アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

原田夏子、原田隆吉 『回想 東北帝国大学――戦中戦後の文科の学生の記』

 当時の帝大は北から北大、東北大、東大、名古屋大、京大、阪大、九大の七大学で、それらは旧制の高等学校の卒業生を受け入れる大学としてありました。ただ、東大、京大に続く第三の帝大として仙台に創立されたこの東北帝大は、最初は理科大学として発足、1911年に最初の学生を募集するとき、その入学資格を、高等学校卒業生に限らず、高等師範学校や旧制専門学校の優秀な卒業生にも入学を認めるという、後にこの大学の伝統となりましたいわゆる「門戸開放」が行われました。これによって、男子の専門学校生のみならず女子の場合にお適用の道が開かれ、日本女子大生も、試験に合格すれば入学が許されました。……(中略)……。九大も少し遅れて、この傍系入学の道を開きました。七帝大の中で戦前に傍系に門戸を開放していたのはこの二つの大学だけです。(p.10)


「当時」というのが筆者が入学した昭和18年頃の話であるとすれば、「当時」帝大は、さらに京城帝国大学(大正13年創立)と台北帝国大学(昭和3年創立)があったはずである。現在の「日本」の範囲を前提して過去を回想するというのはやや適切さを欠く叙述であると言わざるを得ない。

東北帝大が理科大学として創立されたという点は、その果たした役割を考える際には重要なポイントだろう。先日の台北帝大に関する本でも東北帝大の卒業生が軍需工場であった「日本アルミ」の工場長を勤めていたことが触れられていたことなどはその一つの事例と考えられる。

入学資格を旧制高校に限らなかったり、女子の入学も可能だったという点も興味深い。東北帝大と九州帝大が門戸開放を行えたのは、大正デモクラシーに繋がる時期(明治末期)に開設されていることも背景にあるのではなかろうか。



 東京から仙台を望みますと、親戚もなく足を踏み入れたことのない東北地方、その宮城県仙台でしたが、はやくから杜の都、日本のアルトハイデルベルグと讃えられていましたので、それにつけても憧れを強めました。(p.11)


仙台を杜の都というのはよく聞くが、「日本のアルトハイデルベルク」とは初めて聞いた。当時は広まっていた言い方なのだろうか。

ハイデルベルクはネッカー川のほとりの古都で川の両側の丘に囲まれた落ち着いた街という印象があるが、仙台はもう少し広々としたイメージがあり、私の中ではあまりしっくりこない感じがする。



 思想問題については日本女子大在学中、再々担任の注意を受けていました。昭和のはじめの大規模な思想弾圧で、女子大からも多くの検挙者を出したからです。また小学校から男女席を同じうせず、男女の交際も禁じられていました。それが大学ではじめて男子と一緒になるので特別の注意をされるだろうと格別にも思わなかったのですが、なぜわざわざ言われるのかと疑問が残りました。このことは間もなく知ることになりました。大学では数年前から経済科を中心に非合法グループとして教官の検挙があったり、女子学生もひとり特別高等警察、(略して特高 思想言論を取り締まる機関)に挙げられていました。また詳しくはわかりませんでしたが、恋愛関係の当事者二人の退学の話も聞きました。(p.15)


昭和初期の大学や社会の雰囲気がどんなものだったかわかる。



ただ先生の言われた「文盲」という言葉が、先生を思い出すとき浮かんできます。辞書には「文盲」とは、文字を見ていても読めない者の意のほかに、物や事柄を見ていながら、その存在や本質などに気のつかない者のこととあります。先生は後者の意味で使われ、芸術を解す事のできないもののことで、大学とは異質の軍人の世界に文盲との戦いが待っていること、先生はそれへの覚悟や決意をうながし、励まされ餞とされたのだと思いました。個人の思想や言動にも特高が耳を欹てていた時代に、軍人を文盲と言い切られた、先生の凛としたお心に感動しました。
 どこの教室も同じように一杯で、少しでも多く大学の講義を聞いておきたい、学んでおきたい、これが最後になるかもしれないという痛切な思いは共通していたといえます。(p.20)


「文盲」に関して思うことは、文化的なものに関心がなく、理解を示さない者と交流すること、そうした人間に囲まれて生活することは、なかなかつらいものである、ということ。ただ、「文盲」と見なされている側の発想の内側からも物を見ることは重要かもしれない。



