アヴェスターにはこう書いている?
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田村秀 『暴走する地方自治』

政治と金の問題や政治家個人のスキャンダル、さらにはマニフェストで有権者に約束した政策が相次いで見直されるなどして、国政に対する期待は失望に変わり、その反動として地方のモノ言う首長に対する期待が高まっているとも言えるのだろう。
 また、良識の府の名のごとく、衆議院のチェック機関としての役割を果たすべき参議院が、実質的に政権のキャスティングボートを握り、3年ごとの改選が様々な形で政権基盤を揺さぶっていることが、結果として日本の政治の安定性を阻害しているのだ。(p.10)


橋本徹(大阪市長)、河村たかし(名古屋市長)、石原慎太郎(前東京都知事)などが注目を浴び、期待の目で見られる背景には、国政への失望があるという指摘は参考になった。

後段の参議院に関する認識については、本書では、参議院の見直しをすべきだという方向へと議論が進められる。しかし、逆に言えば、参議院があることによって国政の暴走はある程度抑えられているのであって、このタガを外すことは「暴走する地方自治」以上にたちの悪い「暴走する国家(政府・与党)」を実現させてしまう危険性が非常に高いとみるべきだろう。その意味で、この問題に関する本書の議論は妥当とは言えない。

むしろ、各政党に「党議拘束」を禁止させるなど国会の運営のルールを変える方が国政を立て直すには近道であるように思われる。



 本来は新潟市長選の一大争点となってもおかしくなかったのが中国総領事館への市有地の売却問題だ。……(中略)……。
 さらに、2010年、中国では国防動員法が施行された。この法律は中国国内で有事が発生した際に、すべての青年が重用されるもので、外国に住む中国人も対象となる。また、中国国内に進出している日系企業も政府や軍の管理下に置かれることとなる。そうなれば、1万5000㎡もの広大な土地はどのような形で使われるのか、想像に難くないだろう。中国が日本海に面した北朝鮮の港を租借したというのも大変気になる点だ。(p.64-66)


こうした中国への警戒感も著者の見解に特徴的なところの一つだろう。

90年代以降、自治体の財政悪化が進んだが、中央政府とは異なり債務に限度が設定されていることから、中央省庁と比べ自治体では財政再建に対して切羽詰まった状況に追い込まれているところが多く、市有地や市有財産などの売却もかなり行われるようになっている。中国に売却することが問題だというより、切羽詰まった焦りの中で財産の売却などによって収支の帳尻を合わせなければいけないような状況に自治体が追い込まれていることの方をよりクローズアップすべきであろう。冷静に判断できる状況であれば、わざわざ市の中心の一等地を外国に売却しようなどと考える者はそう多くはないだろう。



 非核三原則は、1967年12月に佐藤栄作首相が衆議院予算委員会で答弁したのが端緒であり、核兵器に対して「持たず、作らず、持ち込ませず」という日本政府の方針である。……(中略)……。神戸港は戦後、米軍の第七艦隊の基地となり、朝鮮戦争の際には数多くの軍艦が出入りし、また、歓楽街等での米兵の行状が社会問題化するなど、様々な課題を抱えていた。
 このような状況の中、1974年にアメリカ議会におけるラロック元海軍提督の核持ち込み証言を受けて、当時の神戸市長が市当局として疑わしき艦船は入れないと言明し、さらに75年には神戸市会が「核兵器を積載した艦艇の神戸港入港を一切拒否する」との市会決議を行ったのであった。この決議に基づいて、神戸市は港に入港する船舶が外国艦船である場合には「非核証明書」の提出を求め、この提出がない場合には入港を拒否することとした。これが世に言う「非核神戸方式」である。
 神戸市が、非核神戸方式を実施したことによって、それ以降、米軍艦船はまったく入港することはなくなった。他方、他の国の外国艦船は非核証明書を提出して入港しているため、これまで神戸港が非核証明書の不提出を理由に入港拒否をした事例はない。
 ……(中略)……。
 法的には、非核港湾条例や非核神戸方式は多くの問題点を有し、証明書の不提出によって不許可にすることは違法という結論にならざるを得ないのではないだろうか。国際法と国内法の関係をどのように捉えるべきかなど様々な論点があるが、結果として我が国の外交関係に悪影響を及ぼしかねない行為であり、特に日米関係にひびを入れかねない内容であることから、橋本氏の「マスコミ的嗅覚」に端を発した提案は、暴走する地方自治をまさに体現してしまったのだ。……(中略)……。
 ……(中略)……。この問題は、本来は国が責任を持って対処すべき安全保障に関するものであり、また、外交政策として真剣に考えるべき性格のものである。……(中略)……。
 ……(中略)……港湾という安全保障上重要な施設について、空港と同じように主要なものは国が管理するというシステムを導入すべきではないかと思われる。(p.82-86)


非核港湾条例や非核神戸方式に対する著者の否定的な評価には、私は同意しない。

著者に非核港湾条例等を否定しようとされている最大の理由は、どうやらアメリカとの関係が悪くなったら大変だ、という感覚にあるように思われる。中央政府が安全保障に対して責任を持つべきだという点には異論はないが、それは中央政府だけが独占的に独断で関連する事柄を決めることができることを意味しないと考える。

また、田村氏の論で意味不明なのは、非核証明書を提出しなければ入港を不許可にすることは違法だという判断である。何の法律に抵触するのかがよく分らない。それに、中央政府も非核三原則をその方針としており、非核神戸方式は、それに反する(例えば、核を積んでいる艦船でも入港してよい、といったような)内容であるわけではない。むしろ、政府の方針を適切に実施するための方策であると評価すべきであろう。

こうしたことを「自治体の暴走」として問題とするのは不当ではないか。むしろ、問題とすべきは、非核証明書の提出を求めた途端、アメリカの艦船が入港しなくなったことであろう。これは核を積載した艦船が入港することがあると言っているようなものであり、また、神戸方式のようなやり方は、本来は非核三原則を掲げる中央政府自身が実施すべきものであり、現状では日本政府はアメリカが核を持込むことを黙認しているに等しい。田村氏は、自治体を否定的に評価するのではなく、アメリカと日本政府の欺瞞的な姿勢をこそ批判すべきだろう。



一人当たりの県民所得と財政力指数(3か年平均)の順位から、改革をキャッチフレーズに登場した知事たちが地域経済に何らかの貢献を果たせたのか、定量的な分析を行ってみた。なお、経済効果は当該年度に生じるというよりも2、3年の遅れがあるのは当然のことであるため、就任後から4年刻みに退任後3年までを対象期間とした。(表1、表2)
 ここでは、「改革派」知事として、増田岩手県知事、浅野宮城県知事、田中長野県知事、梶原岐阜県知事、北川三重県知事、片山鳥取県知事及び橋本高知県知事の7人を対象とした。
 一人当たりの県民所得では、北川三重県知事を除いて軒並み在任中に順位を下げている。……(中略)……。
 地方自治体の財政的な強さを示す財政力指数でも、県民所得ほど変化は大きくないが、概ね順位は横ばいに留まっている。
 このように、経済的な指標で見る限り、改革によって地域経済の好転は進まなかったどころか、むしろ相対的に全国順位を下げる結果になっているのがほとんどのようだ。(p.100-101)


橋下徹や河村たかし、さらには安倍晋三のアベノミクスなどもこれらと同じようなものであることが明らかになるだろう。


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STVラジオ 編 『ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々』(その2)
ウィリアム・スミス・クラーク

 37歳になっていたクラークは、「開拓が今盛んに行われているここ、マサチューセッツにこそ農業の専門学校が必要だ」と考え、周りを説得し、ついに4年後、当時アメリカにまだ2つしかなかった農学校を、もうひとつ増やすことに成功したのです。1867年、日本では新政府が幕府を倒し、明治維新という新しい国造りにとりかかった年でした。(p.72)


マサチューセッツ農科大学の学長であったクラークが、札幌農学校の教頭として赴任し、マサチューセッツ農科大学をモデルとして学校を作っていったという話はよく耳にしていたが、クラークが設立に関わっていたということや、アメリカでも農学校は当時は少なく、3件目の事例であったとは知らなかった。

農科大学の設立ということ自体、大学という組織自体が実学的な学問なども扱うようになるなど、変化しつつあった時代だったことも反映しているように思われる。



ホーレス・ケプロン

 本州の農家にみられなかったガラス窓が、早いうちに普及したのも、冬は寒いからと防寒設備を強化したケプロンの考えです。(p.83)


