アヴェスターにはこう書いている?
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まどか出版 編 『日本人、台湾を拓く。 許文龍氏と胸像の物語』(その1)

大正12(1923)年に、日本初の環境型地下ダムを造った鳥居信平の取材は、実は許文龍氏からいただいた言葉がひとつのきっかけになった。それは「台湾のことを深く識りたいなら、水のことを勉強するといい」というものである。
 工業化が進んだとはいえ、今も台湾社会の屋台骨は農業であるから、農民たちが営々とつないできた水の絆をたぐれば、自ずから台湾と日本両国の関係や水に対する人々の心情がわかるだろうというアドバイスだった。(p.20)


確かに、引用文で触れられているようなダムのほかにも、茶業、製糖業、パイナップル(缶詰)など、農業と結びついた産業は特に歴史的に台湾を見る時に極めて重要な意味をもっている。



フランスは、あわよくば台湾を掠め取ろうと狙っていた。
 すでにフランスは清国の属領だったベトナムを植民地化するために清仏戦争(1884~85年)を強行している。軍隊を台湾の基隆に上陸させ、台湾海峡を封鎖して清に全面戦争を仕掛けた。イギリスの調停で天津条約が結ばれ、ベトナムの宗主権はフランスの手に落ちた。
 この敗北を機に清は、台湾の戦略的重要性に気づき、台湾住民を「化外の民(教化の及ばない地域の人々)」と突き放す方針を改め、台湾を省に格上げして近代的な統治に着手する。が、日清戦争の結果、台湾は日本に割譲された。フランスは台北に領事館を置き、海峡を隔てた対岸の福州には造船所も開いた。喉から手が出るほど台湾をほしがっていた。
 日本国内では難航する統治と財政負担の増大から「台湾を一億円でフランスに」との売却論が高まった。しかし政府は、せっかく手に入れた植民地を他国に売ろうなどと考えてもいなかった。まして「北守南進」を唱える軍部には妄言としか響かなかった。「北」は三国干渉で遼東半島を還付させられ、朝鮮でもロシアの勢力が強まって軍部は動けず、守りを固めるのみ。逆に「南」は台湾を「図南の飛石」として対岸の福州から華南を勢力圏に入れる南進策が桂太郎らによって立案されていた。(p.24-25)


日本が台湾を植民地化した頃、フランスも台湾の領有を狙っていたという点は、日本における台湾論では、日本と台湾との直接の関係ばかりがクローズアップされる傾向があるため、あまり重要視されていないように思われるが、当時の世界情勢の中で日本の台湾植民地化を位置づける必要があるとすれば、やはり西洋列強や清国とその属国などの動向全体に目配りが必要であるように思われる。



政党を指導する原は、本国と台湾は同じ制度にすべきと譲らなかった。その根底には民衆の支持を基盤とする政党政治家の「平等主義」が横たわっている。条約改正で諸外国に対して平等な待遇と自由を求めるからは、植民地にも同じ論理を適用しなければ筋が通らないと考えたようだ。
 かたや新平は、台湾は日本の国際的地位を向上させ、経済発展を遂げるための一部とみている。
 現地の実情に沿って一日も早く「科学的施設、文明の利器」で民心をひきつけねばならない。人々の物理的環境が良くならなければ近代的な未来は開けない、と確信していた。
 「しくみ」から統治を考える原と、「物理」から入る新平の違いは興味深い。
 ……(中略)……。
 やや先回りをしていえば、新平の特別統治で台湾に文明の利器が持ち込まれ、民族自決主義に目覚めた台湾人は日本本土と同等の権利を求めるようになる。原が政権をとると、台湾総督を武官から文官に交代させ、内地延長の同化主義に転換する。(p.28-29)


原敬と後藤新平の考え方の対比は確かに興味深い。台湾総督が武官から文官に変わったという点は台湾の歴史を語る際、よく出てくる話題だが、その背後に原敬がいたという点は押さえておきたい。



 日干しレンガで造った台湾独特の赤茶けた家々の間に、木造の擬洋風建物の影がちらりと見える。
 擬洋風とは、明治の初め、欧米建築に近づきたい大工の棟梁たちが見よう見真似でこしらえた和洋折衷の建築様式だ。唐破風の軒にキューピッドが飛ぶ信州松本の「開智小学校」がその典型だが、台北では手の込んだ建物はないものの、資金も建築資材も限られたなかで本国の風を取り込もうとする日本人街が少しずつ拡がっていた。(p.31)


児玉源太郎と後藤新平が台湾に赴任した明治31年頃の叙述。台北で今も擬洋風の建築で残っているものはあるのだろうか?あるのなら見てみたいところだが。



 新平がスカウトした面々は、行政の専門家集団を形成し、台湾からやがて満州、逓信省、外務省、内務省、東京市、関東大震災後の帝都復興院へと新平が活躍の場を拡げるに伴って移動する
 中村是公は、満鉄総裁から鉄道院総裁、東京市長と新平が辿ったコースを後ろから追いかける。藩閥の圏外にある新平が、政官界の荒波をかき分けて進むには、このような自前の人材ネットワークの構築が不可欠であった。(p.35-36)


後藤新平が彼が築いた人材ネットワークと共に移動したというのは興味深い。西澤泰彦の植民地建築に関する研究でも、官庁の建築家たちが台湾から他の植民地へと移っていったことが示されていることとも符合すると思われる。



 バルトンの基礎調査は新平の台湾赴任を待って実を結んだ。新平はバルトンに「きみの報告書に従って衛生工事と市区改正にとりかかる」と伝えた。都市建設の審議機関を組織し、台北の「市区計画」が策定される。本国政府の関与を受けない特別統治だけに法的処理は迅速だった。
 1899(明治32)年4月、「台湾下水規則」が制定され、日本領内で初めて下水道と都市計画の関係が制度的に明文化される。本国で「下水道法」が成立する一年も前のことだった。以後、台北の下水道は、帝都東京に先んじて整えられていく。
 翌1900年には「台湾家屋建築規則」という都市建設の公的ルールが制定された。
 家を建てる際、雨の多い気候に配慮して道路沿いの商店や家は一階部分に「庇のついた歩道」(亭仔脚)を通し、道路に面さない家屋は周囲に12尺以上の空地と幅六尺以上の道を設ける、と定められる。(p.47-48)


下水道のほか、鉄筋コンクリートの建築なども本国より早く普及していったことなどの背景の一つとして、本国の関与を受けない特別統治であったことが挙げられるというのは、なるほどと思わされた。



 さらに城壁の跡は、そのまま三車線の広い道路に変える。壊して建てるスクラップ・アンド・ビルドではなく、既存のモノを活かす、本来的な意味での都市再生に近い。資金的制約からの苦肉の策とはいえ、長尾ら土木技術者のセンスが光る。(p.50)


台北の「三線道路」ができる背景には、資金的制約もあったというのは興味深い。



 製糖産業と土地のバランスに決定的な影響を与えたのが「原料採取区域制度」だった。
 これは「原料採取区域」内の農民が耕作したサトウキビを製糖会社が指し値で買い取れる制度である。製糖会社にはサトウキビの独占的買い取り権が与えられたのだ。それが呼び水となって、新興製糖、塩水港製糖、明治製糖、大日本製糖、帝国製糖と本土資本が続々と進出してくる。製糖工場が南部から中部、北部、東部へと各地に建設されるにつれ、「原料採取区域」はアメーバ―のように増殖し、全島のサトウキビ適作地域を覆いつくす。
 とうとう伝統的な赤糖工場は新設を禁止され、機械設備を一部改良して操業していた工場も新式の製糖工場に呑みこまれる。原料採取区域の拡大は、土地を奪われ、安い値でサトウキビを買い叩かれる農民に恨みを植えつけた。ここから台湾の農民運動が芽生え、内地延長主義で本国並みの待遇を求める民族運動へとつながっていくのである。(p.57)