戦争が深刻になるにつれて、物が何でも極端に足りなくなっていった時代に、本も例外ではなかった。その中で、岩波文庫は古今東西の古典的著述をコンパクトなかたちで低廉に発行しつづけていた唯一のものであって、当時の学生にとっては大変貴重であった。(p.105)

 
当時の学生にとっては貴重であったと述べられているが、これは過去の話ではなく、現在の学生や古典的教養のようなものを理解しようとする人にとっても同じように貴重なものだと思う。ただ、現在の学生がどれくらい岩波文庫を読んでいるか、ということはやや気になるが。



戦中はあれほど物資が欠乏して食うや食わずの生活が続いたのに、敗戦後はどこからか、あらゆる物資が姿をあらわしバラックの店が沢山並び、お金さえあればそこで何でも手に入るような自暴自棄的な活況を呈する、いわゆる闇市が開かれていたのである。(p.125)


仙台も台北(『台北帝大生 戦中の日々』)も同じような様子が述べられている。恐らく、当時の日本中で見られた光景なのだろう。



 大学構内こそ米兵も入れない安全地帯であったが、街の中ではしばしばトラブルが起きていた。国語学の小林好日教授が、ホールド・アップされて時計を奪われたと苦笑されたのもこの頃である。私たちは、日本の敗戦の現実を、はやくも身近な出来事にみつめることとなった。(p.128-129)


戦後まもない時期はこのようなことがあったのか。



 私に特に興味深かったのは、台北で公共図書館の日本のおばさんやお姉さんたちが、七つ八つの幼子たちを優しく導き、学校の先生と違って日本人と差別する雰囲気を全く示さなかった、これが強くアピールして楊少年の図書館好きは進んだという節と、満鉄図書館が大連の各所に幾つかの分館を設け、開架制をとって自由に本を探させ、十六年頃なのにソビエトを報告し、ナチを批判する図書も見出されたという節であります。満鉄図書館がその自由思想の故に日本を出たすぐれたインテリたちによって、日本本国よりもはるかに立派な理念と実績を示した、図書館史上の異彩であることはかねてより感じていました。日本の図書館は戦時中却って植民地で発展して内地をリードし、戦後内地へ引揚げたそれらの人材が四十年頃まで日本図書館界をリードしたが、彼らが第一線を退くに及んで、図書館は相対的な社会的地位の低下を免れなかった、と思うのです。(p.228-229)


興味深い指摘。


スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

佳山良正 『台北帝大生 戦中の日々』(その3)

 ラジオの警報では数十機のコンソリデーテドB24とその護衛戦闘機の編隊が、この住宅地を襲った。……(中略)……。迎撃するはずの我が方の戦闘機は一機も飛びたたず、前もって情報をつかんで退避していたという。乏しい戦闘機をできるだけ温存したい軍の気持ちは分からぬではないが、すでに市民の眼には彼我の戦力のさは歴然として映り、この時になって米軍に勝てるなどとは誰もが思っていなかった。(p.113-114)


大戦末期の台北への空襲。軍隊が守るものは、まず軍自身であり、次いで(実体としては存在しない)「国家」であり、具体的には政治・経済における有力者たちである。実際問題として「国民」(具体的な個々の人びと)を守るわけではないと理解しておいた方が良い。単に自身や「国家」などを守る反射的効果として人々が守られる「ことがある」という程度である。

現在、集団的自衛権の行使に関する政府の解釈変更が一政権の独断で行われようとしているが、軍事・防衛などに関する問題を考える際、軍事力に幻想を抱きながら考えるべきではない



 時に二人で万華の龍山寺付近に買い出しに行った。……(中略)……。
 寺の前の広場は露天商が思い思いに店を開き、昼間は野菜に肉類、魚類、コメ、雑穀まで売られていた。そして夕方ともなると屋台の肉を焼く煙と香ばしい匂いが一面に覆い、群がる人の胃の腑を刺激し、酒のむ男たちの喧騒が夕空にどよめいた。そしてその広場からほんの少し隔てて似たような建物が並び、その入り口には縁台を出して、形のよい脚を組む支那服の女がちらほらみえた。つまり万華の遊廓街なのである。爆撃に怯える城内や内地人居住地帯とは一変した別世界の光景のように私たちに映った。闇商売は公然と行われていたし、またそれによって人々は息がつけていたのである。勿論内地人も本島人も一緒である。このような情景は本土では考えられぬことである。(p.116-117)


