでした。(p.161)


中国への侵攻、朝鮮や満州に対する植民地支配という社会背景の下、東洋研究に対する関心が高まっていたことがウェーバー研究にも当てはまる。



住谷一彦 「総括一 日本におけるヴェーバー研究の動向」より

大塚さん、丸山さん、喜多野さん、いずれの方もヴェーバーとはかれの『経済史』を通じてはじめて出会っていることです。……(中略)……。こうして、三氏が『経済史』から『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に赴き、ついで『経済と社会』に行きついた点で軌を一にしていることは、おそらくまったく偶然の一致ではありましょうが、マルクス=ヴェーバー的思想像の形成という観点から見るとき、まことに興味深いものがあります。(p.180-181)


『経済史』がウェーバーとの出会いとなっているという点は、日本におけるウェーバーの受容が経済史の分野から始まったことと合致している。思うに、経済史の分野で受容が始まったがゆえに、ウェーバーの著作の翻訳も『経済史』が最初期のものとなったことが、その次の世代の研究者がこの本から始まることになる背景となっているということだろう。



安藤英治 「ヴェーバーにおけるRationalisierungの概念」より

いずれにしましても、このような“確証”という問題をつうじまして、ヴェーバーは、宗教的要求というものが、その要求の内容が宗教的試練に耐えうる信用のおける人間たることの要求であることを通じ、まさにそのことによってビジネス世界の資格にもなるのだ、ということを学んだわけであります。(p.231)


ゼクテに入団していること自体が、そのゼクテが要求している規律に従うことができていることを示す効果があるということに関連するコメント。



 少し話を飛ばしますと、今度内田芳明氏の苦心の名訳が完成したところですが、『古代ユダヤ教』に補論としてつけられた「パリサイ人」におきまして、ヴェーバーがパリサイ人を規定した社会学的な性質こそは、まさに“ゼクテ”にほかなりません。……(中略)……。あたかもその目でアメリカにおけるヴェーバーのゼクテ体験を頭においてみますと、ヴェーバーのパリサイ人の分析は、ほとんど、アメリカにおける体験がそのまま投影されているのではないかというくらいにまで、極端に言えば感じられるのでございます。(p.231)


興味深い指摘。



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北岡伸一 『後藤新平 外交とヴィジョン』(その3)

 また後藤は、対外発展について、対象地域と隣接国家とに利益をもたらす方法で組織することによって、それによってのみ可能になるとした。後藤にとって満鉄を中心とする満州経営は、世界の文明化に貢献し、清国、ロシア、および対象地域たる満州に利益をもたらし、それらと日本を結びつけ、順調な日本の対外発展を保証するものであった。このような、一見して対立関係にあるものの中に共通の利益を発見し、それを組織することによってこの対立関係を新たな統合関係に止揚していこうとする発想――これを統合主義的国際関係観と呼ぶことができる――が、後藤の対外発展論をユニークなものとしていた。
 もちろんこれらについても批判は可能である。当時の状況で日本と清国あるいは中国が提携したとしても、それは対等の関係ではありえなかった。見方によっては、後藤の対外発展論は最も巧妙、狡猾にして悪辣なものであったかもしれない。
 それにもかかわらず、後藤の統合主義的国際関係観は、少なくとも近代日本外交史上、極めて重要な存在意義を持っている。
 あらゆる国際関係には常に対立の側面と統合の側面とが含まれている。近代日本が重視したのは、その成立が外圧によって触発されたこともあって、常に対立の側面であった。明治前・中期の指導者は、朝鮮半島が清国またはロシアによって日本に突き付けられた刃となることを極度に恐れた。シベリア鉄道は、彼らにとって、ロシアが極東に向けた凶器であった。山形有朋は、日露が提携してそれぞれ南北満州の経営に邁進していた明治末期においてすら、それによってロシアの軍事基盤が強化されることを恐れ、また日露接触の増大によって衝突の可能性が高まることを危惧した。
 このような国際関係における対立の側面への著しい注目は、その対立が不利な状況に展開する前に何らかの手をうとうとする、いわば防衛主義的な積極主義を生み出した。やや誇張していえば、朝鮮半島に対する危惧は日清戦争を、シベリア鉄道に対する危惧は日露戦争を、山県の危惧は二個師団増設問題を生み出した。対立の激化に備え、不敗の体制をとろうとすることは、一概に悪いこととはいえない。しかし、運輸技術の発展や兵器の発達によって、無条件生存可能性(K・ボールディング)がもはや消滅した段階において、可能なあらゆる対立に備えて絶対不敗の国防圏を樹立しようとすることは、やはり無謀なことであった。中国のナショナリズムとソ連の軍事力とアメリカの経済力のいずれにも脅かされない体制など、ありうるはずがなかった。その模索が悲惨な結果に終わったのは当然であった。(p.230-232)