ガラス窓の普及が北海道では比較的早かったというのは、なるほどと思う。

明治39年竣工の旧日本郵船小樽支店(重要文化財)くらいの時期になると、二重窓や窓と枠の間の隙間風を防ぐような加工、雪や外部からの侵入から保護するための鉄製のシャッターなど、窓の周辺に寒冷地ならではの様々な工夫が凝らされていたのが想起された。



新渡戸稲造

 同じ年の明治9年、北海道開拓使長官、黒田清隆の案により、アメリカの大学を型どった農学校が札幌に設立され、マサチューセッツ農科大学のクラーク博士が経営を任されることになりました。農業の学校は日本で初めてのものでした。教授が外国人のため、政府は、東京外国語学校の優秀な生徒たちに、札幌農学校入学への募集をかけました。(p.90-91)


新渡戸稲造だけでなく、一期生の佐藤昌介も同じようなルートで札幌農学校に入学しているようだ(本書p.168参照)。



 しかし、この東京大学でもすぐに失望してしまいます。学問のレベルは札幌農学校の方が上だと思ったからです。「日本で最高の学者になってもたかがしれている。今広い世界にでなければチャンスは永久に失われてしまう」そう考えた新渡戸はアメリカへの留学を決意するのです。(p.92)


クラークは短期間で帰国してしまったため、新渡戸は直接教えを受けてはいないが、それ以外にも多くのお雇い外国人がいたことが、レベルの高さの要因だろうか?東京大学よりも札幌農学校の方がお雇い外国人教師の質や量が高かったのだろうか?



 札幌農学校は、明治15年に開拓使が廃止されてから、ようやく存続していたありさまで、わずか8名の教授で授業を担当しなければなりませんでした。新渡戸も、週20時間も授業を受け持ちしましたが、青年教育を念願としていた彼は少しも苦にならず、それどころか学生と話したさに、わざわざ学生のトイレに通っていたそうです。
 新渡戸の活動は、札幌農学校だけに留まらず、これと平行して現在の北星学園であるスミス女学校、私立北鳴中学校でも教頭として教壇に立っていました。これらの学校で新渡戸は、知識教育よりもむしろ人格教育に重点を置きました。(p.92-93)


前段は新渡戸の人柄がよく表れている逸話。北星学園大学という私立大学が札幌にあるが、この学校も意外と由緒があるらしい。



今井藤七(丸井今井デパートの創始者)

 こうして明治5年、札幌に着いた21歳の藤七は、さっそく現在の南1条西1丁目、創成川のかたわらに小さなかやぶきの小屋を買い入れ、日常雑貨の屋台を開きました。なぜこの場所を藤七は選んだのか。それは当時開拓使が置かれた札幌は、北海道の首都として、急激に人口が増加しており、大通公園をはさんで北側には官公庁、南には一般民家が建てられていました。そこで藤七は、人々が官公庁を行き来する際、必ず通る道というものを考え、店を創成川のほとりに開いたのです。(p.161)


丸井今井デパートは今でもこのすぐ近くに建っているが、札幌の街が建設中だった頃から、ほぼ同じような場所で商売をしていたことに驚いた。



 しかし、彼の事業は常に順調だったわけではありませんでした。開業2年目にして、開拓使時代最大の危機といわれる大不況に遭いました。札幌は、明治6年には開拓工事が一段落したため、大工や職人らが皆帰国し、開拓使も新事業を計画しなかったので、不景気になってしまい、逃亡者が続出したのです。(p.162)


北海道の行政の中心地とは言え、明治初期の札幌は人口も少なく、産業もなかったから、公共工事が終われば仕事が一挙に減るのは道理だろう。



 いよいよ店舗が狭くなったため、明治21年、丸井今井呉服店の西向かいの、南1条西2丁目、現在の店舗が建っている一角を買い取り、そこに「丸井今井洋物店」を開業しました。北海道は、黒田清隆開拓長官が、欧米式開拓法と生活様式を採用したため、その首都札幌には、本州より一足先に洋式化の花が咲き、洋品雑貨の需要がかなり多かったため、この洋物店の独立は、人々の足を次々と運ばせました。藤七39歳の勝負でした。(p.163-164)


明治20年代は北海道の開拓が徐々に加速しはじめる時期といったところか。その時期に洋品を売るとは、他より一歩先を行く商売をしていたように感じられる。

なお、北海道では本州より洋風の生活様式が広まったというのも興味深い。



佐藤昌介

 そして明治40年、ついに昌介が長年願ってきた大学が設立されることとなりました。同郷の友人、原敬の計らいで、古川財閥から校舎建設の資金が提供され、札幌農学校は東北帝国大学農科大学となったのです。(p.173)


明治19年と明治26年に札幌農学校の存続の危機があり、いずれにも佐藤昌介は関わり、学校存続に努めた。この功績は大きい。そうした困難な時期を乗り越え、ようやく大学になったというわけだ。なお、その背景には、北海道の人口や経済も急速に発達していた時期だったということもあるように思われる。

なお、この時建てられた校舎は、現在移築されて現在の北海道大学キャンパス内に移築され、「古河(記念)講堂」の通称で知られている。



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STVラジオ 編 『ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々』(その1)

 次に義勇は、札幌に基線、基本となる線を引きました。まず南北の基線を創成川、東西の基線を今の南1条通りと定め、この交点を起点としました。創成橋のほとりには、今もそれを示す石があります。
 南1条通りを境に、北部には官邸・学校・病院などの建築物を建て並べ、それからこれらの建築物を火事から守るため、幅100メートルの防火帯、現在の大通公園を設け、これより南を一般民家の用地としたのです。(p.29)


北海道開拓使の初代判官・島義勇の章より。

札幌という都市の歴史を見ていくとき、大通公園と創成川で区切られていたという話は必ず出てくるところで、このブログでも以前何度か取り上げている。ただ、この起点を示す石があるとは知らなかった。



 しかし、岩村は予算の使いすぎで解任になった島義勇を教訓に、予算難を理由にすぐには札幌建設に手をつけようとはしませんでした。……(中略)……。
 しかし、利益にさとい商人たちは、札幌が北海道開拓の首都になるらしいことをどこからか聞きつけて、全国から集まってきました。ところが、せっかく来ても何もない、と皆失望しましたが、少し様子を見ているとさらに次々と商人が集まってくる。するとそのうち商人のための宿屋が建ち、続いて飲み屋ができた。風呂屋まで出来て、それらは大繁盛したそうです。
 こうなると勢いがつき、雑貨屋、呉服屋、茶屋が次々と並びました。そんな状況を見ていた岩村は、札幌首都建設に着手しようと決めたのです。
 まず、建設工事の能率を高めるため、岩村は函館時代からの知り合いで五稜郭の建築を請け負った、中川権佐衛門を大工棟梁に置き、彼を通じて函館、東京などから千数百人を集めて作業にあたりました。
 次に区画を整えるにあたっては、市街地を4キロ四方とし、道幅も細く設定しました。(p.32-33)


島義勇の後任として開拓使の二代目判官に就任した岩村通俊の章より。

札幌の市街地が4キロ四方というのは、当時の人口などから考えると比較的大きいようにも思うが、現在の市街から考えるとかなり小さいとも言える。人口の割には大きめに設定されているのは、北海道の行政の中心都市としての繁栄が期待されていたからだろうか。



 岩村は開拓者たちに、「お金を貸すから燃えづらい家を建てなさい」と提案しましたが、誰一人その命令に従おうとはしませんでした。そこで明治5年、岩村は「草小屋を取り除く」というお触書を出した後、退官覚悟で、御用火事と呼ばれる放火を決行しました。……(中略)……。
 岩村がまわりの非難を振り払ってでも行った、この御用火事によって、街並みもきれいに整えられ、火事などの災害はほとんどなくなりました。延焼を防ぐ目的で札幌で初めての消防隊が誕生したのも、この御用火事がきっかけだといいます。
 こうして札幌の開発は急速に進み、岩村は次の事業に取りかかりました。それは、土木作業者のために北海道で初めて官庁公認の遊郭を、すすきのに設けることでした。……(中略)……。
 男の数が多かったため、毎日のように婦女暴行や人夫同士の暴力沙汰が起こり、札幌の治安は手のつけられない状態にありました。岩村はこのような様子を見て、大切な労働者をこのままにはしておけないと悩んだあげく、彼らに国の税金を使って娯楽の場を与えることを思いついたのです。
 岩村は開拓監事である薄井龍介之に、200メートル四方で歓楽地を作らせ、薄井の名を一字とって、「薄野遊郭」と名づけました。東京から芸者数十名がこのすすきのに呼び寄せられ、殺風景だった札幌の街並みが、一気に華やかになったのです。(p.34-36)