かなり強権的に製糖工場の進出が誘導されたようである。

現地の住民の犠牲があったこと、それが待遇改善を求める運動へとつながっていったという点も押さえておきたい。



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鶴見良行 『バナナと日本人』

 殿様や皇室に献上する珍奇な食物としてはいざ知らず、商品としてのバナナが最初に日本にやってきたのは、1903年(明治36年)、日露戦争の前年である。台湾の北端に位置する基隆の芭蕉商、都島金次郎が日本郵船の西京丸で篠竹製の魚かごに詰めて七かごを神戸に送った。……(中略)……。
 日本向けバナナの主要生産地は、台湾の高雄州だった。日本の植民地となってまだ間もないころ、山岸幸太郎という人が高雄州の屏東地区でバナナ栽培を始めた。(p.1-2)


バナナが日本に広まるのは、かなり新しいことだということがわかる。日露戦争の前年というよりは、日清戦争終結の8年後という方がある意味では適切だろう。日清戦争の結果、台湾を植民地として獲得したことがバナナ移入の前提となっていると思われるからである。

高雄州がバナナの産地だったという点に関しては、私が数年前に行ってきたところでは旗山(現在の高雄市旗山区)が想起される。



買う自由、と見えるものが実は、買わなければならない立場への強制にすぎないという現実は過酷である。
 フィリピンはどんな田舎に行っても、コーラとインスタント・コーヒーと「サン・ミゲル」のビールだけはある。どれも外国資本の製品だ。サン・ミゲルは地場資本だが、当主のソリアノはアメリカ国籍の持ち主である。(p.159)


もともと、自分たちで消費するものは自分たちで作っていたが、外国資本(多国籍企業)によって畑で栽培するものを指定されてしまうと、自分たちで作ったものを消費することができなくなり、多国籍企業の支配下で働くことで賃金を受け取り、それを使って多国籍企業の商品を選んで買う。こういった関係性についての説明。



結果において「安全」と「危険」のどちらを強調するにせよ、そもそも「食べて安全かどうか」というだけの捉え方には、作ってくれた人びとの労働が見えなくなった消費者のエゴイズムが感じられてならない。(p.189)


なるほど。



 日本の消費者物価は、1970~80年に2.37倍に上がった。各家庭の食費はそれを上廻って2.51倍に増えている。ところがバナナへの支出は、0.82倍に減った。……(中略)……。日本の家庭は、バナナを買うかわりに、もっと珍しいニュージーランドのキウイやアメリカのグレープフルーツに財布を開くようになったのである。(p.205)


今考えると物価の上がり方がすごい。また、バナナからキウイやグレープフルーツへという流れも面白い。






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(株)ぶらんとマガジン社 編著 『我が青春の街角へ 小樽昭和ノスタルジー』

 於古発川(おこばちがわ)と色内川に挟まれた小樽の中心街、稲穂地区は、もともと旧幕臣の榎本武揚が開発した土地だが、手宮地区は明治初年、石川県出身の能島繁蔵が開拓使の要請を受けて開いた土地である。
 現在の住所でいう「手宮」……(中略)……。港に面したこの界隈は昔は手宮町(表町)と呼ばれた。
 一方、内陸にある現在の錦町、豊川町、末広町、梅ヶ枝町、清水町、石山町などは手宮裡町と呼ばれる能島繁蔵所有の土地で、当初はリンゴ園を作る計画だったが害虫被害によって全滅、やむなく宅地開発に乗り出した経緯がある。
 能島はまず土地をならし、小樽と手宮の間を阻む石山を切り崩して道路を造り、所有の山から湧き水を引いて銭湯(小樽最初の銭湯)や魚屋に供給。これが小樽で初の上水道となった。(p.54)


幾つかの本で小樽の歴史を紐解いてみたが、かつてのオタルナイ場所(小樽郡)に相当する地域での出来事の記録が主に続き、タカシマ場所(高島郡)やヲショロ場所(忍路郡)での出来事などはあまりわからない。さらに言えば、東側の旧朝里村や現在の銭函周辺などの歴史については、幾つかエピソード的な事実が表れるほかはほとんど何の記述もない。

手宮裡町という地名は今までも何度か目にしたことはあったが、どの地域を指すのか分からないことが多かった。本書の記述で範囲がかなりはっきりわかった。また、リンゴ園は札幌の郊外でかなりつくられていたようだが、小樽でも計画されていたことがわかり興味深い。なお、宅地開発された後、どのような人々が住んでいたか、という点については、港湾関係の労働者が多かったのではないかと推測している。例えば、錦町にも古い餅屋があるが、小樽の餅屋は港湾労働者たちのエネルギー補給に資するものだったという趣旨のことがしばしば語られていることなどとも整合的であると思う。



 残念なことに、太平洋戦争中に爆撃の目標になるという理由で、昭和19年に壊されてしまったが、その遺構の一部である赤レンガの壁は手宮公園の崖に今も残されており、平成13年には、旧手宮駅周辺に残る機関車庫などの鉄道施設とともに、重要文化財の指定も受けている。(p.67)


手宮にあった高架桟橋に関する記述。壊された理由が戦争に関連することは知らなかった。木造だったというから、確かに攻撃を受けたらひとたまりもないだろう。しかし、その後の石炭の積み出しはどのように行ったのだろう?



 北海道開拓の玄関口であった小樽は、道内で収穫された上質な小豆などの集散地だったため、菓子文化の発展に好条件だったこと、明治13年の鉄道開通により、菓子の販路が全道に広がったことなどから独自の菓子文化が栄えた。(p.188)


小樽には古い和菓子屋が多いことの背景。小豆などの集散地となったことの背景も、ひとつ前のエントリーで既に述べたとおり、やはり鉄道(根室本線の延伸により十勝地方と連結されたこと)にある。また、鉄道によって内陸への販路が広がっていたという点も、(ひとつ前のエントリーで触れているが)旭川とも明治31年にはすでに結ばれていることが指摘できる。

鉄道により北海道の内陸部とリンクし、港により本州と南樺太とリンクする土地であったことが、大正期前後の小樽の繁栄の背景にある。



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『カイ Vol.20 特集 あの小樽に、この室蘭』
「港まち二都物語」より

高架桟橋は、石炭積み出し港の近代設備として、1911(明治44)年から30年余りにわたり活躍。……(中略)……。延長313m、高さ20m、幅23mという巨大施設だったが、なんと丸太組みの木製というから驚きだ。(p.13)


幌内鉄道の旧手宮線の始点となる手宮の岸壁に高架桟橋があったということは知っていたが、木造だったとは知らなかった。鉄道が走る大きな施設だから、漠然と鉄製のイメージがあったが、鉄で造るには少し時代が早すぎるかもしれない。



「オタルナイ」と呼ばれたその集落が、幕府から「村並み」(和人地内の村に準ずる扱い)とされたのは、1865(元治2)年。理由はニシンの大豊漁地となったためで、安政期には200軒ほどが定住する。当時、道南の和人地以外で同じ村並みに昇格したのはオシャマンベのみ。(p.13)


小樽が元治2年に村並みとなったということは、しばしば北海道や小樽の歴史に関する本を読むと出てくるが、長万部(おしゃまんべ)も同時期に村並みに昇格していたとは知らなかった。逆に、長万部はどのような理由で村並みに昇格したのだろう?というのが気になる。



また、国指定史跡「手宮洞窟」は、続縄文時代、北東アジアと交流があったことを示している。(p.14)


この点はもっと人に知らせると、興味を持つ人も増えるのではないか、と思う。



1892(明治25)年、ようやく室蘭-岩見沢間に鉄道が開通し、室蘭港は小樽に並ぶ石炭積み出し港として繁栄。(p.15)