本書の結論的な部分からの引用。本書は1988年という冷戦時代に出版された本であるが、現在においても有益な見方を提示してくれている。外交関係においては、対立の側面にばかり注目されがちであるが、むしろ統合(共通利益の実現)の側面にもっと注目して考えていくべきであると思う。

また、この引用文で示されている状況と最近の政治状況(憲法9条の改変や集団的自衛権の行使に関する議論)が私には重なって見えた。まず、対立の側面にばかり注目する傾向も、9条を変えたり、集団的自衛権を使えるようにしようとする議論に多くみられる特徴である。明治中期までの指導者が朝鮮半島が中国やロシアの影響下に置かれることを恐れたのと同じように、現在の政治家たちは北朝鮮と中国を恐れている。そして、不安に駆られて防衛する範囲を拡大しようとしている点も同じである。本書で「防衛主義的な積極主義」とされているもの(私見ではこの用語は「防衛という名目で軍事力を積極的に活用しようとする姿勢」とでもいうべきだろう)は、安倍晋三が「積極的平和主義」の名の下で語っていることとほぼ同じであろう。

本書が言うように、こうした対立の側面を強調してとられる軍事力の

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北岡伸一 『後藤新平 外交とヴィジョン』(その2)

 日本側における満鉄の発想の起源として、あまりにも有名なエピソードがある。すなわち、児玉源太郎は日本軍がようやく鴨緑江を渡って満州に入ったばかりの頃(37年5月)、部下に命じて東インド会社のことを調べさせたという。それは実はがんらい後藤のアイディアであって、後藤は東インド会社という非政府機関がその事業という形で実質的な植民地統治を行なったにならい、満鉄を中心とする満州経営をすでに考え始めていたというのである。(p.83)


満鉄のシステムがロシアの東清鉄道に倣ったものであったという点は先日このブログでも触れたが、歴史をさかのぼると東インド会社による植民地支配へとさかのぼるということか。なるほど。



 文装的武備とは、がんらい武装的文弱という言葉と対比して用いられたものであった。日露戦争のさなか、後藤はすでに満鉄を中心とする満州経営の必要性を説いていた。それは、満州に大量の兵力を駐屯させたり、軍備の増強を進めたり、満州における軍の発言権を温存することよりも、鉄道を中心として合理的な経営を進め、農業や牧畜を振興し、大量の移民を実現することのほうが、軍事的効果の点からみても一層有効であるという主張から出ていた。ただちに大量の軍事輸送を行ないうる鉄道や、ただちに遊撃軍たりうる移民は、潜在的な軍備でもあったからである。(p.94-95)


鉄道はが経済的な発展の手段であるだけでなく、軍事的なインフラでもありうる。そう言われてみれば、他の交通インフラ(道路、運河、港湾)も同じような意味をもちうる。



実は文装的武備という名称には、最初から軍の支持を得るという目的が込められていたようにも思われるのである。(p.96)


なるほど。この指摘は次の引用文の主張へと繋がる。



 以上に明らかなように、文装的武備の名で呼ばれた政策は、たしかに広義の安全保障の意味は持っているが、とくに軍事的な色彩を帯びた政策ではなかった
 むしろ後藤は満鉄による満州の文明化自体に強い関心を持っていた。文明の恩恵を与え、かつ世界文明に貢献することに、後藤は強い誇りを感じていた。しかも文装的武備と呼ばれた多くの政策は、実は日本とロシア、日本と清国の間の対立関係を相互依存的な関係に変えていく機能を持っていたのである。(p.101)


