アヴェスターにはこう書いている?
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佳山良正 『台北帝大生 戦中の日々』(その1)

 町並みは煉瓦建てが主で、とくに駅前から商店街の主要地区はほとんどで、ほぼ二階建てか三階建てに統一されていた。一階は店舗になっており、二階以上は住居であるのが普通で、歩道の天井はその住居になっているから、スコールを避けるにも、強い陽射しから逃れるにも非常に便利なものであった。これはテイシキャクと呼ばれていたが、熱帯に住む人々の知恵のなせるものであろう。昭和19年2月ごろは台湾はまだ豊かで、余裕があった。そして当時の台北はおそらく日本で一番美しい都会であったのではないだろうか。(p.13-14)


日本統治時代末期の台北の様子。なお、テイシキャクはもともとは華南が発祥と聞くから、大陸から台湾に入って来たものと思われるが、このように統一的に使うことになったのは、台湾総督府の政策による。



とくに軍事教練は理学部と農学部合同である。というのは前は理農学部といっていた名残りが続いていたらしい。(p.18)


昭和19年現在の台北帝国大学のカリキュラムには軍事教練があったことがわかる。学部の編成のあり方との関連が興味深い。



 そこで気が付いたが事務をとっている男性は全て海軍の将校か学習院の生徒の制服に似たものを着用していることであった。女性は普通の洋服である。これは正に植民地色の最たるものであったろう。官服と称して一般の官庁の役人から高校から小学校に至る教員まで官職につくと、この官服を着用することになる。……(中略)……。
 このように、今考えると笑いたくなるような差別があって、それが植民地では真面目に実行されていたのである。しかしこの官服の着用にあこがれていた人が随分いたのも事実である。とくに本島人のなかに多かった。(p.18-19)
身分の差別を表示する機能もあるが、これに憧れる本島人が多かったというのは、皮肉な感じがする。



これらの先生方と山根、加藤先生もすべて北大出身である。(p.28)


台北帝国大学の教授には北海道帝国大学から多くの人材が登用されたとは聞いていたが、少なくとも農学部に関してはかなりの割合だったようだ。



 大稲埕はほとんど本島人の居住区で西門の城外にあった。当時台湾の人口は660万人で、うち内地人は40万人足らずであったから、わずか6パーセントにすぎなかったのである。だから台北市の場合はその大部分が城内かその周辺に住んでいた。新竹、台中、台南、高雄の諸州や花蓮港などの主要な都市に分散している数もそう多くはなかった。戦時は軍人の比率が高かったが、平時では内地人の約50パーセントが公務員に関係していた。(p.39)


台湾の人口は現在の約1/4くらいだったようだが、日本の人口は戦後4倍にはなっていないことを考えると、戦後の人口の増え方がかなり大きいことが見て取れる。また、当時の世界の人口なども考慮すると台湾の人口は結構多いように思われる。

内地人は少なく、その多くが公務員に関係しているというのは、統治のあり方と関係しており興味深い。なお、おそらく残りの半分は内地資本の大企業に関係する人々ではないかと思われる。



 卒業式が終わった日の夜、大稲埕の江山楼の二階で農学部卒業生の壮行会が開催された。……(中略)……。
 江山楼は由緒ある料亭というところであろうか、その二階の広間で宴がはられたが、台湾料理、つまり福建か広東料理のテーブルを幾つものグループが囲むことになる。農学部長や役職の教授たちのスピーチがあって乾杯。卒業生のほとんどは入隊する。飲む酒は高砂ビール、ウイスキーは台湾産のエスペロ、それに日本酒は内地の「白鹿」と「白鷹」、そして台湾製の「凱旋」と「福禄」である。台湾の地酒というべき「米酒(ビーチュウ)」や「金鶏」はこのような席には出ない。
 ……(中略)……。
 考えてみると昭和19年9月ごろに内地でこのような宴会ができたろうか。また日本帝国の危機を語り、為政者の批判ができたろうか。(p.39-40)