御用火事などという放火を開拓使が行ったというのには、正直驚いた。

ただ、確かに函館や小樽の歴史では明治時代には何度も大火があり、それが市街地を形成してきたという歴史を見てきたのに対し、札幌にはそうした傾向が希薄だとは思っていた。札幌の人口が増え始める時期が遅かったこともその原因だろうとは思っている(大ざっぱに言えば、防火建築が北海道でも建てられるようになってから札幌は発展した、ということ)。しかし、初期にこうした火事に対する配慮があったということは銘記されてよいように思う。

ただ、明治11年に建てられた札幌農学校演武場(札幌市時計台)なども木造であるなど、防火建築が普及したわけではないようである。

また、すすきのの遊郭に関する叙述も興味を惹かれる。遊郭だったという話は聞いたことがあるが、官庁公認だったとまでは知らなかったからである。また、範囲が200メートル四方で作られたというのも、今よりはかなり狭いが、市街地の拡大と比べると比較的現在も同じような範囲がすすきのと呼ばれていると思われる。

札幌という都市の歴史も調べてみると意外と面白いかも知れない



 原料の大麦は、屯田兵が栽培したものを買い上げ、ホップとビール酵母は輸入に頼り、開拓使麦酒醸造所は作業を開始しました。(p.41)


開拓使麦酒醸造所(現サッポロビール)の建設責任者であった村橋久成の章より。

産業政策としてビールの製造販売が行われていたわけだが、屯田兵の栽培していた大麦を原料として使っていたというのは、なるほどという感じがする。





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岡本信広 編 『中国西南地域の開発戦略』

 雲南省は蕎麦の発祥の地として有力です。蕎麦は雲南省から中国北部、朝鮮半島を経て日本に伝わったといわれますが、日本人にとってなじみのある蕎麦は普通種(甘蕎麦)、ダッタン蕎麦は苦蕎麦といわれ、日本の蕎麦の起源とは信じられないほど、全く正反対の味です。(p.120)


蕎麦は日本で独自の変化を遂げたように見えるが、そこに行きつくまでの軌跡はどのようなものだったのか?非常に興味がある。



 価格が低く抑えられ、収益が圧迫されている状況の下で、山西省は、図4のとおり、石炭の6割以上を省外に移出し続け、電力とコークスについても1980年代はほぼ一貫して省外移出率を高めることとなった。まさしく沿海部の発展を支えるエネルギー供給基地としての役割を一貫して果たしてきたといえる。それにもかかわらず、中央政府が石炭価格の低位抑制という形で人為的な介入を行っていたことは、沿海部の発展を支えるために山西省を犠牲にしてきたととらえられても仕方ないことだろう。沿海部の製品の多くは輸出向けとして生産されてきたわけであり、そうした中国製品の国際市場における競争力の源泉はまずは低コストの人件費があげられるが、同じく低いエネルギーコストも競争力の強化に寄与してきたことも紛れもない事実である。(p.133-134)


数年前、山西省や内モンゴルに行ってきた際、列車の車窓から石炭の積まれた山の連なりが見えたのが思い出される。

中国には国内に(世界システム論や従属理論が言うところの)「中核」と「周辺」があると捉えると分かりやすい。



 そもそもこの漢の武帝の「滇国」討伐は、武帝によって西域に派遣された張騫が建議したものであると伝えられる。漢の都長安からローマに続くいわゆるシルクロードの途中に位置する西域と雲南省が何の関係があるのかという疑問がわいてくる。それは張騫が西域の国で四川省の竹や布などの産品が流通しているのをみたからだという。それらの産品はインドからもたらされたもので、さらにインドには雲南省からビルマを通じて運ばれていた。そこで張騫は雲南省をまず傘下に収め、この交易ルートを通じて西域とよしみを結び、北方で漢を脅かす匈奴を牽制することを武帝に進言した。これが武帝による「滇国」討伐の背景にあったという。
 すなわち雲南省の海外とのネットワークは少なくとも2000年以上に及ぶ筋金入りのものである。しかし現状では緒についたばかりである。そもそも1980年代に改革開放都市に選ばれなかったのは痛恨であった。その理由は、1979年にベトナムとの間で勃発した中越戦争の最前線であったためである。外国と境を接するフロンティアであることが、逆にマイナスに働いた。しかし数十年の時を経て、ASEAN諸国が中国との連携を求める状況の下、再び雲南省が注目されている。(p.157)


漢の時代に、中国西南部-ビルマ-インド-西域と連なる交易ルートがあったということが興味深い。

また、ASEANと中国のFTAは2010年1月に発効した。中国西南地域はASEANに隣接していることから、FTAの締結は本書では西南地域の開発にとってプラスとなることが期待されていたが、発効後、どのような影響が出ているのか興味が惹かれる。



中国随一の商業都市である上海も、戦前こそ国際都市として栄えたが、戦後外国資本が香港などに撤収してかつての輝きを失い、次第に改革開放のメッカである広東省の後塵を拝するようになった。復活のきっかけは1990年代の浦東開発を通じた外資導入である。(p.159)


90年代以降、上海とその周辺の地域は広東省を中心とする華南地域を急速に追い上げ、追い越したという流れになっている。

そして、本書によれば、そうした追い上げを受けた広東省や華南地域が、西南地域を後背地として一体的に経済発展することを志向する動きを始めたという流れは興味深かった。


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藻谷浩介 『デフレの正体――経済は「人口の波」で動く』(その2)

 ちなみにここでご紹介した小売販売額や課税対象所得額、あるいはこの先で使う国勢調査のような、確固たる全数調査の数字は、現場で見える真実と必ず一致しますし、お互いの傾向に矛盾が出ません。一致ないのは、得体の知れない世の空気だけです。こういう空気というのは、数字を読まない(SY)、現場を見ない(GM)、空気しか読まない(KY)人たちが、確認もしていない嘘をお互いに言い合って拡大再生産しているものです。(p.69)


全数調査の絶対数を確認すべきだという点は非常に重要。ただ、どの数字を調べるべきか、ある統計の数字を見たとき、それがどのような調査方法による、どのような意味をもつ数字なのか、といったことは、それを読み解く知識がなければ分からないことが多い。そもそもどのような数字があるか、ということすらわからなかったりする。

本書では「事実」にもとづいて物事を判断すべきだということがしばしば言われるが、以上のように、その数字を見つけだすためには実は、「広い意味での『理論』」がかかわっているという側面も無視できない。そうした素養を人びとに身につけさせることが大学などでの高等教育の役割の一つであるように思われる。



 確かに日本では、マスコミもシンクタンクも、場合によっては学者までもが、有効求人倍率や失業率という数字ばかりを使い、就業者数の増減をチェックしていません。理由は「学校でそう教わった」「日本では皆がそれを使っている」という以外には考えられないわけですが、それではなぜ米国経済の基本指標には「非農業部門の雇用者数の増減」が使われているのか(なぜ失業率がメインとして使われないのか)、なぜ「有効求人倍率」が使われていないのか、彼らは考えたことはないのでしょうか。
 それは第一に地域経済を左右するのは何と言っても雇用の増減(就業者数の増減)であり、第二に失業率だの有効求人倍率だのは定義上も現実にも必ずしも雇用の増減とは連動しないものだからです。(p.84-85)


基本的には絶対数を示す指標は「率」で示されるような指標よりも信頼度が高いようだ。確かに、率で示されるような指標は、それだけ間接的なものに過ぎず、それだけ多くの操作を経たものだということに気づかされた。



 このように青森県の経済の問題は、単に景気循環に伴う失業者の増減や、若者の流出だけで説明できるものではありません。今世紀になっての不振の背後には失業者の増加ペースや若者の流出ペースを大きく上回る就業者数の減少があり、その背景には総人口減少のペースを大きく上回る生産年齢人口の減少がある。同時に高齢者の激増も進行している。この事実を踏まえてこそ、日本で何が起きているのか、本当のところがわかってくるのです。
 ちなみにここでお示しした、「生産年齢人口減少」と「高齢者激増」の同時進行を、「少子高齢化」というズレた言葉で表現する習慣が、全国に蔓延しています。ですが「少子高齢化」というのは、少子化=子供の減少と、高齢化=高齢者の激増という、全然独立の事象を一緒くたにしているとんでもない表現であり、「子供さえ増やせば高齢化は防げる」というまったくの誤解の元凶にもなってしまっています。さらにはもっとも重大な問題である「生産年齢人口減少」を隠してしまってもいますね。従って私は「少子高齢化」という言葉は絶対に使わないようにしていますし、この語を口にする「識者」やこの語が書かれた論説は、事柄の全体像がよくわかっていない人(が書いたもの)ということで信用しません。(p.96-97)