「文明の利器」によって相互の経済的な互恵関係を形成し、そのことによって、対立関係の重要性を低下させ、協力関係の重要性を上昇させるという発想か。こうした発想は今日の国際情勢でも有用性を持ち続けていると思われる。しかし、昨今の日本の外交を取り巻く情勢を見ると、こうした発想は乏しいようである。



 また長春では、旧市街から離れた荒野に新市街の建設が計画された。これを担当した技師加藤与之助の設計は、半径90メートルの駅前広場を中心とする大規模で立派なものだったが、後藤はそれでも道路が狭すぎると批判して、幹線道路は東京のそれと同様に20間(36メートル)とするよう指示した。そして反論する加藤に対し、パリのシャンゼリゼやベルリンのウンター・デン・リンデンを見よと言い、実際に加藤を洋行させてしまった(越沢明「大連の都市計画史」および「長春の都市計画史」)。
 後藤はすでに台湾でも都市建設を経験していた。しかしそれはいわば本能的な都市計画であって、必ずしも十分な自覚や根拠があって出来たものではなかった。しかし満州における後藤は、本格的な都市建設者であった。持ち前の豊かな想像力と台湾での経験に加え、ロシアの大規模な計画を知ったことにより、たぐい稀な都市建設者としての後藤が生まれたのである。
 都市建設には様々な目的があった。居住者にとっての便利も重要であったし、植民者としての威容を示すという政治的な目的も重要であった。しかし後藤は、文明の象徴たる壮大な都市の建設を、ほとんど義務と感じ、またそのことに無上の喜びを感じていたのではないだろうか。……(中略)……。
 ただし、その文明化が、天下りの押し付けになっていなかったことも、忘れてはならない。たとえば後藤は日本風の地名をつけることを厳に戒め、必ず中国風の名前とするよう命じた。「生物学の原則」からして当然の発想であった。また都市の構成においても、中国人街を差別することを厳に戒め、むしろ中国人が多く住み着くように工夫した。そうしてこそ、満鉄の繁栄はありうるのだというのであった。そこにも「生物学の原則」や「文装的武備」の発想が生かされていたのである。
 今日から見て、満州の文明化に関する後藤の使命感を帝国主義のイデオロギーと指摘することは易しい。後藤の文装的武備こそ、最も狡猾な帝国主義だということもできるだろう。しかし激しい国際対立の渦中に、まるで武装したような態度で満鉄が乗り込んだとすれば、相互不信・相互猜疑を招いて、はるかに悲惨な結果をもたらすことになったのではないだろうか。その意味でも、後藤のアプローチの建設的な性格は評価されてよいもののように思われる。(p.102-103)


都市計画者としての後藤の要点となるような要素が高い密度で描かれている箇所と思われる。



事実として、シベリア出兵に積極的であったのは、彼ら親露派であり、消極的であったのは、原や牧野など、英米との協調を重視し、ロシアとの関係にさほど重きを置かない人々であった。(p.178)


帝政ロシアの支配層にシンパシーを感じる人びとは、彼らを救うために出兵が必要であると考える傾向があったということか。なるほど。



要するに文明の普遍を信じつつ、その適用にあたっては生物学の原則にしたがったこと、これが彼の成功の秘訣であった。(p.228)


「生物学の原則」は、実態把握と実態(慣習等)の尊重、そして漸進的な変更といった要素に分解できそうだが、いずれも自分の思いだけで先走るような姿勢を自制する必要があることがわかる。多くの人びとにとってはこれは分かっているとしても、なかなかできないことのように思われる。



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北岡伸一 『後藤新平 外交とヴィジョン』(その1)

 全体として、後藤の漸禁論は成功を収めたと言ってよいであろう。阿片の禁止はきわめて困難な事業だからである。ただし、もう少し早く目標を達成できなかったかという批判はありうる。なぜなら漸禁政策に伴うはずの患者の治療や、密飲者の摘発・処罰において、総督府は必ずしも厳格ではなかったからである。その理由は、阿片専売の収入が総督府の重要財源となり、これを減らすことに総督府が熱をあげにくいところがあったらしい。
 それは、専売制度にほとんど不可避的に内在する欠点であった。……(中略)……。後藤はこの可能性を、専売収益の使途を衛生目的に限定することで封じるつもりであった。しかしそれは実現されず、専売益金は一般収入とされた。(p.46-47)