室蘭は北海道の産業の歴史を見ていく際、特に重要な都市の一つであるように思う。

私の場合、まずは小樽、札幌、函館を中心に見てきた経緯があるが、港町で言えば室蘭、苫小牧、釧路については、少し詳しく知る必要があると感じている。余談だが、私にとって室蘭の重要性を認識するきっかけとなったのは、数年前に夕張に行った際、幌内(三笠市)の石炭は小樽から運び出されていたが、夕張の石炭は室蘭から運び出されていたという話を立ち寄った店のおばちゃんがしてくれたことだった。いろいろと足を運び、様々な土地の人と話をしていくことはやはり重要だと改めて思い直す今日この頃だったりする。



そんな折、1912(明治45)年に夕張鉱で2度にわたる大事故が起き、経営難に陥った北炭を、翌1913(大正2)年、本州の三井財閥が系列下に収める。これを足掛かりに、三井は日露戦争で獲得した新たな領土・南樺太へと進出。その中継港として発展したのが、小樽港だったのだ。(p.16)


三井財閥の南樺太進出との関連はもう少し詳しく知りたい問題。



「絵画が生れる場所」より

 小さな漁村だった小樽の針路を変えたのは、石炭と鉄道だ。……(中略)……。
 明治20年代には全道で内陸部への入植がはじまり、開拓が本格的に進んだ。移民団や物資の多くは小樽港から入る。このまちは、開拓の兵站基地となっていった。
 ……(中略)……。日本経済は日清戦争の勝利(1895年)で得た莫大な賠償金で金本位制を確立して、世界経済と結ばれた。日清戦争によって日本の資本主義経済はテイクオフを遂げたのだ。小樽には、府県の商社や銀行の支店が競うように開設されていく。1898(明治31)年、小樽と旭川は鉄路で結ばれ、翌年に小樽は、国際貿易港の指定を受けている。
 さらに重要なエポックとなったのが、日露戦争の勝利だ(1905年)。日本は北緯50度以南の樺太を領土に得て、一帯の漁業権も手に入れる。……(中略)……日本にとって、いよいよ本格的な樺太開拓がはじまる。小樽港は、南樺太の生産の消費に関わる膨大な物資の集散基地となった。……(中略)……。
 1907(明治40)年、内陸物流の最大の難所だった狩勝峠を鉄路が越えた。これにより釧路、帯広と小樽が鉄道で結ばれ、小樽商人たちが道東をも商圏に組み入れる。第一次大戦がもたらす空前の豆景気も、この根室本線延伸のたまものだ。北海道の雑穀取引の中心が小樽一極となっていく。(p.53)



明治の小樽の歴史を主に物流と経済の面から適切かつ簡潔にまとめている箇所と思う。明治20年代には北海道の内陸「開拓の兵站基地」となる。日清戦争後、明治30年前後になると金融システムが整い、旭川(内陸)との流通インフラ(鉄道)も整備され、国際貿易港として外へと道が開かれる。日露戦争後、明治40年頃には南樺太開拓の物資集散基地となる。ほぼ同時期に道東との流通インフラ(鉄道)も繋がっているのは、十勝の小豆など食糧を小樽を経由して大消費地である南樺太に向けて送り出すためではなかろうか。

また、第一次大戦期に「空前の豆景気」があったとされる。これは大戦により東欧の豆の生産地が戦場になったため生産が激減し、ヨーロッパで食糧不足が起こったため、小樽商人が十勝の豆を大量に売りつけることができたための好況である。これを背景として豆の投機売りによりロンドンの豆市場に大きな影響を与えた(高橋直治という商人が儲けた)というエピソードが生れたわけである。

この記事により、第一次大戦の豆景気に道東との鉄道の連結という背景があることがわかったことが私としては収穫だった。




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津守真、津守房江 監修 『子どもの生活 遊びのせかい 4歳までの成長と発達/親子でたのしく暮らす工夫』

 遊びを探しているうちに、子どもは思うようにいかない相手やおもちゃに怒り出すときもあるだろう。そんな時は、子どもの遊ぼうとする意欲をちょっと盛り立ててやるおとなの励ましや心づかいで、その“時”を乗り越えることができる。(p.8)


言われていることは分かるが、具体的にこれを行うのが難しいと感じる。



 子どもは遊びの中で、その子の心の中にあるものを表現する。おとなが常識的に思っているのとはちがう遊び方をしても、危険がない限り口を出さずに見ていよう。遊びは“自分が楽しいと思うことをする”のだから、もっとも主体性が育つときである。
 ……(中略)……。
 子どもに関心をもちながら、おとなが主導権を握ってしまわないように、ということが“遊び上手”を育てる“遊ばせ上手”となるコツかと思う。(p.8)


関心を持ちながらも主導権を握らないというバランス感覚は重要。

個人的には(いわゆる平等主義型の)リベラリズムとこの考え方は親和性が高い。この見方では、簡潔に言えば、実践面でも個人(子ども)の権利や主体性を尊重しつつも、その子が自他を害さないような行為をしているかどうか、という観点から子どもの行為を見ることになるが、これは上記の引用文ともかなり重なる考え方であると思われる。

しかし、子どもの世話をしたり遊んでやる人に、こうした配慮が足りない場合というのは少なくない。例えば、子どもを見て「かわいい」と思い、単にその思いだけで子どもに関わろうとするような幼稚な養育者などがそうである。こうした例の場合は、子どもへの関心はあるが、主導権を握らないといった類の自制に欠けているわけである。反対に、子どもが好きでない人の場合、そもそも関心がないため適切な対処をとることにならない。前提条件がないという点で後者は不適格だが、前者は大抵の場合、自分は良い養育者であるというイメージを持っており、自らの行為に自覚がない場合が多いと思われ、その意味ではかなり性質が悪いとも言える。



子どもは日々変化し、成長するので親の思い込みは危険だなあと思う。(p.60)


同意見である。「この子は●●が好きだ」とか「この子は▲▲だ」といった決めつけを人はよくしたがる。それは子どもという変化の大きく、理解することや扱い方が難しい存在者を前にする不安があり、その不安を軽減してくれる方法だからではないか。



次々におもちゃを引っぱり出すのは、遊ぼうとする意欲があること。いちいち片づけるように言うと、遊びに熱中できなくなってしまいます。
 よく遊んで気持ちが満たされた後の夕方などに、一緒に片づけられるとよいでしょう。(p.74)


おもちゃを次々に引っぱり出して遊ぶことは悪いことではないという認識は重要と思われる。大人は片づけができることを良いことと見なすが、散らかすこと(につながるようなこと)はどちらかというと否定的に評価してしまう傾向があるからだ。

ただ、この引用文で提示されている解決法は、専業主婦を前提しているように思われ、共働きの世帯が増えている現状から見るとやや理想論という感じもする。しかし、たとえ実現できない理想だったとしても、それを提示して明確に認識できるようにしておくことは、それを手がかりにして次善の策を考えることにも繋がるので悪いことではない。



 子どもの自己主張がつよいということは、意欲をもっていることで、頼もしいことである。(p.80)


意欲というのは、本書のキーワードの一つであるように思われ、子育て全般に関わるキーワードでもあると思われる。

私の基本的な育児・教育観は、養育とは、子どもの成長を助ける環境となること、というようなものであるが、子どもの成長の内発的なエンジンが、意欲であるように思われる。

(ちなみに、上記でいう「環境」は、オートポイエーシスにおける「環境」の概念であり、子どもの成長というオートポイエティックなシステムを想定し、そのシステムが自己を区切るときに自己とは区別されたもののことである。したがって、親や養育者自身は日常言語で言われる意味での「環境」を準備したり与えるというだけでなく、自分自身の存在や日常言語的な意味での「善い環境」を与える行為も子どもの成長にとっての環境なのである。)



 子どもは自分の願いを本気で聞いてくれるおとながいて、自分の気持ちを受け入れられる経験を積むことで、他人の提案も受け入れられるようになってくることが、たくさんの記録からわかる。(p.80-81)