確かに「少子高齢化」という言葉への批判は妥当である。

例えば、「少子化」の方は合計特殊出生率に目を向かせる傾向があり、出生率を上げるにはどうしたらよいか、といった「対策」を考える方向に向かう。これはこれで重要なことではあるが、現在から近未来に直面する経済の問題を解決する志向を持つものではない。

また、「高齢化」の方は医療や介護や年金などの財政需要にばかり目が行くことになり、そのための負担をどうするかといったような話に向かう傾向がある。これも経済の問題ではなく財政や福祉の問題にシフトしてしまうことになる。

さらに「生産年齢人口」である現役世代だけが隠されている、というわけだ。



 首都圏で起きているのは、「現役世代の減少」と「高齢者の激増」の同時進行です。そこでは、企業に蓄えられた利益が人件費増加には向かわない。現役世代減少に伴い従業員の総数が減少しているので――もう少しわかりやすく言えば定年退職者の数が新卒採用の若者の数を上回るので――少々のベースアップでは企業の人件費総額は増えません。となれば、企業収益から個人所得への直接の所得移転のチャンネルは、配当などの金融所得しかありません。事実、企業に多額の投資をできる富裕層は大きな利益を得たわけです。
 が、不幸にして?その多くは高齢者だった。彼らは特に買いたいモノ、買わなければならないモノがない。逆に「何歳まで生きるかわからない、その間にどのような病気や身体障害に見舞われるかわからない」というリスクに備えて、「金融資産を保全しておかなければならない」というウォンツだけは甚大にある。実際、彼ら高齢者の貯蓄の多くはマクロ経済学上の貯蓄とは言えない。「将来の医療福祉関連支出の先買い」、すなわちコールオプション(デリバティブの一種)の購入なのです。先買い支出ですから、通常の貯金と違って流動性は0%、もう他の消費には回りません。これが個人所得とモノ消費が切断された理由です。(p.101-102)


首都圏で「現役世代の減少」と「高齢者の激増」が同時進行しているというのは、一般に流布しているイメージとはズレがあるところ。絶対数で見ると見えてくる部分。

企業から個人への所得移転が人件費ではなく金融所得という形になってしまい、その配当を手にする者の多くは高齢者であり、高齢者の貯金は「将来の医療福祉関連支出の先買い」であるためモノ(やサービス)消費には回らないというのは、非常に明快な説明であり、その通りだと思う。

ちなみに、小野善康などはこうした流動性選好の高まりを「成熟社会」という観点から説明しようとしているようだが、成熟社会というイメージを使った説明よりも、「医療福祉関連支出の先買い」や高齢者は日用品や耐久消費財などの消費も少ないといったところから導く方が妥当であると思われる。小野理論は、貯蓄が消費に回らないことがある、ということを一般的な理論として説明している点で非常に優れた理論だと思うが、現代日本社会を説明する際に理論を適用して、現代日本ではどうしてお金ばかりを持っておこうとするかという説明としては、藻谷氏の説明の方が説得力がある。



首都圏や愛知県といった産業地域には、30年代後半生まれの方々が、高度成長期の前期に中卒の「金の卵」として大量に流れ込みました。だから、00~05年の間に65歳を超えて行った人が多い。若者を出す側だった地方よりも、受け入れる側だった首都圏の方が、より急速な高齢者の激増に直面しているわけです。(p.108)


なるほど。



 戦後復興の中で、たまたま数の多い団塊世代が生まれた。彼らが加齢していくのに伴い、そのライフステージに応じてさまざまなものが売れ、そして売れなくなっていく。この単純なストーリーで説明できてしまう、そして予測できてしまう物事がいかに多いことか。(p.125-126)


このストーリーはなかなか興味深かった。ちなみに、団塊ジュニア付近の世代でもかなりの説明ができる。彼らが若かった80年代に流行したものが何度かリバイバルしたり、彼らが40歳前後の頃に「アラフォー」などという流行語ができたり、といったことが想起される。



 さらにその先も、生産年齢人口の減少と75歳以上の後期高齢者の増加が続いていきます。団塊世代が75歳を超える25年には、75歳以上人口が今の五割増しくらいの水準にまで達してようやく横ばい傾向になりますが、それでも生産年齢人口の減少は止まりません。団塊ジュニアまでもが75歳以上に達する50年、40年後には、75歳人口は再び史上最高を更新、他方で生産年齢人口は現在の六割程度にまで減っています。(p.138)


団塊ジュニアがいなくなるころになれば、人口構成はかなり大きな波がなくなるのかもしれないが、それまでの40~50年間が、ある意味では日本の経済や財政の正念場と思う。



証明はできなくとも、反証があるかどうかは簡単にチェックできる。反証のないことだけを暫定的に信じる、明確に反証のあることは口にしないようにすることが、現代人が本来身につけておくべき思考法です。実際には世の中の事象の多くは証明されていない(証明不可能な)ことなのですから、反証があるかどうかを考えて、証明はできないまでも少なくとも反証の見当たらない命題だけに従うようにしていれば、大きな間違いは防げるのです。
 ところがこと社会的に何か動きを起こそうとすると、反証の有無は無視されて、証明の有無だけが決定的に重要とされがちです。最悪の例が水俣病でしょう。水俣病の原因は、工場から垂れ流された廃液の中の有機水銀化合物だったという事実は、今では社会的に広く認知されています。ですが当時そのことは、学問的には証明できていませんでした。そこをタテに、つまり「水銀が奇病の原因とは論証できていない」という口実で、当時の通産省は廃液への規制をなかなか行わず、その間も被害が拡大したのです。ところが実際に廃液垂れ流しを止めてみると、水俣病の新規発生も止まりました。つまり、有機水銀化合物が水俣病を起こすということは「学問的には論証できなかった」のですけれども、「有機水銀化合物がなければ水俣病は起きない」という反証は成立したわけです。このように実際の世の中には、論証を待たずとも反証を検証して実行に移すべき政策があります。そこを認めないでぐずぐず論証を待っていると、ヘタをすると人の命まで失われてしまう。(p.231-232)


「社会的事実の多くは証明されておらず、できないものが多い」ということを踏まえ、「反証がないことを信じ、反証があることは口にしない」という格率に従って行為すべきというのは参考になる。

水俣病が事例として挙げられているが、私がここを読んですぐに想起したのは、いわゆる「従軍慰安婦」の問題であった。右派的な言説などでは「旧日本軍が強制連行した資料はみつからなかった」といった主旨が強調され、そうした人びとは「強制はなかった」「軍の関与はなかった」などとして騒ぎ立てるが、上記格率からすれば、その手の議論は、過度の(すなわち不必要な水準の)証明要求をしているのであり、「軍隊が外地にいることは、そうした事件が生じる必要条件すら準備したことにならないのか」という程度の反論だけ出しておきつつ、相手をせずに通り過ぎればよい



 正確には政府は、「○○年までに外国人観光客○千万人達成」というような目標は掲げていますし、今般の世界同時不況さえなければ、10年度に一千万人という目標は確実に達成されていました。でもいい機会ですので、同じく政府の目標になっている「××年までに外国人による国内での消費×兆円達成」にもっと注目せねばなりません。そうしないと、イベントか何か、とにかく人数だけを容易に増やせるような策に走るのが現場の人情です。人数は増やさずとも、滞在日数や消費単価を上げて最終消費額を増やすことが重要なのです。
 ……(中略)……人数だけを増やす策の方が滞在日数や消費単価を増やすよりも簡単です。そういう逃げ道を最初から用意しているのでは、楽な方策ばかりが取られまして経済効果が増えません。(p.238-239)


日本に外国人観光客を呼び、消費を増やすことで内需を増やそうという論点だが、これはもっと小さな地域の観光を考える際にも同じことが言え、参考になる。



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藻谷浩介 『デフレの正体――経済は「人口の波」で動く』(その1)

……(前略)……、中国もアメリカの四割程度の規模で日本の黒字に貢献しているわけです。
 一言注釈すると、この数字は対中国と対香港の合計です。三角貿易とはこのことなのでしょうか、日本の対中輸出は香港経由が多いのに、中国は日本に直接輸出しています。香港を忘れて日本と中国の数字だけを見ると、日本の方が赤字に見えますが、日本の対中赤字よりも対香港の黒字の方がずっと多いのでご注意ください。(p.40)


