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藤森照信 『日本の近代建築(下)――大正・昭和篇――』(その2)

 明治以来外国から入ってきた建築材料のうち鉄筋コンクリートくらい人をとまどわせたものはない。……(中略)……。辰野金吾は、一般建築で初めて鉄筋コンクリートを用いた台北電話交換室(M42)を見た時、設計者の森山松之助に、「君、こんな薄い壁で大丈夫かね、割れやしないかね」とたずね、その後、一時、東京駅も鉄筋コンクリートを使うことを検討したが、サビへの不安から結局、採用は止めている。(p.130)


面白いエピソード。

なお、台湾は日本でも鉄筋コンクリートが早期に普及した地でもある。



 関東大震災という実物大実験によって、鉄筋コンクリートの揺れにも火にも強い性格が証明され、以後、日本のビルの構造技術は、アメリカの鉄骨造の影響を脱し、鉄筋コンクリート鉄筋コンクリート造か鉄骨鉄筋コンクリート造に限られるようになる。(p.131)


関東大震災は日本の建築を一変させるインパクトがあったが、鉄骨造からの脱却と鉄筋コンクリート造の普及というのも、その一つだろう。



 19世紀末にはじまるモダンデザインは、産業革命によって切り開かれた近代という時代を強く意識し、進んだ技術、大量生産といった生産の問題に着目し、そして結局、機能主義、合理主義に行きつく。しかし、問題は生産だけではない。進んだ技術による大量生産は、当然のように大量消費をひき起こし消費の場を発展させる。始点には生産の空間としての工場があり、終点には消費の空間としてのストリートが広がる。
 にもかかわらず、モダンデザインは、工場の空間ばかり念頭に置いて理論と形を展開してきた。今和次郎が考現学を起こしバラック装飾社を始めた1920年代初頭は、世界のモダンデザインの流れの先端が、ようやく工場空間と通底する合理的で機能的な形に届いたばかりの時期にほかならない。消費の空間の問題など、世界の建築家の誰も意識していなかった。早すぎたのである。(p.192)


なるほど。アールデコの工業製品を用いた装飾にしても、鉄筋コンクリート造の構造やそれによる箱型の構造にしても、いずれもいわゆる産業革命とその後の工業化が背景にある。

その先の消費社会に着目しているのは、消費社会論が流行った80年代のすぐ後(1993年)に書かれていることも影響していると思われる。ただ、デパートの建築やそこに繋がるような商業建築では消費意欲を喚起するような建物自体が広告としての役割を果たすような形で消費社会に関わっていたものもあり、消費という世界をモダンデザインが全く無視していたわけではないように思われる。



 レーモンドをコルビュジエとくらべる時、打ち放しが重要なポイントとなる。モダニズムの建築家は抽象化傾向の強い人と実在感を求める人の二つに分けることができるが、その時のリトマス試験紙として打ち放しが役に立つ。(p.231)


なるほど。コンクリート打ち放しを好む人は実在感を強く求めるタイプであり、そうでなければ抽象化傾向が強い可能性が高い、というわけだ。

モダンデザインより歴史主義、歴史主義より本物の歴史的建築を私は好んで見る傾向があるので、あまり意識したことがなかったが、参考になりそうな見方ではある。試してみたい。



 しかし、これを最後に、本格的な建築は不可能になった。昭和12年、日中戦争の深まりとともに建築用資材の統制が始まり、鉄材が使えなくなり、木造しか許されなくなる。(p.233)


戦時中の建築について詳しく書いている一般書はあるのだろうか?戦時中と戦争に向かっていく最中を主題として扱っているようなものがあるなら、少し読んでみたい。



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藤森照信 『日本の近代建築(下)――大正・昭和篇――』(その1)

 山本は市民に向けて夢を語る一方、建築界に向けては新しい住宅設計論を突きつけた。それが、大正14年、山本郎と遠藤との間で交わされた「拙新論争」で、ライトの愛弟子の遠藤新が、建築家たるもの中小住宅の設計に当っても、全体から家具調度まですみずみデザインし、その小宇宙を住み手に味わってもらうべきである、と主張したのに対し、山本は、

「私は住宅に於てはそれが住む人によって次第に成長させられ、完成されてゆくものであるということを信ずる。友人から贈られたテーブルランプが今の飾りになったり、叔父の遺愛の安楽椅子が書斎の宝となったりして、住宅の生活は成長を見、豊かになってゆくのではないだろうか」――山本拙郎『住宅建築と鑑賞 遠藤新氏の個展を見て』T14――