逆に言うと、他人の提案を受け入れる器量がない人間は、気持ちを受け入れられた経験が少ない場合が多いということになりそうである。

自分が気に入らない意見を持つ人と議論することがまったくできない者が私の周囲にもいる。こう考えると、ある意味では哀れな人である。



 おとなの顔色をうかがうようすが子どもにたびたび見られたら、おとなの意志に従わせようとする力がつよすぎないかと、考えることは必要と思う。(p.83)


大人の顔色をうかがうのに長けた子も知っているが、確かに、その子の親は親の意志に子を従わせようとする傾向が強い。こうした育て方の結果だと思うが、自分のやるべきことに集中する力なども弱く、困難に耐えても初志を貫徹するというような我慢強さや意志ないし意欲の強さも見られない。誤った子育てはその子に生きにくい人生を与える



“想像する”ことと“うそ”とはとても近いので、おとなの道徳観ではとまどうことも多いだろう。親が「うそはわるいこと」と厳しく叱る記録も見られるが、現実ではないことを楽しんでいるような“子どものうそ”は、「そうだったら、おもしろいわね」と軽く受けていればよいことが多い。(p.83)


なるほど。想像することと嘘とが近いというのは、今まで考えたことがなかったが、言われてみれば納得するところがある。

私個人としては、嘘をつかれることを非常に嫌っており、嘘に対して道徳的な悪であるとする評価を強く持っている。しかし、子どもなどと話す場合には、単にそうした評価だけに沿って対応すればよいというわけではない、ということを理解しておくことは私のような志向を持つ者にとっては特に重要であると思われる。



子どものすることはいたずらのように見えても、子どもにとっては意味がある。そこには成長するための種子がある。子どもが望むことを実現できるように手助けしよう。(p.97)


こうした成長の種子がどこにあるのか、一つひとつの行為の中から読み取り、それをうまく成長につなげていければよいと思う。



つまり、生活に一定のリズムがあると気持ちも安定しますし、自分から進んでできることが多くなるので、「早くしなさい」とせかすことばも減り、親子の関係もちがってくると思われます。(p.101)


確かに、生活のリズムが滅茶苦茶な生活を続けてきた親子がいるのだが、子どもは気持ちにムラが多く、親は子供に「早くしなさい」とせかす言葉も頻繁にかけており、子どもが大きくなってくることで、親に心を閉ざす方向に進んでいる。

生活を規則的に時刻ごとにすることを決めていない理由をその親に尋ねたところ、「予定通りに進まない場合に、そのことがストレスとなって楽しく生活することができないから」といった回答だった。個人的には予定通りに進まなかった場合、それがどのような原因によるものだったのかを客観的に把握し、それに対して対策を講じることで同じ失敗を繰り返さないようにして生活を常に再編成し続ければよいだけのことであると思われが、そうした努力はする気がなく、単に面白おかしく生活したいという志向が、この親子の成長を阻んでいる。意欲がないことは成長にとって致命的であり、成長のない人生には生きがいもない




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亜洲奈みづほ 『現代台湾を知るための60章【第2版】』

 台湾人は決して「戦争責任」や「植民地・侵略」などと糾弾はしない。実際にアジア太平洋戦争の戦後処理において、中正公こと蒋介石元総統はスターリンによる北海道進駐の主張に対し、次のような言葉を残している。
日本と戦った期間は、わが国が最も長いはずだ。その中華民国が日本国の占領政策に割り当てられた四国・九州進駐の権利をいま私がここに放棄する。
 GHQに対し、天皇をA級戦犯とさせないよう、とりはからったのも彼である。(p.23)


国際政治の情勢が背景にあったとはいえ、こうした蒋介石の外交に見られる道義性は、最近の国際政治ではほとんど見ることができなくなっているように思われる。

日中戦争から太平洋戦争にかけて、(アメリカでもロシアでもなく、中華人民共和国という当時は存在しなかった国ではなく、)中華民国が最も長い戦争の相手国であったという点は銘記すべきだろう。



 台湾の若者が好むのは、日本のサブカルチャーであり、あくまで消費の対象なのだ。台湾の高齢者が日本の精神を懐古する姿勢とは、一線を画している。
 いずれにせよ、1994年に日本の大衆文化が正式に開放され、音楽やドラマといった芸能ソフトの輸出入が自由化されたことで、以前より、ひそかな関心を集めていた日本という存在が、一部の愛好者の枠組みを越え、サブカルチャーの一類型として定着した。……(中略)……。東京、日本。これらは台湾の地で、一種のブランド化しているようだ。(p.25)


台湾の高齢者(日本時代に教育を受けた世代→現在急速に数が減っていると思われる)と台湾の若者は「親日的」とされるが、その内容は世代によって大きな相違がある点を手短ではあるが的確に指摘している。

台湾の若者が好む「日本」というのは、「日本のサブカルチャー」のことであり、これは「一種のブランド」であり「消費の対象」であるという点を踏まえておくことは重要。

ちなみに、「北海道」も一種のブランドとなっている点を追加しておきたい。



ちなみに台湾を自国の領土と主張する中華人民共和国は、台湾を統治した経験がない。台湾を統治したのは、同国とは歴史的断絶のある清朝である。逆に大陸を一時期、統治したのは中華民国(台湾)。ただしそれも国民党独裁時代を終え、「大陸込みの中華説」は過去のものとなっている。(p.30)


中華人民共和国が台湾を統治したことがない。清国、中華民国、中華人民共和国、この三者の領土の継受関係は法的にはどのようになっているのか興味があるところである。

清国の領土は基本的に中華民国が継承し、その大部分を中華人民共和国が武力闘争により奪ったが、台湾は日本から返還を受けた中華民国が領土として保持した、という関係であるように思われるが?



 そもそも台湾がアイデンティティー意識が希薄であるのに対して、韓国は「4500万人、総国粋主義」といっても過言でない。街なみからして、ソウルの通りはアジアで数少ない、日本車の占有率の低い場所である。かつては反日感情が強まるたびに日本製品不買運動が起こったものだ。そんな自意識の強弱は、統一問題のあらわれにもひそかな影響をおよぼしているだろうか。朝鮮半島の両国は、明らかな主体性を保ち、強烈な自己アピールをおこなっている。かちあいつつも、表向きは双方、統一を望んでいるのだが、経済面など実質的な協力が遅々として進まない。その点、台湾海峡では逆に、主体性の実体自体の把握からして、中・台の対話がすれちがっているものの、経済面では、なし崩し的に緊密な分業体制が営まれているのであった。
 また韓国と台湾は、前者が大財閥志向、後者が中小企業志向という差異もある。韓国の場合、財閥(現代グループ等)が金に物を言わせて、なかば援助ぎりぎり・利潤追求は二の次で、少しずつ北朝鮮に投資を始めているにすぎない。これに対して台湾は、中小企業が国際競争における生き残り策として、コストダウンのため、労働力の安価な中国大陸に進出したがっている――そんな事情の違いもある。(p.41-42)


本書ではしばしば韓国と台湾が比較される。ちょっと大ざっぱすぎるきらいはあるが、一般向けの分かりやすさ重視の本という性格からやむを得ないこととしておこう。ただ、大財閥志向と中小企業志向というのは経済の構造の相違として的確な対比である。

こうした相違がどのようにして生じてきたのか、その歴史的経緯をもう少し詳しく知りたいと思う。日本統治時代やその前まで遡って経過を概観してみたい。私の場合、台湾の経過は大よそ察しがつくが、韓国に関してはそれほど突っ込んだ知識がないので、知識の補強が必要である。



 台湾企業は製造コスト削減のため、1990年代以降、海外直接投資を活発化してきた。一方で産業の空洞化も懸念されているため、近年ではむしろ、国内で外国人労働者を合法的に雇用できるシステムのほうが、積極的に整備されている。
 求人企業はまず、「公的就業服務センター」に募集登録をおこない、台湾人からの応募がない場合にのみ、外国人労働者を雇用できることになっている。しかも外国人労働者への給与は、台湾の最低賃金を下回ってはいけないという規定があるため、外国人労働者が台湾人の雇用を奪う心配がない。(p.46)