貿易収支は中国に対しては黒字であるということは、中国は日本から見ると市場としての価値がそれだけある、と言えるだろう。



そういう韓国と台湾に対して、日本は貿易でも劣勢なのでしょうか。
 とんでもない、日本は中国(+香港)からだけでなく韓国、台湾からも、07年、08年と続けてそれぞれ三兆円前後の貿易黒字をいただいているのです。中・韓・台から稼いだ貿易黒字の合計は、00年に比べれば二倍以上に膨らんでいて、この二年間はアメリカからの貿易黒字を上回っています。つまり、アメリカに匹敵する輸出市場が、今世紀になっての中・韓・台の経済的な擡頭のおかげで出現したわけです。ちなみに先方の人口当たりに換算すれば、中国に比べて韓国は30倍、台湾は60倍、さらに豊かなシンガポールに至っては160倍の貿易黒字を日本にもたらしている計算です。(p.43)


中国、韓国、台湾を合わせるとアメリカ並みの輸出市場となっている。



 習い性と申しますか、日本人は自分のことを、「ご近所のブルーカラー」「派遣労働者」だと思い込んでいます。「賃金の安い仕事が得意だったのに、それを周辺の新興国に奪われてジリ貧になっている」と、勝手に自虐の世界にはまり、被害妄想に陥っている。ところが実際は日本は「ご近所の宝石屋」なのです。宝石屋なので、逆にご近所にお金がないと売上が増えません。ご近所が豊かになればなるほど、自分もどんどん儲かる仕組みです。(p.45-46)


このあたりは、産業空洞化という議論が見落としているものがあることを示唆している。ただ、輸出で儲けるといっても、「日本」という抽象的な主体が存在して他国にモノを売っているわけではない。輸出で儲ける企業とその恩恵を受ける人がいる一方、その恩恵を受けない人々も多数いるという点には注意が必要だろう。



 と、ここまで強気なことを申し上げてきた私ですが、「呑気なことを言うな、失業率は高まる一方で、低所得にあえぐ人がどんどん増えているではないか」と言われればひとたまりもありません。「輸出が倍増したというけれども、日本の経済規模は10年以上も停滞しているではないか」とのご指摘は、まったくその通り。ですが、これらは国際競争に負けた結果ではありません。国際競争にいくら勝っても、それとはまったく無関係に進む日本の国内経済の病気、「内需の縮小」の結果です。これはいわば経済の老化現象でして、企業のせいでも政治のせいでも霞ヶ関のせいでもない。従って、日本が国際競争に勝ち続けることは、実は対策になってきませんでしたし、これからも対策にならないのです。(p.46)


失業率や低所得者の増加、日本の経済規模が大きくならないこと、これに対しては国際競争で勝つといったことでは対策にならない、という。輸出で儲ける場合の儲けは広く一般に広がる構造が日本の経済に存在している場合、国際競争力を高めることはこうした問題の解決につながるだろうが、そうした条件が欠けている場合、国際競争で勝ち、輸出を増やしてもこれらの問題を解決することにはならない。

生産年齢人口が減り、内需が縮小していることが、国内の経済の流れを止めているのであり、失業率や低所得者の発生などに対して処方箋は、内需縮小の悪影響を抑えることにあるわけである。



 ということで我々が目指すべきなのは、フランスやイタリアやスイスの製品、それも食品、繊維、皮革工芸品、家具という「軽工業」製品に「ブランド力」で勝つことなのです。今の不景気を克服してもう一回アジアが伸びてきたときに、今の日本人並みに豊かな階層が大量に出現してきたときに、彼らがフランス、イタリア、スイスの製品を買うのか、日本製品を買うのか、日本の置かれている国際競争はそういう競争なのです。フランス、イタリア、スイスの製品に勝てるクオリティーとデザインとブランド力を獲得できるか、ここに日本経済の将来がかかっています。(p.48-49)


「ブランド力」が重要というのは、日本経済といった視点だけでなく、地域経済というもっと小さな範囲での、いわゆる「地域おこし」的な問題に取り組む際に非常に示唆に富む指摘だと思われる。この点についての理解を深めてくれた点は本書から得た大きな収穫の一つだった。



 ちょっと横道にそれますが、なぜこのように重要な長期トレンドを絶対数で把握している人が少ないのか。なぜテレビも新聞も断片的に「対前年同期比」を報道するだけなのか。彼らには彼らの理由がありますのでここで述べておきます。それは、マスコミ経済情報の主たる消費者である金融投資の関係者が、短期の上下の話だけに関心を集中しているからです。(p.59)


絶対数の長期トレンドを把握することが重要だ(事実に基づいて物事を判断するために必要だ)、というのは本書のメッセージの一つだが、それを阻害する要因としてマスコミ情報が短期の変化率ばかりを報道する傾向があることや、そのような報道が行われる理由についてのこの指摘は非常に納得させられるものだった。



 ですが、アメリカのファイナンスの世界で実際に行われていたやり方には、仮定に立った机上の計算が多いこともとてもよくわかりました。その中でも最大に間違った仮定が、「投資先の商品や会社が生む収益は、平均すれば長期的に一定の成長率で増加していく」というものです。実際にはそんなことがあるはずはない。商品にもプロダクトライフサイクルがありますし、会社組織にも寿命があります。……(中略)……。その際の損を含めて長期的な投資収益を計算してみれば、決して彼らの机上の計算のような成長率にはなりません。つまりビジネススクールで教えられていた米国流のファイナンスの世界全体が、怪しい投資話に投資家を誘うための甘いフィクションに貫かれていたのです。
 その後すっかり日本にも広まった米国流のファイナンスですが、本当は関係者だって構造に無理があることをわかっていないはずはない。でも事実がどうであるかは短期的投資の世界ではどうでもいいのです。倒産やリストラの前に「自分だけは売り抜ければいい」わけですから。倒産間際の会社であっても、市場で「成長企業」という噂が流れていれば、株を買ってくれる人はいます。「事実は何か」ということよりも「皆がどう思っているか」、その結果売りと買いどっちに動くかが重要になる。だから、四半期決算だの対前年同月比だの、短期的でデジタルな指標だけが注目されるのです。
 結局、車というような重要な産業を、短期的な投資の対象とみるのか、日本の中長期的な経済的繁栄を支えるインフラ的なものとみるのかによって、「対前年同期比」の世界に浸っていればいいのか、長期トレンドを把握すべきなのかも変わってくるわけです。そして本当は、長期的な視点に立つべき銀行家やその他の国民が、売り抜けを狙う一部の短期的投資家にお付き合いをする必要はありません。
 ところが経済報道のお客様はどうしても、彼ら短期的な売り抜けを志向する連中なわけです。ということでお客の方を向いていれば報道が短期的な傾向ばかり報じるようになるのは避けられません。その結果、去年の、一昨年(08年)の水準はどうだったかという、実数の変化に誰も気がつかないという事態が生じてしまっています。皆さんには、報道のそういう避けられない欠陥を踏まえた上で、ご自分で絶対数を確認されしっかりと長期トレンドを把握する癖を付けられた方がよろしいかと思います。(p.60-61)


まったくもってその通りという感じがする。ただ、絶対数を確認する癖をつけろとのことだが、どの統計のどこを見ればよいか、具体的にまとめておかないと、実践は難しいだろう。



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初田亨 『百貨店の誕生 明治大正昭和の都市文化を演出した百貨店と勧工場の近代史』

政府の積極的な政策によって、明治初期に煉瓦街が建設された銀座を除いて、東京の店舗の多くが、それまでの伝統的な土蔵造りに変わって、特異な外観をもつようになったのは、明治39年(1906)からはじめられた市区改正の速成計画を契機としてである。(p.55)


都市の町並みがどのように変わっていったかという点には興味がある。明治30年代までは東京も土蔵造りの店舗が多かった、ということがわかる。これは地方都市ではいつごろ変化が起こったのか?という疑問につながる。



関東大震災以降、百貨店の客層が大衆化する頃まで、各百貨店はそれぞれ別なお得意先をもっており、百貨店によって異なる特徴があったという。松坂屋の塚本鉢三郎によれば、明治時代の東京の百貨店の勢力分野について、江戸時代以来の伝統的な特徴をもっていることを指摘しつつ、次のように述べている。

百貨店は今でこそ、いわゆる「大衆的」を標榜して、客ダネに著しい相違はないのであるが、江戸以来の伝統的な特徴を持っていて、客ダネの相違がハッキリ表われていたのである。
すなわち、白木屋が大名の御用が圧倒的に多く、爾来明治になっても、いわゆる「大名華族」の客筋を抑えていた。
三越はドウかというと、商工業の資産か階級や、京都出の公卿華族を抑え、大丸がいわゆる下町筋の今でいう大衆的な一般市民に人気を蒐め、高島屋が宮内省関係の各宮家の御用が多く、松坂屋は各宗派の僧衣、神官の装束を承わるという、際立った特色を持っていたように思われた。