龍山寺は台北でも有名な観光スポットの一つになっており、占い街のようなものがあることなどもよく知られているが、かつては台北城とは別の街であり、本島人たちの居住地区であった。現在もやや怪しげな雰囲気は残っているが、遊廓街だったこともあったというのは、何となく頷けるところがある。台北の歴史を知っていると、このあたりの流れが見えて興味深い。



 昭和18年から20年ごろにかけて、台湾にはインドや東南アジアの各地から研修生がきていた。これは日本政府の大東亜共栄圏構想の一環で、幹部養成のためであったらしい。(p.120)


これはあまり知られていない事実ではなかろうか。



 さて現実の支配者である内地人は、教育社会では不平等な入学競争によって中学以上の学校の大部分を占めた。本島人が進出できたのはかなり後であった。したがって有能な台湾の青年は日本本土で高等教育を受けるために渡航したのである。しかしせっかく高等教育を受けて台湾に帰ってきても、それを受け入れる職場がない。官庁は総督府が最高にあり、各州、各市、各郡にそれぞれ役所があった。当然これらの役所に採用されるべきだが、最下級の部の長である郡守になれたのは日本の統治間に僅か四人であったという。
 昭和18年の台湾総督府の高等官(勅任官、奏任官)は1444人であったが、そのうち台湾人は30人足らずであった。また公立中学校の校長は皆無、小学校1074校中たった5人がそれであった。このような差別があったのである。したがって私の知っている台湾人で内地で教育を受けたもののうち圧倒的に医師が多かった。これは比較的社会的地位の高い開業医として活躍できたからであった。(p.155)


保守系(右派)の日本の台湾統治礼賛論では、こうした点がしっかりと受け止められていない。銘記すべきことである。



 それと同時にというより、それより早く、本島人による露天商が今まで隠匿されていた食料品を山と積んで商いしだしたのである。屋台のビーフン屋や飯屋が各所にたち、人々はその味を楽しんだ。私はビーフンというものを知らなかった。戦争中は売られていなかったのだ。それが突然目の前にあらわれたのである。料理としては焼きビーフンと汁ビーフンがあるが、私は焼きビーフンが好きで焼きそばにも似ていた。(p.157)


「ビーフン(米粉)」が台湾語に由来することは知っていたが、戦争中には売られていなかったことは知らなかった。何故売られていなかったのだろう?



 武力犯行、政治的抵抗、これは過去の統治国と被植民地住民との歴史にはつきものの出来事である。台湾でもそれを経験している。しかし第二次大戦はこれらの動きを呑み込んでしまって一つの戦争目的への流れに入れてしまった。台湾人の戦死者三万数千人、しかし日本政府からも天皇からも謝罪の言葉がない。本当に心から天皇を尊敬していた人もいたのである。(p.173)


台湾の人々が「日本人」として戦争に参加した、ないしはさせられた、という事実はまず最低限銘記されるべきであろう。



 敗戦になって、軍人、官吏、民間人総数70万人の引き揚げが始まった。そのときの模様を鈴木明が台南の新聞「中華日報」に報じられた記事として述べている。
「朝露のまだ去らぬ早朝、一群また一群、さして広くない駅頭はまたたくまに台湾から出発する日僑で騒がしくなった。なかには教師であろうか、窓から頭を出して挨拶している人とひとかたまりの本省人(本島人)が『先生!先生!』といっていた。人として彼ら……日本人……は憎むべきではなかったのだ。汽笛一声彼らは住み慣れた台南から去っていく。彼らのなかには台南生まれの人も多かろう。在住30年、40年という人もあろう。
 しかし彼らは今や去らねばならない。大きな意志によって人生は動かされ、記憶されていく。大きな声で別れを告げる。ハンカチを振る。
 汽車はやがて走りだし、ハンカチを振る姿が小さくなり、やがて見送りの人はプラットホームから去っていった。地下道をくぐるとき『無事に帰るように』といった誰かの声がこだまして人々の耳をうった」
 このような温かい気持ちで送られた植民地支配者たちがいまだかつていただろうか。これは全く稀有のことである。(p.173-174)
日本の植民地統治を美化するつもりはないが、日本の台湾統治が全否定されるべきものではないという点は台湾の人々にも今も受け継がれている。社会的なレベルでは、日本統治時代の歴史的な遺産などを大事に保存している点にもそれは表れているし、個人レベルでも日本語世代の人々も日本に引き揚げていった人たちと連絡を取り合ったりしている人もいる。