日本にとっても参考になる点があるのではなかろうか。



じつは、最新の調査によれば、厳密には台湾人は「北方漢民族」と遺伝子的に異なり、「越族」に属するという。またDNA構造研究結果によれば、85パーセントの台湾人に先住民の血が混じっていることもわかった。純粋な漢民族では、ないのである(p.50)


中国大陸に住んでいる人々と台湾島に住んでいる人々は民族的・血統的に相違があるという点は押さえておいてよいと思われる。

ちなみに、日本人と同じような顔つきの人からマレー系というか太平洋の島々にいそうな顔つきの人まで、台湾にもいろいろな人がいるというのが、私自身の観察でもある。



軍隊の特徴として、「徴兵制」があげられたのだが、この兵役期間が、現行の2年から1年へと短縮され、かわりに志願兵の割合が増やされることとなった。さらには将来的に兵役義務自体がとりやめられ、2014年には完全に志願制へときりかえられることになっている。1995年以降に生まれた男子から適用されはじめ、彼らは4ヵ月間の基本軍事訓練を受けるのみとなる。(p.79)


徴兵されるとその後1年くらいは自由に出国できなくなるそうで、おかげで兵役が終わって1年間は友人が日本に遊びに来ることもできなかったということがあった。



 国際化の問題については、すでに大陸中国とアセアン6ヵ国との間に、自由貿易圏が発生した点を見逃せない。台湾もアセアン諸国と直接に自由貿易協定を結びたいところだが、政治的に、ままならない。そこでECFAを踏み台として、この新自由貿易圏に参入しようというわけだ。(p.118)


ECFAとは「両岸経済協力枠組み協議」であり、大陸と台湾の事実上の二国間自由貿易協定のこと。中国南部についての少し古い本の中でもこのASEAN諸国と中国との自由貿易協定については触れられていたが、台湾もここに乗ってくるとなると、どのような影響をもたらすことになるのかより一層気になるところである。



筆者が世界10ヵ国をめぐったなかで、最も白米が美味であったのは、台湾であった。この地の米はもともと長い粒状のインディカ米であったが、日本統治時代に、在来の稲と日本の稲が交配、品種改良がなされ、「蓬莱米」なるものが開発された。
 そんな台湾の米が危機を迎えている。(p.120)


日本統治時代以前の米はインディカ米だったのか。

なお、引用文以下ではWTOとECFAといった自由貿易によって危機にさらされていることが述べられている。日本もTPPで様々な分野でこうしたことが起る可能性がある。



 かつて20世紀初頭には、台湾の一面に田畑が広がり、台北には15もの巨大な穀倉がひかえていた。今となっては、往年の姿を残すのは、台北北部の北投穀倉くらいだろうか。これが稲作大国の生き証人として、台北市政府文化局によって古跡扱いを受けることとなってしまった。そのような時代なのだ。(p.123)


北投穀倉は機会を設けて訪問してみたい。



なぜ、今、華流なのか

 源流は1990年代の香港にさかのぼる。1997年に大陸に返還されるまでは、香港の芸能界は、海外市場を意識した外向的なものであり、日本にも少なからぬファンを増やした。ところが返還以後、市場を新たなる国内となった大陸中国に移し、海外志向を弱めてゆく。そこに台湾が台頭する余地ができたのだ。


なるほど。



 この彩絵、じつは建物の美術的な装飾というだけでなく、木材を保護するという実用的な機能も兼ねそなえているという。顔料の原料は漆や鉱物に植物、石灰など。これらが木の表面を風雨から保護し、白アリなどのの害も防ぐ。ペンキと違ってはがれにくいため、保存効果を持っているのだ。(p.256)


台湾の寺院の派手な色彩は、単なる装飾というだけではく木材保護の機能もあったとは。白アリの害というのは、台湾の建築史を考える際には結構重要なポイントだったりもする。寺院が木造でも残っているのは、彩絵のおかげという面があるのかもしれない。



 ナチュラル・カジュアル・リラックス、この3点に要約される台北の都市文化は、20世紀的な前衛の視点からは、刺激に少々ものたりないかもしれない。しかし爛熟しきっていない、行きづまらない、息づまらない文化のなかでは、表現者も鑑賞者もまた、ありのままであることを十分にゆるされるのではないだろうか。(p.272)


ナチュラル・カジュアル・リラックスという台北の都市文化の特徴とされている点は、台北に限らず台湾という地の雰囲気を的確に表現していると思う。



我々は台湾の温泉文化を「しょせん元祖は、うちでしょう」と笑える立場にない。
 渡った先でたしかに育まれるもの、積みあげられてゆくものがあるはずなのだ。ゆるやかなグラデーションを描きながら、進化するものもあるだろう。台湾の温泉もまたその一例であるのかもしれない。(p.276)


渡った先で育まれ、積みあげられるものがある、というのは、日本の人々が台湾を見る際には特に重要というか注意すべきだろう。



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片岡秀郎 編著 『札幌歴史散歩』(その4)

 明治23年に帝国議会が開会され、政府予算は議会の手続きを要するようになり、予算の削減は国庫に入れることなく学校の歳入に組み入れることのできる「官立学校及図書館会計法」(明治23年3月制定)の適用を受け、財政的な苦境から抜け出そうとした。明治25年、校長心得の佐藤は北海道庁長官、内務大臣井上馨、文部大臣井上毅らに陳情を重ね、同28年4月1日に札幌農学校は文部省の直轄学校となり、「官立学校及図書館会計法」の適用を受けることとなった。
 ……(中略)……。
 農場収入は農学校財政に潤いを与える見込みであったが、実際には予期したほどの額にはならず、農学校歳入予算中に占める比重もさほど大きなものとはならなかった。維持資金に属する農場(のちには基本林・演習林も含めて)の収支決算が経常的に黒字となるのは明治32年以降のことであった。(p.200-201)


佐藤昌介は札幌農学校の2度の危機を救ったとされるが、その2度目の危機がこの学校財政上の問題であった。官立学校及図書館会計法の適用を受けることにより、農場収入を学校の歳入とすることで財政力を確保しようということなのだが、実際にはそれほどうまくいっていたわけではなかったというのが実情のようである。



 札幌におけるレンガ生産は、明治10年に工藤宇三郎が開拓使工業局に製品を納めたのが最初という。しかし、どこの粘土を使って実用化したのかなど不明な点が多い。明治15年、白石などでレンガに適した粘土が発見されると、次々とレンガ工場が設立されるが、いずれも短命に終わった。
 鈴木煉瓦製造場を興した鈴木佐兵衛(すずきさへい)は、……(中略)……。明治17年7月、農商務省北海道事業管理局鉄道科の平井晴二郎(明治17年10月、松本荘一郎が工部省鉄道局に戻り、平井は幌内鉄道の権少技長鉄道科長となるが、この時点では鉄道科長心得の職にあったとみられる)の要請で、旧手宮機関車車庫(現・鉄道記念物)など幌内鉄道用のレンガ工場を白石村(『新札幌市史』によると、この場所は白石村87番地、今の白石区本通9丁目南にあたる)に設置し、製品18万個を納入する。明治19年から3年間、北海道庁本庁舎(道庁赤レンガ)と北有社鉄道用レンガを供給するとともに、同19年、月寒村に瓦用の工場を設けた。続いて北海道製麻会社の建築レンガを供給した。(p.219-220)


手宮機関車庫も北海道庁本庁舎も平井晴二郎の設計によるレンガ造の建築であり、いずれも鈴木煉瓦製造場で製造されたレンガを使用していたということがわかる。

なお、北有社は、官営幌内鉄道の経営を請負うために設立された団体であり、幌内鉄道用のレンガ供給も引き継がれていることを示していると思われる。



大正後期から昭和初期にかけて数社が廃業にいたっているが、これはレンガの大口需要先であった鉄道敷設が一段落したこと、明治24年の濃尾大地震、大正12年の関東大震災でレンガ造などの組積造建築は大きな被害を受け、地震国日本には不向きであるとされたこと、鉄筋コンクリートが進出してきたことなどでレンガは斜陽化の一途を辿りつつあり、レンガ生産に終止符を打つに至ったものとみられる。(p.221)