 明治時代の百貨店は、江戸時代からの顧客を引き継ぎ、百貨店によって得意先の傾向が異なる特徴をもっていたようである。しかし百貨店が呉服店から脱皮し大きく成長していく過程で、各百貨店とも新しい顧客を開拓していく必要が生じていた。
 三越が新しい顧客として考えたのは、東京の山の手地区に生活する人びとであったらしい。……(中略)……。
 山の手は、江戸時代には武家屋敷が多く建てられていた地で、武士社会を中心とした生活が営まれていた。明治になり武士階級がいなくなって多くの空き家が出現したが、その地に入り住んでいった人びとには、地方から上京し新たに東京の住民となっていった官吏、軍人、銀行員、会社員などの俸給生活者が多かった。その後の日本の近代化過程の中で表舞台にたち、社会の中枢を司るようになったのも彼らであり、上級、中級階級を形成していった人たちである。(p.82-85)


明治時代はまだ一般的な大衆の購買力はそれほど高くなく、呉服店時代の得意先であった富裕層を主な客層としていたが、関東大震災以降、客層が大衆化していき、サラリーマンなどの新中間層をターゲットにしていった。その過程で客層などの相違はかなりの程度画一化していった、ということがわかる。

大正時代は日本において新中間層が成立した時期にあたり、生活の洋風化が進んだ時期だったことが想起される。

また、山の手という土地の住人の変遷も大変興味深い。



消費を取り扱う小売店の改革は、生産を円環させる輪の一部分としての役割をもち、次の再生産を促す上で欠くことのできないものであった。この点において小売店の改革は、日本の産業近代化にも繋がっていたのである。(p.92)


陳列販売方式や正札販売などによって商品の大量消費が可能となった。機械化などによって生産力が高くなり大量生産ができるようになっても、それに相応するだけの消費が行われないのでは生産力も無駄になってしまうし、収益も得られないので同じだけの生産を続けることもできない、ということだろう。



 日本を欧米に負けない近代国家に育てなければならないといった、天下国家を論じる考えと、三越を発展させる道を探るといった二つの考え方の接点から、「学俗協同」といった方法が導き出されてきたのである。じつはこの「学俗協同」の考え方を日比に教えたのは後藤新平であった。後藤新平が台湾総督府に勤めていた時、そして満鉄総裁の頃、彼はいつも学者を迎えてその所説に耳を貸したという。日比翁助に対しても、「学者を大切にしなけりやいかん」とよくはなしていたという。(p.92-93)


後藤新平という人物は、明治から昭和初期にかけての日本を理解する上でのカギを握る人物の一人であるかもしれない。私にとっては台湾への関心も手伝って、非常に興味を惹かれる人物の一人である。



当時日本において重要な建物を設計しようとする場合、建築家はそのためにわざわざ欧米に出かけ知識を得てくるのを常としていたが、帝国劇場でもそれが実行されたわけである。(p.113)


帝国劇場は明治44年に落成しているので、引用文中の「当時」とは明治末期(まで)ということになるのだろう。

どのような建物を建てた建築家が欧米に視察に行ったのか、具体例があるとありがたい。



日本の中流住宅が明治時代の中頃から、玄関の近くに客間として使用する洋間を付設する和洋折衷の住宅をつくってきたことはすでに指摘されているが、三越ではこのような和洋折衷の住宅に適合する室内装飾を積極的につくっていこうとしていたのである。(p.160)


こうした形の住宅はいつ頃まで建てられていたのだろうか?地方都市の事例だが昭和初期の作品(例えば、小樽の坂牛邸)は知っている。東京ではいつまでか?こうしたスタイルが廃れた後は何に変わったののか?疑問は尽きない。



 アール・デコ様式とは、もともと1925年にパリで開催された現代装飾工業美術国際博覧会(アール・デコ博)で成功した新しい様式のことで、以後こうした造形の様式を指して用いられるようになったものである。アール・デコの造形は、建築、衣服、家具、装身具など幅広い分野に及んでおり、あたかも鉱物の結晶を思わせるような幾何学性、対称性、直線造形、流線型、ジグザグの線、反射する光のイメージなどの特徴をもつ。博覧会の名称からも窺えるように、工業と装飾、そして商品が結びついた所に造形の回答を見いだしたのがアール・デコであったともいえる。……(中略)……。
 ……(中略)……。アール・デコの意匠にルネッサンス様式のような重々しい豪華さはないが、背のびをして手を伸ばせば辛うじて届くかもしれない、大量生産が可能な、近代化されたスタイルの華やかさはあった。(p.192-201)


つい最近、アール・デコ様式の邸宅(和光荘)を見学して来たばかりだったので、ここでアール・デコの造形の特徴として述べられている要素のほとんどがその邸宅にあったことに気づき驚かされる。例えば、「反射する光のイメージ」などは、食堂の奥に設けられた明かり取りの空間とその中で鏡を使用して取り入れた光を増幅していたことなどが想起された。

また、アール・デコの意匠に対する本書の評価は非常に参考になった。大量生産が可能であることはかなり重要なポイントであると思われる。




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山内景樹 『鰊来たか 「蝦夷地」と「近世大阪」の繁栄について』(その2)

コシャマインの戦争のあと約90年のあいだ、大きいものだけで前後10回エゾは蜂起して和人と抗争を繰り広げている。天文19年(1550)六月、檜山安藤家の当主安藤舜李は長年のアイヌとの争いを終結させるために松前に渡った。舜李立ち会いのもとに渡党の首領である蛎崎李広は西方アイヌ(唐子)の有力首長ハシタインと東方アイヌ(日の本)の有力首長チコモタインの二人を招いて協議をし、次のような取り決めを結んだ。
(1)渡島半島南西岸の知内から天ノ河(上之国町)までを渡党居住地として承認すること。
(2)ハシタインを西夷の「尹(いん)」(=長官)とし、チコモタインを東夷の「尹」となすこと。
(3)蛎崎氏は諸国商船から徴収した船役の一部を「夷役」として東と西のアイヌの「尹」へ納めること。
(4)松前へ往来するアイヌの商船は、知内または天ノ河を通過する際にいったん帆を下げて表敬すること。
 この「通商航海条約」の内容から推して、一世紀になんなんとするアイヌの和人に対する執拗な攻撃の主因が自由交易権の確保にあったことが分かる。圧政者である和人の暴虐、搾取と被支配者であるエゾの絶望的な反抗というような図式はあてはまらない。(p.86-87)


「自由交易権」というよりは、交易から生じる利益を上納させたということではないかと思うのだが?どうなのだろう?



 松前藩のエゾ交易独占体制は寛永期(1624~42)にほぼ完成する。これによって、北海道に居住するアイヌは奥州アイヌと分断され、北海道に封じ込められた。従来おこなっていた奥州各地との交易関係は遮断されたのである。前の(1)~(3)項を実行することで、家康黒印状に但書きされていたエゾの自由航行権は事実上空文と化した。「和人地」は「日本国」の植民地であり、松前はその総督府である。アイヌの眼に松前藩主は和人の侵略者と映ったにちがいない。だが徳川幕閣や諸大名から、松前藩主は「蝦夷大王」であると特別の目で見られていた。松前藩の二律背反的な性格は、夷ヶ島の「前近代変容期」の歴史を通して、主調低音として鳴り続けている。(p.90)


「藩」と呼ばれているため、現代から見ると幕藩体制の内部のものとして考えられる傾向が強い松前藩だが、当時の蝦夷地のアイヌや諸大名から見ると「蝦夷大名」という他の大名とは異なったものであるという認識もあったわけだ。このことは押さえておいた方が良いように思われる。



アイヌを簡単に狩猟・漁労民族と呼ぶことはできない。広大な北海道の地で彼らは採集・狩猟・漁労・原始的農耕および交易のすべてを生業として複合的に営んでいたので、地域によって独自の生産活動を自分たちの主業としたのである。五つの地域連合体が確認されている。それは「余市アイヌ」(惣大将・八郎右衛門)、「石狩アイヌ」(ハウカセ)、「メナシクル」(シャクシャイン)、「シュムクル」(オニビシ)、「内浦アイヌ」(アイコウイン)であった。石狩アイヌとメナシクルは大河川の漁労、内浦アイヌは内浦湾の漁労、余市アイヌは山丹交易、シュムクルは狩猟と若干の農業生産を共通基盤にして結合していた。
 一方、松前藩は「商場」における交易権を家臣に与えて「知行」とするとともに、藩主の財政を強化する目的で砂金採取の直接経営と諸大名の需要が多い鷹を捕獲する鷹場所の設置を始めた。商場での交易では、松前藩側は河川系共同体の首長である「大将」を直接の交渉相手にするので、「惣大将」の政治的立場を脅かす。また砂金採取と鷹狩りはアイヌの漁労権、狩猟権を保障しているイオルへの侵害行為となった。……(中略)……。イオルはアイヌにとって、生産基盤であるとともに自分たちの生存と自由を守ってくれる小宇宙(ミクロコスモス)であった。(p.94-95)