後藤新平の台湾における功績の一つとしてアヘンの禁止におおむね成功したことが挙げられる。一気に物事を変えようとするのではなく、実情をよく調査した上で、現地の慣習なども考慮して徐々に変化させていくというやり方は、現在の政治の考え方ではほとんど採用されなくなってきた考え方のように思われ、こうしたやり方が成功を収めたという事実は知るに値する。



 まず道路の問題があった。日本が台湾を接収してみると、道路と言えるようなものがほとんど存在しなかった。村落と村落の間、そして村落と市街との間には幅30センチ程度の小道があったけれども、市街と市街とを連絡する県道や国道に類するものはなかったのである。(p.49)


村落同士がかなり孤立していたということはよく語られているが、当時の台湾の交通の状況がよくわかる。



 なお、軍以外の勢力を相手とするときも、後藤がターゲットとしてのは常に強力な力を持つ個人であった。彼らを説き伏せてその背後にある勢力の反対を押し切ることが、後藤の常道であった。……(中略)……。
 このことを言い換えれば、後藤において、政治力は借物であった。(p.58)


後藤の政治手法のうち、事実調査を重視し、現地の慣習を重んじる「生物学の原則」は参考になるものだが、もう一つ、こうした優秀な人材のネットワークを活用するという方法も参考になるものがある。



当初の後藤の関心は、治安の確立と台湾の経済発展に向けられていたのである。
 しかし実はそのことが、逆に台湾と大陸との関係を、密接かつ具体的なものとして浮かび上がらせ、後藤を大陸に直面させることとなったのである。すなわち、後藤は台湾経済の問題に取り組むうち、それが大陸とくに福建省の郷紳の手に握られており、大陸経済圏の一部をなしていることに気づいたからである。(p.63-64)


この後、台湾は大陸経済圏の一部から切り離され、日本の経済圏に組み入れられることになる。



 ところでアメリカのフィリピン領有は、日清戦争で日本が台湾を獲得してから僅か三年後のことであり、偶然ながら後藤が台湾に赴任した年のことであった。しかもフィリピンは、言うまでもなくバシー海峡をはさんで台湾のすぐ南側であった。アメリカはこのあとフィリピンの独立運動に直面し、1902年にようやくその支配を確立するのであるが、これは児玉・後藤が「土匪」を制圧したのと同じ年であった。台湾における日本と、フィリピンにおけるアメリカとは、新興帝国主義国として、僅かな距離をはさんで植民地経営競争を展開していたのである。(p.67)


最後の一文については同様の認識を私も持っていたが、これほどまでに同時並行的に起こっていたという認識までは持っていなかったので参考になった。



後藤はより積極的に、過酷な講和条件によってロシアに深い遺恨を植えつけ、列強からの同情を失うことよりも、物質的利害にはむしろ固執せず、「国家の声位力望をして列国関係の要衝に拠らしむ」ることこと重要であるとし、それは「皮浅貪欲なる硬論主義の能く成す所に非」ずと主張したのであった。(p.73)


日露戦争の戦勝に関する後藤のスタンス。本書の後半でこうした相互利益に着目した外交姿勢がクローズアップされるが、この点も現代の政治において非常に参考にすべき点の一つであると思う。



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越澤明 『後藤新平――大震災と帝都復興』(その2)

 台湾における製糖業の発展は地元台湾人の経済力を高め、政治的な地位を向上させた。製糖業で成功した台湾人実業家の代表人物が辜顕栄であり、戦前で台湾人からただ一人、貴族院議員に勅選された。その子、辜振甫は台湾を代表する財界人で、総統李登輝の資政(顧問)となり、中国と台湾との交流・交渉の台湾側責任者(海峡交流基金会の初代理事長)を15年間務めた。辜顕栄の孫であり、辜振甫の弟の子がリチャード・クー(エコノミスト)である。(p.107)


製糖業で潤った台湾人はそう多くはなく、在来型の製糖業を営んでいたような台湾人はむしろ経済的に苦境に立ったのではなかろうか?