 そしてさらに日本統治下では総督府をはじめ行政機関や企業は台湾人を差別し、上級職への登用はきわめて少なかったが、その分下級職には優秀な台湾人が多くいた。これらの人々は当然新政権のポストを期待したはずである。しかしすべての管理職は大陸人で占められ、しかもそれらのほとんどが学識、経験、能力に劣るものたちであったから、台湾人有能者にとってやりきれぬものがあったろう。(p.174-175)


常に外来政権により統治されていた台湾の悲劇。



 国民党側は、台湾人は日本人に教育された奸漢とみていたし、台湾人は日本統治下で体得した法治国家の精神を国民党政権に通ずるという幻想をいだき合法的手段として対応したのが悲劇的結果を招いたといってよい。彼らの描いた祖国には法支配の一片もなかったのである。
 この台湾人に対する鎮圧と称する殺戮は、米国の厳しい批判を浴びた。統治側が野蛮人で被統治側が文明人という欧米人には考えられぬドキュメントをみたからである。(p.176-177)


中華民国の統治がひどかったことが、まだましであった日本統治に郷愁の念を抱かせた、ということはよく言われるところである。



私のいたころの台北市は40万であったのに300万人を超えている。
 かつて2.28事件のとき国民党兵士が台湾人を日奴とよんでいた。その台湾人は今や日奴の奴を誇りにさえ思っているという。政治、経済、社会、科学について日本と同じセンスをもった漢族のグループとして中国人より勝れたものと位置づけているのである。(p.180)


上記の引用文で用いられていた言葉を使って言うと、「野蛮人」が「文明人」の側を「奴」と呼ぶ姿はある意味滑稽にすら映る。その後の台湾を見ると、こうした区別はもはやほとんどなくなっているように見える。私個人の問題として、戦後の台湾の歴史ももう少し詳しく学んでみるべきところに来ているように思う。



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

佳山良正 『台北帝大生 戦中の日々』(その2)

日本アルミは軍需工場であるから軍の監督下にある。例の台湾沖航空戦による被害はほとんどなかったという。そして工場は休日返上で運転されていた。
 港は近いようだが、市内見物といった雰囲気はとてもなさそうである。町全体が軍需集団といった感じで、結局私は木村家で一週間ほど休養して台北に帰ったということで、この旅行は終わったのである。……(中略)……。木村さんは東北帝大の工学部出身で、新設された台北帝大工学部の教授、助教授のなかにも同窓の人が何人かいるらしい。(p.70)


花蓮港(現在の花蓮)に関連する叙述。日本アルミという軍需産業の工場があり、町全体が軍需集団といった感じという。現在も花蓮の観光名所のひとつに松園別館があるが、これも太平洋戦争末期の日本軍に関連する施設だった建物であり、やはり戦争や軍事に関連する都市だったことを偲ばせる。ちなみに、現在の花蓮は「田舎の少し大きめの街」(田舎の県の県庁所在地)といった感じで、美しい浜辺や太魯閣(タロコ)渓谷といった自然の美しい渓谷などが近くにあり、市街地はそれほど大きくはないがある程度のものは揃っているという過ごしやすそうな町というのが私の印象である。

なお、台北帝大の工学部の教授・助教授に東北帝大の卒業者が複数就いているというのは、私にとってはかなり興味深いポイントだった。というのは、台北帝大の理農学部には、北海道帝大の農学部の卒業者がかなりの割合を占めていたことと同様の傾向が見て取れると思われたからである。すなわち、東北帝大は理科大学と農科大学からなり、前者が現在の東北大学、後者が現在の北海道大学の前身であるが、台北帝大の農学関係の学部で北海道帝大=札幌農学校の卒業者が多く、理工系の学部では東北帝大理科大学の卒業者が多かったとすれば、台北帝国大学の成り立ちがどのようなものであったか理解することに繋がるように思われるからである。(もっとも、戦前の日本にはそもそも大学というものが数えるほどしかなかったので、大学の教授となりうる学位を取得できるのもその限られた大学の卒業者にほぼ限られるだろうから、おのずとこのような人の流れができてくる、ということでもあるように思われるが。)

私の台湾と北海道の比較というテーマから見ると、台北帝大は札幌農学校に関する探究と並行して行うべきサブテーマの一つであり、そうした関心から興味が惹かれた叙述だった。