アイヌの生業が地域によって異なっていたという指摘はアイヌの生活を理解する上で重要であると思われる。ここからは、例えば、多様な生活文化があったことが予想される。

また、松前藩による砂金採取と鷹狩によるアイヌの「イオル」の侵害などは、シャクシャインの戦いへとつながっていく流れとして重要であると思われる。



 図書館で北前船に関する文献をあれこれ読み漁っていると、天明の飢饉(1782~87)が全国的な海商活動を活性化させて北前船の興隆をうながしたという記述に出会って、意表を突かれた。斎藤善之氏(日本福祉大学知多半島総合研究所)の論文「流通勢力の後退と市場構造の変容」によると、五大北前船主の一人と称された越前の右近権左衛門家では天明7~9年(1787~89)の二年間に資産額を急激に増やしている。同家の資産状況を見ると、取引先商人に対する貸越金・売掛金である「残金」の残高が増えだしているが、それにもまして手元に保留した現金資産である「有金」の残高の急増が目立つ。「万年店おろし帳」の天明6年の有金額は20両に満たなかったが、天明7年90両、8年190両、9年280両と倍増の勢いである。天明期に獲得した資本蓄積で右近家は数年後の寛政7年(1795)に新造船を建造し、「一杯船主」を脱却して有力船主へ成長する足がかりをつかんだ。さらに、この50年後に起こった天保の飢饉(1823~36)が回船経営にさらなる飛躍をうながす画期となった。飢饉が終息した嘉永2年(1849)から右近家では毎年のように持ち船を新造しており、明治元年には回船数が10隻を越えた。この船団増強の好景気は明治20年頃まで続く。これは特異な事例ではない。江戸時代中期の宝暦~天明期から、北前船ばかりでなく各地に地回り船が族生しているのである。
 ……(中略)……。私は飢饉という言葉から日本全土が「飢餓列島」と化してもだえる地獄絵図を思い描いていたが、北前船の歴史は私の「常識」を砕いた。何事も半可通でいると危い。(p.103-105)


飢饉が海商活動を活性化したというのは大変興味深い。「飢饉」のイメージは筆者の指摘するような「飢餓列島」の地獄絵図であり、私も常識を砕かれた。

右近家にも個人的には若干興味があるので、その点からもメモしていた。



 越前や加賀の船乗りと近江商人との親密な関係は長年続いたが、18世紀後半に大転機を迎える。近江商人以外に能登、飛騨、紀伊、陸奥から有力商人が進出してきたため、エゾと本州との交易構造に変化が生じた。新規参入者たちは近江商人を経由しないで独自のルートで藩政に食い込み、留萌、増毛、天塩など奥エゾ地の場所を請負ったので、これによって近江商人の特権的地位が弱められた。さらに近江商人が請負い場所を持つ松前周辺のニシン漁が不漁になった。これらの状況変化で両浜組の近江商人はしだいにエゾ地から撤退し始め、両浜組と荷所船主との定傭関係は徐々に崩れていったのである。越前、加賀の船乗りたちは新たな対応に迫られた。彼らは両浜組の雇われ船から独立し、自力で商業活動を営む買積船への転換を図った。その背景に、各地の問屋商人との結び付きを作ることによって買積船経営が成り立つほど広汎な商品流通が、畿内ばかりでなく西国一帯に形成されていたのである。ここから北前船の歴史が始まる。北の国の船乗りたちを立ち上がらせたのは、彼らの冒険精神だけではなかった。独立へ踏み切った彼らを成功へ導くチャンスが熟していた。
(1)魚肥需要の拡大。江戸時代の最大の商品作物である木綿の栽培は、18世紀に入ると寒冷地を除いてほぼ全国に広まった。また木綿の普及にともなって、それの関連産業ともいうべき青色染料をとる藍の栽培が発達した。藍作は阿波、摂津を中心にさかんにおこなわれたが、そのほか筑後、備前、伊予、薩摩、長門にも産地を形成した。綿作、藍作は、どちらも畑に多量の肥料を投入する。
(2)マイワシの不漁期。魚肥の主宗は干鰯(マイワシの感想品)であった。ところが、享保期(1716~35)あたりから文化・文政(1804~29)の頃までの約100年間、マイワシは長い不漁期に回りあわせている。魚肥需要が拡大するなかで干鰯に替わるものとしてニシンの〆粕が脚光を浴び、魚肥供給の前面へ押し出された。(p.110-111)


北海道への本州資本の進出の嚆矢ともいうべき近江商人も、意外と早い時期に撤退を始めていたようだ。それに代わって近江商人に雇われていた北陸の船乗りが独立して北前船の交易を行った。

ただ、北海道の中でも小樽には近江商人の勢力が比較的長く残っていた。明治になっても右近家などが倉庫を建てていることにもそれは現れていると思われる。この問題についての詳細は後に調べてみたい。



 北陸沿岸には、かつての北前船主屋敷がいくつか一般公開されている。加賀市橋立町の「北前船の里資料館」、「蔵六園」、福井県河野村の「北前船主の館・右近家」である。(p.114)


右近家は現在の行政区としては南越前町にある。

これらの場所は是非とも訪れてみたいと思っている。



明治に入っても北前船は活躍を続けたが、汽船の出現、鉄道の発達、電信の普及などが一つずつ北前船の存在根拠を奪ったので、明治20年代に凋落の陰を濃くし、明治時代の終末とともに歴史から姿を消して行った。北前船主のなかにはカムチャッカ漁場へ進出して漁業に新活路を求めた平田喜三郎、西出孫左衛門汽船を購入して買積み輸送から賃積み輸送へ転換した広海二三郎のような人物もいたが、多くは酒谷家や右近家のように「金銭貸付業」の道を選んで投資家に変じた。(p.120)


北前船主や鰊漁の網元などがそれらの繁栄の後、どのように業態を変えていったのかには興味を持っているが、なかなかまとまった資料がないため、よく分らないところが多い。

強調しておいた西出孫左衛門、広海二三郎、右近家が建てた倉庫が、小樽運河周辺の倉庫群に残っている。彼らはこの引用文によると別々の業種に変更しているようだが、いずれも同じような場所で倉庫業を営んでいるのが興味深い。仕事を変えるにしても単一の業種に変えたというわけではなさそうだ。



 木綿は、日本では応仁の乱(1467~77)以降戦国時代にかけて各地で栽培が始まった。文禄年間(1592~96)に耕作地帯が急速に広がり、江戸時代に入ると畿内を中心に木綿生産が一大発展を遂げた。これで日本の民衆の衣料は麻から木綿へ転換したのである。それは人々の暮らしを一変させる「材料革命」であったばかりでなく、社会の経済構造にも変革をうながした。国内産木綿の普及は、それを基軸にする商品経済を発展させ、中世経済から近世経済への転換を決定的にした。さらに近世中期から後期にかけての綿作と綿業の興隆は「産業連関」的な経済効果をもたらしたので、ここに「近代産業」の萌芽を見ることができる。明治時代に入って伝統的な「本邦綿業」は崩壊し、途絶したけれども、その歴史は日本の近代産業発達史の特質を考える上に、重要な意味を持つだろう。
 中国に南方から木綿が伝えられたのは遠く後漢の時代だったが、木綿栽培が本格的になるのは明朝初期の14世紀末から15世紀初頭にかけてである。また、中国で綿作が盛んになると時を経ないで朝鮮へ伝えられ、宋代末期に朝鮮半島南部で栽培が始まり、李朝が成立した14世紀末に本格的な展開期に入り出した。日本へは遣明船による勘合貿易で「唐木綿」がもたらされ、また西国の守護大名が李朝へ送る使送船が日本からの舶載品に対する回賜品として「朝鮮木綿」を受け取った。木綿は、はじめ貴族や僧侶の珍重する貴重品だったが、戦国時代に入ると兵衣や侍の衣服、陣幕、旗、幟および火縄、帆布といった軍事用に用途を広げていった。戦乱の世の合戦が長期化し広域化するとともに木綿の需要はますます高まったので、それが国産化を促進したと考えられる。そして徳川家康のもたらした「天下泰平」が日本の木綿を軍事用からさらに広い民需用へと導いていった。(p.157-158)