満鉄付属地の課金は関東州の租税に比べて三分の一以下と低かった。つまり、満鉄付属地の住民は満鉄のおかげで関東州や内地よりも安い税金で済んだわけである。満鉄は鉄道(主に大豆等農産物の輸送)、港湾(大連港の経営)、鉱山(撫順炭の販売)による収益を活用して、約30年間にわたり、都市建設を実行し、居住する日本人・中国人のために都市経営に多大な経費を支出し、投資を継続していった。
 満鉄付属地の市街地の施設(道路、公園、住宅、病院など)はいずれも当時の日本国内の大都市に劣らず、あるいは内地の大都市よりも優れた水準であった。その理由はこのような満鉄の地方経営にあり、このような経営方式は満鉄初代総裁の後藤がつくりあげた。(p.125)


満鉄の経営がどのようなものであったのか、非常に興味を惹かれる。



このような満鉄会社の特殊な役割は日本が独自で編み出したものではなく、ロシアの東清鉄道の方式をそのまま見習ったものである。満鉄は国策会社として一定の行政権限を持ちながら、水準の高い都市建設を実現していった。(p.125-126)


本書で描かれる満鉄の経営について読み、様々な要素がうまく絡み合ったシステムだと感心したが、この叙述でその理由が納得できた。もともと長い期間をかけて積み重ねられてきたシステムが土台にあったことがわかったからである。満鉄はある意味では、東インド会社などの系譜に属するものと考えればよいのだろう。



 満鉄の鉄道付属地の大部分は、土地の形状は整った長方形である。これは東清鉄道の創業当時、ロシアが強権的に用地買収を行い、その土地を満鉄がそのまま引き継いだからである。しかし、長春の満鉄付属地は不整形である。これは満鉄が新規に用地買収をしたものの、ロシアのように強権的な用地買収はできないため、買収に手こずり、買収地を継ぎ足した結果が不整形になってしまったのである。ロシアと日本の権力の違いが土地の形に反映されている。(p.143)


興味深い指摘。



1907年と1910年の両国の協定で、ようやく日本側の満鉄の終点は、孟宗屯北方四キロの地点(現在の長春駅の地点)として長春駅を新設し、既存の寛城子駅はいったんは日露の共有とした上で、さらに、その共有権を日本はロシアに時価65万ルーブルで有償譲渡し、ロシアの完全所有とした。このようなロシアとの複雑な外交交渉、駆け引き、補償の折り合いなどのテクニックを、今日の日本人はまったく知らない。このロシアとの交渉の史実は今後の北方四島や千島樺太を考える上でも知っておくべきである。(p.144)


今日の外交に関しては、声高に自分の主張を繰り返すだけというパターンが余りに多く、このようなことをどんなに繰り返してもほとんどの場合、何の解決にも繋がらない。むしろ相手国との関係が悪化するだけで何の得もないことが多い。こうした子供じみた対応からは早急に卒業してもらいたいものである。



 後藤が晩年までしばしば周囲の者に語ったのは「植民地にはまず第一番に学校を拵え、それからお寺を建て、次に病院を完備しなければ、移住民に永住心を起こすことができるものではない」という考えであった。これは言いかえると、永住する気を起こさせる、内地よりも立派な都市を建設する、現地を豊かにするということである。立派な都市計画を殖民初期に実施し、公共施設を整備するという方式は、後藤の信念であり、また満鉄付属地の都市建設の成功によって、それは彼の確信となったのである。(p.160)


確かに後藤は台湾赴任直後も医学校を設立していた。教育を第一に持ってくるあたりは、人の重要性をよく認識していた後藤らしいと思う。



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越澤明 『後藤新平――大震災と帝都復興』(その1)

 城下町の建設(縄張り、普請)に際しては、武家地、足軽屋敷と同時に、町人地、寺町の位置も決められた。町人地は本町、鍛冶屋町、魚町など職業・職種別に構成されることが多く、寺町(寺院群)は防御の役割を担うことが多い。
 現代の東京の地名を例に取ると、北新宿の百人町は伊賀組百人鉄砲隊の屋敷地(細かい短冊状の敷地)に由来し、御徒町駅も下級武家地に由来する。千代田区の番町は中級武家屋敷に由来し、敷地の規模がやや大きく、現在は高級マンションが集中している。寛永寺は幕末、彰義隊の戦闘の舞台となり、文京区の向丘・駒込にある吉祥寺などの寺院群は外堀の北側に配置された防御ラインである。(p.32-33)