と批判した。
 住宅はたいていの建築家が考えているように出来上がった時点がゴールなのか、それとも山本の言うように、そこからスタートするのか。住宅は、芸術の作品なのかそれとも生活の器なのか。日本の建築家でこの問題に行き当り、はっきり“生活の器”と思い定めたのは山本拙郎が最初である。(p.77-78)


拙新論争の論点は、興味深い問題。建築家が建物自体をゴールとして設定しようと思っても、そこに人が住む限り、建物の完成は所詮スタートに過ぎない。

仮に人が住んだり仕事などに使ったりしなくなり、芸術作品として鑑賞されるようなものとなったとしても、その場合でさえ、それを鑑賞する人が何かを感じること、さらには、そのとき何を感じるか、ということによって、その存在意義が変わってくる。存在意義は存続可能性にも影響する。つまり、芸術作品のつもりで公開してもほとんど誰も興味を惹かなかったり、せっかく見に行っても見るだけの価値があると多くの人が感じないようであれば、その芸術作品であろうとした建築は廃れてしまうだろう。だから、やはり器が完成することは終わりではない、と考えるべきであろう。



 アメリカ派の住宅スタイルとしてスパニッシュが隆盛するのと期を合わせ、ヨーロッパ派ではイギリス起源のチューダー様式が負けずに栄える。
 もともとはイギリスの中世に成立したゴシック様式の一つで、19世紀後半のイギリスのゴシックリヴァイヴァル――ヴィクトリアンゴシック――の中で復活し、以後、住宅を舞台にして大きな影響力を振った。木造の場合の一番分かりやすい特徴はハーフチンバー――半木造――と呼ばれる作り方で、日本の芯壁構造と同じように壁面に柱や梁が露出する。ハーフチンバー構造はドイツやフランスにも見られるが、日本の例はほとんどイギリスのチューダー系で、ドイツやフランスとはちがい柱の間隔が狭く、斜材を多用しない。(p.92-93)


ここを読んでいて私は、現在「台北故事館」として公開されている建物を想起した。あの建物もチューダー様式のハーフティンバーだったはずだ、と。建設年代を改めて見てみると1913年(大正2年)となっており、台湾唯一のチューダー様式の住宅(茶商の別荘)である。

本書によると日本ではチューダー住宅は明治30年代後半に現れ、昭和に入ってから大流行し、昭和の洋館を代表するスタイルとなるというから、日本での大流行より前に建てられたことになる。設計図はオランダ東インド会社から取り寄せ、日本人に建設を委ねたというが、この建築は当時の日本の(大正2年当時、台湾は既に日本の植民地となっていた)チューダー住宅の中で、どのように位置づけられるのか興味があるところだ。



明治の世代は、個人的好みの強い辰野は、“意多くして力足りず”の結果に終り、腕の立つ妻木はドイツ様式を用途に合わせて巧みにアレンジすることは出来ても自分の好みは発揮しなかった。……(中略)……。
 第一世代は、学んだ国の様式の枠を越えることはなかったが、第二、第三世代は、自分の思想と好みの上に立って様式を選びデザインした。(p.98)


本書は辰野金吾に対しては結構辛口だが、明治の巨匠の作品は観光などで見に行くと、どれも「偉大な建築家」が建てたもの、として扱われているから、批判的な見方が紹介されていなかったりする。そうした一方的な宣伝を相対化するためにも、本書のようにはっきりと評価も示されている文章を読むことは有益であると思われる。



大正、昭和戦前の歴史主義建築はストリートを晴舞台とし、とりわけ銀行――保険を含む――の充実はいちじるしく、明治を官庁の時代というなら、大正・昭和は銀行の時代といってもいいが、その銀行建築のスタイルの動きに一点への収束性が認められるのである。(p.99)


明治は官庁の時代、大正・昭和は銀行の時代というのは、面白い指摘。北海道で見ても、開拓使本庁舎や北海道庁本庁舎(赤レンガ庁舎)は官庁だし、北のウォール街などと呼ばれる小樽の銀行街の銀行は大正期を中心に建てられたものである。明治は江戸時代とは政府が変わったことや欧化の志向が生じたことなどから、官庁の大規模な建て替えが必要だったこと、日本の産業もかなり発展してきたため金融業の活躍の必要性が高まっていたことが建築にも反映しているのだろう。そして、昭和初期には大恐慌があったことも付記しておこう。