高砂ビールは現在の台湾ビール。金鶏は台湾産の日本酒らしい。酒にはあまり興味はないが、台湾の農業関連産業の状況を知るための素材としては面白そうに思う。

戦争末期に為政者の批判までできるような宴会ができたというのはやや驚き。



 さてサイパン陥落以来、戦局は悪化の一途をたどり、海、空戦力の劣勢から輸送力は著しく減退して原料資材の絶対的不足を招き、軍需生産はもちろん、農業生産までも減退して日本本土の国民生活は日々逼迫していった。これにより、重苦しい敗戦という予想が少しずつ心の隅にしこりのように根付いてきていた。
 農学科のある助手が「これでは日本は駄目だ、一つとして明るい見通しがないではないか。国民一人当たりの摂取カロリーは今や1800カロリーを割っている。これで勝てると思うか」といって私に大声で問う。かなり酔っていた。当時、新聞、ラジオでの報道はわが方に有利なニュースばかりであったが、アッツ島の全滅、ガダルカナルの敗退、そしてサイパンの喪失は隠蔽できるものではなく、なにかしら人々の上に不気味な不安がのしかかっていた。そしてそのころから相手国への敵愾心をあおるために「鬼畜米英」という言葉が使われはじめた。また、ガダルカナル島で米軍が重傷を負って動けぬ日本兵を重戦車で潰殺する残忍性の報道や、美女が日本兵の骨でつくったペーパーナイフを使ってい写真を掲載するなどの幼稚性が新聞にあらわれだして、なにか末期的なものを我々に嗅ぎ出させたものだ。
 それでも懐疑派が厭戦の色をその言葉のはしにのせようものなら、多くの学生は「そんなことは断じて許さん。俺はまだ日本の戦勝を信じている」という者、あるいは「戦勝とまではいかなくとも、少しでも有利な和議にもっていけると信じているよ」という者が多かった。そしてそれらの学生は天皇のためというよりは、郷里の幼い子どもたち、本土の人々のために御楯になろうという気持ちがつよく心を支配していた。(p.40-41)


当時の人々の心理状況や戦況認識を感得させるメディアの報道の在り方などが垣間見えて興味深い。

有名な「鬼畜米英」という言葉は敗戦近くなり、形勢がかなり不利になって来てから使われはじめたという点に注目したい。少しでも強く人々を動員したいという支配者側の意向が何かしら反映しているのか?それとも情報を持っている支配層の人間にとって、負けることが見えてきたことに関する悔しさから戦争相手国への反感が募っていったことの反映なのか?いずれにせよ、逆境だったからこそ出てきた言葉だったらしいということがわかっただけでもこの言葉への認識が深まった気がする。



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島田昌和 『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』

 馬越本人は、その後、三井物産の関係から1891年より日本麦酒会社の経営立て直しに参画し、合理化策を徹底する一方、販路拡張に努め、たった一年で黒字転換を成し遂げた(『サッポロビール120年史』)。三井物産社内にあっては1892年に三井物産会社の専務役員、1893年には三井物産合名会社の常務理事と順調な出世を遂げている。しかしながら1896年には三井の枠を越えたビジネスを求めて三井物産を辞職した(大塚栄三『馬越恭平翁伝』)。(p.94)


馬越恭平が三井物産から日本麦酒会社に送り込まれ、上記のように黒字転換を成し遂げたということを、私は数年前にサッポロビール博物館の展示で知った。三井物産と日本麦酒会社(現・サッポロビール)との当時の関係がいかなるものであったのか、また、馬越が日本麦酒会社の経営を立て直す際に三井物産の持つネットワークや資金などが何らかの役割を果たしたのか、といったことが疑問として残っている。



 もう一つのタイプが、社会の専務取締役や支配人などに就任した渋沢の経営上の代理人とも言うべき役割を担ったメンバーである。その代表格の一人は植村澄三郎(1862~1941)である。北海道炭礦鉄道を皮切りに札幌麦酒、十勝開墾などの各会社を任されていく。植村が大きく認められるきっかけとなったのが札幌麦酒会社であり、同社は、北海道開拓使の麦酒醸造所の払い下げを受けて1887(明治20)年、渋沢、浅野、大倉らによって発足した。実際に北海道という現地で指揮を執る責任者を探していた渋沢や大倉の眼に留まったのが北海道炭礦鉄道の監査役であった植村で、1894年に専務取締役として加わった。
 植村は実質的な社長として手腕を存分に発揮し、外国人技術者から自前の日本人技術者への切り替え、東京(本所区吾妻橋、現・墨田区)に分工場建設計画の決定をして1903年から出荷を開始した。そして1905年には製造量でビール業界のトップにつくというめざましい成果を発揮した。その後、札幌麦酒は大日本麦酒と合併し、馬越社長・植村常務取締役という体制を24年間続けていくことになっていった。(p.94-95)