日本の近代建築の場合、レンガ造の建築はほとんどが明治期のものと思われ、特に関東大震災以後のものは非常に少なくなる。このことはレンガの製造業にとっても大きな打撃であったことがわかる。



 開拓が進み、明治20年(1887)代に入り寒冷地稲作への見通しがつくようになると、水田造りが盛んになり、水不足が大きな問題となってきた。(p.244)


こうした需要に伴って各地に用水路が作られていく。

農業の生産技術や生産体勢が用水路の建設という形で目に見えるようになっているというのも興味深い。



 一農村にすぎなかった月寒が活気を呈するようになるのは、明治29年に第7師団の設置が決まってからのことである。明治29年12月1日に入営式が行われ、歩兵、砲兵、工兵の独立大隊(同32年10月からは歩兵第25連隊)が入った。兵営は、食糧、被服、諸雑貨日用品、軍馬などの大消費施設であり、兵営への新たな仕事が生れ、兵営の周囲には日用品店や飲食店なども開かれていった。(p.269)


札幌の歴史的な銘菓「月寒あんぱん」(大原屋本間商店、明治39年創業)もこうして生まれた「新たな仕事」の一つである。



月寒種羊場は、大正8年4月10日、畜産試験場北海道支場用地の一部を移管して設けられた。これは、日清・日露戦争を経て、国防上、官服などの原料となる羊毛の自給を目指したもので、月寒のほか、北海道の滝川、茨城県の友部、兵庫県の北条、熊本県の熊本の5ヵ所に種羊場が設けられた。(p.273)


国防のため→官服を国産→羊毛の自給→羊の飼育 という流れなのだが、ここから北海道の名物ジンギスカンも生れたという説が有力のようである。すなわち、羊を多く飼育するようになったことで、羊の肉も消費する必要に迫られ、羊肉を消費するための調理法が模索される中でジンギスカンが生れた、という。

いろいろなものが一連の連鎖をなしているのが見えてくると、何を見ても面白くなってくる。



 澄川の地名は精進川の清流に由来するが、この一帯はかつてトドマツの森林におおわれていた。開拓使は、札幌本府建設の木材の供給地として、この木を切り出していたが、その伐木もほぼ終わり、明治15年(1882)、福岡県(かつての筑前)から9戸が入植し、澄川の開拓が始まった。……(中略)……。その後、大井上輝前が所有したが、明治29年、小樽の茨木与八郎が取得し、約63.8haの茨木農場を開設した。初代茨木与八郎は、山形県出身で、船頭の手伝いからたたき上げで魚場を持つに至ったが、2代目は、定置網のほか鰊漁場などを経営し、一時、ロシアのウラジオストック間の海運業にも乗り出した。農場も、澄川のほか手稲軽川に約30ha、上川比布に約200haなどを所有した。澄川の茨木農場は田畑が中心であったが、大正14年(1925)からはリンゴの苗木5,000本を植え付け果樹栽培にも力を注いだ。北海道庁産業部が調査した北海道小作事情によると、昭和8年の茨木農場の状況を田22.7ha、畑38.5ha、果樹その他12.9ha、計74.1ha、小作20戸と記している。(p.284-285)


小樽の茨木家というと、鰊の有力な網元だったのだが、農場経営にも手を伸ばしていたとは知らなかった。ウラジオストックとの間の海運業を行ったとしても意外性はないが、田畑のほか果樹栽培までやっていたということには、少し驚いた。

鰊の網元たちがどのような事業をどのように展開していったのか、そして、鰊漁が不漁となった後、どのように業態変更していったのか、といった問題には関心があるのだが、なかなかよい資料が見つからないでいる。



 札幌の路面電車は、大正7年、札幌市街の主要な地域に路線網を広げていた馬車鉄道(馬鉄)を電化する形で発足した。(p.289)


馬車鉄道は(路面電車に取って代わられるまで)どのように発展していったのか?ということも気になる。




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片岡秀郎 編著 『札幌歴史散歩』(その3)

 後年になると屯田兵村は建設条件の悪い奥地へと展開されていくことになり、加えて集治監囚人など未熟練工による施工、大幅な現地材の使用などにより建築の質は低下していった。(p.176)


屯田兵関連の歴史を機会を見てちょこちょこと調べていこうと思っているところなので、関連がありそうなトピックをメモしておく。



 この石狩街道には明治44年から昭和10年(1935)まで馬車鉄道(大正7年からはガソリンカーに変わる)が運行していた。軌道の起点は札幌区北6条東1丁目、終点は篠路村字茨戸太篠路川橋に至る約11km。終点の茨戸からは石狩川航行の汽船に連絡していた。(p.191)


石狩街道には旧道と新道があり、どちらのことを指すのかやや判然としないのだが、この前の文脈からすると新道(現在の国道231号線)のことかと思われる。

いずれにせよ札幌の中心付近と石狩川を繋ぐ交通の歴史として興味深い。石狩川は北海道の交通の歴史を考える上で重要なカギを握っていると言えるからである。(例えば、明治15年に全通した幌内鉄道なども、石狩川の氾濫やその対策を考慮して建設されていた。)



現在のサッポロビール博物館の建築について。

 この重厚な赤レンガの建物(写真)は、明治23年(1890)、札幌製糖会社によって建てられた製糖工場である。面積3,000㎡に及ぶ建築の実施設計は、レンガ構造の細部の納まりが道庁赤レンガ庁舎のそれとほぼ同一であることから、ドイツ人技術者の基本設計をもとに道庁第3部土木課が当たったとみられている。
 当時、日本は年間4,500万円もの砂糖を輸入していたので、甜菜糖(てんさいとう)の製造は北海道の重要な産業と位置づけられた。(p.192)


この砂糖の輸入国であったという点に関連して言うと、日清戦争の勝利(明治28年)により植民地となった台湾がもたらした砂糖が当時の日本にとって重要な意味をもっていた。台湾の製糖業の発展もあり、北海道の製糖業はそれほど発達しなかったものと思われる。北海道の製糖業がどの程度の生産規模まで成長したのか、その変遷はどうだったのか、など興味がある。




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片岡秀郎 編著 『札幌歴史散歩』(その2)

 札幌市資料館(写真)は、大正15年(1926)8月、札幌控訴院の庁舎として建てられたものである。……(中略)……。
 外壁は札幌軟石であるが、内側はレンガ造、2階床と階段など要所は鉄筋コンクリート造の構造形式で、組積造(そせきぞう)から新構造への過渡期を象徴するような珍しい建築である。
 レンガ造・石造・ブロック造のように塊状の材を積み重ねて造る建築を組積造建築という。組積造は幕末に西欧から導入された。しかし、明治24年の濃尾大地震、大正12年の関東大震災で組積造は大きな被害を受けた。地震国日本に不向きの構造とらく印を押され、大正末には大規模建築は事実上禁止されてしまった。
 石造の外装は大通西2丁目に向かい合って建つ札幌郵便局舎と調和させるために採用されたと伝えられている。建物の外観は左右対称に威儀を正し古典的な雰囲気を持つ。建物を特徴づけるのは中央部で、玄関庇には両眼を隠した正義の女神と左右に天秤が浮き彫りにされ、「札幌控訴院」の丸味を帯びた文字意匠、内部の回り階段や半円形に突き出した階段室のステンドグラスなど、抑制されたデザインの中に大正モダニズムを漂わせている。2階建(一部3階)、建築面積820㎡。(p.69-70)