以後、銀行建築は、列柱のクラシシズムとラスチカ積みのクラシシズムが大勢を制し、前者の例としては、日銀岡山(T10・長野)、三菱銀行(T10・桜井)、勧銀(S4・渡辺節・図9-12)、三井本館(S4・トロゥブリッジ&リヴィングストン)、明治生命館(S9・岡田・図9-7)、三井銀行大阪支店(S11・曽禰中條)などの大作群が生れ、後者では、鴻池銀行(T14・長野)、興銀(T12・渡辺節・図9-11)、三井銀行小樽支店(S2・曽禰中條)などが目立つ。列柱とラスチカ積みをくらべると、質量ともに前者の方がはるかに勝っているから、大正・昭和戦前の銀行建築をリードしたのは石の列柱のクラシシズムということになる。(p.99-100)


見たことがある建築をボールド体で強調しておいたが、三井銀行小樽支店については、あまり大きな流れの中に位置づけることができていなかったが、本書によれば、「銀行の時代」の大勢をなす「二つのクラシシズム」のうちの一つに属するといった位置づけられると理解できる。



アールデコはそれまでの煉瓦や石に代り、外壁においてはテラコッタやタイル、インテリアにおいてはガラス、陶磁器、合金、合板といった近代的な工業製品が多く使われ、その結果、表面の仕上げが金属質の光沢を帯び、まるで鉱物の結晶で作られた装飾のような印象を見る者に与えるようになる。
 ……(中略)……。工業製品を使って幾何学化した装飾を作ることはそれまでの手作りの歴史様式にくらべはるかにたやすく、経済効率を求めるビジネス街の貸ビルや町場の中小ビルに広がらないわけがなかった。(p.116)


アールデコの流行には、工業化が背景にある。

なお、鉱物的であるという指摘は本書のモダンデザイン理解の流れ(植物→鉱物→幾何学→数式)の中に位置づけるためのポイントとなっている表現である。



 パリ仕込みの作としては朝香宮邸(S8・図9-39)がある。
 パリを遠く離れた日本の地にフランスのアールデコの大輪の花が一輪咲いたのは、建て主の朝香宮鳩彦が、1925年のアールデコ博に日本代表として妻ともども訪れすっかり気に入ったことによる。……(中略)……。施主がアールデコ博日本代表の朝香宮、建築家が「早く日本に帰って自分の思う様に計画を進め」たい権藤要吉、そしてインテリアデザイナーが責任者のラパン、これ以上の組合せはおそらくパリでも期待できなかったにちがいない。(p.117)


朝香宮邸は現在、東京都庭園美術館として公開されているが、確かに一見の価値がある建築である。





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藤森照信 『日本の近代建築(上)――幕末・明治篇――』(その2)

一つ建築の背景には、山形の擬洋風に見られるように政治的な意志、各地の小学校建設を推進したような制度、それを受け入れた社会、さらに事業を可能とする経済力と技術力、また表現の基となる美意識や文化、どれ一つ欠かせない。絵や小説が孤高の中でも生れうるのとは事情がちがう。建築とは、政治、経済、社会、文化といった何でも呑み込むバケツのような表現領域なのである。建築は時代をそのまま体現する。(p.156)


同感である。こうした点が建築を見る面白さの一つだろう。



見たくなくとも見えてしまうという特性を持ち、絵画や文学のように深く複雑な意味を伝えることはできないが、代りに、“新しい”とか“強そうだ”などの単純なメッセージを広く流布するには最も適した表現といえる。単純なメッセージを広く、この特性によって、建築は政治と結ばれる。(p.196)


確かに。この点は主に政治の側から見た建築の利用価値ということになるだろう。建築を建てる側から言うと、政治や行政をパトロンとして使うことで大きな仕事ができる、という面もあり、これも建築と政治を結びつける。

2020年の東京オリンピックのために、政府が国立競技場を(膨大な費用をかけて)新しく建て直そうとしているようだが、これなども「日本(東京)はすごいだろう」と外国人に対して示したいという政治家たちの自己顕示欲から出ている面も一つにはあるだろう。(予算1,300億円→見積3,000億円→減額見直し)