植村という人はこれまで知らなかったが、北海道開拓という文脈から見ると非常に重要な会社に継続的にかかわっていた人であるようだ。今後、注目してみたい。



 1908~09年にかけて「申酉事件」と呼ばれる大学昇格の挫折事件が起こった。東京高等商業学校側は独立の商科大学の設置を望んだが、文部省は東京帝国大学法科大学内に商業学科を増設する考えを推進し、東京高等商業学校専攻部の廃止を決めた。このためこれに反対する学生が総退学を表明するという事件であった(三好信浩)。
 ……(中略)……。その後も断続的に商科大学構想は東京帝大との合併を軸に提起され、文部省はあくまで帝大側に合併させる基本線を譲らず、膠着状態となった。このような苦難の末にようやく1920年に単科大学の設置を求めた大学令の実施により、「東京商科大学」への昇格を果たしたのであった(『一橋大学百年史』)。(p.167-168)


1920年というのは、日本の大学の歴史においては一つの節目となる年であるように思われる。同じ年に旧制大学が続々と設立されているからである。(慶応、早稲田、明治、中央、法政、同志社など。)



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まどか出版 編 『日本人、台湾を拓く。 許文龍氏と胸像の物語』(その3)

 松木が三井、三菱の参画にこだわったのは時勢を読んでいたからだろう。どちらか一社ではアルミ生産が追いつかなくなると見抜いていたのではないか。もっと資源が渇望される時代が必ずくる、と……。三井、三菱に古河、住友を加え、台湾電力も出資して「日本アルミニウム株式会社」が35年6月に設立される。直ちに台湾南部の高雄で工場建設が始まり、翌年には第一期工事が竣工し、台湾の軽金属工業がフライトしていく。
 そして37年、時局はめまぐるしく変化し、日中戦争の火ぶたが切って落とされた。軽金属は国策的必需品となり、台湾の軍需関連産業は驚くべき速さで成長する。台湾電力は、産業界に血液を供給する心臓となった。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 松木が没した39年、台湾の工業生産は農業生産を上回った。皮肉にも戦争の圧力によって開いた工業社会の扉は、米軍の爆撃で閉ざされたかにみえたが、戦後、台湾人自身の手によって、より雄々しく開け放たれるのだった。(p.263-264)


このサイトに近々アップする予定の本(『台北帝大生 戦中の日々』)でも日本アルミニウムについての記述があった。そちらの本では花蓮港(現在の花蓮)の工場に関する記述があったのだが、最初の工場が高雄に建設されたというあたりからも、軍需産業だったのだということがわかるように思われる。台湾は当時、南進のための兵站基地という位置づけであり、南に開いた大きな港が高雄だからである。

ちなみに、花蓮港も軍事都市であり、ここに日本アルミニウムの工場が建てられたことも納得できるものがある。

なお、戦争が工業化を促進したという点はやはり北海道とも共通していると思われる。



 台湾紅茶は「渋味を抑えたまろやかな味」で、1960年代まで隆盛を極めた。ただ残念なことに、70年代に粗悪品が出回り、80年代には市場から姿を消したという。ところが、99年に台湾大地震が発生、震災の復興策として紅茶の生産が再開され、再び耕吉郎の存在が脚光を浴びるようになった。(p.275-276)


台湾というと烏龍茶のイメージが強いが、紅茶もどのような味か飲んでみたいところだ。



 日月潭は台湾を代表する観光名所である。多種多様なテーマツアーができ、そのなかで猫囒山歩道(全長約4.6キロ)が「紅茶の故郷」として「紅茶の棚田、日の出、日月潭の美景」をテーマとする観光スポットとなって整備されている。
 歩道は紅茶の棚田に沿って始まり、頂上の気象ステーションから日月潭が一望できる。紅茶の茶畑に沿って、「和式宿舎古跡」「茶改場」「旧紅茶工場古跡」「紅茶博物館」「日本技師紀念碑」「茶園」などが続く。このうち「和式宿舎古跡」は日本式の木造住宅で、耕吉郎などの職員が住んだ日本植民地時代の官舎(95ページの写真参照)。「日本技師紀念碑」が「台湾紅茶の父・新井耕吉郎」を讃えた記念碑である。
 現在でも、新井耕吉郎の功績は、台湾観光とともに語り伝えられている。(p.283-284)