旧札幌控訴院(現在、札幌市資料館として活用されている)の建築についての解説。

石造建築に見える外観で、実際上の構造はレンガと鉄筋コンクリートの混合という構造が珍しい。資料館の内部にも建築に関する解説が若干あるが、壁体の構造についての展示はあったはずだが、建築史的な意義(移行期の作例であること)についての解説はなかったと記憶している。こうした点についても解説を充実させる方が良いと思う。

控訴院というのは現在で言う高等裁判所にあたる建物ということもあり、やや地味で重厚というか(悪く言うと)鈍重な印象を与える建物である。引用文では大正モダニズムを漂わせていると書かれているが、確かに、例えば、「札幌控訴院」の文字のデザインなどは、パソコンのフォントで言うとポップ体風の可愛らしいもので、建物の雰囲気とは必ずしも調和しているとは言えないが、大正時代の華やかな雰囲気を反映しているように思われる。

札幌の市街の歴史的概観についての展示や司法制度に関する展示のほか、新渡戸稲造が貧しい子弟たちのために開校した遠友夜学校の記念室が置かれている。



 明治25年5月5日の大火で狸小路2丁目から4丁目一帯(当時の狸小路はこの区間だけであった)は一軒残らず焼失してしまった。この札幌大火以後、札幌では不燃建築として石造の家屋・倉庫が多く建てられるようになっていった。(p.92)


北海道の都市ではよく見られるパターン。明治後半の大火を契機に耐火建築が普及していく。ここでは石造と書かれているが、恐らく木骨石造のものが多かったのではなかろうか?



同6年初めは前年からの諸工事が続行されたので職工・人夫等は数千人に及び司教は繁栄を極めた。しかし、開拓使の財政が逼迫し、6月に黒田次官は、一切の新規事業の中止を命じた。かくて同年夏、諸工事が一段落すると、急に不景気が襲った。
 松本は、この6・7年不景気と称される時期に本庁主任として難局に当たり、黒田次官の意を体して粛正につとめた。……(中略)……。リンゴなどの果樹栽培、麻の栽培、養蚕等を奨励し、西洋農法の普及を図った。……(中略)……。琴似屯田兵屋の建築は、沈滞した札幌の市況に恵みの雨となった。(p.132-133)


札幌の市街建設が行われている間は、その建設需要で資材の生産や運搬の仕事が生じ、また、工事に従事する人びとが集まり、さらにそれらの人々の生活物資などを売る商人などが集まるといった具合に経済活動が高まっていたが、開拓使の財政逼迫により、明治6年頃には滞るようになった。この状況下で琴似屯田兵屋の建設という仕事が行われた。この兵村の建設需要はそれまでの札幌本府建設の需要の減少を補うことになったということか。

また、リンゴや麻の栽培、養蚕を奨励したという件も興味深い。養蚕はあまりうまくいかなかったという点については、前のエントリーで既に述べたが、リンゴや麻などがどのような展開を見せたのか、といった点も押さえておく価値があると思われる。



建築家・田上義也について。

大正13年から昭和10年(1935)頃までの第1期の作風は、ライトの強い影響が伺える。作品数800余といわれる内の500以上の住宅を、この時期に手がけている。しかし、37歳を過ぎる昭和8、9年頃から戦後までの10数年間は、壁にぶつかり、ほとんど設計依頼もないブランクの時期に入る。その後、独自の作風の模索へと大きく転換する。
 小熊邸は、第1期を代表する作品である。(p.139)


田上義也の作品と言えば、札幌にある小熊邸と小樽にある坂牛邸を訪れたことがあるが、いずれも昭和2年竣工の同じ時期の作品ということもあってか、デザインも比較的似ている。だから、私の印象としては田上義也と言えば、フランク・ロイド・ライトのプレーリースタイルから強く影響された水平性を強調し、大きな屋根と張り出した庇が特徴的な建物を建てる建築家というイメージが強い。

戦後の独自の作風への模索が行われた時期の作品は具体的には知らないので、どのように変化していくのか、また、なぜそのような変化が生じたのか、興味を惹かれる。(ウィキペディアで見る限り、戦前は個人の邸宅が多いが、戦後はより公共的な施設の設計が多いようである。こうした変化も含めてどのような背景があるのか興味が惹かれる。)



 参議伊藤博文の命により北海道の実情を視察した太政官大書記官金子堅太郎は、その復命書の中で札幌農学校についても触れ、札幌農学校は拓殖上不可欠ではなく、また、学理高尚に過ぎ実業に暗いと批判した。この時、佐藤は農学校廃校の危機を救ったと一般的に言われてきたが、この点について『北大百年史』は、「北海道庁官制に学務官として農学校職員が規定されていることや、間もなく農学校教師養成の目的で卒業生2名を3年間海外に留学させることが許可されたことなどよりすれば、政府に直ちに札幌農学校を廃止しようとの考えはなかったと思われる。」と記している。この年、農学校は本科への入学者は皆無であったうえ、金子の批判に対する明確な対応策も見出せず、道庁の政策転換で農場も大幅に縮小されるという状況にあった。
 佐藤が提出した意見書は、札幌農学校の制度・組織の改正に関し、農学校の機能を拡大し、北海道開拓に関連づけて提案するとともに、農場は営業主義をもって管理し、農場からの収入は国庫に入れず、農学校の資金として蓄積するような法を設けるべきであると説いた。佐藤は、米国ではモリル法に基づき各州に土地を交付し、各州は、その土地を売却した資金から生ずる利子をもとに、大学を創立、維持していることにならい、農学校でも財政基盤を農場経営に託そうとしたのである。……(中略)……。同年末から翌20年春にかけて、官制の制定、校則改正が佐藤の意見を採り入れた形で行われ、その後、農学校は広大な農場を有するようになっていく。(p.150-151)


佐藤昌介が金子堅太郎の視察に対して反論を提出し、札幌農学校存続の危機を救ったと言われてきたが、当時の政府には札幌農学校を直ちに廃校にする意図はなかったという点については、『北大百年史』の叙述の方が説得力がある。ただ、その後の農学校の改革が佐藤昌介が提示したものに沿って行われ、それが農学校の経営基盤を強化することに繋がったのであれば、佐藤昌介の功績も軽視されるべきものではないということになるだろう。



 北大の中央ローン西端に置かれているクラークの胸像(写真)は、大正15年(1926)、北大創立50年、クラーク生誕100年を記念して建てられたものである。台座には「Boy's, be ambitious!(少年よ、大志を抱け)」の言葉とクラークの家紋・大バスが刻まれている。
 当初、開拓使は札幌に開く学校には農・鉱・工の3学科を置く予定であったが、開拓顧問ケプロンから農学だけでも外国人教師3、4人は必要と聞かされ、とりあえず農学のみを開くことにした。(p.152)


3つの学科を設置する予定であったというのは、興味深い。ただ、農学校とはいっても、廣井勇のような有能な土木技術者も輩出しているという点には注目すべきと思われる。



 同校(引用者注;札幌農学校)は、農業専門教育だけでなく、全人的教育を目指していたので、当時の日本の高等教育機関としては特色あるものであった。特に、英語の比重が大きく、その中には弁論の科目があること、人文・社会科学の科目が少なくないこと、兵学が取り入れられていたことなどが大きな特徴と云われている。(p.155-156)


全人教育については、現在の北海道大学でも建学の理念として継承されている。札幌農学校の英語の比重が大きいことは、お雇い外国人が教師を勤めていたことが反映していると思われる。また、兵学があったことは、現在の時計台はかつて農学校の中心的な施設であり、演武場(ミリタリーホール)であったということを想起させる。



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片岡秀郎 編著 『札幌歴史散歩』(その1)

新渡戸稲造は、文久2年(1862)、南部(現・岩手県)藩士・新渡戸十次郎の3男に生まれる。6歳で父を失い、一時叔父の養子となり太田姓を名乗った。明治6年(1873)、東京英語学校に入学するが、明治10年、札幌農学校に進み、第2期生として内村鑑三、宮部金吾と終生の親交をもった。(p.16)