 当時、世界の建築界は、イギリス、フランス、ドイツの三国がリードし、アメリカは地力はつけていたが前面に出るにはまだ間があった。こうした世界の力関係はそのまま日本にも反映し、第一世代の面々は、それぞれ自分の置かれた立場や偶然に左右されながら、手分けするようにしてヨーロッパの中心三国の様式に立ち向かってゆく。その結果、明治の建築界には、イギリス派、フランス派、ドイツ派の三派が鼎立することになる。(p.218)


本書の歴史主義建築に対する見方。確かに、外国から考え方や技術を輸入するにあたっては、習得している言語によってどこの国から輸入してくるかが決まる面もあるだろうから、どこの国の人から影響を受けるかもおのずと限られてくるということもあるだろう。

イギリス派が大部分を占めたというのは、英語を習得している人が他の言語よりも多かったという点も効いていたのではないかと推測する。



クラシック系はギリシアの白大理石の神殿を源とし、理知、秩序、永遠といった性格を期待される場合が多いことから、素材としては、目のつんだ白い石を好む。一方、ゴシック系は、ヨーロッパのそれぞれの地域の土着的建築とみなされ、地場産の粗い石や赤煉瓦を好む。(p.228)


歴史主義をクラシック系とゴシック系に分けるのも本書の基本的な考え方の一つだが、系統の違いと素材の違いを対応させるのは興味深い。

ただ、クラシック系の源とされるギリシアの神殿は、現在では色が剥げ落ちて白くなっているが、当初は彩色されていたことがわかってきている。アメリカのホワイトハウスなどもこうしたギリシアの神殿の白をイメージしてホワイトになっているが、実はそれはギリシア建築の姿とは異なっているというのは、よく言われる話であろう。19世紀頃の時点ではそうした事実は知られておらず、「ギリシア=白=理知・秩序・永遠」といったイメージが共有されていたという点を理解しつつも、実際は彩色されていたということは押さえておいた方がよいだろう。



ヴィクトリアンを消費と楽しみのデザインというならネオクラシックは生産と努力の様式なのである。
 辰野は、日本の近代が立つ位置を見定め、日銀本店のスタイルを選んだ。(p.231)


様式にもいろいろと意味づけがされているという点を押さえるのは建築を見る際にも役立ちそうである。

消費と生産との区別は本書下巻でもより詳しく述べられているため、当ブログでもできれば引用する予定である。



 ついで、建築家のその後の動きをみると、ドイツ派第一号の松ヶ崎は、エンデ&ベックマン追放とともに官を辞し、民間の建築家となり、いくつかのドイツ建築を手がけるが、「ドイツへ行って十数年もいたというのですから、日本語もうまく喋れない、字もまるっきり書けない。そういう人でしたから、その後いろいろな人や請負人等にだまされてしまった」(河合浩蔵)というような事情もあり、爵位を返上し、日本を捨て、台湾に移って鉄道局に入り(M40)、駅舎や鉄道ホテルを建てて、没している(T10)。(p.237)


松ヶ崎万長という建築家については、名前も知らなかったが、台湾に渡ったということで、ちょっと気になったのでメモ。

台湾のどこの駅舎を設計したのか、気になったので調べると、ウィキペディアによると基隆(現存せず)と新竹となっており、いずれも台湾ではそれなりの都市で、新竹駅などは歴史的建造物としてもそれなりに有名なもの。それ以上に驚いたのは、台湾総督府交通局鉄道部や台北西門市場といった作品も残っており、どちらも私も見たことがある作品だったことである。特に後者は「西門紅楼」としてガイドブックなどにも必ず載っているほど有名なスポットなので、驚きも大きかった。

なお、引用文では「日本を捨て」となっているが、当時は台湾は日本の植民地であり、「日本」の一部だったわけであり、「日本を捨て」という表現には違和感がある。植民地ではあっても、それほどマイナーなものを作ったわけではなく、それなりに重要な社会的インフラの建設に貢献しているのは明らかであり、それは日本への貢献という意味も持ちうるからである。



 ヨーロッパでは、様式はそれが過去に成立した時期の時代精神を体現するものとみなされてきた。ゴシックはキリスト教の、グリークリヴァイヴァルはギリシアの、ドイツやイギリスの赤煉瓦の壁は非イタリア的土着文化の、といったふうに。だから、イギリスではヴィクトリア朝のキリスト教精神復活運動の中でゴシックリヴァイヴァルは生れ、アメリカでは建国期に民主主義の表現としてグリークリヴァイヴァルが愛され、ドイツでは国家統一期の国粋文化運動の中で赤煉瓦の表現が力を得た。(p.263)