台湾には何度も足を運んでいるが、未だにこの有名なスポット(日月潭)に行けていない。行く機会があれば、この紅茶関係のスポットはしっかりと見てきたい。



 又男が台南市長となったのは太平洋戦争のまっただ中のことであった。当時の台南市の人口は17万人で、うち日本人は1万7000人であった。台湾人は日本人官吏に対して不満がないわけではなかったが、口には出せない状況であった。……(中略)……。
 当時の台南市はまだ不潔で、特に下町は紙屑、豚や魚の骨、野菜屑など下水に投げ捨てられ、下水工事が不完全なため、水はけが悪く、悪臭がひどかった。そこで、又男市長は衛生環境を改善するため、環境整備をモットーに清掃コンクールを実施した。市長の愛の行脚により、市民も水道課の職員も緊張し、区長などの陣頭指揮ぶりも目覚ましく、下町の衛生環境は大いに改善された。(p.300-301)


太平洋戦争時の台南の状況。



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まどか出版 編 『日本人、台湾を拓く。 許文龍氏と胸像の物語』(その2)

 札幌農学校で教授としての稲造は、知識の伝達もさることながら、人格の養成に重きをおいていた。知識は地域により時代により異なれど、人格が磨かれていれば人間はどこでも通用する。それが国際人・新渡戸稲造の思いだったろう。(p.64)


「人格が磨かれていれば人間はどこでも通用する」というのは、なるほどと思わされたフレーズ。単に記憶する知識ではなく、人が行動や判断する際に尺度として働くような類の知識を身につけることなどは、教育によって人格を磨く際に有用なものではないか、と思われる。

これこれの場合には、どのように振る舞わなければならないか、ということを教えても、そのように振る舞えるようになるわけではない。道徳の教科化などということが昨今言われ始めているが、この流れで行くと、この手の「教育」が施されそうで非常に有害であると考える。「愛国心を持て」という類の「教育」は、この類の教えの最悪の類型に属すると考えられる。

(政治指導者などが自国の人々に「愛国心」を持ってほしいのならば、そのようなことを教えようとするのではなく、誰もが好きにならざるを得ないほど素晴らしい国を創っていけばよいだけの話であり、殊更に「愛国心」などということを教えようとする必要はないはずだろう。むしろ、「愛国心」を持ってほしいとしてこれを強制しようとする人々がいる場合、彼らが欲している「国」は、多くの人にとってかなり性質の悪いものであり、それを取り繕うために人々を洗脳したい、ということに過ぎないと思われる。)

個人的には、例えば、マックス・ウェーバーのWertfreiheitという考え方を初めて知り、その考え方を習得していくプロセスで、ものの見方や振る舞い方などが変わったという経験がある。たとえ、その後、この考え方を批判することがあっても(現に今の私にとっては、この考え方にも批判すべき点はある)、そうした「知識」を身につけるプロセスの中で学び取ったことは無駄になるわけではない。



『道路ノ両側ニ設ケタル溝渠ニハ覆蓋ヲ用イルコトナク解放シアリテ停留セル水ハ腐敗シ汚物ハ悉ク沈殿セリ叉総シテ汚穢物ハ淡水川ノ辺ニ積ミ或ハ堀ノ付近ニ堆積スル等ノ状況ナルヲ以テ悪臭ヲ発散スルコト実に甚シ
 それでも二人は、『台北市ハ衛生工学上ヨリ論スルトキハ最モ不健康ノ土地タルヲ免レスト雖モ(略)予想ヨリモ比較的甚シカラサルノ感アリ』と感じた。ところでこの観察は城内と大稲埕に関するもので、艋舺に一歩足を踏み入れるや、楽観は消し飛んだ。
『上記ノ記事ヲ終ヘタル後ニ至リテ予等艋舺ヲ巡検シタルニ城内並大稲埕ノ方面トハ全ク異リ同地ノ全部ハ尤モ狭隘ニシテ且非常ニ不潔ナルコトヲ目撃シタリ』
 よほど衝撃を受けたのだろう。二人はさらに『最モ劣等ノ市街ニシテ同地ノ住民ニ付テハ最モ憫ムヘキモノアリ』と書き進み、コレラ等の巣窟となると指摘し、『台北市ヲ健康無病ノ地ト為サント欲セハ艋舺を現時ノ侭存置スルニ於テハ到底之ヲ為スコトヲ得サルヘシ』と断ずる。(p.90)