寺町は防御の役割を担うことが多いという指摘は、ここ数年私が見てきたものの中に思い当たる節があり興味を惹かれた。2年ほど前に松前町の松前城とその北にある寺町を見てきたことがあったが、あの寺町も恐らくは防御ラインだったのではないか。外堀(?)の北側という位置関係までも吉祥寺と同じパターンになっているように思われる。



内務省衛生局に採用された後藤に最初に与えられた仕事が、衛生思想・衛生制度の普及啓発活動である。
 後藤は視察した地元の民情や衛生状態について、詳細な視察報告書を作成した。これがその後、台湾、満鉄、内務大臣、東京市長として、地元の現状把握と調査分析を重視する後藤の発想の原点になる。(p.61)


実態を観察し、それに即して対処するという後藤の発想は非常に重要。



 清国で最もアヘンが蔓延していた地域が台湾であり、貴賤貧富、老若男女を問わず、アヘンの喫煙習慣が広がり、喫煙者は約50万人に及んだ。(p.72)


後藤新平が台湾の民政長官に抜擢される契機となった問題がこのアヘンの蔓延だったことはよく知られている。彼独特の「生物学の原理」に則った漸禁政策が効果を上げたとされている。一気に変えてしまおうとするのではなく、少しずつ社会を変えていきながらある程度時間が経過すると大きく変化が起こっている、というやり方は参考になる。

これはしばしば大風呂敷と呼ばれるような大胆な計画や資金の投入とは相反する要素を持つ原則だと思うが、急激に変えてはいけないポイントを事実の調査により見極めた上で変えるべきところ、ゆっくり変えるべきところ、変えるべきでないところを識別しているという点が重要なのではなかろうか。



 戦前の中央官庁には幹部職員のみが使用できる高等官食堂があった。高等官同士が意見を自由に交わし、そこで政策の知恵が生まれたり、高等官が親しい新聞記者に話して、それが報道のネタになったりという姿は珍しくなかった。高等官食堂は全国の県庁にも存在していた。(p.74)


高等官だけに限定する閉ざされた社会である点は少し引っかかるが、その閉鎖性が自由な意見交換を助長するような面もあることを考えると、なかなか考えさせられる仕組みだと思う。



 1896年(明治29年)2月、日本政府は後藤の建議を丸ごと採用し、台湾アヘン制度を閣議決定し、1897年1月に「台湾阿片令」を全島で実施した。その要点は、アヘンは政府の専売とし、特許店舗のみで販売、中毒者に通帳を交付し、薬用としてアヘンを販売する。違反は厳罰に処し、アヘン専売の収益は台湾住民の衛生事業に充当するという施策であった。(p.76)


この政策を知った時、うまいことを考えたものだと感心した。



第一に台北、第二に基隆、第三に台南、安平、澎湖島、嘉義などの順で速かに衛生工事をすべきである。(p.93)


1897年にバルトンによる上下水道調査の報告書で述べられている内容より。高雄がこのリストに入っていないのが、現在の感覚からすると違和感を感じる。なぜ高雄が入っていないのだろう?



 日本が台湾を領有した当時、台北は三つの市街地より形成されており、人口は1万2千人、面積7.4平方キロメートルであった。このうち艋舺(万華)、大稲埕は淡水河の水運で成長した商業地であり、城内は官街地区であった。台北の既存市街が二ヵ所に分かれているのは、台湾人のルーツである福州系と広東系の住人の関係が悪く、紛争が絶えなかったためである。(p.95-96)