なるほど。こうした当時のヨーロッパの理解というのは、「誤解に基づく理解」という面もあったという点は押さえておくべきである点は、すでに指摘したとおり。

例えば、ゴシックは大聖堂などに用いられたことからキリスト教を連想するのもわかる。しかし、ゴシック建築は純粋にキリスト教的なものというよりは、異教的な要素を多く含みこみながら成立したことを踏まえると、キリスト教の象徴として使うことには問題もあることが見えてくるはずであるし、キリスト教はもともとレヴァントで発生したのだから、原点に帰るならばゴシックのような北方のデザインではなく、中東ないし地中海的なデザインを持ってくるべきだ、と言うこともできるだろう。



維新の後、唐津藩は時代の波に遅れまいと英学校を開く。辰野は入学し、東京から不都合あって都落ちしてきた英学教師の高橋是清に学ぶ。これが辰野を新時代につないだただ一つの接点で、高橋が新政府に呼びもどされると、辰野も後を追って上京し、外人住宅でボーイをして英語を学んだあと、工部大学校に補欠で入る。卒業後、建築家としての彼をバックアップしたのは政界では高橋、財界では渋沢栄一で、とりわけ渋沢の存在は大きく、初期と後期の主な民間仕事は渋沢筋によるものが多い。(p.266-267)


辰野金吾は高橋是清、渋沢栄一と関係が深かったというのは興味深い。建築は金がかかる芸術/技術であるから、政治や経済的富裕層と切っても切れない。その意味では、建築家のパトロンは誰か、人脈はどのようなものがあったか、ということを踏まえることは意外と重要な意味をもっていると思われる。

なお、辰野金吾というと、工部大学校を首席で卒業ということが強調されるが、まさか補欠で入っていたとは知らなかった。まぁ、造家学科の場合、第一期生は4人しかいないので、その中で首席だろうが補欠だろうが、それほど劇的な違いがあるわけではないだろうけれども。


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藤森照信 『日本の近代建築(上)――幕末・明治篇――』(その1)

 19世紀半ば、ゴールドラッシュに導かれてカリフォルニアまで行き着いた下見板は、やがて太平洋を渡り、南に向ってゴールドラッシュに湧くオーストラリアに入り、西に向って明治初期の日本に上陸する。……(中略)……。
 日本のどこにいつ上陸したのだろうか。
 最初の上陸が観察されるのは明治元年の長崎(アメリカ領事館・図1-7)で、次に函館(トムソン造船所・M3頃)、札幌(開拓使本庁舎・M6・図2-3)、横浜、東京(毛利邸・M6、工部省・M7)と続くが、建設量と影響力の大きさという点では札幌が他を圧していた。(p.36)


下見板張りの古い建築が北海道には多いが、これはイギリスに源を持ちつつ、アメリカの西部開拓に伴って展開してきたコロニアル建築の一つのパターンだったという認識を得たことは、本書からの収穫の一つだった。



 その街づくりのシンボルとなったのが、開拓使本庁舎(M6・図2-3)にほかならない。二階建ての正面にペディメント――三角破風――つきのポーチコを張り出し、屋根の上に塔を立ててドームを乗せる姿は、19世紀前半のアメリカの州庁舎で広く採用されていた定型に従っており、様式的にはネオクラシシズムに属する。大きさといいスタイルといい、アメリカを含めて世界の下見板建築の代表作の一つに数えられるが、設計者の名はまだ明らかではない。(p.37)


開拓使本庁舎は、明治12年に火災のため焼失したが、現在、札幌の「北海道開拓の村」に(外観が)再現されている。

建てられる少し前の時代のアメリカの州庁舎の定型に従っているというのは、いかにも北海道開拓らしく、なるほどと思わされる。19世紀前半のアメリカの州庁舎で現存しているものはあるのだろうか?あるなら見てみたいものである。