木綿の日本伝来とその産業的展開の概要がまとめられており興味深い。

木綿の栽培は中国では明朝初期に盛んになり、朝鮮でもほぼ同時期の李朝で本格的に展開されたという。それらが室町時代の勘合貿易で中国からもたらされたほか、西国の守護大名を通して朝鮮からももたらされ、戦国時代には軍事用に用途を広げ、戦乱の世が長期化・広域化することで国産化を促進し、江戸時代には民需用に転換したことでさらに大きな需要と供給が行われるようになった、といったところか。

そして、この綿作の拡大が魚肥の需要を高め、マイワシの不漁のため鰊の〆粕が用いられることとなったという繋がりは既に引用してきた通り。明治期にはこの木綿が日本の外貨獲得にとって重要な役割を果たしたのであって、明治日本の近代化にあたって綿や鰊の果たした役割は大きいものがある。

木綿が中国や朝鮮から入ってきたというのは、室町時代は日本の対外交易は活発な時代だったと思われるので、ありそうなことだという感じがするが、戦国時代に国産化が進んだというのは私としては意外だった。歴史には意外な現象が結構あるもので、そうした常識を覆してくれるような事実を知ること自体面白いものだ。



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山内景樹 『鰊来たか 「蝦夷地」と「近世大阪」の繁栄について』(その1)

 北海道のニシン漁場は日本海側に集中していた。これは沿岸の海底地形と関係する。地図を眺めると、オホーツク沿岸および十勝平野、勇払平野の太平洋沿岸はきれいな弧状の海岸線がのびているが、ここは遠浅の砂浜海岸がひろがっている。他方、日本海沿岸は、松前から稚内までバスに乗って北上するとすぐ分るが、切り立った崖の隆起海岸が多い。急深の岩礁海岸が連続しているのである。岩礁海岸へは高塩分の外洋水の波が打ち寄せるので、コンブ、ワカメ、ホンダワラ、ヒジキなどの褐藻類が繁茂する。そして、ニシンは褐藻類に卵を産み付けるのである。(p.19)


本書を読む少し前に石狩市の浜益地区にある「はまます郷土資料館」(旧白鳥家番屋)や寿都町の鰊御殿に行ってきたのだが、これらの地域に向かう時に私が気付いたのは、この地形のことであった。積丹半島もそうだが、海岸が切り立った崖になっているところが多く、地図では海岸に近いのに水辺に出られるところが少ないことに気づいたのだった。
また、鰊漁場であった場所はいずれもそうした中にあって水辺に近いところに若干の平地がある場所であることに気づいた。

ちょうどこうしたことに気づいた直後だったため、本書の記述は非常に納得できた。



明治の初めに東京の染井村(現豊島区駒込)の植木商がヒガンザクラとオオシマザクラをかけあわせて作った新品種がソメイヨシノである。花は一重で大きく華やかであり、木の成長がはやいので、明治いらい公園や堤防などいたるところに植えられて日本中に普及した。そのせいでか、桜といえばパッと咲いてパッと散るソメイヨシノの花姿を思い浮かべるのが普通になった。いわばソメイヨシノによる桜の「近代化」のおかげで、自分を含めて日本人の「桜花観」がかたよってやせたものになっていたことを認めないわけにいかなかった。桜花の個性と品種の多様性を追求した松前の「花守り」は、それとは別な「近代化」の道があったことを私に教えた。(p.22-23)


なかなかうまいことを言うもんだ。松前の桜は是非一度見てみたいものだ。

なお、桜と日本のイメージを重ねる発想が、明治以後に「創られた伝統」であるということは、今さら指摘し直す必要はないだろう。



館あるいはチャシを開設して運用管理する者は館主(たてぬし)あるいはエゾの惣大将(そうだいしょう)である。そこは権力者の「居城」であり、「政庁」であり、戦いの時には「砦」になる。しかし、それだけではない。館およびチャシは部族にとって「祭祀場」であるとともに、異部族と交易活動をおこなう「市場」としても機能した。この仮説は、近年の研究のなかで有力になっている。昭和43年(1968)、函館市郊外の「志苔館(しのりだて)」付近から約40万枚におよぶおびただしい埋蔵古銭(主に北宋銭)が出土して、「館」と交易の結び付きを裏付けた。(p.25)


蝦夷地にあった「館」や「チャシ」と呼ばれた城が、祭祀場や市場としての役割を果たしていたという。具体的にどのような活動がなされていたのか、少し興味がある。



 ニシンを獲る「場所」を「鰊場(にしんば)」と呼んだ。網を立ててニシンを漁獲する地先水面の漁場と漁獲物を陸揚げして漁体処理をし水産加工作業を進める浜の施設の両方を総合した生産拠点(プラントサイト)が、ニシン場である。(p.30)


なるほど。単に魚を獲るというだけではないところは一つのポイントかもしれない。



 北海道西岸のニシン漁業の発展形態は一様ではなく、各地のニシン場は地域ごとに異なった展開を示した。それはニシンの生物的特性による漁場形成パターンとニシン場の地理的条件の二つと密接に関係していた。冬の日本海は北から下がる冷水塊が発達するので、北上する対馬暖流の勢力は南へ後退する。だが春三月中旬から対馬暖流はしだいに勢力を増し、北海道の日本海沿岸の水温は上昇し出す。この頃、太平洋を回遊して成長し日本海へ回帰してきていたニシンは、対馬暖流の最前線まで南下して、そこで接岸し、産卵する。性成熟するのは高年齢魚が早く、若年魚は遅い。北海道西岸沿いでは、まず松前、江差から積丹半島までの道南地方に高年齢魚が現れる。漁期が進むにつれてしだいに若いニシンに主体が移るが、同時に対馬暖流の卓越におしもどされて、主漁場は松前、江差方面から銭函、石狩の内湾や浜益、増毛、留萌、苫前、天塩、宗谷の北部海岸へ移動する。ニシン漁場を、松前、江差方面から積丹半島までを「走り場所」、積丹半島から石狩湾までを「中場所」、増毛・留萌方面から天塩・宗谷までと天売・焼尻・利尻・礼文の離島を「後場所」と呼んで区別した。走り場所では漁体が大きく、文字どおり漁期初めの走り物が獲れたので、手早く粒ニシンで送り出すか、さもなければ丸干ニシンや開きニシンの食用品に加工して出荷した。中場所は会場の難路で有名な積丹半島をひかえるので、輸送がやや困難である。食品加工は保存性の高い身欠きニシンと数の子の製造に重点が置かれ、あわせて胴ニシン、白子、笹目の肥料を製造した。そして掛けニシンに処理できなかった分を〆粕加工に回したのである。だが漁期が進むと気温が上昇して魚体処理がいそがされる。食用加工と肥料製造の両面作戦は不可能なので、〆粕作業に没頭することになる。そして漁期がいちばん遅い天塩、宗谷などの後場所は、漁体が小さく、しかも交通不便な奥地であり、ニシン漁業は最初から粕玉加工の魚肥生産に専念した。
 ニシン漁は松前、江差地方の走り場所で興り、はじめ漁法は刺網漁を主体としたが、場所請負制の普及とともに走り場所から中場所へ、さらに後場所へとニシン場の開拓が進展し、その過程で生産手段は刺網漁法から漁獲能力のより大きな建網(定置網)漁法へと発達した。主として中場所、後場所のニシン場に、漁獲・沖上げから水産加工・出荷までの海陸一貫生産体制をとった一種の「工場制手工業(マニュファクチュア)」が形成されたのである。江戸中期以降幕末にかけて北海道ニシン漁は増加の一途をたどり、天保年間(1830~43)の漁獲高は15万石に達している。ニシン15万石というのは生産量で約11万トン、〆粕干し上げ重壁で約2万2,000トンの大きさである。明治時代に入って漁場制度が解放されると、さらに飛躍的な上昇をとげ、明治十年代から「ニシン百万石」の時代が約25年間つづいた。西海岸の漁村にはニシン漁全盛期に建てられた豪壮な「番屋」が建ちならんでいた。その一つ、留萌郡小平町の「花田家番屋」は建坪270余坪の建物で、最盛期には定置網18カ統を営み、漁夫約200人が番屋に寝起きした。(p.32-33)


走り場所など南部ほど漁体が大きく、輸送面でも有利だったため新鮮さが要求される食用とされ、中場所は保存がきく食用加工品と肥料との併存状態で、後場所は魚肥生産に専念していたこと。

場所請負制導入で漁場が北へ広がり、刺網から建網へとシフトして大量の漁獲が可能となり、漁獲高も増えていったこと。

こうした流れがまとめられており参考になる。

花田家番屋は重要文化財に指定されており、是非見てみたいと思っている。現在小樽にある田中家番屋(鰊御殿)でも120人ほどの漁夫が(周辺の施設もあわせて)寝泊まりしたというが、200人の漁夫を使っていたということは、田中家番屋以上の規模なのかもしれない。



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