艋舺と大稲埕との関係について、最後の一文ほど理解しやすい文章に出会ったことがない。分かりやすい説明。



 城壁は撤去し、その跡地は幅員25~40間の遊歩道路とした。この道路は二列、幅三メートルの植樹帯を設け、中央は車道、両側は歩道とした。この結果、歩道・車道の路面が三列あることになり「三線道路」と呼ばれた。19世紀後半、欧州のパリ、ウィーン、ブリュッセルなど各地では城壁を撤去して、跡地を広幅員の並木道とし、その都市のシンボルロードとなっている例が多い。これを仏語ではブールヴァール(米語ではブールヴァード、ロシア語ではブリヴァール)と呼ぶが、台北の三線道路は典型的なブールヴァールである。
 三線道路の工事は1910年に着工し、1913年に全線が完成した。城壁撤去にともない、城門も撤去することになり、最初に、西門が取り壊された。これを見た児玉総督と後藤長官の指示により、残り四つの城門は都市のランドマーク、文化財としてすべて保存され、壊された城壁の石材は下水溝の築造に再利用された。清国時代の台北には公園は皆無であったが、1908年、市区改正計画にもとづき、城内の中心部に台北初の公園(新公園と称す、面積約8ヘクタール)が開設され、公園内には熱帯樹が植栽された。(p.96-97)


三線道路、下水溝、公園など近代的な都市のインフラが集中的に整備されていることがわかる。

なお、文化財保存された城門については、西門を取り壊したことに対する民衆からの反発もあったという点は銘記されるべきであり、単に後藤新平らのみの功績としてはならないだろう。なお、北門以外の城門は戦後(1965年)に北方様式で建て替えられている。



 市区計画が告示されたからといって、既成市街地の民間建築物は姿がすぐ変わるものではない。民間建築物の建て替えの契機となったのが、1911年8月、台北を襲った約60年ぶりの暴風雨であった。(p.97)


関東大震災もそうだが、大規模な都市災害は都市の景観や建築を変えるという事例だろう。



 台湾総督府は官民合同の協議によって城内メインストリートである府前街、府中街、府後街、文武街の家屋改築計画を立てた。新築家屋は市区改正道路の境界線まで後退させて計画道路の幅を確保し、建物は三階建以上の煉瓦造またはコンクリート造の不燃建築とし、軒高と窓の高さはある程度は揃えるという内約を得た。また、新築家屋の建築設計はすべて台湾総督府で面倒を見る代わりに、必ずその通りに実行するという同意を得た。台湾総督府は台湾銀行の協力を得て低利建築資金も斡旋し、1913~14年に市区改築を実施した。こうして洋風の堂々たるファサードを持った街並みが台北城内に出現した。このような一定の建築様式と構造の連続式建物からなる中心市街地を持った都市は当時の日本内地にはどこにも存在しない。日本内地における商業建築の不燃共同化の助成は帝都復興事業(1924~1930年)が最初であり、台北ではそれよりも約10年早く実行されている。(p.98)


現在でも台湾の古い街並みが残る老街の光景が目に浮かぶ。どこの老街も雰囲気が比較的似ているのは、

都市計画や衛生、国勢調査、鉄筋コンクリート造建築の普及など、台湾では多くのものが内地に先んじて導入されている。



日本内地の建築法規の制定は1919年であり、台湾における建築法規の制定は日本内地より早い。台湾家屋建築規則には「道路沿いの家屋は担庇ある歩道(亭仔脚)を設けなければならない」という独特の条文がある。
 ……(中略)……。今日の台湾でもこの建築規制は継承されており、幅員7メートル以上の街路に面する建築物は道路境界から4メートル分、セットバックさせて家を建てる決まりとなっている。亭仔脚の用地は民有地であるが、地租を免除される。亭仔脚は単に歩道空間ではなく、テーブルと椅子が置かれ、住民の憩いの場として使用され、都市住民の重要な生活空間となった。
 1914年度末までに全島17都市で市区改正計画が策定され、順に事業が着手された。こうして後藤の当初の方針が生かされ、台湾の諸都市は様相を一新し、地域開発と経済成長を支えるインフラが整備されていった。(p.99-100)


亭仔脚には知恵が詰まっている。

市区改正が行われた17都市とはどこか?



 後藤長官時代に着手された総督府庁舎、総督官邸、官舎建築、並木道、公園、病院などの官庁建築、公共施設は当時の台湾では不相応なほど立派なものであった。これを台湾統治の威圧の象徴と見なすことは一面的な理解である。後藤は現地に進出した一般の日本人に定住意識を持たせて、台湾の経営と開発に本格的に取り組む姿勢を、日本人と台湾人の双方に対して社会資本整備という事実によって示そうとしていたと理解するのが妥当である。(p.102)


なるほど。


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