「イエスを信じる者への誓約」にも太田姓でサインされており、そこに記載されている「I.OTA」が新渡戸稲造のことであるということは知っていたが、太田姓を名乗る経緯はよく知らなかったのでメモする。

なお、札幌農学校は英語で授業が行われたこともあり、(少なくとも)初期には英語を学んだ学生たちを集めていたようである。第一期生や第二期生の経歴を何人か追ってみたが、東京英語学校の卒業生は結構多いように見受けられる。身辺が落ち着いたら、もっと詳しく調べてみたいとは思っている。



明治33年、英文の『武士道』出版。当時、日清戦争に勝利した東洋の小国・日本への関心が高まっていたため、刊行されると各国で翻訳されベストセラーとなった。(p.17)


『武士道』が国際的にベストセラーとなった背景には、明治27~28年に行われた日清戦争での日本の勝利が背景としてあったということは押さえておきたい。



 旧北海道庁本庁舎(赤レンガ庁舎)の北隣に国旗掲揚ポールが立っているが、その位置に開拓使札幌本庁本庁舎が建っていた。昭和43年(1968)4~5月の発掘調査で、本庁舎の基礎杭の穴や煙突の基礎石などが発見され、建物の位置が判明した。建物の輪郭は、芝生の中に線状に石を並べて示されている(写真)。……(中略)……。
 開拓使は、本庁舎などの官庁建築を石造またはレンガ造の洋風建築とする方針であった。……(中略)……。開拓使は、石材の発見を受けて、本庁舎の建築を木骨石造とする設計を検討したが、工事期間内に必要な量を確保することが困難と分かり、外壁は下見板張りに変更され、石材は基礎、煙突など一部の使用にとどまった。(p.22-23)


現在、開拓使札幌本庁舎の建物は、北海道開拓の村で外観が復元されており、藤森照信の『日本の近代建築』によれば、下見板建築を代表する作品であるとされている。しかし、これが設計段階では同じくアメリカ由来のコロニアル建築である木骨石造で建てられる予定だったということは興味深いものがある。

ちなみに、下見板の木造で建てられたこの建物が数年後に火災で焼失してしまったという事実を考えると、多少は耐火性の高い木骨石造の方が良かったのではないか、という気もしないでもない。

赤レンガ庁舎はここ数年間で何度か観光客(友人)の案内などで訪れているが、開拓使札幌本庁舎があった場所を示す史跡があるとは知らなかった。今度、雪が融けたら確認しに行ってみたい。



 知事公館はイギリス近世の田園住宅を思わせるハーフティンバーと呼ぶ様式の洋風建築である。……(中略)……。
 付近一帯は、明治8年(1875)、開拓使が養蚕を奨励するために桑園を開いたところである。養蚕事業は軌道にのらず、この敷地は明治25年に森源三が払い下げを受けた。……(中略)……。
 大正4年(1915)、三井合名会社がこれを購入して役員クラブ・迎賓館とした。昭和11年(1936)、現在の建物が新築され三井クラブ(三井家札幌別邸新館)として使用されていたが、昭和28年に知事公館となった。(p.41)


現在の北海道知事公館、昭和11年に建てられた旧三井クラブの建築についての解説より。

この建物がハーフティンバーであることは、藤森照信の『日本の近代建築』でチューダー様式の流行があったとされている時期等と関連がありそうである。そうした流行に沿って建てられたのではなかろうか。

また、この付近で桑園を開いたがうまくいかなかったというエピソードは、明治期の北海道開拓にまつわる農業振興とその失敗の数多くの事例の一端としても興味深いものがある。



 知事公館の場所は、かつて桑園開拓の事務所が置かれていたところである。……(中略)……。
 明治8年(1875)6月、開拓使は酒田県(現・山形県)松ヶ丘で開墾の実績をもつ士族143人を札幌に招き、開拓使本庁から西北にかけての原野約70haを開墾し、同県から購入した桑の苗14万株を植えつけ、その地を酒田桑園と名づけた。これが今も残る桑園という地名の由来である。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 開拓使は、養蚕は開拓の一環と位置づけて積極的に奨励した。明治3年、仙台から蚕種を購入し、山桑を採取して札幌で始めて[ママ]養蚕を試みた。……(中略)……。その後も、札幌近隣の村で養蚕が行われた。……(中略)……。
 ……(中略)……。また明治8年、開拓使は桑の苗1,400,000株を購入し、琴似・山鼻の屯田兵村や近隣の村へ植栽し、その後も園地の拡大を図り、一時期、一帯は一大桑園の観を呈した。
 しかし、このような開拓使の努力にもかかわらず、所期の成果を得るには至らなかった。(p.42-43)


開拓使は養蚕を北海道の産業の一つとするべく育成しており、蚕を飼うために桑を栽培する必要があるというわけか。桑園という地名はそうした試みの歴史を刻んでいるというわけだ。面白い。

開拓使の産業振興策はかなりの数が単発で見れば失敗に終わっているようである。ただ、それをそこで終りとして評価するのは早計であるかもしれない。北海道庁時代になると、いわゆる民営化路線的な方向に方針転換が進められていくが、開拓使が基礎工事を行った土台の上で明治後期の活動が行われていたとすれば、その土台を残すことは功績として評価されてもよいはずだからである。こうした仮説を一方では持ちつつ、開拓使が行ったことを検証していってみたいと思う。



 大通公園(写真)は、幅約65m、全長約1.2km、面積約7.9haの東西に長い都市公園である。……(中略)……。
 この公園は、明治4年(1871)5月、開拓使が市街地の区画測量の際、幅60間(実際には58間=104m)の火防線を設けたことに始まる。この火防線を基線として、市街地は南北に分けられ、北側を官庁街、南側を町屋街とした。
 ……(中略)……。
 明治11年、大通西3丁目で第1回農業仮博覧会が開かれた。……(中略)……。明治19年、屯田兵第1大隊本部が大通西10丁目に置かれ、その西は練兵場とされた。……(中略)……。大通が公園として整備されはじめるのは、明治30年頃になってからのことである。
 ……(中略)……。
 第2次世界大戦中は、自給用のイモ畑になるなど荒廃した。戦後、大通は畑地とごみ捨て場となっていた。昭和20年10月、GHQ(連合国軍総司令部)が北海道拓殖銀行本店2号館、3号館(現・北洋銀行本店の位置)を接収し、その向かいの大通西3丁目に教会堂を建て、スポーツ施設をつくった。(p.52-53)


札幌のシンボルの一つでもある大通公園の歴史的変遷も振幅が大きく面白い。



 豊平館は、開拓使工業局営繕課の主任技術者・安達喜幸(きこう)らがこれまで積み重ねてきた技術の集大成として設計した開拓使時代を代表する建築である。喜幸は、豊平館のほか、時計台、北大第2農場の模範家畜房など明治期を代表する建築を手がけた。
 ……(中略)……。防寒的な洋風建築の採用が決められ、開拓使は道民のモデルとなる洋風建築を建設し、その普及を図ることとなり、洋風建築技術者の雇用を急ぎ、陣容を整えることとなった。
 喜幸は、こうした開拓使の要請により、明治4年11月、開拓使に転じ、札幌本府の建設に従事することとなった。……(中略)……。
 明治5年から6年にかけた札幌本府建設では、札幌本庁舎をはじめ、病院、官舎、外人宿舎などが一斉に洋風様式で建てられた。これらはいずれもお雇い外国人の指導や助言のもとに設計、施工されたが、喜幸ら開拓使の技術者たちは、設計施工を繰り返す過程を通して、短期間に洋風建築技術を自らのものとしていった。(p.54-55)


明治期の北海道の建築を見るにあたっては、安達喜幸という人物にもっと着目してよいかもしれない。洋風建築が採用され、一斉に建てられる過程の中で、短時間で技術を習得していったというプロセスも重要だろう。




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