引用文中の二人とはお雇い外国人・バルトンとその助手・浜野弥四郎である。

明治29年(1896年)頃の台北の衛生状態がどのようなものだったかわかり興味深いのでメモしておく。



 衛生工学は人間のためのものだ。日本人のためだけ、清国人のためだけにあるのではない。どこに住んでいても人間が健康に暮らせるようにする、それが衛生工学の基本ではないか。そう思えば衛生工学に国境はないはずだ。限られた特権階級だけが健康に暮らし、大多数の人々が悲惨な環境にあまんずるような社会では衛生工学は必要とされない。だから元来衛生工学は、反権力的な特性を備えている。換言すると極めて広い社会性を持つと言える。イギリスでも多くの人びとが社会の改善のために戦っている。日本でも台湾でもそのような戦いは必要ではないか。(p.96)


反権力的というより、民主的ないし平等主義的な特性と言うべきかと思われる。衛生工学には国境はないというのは名言だが、そもそもあらゆる学問には国境はあるべきではない、のではないか。しかし、現実には学問や教育が国境を区切り、国境のこちら側とあちら側との争いを助長するということが現にあるし、これからもそれがなされようとしている。そうしたことに鈍感でありたくないと思う。



 当初、烏山頭出張所は山深い森林の中にあった。この時代、大幅な改善がなされていたとはいえ、台湾には疫病が多く、亜熱帯特有の風土病も蔓延していた。そのため、当初は工員のための宿舎だけが設けられ、その家族を住ませることは考慮されていなかった。
 しかし、八田は妻帯者はできるだけ家族とともに暮らすよう指示したという。これは家族とともに暮らすことで、工員は心置きなく職務に専念できるという理由からだった。そして、宿舎の改善だけでなく、集落の整備も進められるようになった。
 職員の宿舎付近には学校や診療所、公共浴場、売店などが設けられ、生活機能が考慮された集落ができ上がっていく。また、福利厚生についても配慮がなされ、テニスコートや弓道場があったほか、定期的に芝居一座を呼んだり、映画上映が行なわれたりしたという。
 ……(中略)……。
 医療面については、当時、最も恐れられていたマラリアについての対策が練られていた。……(中略)……。
 こういったエピソードから「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という八田の思いが感じられる。工事は人間が行なうものであり、機械が行なうものではない。それがゆえ、人間を大切にすることは工事を成功に導く。これは八田技師が抱いていた「信念」であると言えるのかもしれない。(p.172-173)


働く人を大切にすることで仕事がうまくいくという考え方は、確かにそうだろうと思う。

また、労働者が家族ぐるみで官舎に住み、その周辺に生活のための(娯楽施設を含む)あらゆる施設が整えられていたというあたりは、炭鉱があった町(具体的には北海道の夕張や三笠など、空知地方の炭鉱都市)と似ているのではないか?私の研究テーマの一つとして、これらの町と台湾の金鉱があった町(九份や金瓜石)との類似や相違などを調べたいと思っているのだが、八田與一がかかわった烏山頭ダムの建設も比較対象として浮上してきたことになる。

なお、炭鉱の町と共通であるとすれば、烏山頭ダムの建設現場も、ここで書かれているほど理想的なものではなかった可能性が浮き上がってくる可能性がある。



 戦後、いつの間にか海芋の名所として知られるようになった竹子湖だが、花を愛でる人々の多くは、この地が台湾の特産米揺籃の地ということは知る由もないであろう。日本時代、この竹子湖の地において、戦中戦後の台湾のみならず、アジアの人々をも潤した「蓬莱米」が産声を上げたのである。(p.199)


竹子湖は現在、陽明山国家公園に含まれているが、是非行ってみたくなった。3~4月頃に「海芋季」(カラー祭り)というのがあるらしいので、その時期に是非行ってみたい。(海芋はカラーフラワーという花のこと)



 本格的な在来米の改良が着手されたのは1906(明治39)年であった。それまでの時期、米の増産は進んでも、品種改良に大きな進展は見られなかったのだが、日露戦争による農村の労働力不足と戦後も続く不況で日本内地の米不足が決定的となったことは、それまで奨励事業に注入してきた経費や労力の大部分を品種改良にシフトさせざるを得なかった。日本内地の市場でも受け入れられる品質の台湾産米を作り出すことに、もはや一刻の猶予もなくなったのである。