 私は小樽市から台北にやってきた。途中神戸に二回ほど寄ったが、どこでも夫人仲間で呼び合う間では「奥さん」というのは中流の中、上以上というところであったと思う。しかし台湾の日本人社会ではどんな下層的生活をしていても「奥さん」と呼び合っていた。
 これは植民地という環境がそうさせているのだろうか。来た当初はいささか異質なものを感じた。といってべつに軽侮の気持ちはまったくないのだが……。一般の商店、八百屋、魚屋などの女房は「おかみさん」と普通よんでいて、それがごく自然であった。それが台北では一律に「奥さん」である。それと会話のアクセントが広島から九州にかけてのもので、その端はしに方言がのぞいた。しかしおおかたは標準語に近いものであった。(p.72)


台北では生活水準に関わらず「奥さん」が使われており、「内地」とは異なってたというのは興味深い。そもそも日本本土で使い分けがあったというのは、現在とはやや感覚が違う部分もあり、興味深い。しかし、それ以上に興味深いのは、台湾での用法である。「植民地という環境」が影響しているのだとすれば、恐らく以下のようなことではないか。

すなわち、当時の台湾社会においては「日本語を母語とする人々の集団」はマイノリティーであり、かつ、基本的に支配階層に属する社会層を形成していた。その社会の中では「日本人(内地人)」と「台湾人(本島人)」の間には法的および社会的な差別や差異が存在しており、前者が優位に価値づけられていた。そうした価値基準が共有されている中ではどのような生活レベルの日本人であっても、台湾社会の中では上位層に位置づけられているという自己認識を持つこととなり、これが「奥さん」という語を用いる背景となった、ということである。また、「一律に」使われたというのが本島人をも含めてのことであるとすれば、当時の台湾の日本人社会で使われていた表現をそのまま現地の人々が学び取ったということではなかろうか。

また、台湾における日本語のアクセントが広島から九州にかけてのものだったというのは、台湾に移住した人びとがもともと住んでいた地域が関係していると思われる。私自身の経験というか、私が知る台湾の日本語世代の方の日本語も確かに「標準語に近い」ものであったが、アクセントは少し特徴があった。私はあまり九州方面の方言やアクセントは知らないので何とも言えないが、このアクセントの特徴は九州方面のものだったのかもしれない。私としては、従前は母語ではないことの影響、すなわち台湾語なまりのアクセントなのかと思っていたが、そうではない可能性もあることに気づかされた。



このころ台北の映画館では上映開始とともに宮城の写真が大きく映しだされ、天皇・皇后の写真も出て、一同起立して国歌斉唱したのである。今も思うのだが、本島人たちはどんな気持ちであったかである。それが終わって着席、後に二、三本の映画が映写された。入場者の半数近くは本島人である。インテリ層がかなりいるのである。なにか政策の幼稚性を感じたのである。このことについて日本人は見事にしっぺ返しをされた。というのは敗戦となり、中華民国の占領下におかれた時、私は一度だけ映画館に入ったことがあった。そのとき上映開始とともに、蒋介石総統夫妻の写真が大きく映され、耳慣れぬ国家が斉唱され、最敬礼をさせられたのである。(p.79-80)


(第二次大戦前後の)当時の映画というメディアとナショナリズムとの関係は、恐らく研究されているだろうが、確かに興味深いテーマの一つではあるかも知れない。

また、中華民国が台湾に入ってきた時、結局日本と同じことを繰り返している部分があるということは重要な認識であると思われる。本島人にとっては、どちらも「どんな気持であったか」と思う。

また、本島人のインテリ層が映画をよく見ていたというのも、少し興味が惹かれる。



 病室は入口は一つだが、なかは七号と八号室に分けてあって、七号室は本島人、八号室は内地人が占めていた。構造やベッドなどには全く差はなかった。(p.82)


本島人と内地人を分けているのは、差別を助長する面はあっただろうが、母語が違ったり、習慣が違ったりということを考えると、それなりの合理性もあるように思える。



当時は小樽の街も大通りのみが舗装されているだけで、ほとんどががたがたの道であった(p.82-83)


道路の舗装状況というのも、インフラ整備の程度を図るバロメーターの一つとなりそうだ。三線道路があった台北の方が小樽よりも道路インフラの状態は良かったのかもしれない。





テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