それにしても、あの建物が「世界の下見板建築の代表作」とまで言われるほどのものだとは思わなかった。近々、再訪問する予定なので、少しじっくり見てみたい。



 彼(引用者注;ウィリアム・ホイーラー)が札幌滞在中に手がけた建築は、時計台(M8・演武場)、模範家畜房(M10)など農学校関係にかぎられ、開拓使直属の技術者たちがすでに作りあげた本庁舎などにくらべると数も少ないし、表現からいっても時計台以外は地味だが、しかし下見板西洋館の技術という点では画期的で、バルーンフレーム構造を日本ではじめて実現した。
 バルーンフレームというのは、構造に太い柱や梁を使わず、規格化された厚い板を多用して、壁体を構成する点に特徴がある。旧来のようにノミやノコギリの腕を振るって太材を組み立てる必要がなくなり、釘で打つだけで済み、開拓にこれ以上ふさわしい技術はない。当時は、その軽便さゆえ風船――バルーン――構造とかカボチャ構造と呼ばれて馬鹿にされたが、開拓とともに始まったアメリカ木造技術の頂点に立つものであり、現在日本で“ツーバイフォー”と呼ばれるのは元をただすとこれにほかならない。ホイーラーのバルーンフレームによって、アメリカの木造技術は本当に日本にもたらされたのである。
 先に着任したホルト他の顧問技師団と遅れてやってきたホイーラーの活躍によって、明治5年以後、札幌の原野には槌音が続き、明治10年代には、石狩平野のただ中に下見板で仕上げられた白い町が出現する(図2-4)。もし事情を知らない者が訪れたなら、開拓期のニューイングランドの州都にでもまぎれ込んだような感動を覚えたにちがいない。建築のスタイルから見ても、アメリカの下見板建築の歴史の一部がそのまま引っ越してきたような情景であった。(p.39-40)


時計台や模範家畜房など、札幌の古い木造建築を見ると、大抵、バルーンフレーム構造が採用されていると解説に書いてある。だから、その名はよく目にしていたが、ウェブ上でも意外とその意味や具体的な構造などをわかりやすく説明しているサイトが見つからず、この構造が用いられることにどのような意味があるのか、なかなかつかめずにいたが、本書の明快な説明によってかなり理解が深まった。

「規格化された厚い板」を釘を使って組み合わせることで、太い柱や梁を使わずに壁の強度で建物を支えることができ、建てるにあたっての労力的なコストも少なくて済む。この技術もアメリカの開拓に伴って開発されたものであり、その簡便さにコロニアル建築としての性格も表れており、北海道という植民地の開拓にも適した技術だったということだろう。



神戸の山の手を訪れると、異人館と呼ばれる西洋館がいくつも残っているが、それらはどれも前面にヴェランダを張り出し、壁には下見板を張っている。たいてい平気で眺めているけれども、ヴェランダは東回りでやってきた南方の工夫で、下見板は西回りでやってきた寒冷地向きの作りであることを知っていると、不思議な思いにとらわれる。どうして氏も育ちも違う二つがここで結ばれ、“下見板ヴェランダコロニアル様式”が生れたのだろうか。


数年前に神戸の異人館は行ってきたが、近代建築にはあまり知識がなかったこともあって、私も「平気で眺めて」しまった。近代建築で木造というと日本では下見板張りばかりという印象があり、「木造なんだから下見板だろう」くらいにしか思わなかった。ヴェランダが南方で発達したコロニアル様式であることは当時から知っていたが、下見板が寒冷地向きの技術だとは当時は知らなかったので、違和感を感じなかった。

下見板については、神戸訪問より前に、台湾に行ったときにも現地の友人が台湾の古い木造建築の多くで下見板張りが使われていると説明してくれていたので、南方でも使われていたんだなぁ、ということの方が印象が強かったこともある。

今から考えると、台湾に寒冷地向きの下見板が入ったのは、いつ、どのようなルートで入ったのかが気になってきた。北海道と台湾の比較研究というのが、私のここ数年間のテーマの一つなのだが、札幌農学校(北海道帝国大学)の卒業生が台湾の開発や台北帝国大学(現在の台湾大学の前身)に深くかかわっていたことなども考慮に入れると、下見板コロニアルが最も栄えていた札幌から台湾に入ったという仮説も成りたつ。是非この問題は今後調べてみたい。