 品種改良は台湾南部の阿緱庁(現在の屏東県屏東市)農会で始まったことを嚆矢とする。まず解決しなければならない目下の課題は赤米の根絶にありと考えた阿緱庁庶務課長の武藤針五郎氏が、佐々木基庁長の賛同を得て、総督府へ補助を申請したことに端を発する。この改良事業には地元の農会、つまり日本でいう農協が主体となって行われたことに注目したい。1900年代前半に各地で設立された農会は、地方の庁と密接に連携し、さまざまな事業を行う、いわば役所と農民を結ぶ窓口であり、政府の下請け機関としての役割を担っていた。(p.205-206)


明治末期に(最大の産業が漁業から農業になったことに象徴されるように)北海道でも農業がかなり盛んになっていったようであるが、日露戦争による供給力不足という同じ要因が作用しているのかもしれない。

台湾における農会の位置づけも当時の台湾社会を考える際には重要な点の一つではないかと思われるのでメモしておく。



 一部の資料では、台中65号の別称が蓬莱米、すなわち台中65号イコール蓬莱米と記述されているものがあるが、それは誤りである。蓬莱米とは、台湾で栽培に成功した内地米の総称であり、どれか一品種を指す名称ではない
 蓬莱米の命名は1925(大正14)年、台中65号の完成はその4年後、1929(昭和4)年のことである。(p.231)


私もどこかの資料で読んで誤解していた。



 正門から総合図書館まで続くヤシの並木道は台湾大学のシンボルでもある。基本的な配置は台北帝大の時代から大きく変わっていない。合計すると台湾の国土の1パーセントを占めるという広大なキャンパスを持つ台湾大学だが、林立する校舎群を抜けると、キャンパスの片隅に喧騒とは全く無縁の農業試験場が姿を現す。台北市内とは思えないようなのどかな光景だが、農場の向こう側に見えるのは台北101ビル、まぐれもない首都台北の真ん中である。
 この農場の片隅に、学生たちが「磯小屋」と呼ぶ建物がある。建てられたのは1925(大正14)年というから築80年以上、台湾大学の建築物の中では最も古いものだ。台湾大学の前身、台北帝大が創立した1928(昭和3)年より以前に建てられたことになる。実はこの建物は1922(大正11)年に創立された台北高等農林学校の校舎として使われており、台北帝大の創立と同時に編入されたために、現在でも台湾大学の一部として使われているのだという。この建物を調査した研究者は、米軍によって撮影された航空写真と、台大に残されていた校舎の平面図を一枚一枚すりあわせて建築年代を特定したという。
 ……(中略)……。

 2012(平成24)年3月、この「磯小屋」に磯と末永の胸像が置かれ、お披露目された。磯小屋は老朽化が進み、数年前にこの磯小屋の中にある書類棚から磯の手書きによる貴重な原稿が発見されるなど、内部の整理も不十分だったが、胸像の設置とともに整備が進められた。
 2012年現在では、曜日限定ながら一般公開も始まっており、大学側も磯と末永の功績を広めたい考えだ。(p.232-234)
台湾大学のキャンパスは数年前に友人(台湾大学卒)に案内してもらったことがあるが、2012年より前だったため、ここは見学できていない。台北101が見える広い農場のようなところがあったという記憶はあるので、恐らくその近くにあるのだろう。

次回、台湾に行くときには、時間が許せば台湾大学を再訪し、磯小屋も是非見学してきたい。

公式サイトはこちら。これによると現在は水土日が見学可能。



 磯や末永がその生涯のほとんどを掛けたといってもよい蓬莱米は、現在でも台湾の日常生活に生きている。台湾の国民的ビールとして親しまれているのが「台湾ビール」だが、この台湾ビールは日台のつながりを秘めているのだ。
 一つは、台湾ビールの前身が日本統治下の1919(大正8)年に設立された高砂麦酒株式会社だということ。もう一つは、ビールのラベルを注意して見ていただきたい。原材料の欄に「蓬莱米」と小さな字で記載されているはずだ。ビールの原材料に米を混ぜることは珍しいことではないが、わざわざ「蓬莱米」と記載しているところにこだわりを感じてしまう。(p.239-240)


いずれの点も興味深い。




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