 アメリカを経て日本に届いた西回りのコロニアルルートは、下見板のほかにもう一つ、少量ながら“木骨石造”という珍しい技法の西洋館をもたらした。木造の骨組の外側に石を積み、カスガイなどの金物でつないで一体化し、外見を石造のように見せかける。建築の構造は木による軸組構造と煉瓦・石による組積造に大別されるが、どちらにも属さず、一枚の壁の中で両者が背中合せに併存するという世にも稀な作り方で、ヨーロッパにはほとんどない。しかし、アメリカでは田舎の駅舎や倉庫などで使われ、現在も、木造の外側に煉瓦を張りつけたような住宅がたくさん作られている。おそらく、煉瓦や石が入手しづらかった開拓期に、せめて外見だけでも組積造に見せかけようとして発達したコロニアルな技術と考えられるが、しかし、同じコロニアルでも下見板のように独自な表現に到達できず、石と煉瓦の猿真似に終始している。コロニアルであることのマイナス面が現われた淋しい作り方なのである。アメリカ以外では日本の幕末・明治初期に例があり、香港でも使われたことが分っている。起源ははっきりしないが、影響力の点からいうと、アメリカの技術と考えていいだろう。
 世界的にはマイナーな作り方だが、日本の西洋館の歴史を考えるうえでは、避けて通れない重要性を持つ。現在、日本に残る木骨石造の西洋館はわずかしかなく、箱根の福住楼(M12)と、西本願寺大教校講堂(現龍谷大学講堂・M12)の二つと、小樽の石造倉庫が群として注目されているていどだが、明治の初期には西洋館の先進地を制しかねない可能性を秘めていた。
 一つは北海道で、下見板の代表作の開拓使本庁舎は、当初、木骨石造で図面を引かれながら、良い石材が採れなくて下見板に変更されたという事情がある。しかし、下見板の陰に隠れて札幌の町場には木骨石造が広まり、やがて小樽の倉庫群を産み出すほどになる。
 北海道では開拓使本庁舎で可能性をほの見せてあとはマイナーに終始した木骨石造だが、横浜と神戸の居留地では主流の木造漆喰塗りに互して健闘している。


木骨石造については、小樽の倉庫群でかなりの数を見ているが、どこから来た技術なのか解説してくれる本も今まで読んだ限りではなかった。本書からアメリカでこの作り方で建てられたものがかなりの数で存在し、恐らくそこから北海道に入ってきたという理解を得たのは収穫だった。

これがコロニアルな技術であるということは、小樽の倉庫群を見ても理解できる。外観は石造風なのだが、内部を見ると骨組が木造になっており、石を切り出して積み上げる石造などよりコストも安く、短時間で建てられることはすぐにわかる。小樽で倉庫を建てている商人も、その本拠地は北陸など本州にあることからも、植民地の出先で建てた建物という側面があり、こうした簡便な技術で建てることには合理性がある。

本書では、表現が「石と煉瓦の猿真似」であるとして否定的な評価が下されているが、美的な観点のみから低く評価するだけというのは、やや一面的だろう。既に述べた通り、出先に建てる倉庫などの用途で言えば、コストパフォーマンスは高いと言えるし、小樽で木骨石造倉庫が広まり、また残っているのは、大火で街が燃えた後も燃えずに生き残ったという事実があり、そのように耐火建築としての機能に注目して倉庫建築に広まったという面もある。安価で短時間で建造できる簡便な耐火建築という点では相当の合理性を認めることができるだろう。もちろん、耐震建築としては強くはなさそうなので、地震が多い日本にはあまり向かない面もある。ただ、だからこそ群として残っている小樽の倉庫群は貴重なのだ。

香港にも建てられ、横浜や神戸で健闘したというのは、やはり西洋列強の進出に伴って開港場にやってきた技術なのだというのが垣間見える。



さいわいヨーロッパには“三角形不変の法則”を利用したトラスという架構法があって、これを使えば、少ない材料で大スパンが可能となる(図3-8)。
 トラス小屋組のことを洋小屋組とも言うが、これと対比的に日本の伝統の小屋組を和小屋組といい、こちらの方は大スパンについてはまるで駄目だった。


近代の工場建築は複雑なレイアウトと激しい移動が必要になるため大空間が必要となり、そのためにトラスが使われる、という説明の部分より。

トラス構造も明治期の建築でよく目にしたことがある。先の引用文で出てきた小樽の倉庫群でも使われているし、一見和風の建物に見える鰊番屋(例えば、小樽の茨木家中出張番屋)でも使われているものがある。

大スパンを可能とする技術という意味付けがされているが、構造などについては、それによって何が実現できるか、といった意味を理解することもやはり重要だと思う。





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